失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

大河ドラマを見ながら、ぜんぜんそんなシーンは出てこないのにむしろ戦(いくさ)のことを考え、僕たちは六道をしっかり生きて行かなきゃなぁと思ったこと

2024/06/17

 人それぞれなのかもしれないが、異国にいると尚更、やっぱり日本的なものがいいなぁ、なんて求めてしまう部分がある。

僕のいる東アジアの山奥の街は日本人がほぼいないところだから、やれ日本人同士でツルんでゴルフだ、飲み会だなんてな機会が無いぶん楽だけど(そういうのが一番アホくさくて嫌だ)、その分、街のどこにも日本的なものが存在しないので、どっぷり海外生活って感じで楽しい代わりに、時々はさすがに日本的なものが欲しいなぁ、なんて思うのだ。

 先日、骨付きの鶏肉(地元料理)を食べていたら、パキッて音がして奥歯の被せものが割れ、やばいなぁ、この歯はやっかいな歯で、下手に治療するとまた虫歯が再発して、いよいよ「抜かないとダメです」まで行きそうな歯なんだよなぁ、と思ったから、やむを得ず日本のかかりつけの歯科医院で新しい被せものの型を取る為に(型を取っておいて、来月に休暇帰国の予定があるので、その時に新しいものを被せてもらえるように)、ほんの一瞬だけ強行日程で一時帰国した。

 そのとき日本の家で朝ご飯に食べた納豆が、涙が出そうに美味しかった。お務め(懲役)を終えてシャバに出てきたオジサンが、食堂で久しぶりに飲むビールの味に涙ぐむのにほぼ等しい。そんな感じである。

もちろんこの異国の地でも取り寄せれば納豆も食べられるが、1個(3パック入り)で1,500円くらいするので、しかも冷凍された賞味期限切れのもので非常にマズいので、納豆なんて上海とか大都会へ出張に行って日本食を食べる時以外は、ほとんど食べないのだ。

 どんなに頑張って箸でかき混ぜても、日本のスーパーで売っている納豆みたいに、しっかりと糸を引いてくれない。本当は納豆が大好きなんだけど、まぁ仕方ないや。

 ということで、休日に見るテレビはネットの日本の番組が多く、どっぷり日本的に大河ドラマを見ている。今年の大河ドラマ平安時代が舞台となっているから、ストーリーとかは別に気にせず、時代考証を楽しんでいる。

さすがに大河ドラマだけあって、衣装とか建物とか儀式とか、ちゃんと専門家が考証しているので、もちろん議論はあるのかもしれないけど、なるほど、当時はこんな色合いの衣装だったんだ、こんなデザインの建物だったんだ、こんな華やかな儀式だったんだ、なんて思いながら「日本的なもの」を楽しめるのである。

 平安末期に武士が登場してからは、いわば「争いながら直接的な競争を通して利益を手に入れる」という現在の企業活動となんら変わらない時代となり、欲望むき出しの戦国時代を始め面白い時代になったと言えばいえるけど、今と近いだけにちょっと想像がし易い部分もあり、一方で平安以前の時代は、血の高貴さとかで貴族が権力をもって間接的に土地を支配する、ちょっと不思議な異次元の世界が広がっているから、実際にはどんな時代だったの?って容易に想像できない分、再現でもいいからビジュアルで(映像で)当時の人々の様子を見てみたいというのがある。だから、だいぶ前に平清盛が主人公だった大河ドラマも僕は時代考証が大好きだった(放映当時はえらく評判わるかったけど)。

平安以前って、今とは全く違う日本人たちが活躍していた時代の、不思議な時代の物語だ。

 が、変わらないこともあり、それは戦(いくさ)とその結果の悲惨な人々の状況である。

武士が登場する以前だって、戦(いくさ)は、要するに殺し合いのプロである兵(つわもの)たちによってやはり繰り返され、戦禍に巻き込まれた人々は家を失い、餓死や流行り病で次々と死んで行った。

 当時の京都の様子は、もっともっと後の時代の鎌倉時代直前くらいから描かれ出した六道絵巻(病や飢餓で苦しむ人々を描いた地獄絵)で見れるし、僕はそれを大昔に東京の国立博物館で見たことがあるけど、生々しく、おどろおどろしく、本当に嫌な絵だった。マンガみたいでリアリティがないから余計に、その酷い状況が想像できる、そんな怖い絵だったのを覚えている。  

 六道って、天道(てんどう)、人道(じんどう)、阿修羅道(あしゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)の6つの道だけど、生まれ変わって通る道というより、この世で僕たちが生きている世界こそが、この6つの道で出来ていると考えた方がいい。だから実際の平安時代のリアルな人々の様子(戦乱や疫病で苦しんでいるときの)が、全部そこに描かれているのだ。

 今だって、企業の利益活動は、格好いい横文字で社会貢献を取り繕ったところで究極、利益を奪い合う為に戦い続ける阿修羅道である。そして僕たちは畜生道として、他の生き物を滅びるまで獲り尽くして殺して食べ、餓鬼道として出来る限り人より豊かな生活を欲し、仮に人道から天道に足を踏み入れようとも、病を得て意味なく死ぬという事実から決して逃げられない、そんな地獄道を生きている。もちろん、そのいずれの道も、具体的な通行手段として、暴力にまみれた戦(いくさ)が必要になる。

そう、戦(いくさ)は大昔から形を変えて繰り返され、人々の人生を滅茶苦茶にし、そしてすぐにその悲惨さと虚しさはすっかり忘れ去られ、また繰り返され続けて来た。いわば、六道の世界を歩いて行くための、人間の業(ごう)だ。手形でもある。それは時代を超え、国を越え、今も地球の裏側で繰り返されている。

 って見ていたら、今年の大河はほとんど戦(いくさ)のシーンはないことに気づいた。主人公が紫式部だった。そりゃそうだね。平和でよろしい。紫式部はお父さんと一緒に越前へ行ったんだね。おぉぉ、当時の越前ってこんな感じだったの?今は高速道路に乗って真っすぐ琵琶湖の東側を突っ切って峠をあっという間に越えられるけど、当時はそこを歩いて越えるなんて本当に命懸けだったんだね、なんて想像を楽しむだけで充分である。

 僕は数年前に、小浜観光からの帰り道、下道を通って京都方面へ帰ろうと峠越えし、もちろん舗装道路を車で越えるのだから安全なんだけど、それでもクネクネと曲がった薄暗い峠道を運転しながら、道の狭さにガードレールの切れ目から転落しないかとちょっと緊張し、ようやく峠を抜けて京都の街並みを見た時のホッとした気持ちとか、ずっと寝ていた助手席の家人のあの罪のない寝顔を懐かしく思い出していた。まさに海外で日本的なものを味わう効用である。

 やっぱり大河ドラマに戦(いくさ)のシーンは必要?なんて面白くない議論だ(今年の大河ドラマについては、やっぱりそういう話があるらしい)。みんな暴力を見るのが好きだし、そういう意味では、戦争映画を観るのもスポーツ中継を観るのも同じことである。要するに人間は戦(いくさ)が大好きで、それは業(ごう)であり、決して無くならないだろうと、みんな気付いているはずだから。あくまで六道を生きる我々の通行手形なのである。

 でも本当に戦(いくさ)はこの世から無くならないのか?なんてソファに寝そべりながら、そして戦(いくさ)の登場しない大河ドラマを見ながら、のんびり考えてみる。う~ん、どうなんだろう。戦争って種(しゅ)の維持という側面ではあまりにリスクが大きくて、悲惨で、でも本当に解決なんかしない?それが無くなるなんて夢ものがたり?

 テレビの画面の中では、キレイな衣装を着たキレイな面立ちの男女が優雅に抱き合っている。そのまんま夢ものがたりだ。さっきこのドラマが始まる直前の短いニュースでは、やっぱり地球の裏側で家族を殺され、泣き叫ぶ人々のリアルな映像が流れていた。それを僕は、こんな異国の地でぼんやり眺めている。

「行っては駄目、絶対に死んでしまう。行っては駄目!」

15年前に1回目の海外駐在が決まった時、老人ホームへ訪ねて行ったお婆ちゃんが僕の腕をギュッとつかみ、そう言った。もうだいぶ認知症が進んで、既に僕がしょっちゅう会いに来る孫の一人だなんて分からない状態だったけど、仕事でアジアの山奥へ行くって言ったら、それまでアイスクリームを食べてニコニコしていたのに、急に態度が豹変(ひょうへん)し、顔がゆがみ、車いすに座ったままこちらを見上げ、僕の腕をつかんだのだ。

「絶対に死んでしまう・・」

大正生まれだったお婆ちゃんの記憶の中には、第二次世界大戦で南方に送られ、ことごとく死んで行った彼女の大切な人々がいて、その姿が急に蘇(よみがえ)り、目の前にいる僕を見てそう言ったのだろう。みんな笑顔で出かけ、そして骨にさえならず帰って来る。みんな死んでしまう。それが戦(いくさ)だ。

生き残った自分たちはどうすればこの悲しみを癒せるのか?誰も答えを見出せない。意味があったなんて言い出すのは、いつも後世を生きる人々、それも直接痛みを感じる必要のない安全な場所にいる人々だ。いつの時代も、戦(いくさ)はそれを味わった人々の人生を破壊し、苦しみをまき散らし、その悲しみの記憶は、生き残った人々に死ぬまで取りついて残り続ける。

 だから、富の再分配がうまく行かなかった時の必要悪だとか、そもそも政治の延長であって政治なんて所詮は富の分配の話でしかないとか、そんなクールな話では片付かないほど、戦争は絶望的に残虐で、絶望的に破壊的で、それは人間が生物(いきもの)として不具合があるのでは?と思ってしまうほど酷い習性である。もちろん他の動物だって殺し合いはするけど、我々のように種として全滅するリスクがあるほど大規模にはやらない。我々人間はやはり欠陥があるのかもしれない。

 この間、ドキュメンタリー番組を見ていたら、オキシトシンについて取材していた。「愛情ホルモン」とか「幸せホルモン」とか呼ばれる巷(ちまた)で人気のホルモンだ。こいつを増やしてハッピーに生きましょう、その為の生活習慣はたくさん睡眠を取って、マグネシウム亜鉛を摂取し、休日には自然の中で人と触れ合い・・・という具合である。

 が、このオキシトシン、本当の正体はそんな優しい名前で表現されるようなものでなく、まさにこのオキシトシンこそ、我々人間が戦争に駆り立てられる元凶だとのこと。

 大脳新皮質を発達させた人間とそれ以前の生き物との違いは、「共感と絆」を強く持てるという事である。自分の隣で外敵に襲われ喰い殺されている奴がいれば、「うわぁ~むっちゃ痛そう・・可哀そう」なんて共感し、「よし次は別の奴がやられそうならオレは戦おう」って棍棒を手に持って、再び現れた外敵を追っ払おうとする。そこに他者との間の絆が生まれる。そうやって他者への共感と絆の輪が広がり、コミュニティが発生し、ムラが発生し、都市が発生し、国家が発生する。で、この「共感と絆」を我々人間が強く感じられるのは、脳の中でオキシトシンが分泌されるからである。

 う~ん、確かに、子供の頃、虫かごの中で昆虫とかを見ていると、隣で外敵にパクパクと同胞が食われていても、あんまり気にしてなさそうだったし、一方で大災害が発生して「頑張ろう〇〇」なんて「共感と絆」を強調している時に、我々人間がより「人間らしさ」を感じるのは事実かもしれない。

 でも、このオキシトシンによって共感と絆が深まるだけ、僕たち人間は「外敵」に対して強烈な攻撃性を帯びるのだ。身内に対する愛情の裏返しで、身内を危険にさらす(と信じる)外敵に対しては、徹底的に攻撃し、そいつがどんな相手だとか、そいつにも家族がいるとか、あんまり気になんかしない。身内の安全と幸せのために、滅びるまでブチ殺そうとする。これがオキシトシンという「愛情ホルモン」のなせる業(わざ)であり正体だ。

 ドキュメンタリー番組では「線引きと攻撃性」という便利な言葉を使って説明していたけど、要するに自分が守るべき者たちとの間に線を引き、線の向こう側にいる敵と戦うパワーをさく裂させるのが、大脳新皮質を発達させたヒトの特徴なのである。

子連れのクマは危ないけど、まだ自分の子供を守ろうっていうレベルは規模が小さい暴力で済む。これが赤の他人の為に命を懸けて戦えるなんて話になると、ただの殺し合いではなく、「戦争」に変貌するのだ。

 じゃあ僕たちはオキシトシンの作用で爆発する攻撃性をコントロールするため、「線引き」をどうにかすればいいのだろうか?問題は線引きをどこにすればいいか、ということ?この線引きを、民族間とかでやるから僕が大学生の時、ルワンダでとんでもない大虐殺が起こり、国家間でやるからいまだに悲しいニュースが映像で流れ続けるということ?

