失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

酸湯魚の暖かいスープを飲みながら、遥か彼方のモン族たちに思いを馳せ、もっと遥か彼方にある宇宙と昔ながらのアニミズムについて考えたこと

2023/12/09

 「酸湯魚」という料理があって、貴州料理だけどもともとは中国の少数民族であるモン族の伝統料理と言われている。見た目がちょっと辛そうだが、赤いのは発酵したトマトが使われているからであり、極端に辛いという訳ではなく、冬の寒い日に食べると体の芯から温まるそんな素敵な料理だ。

ソウギョとかライギョとかの川魚の白身が入っているけど、ちゃんと泥抜きしてあるから別に臭みはなく、むしろその魚の出汁(だし)がいい感じにトマトベースのスープに絡んでいて、味が絶品なのである。

 モン族はもともと揚子江あたりに住んでいたが、国が興亡する戦乱の歴史のなかで少しずつ南下し、インドシナ半島の方も含めてあっちこっちに散らばって定住した。今も貴州あたりで大規模に纏まって生活していて、集落が観光地になっている。僕は映像で見ただけでその観光地に実際に行ったことないけど、先日、寒さに震えて外からとある料理店に入った時に、この暖かい貴州料理(料理自体は中国のどこでも食べられる)を注文した。そして陶器製のスプーンで少しずつ口元へすすりながら、遥か彼方のモン族たちにちょこっと思いを馳せてみた。

 美しい銀細工を作ったり精緻で独特なデザインの刺繍を縫うのが上手なモン族は、日本人と似ているとか、DNAを調べると日本人と同じだとか、諸説あるみたいだ。でもそんなのはどうでも宜しい。興味があるのは彼らの宗教が主にアニミズムで、もちろん祖先信仰とかもしているけど、何しろアニミズム、山や川はもちろん、木にも木の枝にも、岩や石ころにも神様がいるのである。

彼らの作る工芸品のモチーフには自然崇拝から生み出された想像上の蝶や鳥や龍が登場し、自分たちが生きるこの世界=自然の美しさへの感動と感謝が表現されている。

別にそれらを日本の八百万の神に結び付ける必要はなく、エドワード・タイラーというイギリス人の人類学者が指摘したように、そもそも人類の原初的な信仰は、「自分の周りのあっちこっちに神様がいるぞ」という素朴な類(たぐい)だったのである。インディオだって同じようにアニミズムを伝統として大切に生活の中で守り続けて来たし、きっとガチガチの世界宗教が出て来る前は、人類はみんな、「とにかく人間なんてちっぽけで、人間を取り巻くこの大地や空を仕切っている神様たちがいて、彼らは怒らせるとムチャクチャ怖く、実際、ひとたび怒らせると自然災害とか起きてむっちゃ俺たち死んじゃうから、怒らせないように何とかしよう。みんなでお供えとかしてご機嫌を取り、あわよくばお恵みをもらおう」というのをやっていたし、それを大切に守り続けている民族がまだいるということである。

 この「原初的」というのが大切で、そのあと有史以来、文明の流れにうまく乗っかった別の宗教の一部は世界宗教としてその後発展し、理論武装され、学問にまでなって権威を得て行ったけど、政治の手垢に汚れガチガチ過ぎて、もはやあんまり「人類の」もの=みんなのもの、とは言いにくくなった。違いに拘(こだわ)って相手を認められず殺し合いをする、なんていうのは「人類の」ものではなくなった証拠だ。人間存在以外の存在への素朴な畏怖(いふ)とか願いとかは、世界宗教やその亜流とは別に、やっぱり、はるか太古にみんなが「あっちこっちに神様がいるぞ。おっかないぞ」と感じていたその頃の思いにこそ含まれていた。僕たちがドキュメンタリー番組などで紹介されている世界各国のアニミズムやそれらの神話、そして神話を今も大切に守り暮している人々を目にして、いつも感じるあの暖かい気持ちや連帯感は、たぶんそんなところから来る直観みたいなものなんだろう。

 さて、僕の2度目の海外駐在は続いている。というかまだ始まったばかりだ。相変わらず中国語まみれの生活で、まぁ日本人を含めて外国人がほとんどいない場所で生活しているのだからそれは仕方ないのだけど、やっぱりお腹いっぱいで、休日には他の言語が聞きたくなる。

古い映画でいいのだ。古くて、有名だから題名は知っているけど、そういや観てないぞ、というのがいい。

ちょうど「死ぬまでに観たい映画特集」って宣伝しているし、英語が聞けるから、これを観ようって思って2週間前の休日に「ミッション」という映画を見る事にした。

 ソファーに寝そべりリモコンを手に映画を選択する。ネット社会って本当に素晴らしい。ネットがなかったら、さすがにこんな僻地での駐在生活は大変だったろう。戦後、まだネットのなかった時代に、それでも世界の奥地へ奥地へと支店を切り開いていった昭和のモーレツ商社マンたちに脱帽だ。

 さて、「ミッション」はカンヌのパルムドールを獲った86年のアメリカ映画である。学生時代によく利用していた東京の笹塚駅前のレンタルビデオ屋で「懐かしの名作」という棚に並べてあって、そのパッケージの写真を何度も目にしたけど、なんだかそこに写っているデニーロのやる気マンマンの表情にちょっと萎えてしまって、素通りし、そのまま見ないでこの年齢になるまで過ごして来た作品だ。だから、名優の若かりし日の脂が乗り切った作品ってイメージだ。きっと若者だった僕にとっては、その脂っこさに抵抗があったんだね。

今はそんな若者も、自身が脂が出尽くしてそろそろカスカスになりそうなオジサンになり、のほほんとソファーに寝そべって、時々うたた寝しつつ、作品を見ている。

 物語の舞台は18世紀半ばの南アメリカパラグアイ)のスペイン植民地で、ストーリーはイエズス会の宣教師たちの布教活動の話である。イエズス会って、よくまぁこんな根性をもって命懸けで世界の果てまで布教に行けたなぁと思うし、実際に多くの宣教師が布教の過程で原住民たちに殺害された訳で、しかも実話から着想を得てこの作品が作られたというのだから、見ていて、人間の信念というものは底が知れないと思った。「信じる」ということの底恐ろしさだ。

そして、ストーリーとか映像とか演出が、さすが名作と言われるだけあって凄いのは分かったけど、実は何より一番印象に残ったのが、枢機卿の前で原住民の少年が讃美歌を歌わされているシーンだった。要するに、こんな原住民でもしっかり布教活動の成果が出たおかげで、ここまで生まれ変わらせる事が出来たんです、という事を証明するための一種の演出なのだが、美しい歌声とは裏腹に、少年を見つめる枢機卿たち白人の目があまりに冷たく、まるで不良品を修理してやっているくらいの様子で、相手への眼差しが決して人間を見る目ではないのだ。アニミズムという概念をその100年後に規定したまさにエドワード・タイラーが、当時の流行りの進化論に基づき、アニミズムが人間の原初的な宗教であり、これが文明の発達によってどんどん「進化」して行くなんて、おバカな事を言った訳だけど、土着の神々への妄信を捨てさせ、人間でない者たちを人間にしてやる、という白人たちの傲慢で冷酷な眼差しが、当時の布教活動の根底に既にあったのだろう。この映画を通して、他のどんなシーンよりも、少年が歌うその場面が残酷だと思った。

 タイラーの進化論はともかく(そんな考え方はもうメジャーでも何でもないので)、やっぱり「原初的な宗教」というアニミズムの規定は分かり易いのだろう。そしてその点は正しいはずだ。文明によって洗練された(手垢で汚された)宗教以前に、人類は素朴に「あっちこっちに神様がいるぞ。おっかないぞ」の中で、人間以外の存在を認識し、そして同時に人間自身の認識をしようとしていた。それが原初的な形だったのだ。

だって、他者を認識して初めて自己を認識できるのだから、おっかないぞ、の向こう側に、おっかながっているちっぽけな僕たち人間って何?という命題が立ち現れるのだ。人々は自分自身を知るために、自分たちと神との関係を物語った神話を作り、神話の中で生活様式を決めて生活していた。神々の前でちっぽけな存在の人間は、謙虚に、祈り、捧げ、静かに運命を受け入れるのみだったのだ。それでよかったのである。

 ところで、話は全然変わるけど、最近の宇宙論では宇宙の膨張の仕方がどうも今までとはだいぶ違うらしい、という話が出て来ている。当初のビッグバン説ではドカンと爆発が起こって宇宙が出来たのが138億前だったという事であり、そのあと光の速さより速い勢いで膨張してるという事だったけど、最近の一部の観測と理論では、どうやら宇宙はこれまでの説の倍の267億年前に誕生し、しかも膨張の速度は膨張する方向によって全然違うらしい、という事になっている。

ありゃりゃ、最新の「自然」とか「世界」は、理論上ではとんでもない規模感だ。山に登った時のヤッホーとかで音の速さくらいは日常生活で実感できるけど、光の速度とかそもそも実感できないし、時間感覚で言えば1億年だってイメージ湧かないのに、いよいよ267億年なんて言われると全然想像できないぞ、と思うのだが、それは僕たちがまだ、こんな地球という小さな惑星の上でのみチマチマと生きて死んで行くからかもしれない。

 いつか人類が宇宙に出て宇宙で暮らし始めた時、「自然」や「世界」の概念が変わって、いわばその時の最新の宇宙論を前提にした、新しいアニミズムが生まれて来る可能性があるのだろうか?

例えば宇宙空間での生活(仕事を含め)が日常になった人々にとって、アニミズムが再び新しい宗教になるのではないだろうか?なんて考えるのだ。

つまり、宇宙の構造や流れている時間の途方もない規模を前に、人類は、ちっぽけな人間の人生になんて全く意味なんてないぞ!と今の我々も感じているような事をより一層感じ、その意味の無さはブラックホールのような深い深い闇に飲まれて行く感覚を生活実感として生み出し、それはやがて「おっかないぞ」という恐怖に変わって、それでも生きて行かなければならない、その上で意味なくちっぱけに死んで行かなければならない、という哀しみへとやがて繋がり、仕事中、あるいはシャトルに乗る通勤中、ふと窓の外に目をやって、目の前に映る無数の星々の美しさについ見とれながら、うん、でもまぁいいか、自分たちの命のそんな意味の無さも含めてこんなに美しい宇宙だというなら、仕方ないか、といつか悟れるのかもしれない。モン族が圧倒的な自然の美しさへの感動と感謝を銀細工や刺繍で表現しているみたいに、未来の人類は自分たちが生活をしている宇宙空間の圧倒的な美しさに感動し、畏怖し、諦め、穏やかな気持ちで死んで行ける可能性を持てるのかもしれない。それはきっと新しいアニミズムだ。そんな空想をしてみるのである。

だって何しろ、伝統が守り抜かれた地域で生まれて育たない限り、僕たちにとって今更、昔ながらの神話に裏打ちされた神様のおどろおどろしい話なんてホラーでしかなく(昔ながらのアニミズム)、またはどこかの神様とか天国の話なんて無理のあるフィクションにしか聞こえず(西洋の某宗教)、一方、命の無意味さに対する殺伐とした厳し過ぎる「諦めの境地」なんて生きてる人間には絶対無理だから(東洋の某宗教)、いずれも受け入れられないのが正直な気持ちなのである。

そうやって考えると、こうして地球の中だけで生活する窮屈さを感じ、一般人が簡単に宇宙に飛び出して行ける科学技術もまだなく、あぁ早く生まれ過ぎたかなぁなんて考えてしまうのだ。未来に生まれる新しいアニミズムはあと何十年後の話なのか、あるいはあと何百年後の話なのか、今は分からない。地球上の大自然とか比べ物にならないくらい、きっと宇宙には大規模で美しい光景が広がっているはずだ。そしてそこからきっと、新しい価値観や人生観が生み出されて行くんだろうなぁ、なんて考えるのだ。

 ちなみに、「酸湯魚」に入れる魚の話だけど、ライギョソウギョも食用として日本に持ち込まれ、大きい魚ゆえの強烈なアタックを楽しむ釣り人も多いみたいだが、獰猛な肉食性であるライギョは日本のあっちこっちに定住して生き残っているのに対して、その名の通り草食性のソウギョの方は一部の地域の河川域にしか生息が確認されていない。やっぱ大人しい草食性よりも、前のめりな肉食の方が生き残るのに有利みたいだね。ガンガン肉食して生き延び、人類は宇宙へ出て行かないと、と思って赤いスープをすすりながら、店員に「この魚はライギョ?それともソウギョ?」と聞いてみた。

「川で釣って来たフナ」

あぁ、フナね。肉食でも草食でもなく雑食でした。そして雑食こそ生き延びるのに一番強いんだったね。

何でも食べるよ。何でも食べて、生き残って、生きて、生きて、意味がなかろうと、こんな狭い惑星から外へ出られないで生涯を終えようと、それでも生きて生きて、そしていずれ死んで行くんだ。

 寒い冬がやって来た。僕は異国の名もない田舎で、ちょっと震えて背を丸め、暖かいスープを少しずつ飲みながら、ここから更に遠い場所に住んでいるモン族たちと、遥か彼方の宇宙の美しい景色のことを考えている。

現地の料理の数々に圧倒されつつ、何にこだわりを持つかで人間が生み出す文化って全然違って来るよなぁと思いながら、ドイツ製のカンペンケースを手にして大満足したこと

2023/11/04

 二十数年前の若いころに勤めていた会社に、クモンさんという日本に帰化した台湾人の女性の方がいた。

大不況の中、採用大幅減の中で入って来た数少ない若手(­=徹底的にブラックにこき使われる消耗品)の僕の事を何かと気遣ってくれて、やれ昼ご飯に1品、私の持ってきた野菜炒めを食べなさい、とか、やれ疲れから回復する健康茶を持ってきたから飲みなさいとか、それほど大きく年が離れている訳ではないから、ちょっと身内のお姉さんのような心配をしてくれる人だった。

 当時は、連日、日付が変わってから帰宅する日々で、昼休みになると僕はさっさと玉子屋の弁当を食べ、クモンさんが入れてくれた味噌汁を飲み、机にうつ伏せになって睡眠を取るのが習慣だった。睡眠は取れるときに少しでも取っておかないとぶっ倒れそうなくらいに疲れていたからだ。(フツーに月間の残業時間が100数十時間以上だった時代の話である。ついでに言うと、その半分以上はサービス残業だった。)

で、昼休み明けの直前、ふと目を覚ますとカーディガンが僕の肩に掛けられていて、向かいの席ではクモンさんがニヤニヤこっちを見ていた。僕はお礼を言ってカーディガンを彼女に返し、目の前に置かれた暖かい健康茶をすすった。

そういうささいな他人の親切や思い遣りにちゃんと時間をかけて感謝の気持ちを感じるほど実は余裕なく、僕は午後の仕事に猛然と取り掛かっていた。時代の消耗品(当時の若者は全員)だったころの話だ。

 そんなクモンさんがよく言っていた言葉を最近よく思い出すのだけど、それは次のようなものだ。

「なんて言うか、日本の文化も日本人も大好きで私は尊敬して来たけど、一つだけどうしても納得出来ないのがあるのよ。それはね貴方たちがやたら自慢している日本食のこと」

クモンさん曰く、文化というのは人間が知恵と工夫で自然のものを上手に変化させて、人間の生活や人生を豊かにして行くものだ。だから中華料理や台湾料理では、いかに「普通の食材」を究極まで高めて、見た目も味も最高のものにするかが重要であり、その工夫にこそ文化というものが読み取れるのである。

なのに、「和食」と呼ばれるあれはいったい何?確かに見た目は美しいものがあるけど、「食材が命」と言っている時点で、人間の手が食材に加わる工夫や努力を軽視した、いわば文化とは言えない料理では?というのが彼女の理屈である。

勿論、「食材が命」なので、工夫をしない訳ではない。むしろ、最高の食材を、その最高をそのまま舌の上に運べるよう、その最高を食べる側がより深く感じ取れるよう、細心の注意を払って、要するに工夫して料理するところに日本食の面白みがあるのだけど、そんなややこしい話を、この年上の異国出身の女性に対して説明するほど僕には余力がなかった。「あぁそうですか、なるほどね」で終了である。工場を走り回り、事務所に戻ってはPC画面に向かって深夜まで格闘し続けていた。一生懸命だが、まるで余裕なく働いていた若者だったのである。

 さてそれから二十数年たって、その若者はすっかりオジサンになり、相変わらず時々は工場を走り回ってPCの画面に向かって考え込んでいるには違いないけど、今や日本食とは全く縁のない中国の山奥の街に住んでいる。人生って不思議なものだ。そして毎日、否応なく中華料理をひたすら口にするうちに、時々はあのクモンさんの力説していた言葉「普通の食材を究極まで高めて」が思い出されるのだ。

 確かにここの地元の中華料理を食べていると、「普通の食材」が驚くべき変貌を遂げている。ただの野菜や魚をよくここまで美味しく、そして見栄え良くできるものだと驚かされることが多い。場末のローカル飯は費用の関係でやっぱり味重視だけど、レストランの宴会で出てくるちょっと高級な料理は見栄えをよくする技術もふんだんに使われていて「えっ?さっきの表に並べてあった食材がこんな風になるの?」と度肝を抜かれることがある。ほぼ芸術だ。

ただのカボチャがこんなに美味しく美しい料理に変身

実はこれ、目玉焼きと卵白で作ったはんぺんだけ→要するに食材は卵だけ

魚も最大限に見栄え良く盛り付けられ、皿の柄としっかりマッチ!

店の入口の水槽で泳いでいたコワモテの彼も「コレ食べたい」と指さすと・・

赤ピーマンとパクチーに彩られて美しい料理に変身!

 まぁここまで「食材」を大変身させ、味も見た目も最高のものにしてみせるぞ!というカンジは、究極、中国の人々が昔から「食べる」ことに徹底して拘(こだわ)りを持っているからだろう。その数千年の努力の歴史は圧倒的だ。「食材が命?何言っているの?」となる訳である。

 ところで話は全然変わるけど、日本から筆箱を持って来るのを忘れた。筆記用具はやはり日本製が非常に使いやすいから、大量のボールペンやシャーペンや消しゴムを持ってきたけど、それを収納する筆箱がない。近くのスーパーや百貨店に行ってもどういう訳かなく、そうか、今や中国は携帯電話で何でも買えるんだった、と思って探し始めた。

が、いざ探し始めると色々あって、どれにするか迷ってしまう。あんまり安いのもすぐに壊れるだろうしなぁ、なんて考えていると、ドイツ製の高級カンペンケースを見つけてしまった。ネットに掲載されている写真は銀色に輝いていて、なんだかとってもカッコいい。日本円で2,000円以上するし数日迷ったけど、結局買ってしまった。中国の山奥で、ドイツ製の高級筆記用具を買うという、よく分からない経験だ。

 そして到着した商品の現物を手に取ると、僕はそれがいっぺんに気に入ってしまった。写真の通りだ。重厚感があってむちゃくちゃカッコいい!

手触りも蓋を開けた時のヒンジの感触も、「あぁこれは値が張るだけあって、品質がかなりいいな」というのが一発で伝わる製品だった。こんなしょうもないことに感動出来るのだから、やはり結構、この僻地での駐在生活は慣れているとは言え、色々厳しい思いをしているのかもね、なんて独りごちてみた。

 重厚な銀色と言えば、クラシックカメラだ。昔の100%メイドインジャパンレンジファインダーカメラは全部、ネジの一本まで日本人が作っていた幸福なモノづくりの時代にあって、今でもその輝きを失っていない。日本の自宅の自分の小さな書斎の押し入れには、コツコツ集めたそれらのクラシックカメラが大切にしまってあって、きっと今度、休暇で一時帰国したら、夜中に家族が寝静まったころ、一人でまた眺めてニヤニヤするんだろう、なんて自分の姿が想像出来るのだ。

 日本のモノづくりは過剰品質に陥り、価格が高いせいで海外で勝てない、だから日本基準の品質の考え方を捨てなければ(価格に転嫁されている品質を一部犠牲にしなければ)、我々はグローバルマーケットで負け続ける、このままでは滅びる、なんて海外の現地では鼻息荒くみんなが言うし、だから日本の本社は駄目だ、こういう最前線にいる現場の我々の温度感が伝わらない、なんて昔のドラマ「踊る大捜査線」のセリフみたいな発言も会議でよく耳にするけど、まぁ無理でしょう。だって我々は日本人であり、要するに性格的に、正確さは美しさだと感じられ、正確さに基づいて達成されたモノづくりの品質の高さに感動出来てしまうのだから、そこから絶対抜け出せないのだ。性格に根ざしたものって、個人のレベルでも、会社のレベルでも、国家のレベルでも、なかなか変化出来ず、やっかいなものなのである。なんて、銀ピカのドイツ製のカンペンケースを手に、考えている。やっぱ、僕は日本人なんだなぁと、しみじみ感じるのだ。

 そう、中国人が食べることに極端と思える拘(こだわ)りがあるように、日本人はモノづくりに極端と思える拘(こだわ)りがあるのである。海外の現地スタッフを指導している際に「マジすか?そこまで細かくやるんですか?アンタら日本人はちょっと異常ですなぁ」という顔(言葉では日本人は凄いって褒めて来るけど)をよく目にするのである。が、そこまでグローバルマーケットの買い手は、高い品質を求めておらず、お金を出したいと思わず、だから我々はずっと負け続けている。はぁ~

 そんな風に、銀色のカンペンケースを見ながら考え、なんでただのモノでしかないのに、僕たちはこんなに感動したり、思い入れが出て来るんだろうって改めて思った。これは日本人が、というより我々人間が、という話だろう。たまたま、日本人は「正確さ」とか「品質」の側面でモノに対する思い入れが強いだけで、モノそのものに対して、その実際の使用価値以上の意味を持たせ、お金を支払おうとするのは、我々人間全員に共通する不思議さだ。僕は改めてそれを考え始めた。

 「ものごとは気持ちの持ち方次第」なんて生活の知恵だけど、太古の昔から議論されてきたテーマでもある。世の中って物理的な法則で成り立っているよね、性格も考え方も、それこそ「気持ちの持ち方」も、遺伝とか環境とか生育プロセスに還元されて、アナタのそのネクラな性格を生み出す脳構造が出来上がったんだよね、というのが唯物論(ゆいぶつろん)なら、その反対に、いやいや、そんなに世の中捨てたもんじゃなくて、アナタの見えている世界が狭いだけであって、もっとリラックスして周りを見渡してごらん、人様(ひとさま)の優しさとか、情熱を込めた仕事とか、全員で頑張ろうとする逞しさとか、色々見えてくれば、ウン、生きるって気持ちの持ち方次第だよねって気づかない?というのが唯心論(ゆいしんろん)だ。

で、どっちが正しいかっていうと、人間と人間が生きる世界を裏表(うらおもて)から見ているだけで、どちらが真実かというより、どちらも真実なんだろう。

※ちなみに唯心論とは別に唯識論というのもあるけど、これは「ものごとは気持ちの持ち方次第」の後に「まぁそんな人間の個々の気持ちなんて所詮、何の価値もない幻想でしかないけどね」というのが追加される、非常に殺伐とした考え方であり、ブッダから始まるいわば生きている人間が絶対辿り着けない、というか辿り着く必要もない、般若心経に書いてあるような考え方である。

 人の心も命も価値も、美も善も悪も、そして平和も正義も喜びも悲しみも全て、物の世界に還元されて、物の世界の法則に従って構成され機能しているのかもしれないが(現代科学の発展)、一方で、個人として一回限りのこの生を生きる僕たちにとって、「よってアンタらの人生や命を含めてモノの一部でしかないのよ」なんてしたり顔で言われたって、だからどうしたの?世界の真実が何であろうと、そこに何の意味も持たない自然法則が絶対王者として君臨していようと、そんなこと知ったこっちゃない。僕たちは相変わらず、アイツの顔みるのマジで嫌だなぁ、なんて怒りっぽい上司の品のない顔つきを思い出しながら満員電車に乗って出勤したり、ただの東アジアの平凡な女性の一人なんだと分かっていても(もちろんこっちも、すいません、ただの東アジアの平凡な男性ですが)、仕事が終わっていつものスタバの前であの子と顔を合わせれば、やっぱこの笑顔は唯一無二で世界一サイコーに可愛く愛(いとお)しいなぁなんて思える、世界の真実とかは全然関係ないそんな生(なま)の生(せい)を生きて、生きて、生き抜いて行かなければならない。