「ありゃ風刺映画だと思うわ」

20代のころ、自主映画を作っている女友達がいて、まぁ創作に携わっている若者にありがちな感じの常にイライラした感じとか、鋭い舌鋒(ぜっぽう)とか、若いのに身だしなみに故意に気を使わないとか、いわば都会にいがちな典型的な創作家志望の人だったけど、恵比寿の喫茶店でコーヒーを飲みながら談笑したあと、一緒に映画でも見に行く、なんて話になって、貴方は何を観たいのか?と聞かれ、僕はつい「インディペンデンス・デイ」と答えてしまった。

 ヤバイなぁ、あんなおバカなハリウッド映画、この人を相手に行きたいなんて、軽薄だとか映画が分かっていないとか軽蔑されそうだぞ、でもテレビで宣伝を見る限り、おバカなアクションなりに楽しそうだしなぁ、なんて考えていたら、意外にも一緒に行きましょう、という話になった。で、映画館で見て僕は大いに楽しんだのだけど、要するに宇宙人襲来とか、隕石衝突とか、地球の外から敵がやってきてその間に線引きされれば、僕たち人間はさすがに国家間の争いなんてやめて(戦争がなくなって)、人類として一致団結できるかも、という話だ。オキシトシンによる線引きは大気圏の上で行われるのである。

「ありゃ風刺映画だと思うわ」

映画館を出て、今度は居酒屋で一緒に飲みながら彼女の口から出てきた言葉を、その時は(ひょっとすると今も)意味が分からなかったけど、ふと思い出す。

確かに、人類が団結してやっと宇宙人を打ち負かしたその原理は、国家間で今まで自分たちが繰り返しやってきた戦争の原理(愛する者の為に!)と全く一緒だなんて、人間の残念な性(さが)を風刺していたのかもしれない。

 でも実際には、宇宙人襲来とか隕石直撃とかあんまり確率論的には簡単に起こりそうにないから、その間に人類は技術をさらに発展させて宇宙へ出て、そこで暮らし始めるだろう。そうしたら厳しい環境の宇宙で暮らす人々の間に共感と絆が生まれ、特権をもって地球上でぬくぬくと生活を続ける連中との間に軋轢(あつれき)が生じて、あれ?これはガンダムの世界だ。ジオン公国地球連邦軍の戦いだなんて、やっぱり僕たち人類は、宇宙に出てまでオキシトシンの絆と共感に振り回され、戦争を始めるのかもしれない(というか始めるだろう)。

じゃあやっぱりモビルスーツで戦っているうちに、太陽系の外から宇宙人がやって来てとか、太陽がそろそろ爆発してとか、とにかく人類共通の敵が外部から現れて・・・

キリがないねぇ。

僕たちの欲望はどんどん外部に広がって行き、その中で線引きをして殺し合いを続け、う~ん、こりゃいつか滅びるかもね、なんて考えてしまうのである。

 外に広がって線引きをしようとするからいけないのでは?と想像してみる。

内部の線引きはどうだろうか?

人類共通の生きとし生き物に付きまとう哀しみという内なる共通の敵、我々は全員、年を取り、病を得て、死んで行き、いずれ意味なくそれらを経験しなければいけないと知りながら、それでも生きて行かなければならない、という哀しみは、人間の内なる共通の敵である。

あるいは六道絵巻に描かれた地獄は、逃れられない人間の業(ごう)を表現したものであり、あれこそ僕たちが生きている間に対峙(たいじ)し続ける苦しみであり、その悲しみや苦しみの前に、線引きし、僕たちは哀しい生き物として共感し、絆をもって人間同士の戦(いくさ)を止めないのだろうか?

止めない、というのが結論だ。だから戦争もきっとなくならない。

古来より、敢えて絵巻にして思い出させないといけないくらい、僕たちは日常生活のなかで悲しみや地獄の苦しみから目を逸らそうと生きて来た。それは誰も責められない。

哀しみを見ないように、忘れるように、少しでも軽減できるように、我々はそうやって生きているし、でないと辛気臭い面白みのない人間となり、幸せは逃げて行くだろう。

「何にも考えていません」みたいなバカ騒ぎのなかで、人生は心の底から楽しめるのだ。それが友人との間であれ、家族との間であれ、出来る限り忘却のなかで僕たちは人生を楽しみ、生きようとする。病気を抱えたりとか、肉体的或いは精神的な痛みを常に抱える状況にならない限り、出来る限り忘れて生きて行くのが自然の知恵だからである。

だから悲しみや苦しみという内なる敵の間に一線を引くなんてメジャーにはならない。

だから僕たちは、外部との間に線を引き続け、愛するものを愛するがゆえに殺し合いを止めないのである。

 ドラマは終わり、またニュースが始まった。日本は良くも悪くもな~んにもないらしく、アメリカで大活躍するスポーツ選手の話と、やっぱり地球の裏側の悲惨な映像のみが流れている。

あとは豪雨に注意とのことで天気予報だって。ゆっくり傾き続けて行くだけで、ホントに何にもない国なんだねぇ。

さっき携帯電話で頼んだ夕食の出前がやって来たので、僕はようやくソファーから立ち上がり、食事の準備を始めた。

この間一瞬、日本に帰った時に仮歯を作って付けてもらったおかげで、また心置きなくご飯が食べられるようになったのだ。数週間後の休暇帰国時には完成した正式な被せものを取り付けてもらい、今回のトラブルはようやく一件落着だ。

そして安心した僕は性懲りもなく、くだんの被せものを割ってしまった骨付きの鶏肉料理をまた食べようとしている。だって本当に美味しいんだもの。鶏肉と干し椎茸に、ニンニクと生姜を刻んだものを入れて、丁寧に煮込んだ料理なのである。

見た目はあんまり宜しくないけど、骨付きの鶏肉だって干し椎茸だって、本来それのみでも出汁が(旨み成分が)たくさんあふれ出す最高の食材である。美味しくない訳ないだろう。骨に気を付けて食べればきっとOK。

ハイ、僕は六道をまっしぐらに生きています。

他の生き物の命だってパクパク食べるよ。煩悩と迷いの中、いっぱい食べていっぱい笑い、いつか老人になって味わう体の不自由さや、いつかやって来る大切な人たちとの辛すぎる別れとかを、出来る限りの忘却の中でしっかり暮らして行くよ。

そして線引きはどこかって言えば、やっぱり僕は日本のサラリーマンだ。自分の大切な人たちを守るためなら、どんな惨めな思いでも戦いだと思って我慢してみせる。実際に家族を傷つけると思われる相手なら、どんな手を使ってでも戦って息の根を止めてみせる。

そう、結局のところ僕も、業(ごう)を背負ったごくごく平凡な一人の人間なのである。そしてニュースでは今も、地球の裏側の悲劇を、永久に続いて行く人間の残念な性(さが)を、繰り返し流し続けている。

異国の八代亜紀のロックを聴きながら孔子様に思いを馳せ、天才たちの作品を思い返して人間の不思議さをしみじみ感じたこと

2024/05/08

 週末に一人で夕ご飯を食べてプラプラしたあと、よく行く音楽バーがある。その付近はちょっとした繁華街になっていて、こじんまりした豫園(上海の観光地)みたいな建物が連なり、なぜか中央に地元出身の昔の儒学者銅像が並んで、その周りを火鍋屋さんや串焼き屋さんなどの飲食店が取り囲むように密集し、更にその奥に、僕の行きつけの音楽バーがあるのだ。

どかんと中央にある銅像については、えらく立派なモニュメントで、その人物の略歴を解説したプレートまで付いているけど、読んでも僕はよく分からない。きっと地元の人々が誇りに思う立派な儒学者だったんだろう。

   

 あたり一帯に火鍋の香辛料の匂いと、羊肉の焼ける香ばしい香りが立ち込め、店の中にも外にも人が溢れて、みんなペチャペチャ賑やかに喋り、バクバク美味しそうにご飯を食べている。そう、ここは現世を楽しみ尽くそうとするエキスパートの集まり、中国の人々の国である。

音楽バーでは、ドラム、キーボード、ベース、ギターが揃ったバンドメンバーの生演奏をバックに、歌手が生歌(なまうた)を歌っている。有名な曲ばかりで聞きやすいし、バンドメンバーも登場する歌手たちもみんな若く、地方にいる無名のアーティストとは言えやっぱりプロなので、素人とは段違いの演奏力や歌唱力で、ステージを盛り上げる。僕は一人で行くから、テーブル席ではなく、いつもカウンターに座ってビールをちびちび飲みながら、そしておつまみのピスタチオを食べながら、演奏と歌を聴いている。

 一週間が終わってこうやってのんびり一人で過ごす時間が、本当に貴重だ。何もかも忘れて、ホッとする時間でもある。こういう時間を大事にしなくちゃね。

 何人かいる歌手の一人に、八代亜紀そっくりのハスキーボイスの人がいて、その歌手がロックを歌うとムチャクチャかっこいい。この人の声を聴くのを楽しみに行くのかもしれない。ついつい体を揺すって聴いてしまう。こんな声でもしブルースを歌ったら本当にサイコーなんだろうな、なんて考えながらビールを飲んでいる。

休憩を挟んで夜中まで次々と演奏される曲の大半はC-POP(Chinese Pops)で、要するに中国語で歌われる中華圏のポップスだけど、時々は癖の強いイントネーションで洋楽も歌ってくれる。その日はエド・シーランとかの曲に混ざって、ビートルズも歌っていた。しかもストロベリー・フィールズ・フォーエヴァーだ。そんな曲、いつぶりに聴いただろう?学生時代に赤盤と青盤を神棚に祀(まつ)っている奴がいたけど、きっと、そいつがいつも部屋でかけていたのを遊びに行った時に聴いて以来だ。だからほぼ30年ぶりに聴く名曲である。

Nothing is real(リアルなんてものは存在しないよ)

And nothing to get hung about(そして心配すべきことなんて存在しないよ)

Strawberry Fields forever(ストロベリーフィールズは永遠なんだ)

この曲の歌詞はジョン・レノンの子供時代の話に基づいているって事らしいけど、僕にはどうしても般若心経にしか聞こえない。意訳し過ぎだろうか?それとも既に誰かそんな説を唱えていて、ありきたりな解釈なのだろうか?

 投げやりでも現実逃避でもなく、何にもない、何にも意味はない、幸せも苦しみもない、だから大丈夫、なんて歌詞の境地は、法事の時に坊さんと一緒に読まされる(たいていボロボロになったお経の冊子をその場で手渡されて)般若心経の文字を見ながら、生きてるうちはまず無理だろなぁっていつも思う境地だ。希求しつつ絶対に辿り着かない、だから僕たちは常に矛盾を抱え、引き裂かれている。人間は矛盾した不合理な存在なのである。

 ところで、音楽バーの外に立っている儒学者たちの像で思い出したけど、かの孔子さまも音楽が大好きで、人間として道徳を完成させるためには、音楽を愛することが重要だと説いていた。孔子さまも、音楽が人間にとって特別な意味を持つことを感じていたんだね。カウンターに座りながら、音楽バーと儒学者の組み合わせなんて、不思議な縁であり、必然の縁なのかもしれない、と考えていた。

 特定の音やリズムがどうして我々を快適に感じさせるのか?その仕組みはまだ分かっていない。音楽理論を紐解けば、すぐにピタゴラスから始まる数式として音楽の解説が始まってしまって、確かに、人間が快適さを感じる音の組み合わせに法則があることは証明されているけど、さて、どうしてある特定の組み合わせを受け取った時に、人間が「気持ちいい」と感じるのか、これは脳科学の話だから、やっぱりまだまだ分からないことが多いのである。

 と思っていたら、テレビ番組でそういう脳の研究をしているアメリカの女性科学者がインタビューに答えていて、ものすごく面白い話をしていた。

 彼女によると、音楽を聴いて我々が「気持ちいい」と感じるのは、組み合わせを予測することを脳が喜ぶからだ。ここで言う組み合わせとは、ビートでもあり音でもある。ビートが組み合わさるとシンコペーションが生まれてグルーヴ感が発生し、音の組み合わせは協和音を生み出して、楽曲と呼ばれるものはそれらを繰り返す。繰り返されることで、僕たちの脳ミソは、「次もこんな感じで来るんだね!」ってまた同じビートや音の組み合わせを予測し、実際にその通りに曲が流れると、「ほらね、やっぱり来た来た!」と快感を感じる。予測して、予測した通りになった事を喜ぶのだ。

 研究の結果、このビート予測と呼ばれる脳ミソの「来るよ、来るよ、ほら来た~!」という繰り返しに対する予測の反応は、報酬系と呼ばれる「気持ちいい」の感情を生み出す脳の部位に作用し、さらに脳の運動領域にも影響を及ぼすので、ノリのいい音楽を聴くと、僕たち人間は自然に体を動かし始め、ついに踊り始める、という事らしい。

ビート以外にも、音楽にはメロディ展開とか予測すべきアイテムがいっぱいあるけど、その女性科学者が強調していたのは、脳は予測が裏切られるともっと喜ぶ、という実験結果だった。これは曲の途中で転調があったりして、「おいおい、そう来るか!予測を裏切ったね、面白いね!」という具合に、脳が更に大喜びする(快感物質がもっと出る)という事である。

 うん、確かに、ジャズなんてまさに転調天国、予測をカッコよく裏切ってこそ最高のアドリブと言えるし、逆にJ-POPの多くで使われ過ぎる、最後の最後のサビで転調させて半音上げるなんて、全然、ありきたりで僕たちの脳ミソの予想を裏切らないから、ちょっとみんな飽き飽きしているのかもしれない。

 八代亜紀の声をした女性歌手が歌いながらこっちを見て手を振ってくれた。僕はちょうど2本目のビールをグラスに注ごうとしていたところだったから、バドワイザーの瓶を片手でちょっと持ち上げて微笑み返した。

ワオ!きっと日本人ってバレてるんだろな。カウンター越しに僕としょっちゅう喋っているバーテンダーが漏らしたに違いない。

歌っているのは、「風中的承諾」という曲で、これは大昔の(僕が子供だった頃の)近藤真彦の「夕焼けの歌」の有名なカバー曲だ。まぁ、この地方都市には日本人がほぼいないから、そんなのが頻繁にやって来たら、少しは目立つのかもしれない。気を使ってくれたのかな。そしてその歌手はやっぱり声がいい。今度日本へ帰ったら八代亜紀のアルバムでも買おうか、なんて考える。

 バドワイザーって日本のビールとアルコール度数は変わらないのに、やたら飲みやすいのでついつい飲み過ぎてしまう。僕はバーテンダーに3本目を頼んだ。

 もし予測を楽しみ、予測を裏切られることをもっと楽しむ、そんな風に僕たちの脳が出来ているなら、そしてそれが芸術を楽しむ僕たち人間の身体の仕組みならば、それは音楽に限った話ではないのかもしれない。

 例えば言葉。言葉の組み合わせは文体という形で一定のリズムやメロディを生み出し、予想を裏切った文章の流れが、美しい詩として成立する。小説の世界でいえば、谷崎や三島の文章に僕たちが美しさを見るのは、美しい音楽を聴くのと同じ作用だ。

で、もっと露骨に言うと、宮沢賢治さんがいました!