 だから、モノそのものの中に美を見出すというのは、個人の生(せい)の思索に太古より常に寄り添って来たそんな唯心論の極みみたいなところがあって、それゆえ僕たち人間は、ただの工業製品に原材料費と加工費と販売管理費を合算した以上のブランド価値を見出し、あるいは機能性の悪さを凌駕(りょうが)するデザインの美しさに価値を見出し、よく思い出してみれば、戦国時代から古ぼけた茶碗にとんでもない値段が付けられ、武将たちは争って(命を懸けて)それを手に入れようとしたのだ。

その上で、何に美しさを積極的に見ようとするかは、性格がモロに現れるから、国民性も露骨に反映される。古来から日本人がハレ(良い非日常)とケ(日常)とケガレ(悪い日常)の思考習慣の中で生活して来て、ケガレを忌み嫌って日々せっせと掃除するというのがやっぱり根本にあり、どうやら世界標準から見ると俺たちキレイ好き過ぎない?過剰品質?という自覚があっても、基本的にどの日系メーカーもそこから抜け出せないのは、僕たちが基本的にはキレイ好きで、品質第一で、正確に、そして丁寧に作られたものが大好きだからである。

そんなのは昭和のオジサンたちが滅んだら消えてなくなるかと言うと、いやいや、度の過ぎたキレイ好きは、やっぱり若者でも同じで、時代が変わろうとそこだけは変わって行きそうにない。日本の部下の若者も海外スタッフの若者も、確かに同じようにプレッシャーに弱くて脆弱に見えるけど、それはこっちがオッサンになっただけの話で気にならないが、うん確かに日本の若者のあの様子、清潔感満載で出社して来る彼らの自分のアパートのDIYした部屋の写真なんかを、飲み会の席で携帯電話の写真で自慢げに見せてもらったことあるけど、あれはやっぱり日本人だなぁって思うのだ。ケガレを忌み嫌う、そんなキレイ好きな性格は、これからも過剰品質と言われながら脈々と日本のモノづくりに受け継がれて行くに違いない。仮に世界で負け続ける宿命だとしてもだ。それほど性格に根ざした拘(こだわ)りというやつは、根深いのである。個人差があるにしても、いったん外へ出てしまうと、やっぱ日本人ってキレイ好きだなぁと痛感するのである。

 さて、そんな具合で僕の目の前にはドイツ生まれの銀色のカンペンケースが置かれている。ただのカンペンケースからえらいところに思索が広がってしまった。でも、この美しい製品を眺めながら、拘(こだわ)りって国民性が出るよなぁ、って思い始め、普段目にする中国人のあの圧倒的な食べる事への拘(こだわ)りを思い浮かべ、そうして、この大きな時代の転換期にあって、世界のマーケットで負けてもなおこれまで自分たちが信じてきた品質第一という価値(実はこれも単に性格に根差しているだけ)を捨てられない悲しい日本人を思った。

「なんて言うか、日本の文化も日本人も大好きで私は尊敬して来たけど、一つだけどうしても納得出来ないのがあるのよ」

まったく別の角度からモノは見えてるはずのに、なかなか気づけないということ。

が、僕たちは、世界で負け続けているからと言って、80年前の終戦直後のように、卑屈になって全否定したり悲観することはないのだろう。坂口安吾のようなヒロイックな復活の道しるべも不要だ。80年前のあの焼け野原から這い上がり、頑張って来たあまたの昭和の人々の思いや、その努力の結果として世界に広まっている日本人と日本の製品に対する印象「大好きで私は尊敬」はまだアジアのいたるところで息づいていて、ただその延長線上で、僕たちは大きく躓(つまず)いているだけである。

 真新しいカンペンケースを撫でながら、若かった頃に異国の出身の方から受けた日常のささいな優しさを、当時は全く気にしなかったその言葉とともに、僕は今頃になって、暖かい気持ちで思い出している。

香港で家人をエスコートしながら、その場所に辿り着くのが大変な場合もあるけど、やっぱり地元の人々が通うお店の料理が一番美味しいんだなぁと、改めて思ったこと

2023/10/06

 国慶節という中国の長期連休を利用して香港へ行った。目的は5か月ぶりに家人に逢いに行くことだ。本当はもっと早く逢いたかったが、且つてのようにビザ無しで簡単に中国へは入って来れなくなったので、ビザがなくてもやって来れる香港で逢うことにした。

逢いに行く、なんてロマンチックだが、こっちは5月の渡航時に持って来るのを忘れたものや、追加で欲しくなった日本製のものを運んで来てもらう事も重要な目的であり、一方、向こうは向こうで、事前に「るるぶ香港」を研究し尽くしてグルメと観光にやる気満々である。

 この5か月間、本当に仕事まみれで、出張でさえほぼ行かず、ひたすら内陸の田舎の料理を食べて来たから、久しぶりにホテルで本格的な洋食を食べるぞ!と、結構、直前になってウキウキし始めた。そう、美味しいクロワッサンでいいのだ、そんなのでいいから食べたい。人間なんて単純なものである。そして生理的欲求って本当に大切。

 高速鉄道を乗り継ぎ、家人が到着する前日の昼過ぎにようやく香港に入った。天気予報通り33度の真夏日だ。ぜんぜん10月なんかじゃなく、日差しが厳しい。

 実は香港なんて大都会に行く用事がこれまであんまりなく、出張でも一瞬、オフィス街の事務所に直行して打合せしてすぐに帰る感じだったので、地理が頭に入っておらず、交通機関の利用方法を含めて土地勘が全くない。

これじゃぁ、家人から事前に受けたリクエスト(あそこへ行ってあれを食べたいとか、あそこへ行ってあれを買いたいとか)に対して、しっかりエスコート出来んぞ、と思ったから、前日には現地に入って一人でウロウロすることにしたのだ。こんな炎天下では、なおさら道に迷ってあっちこっち歩かせ、疲れさせるのは申し訳ないとも思った。

 が、家人のリクエストというのが、何のブログを見て行きたいと思ったのか知らないが、マニアックなものも含まれていて、場所が分かりにくい店も多かった。

香港に何度も来たことのある「ツウ」の方々から見れば、そんなの有名な店であってマニアックでもなんでもない、なんて叱られそうだが、僕はタクシーや地下鉄に乗って狭い香港のあちこちをウロウロし、「こんな場所、絶対に迷わずに来れないや」なんて汗だくになりながら、雑居ビルを探し当て、階段を下りたり昇ったりし、混然と並ぶビル内のたくさんの小さな店の中から、お目当ての場所を探し出した。

ややこしそうな場所はおよその行き方を把握し、夜遅くになって、その日に一人で宿泊する佐敦のホテルに戻って来た。暑かった。クタクタだ。窓の外を見ると香港の夜景が見える。

やっぱ大都会だ。僕が住んでいる場所がいかに僻地(へきち)か、と同時に、あそこがいかに本場の中国かを改めて思い知った。さっき買い物をしたセブンイレブンにも日本語表記の商品がたくさん並んでいて、店員は英語も通じるし、東京と変わらない感じだ。海外にいる気が全然しないのは、それだけ日本人にとって居心地がいいからだろう。でも勿論、ちょっと路地を入った裏通りには、いかにも香港って風景があって、店もあって、適度に海外にいる感じがあるから、こんなに人気の観光スポットなのかもしれない。

 さて、翌日、ちょっとホテルで寝坊して(よく考えたら朝にゆっくりするなんて数週間ぶりだった)シャワーを浴び、前日にチェックできなかった場所に行って店の場所をいくつか確認し、そのあと家人を迎えに空港へ向かった。

香港空港は出張で何度か使ったことがあるけど、いつも素通りするだけで、こんな時間をかけて見る事がなかった。家人が出て来るのを到着ロビーで待っている間、お腹がすいたから、ロビー内のレストランでハンバーガーとビールを注文してもぐもぐ食べる。本格的なハンバーガーを食べるのが久しぶりで、すごく美味しい。

 家人はニコニコ笑顔でゲートから出て来た。スーツケースを持ってあげ、そのまま二人でタクシー乗り場へ向かう。飛行機に乗る前の話、たまたま飛行機で一緒になった女性は家族が日本でばらばらで生活しているので、香港で現地集合にしたらしいという話、早く火鍋料理が食べたいという話、相変わらずそんな他愛もない話をずっとしゃべり続けている。僕はタクシーの中で相槌を打ちながら、話の中身は聞いていないが、その声を聴いている。

 フライトが夕方の到着だったから、その晩は事前に見つけてあった近くの火鍋屋で暖かいものを食べ、明日からに備えて早めに眠りにつくことにした。僕はなんだか、火鍋を食べているうちに、こうやって久しぶりに一緒に家人とご飯を食べていることが嬉しくて、はしゃいでしまって、そのあとホテルに戻ってからもなかなか寝つけなかった。およそもうすぐ50代になる大人とは思えないはしゃぎぶりである。

 翌朝、僕たちは家人のリクエストの一つである「お粥」を食べに行った。旺角にある雑居ビルの3階にその店はあった。前々日にここを探し当てるのに、さんざんビル内を歩き回った場所だ。

お粥の種類は色々あるけど、僕はボラの切り身と肉団子が入ったのを注文した。出てきたのはほぼ米の形がなくなったトロトロのお粥である。

そのままでも十分なんだけど、これに更にテーブルに置いてある出汁醤油をかけるとムチャクチャ美味しい!

家人に「定番らしいからお粥に浸して食べたい」と言われて、慌てて油条(揚げパンみたいなやつ)を追加注文する。なるほど、これを付けて食べるんだね。

浸して食べると、この揚げパンにお粥の旨味が乗り移って、これまた絶品!

現地の方々が通う店、と言うだけあって、周りのテーブルでは全員が広東語を喋っていた。広東省とか香港に来たら、お粥は食べるべきかもしれない。今まで食べて来た中で、一番美味しいお粥を朝ご飯で食べることが出来た。大満足だ。さすが家人、グルメ大魔王。リクエストの一つはこれで達成だ。

 そのあと、花園街、金魚街、女人街といったオーソドックスな観光地を巡ったが、家人はあんまり興味なさそうで、金魚街では「生き物が閉じ込められているのはあんまり見たくない」と言い出したので、了解、じゃあ君のリクエストに戻ってお目当てのクッキー屋さんへ行こう、ということで移動を開始した。

なんという人だかり。。事前に場所を確認しに行った時は既に閉店後だったので分からなかったけど、こんな雑居ビルの2階の小さな店に、たくさんの人が並んでクッキーを買おうとしている。ジェニーベーカリーという名前だったけど、確かに有名らしいね。

「かわいい」という感覚は、大変申し訳ございませんが、基本的には良く分からない。よく見ると缶のデザインは、よりによってオッサンの熊のイラストだし、どうせ中身は日本へ帰ってから食べられるので僕はありつけないし、さんざん苦労して買ってあげた土産のクッキーが、こんなんなんだ、なんて心中で思いながら購入し、大喜びの家人に渡してあげる。この店に辿り着くまでに近辺のあっちこっちで売っている偽物のクッキー(間違えて買って行く観光客も多いとか)の缶の方が、可愛らしい熊のデザインだったと思うが、そういうことは敢えて口にしない方がよろしい。

 暑さがピークに達し、僕たちは昼過ぎにホテルに戻って休憩した。休憩のつもりがそのまま昼寝になって、つい夕方まで寝てしまった。観光に来て何をしてるの?と誰かに怒られそうだが、僕は実はこの時間が一番嬉しかった。休日の午後、二人で昼寝をする。目が覚めたらそこに寝顔があって、僕はもう一度、うとうとする。当たり前だったのに、今は当たり前でなくなってしまったそんな貴重な幸せの時間だ。