風の又三郎」の「どっどど どどうど」という風を表したオマノトペ(音や様子を文字にした擬音語や擬態語)は、賢治という天才が生み出した音楽の1小節であり、彼の作品を何度も読み返したくなるのは、いい曲を何度も聴きたくなるのと同じ理由に違いない。

ランボーの「永遠」という詩も同じだ。「また見つかった。何が?永遠が」なんて恍惚とした情感から、そのあと一気に命令口調の厳しい言葉がスピード感をもって叩きつけられ、読んでいる側は、そのリズムの美しさと、予想を裏切るコトバの流れに魅了されてしまう。

 でもなぜ僕たちの脳ミソは、そんな風に予測を楽しむだけでなく、予測が裏切られることをもっと楽しむ仕組みになっているのだろう?予測の裏切りって、結局それは変化のことである。予想していたのが違ったってことは、何か変化があったということだ。そうすると、僕たちの脳ミソはそもそも、予想が裏切られるのが気持ちいいのだから、常に何かの変化を求めるように出来ているのだろうか?

それって生物学的に正解?

少しずつ変化を求める、変わって行く、っていうのが、僕たち人間が種を保存して行く上で重要なのだろうか?

 僕が小学生の頃に、普段はマンガを全く読まない兄貴が、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」の原作本を買って来た。兄貴は既に中学生になっていて、いつも勉強ばかりしていて、本と言えば背表紙の日本語さえ難しくてよく分からないような書籍を読んでいる人だったから、マンガを買って来るなんてとても珍しく、非常に記憶に残っている。作品はまだ当時、話が完結していなかったから、3巻までしか出ておらず、兄貴はその3冊を一気にまとめて買ってきて、まとめて読み始めた。そして読み終わったのを、僕も読ませてもらった。

それまでテレビで何度かその作品の映画版は見ていたが、原作本を読むのはその時が初めてだった。そして圧倒的な世界観に引き込まれ、まだ全然話が終わりそうになく、早く続きが読みたくて仕方なかった。続きはいつ出るんだろう?待ち遠しいなぁ。当時、みんなそう思ったに違いない。

 結局、原作の完結巻(第7巻)が出されたのは、なんと僕が大学生の頃だった。期間というより内容の濃さが、とんでもない大作である。たまたま遊びに行った友達の部屋に、全巻が揃えて置いてあって「あ、完結したんだ。子供の頃に最初の方を読んだぞ」なんて久しぶりに読み始め、やっぱり圧倒された。そしてご多分に漏れず、その驚愕の結末に口をアングリと開けてしまった。そんな結末なのねって感じで、平凡な読者の一人として、よくこんなの思いつくなぁって感嘆し、そして主人公がクライマックスシーンで語る言葉「生きることは変わることだ」が若者ながらに強烈に印象に残った。

「生きることは変わることだ」

はい、その通りです。

生と死の違いはその一点にあると言ってよい。もっと言うと、変わることが出来る自由を手にして、初めて僕たちは生きていると言えるのである。

もし仮に誰も憎しみ合わない、苦しみがない、そんな素敵な天国があったとしても、いったんそういう「サイコーに幸せ」な価値が固定してしまって、それが最終目標になってしまえば、僕たちは生きているとは言えないのだ。生きることの最終目標として何らかの意味を固定してしまうと、それがどんなに理想的であったとしても、僕たちは別の価値を生み出す自由を失い、自ら変わって行けるチャンスを失い、変わって行く環境に適合できずに、いつか種として滅びるかもしれない。こういう文脈での「自由」は、ドストエフスキーが滔滔(とうとう)と長い長い自分のお話(小説)で書いている。

 だから、少しずつ変化を求める、変わって行く、を求める僕たちの脳ミソの仕組みは、実は生物の重要な機能として当たり前に備わっているのかもしれない。予測を裏切られて気持ちいい、なんてちょっと変態チックだけど、種の保存という意味では大切な武器かもしれないのだ。

 ところで、僕がランボーの詩を初めて読んだのは高校生になってからだ。くだんの「永遠」という作品も、やっぱりご多分に漏れず、なんてカッコいい作品だろうって、いろんな翻訳版で読み、いつか自分もこんなカッコいい詩が書けたらなぁ、なんていつもカバンに詩集を入れて授業に通っていた。十代の頃の懐かしい思い出だ。そしてまさにランボーが見つけた「永遠」は、太陽が海に溶けて行く美しさの中で、意味が固定され、意味が固定されるってことは、生きるとは正反対、つまり死を意味していた。

 だから、歴史に名を残す天才芸術家たちって、やっぱり凄いなあって思うのだ。変化を一切拒絶した永遠(死)をテーマにして、ランボーは、予測できない変化(生)を言葉のリズムに与えることで、一篇の詩を作ってみせた。僕たちは、永遠や理想郷という死にあこがれつつ、常にそれをぶち壊して(裏切って)、新しい意味を求め生き物として変化し続けながら生きて行こうとする。そんな風にいつも矛盾を抱え、引き裂かれている。どこまでも不合理な、不思議な生物なのである。天才と呼ばれる詩人は、そんな人間の真実を、一篇の詩で突き止めてしまうのだ。

Strawberry Fields forever(ストロベリーフィールズは永遠なんだ)

でも僕たちの脳ミソは永遠を拒否し、予想を裏切って変わって行くことを望んで、ビートルズの曲をまた聴きたいなって思わせる。音楽の効用である。般若心経の境地なんて、生きている人間にはとても到達なんか出来っこないんだよね。

 いつの間に休憩時間になって、店内は明るいBGMが流れ、バンドメンバーも歌手の人たちも控室へ戻って行った。さて僕もそろそろ帰らないと。

さっきの八代亜紀が控室から姿を現し、ふらっとカウンターまで近づいて来て、バーテンダーに何か酒を作ってくれとお願いしている。

シャカシャカとシェーカーが振られている間、僕は休憩中のその八代亜紀の横顔を見ていた。

まだ若いな。いつか大都会へ出て行ってもっと大きな大きなステージで歌うことを夢見ているのかな?それとも既にいったん都会に出て夢破れ戻って来た後で、こんな田舎のバーで何で私が歌わなきゃいけないの、なんて本音の中、鬱屈しながら歌っているのかな?

いかん、いかん、そんなの遠くからやって来た外国人のオッサンの想像でしかない。人間は矛盾した不合理な生き物だった。一人ひとりの人生だって、決して単純ではなく、簡単に説明できるものでもなく、だから僕たちはいつも引き裂かれている。

 店を出てタクシーに乗って帰る途中、車窓を流れる夜の街を見ていた。ハイ、息抜きは終わりです。また明日から仕事ですよ。

だいぶ酔いが回ったから、シャワーは明日の朝にしてこのままソファーで寝ようか、なんて考えながら、僕はオレンジ色の街灯に染まった異国の町の風景を眺めていた。

ハスキーボイスの歌声が、まだ耳の奥に残って響いている。

雨の季節の合間に久しぶりに太陽を浴びて散歩しながら、子供時代の記憶をたどって「宝物はなんですか?」って自分に問いかけてみたこと

2024/04/21

 あっという間に春が来て、もう雨季だ。僕が住むこの異国の地方都市は、海から遥か遠くに離れた内陸にあるっていうのも関係していると思うけど、春と秋がもの凄く短い。

むっちゃ寒くて、それが3月まで続いて、あれれ、急に20度以上も暖かくなったぞ、花が咲いたぞ、って1週間もしないうちに、4月からは蒸し暑い雨季が始まる。さわやかな春の日なんてほんの数日しかないのである。そしてその長い雨季が明ける6月くらいになると、あの強烈な日差しが降り注ぐ40度越えの夏がやって来る。で、それが10月の前半まで続いて、そこからまた、あれれ、急に20度以上も寒くなったぞって、言っているうちに寒い寒い冬がやって来る。

 なので、日本には四季があり、なんたって、最高に過ごしやすく世界が美しく見える季節、そう、春と秋がしっかり数週間もあるというのが、本当にいい国だなぁと思うのだ。

そこに住む人々は狭い生活世界の中で牽制(けんせい)の仕合いをやり続けていて、あんまり幸せそうな人が多くはいなさそうだけど、国の外へ出てつくづく思うのは、日本という国の格別な自然の美しさと、それを映えさせる四季折々の気候である。あの国って一年中、どの季節だって風景は世界で一番美しいんだけどなぁ、なんて思い浮かべている。

 という訳で、僕はこの遠い異国の地にあって、ジメジメした雨続きの日々の合間に、ちょっと一瞬太陽が見えると、なんだか貴重に感じて嬉しくなって、休日にそんな日が重なったりしたら、意味なく街を歩いてみるのだ。別に何があるわけでもない。近所に美しい風景がある訳でもない。何を買うわけでも、何かを食べに行くわけでもない。ただ久しぶりに太陽の下を歩きたいだけである。

 で、プラプラ歩いていてたまたま見つけたのが「古玩」と書かれた看板の店だった。正確にはそういう看板を掲げた店が集まった界隈だった。「古玩」って日本語で言うところの骨董品のことであり、そこは骨董品店が軒を連ねた場所だったのである。

 特に興味ないけど行ってみる。明代の茶器とか、清代の絵画とか、本当かウソか(たぶんウソ)唐代の彫刻品とか、所狭しといろいろ雑多に並べた店がずっと向こうまで並んでいて、店先にちょっと立ち止まろうものなら、奥から店主が出てきて、これはすごいぞ、お値打ちだぞ、滅多に手に入らないぞ、もっと安くしていいぞ、なんて賑やかにセールストークを始める。

 で、こっちが外国人だと分かると、ちょっと黙ってズルそうな顔で一瞬考え、何も言わずに店の奥へ引っ込むか(あ、ダメだ、冷やかしの外国人だ)、もしくはさらにエスカレートして店の奥にはもっととっておきのお宝が置いてあるから見て行け(外国人なら金持ってるかも)と誘い始めるのだ。

 僕はニコニコして手を振り店を後にする。この国の骨董に特に興味はない。興味があるのは、この場所が結構賑わっていて、地元の人がみんな熱心に「お宝」を探しているっていう点だ。どういうのが人気なんだろう?素人なりに真贋(しんがん)をどうやって見極めているの?なんて誰かと会話してみたくもなった。

が、今日は一人で散歩し、一人で考え事し、ゆっくり家に帰るつもりだ。久しぶりに目にする太陽が眩しい。

「宝物はなんですか?」

って何だか歌の歌詞にありそうだけど、その軽快なリズムよろしく、僕は「たからもの」という言葉の響きが好きで、子供のころからその言葉の響きに紐(ひも)づいたいっぱいの思い出がある。家人も大好きな「ちびまる子ちゃん」の世界にだって、そういう「たからもの」を、人生を楽しく幸せに生きる為の大切なツールとして扱っているところがあって、だから僕もあのアニメは大好きだ。

 幼稚園時代や小学校の低学年の頃、僕の宝物は手作りの石器だったり粘土で作ったニセの化石だった。

 まず石についてだけど、3つ年上の兄貴の影響で、石を金槌(かなづち)で割って石器を作り、それを土産物のチョコレートが入っていた缶(よくある話だけど、それが僕の宝物箱だった)に入れていたのだ。兄貴は子供のころからおませというよりちょっと変人で、本で読んだこと、例えば、昔の原始人は石を割って矢じりを作ってそれを木の枝に括り付け矢にしていた、なんて知ったら、それを自分で作って検証してみる人であり、それを何も考えずにマネしてみるのが弟の僕だった。

兄貴は実際に矢じりの形を上手に作って木の枝にタコ糸で括り付けていたけど、そして、枝に括り付けるには根元を細くする必要があるので上手に石を割らないといけなかったけど、幼稚園児の僕にそんな事が出来る訳もなく、ただ丸い石を拾ってきて金槌で叩き、半分割れて鋭くなった側面を手で触れて、何か特別なものが出来たみたいで感動して大喜びしていた。

「それは矢じりじゃなくて、石包丁ってやつだ」

「イシボウチョウってなに?」

「母さんが料理するときに使っているやつだよ。石だけど、あれと一緒」

兄貴が教えてくれた。

それはそれで立派な石器なのだという。本当はもう一回、反対側を金槌で叩いて割って石の先を尖らせないと矢じりにはならないのだけど、僕はそんな兄貴の言葉に勇気づけられ、もっとカッコいい、形のいい石包丁を作ることにした。もう一度、近くの河原へ走って行って、もっと黒光りする、割った時に見栄えのいい丸い石を探したかったのだ。

 当時はテレビアニメの「はじめ人間ギャートルズ」をよく見ていて、原始人の主人公ゴンやそのパパたちが、石槍や石斧のような武器を使って、マンモスと戦っていた。幼稚園児の僕は、ゴンたちになり切ったつもりで、お気に入りのものが出来るまで石を割り続けていた。

 小学校に入った時には、帰り道に道草しながら家に帰り、宅地造成の工事現場で見つけた粘土質の灰色の土の塊をよく持って帰って来た。それに庭にあった楠(くす)の葉を強く押し付けて葉脈の型をとり、押し付けた葉の周囲を金属の棒で削って形を浮き上がらせ、そのあと太陽に当てて数日乾かせば石みたいに硬くなり、「道で拾った葉っぱの化石」なんて大ウソの自慢の宝物が完成し、友達に見せることだって出来る。

 ちなみに、この粘土質の灰色の土は柔らかくて加工しやすくて、母親の誕生日にこれを使ってペンダントを作ってプレゼントしたら、ムチャクチャ喜んでくれた。

土ったって柔らかいブロックみたいに塊になっているから、それを公園の駐車場のコンクリートで擦って削り、小さな薄っぺらい八角形にまで削ってから、やっぱり太陽に当てて乾かす。そのあと、木工用ボンドに絵の具を混ぜたものを使って、ベースを黄色に、その上に赤や青や緑の模様を置いて(爪楊枝で色を置いて行くかんじ)、出来上がったらまた数日太陽で乾かす。あとは親父の大工道具箱から錐(きり)を取り出して上部側面に穴を空け、そこに釣り糸を通せばペンダントが完成だ。

 母親の弾けるような笑顔を覚えている。息子の手作りのプレゼントを見て、本当に嬉しそうだった。

自らの思いを投影した創作は、それがいつか形を失っても思い出として残り続ける。

 そして「たからもの」は小学校の中学年になると、キン肉マンの消しゴムやガンプラに移り、素朴な手作りのものではなくなって行った。

 でも、ガンプラだって人それぞれ、うまい下手もあるけど、他のモビルスーツのパーツを使って改造とかしたり、テレビとは全然違う色使いでカラーで塗ったりしながら、自分だけの「たからもの」に仕上げて行ったのだ。

 放課後、友達の家にみんなで上がり込んで、それぞれ持ち寄った自分の製作中のガンプラを取り出し、その色ちょっと俺に使わせろよ、なんてカラーの取り合いをしながら、出されたお菓子を食べながら、そしてスター・ウォーズレーザーディスクを見ながら、製作に熱中し、たくさん遊んだ。

 さらに年齢を重ね、小学生の高学年になったら、僕の宝物は自分の小遣いで買った文庫本になった。或いは買ってもらったハードカバーの書籍だった。

 毎年夏になると各出版社から出される「100冊」の案内冊子(書店でタダで貰える)は、紹介する100冊の表(おもて)表紙の写真の下にあらすじが書いてあって、僕はそれを何度も読み返し、それもやっぱり宝物として引き出しにしまった。

明日は書店へ行ってあの文庫本を買いに行こうって決めた時の高揚感は、今も覚えている。

 そして誕生日に買って貰った分厚いハードカバーの小説の、最初の1ページ目を開いた時に香る、あの真新しい紙の匂いと、これから新しい世界へ自分が引き込まれて行くであろう胸の高鳴りも、まだはっきり覚えている。

 本って、それ自体は紙きれの集まりだし、誰が読んだって同じ文字なのだから受け身に思えるのだけど、実は同じ言葉が、読み手の思いによって全然違ったものになる不思議があり、同じ読み手であっても、その時々の思いによって全然違った意味になる魔法がある。なので読書だって一種の創作だ。

 そして中学生の時に持っていた宝物で覚えているのが、古い腕時計だった。これは母親が一時期、家政婦として働いていたお金持ちの老夫婦の家から譲り受けたものだった。

その老夫婦は、もうだいぶ高齢になったということで、二人だけで生活するのは危ないって言われ、東京にいる息子の家に引っ越すことになり、その際、母に選別をくれたのである。

 僕たち兄弟も普段からその老夫婦に大事にしてもらっていたから、最後の日に家の中へ招待され、ご飯(特上の鰻)をご馳走になり、家に残っているもので欲しいものがあれば持って行くように言われた。

兄貴は大量の古書を譲り受けていたみたいだけど、僕はベルトの壊れたその小さな古い腕時計を貰った。昭和初期に作られたって聞いたから、相当に古い代物(しろもの)だった。箪笥の上にぽつんと置いてあったやつだ。ベルトは壊れていたけど、ちゃんとリューズを手で巻けば動き出し、耳を当てるとチッチッチッと小さな音が聞こえる銀色の腕時計だった。

 持ち帰った僕はそれが本当に気に入ってしまって、勉強の途中で何度も机の引き出しから取り出して見ていた。戦時中は青年将校だった老人の持ち物だったから、ひょっとすると持ち主と一緒に、それは海を渡って南方の異国の地へ渡った経験があるのかもしれない。ひどい惨状や、恐怖や、憎しみや、平時では想像できない残虐さや、だからこそ人間の真実を、持ち主と一緒に見たのかもしれない。そんな想像をしながら、僕は眼鏡用のクロスでその腕時計をピカピカに磨いていた。

 高校生以降の「たからもの」はなんだっただろう?

あれ?思い出せないぞ。

ちょっと考える。

あぁ、ものではなくなったんだね。

人格形成がほぼほぼ完成し始める思春期の最期の方からは、「たからもの」は目に見えない、手で触れられないものになったのだ。

 大好きだった初恋のあの子。雨の日の寂しそうな後ろ姿。図書館で勉強する横顔。笑った時に浮かぶ口元の右側のえくぼ。その残像は、ありきたりだけど、今も鮮明に覚えている僕の宝物だ。

 大学生以降の宝物。もうそれは青春のど真ん中の話だから、楽しかった思いも、苦しかった思いも、稚拙(ちせつ)な迷いも、全てが宝物だ。20代に経験したその全ての記憶が糧(かて)となり、今につながっている。

 そして半世紀を生きてしまった後の今の僕の宝物。それは何だろうか?

「これは宋代の牛の飾り物だ」

怪しげな店の前で、あご髭を生やした色黒の店主が突然、僕の目の前に立ちふさがり、手のひらに乗せた小さな飾り物を、差し出して見せた。

小さな牛の飾り物だった。濁った茶色をしていて、素材が銅製っぽく見えた。

店主は鋭い目つきで僕を見つめ、生活の為にお金を稼ぐべく、戦おうとしている。

「何の飾り物だったの?」

「いろいろ」

「いろいろって?」

「昔は腰にぶら下げるひょうたんの蓋につけたりしていた」

「ひょうたん?」

「そう、昔は水をひょうたんに入れて水筒にしていた」

「その蓋のストラップってこと?」

「その通りだ」

「いくらなの?」

「1,000元(2万円)」

「無理無理、いらない」

「900元」

「ムリムリ、いらない」

「800元」

あご髭の店主は最終的に半額の500元まで下げたけど、それでもいらないって僕が言ったから、諦めて道を空けてくれた。

 あんなちっぽけなものが500元(1万円)以下には出来ないってことは、ひょっとすると本物だったのかな?なんて考えたけど、どうせ真贋(しんがん)なんてぜったい見抜けないよなぁ、買っても一生、それが本物かどうか分かんないまま、机の引き出しに眠るんだろうなあ、なんて思った。

鑑定団に出す?まぁそれも思い出かもしれないけど、今日の僕の目的は太陽の光を浴びて散歩することだ。たまたまだけど、僕が部屋のカギ用に付けているストラップ(まさに牛のストラップ)にあれはよく似ていた。カギを無くさないよう適当にスーパーで買って来たやつで、古めかしいデザインだけど、だからちょうどあれによく似ていた。

 僕は歩きながら、とにかくあの店主は、ひどく痩せていて肌が不健康に黒ずんでいたなぁ、って思い返していた。苦しい生活をしているのかもしれない。

 ところで、骨董とヴィンテージの違いってなんだっけ?とふと思ったから、あとで部屋に帰ってからネットで調べてみたら、骨董は100年以上の昔の美術品、アンティークは100年以上の昔の実用品、ヴィンテージは100年はたっていないけど20年以上前の実用品、と書いてあった。そうなんだ、そうすると僕がコツコツ買いためて書斎に大事にしまってあるクラシックカメラとか、生まれ年と同じ年齢のオメガとか、1943年製のコーンのサックスとか、要するに全部ヴィンテージなんだ。逆に100年以上も前のものなんか持っていないから、骨董やアンティークには縁のない人生だったんだね。そう思った。

 古いものを愛する、というのはそれぞれの理由があるのだろう。そのデザインの美しさに魅了されるのかもしれないし、実用品であれば、これまで使用していたであろう人々の生活や人生に思いを馳せて想像を楽しむからかもしれない。投資目的の人もいるだろうが、それはもはやビジネスであり、個人の趣味ではない。

個人的に古いものを集めている人々は、僕も含め、時々、自分の部屋の「宝物箱」からそれらを取り出して、眺め、ニヤニヤしたいのである。もちろん、実用品であれば、その上で実際に使用して、現代の製品では味わえない感覚を楽しんでみたりもする。

 メーカー勤務というのは、給料が安いけど土日はちゃんと休める、土日の為に平日を頑張るという場合が多く、僕も若いころからその類(たぐい)の人間だった。

だから金曜日の夜はいつも楽しく、特別だった。夕方以降、居酒屋で過ごし、友人たちと馬鹿話をしながら酒を飲んで、ほろ酔い加減で自分の部屋に戻り、シャワーを浴びて、エアコンの冷たい風にあたりながら、クローゼットに収納してあるカメラBOXを持って来て、ついでに冷蔵庫から冷えた缶ビールを持って来て、BOXの蓋を開け、数十年前に製造された美しい工業製品(機械式フィルムカメラ)をニヤニヤ眺める。

ビールをちびちびやりながら、ニヤニヤ眺めるのである。

人によってはそれが腕時計だったり、ミニカーだったり、フィギュアだったり、古着だったり、貴金属だったり、いろいろなんだろう。

でも週末にリラックスした自分だけの時間の中で、宝箱の蓋を開け(開けるのはクローゼットだったりコレクションケースかもしれないけど)心が解放される瞬間は、サイコーに幸せで、それはまさに宝物の効用なのである。あぁ、この瞬間のために、ウンザリする仕事に耐え、アッタマ来るバカ上司に毎日、オレは耐えているんだよなぁ、単にご飯を食べて電気代とか家賃を払うためだけじゃないんだよなぁ、なんて考えるのである。

 人は自分の生活に意味を与えるものに価値を見出し、自分を励まし、死へ向かって時間をなんとか潰して行ける。 

 さて、半世紀を生きてしまった後の今の僕の宝物。それは何だろうか?

 この問いは、自分が今を生きている意味を問うに完全に等しい。たった今この時点で、生きるに値すると思える理由が、この世にどういう形で残っているのか?それと同じ質問である。

僕の今の宝物。

 異国の地での生活は、仕事だけの生活だから、もちろん部屋に宝物なんて置いていない。全部、日本の家に置いてある。だから一時帰国した時に、一人で書斎で過ごす時間に、やっぱり「あぁ、久しぶりにアレを眺めてみたいなぁ」なんてゴソゴソとクローゼットの奥から「宝物」を取り出して来るのである。そんな時間を持つのが帰国時の何よりの楽しみだ。

 そして普段一緒に過ごせない分、ささいな事でいい、家人と朝、一緒に寝坊して、一緒に歯を磨き、一緒にすき家へ行って、ぎりぎり間に合った朝定食を食べる、一緒に味噌汁をすする、そんなので物凄く幸せな時間が過ごせるのである。

 そして自分が育った町の懐かしいあの風景。それをぼんやり眺めながらのんびり散歩する時間。それは短い帰国中にゆっくり流れる時間であり、日本が美しい国だったと改めて感じる時間だ。

「宝物はなんですか?」

 きっといっぱいあるのである。そしてさっき、子供時代の宝箱や、石器や、手作りのペンダントや、母親の笑顔や、ガンプラや、今はもうだいぶ古ぼけた文庫本の背表紙や、初恋のあの子の横顔や、20代の迷いや、それら全てを鮮明に思い出したように、いつか何十年後かに老人になった僕は、今の僕の人生の宝物が実際には何であったのかを、はっきりと思い出すのだろう。そんな気がするのだ。

 散歩から帰る途中で太陽が雲に隠れ、部屋に戻ってきた直後に外は完全に曇り空に戻っていた。

今は窓の外は雨の風景だ。雨の季節はまだまだ続いて行く。

僕はこの雨を降り注ぎ続ける異国の灰色の空を、じっと一人で部屋の窓から見上げている。

宝物はなんですか?