 夕方は外に出てビクトリアハーバーへ夜景でも見に行こうと思ったが、「今日は国慶節のお祝いの花火もあって、あそこは人だらけで近づけないぞ」とタクシーの運ちゃんに言われ、あきらめる。二人で宿泊していたのが油麻地のホテルだったから、そこから反対側の旺角へ向かって手をつないでゆっくり散歩した。ネイザンロードは都会の大通りで、要するに東京の街を歩いているのと何も違いはない。旺角にはユニクロなんかの入った商業ビルもあり、僕たちはそこで日本でも少し前に流行った?というメレンゲの卵ご飯を食べた。

なんだよぉ、香港まで来て、とこれまた怒られそうだが、こんな日本で普通にデートしていた時のようなカンジが、僕たちにとっては嬉しかったのだ。家人はずっと上機嫌で僕にしゃべり続けていた。うん、確かに、この人は夜景とかあんま響かない人だったぞ。明日こそはこの人の残りのリクエストをしっかりクリア出来るよう、ちゃんとエスコートしよう、って思いながら、食後のスタバのコーヒーを飲み、手をつないでその夜はホテルに戻った。本当に、日本でデートしているみたいで、とても幸せだった。

 そして3日目の朝。地元の人たちが通う店で飲茶がしたい、という希望を受けて、「ロンドンレストラン」というお店に向かう。

僕は知らなかったけど、香港の昔ながらの飲茶のレストランのスタイルは、この店のように蒸籠(せいろ)を積んだワゴンがテーブルに回って来て、そこから選んで食べるというものだったらしい。

もちろんコックさんが料理をしているミニキッチンみたいなところがホールの隅にあって、そこへ行って食材を選び「コレ食べたい」と言えば、その場で焼いてもらえる。要するに選べるのだ。僕たちはワゴンの蒸籠の点心も食べ、ミニキッチンで腸粉(米粉のクレープ)とピーマンの肉詰めを焼いてもらって食べた。これまた絶品!やっぱり地元の人たちが通う店は味に間違いがない。

 さて、お腹がいっぱいになったところで、「ヌガーなるものを食べてみたい」という家人のリクエストに応じ、MTRに乗ってメイフーへ向かう。ヌガーってネットで調べると「砂糖と水飴で出来たお菓子」となっていたから、どうせ甘ったるい生キャラメルみたいなものかな、なんて思っていた。それは駅前の「多多餅店」というパン屋で売っていて、土産用に一つと、その場で食べる用に一つを買って、さっそく1個を口に入れてみる。

甘さが控えめで美味しい!食感も独特!

ヌガーは一つ一つが銀紙に包まれていて、そう、家人と会話して盛り上がったのだが、大昔に僕たちが幼稚園で食べさせてもらった肝油ドロップみたいだった(昭和の話?)。本当に懐かしい味だって、夫婦で大盛り上がりだ。

そして甘いものを食べたので、同じメイフーの駅前にある漢方茶屋で苦~いお茶を頂く。

どこにでもあると言えばあるのかもしれないけど、この店が3日前の下見の時に気になって、一度来てみたかったのだ。出された真っ黒なお茶は、いかにも漢方薬が入っているって感じの香りがして体に良さそうだった。家人もニコニコ飲んでいる。

香港ではフィリピン人に代わってインドネシア人の出稼ぎ労働者の数が最大となっており、大勢が街に繰り出していて、みんな仲良く休日を楽しんでいた。女性はみんなスカーフ(ヒジャブ)を着けているから分かり易い。普段はお金持ちの香港人の家のメイドとかをやっているのだろう。漢方茶屋で向かいに座ったインドネシア人の女性2人組は、こちらから話しかけると案の定「インドネシアから来たばかり」と回答が返って来て、目の前に置かれた「亀ゼリー」というこれまた真っ黒な美容ゼリーを食べ始めた。

 3日目の夕方はちょっと贅沢した。奮発して有名ホテルの中にあるレストランでディナーを楽しみ、宿泊もしていないのにその超豪華ホテルの中を二人で「すごいねぇ」なんて言いながらウロウロして、そのままビクトリアハーバーへ歩いて行った。やっぱ夜景は見ておかないとね。

夜景もそうだけど、中国の伝統的な帆船を模した観光クルーズが美しかった。色彩の感覚(見栄えを良くする感覚)はさすがだなぁって思いながら写真を撮る。後ろで中国人観光客が「ありゃニセ物の船だ」なんて言っている。それはそうだろう。本物だったら老朽化著しく、怖くて乗れない。

 そのあと、今回の旅行で唯一の僕自身のリクエスト「香港の夜景を見ながらお酒を飲みたい」を叶えるため、イースト香港の32階にあるSugarというバーにタクシーで向かった。

事前にネット調べていて、「夜景を見ながらお酒」と検索して出て来た場所である。お酒が全く飲めない家人には申し訳ないけど、「まぁ、えらい僻地で頑張っている自分へのご褒美ということで、いいかい?」と聞いたら快諾してくれた。

テーブルから見える香港の夜景(ちょっと中心から外れているけど)は噂通りやはり絶景で、僕はジンベースのお酒を頼んで深々とソファーに腰かけ、この美しい景色と久しぶりに飲むジンの香りと味を楽しんだ。ウン、よく頑張っている、こんな年齢のオッサンはもはや世界中で自分以外は絶対に誰も褒めてくれる人はいないから、こういう時にたっぷり自分を褒めてあげよう。それが大切だ。

 翌日は、イギリスの紅茶とかその他、家人が買いたいと言っていた土産を片っ端から買って、そうこうしているうちに、るるぶを見ていて突発で「食べたい」というリクエストが発生したため、タクシーに乗ってワンポワへ向かい、本格的な四川料理の店で担々麺を食べた。

要するに最後まで香港観光とグルメをたっぷり楽しんでもらったということだ。

 あっという間に夕方になり、次の日には朝のフライトで家人が日本へ帰るから、空港の中にあるホテルへ僕たちは移動をした。いわば前泊だ。ホテルに併設されたちょっとオシャレな広東料理店に入って最後の夕食を味わう。お皿に盛りつけられて出て来たのは、よく見るとナマコ料理とか干しアワビだった。

ナスみたいだけど黒いのがナマコ

真っ白い皿の上の盛り付けは中華風におしゃれ

「あのね、私、ナマコも干しアワビも臭みがあって食べられない」

ありゃりゃ、そうかぁ~と思いながら、まぁ仕方ないなってそれらの高級食材は僕が食べた。うん、まぁ確かに、こんな旅行客向けのお店で食べる料理より、やっぱりあの地元の人たちが通うお粥とかのお店の料理の方が美味しいね。とはいえ、広東料理って日本人が食べやすい味付けだから(僕の住んでいる地域の、鷹の爪で真っ赤に染まったあの料理の数々とは違って)、いくらでも食べてしまえる。僕たちはじっくり時間をかけて、談笑し、次々と出されて来る料理を味わった。

 翌朝、チェックインカウンターで手続きを済ませ、空港内で僕たちはサンドイッチを食べた。実はこれも家人のリクエストの一つ「プレタ・マンジェというイギリスのカフェのサンドイッチが食べたい」だった。

空港の中にあるお店だけど小ぢんまりしていてカッコいい構えだ

包装デザインもカッコよく、味はもちろん噂通り最高

はい、全部クリアです。

最後にサンドイッチを食べながら、二人で記念写真を撮影したら、家人はニコリともしていなかった。一方、僕の表情と言えば、片っ端から彼女のリクエストを叶え、ほぼ計画通りクリアしたぞって言う達成感で満足げな笑顔だった。凄く対照的な表情の二人の写真だ。

あれっ、気まずいぞ・・・・

 前日の夜からグズる家人をなだめていた。正月には一時帰国は出来るんだよね?そのあと今度こそ貴方が住んでいる所へ遊びに行っていい?ビザを取るのってそんなに難しい?明日は一緒に飛行機に乗って帰りたい。

まるで子供だった。

ごめんね、一緒には飛行機には乗れない。正月には必ず帰るよ。一緒に過ごそう。今日、それぞれが家に帰ったら、一緒にネットでおせちを選んで予約注文しよう。正月は必ず日本へ帰って、一緒に初詣して、それからお雑煮も僕が作ってあげるよ。

 保安検査場の入口の前でお互いに手を振った。もうちょっとあの子の顔を見ていたかったな、あぁやっぱこの瞬間は慣れないんだよなぁ・・・ってまた思いながら、空港内を一人で歩き始める。昨日までずっと笑ってくれていたあの笑顔を思い出している。

 夢のように楽しい数日だった。また僕はここから数百キロ離れた僻地(へきち)へ、日本人のほとんどいないあの「外国」へ戻って行く。必ず無事でいてね、とお互いに言い合った昨晩のコトバを握りしめて、僕は歩き続けた。

さて、また仕事だ。休みは終わった。

なんとなく歯の奥をギュッと噛み締め、僕は空港内を歩いていた。

あっという間の、休日の幸せな時間だった。

天平時代より昔に作られた古い寺で台風の破片の生ぬるい風に吹かれながら、不条理に対する人間の思索を思い返し、やっぱりなぁんにも成長していない自分を軽く笑ったこと

2023/09/10

 台風の季節到来で、先月からやたらめったら台風が現れて日本や大陸の沿海部にやって来て、大きな爪痕を残して行くが、僕がいるこの異国の山奥は、あまりに内陸過ぎて、途中にそびえる膨大な数の山々を台風は越えることが出来ず、結局、そのままの形でここまで辿り着けない。テレビで見るニュース番組の暴風雨の映像は、まったく外の世界の出来事である。ここは巨大な盆地(だから夏が死ぬほど熱く、冬は死ぬほど底冷えするけど)であり、幸いにして台風の猛威は、遥か山々の向こうの海側の出来事となっている。

 そんな大盆地はもちろん残暑も厳しいのだけど、秋口に入りさすがにいくらか過ごしやすさも出てきたから、休日には近場の観光地へ足を運ぶこともあり、とは言ったって無名の場所の無名の観光地なので、地元の人たちだけで賑わっている門前町とか、実は十年前に作った景勝地(人口の湖にいかにも数百年前からあったかのような歴史建造物っぽい様式の橋や塔を作ったところ)などを、ゆっくり散歩する程度の話である。

 で、観光地はそんな感じだが、帰り道にぷらっと立ち寄った町のそのあたりに建っている小さな寺が、実は日本でいう奈良時代初期の創建だったりして、ありゃびっくり、なるほどね、歴史の長さという意味では、この国はちょっと規模感が違うのかもね、なんて思いながら、ペンキでピカピカに塗りなおした境内や仏像をゆっくり眺めている。

 「ペンキでピカピカ」は勿論、日本人としては違和感があるのだけど、昔、東南アジアのスタッフが僕に言っていたように「だって大切なものを綺麗にしたい、色を新しく塗りなおしたり、ダイヤモンドを埋め込んだりしたいって思うのは、人間として普通ですよね」の通り、どちらかというと、仏像の片足や片腕がちぎれて取れていようが、顔の一部の塗装が剥げてボロボロになっていようが、そのままにしておいて寧ろそのボロボロの様子に、無常観や侘び寂び(わびさび)のような美意識を感じる日本人の方が、異様なのである。

が、僕はやはり日本人だ。「ペンキでピカピカ」への違和感は決して拭い去ることが出来ず、そのピカピカを眺めながら、自分の国の古都の懐かしいあの仏像たちを思い出している。

 台風の話だけど、山を越えられず熱帯低気圧に分解したその破片は、雨として落ちることはないものの、この山奥に風となって到達する。普段あまり風の吹かない地域だが、台風が沿海部で大暴れして分解した破片の一部がこの地に辿り着いて空を覆った時、一瞬、太陽は雲に隠され、湿った風が辺りに漂う。湿った風なんてほとんど吹かないから、あぁ台風だった雲の破片がここまでやって来たんだねって気づくのだ。僕が歩いている古い寺の境内の柱の間を、すうっとそんな風が通り抜けて行く。