サッカーのPKを見ながらソファーに腰かけ、ダラダラノホホンの道は遥か遠いなぁと思いつつ、25年前に新橋で吹いていた初春の風を思い出したこと

2024/03/01

 僕のいる異国の田舎町は冬が明けるのが遅い。というか暦(こよみ)の上では完全に春なんだけど、気温は0度を行ったり来たりし、マンションに帰れば冷え切った浴室の中でブルブル震えながらシャワーを浴び始める(湯舟がないので、熱いシャワーを長時間浴びて体を温めるしかない)生活だ。

 会社ではやれ来年度の利益計画だ、やれ設備投資の見直しだ、なんて数字まみれで毎日働き、というのを自分の机に座ってディスプレイを睨めっこしながらやりつつ、次々と相談にやって来るナショナルスタッフたちの話を聞いて指示を出し、時々は工場へ走って行って現場でありゃりゃ~こんな状況になってるんかい・・・なんてやっぱりナショナルスタッフたちと一緒に頭を抱えたりしながら、時間はあっという間にたってしまって週末を迎え、泥のように眠って目を覚ました休日の朝には、自分でも笑ってしまうくらいゆっくりした所作で、歯を磨き、お湯を沸かし、コーヒーを淹れ、ソファーに腰かけ、テレビのリモコンに手を伸ばす。

 何もしない、何も考えない、本当に何もしないダラダラ日を意識して作ること、それは大切な健康法の一つだ。

 という事で、今日も僕は30分近くかけて歯を磨き、30分以上かけてコーヒーを淹れ、そのコーヒーを少しずつすすりながら、テレビの画面をぼんやり見ている。日本にいた時から、たいていの休日の午前中は、何かの勉強をするのを習慣にしているけど、はい、今日は何もしない、何も考えない、大切なダラダラ休日と決めたのです。

 テレビの画面には全く知らないサッカーチームの、全く知らない選手が、PKのゴールを決めて大喜びしている。僕は全く興味なくそれを、ぼんやり見ている。

 別にテレビを見て楽しむ必要もないのだ。もし楽しもうなんて「目的」を持てば、次の瞬間、面白い番組がないか僕は探し始めるだろう。それでは意味がない。目的は一切持ってはいけない。何もしない、何も考えない、をやるには、「しなくちゃ」を一切拒否する必要があるのだ。「楽しまなくちゃ」だって禁止である。

 そういやこの間、日本へ一時帰国したときには、なんだか久しぶりに日本のテレビ番組を見て、みんなもはやテレビの時代が終わったって言っているけど、いやいや、渾身(こんしん)の企画が満載の番組や、丁寧に取材されたドキュメンタリーとかもあって、まだまだ日本にはぜんぜん魅力的な番組は残っているじゃん、なんて思った。楽しもうと思えば楽しめる。ラジオが未だに消えてなくならず、実はたくさん可能性のあるコンテンツであると同様、テレビだって人々の素朴で地味な楽しみの一つとして生き残って行けるのでは?なんて考えている。

 僕は昔から、素人の家について行って生活ぶりを取材する有名な番組が好きで、この間の一時帰国中にも久しぶりに見た。

どこまでが本当かは知らないけど、真実も偽(いつわ)りも混在するのがテレビショーってことで割り切って観ているから気にしない。何しろ、しょっちゅう現れるのは、妻に先立たれ、いつまでも引きずる夫たちである。これは悲しいくらい頻繁にその番組に登場する。みんな最初は酔っぱらってベラベラ威勢よく喋りながら賑やかに自分の家に帰って来るのだけど、仏壇の写真を前にふっと真顔になり、急に寂しそうな表情に変わり、先立たれた妻の話を始めたりする。

 逆に夫に先立たれた高齢の女性たちは、生き生きしたシングル生活を謳歌している場合が多い。「優しい人だったネ」なんて亡き夫のことを語る時もちゃんと微笑んでいる。あんまり悲壮感はない。

そういや僕の母親も、父親が死んでからそのあと爆発するように、脈絡なくあれこれやりたいことをやり始め、生き生きとシングル生活を楽しみ始めた。強いよなぁ、人生のその瞬間瞬間に気持ちを切り替えて引きずらない人っていいよなぁ、って母親を見ていたものである。

生物として圧倒的に強いのは、パラノイア的に何か一つの為に必死で生きるやり方ではなく、スキゾ的にあっちこっちに楽しみを見つける生き方なのだろう。

 でも今日はテレビを見て楽しむ目的は、敢えて持たない。目的をもって何かを考えない。ただぼんやり見ている。そして画面の中ではまだ勝負のつかないサッカーをやっている。そう、PKが続いている。僕はコーヒーカップを手に、やっぱり、ぼんやりそれを見ている。

 そういえば昔はPKでサドンデスという言葉が使われていたが今は使用しないらしい。突然、勝敗が決まる、という意味だが、サドンデスでは「突然死」と直訳され、死というのはあんまり良くない言葉だから、代わりに「Vゴール方式」という前向きで明るい言葉を使っているらしい。

というのを、スポーツにあんまり関心のない僕は最近知った。

でもやっぱりPKってイメージはVゴールじゃなくサドンデスだよね。突然勝敗が決まって、敗れた側は、「あぁ、やっちまったぁ。オレのこの最後のプレーでみんなのこれまでの汗と涙に対する結果が決まってしまったぁ。マジかぁ、責任感じるよなぁ。死んでしまいたいくらい気まずいよなぁ」なんて、運動音痴の素人の空想では、まさに突然死というコトバの方が、イメージし易いのである。 

 ちなみに、僕たちロスジェネの老後はまさに「サドンデス」となるらしく、無事に会社を勤め上げ(それさえ難しいが)少々の貯金があったところで、国が将来「ゴメン、もう空っぽだから、年金とか保険とか無理なんだ。自分たちで頑張って」という政策に切り替えて行く以上、ちょっと大病して入院でもすればあっという間にその蓄えはなくなり、退院後の病み上がりでも生活のためにはバイトしながら食いつなぎ、とは言ったって老人の身体だから無理してまた病がすぐに再発して、なんてやっているうちに、もはや病院で治療を受けるお金がないんですが・・・ということで、「老後は大病して働けなくなったらその時点で詰む。サドンデス。それが自分たちの老後」という事になっている。

あぁ嫌だねぇ~、サドンデス。

でも僕たちの老後はサドンデス。

スパっと早めに死ねたもん勝ちなんだね、サドンデス。

なんだか「サドンデス」って名前のペットを飼っているみたいだけど、僕たちの老後はコイツ(きっと不安という名の猛獣)と上手に仲良く付き合っていかないといけないのだ。

 ところで、PKの成功率を調査した人がいて、まず、これで決まれば勝つという場面のシュートはゴールの確率が高く、逆にこれで外したら負けるんだっていうときのゴールの確率は低いらしい。そりゃそうだろう。同じ実力なら、前向きな場面の時にやるプレイの方が、やっぱり気持ちが乗って来るから、結果が出やすいはずだ。

そして、シュートを蹴るまでに時間をかける場合はゴールの確率が高く、逆に短くさっさと蹴る場合は確率が低いらしい。う~ん、これは、自信のある実力者はやっぱり落ち着いているってだけでは?と思ったけど、いやいや全員、プロとして食べている実力者なんだし、データは膨大な数に基づいていて、調査はしっかりしている。個人の実力差の問題ではない。

となると、やるのは決まってるけど、さっさとやらずに敢えて時間をかけて実行する方が、結果的にうまく行く確率が高いってこと?なんて考え始めた。

 何も考えない、なんてやっぱり無理だね。でも休日のこんな時間に、目的なくこんな他愛もない事を考えるのは楽しく、リフレッシュにはなる。

 さっさとやらずに敢えて時間をかけるというのは、仕事でそんなことをすると、一般的には生活残業するお荷物社員、みたいなイメージを想起してしまう。どうせやらなければいけない仕事をどうしてさっさと終わらせて行かないの?仕事が溜まって行っちゃうよ。なんて若手が先輩社員にこっぴどく怒られているのを昔はよく見たが(最近は日本ではみんなが戦々恐々として、お互い疑心暗鬼になっているから、誰も誰に対しても厳しくは叱らない)、PKのゴール確率の調査によれば、「さっさとやらずに敢えて時間をかけて実行する」方が結果がいいらしい。本当だろうか?

 利益を追求する、という目的に照らせば、臆病であることが非常に重要だ。

最悪を想定し、リカバリー対策は常に2つ以上を考え、今の状況がよくても(利益が出ていても)次の時代に乗り遅れるリスクを避けるべく、新しい変革に向けて急いでリストラクションを断行する(費用対効果の低い中高年をゴミ箱に捨てる)、それが経営の鉄則だ。

なんて要するに、役員クラスは全員、本質はせっかちで臆病な悪人だし、それだからこそ経営者として合格なんだろう。どしりと構えて肝が据わっていたら格好いいけど、あっさり会社が倒産して堂々と涼しい顔をされても困る訳で、ふだんからビクビクとコソコソと会社が続いて行く方法を考え続けているような人間が経営陣にいた方が、組織で働いている社員たちには有難いのである。

だから効率を求めるような業界での仕事で「さっさとやらずに敢えて時間をかけて実行する」は普通は駄目だろう。状況が悪くなる前に、新しい機会を失う前に、次々とジャッジして行かなければいけない。もちろん、クリエイティブな業界であれば事情は別かもしれないが。

 そして一方、仕事を離れ、一人の個人として人生を味わって行く上では、確かに「さっさとやらずに敢えて時間をかけて実行する」ほうが、ちゃんとゴールをするのかもしれない。スローライフって言葉が代表しているように、じっくり時間をかけて生活を味わう事で幸福度が高まるのをみんな知っている。どうせいつか死ぬのは決まっているんだけど、だからこそ敢えてさっさとやらずに、ゆっくり時間をかけて生きて行く方が、幸せな死に方が出来るのかもしれない。

 とはいえ、仕事はしっかり、プライベートはのんびり、なんておしゃれでメリハリのある生活スタイルは、なかなか一部の人間にしかできないのでは?と思うのだ。やっぱり性格に根ざす部分が大きいから、仕事でバリバリやる人間は、プライベートでもウザいくらい(家族に白い目で見られるくらい)目的意識をもって細かく休日の段取りを始めてしまうし、逆にプライベートで計画を全く立てず、行き当たりばったりで行動し、ハプニングをのんびりと心の底から楽しめる人は、仕事でもやっぱり、のんびり屋さんが多い。

 大昔(四半世紀前)に勤めていた会社にキムラさんという人がいて、当時既に40歳を過ぎていたけど、この人(もちろん万年ヒラ社員)もやっぱり、ゆっくりというか、だらだらと仕事をやるのが好きで、上司に毎日のように怒鳴られ(みんなの前で罵倒され)、それでも、のほほんとしている人がいた。プライベートは多趣味で、キャンプ道具に凝っていて、休日は電車に乗って、一人でキャンプしに山へ入って行くような人だった。

20代だった僕はこの人の鋼(はがね)のハートは学ぶに値するって見ていたけど、それ以外は仕事で学ぶことはないな、なんて相手はずっと年上だったのに友達みたいにナメた態度で付き合っていた。まぁ僕も人生経験が浅く、痛みを知らない若造だったんだろう。

「キムラさん、今日も課長にムチャクチャ怒鳴られてましたね」

「まあね。仕方ないよね。僕がタラタラやってるから怒っちゃったみたいだね」

「だいぶ怒っちゃってましたね」

「うん」

「で、その仕事、終わったんですか?」

「ううん、まだだよ」

「え?今から僕と一緒に飲みに行くんでしょ?」

「まぁ明日の午前中には終わらせるよ」

「でも明日の朝礼でまた課長に怒鳴られるんじゃないですか?」

「うん、だからその朝礼で午前中には終わらせますって言うつもり」

「・・・さすがです・・キムラさん」

てな具合で、東京の夜の街へ、二人で肩を並べて歩いて行ったものだ。

いつもニコニコしていて、鼻歌をよく歌う人だった。

生きていればもう年金暮らしだね。元気にしているんだろうか?

 ある時、僕が大きな失敗をした。不良品として隔離してあった製品が、僕の間違った指示で工場から客先へ出荷されてしまったのだ。もちろん先方は大激怒である。

僕のこの間違った指示にはキムラさんが一部関わっていたけど、圧倒的に僕自身のミスが原因だった。そのことを僕自身が一番よく理解していた。よりによって最も取引量が多い、会社にとっては一番大切なお客様を怒らせたのだ。

 営業課長に呼び出され、僕たちは罵倒に長時間耐えるしかなかった。今みたいに「やってしまったことは仕方ない。再発防止に向けて真因を把握してから本当に効果のある対策を、納期を決めて報告して下さい」なんて上司が部下に「ですます調」で話す時代ではない。お客からムチャクチャ怒られたじゃねぇかコノヤロウ、今から飛んで行って頭下げて、嫌み言われながら酒を飲ませないといけないじゃねぇかコノヤロウ、俺の週末が丸つぶれじゃねぇかコノヤロウ、誰がこんなバカをやったんだコノヤロウ、の延長線で罵倒されるのである。

「それボクが悪いんです」

「はぁ?」

キムラさんが進み出て、真っ赤な顔をしている課長に言った。

「要するにそれボクが悪かったんです」

僕は、えぇっ!と思ったけど、いやいや、どう考えたって僕のミスであって、僕が悪いんでしょう、ってその場で言えなかった。キムラさんの方を唖然と見ながら突っ立っていた。

僕は自分がズルいのではなく、きっと長時間残業でもう疲れ切っているのだと、心の中で自分で言い訳し、そうしてそんな言い訳を考えている自分が意気地がないと思った。

「要するにじゃねぇよ馬鹿。なんだよ、その言い方。謝って済ませて終わりじゃねえんだよ。なに?一緒に土下座しに行く?それくらいお前に出来んの?」

「いいですよ、山形の工場ですよね。ボク行きますよ」

「バーカ、お前みたいなの連れてったって、お客の機嫌は直んねぇよ」

キムラさんの銀ブチ眼鏡の奥の目が光ったような気がした。課長はそのあとも少しだけ罵倒の言葉を吐いてから、それから事務所を出て行った。アイツに僕の同期は毎日怒鳴られて潰され、アパートの自分の部屋から出て来れなくなったんだ。そんな奴だ。そして潰されて仕事を失っても誰も気になんかしない。

 そのあと僕たちはそれぞれの業務に戻ったが、僕は席に戻りながら後ろから追いかけ、キムラさんに小さな声で謝った。それくらいしかできない自分の卑怯さが惨めで、あの時「いやいや違います。僕が・・」と瞬時に言えなかった自分を責めていた。