 子供のころ、両親の実家の農村が大きな台風の被害を受けた。その年の台風による死者数が最も多かった被害を受け、地域一帯が壊滅状態だった。

毎年「おじいちゃんとおばあちゃんの所」へ夏休みのお盆に遊びに行くのが楽しみだったけど、その年は遊びに行けなかった。道路などのインフラがようやく復旧した夏休み明け直前になって1日だけ、墓参りに「おじいちゃんとおばあちゃん」に会いに行ったが、そこはもはや僕の知っている楽園ではなく、大きく側面をえぐられた山々とか、そこにあったはずの集落を飲み込んだ広大な土砂の塊たちとか、まだ濁っている、そして且つての何倍にも川幅が広がってしまった黒い濁流を目にした。

「先に婆さんを連れて避難所に行ってさ、戻ってきたらもう・・なかった・・あいつら・・・家ごと流されてた・・」

子供ながらに、自然ってとんでもない規模で急に人間に襲い掛かり、人間はそれがどんなにいい人間であっても、それまで一生懸命生きていたとしても、まったく無関係に命を奪われてしまうんだな、と思った。毎年、そこへ行くたびに交流があった従妹の友人たちも、家族をその災害で失っていた。父の従弟の家族も亡くなった。台風という自然現象は、小さな集落を、そこで平和に暮していた人々を、ある日、突然、まったく意味を持たず襲い、まったく意味を持たずそれらの人々の命を奪った。残された人々にとって、まったく意味がないのに苦しまなければならないって、要するに不条理ってことだ。僕は子供から大人になる途中で、小説の世界を通して、有名なカミュの不条理という概念を知ったけど、真っ先に思い浮かべたのが、この子供時代に見た台風が襲ったあとの集落の風景だった。

 自然現象(自然法則)ってやつはだいたい、宇宙の始まりから始まって、終始一貫して、まったく意味を持たないのである。だから、台風はもちろん、これも自然現象の一つでしかない僕たち人間の命や運命だって、まったく意味を持たない。だから、愛する人がまったく意味を持たず命を奪われても、そこに一切れ(ひときれ)の回答も見い出せない。耐え、死にたければ死に、死ねなければ生きるだけである。そして幸運にも何かの意味を見出したりしてその後の数十年を生き延びたとしても、いずれ自身も、自然現象の一つとして、まったく意味を持たず死んで行く。どういうこと?どうして?って言うところから、この不条理って何?という大昔からやっている人間の膨大な思索(しさく)があるのだ。

 カミュだけではない。ヨーロッパではアウシュビッツを生き残ったヴィクトール・フランクルが不条理を深く深く考察し、単にインテリの知的なお遊びではなく、実体験に根ざして誰も文句を言えない場所で、人間にとっての不条理を語った。ヨーロッパ人の不条理に対する感覚は、自然現象から孤立して立ち尽くす人間のイメージだ。ヨーロッパの気候とかキリスト教の影響かもしれない。荒涼たる草原の中で、人間が他の生き物とは区別されるべき特別な存在たらんとして、不条理を前に立ち尽くしているそんな様子が、彼らの思索から思い浮かぶのである。

 一方、アジアの不条理に対面するやり方(知恵)は、人間が他の生き物とは区別されず、自然現象の中に内包されて存在が消えてしまうようなやり方である。自然現象から孤立して立つのではなく、いつの間に自然現象の中に存在が解消されてしまうような感じだ。東南アジアの仏跡がジャングルに飲まれてそのままとなっていたように、いわば仏像の顔が木々の隆々(りゅうりゅう)とした幹や根の渦の奥に見え隠れしているような、そんなイメージである。それは自然法則と対面するやり方ではなく、自然法則そのものに自ら内包されようとするやり方である。やはりこれも、アジアの気候や豊穣な自然の影響かもしれない。ヨーロッパの自然からは生まれにくい発想だ。彼らは大災害を乗り越えたりしない。受け入れている訳でもない。災害の大惨禍の中にあって、座り込み、佇(たたず)み、ただその中にあり続ける様子が、テレビのニュースでよく映し出されている。

 で、ここ中国である。中国には老子という天才が大昔にいて、無為自然という分かり易い概念を提起していて、後継者たる荘子がたとえ話をたくさん使って更に分かり易く解説している。ただしこれは不条理に対する態度というのではなく、時の為政者や儒教に対する反発でもあり、その上で中国的=現世的かもしれない。身内が災害で死んだのは悲しいけど、クヨクヨしても始まらない。まずはご飯を食べよう。ご飯を食べれば元気も湧くし、元気が湧けば、また明日からご飯を食べるために頑張れる。そうやって自然に一生懸命生きて行けば、きっと生きている間は我々は幸せにやって行けるんだ、余計な「人間のあるべき姿」など不自然で七面倒くさい事は考えなくてよろしい、なんてな発想だろう。これはここにいる中国の人々の逞しさであり、決して日本人がマネできない代物(しろもの)なのである。

 だから、不条理を前に、僕たち日本人はどの立場も取りにくいのだ。ヨーロッパ人のように、神なき荒野に立ち尽くすといったヒロイックな孤独に共感することが文化的に難しく、赤道直下の東南アジアの人々のように、自然に完全に内包されるようなジャングル的感覚もなく、一方、現世をどこまでも貪欲に生き抜こうとする中国人のタフさもない。で、朽ちて果てて行く仏像のほほ笑みの横顔を見つめながら、僕たちは無常というコトバで感傷的に不条理と向き合うだけである。態度とか方法ではなく、大惨禍を前に、感傷という気分で僕たちは不条理に向き合っている。

 もうちょっと具体的に考えてみよう。

突然の死。これはありがたい。不条理に対する怒りとか、迷いとか、苦しみなく突然、無に帰するのだ。一瞬で完了し、痛みがなければなおさら、ありがたい。

執行猶予のある死。不治の病を宣告された場合だ。これも痛みがなければ実はありがたい。キュプラー=ロスは人が死を受容するプロセスを5段階に分け、第1段階「否認」(いやいや、こんなのあり得ないでしょ)→第2段階「怒り」(ふざけんなよ!一生懸命真面目に頑張って来たのに何で俺がこんな目に遭うんだよ!)→第3段階「取引き」(きっとこの治療方法なら助かるはずだ、きっと・・)→第4段階「抑うつ」(完全に終わった・・もうお終いだ・・)→第5段階「受容」(まぁ仕方ないか、どうせ遅かれ早かれ人間は死ぬんだし)、みたいな説明をしたけど、僕はもし死の宣告を受けたら、とっとと最後の「受容」の段階に入って、お世話になった方々へお礼をしに行く時間を取りたい。あとは痛みなく死ねるよう全力を尽くすだろう。痛いのは嫌だ。

が、突然死だろうが、執行猶予付きの死だろうが、これらはあくまで自分の死でしかない。肉体的に痛くさえなければ、大した苦しみでも不条理でもないのだ。痛くなければ、自分の死なんてなんてことないのだ。

本当の不条理、本当の苦しみは、愛する人を失った時、そしてそこからそれでも一人で生きて行かなければならない旅路の中にある。残されるというそんな苦しみに、僕は耐えられるだろうか?たぶん、無理だ。少なくともまだ老人になっていない今の段階では、絶対に無理だ。泣き叫び、毎日泣き叫び、それでも愛する人を失った苦しみは和らぐことなく、無意味さと哀しみの不条理と毎日、一人で向き合って行かなければならない。「受容」なんて出来っこない。僕は死を選ぶだろうか?分からない。

 江藤淳という評論家が自ら亡くなった時、僕はまだ20代だったけど、そんな事を考えていた。大切な人を失い、残されるという不条理に向き合って「受容」なんて僕も出来っこないと思った。それが20年以上たっても何にも考えが変わっておらず、要するに覚悟も身に付かず、オッサンになっただけで成熟もしなかったなんて、笑止である。が、仕方ない。その後、やはり著名な別の評論家が多摩川で入水した時も同じことを考えた。僕は日本の天平時代より前に作られた異国の寺の境内をゆっくり歩きながら、そんな事を思い出していた。遠い海で発生した台風の破片が、生ぬるい湿った風になって、僕の頬をそっと撫でて行く。

 「人間は他の生き物と違って死を選択出来る=己の生を管理できる。そこに人間として生を受けたゆえの価値を見出せる」なんて、理屈はわかるけど、やっぱりヨーロッパ人的な発想だ。そもそも自ら死を選ぶなんて恐ろし過ぎるし、その最後の瞬間(場面)を想像しただけで、なんで何十年も生真面目に一生懸命頑張って来たのに、最後の最後でこんな怖い思いをしなきゃならんのだって、途中で腹が立って来そうな気がする。それこそ不条理だ。よほどの信念がなければ、不条理の上にアホ臭さも加わって来そうだ。出来れば避けたい。

じゃあ、やっぱりいい感じの安楽死がベストだろうか。社会的にも認知され、専門の安楽死会社があったり、安楽死に対する国の補助金が出たりして、肉体的苦痛や精神的苦痛からあっさり解放される、お気楽な感じの死の選択があれば、それが「まったく意味をもたない」不条理な我々の命や運命に対するベストな回答なのだろうか?

「ごめん、来月の半ばにはもうオレ、旅行に行くからさ。うん、楽しみなんだ、ありがとう。申し込みも終わってる。」

なんて感じの軽い日常茶飯事のノリで、

「ごめん、来月の半ばにはもうオレ、安楽死しに行くからさ。うん、もう楽になろうと思って、ありがとう。申し込みも終わってる。」なんて時代が、意味がない世界の不条理に対して、最終的に人間が辿り着いた結論として、いつかやって来るのだろうか?その時には、自分で首をくくっただの、病院のベッドで痛みにのた打ち回ってから死んだだの、昔の人たちは踏ん切りがつかなかったから大変だったんだろうねぇ、社会的な認識が古くて制度やその類の施設がなかった時代は最後が本当に悲惨だったんだろうねぇ、なんてみんなは言っているのだろうか?

やはり分からない。何かが違うような気がするのだが、それが何か分からない。僕はまだ、そんなことさえ分からず年齢だけを重ねて行く。

 境内を風は吹き続けていた。僕は置いてある木製の椅子に腰を掛け、曇り空を見上げた。生ぬるい風って、なんだか誰かが何かを語りかけて来るみたいだ。千数百年もの間、この場所で人々は祈り、願い、死んで行ったのだろう。

灼熱の日々が続いた夏が終わって行く。何ということはない異国での休日の一日が、こうして静かに過ぎ去って行く。

路上で賑やかにご飯を食べている異国の家族たちの様子を横目で見ながら、映画「シェルタリング・スカイ」に出てくる夫婦と三島由紀夫と、そして自分の大切な人を想ったこと

2023/08/03

 中国の文化の大きな部分に食(しょく)が占めているのは有名だけど、実際にこちらで市井(しせい)の人々と接していて、彼らの食(しょく)へのこだわりを見せつけられると、なるほど、頭で理解している以上に、この国では「食べる」ということが人生で大きな意味を持っているんだなぁ、と改めて気づかされる。

 例えば日本人が出張でこの国にやって来て、朝から工場でいろいろと技術支援をしながら働き、昼休みになった時に「いや、ボクは日本でも昼ご飯は抜いているんで昼食はいらないです。午後から眠くなっちゃって集中力が落ちるんでコーヒーだけでいいです」なんて言った日には、ナショナルスタッフはみんな目を丸くし、食事を抜くなんて貴方は何の為に生きているんですか?くらいの怪訝(けげん)な表情で見ている。食事中に仕事の話を延々とするとか、ひどい場合は食事中に上司が部下に説教を始めるとか、要するに「食べる」という幸せを味わえる人生の貴重で奥深い時間をそんなバカげたことに日本人が費やしてしまうと(昭和の日本人の感覚ではそれほど奇異ではない)、そんな不幸な人たちを不思議そうに同情の眼差しで見つめるのだ。

 或いは、休みの日に街を散歩しているとよく出くわす場面、商店街の店先(歩道の上)に簡易のテーブルと椅子を置き、料理を広げ、その店の家族がそこで昼ご飯を食べている場面があるが、家族で集まって食べるというのは大前提で、その上で、どうせなら外で食事をした方が美味しいぞ、ぺちゃくちゃ喋りながらみんなで食った方が美味しいぞ、外で食っていれば通りかかりの近所の連中もやって来て、もっと賑やかに、もっと楽しく、だからもっと食事が美味しくなるぞ、みたいな人生の知恵が根ざしているみたいで、僕は横目でそれを見ながら歩き続け、そんな事を考えている。