キムラさんはいつも通りのほほんとしていて、その日に一緒に帰るバスの中で、「山形って別に行ってもよかったんだけどなぁ。あそこって知ってるかい。僕は若いころ行ったことあるけど、食いもんが本当に美味しくてさぁ」なんてニコニコ喋っていた。優しい人なんだなって思ったのを覚えている。

 そんなキムラさんは結婚せず、購入したマンションの部屋で一人で暮らし、料理を楽しみ、趣味のイベントに出かけ、時々は一人で山へこもってキャンプし、月曜日にまた会社に出て来て罵倒されていた。僕は若すぎて、相変わらずナメた口をききながら、キムラさんを見て、人生に何か目的を持っている訳ではなく、チマチマとその日を楽しんでダラダラ生きている中年のオジサンの一人なんだな、程度にしか考えていなかった。浅い付き合いだったけど、何より自分自身が浅いものの見方しか出来ていなかった。

「人生に何かの目的をもっていない」なんて仮に相手がそうだったとしても、そのことを軽蔑の対象にしてしまえる時点で、僕は本当の迷いも苦しみも知らない、要するに平凡な若造だったのである。

「で、君はこのまんまウチの会社で働き続けるの?」キムラさんが赤ら顔で僕に聞いた。

ここは新橋の小さな居酒屋の中だ。夕方から二人でやって来てハシゴして、もう3軒目だった。僕はここの店の里芋の煮物が大好きで、さっきからそればっかり食べてる。

「いや、ずっとではないです。だって卒業するときに就職活動したけど、他の連中と同様に片っ端から落とされて、でもそんな中、なんとか見つけた働く場所でしょ。今は働き続けてちゃんと食べて行かないと」

「悲しい若者だねぇ」

キムラさんがニヤニヤしている。

「そうですか?」

「若者ならほら、もっと大志を抱かないと」

「キムラさんも若いころ大志があったんですか?」

キョンキョンと結婚したいと思っていた」

「あぁ、そうですか。やっぱそんなもんですか」

「うん」

「・・・・・」

キムラさんは都内にある私大の法学部を卒業していた。司法試験の合格率が高いことで有名なところだったけど、本人は勉強なんかせず世界中を放浪して(当時、既にバックパッカーなんて言葉があったのか知らない)遊んでいたらしい。その後、出版社とか印刷会社とかいくつかの会社で働き、流れ流れて今の会社にいる。

「だってさぁ、こんな平和な国でさぁ、生まれただけで儲けものじゃん。そう思わない?」

キムラさんは僕の顔を見てずっとニヤニヤしている。

「いやぁ、でもここって貧しい国でしょう」

「でも美味しいもの食おうと思えば食えるでしょ?」

「まぁ、そうだけど・・・」僕は里芋の料理が入っていた椀の底を箸で突っついていた。もう何杯目か忘れたジョッキも空になっている。

「人並みに人生味わいたいって思うけど、なんだか自分たちってそれさえ出来る感じがしなくて、とにかくアレしなきゃ、アレが出来るようになっとかなきゃ、もっと頑張らなきゃってずっと焦り続けている感じなんですよね」

「可哀そうな若者たちだね。なるようになるんだよ、人生なんて。たった数十年だぜ。焦ってどうすんの?楽しんどきな。」

「そうですか」

僕は笑ったけど、心の中ではバブル世代の更にその上の世代(キムラさんたち)まで行くと、ノーテンキ過ぎて話になんないな、なんて思っていた。真剣に会話するほど阿呆臭くなって来る。

「次に行きます?」

「うん、そうだね。いいよ、ココは俺出すよ」

「ありがとうございます」

夜が更けて行く。店の外へ出ると、都会のアスファルトの上に立った僕の身体(からだ)を、さあっと冷たい風が包み込む。冷たさの中にもちょっと湿ったぬるいものが混ざっていて、あぁ、もうすぐ春なんだねって思った。

 こんな平和な国かぁって、夜のビル群を眺めながら、さっきのキムラさんの言葉を思い出す。確かに平和だ。何とかなるのかもしれない。が、僕はまだ若く、命がたった数十年であっても死ぬのはだいぶ先だと感じるし、それまでにどんどん食べて行くのが難しくなって、いよいよ「美味しいもの」が本気で食えなくなる時代がいつか来そうな気がしていた。

 営業課長に心を潰された同期の奴はもうアパートの家賃さえ払えなくなって、さらに風呂無しのところへ引っ越そうとしている。それだって自分で手続きが出来るわけでもなく、まだ付き合っている彼女が面倒を見てやろうとしているのだ。彼女はすっかり変わってしまったそいつと本当は別れたがっているが、真面目で誠実な人だから、無理に面倒をみようとしている。

彼女だって大学卒業後に派遣社員とアルバイトで食いつないでいるから、決して余裕がある訳ではないのだ。公務員試験を受けるために資格スクールへ通っていて、そのお金も必要だし。

 僕たちは何とかしなきゃの中でいつも焦り続け、問題を解決するための方法を考え、目標を設定し、目的の為に努力し、努力しても必ずしも目の前の門が開かれるとは限らず、そのまま歳を取って来た。

そうして、何十年もたって、真実はむしろこうだった。人生はいったん目的を持ってしまえば、それを実現する為に効率的にやろうと努力が始まり、目的に対する執着が強くなれば、最終的には目的はどんどん一つに集約されて、パラノイアックに「何かの為に」生き、その何かを失えば人は結局、抜け殻になる。

人生に目的を持つ、なんて実は悪夢の始まりなのだ。

厄介だなぁ。

面倒だなぁ。

でも、そもそも何かの為に生きるというのを一切しない、なんて出来るだろうか?

僕は考え始めた。

人の為でもモノの為でも、もし何かを生きる支えにしていれば、それは要するに目的とか意味をもって生きているということである。が、世界や人生や人間の命には目的も意味もないのが真実なのだから、さてその上で、「何かの為に生きる」ことを止めて、真実の世界を生きることが出来るのだろうか?

誰かを大切に思うことでさえ、それは執着(しゅうちゃく)であり、不幸の源(みなもと)の一つであるとブッダは言った。「何かの為に生きる」のが苦しみの始まりということだ。執着から苦しみは始まる。

 じゃあ逆に「何かの為に生きる」ことを本当に止め、目的も意味もない世界で生きてみせれば、僕たちは苦しみや不安から解放されるのだろうか?

本当に解放される?

これは2つの道がある。

 一つはジョーカーとして生きる道。意識して狂えばいいのである。意味もなく味わい、目的もなく奪い、意味や目的なく極端に走ることが力を持つことだと信じ、不条理の具現者として殺人者になればいいのである。

想像力の乏しい連中はこの道を選ぶことに心を奪われ、時々、街に飛び出して行ってひどい事件を起こし、あっさり捕まり、警察に連行される途中でカメラに向かってニヤリと笑ってみせる。が、すぐに自分が、大勢いる何ら個性のない凡人の一人だと気づくだろう。意味や目的がないという世界の真実に対して、神様の物語を作って抗(あらが)うことも、街へ飛び出して刃物を振り回し自らが不条理の具現者になることも、同じ道である。負け戦(いくさ)が確定した抗(あらが)いでしかない。意味や目的を全否定することも全肯定することも、不安や苦しみから解放されたいという強い願いを由来とする。

 そしてもう一つはダラダラノホホンと生きる道。何のために生きたところで意味なく、そもそも人生に目的はなく、それに気づきながら、かと言って極端に走らずに、ニコニコ笑いながらダラダラ生きる道である。

これはやはり肝(きも)が据(す)わっていなければ出来ない。忍耐力がなければ出来ない。少しくらい生活が貧しくなったからって不安になってはいけない。ブチブチと文句を言いながら笑って暮らして行けばいいのである。

でもそういう平凡な人が、平凡に生きて、「ま、誰だっていつかは死ぬんだしね」なんて平凡にガン病棟の病室でパジャマ姿で死んで行く様(さま)に、凄みを感じ、だから僕たちはそれでも生きて行けると信じられるのだ。

そして今の僕には残念ながらそんな凄みはなく、肝が据わっておらず、きっと自分の命が短いと知れば怖気づき、自分の大切な人の命が短いと知れば生きて行けないと毎日、泣き叫び続けるだろう。そんな気がしている。

 さて、このダラダラノホホンと生きる道、にはやっぱりちょっと秘訣があって、「完全には」何かの為に生きることを止めない、というのが大切なのかもしれない。

生きている人間が、そんな達観した超人みたいな人になる必要はなく、達人たちはちょこちょこお酒とか煙草とかムダ遣いとか、しょうもないことも含めた日常の些細な楽しみを、それほど熱心ではないけど、ちょこちょこ楽しみにしながら生きているのだ。

まさに意味も目的もなく死ななければいけないと分かっているのに、ダラダラと時間をかけて生きる、そんなダラダラのコツみたいなもんだ。そういう風にも見える。

 それは充実した人生を送りたいとか、意味のある人生を送りたいとか、人よりいい生活をしたいとか考えて、常に何かに向かって一生懸命に取り組む姿勢とは、全く正反対の生き方だ。だから、そのまんま子供達には教えたり、勧めたりする訳にはいかない。だってそれは、子供たちがまだ見てはいけない、世界の真実の一部だからだ。

 今になって思い返せば、あのキムラさんはきっとそういう人だった。

勿論、生まれた時代がよかったのかもしれないけど、彼はまちがいなく幸せそうだった。お酒も好きで、煙草も好きで、競馬も好きで、麻雀も好きで、女の子も好きで、料理も好きで、キャンプも好きで、釣りも好きで、でもそれらをちょこちょこ好きなだけで、何か一つにのめり込むことは決してせず、善良に生活し、いつものほほんとしていた。きっとダラダラノホホンの達人だったのだ。ひょっとすると学生時代に世界で放浪中に、彼は何か大切なものを見つけたのだろうか?

 でもとにかく「人生に何か目的を持っている訳ではなく、チマチマとその日を楽しんでダラダラ生きている」なんて、実は軽蔑の対象ではなく、尊敬すべき対象だったのである。それが分かるのに僕は25年もかかったという事だ。それこそ阿呆臭い話である。

 平凡な市井の人々の生きざまと死にざまこそが、真実なのかもしれない。この歳になって、僕はしみじみそう思うのである。

 突然、PKは結果が決まった。まさにサドンデスだ。シュートを外した選手が頭を抱えている。一方、その直前にシュートを決めた相手チームの選手は飛び上がって大喜びだ。

子供のころから才能を発揮し、サッカーの英才教育を受け、朝から晩までサッカーを中心に生活をし、しかも幸運なことに結果が付いてきたから今の彼らがあるのかもしれない。

サッカー以外にも既に生きがいがあるといいんだけどね。現役を降りた瞬間に、スポーツ選手が急に多趣味になる場合は多い。それは、勿論、本人たちが口を揃えて言うように、それまでやりたくてもやる時間がなかったからかもしれないけど、同時に、色々と目的を持たないと、一種の大きな喪失感から逃れられないからかもしれない。

 という僕だって、何もしない、何も考えないって決めたはずなのに、ソファーで考え事をし始め、結局、洗濯とか掃除とか、一日の段取りを考えているのだ。上海に受けに行く語学試験の準備とか、来週の仕事の段取りも考えている。

常に目的を決め、効率的に処理する為に考えをめぐらすなんて習慣は、何十年もやって来て簡単に抜けることがない。それは組織で実務者として働く上では都合のいい素質だろうが、そのことが必ずしも幸福に結びつく訳ではない。敢えて「スローライフ」って口にしなければ行けないところに、そうすることの難しさと人生の無理が見え隠れしているのである。

 だからやっぱり、僕はこのままパラノイアックに「何かの為に」生き、いつかその何かを失って抜け殻になるのかもしれない。

そう、いつか大切な人の遺影の前で遠い目をしてテレビのインタビューを受けるのだろうか?