時代は変わり、生活は豊かになり、子供たちは日本と同様にスマホの中で生きているのかもしれないが、相変わらず、休日の昼ご飯時にはそんな店先の家族の風景が、まだあっちこっちで見られるのだ。そしてテーブルの上に並べられた金属製(ステンレス)の食器には、家族が作ったローカル飯(野菜の炒め物など)が入っていて、みんな美味しそうに箸で食べている。

 さて、2回目の駐在が始まって2か月が過ぎた。朝から晩まで中国語の中で生活していると、その反動かどうか分からないが、無償に英語が聞きたくなって、休日にはテレビで古い洋画を見る時間が多くなった。「シェルタリング・スカイ」もその一つだ。

ベルナルド・ベルトリッチは学生時代に大好きだった監督の一人だけど、そして片っ端からその作品を見たけど、「シェルタリング・スカイ」だけは見ていなかった。理由は忘れてしまった。多分、とんがっていた若者の感性の中で、あんまりにもこの作品が有名でメジャー過ぎて、敢えて避けていたのかもしれない。

一方、今は僕はただの平凡なオッサンとしてヒーヒー言いながら異国の地で働いているので、何のわだかまりもなく、素直に、「お腹いっぱいでちょっと気持ち悪くなって来たので、中国語以外の言葉が聞きたいのです」という具合に、若かりし頃のマルコヴィッチの呻くようなアメリカ英語をソファーで寝そべりながら聞いている。音楽を聴くように映画を見ている。すっかり年齢を重ね、気兼ねせずにこだわりなく何でも(中身やジャンルを気にせず)ぼんやり鑑賞できるというのは、とても幸せなことである。

 作品の舞台は第二次世界大戦が終わって間もないころの北アフリカだ。

アメリカ人の金持ち夫婦が、要するに暇と金を持て余した倦怠期の夫婦が、広大な砂漠の風景を旅するロードムービーだ。教授の音楽はもちろんだけど、何しろ映像が美しい。ベルトリッチ監督のような天才を生み出すイタリアという国は、美しさの追求、という点で群を抜いていて、ファッションにしろ車にしろ、世界のみんながこりゃかなわないなぁ、なんてため息をつくのである。ルネサンスを持ち出すまでもなく、歴史が違うのだろう。そんな美の追求の天才を次々と輩出するお国柄を反映して、ベルトリッチ監督はこの作品の中で、戦後間もないアフリカ、まだ未開で不毛で、だが同時に豊穣(ほうじょう)たる砂漠とそこに生きる人々の様子を、途方もなく美しい背景として、登場人物の向こう側に延々と映し出して行く。

 さて、この映画のテーマだけど「彼らは時間の経過を無視するという致命的な間違いを犯した」という出だしに登場する老人の言葉が全てだ。夫婦は倦怠期だから繰り返される全てに嫌気がさしていて、出来れば同じ行動はしたくない。妻は夫の夢の話に吐きそうな退屈を感じ、夫が車で移動するなら列車での移動を選び、ホテルで宿泊する時も部屋は別々にする。

が、相手を死ぬほど愛しているのだ。好きで仕方ないのである。そして退屈で仕方ないのだ。

だから、荒涼たる砂漠の大地に二人でやって来て、その広大な異世界の風景の中で、二人は熱烈に抱き合う(有名なシーン)。

二人はなぜ抱き合えたのか?それは、日常とは異なる大自然の中にあって、時間の無限を感じ、空間の無限を感じたからだ。無限へのあこがれは、世界や人生に倦んだ人間が志向しがちな魔物である。世界や人生の虚しさから守ってくれる(シェルタリング)砂漠の上の空は、ずうっと二人の向こうまで広がっていて、だから自分たちは一瞬だけ救われると錯覚したのである。

 でも世界や人生は無限ではない。時間の経過によって全てが移ろい行き、僕たちはいずれ消え行く。だから時間の経過がある以上、毎日繰り返される相手との会話も、一緒に過ごす食事の時間も、二人で車窓の風景を眺める沈黙の時間も、全て無限に繰り返されることはなく、いつか決して取り戻せない、どんなに泣いても願っても取り返しがつかくなる、実はそんな貴重な時間なのである。だがその事を忘れ、時間の経過を無視し、永遠に続くものだと錯覚して日常の繰り返しに退屈を感じ、無限へのあこがれを希求してしまうと、結局のところ「致命的な間違い」を犯して人は破滅する。「永遠になった」人間はだいたい幻想に埋没して死んで行った人間の形容詞だ。三島由紀夫もそういうカンジだったのかなぁ、なんていつも考えている。

 だから、僕たちは無限や永遠へのあこがれをもちつつ(それは人間の性だけど)、それを実践してはいけない。つまり時間の経過から目を背けてはいけない。我々は有限の生だからこそ、その瞬間に感謝の気持ちを持てるのだ。だって無限とか永遠って、要するに死=無の世界だもの。

 いやぁ、いろいろ苦労もしたけど楽しかったなぁ、一通り人生の酸いも甘いも味わって、なんとか無事に生きて来れたなぁ、マジで死ぬほどキツかった時もあったけど、逆にマジで天国!ってくらい幸せなこともあったし、ウン、なかなかよかった。あとはこっからは自分の体のあっちこっちが悲鳴を上げるのをなだめながら、ごまかしながら、まっすぐ死に向かって行くだけだなぁ。でもまぁ、いいか、楽しかったし。ありがたい話だ。

という平凡な中年の境地は、満たされた気分のまま、この有限の生に絶望せず、一方、死という無限の無機質な虚無に恐れをなすこともない境地だ。年齢を重ねて行くうちに、決してロマンティックな形でも英雄的な形でも何でもなく、普通のオッサンとして永遠になる、という境地である。三島由紀夫のように英雄的に永遠にならなくても、フツーのオッサンとしてだらだらと一生懸命生き、生き抜けば、そんな感じの肩の力が抜けた感じで永遠になれるのである。だから僕たちは、時間の経過をしっかり受け止め、毎日を生きて行けばいいのである。毎日繰り返される相手のコトバに、何気ない優しさに、それがいつか失われるものだと覚悟して、しっかり味わい感謝すればいいのである。

大半の人間は、無限にあこがれつつ、有限の生を生き、そのくせ有限であることを忘れて、まるで無限であるかのように繰り返しを退屈に感じる。

上手に生きる人間は、生が有限であることを思い続け、この繰り返しがいつか無限に無くなることを意識し、だからこそ感謝の気持ちをもって日常を繰り返せる。退屈なんかしない。

「俺は、今日が死ぬ日と毎日思って、その日を後悔ないように生きるようにしている」

大切な古い友人がメールで書いて来てくれた言葉だ。幸せに生きる人間には理由があるということ。

 有名な「ご飯食べたか?」という中国語は、デジタル化が進みすっかり様変わりしたこの国にあってもまだ基本の重要な挨拶だ。頻繁に使用される。それくらいこの国の人たちは「食べる」という毎日の繰り返しに対して、それをとことん味わって楽しみ尽くそうと貪欲であるということだ。そういう文化(知恵)なのである。だから「日本でも昼ご飯は抜いているんで・・・」なんて言おうものなら、貴方の人生はそれでいいの?くらいの見方をされるのである。

 僕は今日も、休日の昼間の街を歩いている。

店先にテーブルを持ってきて、そこで賑やかにローカル飯を食べている異国の家族たちを横目に、テクテクと歩いている。そしてあの映画の主人公の夫婦の末路を思い出し、自分自身のこれまでの人生と、毎日一緒にご飯を食べるというささやかな繰り返しの一部さえ失わせてしまった、自分の家族のことを思い出している。

電気自動車に乗りながら窓の外の風景を眺め、やっぱり数十年前にホリエモンが叩き潰された時点で、僕たちの国の運命は決まっていたんだなぁと思ったこと

2023/07/11

 ほぼ10年ぶりの駐在先は山奥の田舎の町で、上海などと比べると都市とは言えないくらいどっぷりローカルな場所だ。それはいい意味でかなりのローカルということ。スタッフに招かれて行った地元の料理店で、僕はその迫力のある料理の数々と対面して、改めてこの異国の地方に久しぶりに戻って来た事を実感した。

が、一方でこの国のこの10年の変化は日本の30年分に等しく、生活の利便性向上は、システム化、デジタル化、EV化を軸に進み、既に日本のずっと先を行っている。

 当たり前の話で、若い年齢層の消費性向とか需要に対応する形で、この国は技術を発展させ社会の仕組みを作って来たからだ。要するに「携帯電話で全てが解決する」そんな便利な世の中である。

2000年代に当時はまだ世の中では「若手」だったホリエモンがそんな時代が来ると公言してたなぁ、そのあと結局、日本では技術やアイデアはあったのに年寄り達のお気に召さなかったせいでなかなか実現せず、今も社会のデジタル化なんて、マイナカードがどうたらこうたら言っているうちに、海外勢に市場がどんどん食われ続けているなぁ、なんて思いながら、こちらで新しい生活に慣れようとしている。

 そう、この数十年、日本で若手が思いつきそうな新しい技術やアイデアは、常に自治会の「回覧板の人たち」に潰されて来たし、その結果がこの笑ってしまうような逆転現象だ。デジタル化に向けた政府のてんやわんやなんて、世界中のどこへ行っても、恥ずかしくて言えない。そんな前近代的な問題が本当に日本にあるの?くらいの顔をされるのがオチだ。それくらい我々の国は取り残され、堕ちてしまっているのである。

例えばタクシー。

中国ではもはや流しのタクシーなんてほとんどいない。そんな運転手にとっても客にとっても効率の悪い商売の方法は存在しない。客側が自分の携帯に行き先を入力すれば、GPSで自分の立っている場所に一番早く来れるタクシーが自動的に選ばれやって来る。携帯の画面には、やって来るタクシーの車種、ナンバープレート、運転手の名前と顔写真とその運転手のみんなの評価が表示され、地図上で今どの場所にいてあと何分でやって来るか、リアルタイムで示され続ける。そしてだいたい2~3分くらいでタクシーはやって来る。逆に言えば、僕がどの場所にいて、どこからどこに移動して、というのも含め、何もかも、がっつりデジタルで管理統制されているということだけど、だからどうしたの?って具合で僕は全然気にならない。

そういや、日本を出国する時に荷物が多いから家から駅までタクシーを呼んだっけ。。電話で呼んでもなかなかやって来ず、1時間くらい待たされ、そのくせ到着した駅前のロータリーには、客を待つタクシーの列と、暇そうにコーヒーを飲んで待っている制服姿の運転手たちの姿があった。

日本で個人情報がどうたらこうたら言っているうちに、デジタル化され社会の仕組みごと効率化された中国が、はるか我々の先を行っているのである。生産性が低い、なんて仕事のやり方だけにとどまらず、こんな生活の一つでも露呈するのだ。日本のあの駅前の制服を着たタクシーの運転手たちの暇そうな様子を、なんとなく暗い気持ちで思い出しながら、僕はタクシーの窓から異国の街の風景を眺めている。

例えばお金。

中国ではもはや現金をほぼ使用しない。全て携帯電話で決済するのだ。もちろん現金も使用出来るけど、ほぼ全員が携帯で決済するので、現金を使うとお釣りがないとか、お釣りのやり取りをするのが面倒とかで、ものすごく嫌な顔をされる。だから、こちらで携帯電話を入手し銀行口座を開設するまでの3週間は、本当に肩身の狭い思いをした。町のちっちゃな雑貨屋でティッシュ一つ買うのも携帯で決済するのが普通である。ドアもエアコンもないどローカルな定食屋でご飯を食べた後も、お勘定をする時は携帯電話でレジの横のQRコードをスキャンして、支払いを済ませるのだ。お年寄りから子供まで、誰も現金を持ち歩かず、徹底している。財布を取り出して現金で払おうとする行為が、ものすごく恥ずかしいのだ。

携帯でタクシーを呼び、携帯で全ての買い物、食事の支払いを行い、携帯で部屋の家電のスイッチを入れたり操作の予約を行い、携帯で買った通販の家具を組み立てる時は、箱に印刷されたQRコードを携帯でスキャンすると、自動でビデオ映像が始まって組み立て方の説明をしてくれるので、それを見ながら組み立てる。特に、家具の組み立てについては、紙に書いた説明書のイラストなんかよりずっと分かり易いし(僕は日本ではこれが苦手だった)、まさにペーパーレスだ。

なので、20年前にホリエモンが言っていたけど潰されて実現しなかった社会、要するに携帯電話で全ての生活が成り立っている社会がここにあり、そしてそういう新しい社会に対応した新しい需要に対するサービスがまた生まれ、洗練され、いつか後れを取って後を追いかけて来た外国に販売されるのだろう。その速度は圧倒的だ。僕たちはまた、ドローンなんかと同様、かつて商業用で高度な基礎技術を持っていたのに、好奇心をもってその使い方を考えても、誰かの既得権益で国内ではすぐに実現せず、そうこうするうちにもっと魅力的で利便的で安価なその技術の活用方法を思いついた中国人から、お金を払ってその財やサービスを買うことになるのだろう。我々は、この類(たぐい)の間の抜けた事をやり続けてもう20年近くがたっている・・・・

 第二次世界大戦が終わった直後、日本の平均年齢は23歳だった。一回焼け野原になって、そこからは全てがゼロスタートだから、余計なプライドとかこだわりは無くてよかった。いいものはどんどんマネをすればいいのである。便利なものはどんどん取り入れればいいのである。

外国人(自分たちのほうが日本より文化が進んでいると思い込んでいた白人たち)から「猿真似」と言われようと、「美的センスがない」と言われようと、好奇心をもって外国の新しいものをどんどんマネし、取り入れて不都合があれば自分たちなりに改善し、どんどん発展させて行ったのだ。加藤周一はそれを雑種文化と言ったけど、それは合理的な考え方(いいものはどんどん自分たちなりに取り入れればいいじゃん)に基づくものであり、日本に決して独特のものではなく、要するに若手の柔軟な発想が幅をきかせる社会であれば、いつでも実現するのである。

が、自動車の猿真似(1960年代くらいまでの日本の昔の車は見た目がことごとくアメリカ車ヨーロッパ車のコピーだった)をし続けた日本人は、いつの間にか世界を追い越し、先頭を走り、いつの間にか全員が老いて、平均年齢は50歳となり、「自分たちの文化が進んでいる」と思い込んだまま、今は世界から取り残されている。

平均年齢が50歳ということは、仕切っているのは70歳以上の連中ということだ。駄目だこりゃ。

 ところで、電気自動車がガンガン売れているこちらの国にあって、携帯電話で呼んだタクシーのかなりの割合が電気自動車だ。電気だからものすごく静かだし、乗り心地も全く問題なく、あぁやっぱりこれが将来、僕たちの国に乗り込んで来て席巻し、かつて80年代にアメリカで日本車がやったように、日本の市場から日本車を駆逐し、多くの日本人の仕事を奪うのかなぁ、なんて半信半疑で考えている。

かつてアメリカ人が「やっぱり車はアメリカ車だ。日本車なんて安っぽいしパワーが全然ない」なんて言っていたように、これからは年寄りになった僕たちが「やっぱり車は日本車だ。中国車なんて安っぽくて運転しにくい」なんて瘦せ我慢を言いつつ、既に家電の一種になった自動車の購入の選択の一つとして、若者たちが安くて品質のいい中国車を気兼ねなくガンガン買うのを苦々しく横目で見る時代が来るのかもしれない。(僕たちが年寄りになった時のありがちなステレオタイプかもしれない)

で、タクシーには、何かと話題のBYD(中国の電気自動車メーカーの最大手)の車も走っており、初めて乗ったときはちょっと感動して思わず写真を撮ってしまった。

運転席を見ると、インパネがないに等しいくらい小さくて、その代わり、センターに無骨にディスプレイがドカンと取り付けられている。

あれ?テスラのマネでは?

なんて言ってはいけない。猿真似とか美的センスがないと言い出したなら、かつての誰かさんたちと同じになるということ。いいものはどんどんマネをして取り入れて何が悪いの?問題があれば都度、自分たちなりに改善して行けばいいじゃん。

そういう明るい発想は、年齢を重ねた人間たちからは生まれにくいのである。

 そして、僕のいるこの異国も、いつかは年齢を重ねた人々が中心となり、若手のアイデアが幅を利かせなくなり、隣の年老いてしまった島国と同じプロセスを辿るのだろう。そのプロセスは高齢化という一種の現象であり、誰に罪があるわけでもない自然災害であり、何をどう頑張ってもみんなの生活が厳しくなって行く長い苦難の道である。若手が頑張ってみんなの生活が豊かになったけど、豊かになればやっぱり子供に高いレベルの教育を受けさせたいよね、じゃあ、お金かけたいからあんまりたくさん子供は欲しくないよね、だって今の豊かな生活レベルも落としたくないしね、なんて言っているうちに始まる東アジアの定番プロセスだ。

 僕が住むマンションの向かい側に地元で最も優秀な子供たちが通う中学校があり、夕方になると校門の前の大通りには、電気自動車で迎えに来たたくさんの親御さん達が、路上で列をなして待っている。携帯電話で株の相場を見たり、これから買うマンションの情報を見たり、子供の学習塾を探したり色々だけど、教育熱心でギラギラしたそんな親たちの様子が、ちょうど僕たちが子供時代に見た様子に重なり、なるほどねぇ、なんて思うのだ。まさに僕たちが子供時代に、国の経済が最盛期を迎え(内実はともかく)、受験競争は熾烈を極めた。

時代が本当に大きく変わってしまったことを、そして同じことが東アジアで繰り返されつつあることを、日本から数千キロ離れた田舎町で、知識というより生活の肌感覚で、僕は体感し続けている。

機内食を食べながら「無限の青」を眺め、でも結局この地面にへばり付いてうたかたの命を生きて行くんだなぁと異国の地でしみじみ思ったこと

2023/05/16

 いよいよ出国することになった。いろんな意味で長い旅になりそうだ。まだまだパンデミックの影響で現地への直行便が極端に少なく、会社の指示で僕は関西国際空港でもセントレアでもなく羽田から飛ぶことになった。しかもフライトの24時間前にPCR検査を受けて陰性証明だった旨を渡航先の税関の入国システムに登録して、携帯にQRコードをダウンロードして、なんて面倒くさいったらありゃしない。去年、アセアンへ飛んだ時もさんざん面倒くさい手続きをして出張したけど、既に世界はアフターコロナとか言っているのに、まだこんな面倒なことを、と思いながら僕は粛々と手続きを進めて行った。

 羽田なんて何年ぶりだろうと懐かしい思いで駅に降り立ち、隣接してつながっているホテルにチェックインしてベッドにゴロンと横になる。

見送りに付いて来た家人は、僕のそばに座って、羽田の3つのターミナルそれぞれに入っているたくさんの料理店を検索し、さて、この人が飛び立つ前に何を食べさせてもらうか、なんて真剣そのものの眼差しで携帯をのぞき込んでいる。こんな面白い食いしん坊さんの様子も、これからはリアルでは見れなくなるんだなと思うと、ちょっと寂しくなって来た。

いいよ、いいよ、いくらでも好きなものを食べなされ。

 ところで、「日本の風景」なんて感じの写真を撮っておいて、向こうでの新しい生活が始まってから時々恋しくなったら眺めようと思ったから、実はこの数日、携帯で何枚か自分なりの写真を撮った。もちろん観光地のようなコテコテの日本の風景なんかじゃない。僕にとっての日本の風景だ。

地元の海を撮り、よく家人と行くドライブコースの山の風景を撮り、夕暮れ時の城跡の公園の小径(こみち)を撮った。そして最後にちょっと遠出して、お気に入りの寺で一枚パシャリと撮影した。

古都の古寺(聖林寺)の本堂から三輪山を望む眺望だ。静寂に包まれた空間の向こうに、はっきりと僕は日本の美しい風景を目にし、必ず無事にこの国に戻りたいと願った。僕は家人と縁側に出て、長い間、透き通るような空気に満ちたその風景を見ていた。

惜別(せきべつ)の時間はたつのが早い。見つけた空港内の料理店で食いしん坊さんのお腹を満たし、そのあとターミナルのあっちこっちにあった空弁(空港弁当)の自動販売機を見て二人で大はしゃぎしているうちに、夜になってしまって、二人で眠りに落ちたらすぐ朝だ。

朝ご飯を食べ、チェックアウトして直ぐ出たところのカウンターに向かい手続きを済ませた。

「じゃあ、行くよ」

「・・うん」

向こうに到着するのは夜中だ。きっと家人は起きているだろうから、ホテルに着いたらスカイプで少しだけでも話そう。もうちょっとあの子の顔を見ていたかったな、あぁやっぱこの瞬間は慣れないんだよなぁ・・・なんて浮かない気持ちで搭乗口へ歩いて行く。

パンデミックの影響もあり、飛行機に乗るのも1年ぶりだった。地上から機体が浮き上がった瞬間、胸の内で、さよならって言った。いつもの祈りだ。また必ずここへ戻って来る。

 なんだかんだ言って朝ご飯から結構時間がたっていて、僕は出てきた機内食を堪能することにした。当面はまっとうな日本食が食べられないから、しっかり味わっておかないとね。

ふと窓の外を見ると、雲の上に青空が広がっていた。飛行機に乗るたびに目にするいわば見慣れた風景だけど、やっぱり僕は心を打たれる。つい見とれてしまう。それは地上から人が見上げる青空の青ではなく、本来は人間の身体能力に限界があって(人は自分の身体では空を飛べない)立つことが出来ない場所から眺める、雲を突き抜けたその向こうに無限に広がっている青空の青だ。僕はそれが「無限の青」だと思っている。雲の上に行かないと見れない、宇宙へ飛び出して行く飛行士が一瞬目にする、ずうっと限りなく続いて行く青色が、窓の向こうに広がっていた。

 宇宙に飛び出して行った時に、昔の多くの飛行士たちは人生観が変わったと語った。なぜか?

今じゃ自分が一生体験出来ないような事も、YouTubeなんかの映像を見ていくらでもシミュレーション出来る時代であり(実際に体験したような気になれる)、僕たちはもはやどんな映像を目にしたってなかなか「人生観が変わった」なんて体験はしにくいが、それでもこの「無限の青」を見ると、あぁこの更に上に向かって宇宙飛行士たちは飛び出して行き、そこにもっともっと突き抜けた空間があって、無数の星々があって、どこまでも続いて行くその世界を目の当たりにした彼らは、「無限」とか「永遠」というコトバの意味を、きっと脳みそではなく身体で体感するのかもしれないなぁ、なんて思った。そりゃ人生観も変わるだろう。「無限」や「永遠」は、その反対側にいて地面にへばりつきながら生きて死んで行く我々人間にとって、いわば自分たちの生を逆照射する概念である。

僕たちはどうせ、一時(いっとき)は飛行機に乗ってこんな美しい無限の空の青さを眺めることが出来ても、また地面に降りて、そこでへばりついて有限の生を生きて行かなければならない。

 久しぶりに降り立った上海は予想通り蒸し暑かった。ここから更に飛行機に乗って内陸に向かう。浦東から虹橋空港へ向かうタクシーの中から、僕は外の様子を眺め、高速を並走する現地の電気自動車の群れを眺め、これからの新しい生活と仕事のことを考えていた。それからふと我に返り、家人はもう新幹線に乗って家に帰ったかな?それともまた「空弁は冷凍食品だからお家で保存できるの。だから自分のお土産に明日いくつか買って帰る」なんて言っていたから、あの後で空港ターミナルをもう一度ウロウロして楽しんで、それから帰る途中だろうか?