上手に生きないとね。キムラさん。

上手に相手するよ、サドンデス。

 異国で一人で過ごす休日が、またこうして過ぎて行く。

あ、サックスの練習したいな、まだ吹けないフレーズがあって、そこを吹けるように今日は練習しなくちゃ、って「しなくちゃ」に思い当たり、いかんいかん、僕はもう一度ソファーに深く腰掛けた。ダラダラノホホンって難しいんだね、やっぱり。でも色んなことに興味を持つってのはいいことか、なんて独(ひと)り言(ご)ちてみた。

 25年前の新橋に吹いていた春風を、僕は今、思い出している。あれから25年もたってしまった。

そして僕がいるここはまだ、なかなか冬の明けない遠い遠い異国の田舎町である。

フィリップ=マーロウの言葉と山岡鉄斎の生涯を振り返りながら、中学時代に受けた歴史の授業を思い出し、自分の選んだ人生の中で自分なりに強く在りたいなぁなんて思ったこと


2024/02/11

「強くなければ生きていけない。優しくなければ意味がない」

 僕は学生時代に大学の寄宿舎で生活していたけど、そこはまさに「ザ・寄宿舎」って感じの古めかしい鉄筋の建物だった。

実際、戦前に建設されていて、終戦直後にはGHQに接収され米軍の宿舎にも使用された。大学の敷地内にあるその寄宿舎に、20歳前後の若者たちが地方から集い、青春を謳歌して、卒業(卒寮)して行ったのだ。部屋も廊下も今じゃ考えられないくらいボロボロで、時代は既に平成だったけど昭和のデカダン宜しく、そんな環境の中、僕たちはジャージ姿でウロウロし、毎晩どこかの部屋に集まっては酒を飲み、騒いだ。

もしちょっと一人になりたければ屋上に上がって、鉄製のフェンスにまたがり、眼下に広がる街の風景を見ながらゆっくり煙草を吸った。

 20畳3人部屋、というのが寮の規則だったが、僕も1年生の時は、4年生と2年生の先輩と同じ部屋で暮らし、上下関係が厳しかったから、最下級生としてせっせと部屋を掃除し、先輩が授業やサークルから帰ってきたらお茶を入れたりしていた。

「強くなければ生きていけない。優しくなければ意味がない」

誰かの落書きだった。

部屋の木製の戸棚のドアの内側に、そんな言葉が毛筆で書かれていたのだ。いつの時代の学生が書いて行ったのか知らない。大昔の学園紛争が激しかった頃に住んでいた人かもしれないし、その後のシラケムードの学生だったのかも、バブル期のイケイケ時代にディスコで踊りたくっていた学生だったのか、それは分からない。が、迫力ある毛筆で、その言葉が書いてあったのだ。寮のあっちこっち無数に書かれた落書きの一つだった。

「強くなければ生きていけない。優しくなければ意味がない」

 それが実はレイモンド・チャンドラーという有名な小説家の有名な言葉だと知ったのは、大学を卒業してからだ。子供のころから読書は大好きだったけど、偏った読書家だったので、普通の本好きが知ってそうな作家や作品を全然知らない、今もそういう感じである。

 レイモンド・チャンドラー第二次世界大戦前後にアメリカで大人気となった作家で、探偵小説などのハードボイルド作品を世に出し、後の作家たちにも大きな影響を与えた。

寮の部屋に書かれていた落書きの言葉も、そんなハードボイルド小説の主人公、フィリップ=マーロウが語った言葉から抜き取ったものだ。

 マーロウはいかにもハードボイルドって感じのヒーローで、腕っぷしが強く、酒に強く、悪党どもをガンガンぶちのめしながら事件を解決する「強い」私立探偵だ。アメリカの古き良き時代にいた、バーボン・ウィスキーとキャメルの煙草が似合う、典型的な「強い」ヒーローだった。

それはおそらく作者であるレイモンド・チャンドラー自身の人生の理想像であり、自分が生み出したそんなヒーローの口から語らせたのが、くだんの言葉だったのである。

一方、本人であるレイモンド・チャンドラー自身は、アルコールに溺れやすい一面を持っていた。長く連れ添った妻シシィが亡くなるとひどく落ち込んで心を病み、5年後に後を追うようにこの世を去っている。

「強くなければ生きていけない。優しくなければ意味がない」

 英語の原文を見ると色々な和訳が出来そうだし、事実、彼の作品の翻訳者の違いによって、その言葉は全然違って表現されているけど、僕はやっぱり、あの寄宿舎の部屋に書かれていた言葉が、一番すんなり心に響いて来る。

 ところで話は変わるけど、中学校の歴史の先生にヒトミ先生という人がいて、ヒトミというのは苗字であって男の先生だったのだが、口ひげをたくわえ温厚な顔立ちで、実際に性格も温厚な人だった。スーパーマリオという当時の中学生がつけそうなあだ名で生徒から呼ばれていた。

 僕の通っていた公立の中学校は当時、ひどく荒れていたから、廊下にスクーターを持って来てレースをするだの、屋上から熱湯の入ったヤカンを通行人めがけて落とすだの、運動場の外部倉庫の裏でリンチをやって授業中にパトカーと救急車が次々やって来るだの、4階のトイレは不良の巣窟(タバコ部屋)になっていて換気のために男子トイレも女子トイレも全部ドアが壊されてないだの、そんな毎日で、要するに昭和の分かりやすい荒れた学校だった。

中学校の不良が暴走族に就職し、暴走族から次のステップの反社と呼ばれるプロにヘッドハンティングされる、という流れが定着していて、まぁ地方都市にありがちな昭和の学校だったのである。

 なので、性格が温厚過ぎる(優し過ぎる)先生の授業は成り立たたず、教室内はほぼ自習状態で、カードゲームをする奴、整髪料の瓶にガソリンを詰め替え家から持って来て自慢をしている奴(後日、自分で大ヤケドしていた)、窓辺に腰かけエアーガンで気まぐれに教室内の誰かの目を狙って撃って楽しんでいる奴、なんて無法地帯の中を、「やめなさい」って弱々しくつぶやきながら先生がウロウロするといった光景がよく見られた。

 そんな具合だから、真っ赤なジャージを着た角刈りの体育教師が「生活指導」として着任し、いつも竹刀をもって校内をウロウロし、授業を抜け出して煙草を吸っている生徒を見つけては追い回しぶん殴っていた。

授業が崩壊しないよう、たいていの先生たちはちょっとでも騒ぎ出す生徒が現れたら豹変してその場で怒鳴りつけ、時には教科書の背で頭を叩き、複数回ビンタし、教室内が一瞬静まり返った後で粛々と自分の授業を再開した。荒れた学校で授業を維持する為の一種のテクニックだったのだろう。ホントにいかにも昭和の中学校だった。

 さて、ヒトミ先生はそんな学校にあって温厚な性格だったから、決して怒鳴ることもせず、従って生徒たちはフツーはつけ上がり、授業を崩壊させるはずだったが、なぜかみんな彼の歴史の授業を静かに聞いていた。不良と呼ばれる連中も、後ろの席で自分の机にうつ伏せになって寝たり、弁当を食べたり、時々教室を抜け出してタバコを吸いに行くことはあったが、大声をあげて授業を中断したり、他の生徒にちょっかいを出してもめ事を起こすといった事もせず、静かにしていた。

 僕はいたって普通の真面目な生徒だったが、ヒトミ先生のそんな授業の光景が不思議だった。

時々、騒ぎ出そうとする生徒がいても、ヒトミ先生がそいつの方を真っすぐ見据えて「うん、やめな」と、分かってるだろ?みたいな感じで一言いうと、その生徒は大人しくなったのだ。温厚な先生だったけど、僕たち生徒たちからは不思議な力のある人だった。スーパーマリオは普通の大人ではなく、ひょっとしたら、普段は優しいけど、怒らせたらマジで後悔するくらい怖いのかも、なんて中学生に想像させるような不思議な迫力を持った人だったのである。

 ヒトミ先生の歴史の授業はいつも一人称だった。というと語弊があるかもしれないけど、事実の羅列(られつ)の中で相関関係をポイントとして抽出して「これテストに出るぞ」なんてな勉強のための授業ではなく、どちらかというと、戦国時代にこういう人物がいてな、ずば抜けて有名ってわけではないけど、これが凄く魅力的な人物でな、みたいに、ヒトミ先生が興味のある歴史上の人物の人生をゆっくり語りながら、その人物が生きた時代の背景や、政治体制や価値観を語る、そういうスタイルだった。

 彼の授業を受けることで歴史が好きになった生徒は多かったはずだ。僕はもうそのずっと前から兄貴の影響で歴史が大好きだったけど、それでもヒトミ先生が紹介する人物に興味を持ち、そのあと町の図書館へ行って自分でもいろいろ調べるなんて幸せな時間を、子供なりに持つことが出来た。

 だから、スーパーマリオが口ひげをもぞもぞ動かして語っていたのは、決して義経や信長や高杉なんかのスーパーヒーローではなく、平忠盛とか豊臣秀長とか山岡鉄斎とか、常に時代の裏側にあって、決して目立たないけど、でも確かに時代のど真ん中にいたそんな人物たちだったのである。

 僕が歴史上の人物で一番好きなのは山岡鉄斎だけど、それはそんなヒトミ先生の授業を受ける機会もあったからだ。勿論それまで、幕末の志士や新選組のメンバーは何度もテレビや映画に登場して大活躍していたから知っていた。でも江戸末期の本当の最後の最後のしんがりを務めたこの人物のことは中学生になるまで知らなかった。

 山岡鉄斎は幕末の旗本で江戸城無血開城の道を作った人だ。

北辰一刀流を学んだ剣客だったが、その剣の強さを表に出すことなく(特別に有名なエピソードもなく、生涯一人も殺めたことがなく)、滅んで行く江戸幕府の体制側にあって、粛々と自分の立場で出来る最善のことをやった人だ。

戊辰戦争の時に、本音は「新しい時代の為に江戸は焼き尽くし、古いものは徹底的に破壊しておかなければならない」と考えていたであろう西郷隆盛駿府まで迫り、いよいよ江戸で戦(いくさ)か、という時に、勝海舟の使者として単身、その駿府まで西郷に会いに行き、後の無血開城に至る勝と西郷の会談の事前段取りを行った。途中で斬られても不思議ではない敵地への使者である。が、山岡はそれを粛々とやり切り、しかもそれを自身の手柄にすることがなかった。勝のように「あの時はさぁ」なんて武勇伝をのちに語ることもしていない。

 明治政府が出来ると出仕して知事を歴任し、明治天皇の侍従となり、その後は剣術道場をやりながらたくさんの芸術的な書を残している。幕府の旗本だったのに新政府にあっさり仕えるとはどんな料簡か、なんて心無い陰口を投げつけられる事もあったが、本人は一向に気にせず、自分が出来ることを粛々とやるのみって感じで、その時その時の仕事に全力で打ち込み、一緒に働く人々を気遣い、人々に慕われ、きちんと結果を残している。

 さて、そんな山岡鉄斎の最期はどうだったか?

晩年は既に剣術・禅・書の達人として名声が確立していた人物である。末期の胃がん(当時は激痛に耐え死を待つのみだった)の病床をひっきりなしに親交のあった人々が見舞う中、いよいよ今日が最後という日に、いつも通り、弟子たちに剣術の練習を始めさせ、いつも通り奥さんには琴の練習を始めさせ、とは言ってもなかなか死なない自分のせいで見舞いに来ている皆に退屈をさせては申し訳ないと、親友の落語家に落語をやらせた。最後まで人々を気遣う人だった。優しい人だったんだね。

享年53歳。

文武に秀でた達人と呼ばれ、多くの人に愛されたこの人物の辞世の句はどんな内容だったのか?さすがと後世の人々を唸らせる、非凡な句だったのか?

「腹いたや 苦しき中に 明けがらす」

胃の激痛の中で苦しんでいるうちにカラスの鳴く明け方になっていたよ、という内容である。

え?ホントに?

そのままである。

どこまでも平凡に、決して自らを大きく見せることなく、自らの運命や使命を素直に受け止め、自分が出来ることを粛々と一生懸命やるのみ、というその志(こころざし)に、この人の凄みを見るのだ。辞世の句を初めて読んだ時に僕はそう思った。本当の強さとはそういうものなのかもしれない。

「あるがままを受け入れればいい」なんて体調のいい時にキレイごとでは言えるけど、末期癌の痛みと苦しみの中で、普通の人がそんな悟りの境地になれるものだろうか?よほど強い人間でなければ無理かもしれない。ましてや痛みに極端に弱い僕には絶対無理な話だ。きっと「とにかくこの痛みを何とかしてくれ!」って最期まで誰かを相手に泣き叫びながら死んで行くのだろう。

 「武士道」というものがあるとすれば、バッサバッサ人を斬ることや、難しそうな顔をして禅の修行をしながら、時々パフォーマンス的に日本刀を振り回して演武することなんかじゃなく、または自分の大切なものの為に命を懸けたり、あっさり自分の命を投げ出してヒロイックな感傷に浸ったりするのではなく、まさに山岡がやり抜いたように、平凡に、自らの運命や使命を素直に受け止め、甘えず、自分が出来ることを粛々と一生懸命やり抜く事なのかもしれない。

「襲撃だ!シュウゲキー!シュウゲキ開始!」

 黒塗りの車高を落としたセダンが物凄い轟音を響かせて突如、運動場に侵入して来た。体育の授業を受けていた生徒たちは高跳び用のマットとかを放り出していっせいに校庭の隅の方へ逃げ出し、セダンは時々クラクションも鳴らしながら、運動場を猛スピードで何度も周回した。

教室の中で授業を受けていた生徒たちはみんな、これから始まるシュウゲキの一幕を見ようと、自分の席を立って運動場が見える窓辺に集まって来た。

 セダンが運動場のど真ん中でピタリと停まり、中から5人組の大男たちが飛び出して来る。みんな学ランは来ているけど、持っているのはカバンとかじゃなくて、鉄パイプみたいな類(たぐい)の武器で、およそ勉強には関係なさそうな代物である。これからこの校舎の誰かがいる教室に乗り込み、囲み、街で生意気な態度だったことを詫びさせ、他の生徒が見ている前で土下座させ、それでも許さず、泣いて許しを請おうとも許さず、やはり他の生徒が見ている前で痛めつけるのだろう。で、通報を受けた警察が到着する直前に、車にも乗らずバラバラになって徒歩で逃げ去って行くのだ。車は乗り捨てて行く。前にも何度か見た光景だった。

「席に戻りなさい」

「席に戻れ」

みんな成り行きに興味津々だったけど、ヒトミ先生のちょっとキツめの指示もあり、そして5人組も校舎の中へ入って見えなくなってしまったから、それぞれが自分の席に戻った。歴史の授業再開だ。

 が、ちょっと黒板にチョークで板書を書いていたヒトミ先生は、手を止め、やがて僕たちの方を振り返るとゆっくり語り出した。

「あのな」

スーパーマリオの声は静かに、そしてマイルドに教室を響き渡る。

「あのな、ああいう連中はどこにでもいるんだ」

「先生が高校生だった頃の話だけどな、先生は高校受験に失敗して行きたかった所へ行けず、ああいう連中が牛耳っている学校に通っていた」

「ああいう連中って括(くく)ってしまうと教育者として先生は失格なのかもしれないけどな、ああいう暴力と自分の欲求が一つになった外道(げどう)ってのがどこの社会にもいてな、そういうのがその場を仕切っている事が多いんだ」