いかんいかん、さっそくホームシックになりそうな自分の横っ面を心の中で叩き、僕は前を向いた。

長い旅になりそうだ。でも「無限」でも「永遠」でもない、命という一瞬のうたかたの時間だけである。この異国の地で僕は、かつ消えかつ結びて、結局のところ、久しく同じ場所に留まることにもならず、またいつかあの老いた小さな国に戻るはずだ。それまでは頑張らないとね。

さっき見た無限の青を思い出しながら、僕はそんなことをぼんやり考えていた。

まだスタート地点にも立っていない不安定な気持ちの一日が、こうして静かに過ぎて行く。

再びアジアの山奥へ行けと言われて慌てて準備し、いつの間にか半世紀近く生きていたので、改めてしみじみ人生を振り返ったこと

 再びアジアの山奥へ行けと言われて、家に帰ってからその旨を家人に伝え、あらびっくり、と言っているうちに、一週間もしたらまた呼び出され、ちょっと事情が変わって、アジアの山奥じゃなくて南方の海の上にある国に行けと言われたので、家に帰ってからその旨を改めて伝え、あらそれまたびっくり、と言っているうちに、さらに一週間したらまた呼び出され、やっぱりアジアの山奥へ行けと言われた。

話が二転三転するからもう家人はびっくりしない。要するにまた貴方はノートPCのディスプレイの向こうに行くのね、とこちらを見ないで言っている。

ウン、ごめん、Skypeで話すにも何かとノートでは持ち運びに不便だろうから、タブレットを買ってくるよ、もし自治会とかでタチの悪い連中に君が絡(から)まれても大丈夫、そのタブレットを取り出しな。僕が「タブレットおじさん」として画面の向こうからちゃんと言ってやるよ。

「情報収集にはやっぱり紙に文字が書いてある回覧板が大切だとか、無償労働でゴミ当番しろとか、どうせ十数年でアンタたちが施設に入る頃には、全部それらはなくなって廃止か外部委託されているのだから、我々の世代にあんまり面倒をかけさせないで欲しい。すでにこんなに税金を納めているのに、フレックスを使ってゴミ当番してから働きに行けとかマジで許して。どうせ僕たちがアンタたちの年齢になる頃には、下の世代にそんな類(たぐい)の自分たちの要望を出したって、はぁ?って言われるだけなのだから」

ウン、この国(自治会)の主権者(権力者)たちに毅然と僕がそう言ってやるから安心して、なんて話を逸らしてみたが、無理な話だった。そんなに甘くはない。

やっぱり家人は向こうを向いている。

 という具合に時間がたち、会社では業務の引継ぎも終わらせ、ビザ取得のための健康診断、書類の提出、手続きの為の出張とかやっているうちにゴールデンウィークとなり、それが明けたらフライトすることになってしまった。あっという間だ。この数カ月、土日のたびに買い物とか荷物の取りまとめとか準備していたから、二人で旅行に行ってゆっくり話す時間もなく、もう来週には行かなければいけない。

ご機嫌をなんとか直して頂きたいのですが・・・

「どこか旅行に行こうか?」

 僕は去年のゴールデンウィークを思い出していた。確か夜中に気まぐれにドライブを始め、そのまま行き当たりばったりで諏訪湖まで行って、諏訪湖の湖面の美しい朝の光景を見ながら車で居眠りをしたっけ?家人は助手席でお菓子を食べながら、コンビニで買ったマンガを上機嫌で読んでいた。ずっと笑っていた。そしてそのまま白馬へ行ってやはり美しい風景を二人で眺め、嬬恋へ向かった。

楽しかったなぁ。

「今年はどこも人だらけだからいい。遠くには行きたくない」

ということで、僕たちはゴールデンウィークの真っただ中に近所でランチを食べ、すぐ近くの海へ散歩に行くことにした。本当に普通の休日の普通の過ごし方だ。が、それがもう貴重な時間になってしまった。

青い海と青い空が重なる光景が好きだ。

僕はこの海を見て子供時代を過ごし、ここで育ち、思春期になってこの海があるこの町の中途半端な地方都市ぶりに怒りを覚え、大学から東京へ飛び出して行き、東京で働き、果てしない上の世界と、果てしない下の世界があることを体感して、若者なりに世界の広さ(=自分の小ささ)を知り、そのあと父親が死んで、またここへ帰って来た。

そして今から行くのは海からは千数百km以上離れた内陸の、海のない異国の街だ。

 僕は家人と手をつなぎ、5月の気持ちのいい風を受けてゆっくり浜辺を歩いている。海は荒ぶるときこそ真っ黒になって牙を剥くけど、晴れた天気の良い日には、穏やかな表情で迎え入れ、僕たちを包み込んでくれる。

 4歳の自分。従兄弟たちと一緒に泳いでいる。季節がお盆近くになっているから既に波は高い。一瞬、溺れかかった僕の腕を、父親の大きな手がしっかり握りしめ、水中からまた夏空の広がる地上へと引っ張り上げてくれる。あの時、ものすごい力の波に引きずり込まれながら、死ぬってこういうこと?って感じた生まれて初めての瞬間だった。僕の腕を持ち上げた父親は、大きく笑いながらそのまま僕を背中に乗せて、浜辺へゆっくり歩いて行く。海辺には貝を焼く醤油の焦げた匂いが広がっている。

 11歳の自分。明け方に兄貴といっしょに冷たい冷たいと言いながら、腰まで海に浸かって足踏みしている。カレイの稚魚を採りに来たのだ。こうやって水中で足踏みしているうちに、やがてどちらかの足がヌルっとしたものを踏む。僕は兄貴に目配せし、兄貴は水中に潜って僕の足の裏にいるカレイの稚魚を手づかみし、取り上げ、持ってきたバケツに入れる。稚魚は母親の手でそのまま唐揚げにされるか、朝食の味噌汁に入れられることもあった。兄弟はそのまま日が昇るまで採り続け、バケツの底が見えないくらいになったら両親の待つ家に帰って行く。

 14歳の自分。学ランを着たまま、幼馴染と待ち合わしている。自分も幼馴染もどんどん変わって行く自分の体と心に戸惑い、興奮し、コントロールできず、会えば延々と終わらない話を冷たい海風に吹かれながら堤防の上で喋っている。自分たちが何をしているか分かっておらず、世界がどんな風な仕組みで動いているかも分かっておらず、ただ込み上げる欲動に振り回され続け、だからこそごく普通に思春期をやっている。

 17歳の自分。一人で海を見ている。誰とも話したくなく、怒りに包まれ生きている。世界がどんな風な仕組みで動いているか、自分の恐ろしく狭い視野の中で考え抜き、考え抜いて見えて来た世界は恐ろしく狭い現実の一部でしかないのだけど、それが世界の全てだと思い込んで怒りを感じ、その中で生きて行くことに怒りを感じ、海を見ている。目の前に映る海の光景が美しかろうと、天気が悪くて荒れ狂っていようと、あまり関係はない。怒りの檻(おり)の中にいるから、外の風景は同じにしか見えていない。地方都市にいがちでありきたりな進学校の学生の一人だ。

 25歳の自分。そこは育った町の海ではなく、都心から車で数時間、車を走らせてやってきたリゾート地だ。若者にとっては厳しい時代を生きているけど、休日は思い切り楽しめばいい。ちょっとだけお金も持ち始め、心も体もクライマックスの時期だ。柄にもなく流行りのスタイルをちょっとだけ取り入れたラフな格好をして、格好をつけてビーチに置かれた白い椅子に深々と腰かけ煙草を吸っている。要するに無敵の時期だ。疲れを知らず、疲れたらいくらでも眠れる。夜の浜辺で酒を友達と飲んで大騒ぎし、コントロールし切った自分の心と体を使って、心と体の快楽を思い切り楽しんでいる。

 31歳の自分。また一人で海を見ている。またこの海だ。育った町の海だ。朝から母親が祖母のいる施設へ見舞いに行くのに車で送ってあげ、実家へ帰して、そのあと一人で自分のアパートに帰る途中、なんとなくやって来た海だ。缶コーヒーを飲みながら、ゆっくり秋の浜辺を歩いている。高い空とまだら模様の雲が頭上いっぱいに広がり、若くもなく、年寄りでもない僕は、何も考えず、未来も想像せず、想像したいとも思わず、心を閉じて歩いている。

 35歳の自分。家人と手をつないで白い砂浜を歩いている。家人はずっとこっちを見て笑っている。よく笑う人だ。そして僕はこの人の声が大好きだ。もう一度開いた自分の心で僕はこの人と向き合い、手をつなぎ、青い海を眺め、もう一度未来を想像し始めている。買い換えたばかりのガラケーで撮影した家人の笑顔の向こうに、春の生ぬるい風が漂う白い海が映っている。

 40歳の自分。この海で家人と浜辺に座り、花火を見ている。周りも人でぎっしりだけど、僕たちは夕方にはここへ来て一番よく見える場所を取ってあったから、最高のポイントから花火見物を楽しめる。家人はさっき出店で買ってきてあげたブルーハワイのかき氷を食べつつ、時々びっくりするくらい大きく開く花火に歓声を上げ、こっちを見て笑う。最初の海外赴任から帰って来てまた一緒に生活を始め、漸く新婚時代を取り戻すかのように始まった日々の最初の頃の話だ。すっかり中年になった僕は、家人の背中と、夜空に広がる花火の光の渦を眺めながら、これから始まる私生活の楽しみと、平日の仕事の難しさを思い出し、やっぱり未来を想像している。

 もうすっかり年を取って中年どころか老境の入り口に入ろうとしかかっている自分が、人生100年だなんて悪夢のような話だけど、そしてたいていはピンピンコロリと逝けないみたいだけど、最後の最後まで時代の波に飲まれ、もがき、生き残り、大切な人たちを支え、そう、支え続けて行かなければ行けない。

年をとって体力がなくなったとか、もう目が見えにくいとか、腰が痛いなんて言っていられないし、そんなことは許されない時代に入って行くのである。そんなのが許されたのはこの国の歴史上、奇跡のように世の中が繫栄し、一瞬、貴族階級の世代(回覧板の人たち)が発生した一瞬でしかない。歴史はまた元に戻って行くのだ。

80年前に少年だからと言って許してもらえず戦場に駆り出され人が死んで行ったように、今度は年寄りだからと言って許してもらえず最後まで戦場に駆り出され僕たちは死んで行く。だから頑張って働かないとね。

なんてテキトーな話をして海辺で散歩しながらなだめてみたけど、家人のご機嫌は直らなかった。海の向こうを見ている。

 ところで、我々人間が海に惹かれるのには科学的根拠があるらしい。そもそも我々を含め生命は海で生まれたし、我々人間の体を構成する成分と海の成分はよく似ていて、胎児の頃に我々が浸かっていた羊水の成分は海水の成分とほぼ同じ、それから、海の青さを見た時には、我々の脳みそはセロトニンを分泌するので、自然にリラックスできるとのこと。

なるほどね。どおりでついついここへ来てしまう訳だ。

これまでの人生を振り返り、その折々(おりおり)の気持ちの中で、幸せだろうと不幸だろうとそのどちらでもなかろうと、僕は海を見に来ていたんだなと思った。そしてその青さを見ているうちに、僕はまだ無事に生き延びており、普通に生きて来られ、普通の人生をいろいろ味わせてもらえたなぁ、なんて急に感謝の気持ちでいっぱいになって来た。僕の人生に関わってくれたみんなに対して、感謝の気持ちでいっぱいだ。

ありがとう。

どうも国を離れる時は、感傷的になっていけない。

「あのね、画面越しだけでは嫌だから、やっぱりしょっちゅう会いに行くことにした」

「あぁ、遊びに来るんだね」

「うん、タブレットおじさんだけではダメ」

「分かった」

夫婦の他愛もない会話である。家人がようやくこっちを見て笑ってくれた。そして今も未来を想像している自分の境遇と、そうさせてくれたこの人に感謝だ。

ありがとう。そしてこれからも宜しくね。また必ずこの海に来て二人で真っ青な海と空を眺め、一緒に手をつなぎ散歩しよう。

素敵な休日だった。僕たちは手をつないで砂浜を歩き続けた。

生まれて半世紀近くになり始めたロストジェネレーションの一人が、もうすぐ国を離れる。

ここはまだ、頭上いっぱいに青空が広がった海の見える、僕の故郷(ふるさと)だ。

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