「でな、先生はその外道たちに目をつけられて毎日毎日、使い走りにされてな、あれ買って来い、これ買って来いって金をせびられて、高校時代は本当に地獄だった」

「先生も結構、体は大きい方だけど、相手のボスってのが後々プロレスラーになる人で、もし名前を出したら君たちのお父さんやお母さんが多分知っているような有名人で、当時からガラが悪く、当時から先生よりもっとガタイがよくて、誰も絶対に逆らえなかったんだ。すぐにキレるし、その場で思いついた意地悪を相手が誰だろうとやろうとするし、すぐに人を殴ったり蹴ったりする人だった」

「でもな、17歳とか18歳でいよいよ精神的にも大人になるタイミングで先生もな、さすがにこんなの納得が出来ない、そもそも自分の人生はこんなはずじゃなかった、なんで自分が毎日毎日、小突き回され続けなければいけないんだ、やっぱりあんな外道たちが野放しになっているのは世の中が間違っているって思って、卒業間際に一度だけ反抗したことがある。」

中学生たちからすれば「大人の体験談」である。「大人の暴力」は「大人の性」と同様に、こんな刺激の強い話はない。教室の中でみんな固唾(かたず)をのんでヒトミ先生の話に聞き入っていた。

「入院した」

「自転車の空気入れで後頭部を叩き割ってやろうと持ってったけど、取り上げられて逆に笑いながらボコボコにやられた」

「暴力に対して先生は暴力で勝とうとしたんだけどな、暴力っていくらでも上があるし、もしその場で勝ったとしても、さらに次の暴力の世界があるし、あんま意味ないんだよな」

「何カ月も入院しながらそう思ったんだ」

「だから外道はどこにでもいるんだが、そんなものは放っておいて、先生なりに正しいと自分で誇れることをやろうと思ったのさ」

「高校受験に失敗してあきらめてたけど、またコツコツ勉強を始めて大学入試を受けることにした。通ってた高校はそんな外道たちの集まりで、大学なんか行く奴はいないところだったけど、コツコツ勉強して、1年浪人して、大したところじゃないけど大学に入ったんだ」

その後、ヒトミ先生は教員免許を取り、大好きな歴史を子供たちに教えるという、自分にとって正しい、誇りを持てる仕事に就いて、決して給料は高くないし出世は見込めないけど、コツコツと授業をやっている。

外道たちにも外道となった理由があるのかもしれないし、家庭環境の悪さは本人たちのせいではないかもしれないけど、外道は外道だ。教師としてそういう括り方(切り捨て方)は問題かもしれないが、自分は放っておくのだ。運が良ければ立ち直るかもしれないし、そのまま行けばどっかの都会の汚い川に死体となって浮き上がるだろう。暴力の世界はどこまでも深く、どこまでもえげつなく、だからそれだけのことで、自分は相手が子供だろうと立ち入らない。自分にはどうすることも出来ないのを知っているから。

 ヒトミ先生はそんなことを語った。そして静まり返った教室を背に、また再び板書を始めた。

 今思うと、ヒトミ先生も、自分の立場で自分に出来る最善のことを粛々とやっていた人だったのかもしれない。そういう人には自然と漂う他人への気遣いとか優しさがあって、自然と人が集まって来るのだろう。校長の受けは悪そうだったが、生徒には人気があった。そして、どんな不良も手を出さない不思議な迫力のある人だった。

「強くなければ生きていけない。優しくなければ意味がない」

 人はそれぞれの制約の中で人生を選び、選んだ人生それぞれの中で、本当の強さとは、本当の優しさとはを考えながら、不条理の世界を生きている。

 30年前に暮らしたあの寮はまだ横浜の小高い丘の上にあるみたいだけど、中身はすっかりリフォームされているだろうから、もうあの毛筆で落書きされたフィリップ=マーロウの言葉は無くなっているに違いない。

 青春を謳歌したその場所にあって、その時は誰の言葉かも知らず、意味も深く考えなかった落書きの言葉を、自分の選んだ人生を半世紀生きて来た僕が、今しみじみと思い出し、自分なりに強く在りたいなぁなんて、しみじみ考えているのである。

大昔の受験戦争とそれを潜り抜けた英雄の物語を知ったけど、結局、英雄の生きざまではなく、自分は凡人としてダラダラ幸せに生きて行くんだなぁと思ったこと

2024/01/15

 珍しく晴れ上がって青空が広がっていたので、休日にコートを着て近くを散歩した。大昔の時代の儒学の学校である「書院」というのが、中国のあっちこっちに復元されていて、そこら中で大なり小なり観光名所化され公園などになっており、そのうちの一つが住んでいるマンションの近所にあるので、初めて散歩に行ったのだ。

 書院は川の中州に復元されており、屋根付きの橋を渡って歩いて行くのだが、これがまたいかにも大昔からあったかのような豪華な見た目で復元されている。地方都市も含めて、お金のあるうちにこういった観光施設をあっちこっちに作ってしまう、というのは我々の国も35年くらい前に経験したなぁ、なんて考えながら僕は橋を歩いている。 バブル期に建てられた妙に豪華な建造物が、日本のあっちこっちで無人のまま老朽化して、社会問題になった時期が少し前にあったっけ。

  

 書院は昔の儒学の学校と言ったが、宋代以降は私塾として発展し、朱子学陽明学を市井に生み出した。当時は科挙制度全盛でとにかく試験に合格さえすれば立身出世の道が約束されていたから、野心のある若者たちはこの書院に通って、死に物狂いで勉強したらしい。

 橋を渡り終えたあと、更にテクテク奥まで歩いて辿り着いた「書院」は綺麗に整備され、まるで美術館みたいに復元されていた。僕は中に入って展示物やパネルを一つ一つ眺め、ゆっくりと広大な回廊を巡った。

 宋の時代って武断政治から文治政治への転換期って昔、歴史の授業で学んだけど、辺境を守っている武官たちが大抵、次第に力を持ってやりたい放題を始めて、調子に乗って中央の都に攻め上り、遂に国が傾く場合が多かったから、いかんいかん、やっぱり試験で頭のいい奴を雇って官職を授け、そういう高級官僚を辺境に派遣して、そこにいる暴れん坊たち(武官たち)を上手にコントロールさせよう、という、要するにシビリアンコントロールのことだった。だから、武ではなく文で治める、という考え方だったんだね。

 でも、武官たち(暴れん坊たち)がそもそも辺境を守っていたのは、その向こう側にいっぱいいる北方民族の侵入を防ぐ為であり、これがまたもっと輪をかけて暴れん坊たちだったから、文治政治とか言っているうちに、馬に乗って何度も攻め込まれ、お金をあげるから許してねって交渉をしたが、ついに北半分をうしない(北宋の滅亡)、結局、南に残った国も、最後に暴れん坊の親玉だったフビライに攻め落とされて滅んだ(南宋の滅亡)。

 だから宋代というと、ちょっと脆弱なイメージだが、実は南北の時代を合わせると300年も続いており、その間、農業技術と土木技術の飛躍的な発展、未曽有の経済繁栄があり、火薬・羅針盤・印刷術という三大発明があったのもこの時代だ。この時代は絵画の世界でも、宮廷画とは別のもっと自由な絵(美しい自然の風景を対象にしたり)を描くのが流行って、文人画として成立し、日本の水墨画にも大きな影響を与えた。実は「お金あげるから許して」の裏側で、平和が維持され、商工業が発達し、文化が発展した上で、人々の生活水準も一気に上がった豊かな時代だったのである。

 さて、こうして、大昔に学校の授業で習った内容を思い出しながら近所を散歩している僕の2度目の海外駐在は、もうそろそろ半年以上がたつところだ。逆に言うとまだ半年ちょっとだ。決して暇ではなく、休日こそ、こんな風にプラプラしているが、平日は朝から晩まで、むしろ仕事に忙殺されているのに、時間がたつのが妙に遅く感じられるのは、僕がもう年を取り過ぎたからだろう。まだ若さが残っていた1度目の駐在の時に味わったあの忙しさは、何もかもに対してがむしゃらで、言葉の問題もあり、どこかで常に不安もあった上での忙殺だった。

 しかし今の忙殺は、言葉の問題が解消されているだけでなく、仕事の上でもどこかに老獪(ろうかい)な開き直りがあり、不安と言えば、身体がすっかり老朽化しているので、いつか一気に崩れないかその点のみである。

 嫌だなぁ、僕も若いころ見上げていたあの上の世代のオッサンたちのように、ふてぶてしさと鈍感さの入り混じった、だらだらと時間を消費する、そしてたいていは自分の身体のことのみ心配している、しょうもない人間になってしまったのだろうか?

 若かった頃、老境に差し掛かった中年のオッサンたちが、せっかく一緒に会社の食堂で昼ご飯を食べているのに、自分たちの病気の話を延々としているのを聞いて、ものすごく不快だったけど(なんだ、コイツら。自分の身体の心配ばっかで、もう少し自分たち若者に対する配慮とかないの?こっちはずっと聞いているだけなんだけど)、要するにそういうしょうもない「生き物」になったのかと思うとゾッとした。このままどんどん自分の生(せい)にのみ固執して行けば、やがてそうやって、関心事の中心は自分の年金の金額と病院通いという、しょうもない、そして国をどんどん傾けて行った膨大な数のあの人々と同様の生き物になってしまうのではないか?

 とここまで考えたら、あれれ、大丈夫だ。少なくとも「年金」とか「病院通い」というのが、自分たちの老後にはもはや生活の中心として成り立たない事を思い出した。ちょっとした補助制度くらいのもんになるんだったね。自己責任という名のサバイバルゲームが僕たちの老後には待っているんだった。

が、年を取れば何事にもそんなに驚かず、それはひどく不安にもならないが、心から感動したり熱中することも無くなった、という事であり、一方、我々人間は「身体」に引きずられて行くのだ。富める年寄りも貧しい年寄りもそれは同じである。何かに感動し、熱中してがむしゃらになる事が少なくなる一方、毎日、あぁ今日はカスミ目がひどいなぁとか、先週ひねった足が歩くたびに痛いぞとか、そんなしょうもない事が頭の中心を占め始めるのである。僕たちは肉体に引きずられて生き、肉体に引きずられて死んで行く。人間50年を越えて行けば、やっぱり、そんな長寿は不自然なことであり、このまま「しょうもない生き物」に僕はなって行くのだろうか?それは恐怖だ。人間50年が一番よいのでは?

「ホットコーヒーを一つ」

だいぶ歩いたから、さっきから喉が渇いていた。

書院のそばにあった土産物屋でコーヒーを売っているのを見つけ、僕はブラックを一つ注文して椅子に座った。

 コーヒーを飲む文化はすっかりこの国にも定着したけど、そうは言ってもやっぱりお茶の国であり、都市部じゃない限りまだまだ田舎では飲み慣れていない人も多く、喫茶店で死ぬほど薄かったり、逆に死ぬほど濃かったりして出されるものである。

出てきたコーヒーを恐る恐るすすってみたら、ちょうどいい濃さだった。この書院は川の中州に建てられているだけあって、太陽が出ているとは言えやはり季節は冬であり底冷えがする。暖かいコーヒーが飲めるのが本当に有難かった。

 ふと横を見ると、土産物の中に書籍があって、書院→儒学儒者というつながりの中で、有名な儒者科挙で合格した高級官吏の伝記本が並んでいた。何気なく手に取って、コーヒーを飲みながら読んでみる。文天祥、あぁ知っているぞ、有名な人だね。そうか、彼も宋の時代(南宋時代)の人で、科挙試験で一発合格して立身出世した有名人だったんだ。なんて興味を持ち、もう一杯、コーヒーを頼んで読み続けた。どうせすることはない。そして2杯目が「死ぬほど濃い」上に数滴、ソーサにこぼして出されて来たので一瞬、ムッとしたけど、僕はその土産物の伝記を読み続けた。

 文天祥南宋末に現れた中国の英雄だ。その生涯は幕末の吉田松陰藤田東湖にも影響を与え、松陰は文天祥の「正気の歌」をベースに同じような漢詩を作っている。

 彼は中国の田舎の出身だけど、22歳で科挙試験(その中でも殿試という皇帝直轄の試験)を1番で合格した。科挙って合格率が3000分の1って言われる難関試験だったから、相当優秀な人だったんだろう。でもそんな風に若くしてトップエリートの官僚となったのに、その真っすぐ過ぎる性格が災いして、政治の中枢にいた宦官の腐敗を糾弾し、それが無視されたのであっさり官職を投げ捨て、そのまま地元へ帰ってしまった。間違っているものは間違っている、とはっきりとモノを言い、絶対にそれを曲げない人だったんだね。

とはいえ、当時は北方の金を滅ぼした元(モンゴル人たち)が次々と南宋を襲い国は危機に瀕しており、そんな時に限って人材がなかなかいないということもあって、文天祥は再び時の宰相に呼び戻され政治の道に戻る。が、その自分を政治に戻してくれた宰相をまた「アイツ駄目じゃん。無能じゃん」と弾劾してしまったので今度は地方に飛ばされてしまった。そして実際、その宰相は文天祥の言った通り駄目で無能だったので、南宋は大きな戦に負け続けて、いよいよ国自体が滅びようとしていた。

 せっかく科挙試験で体制側のトップエリートになったのに、「正しいものは正しい、間違ったことは間違っている」を貫き通して体制から外へ飛び出し、その後、またその体制側に戻されたけど、今度は「駄目なものはダメ、無能なものは無能」と言ったら辛酸を舐めさせられ、そんな目に自分を遭わせた体制(国家)がいよいよ滅んで行く最中にあって、文天祥はなんと私財を投じ義勇軍を募り、元と戦っている。

不思議な人だ。

科挙試験に合格しトップエリートになったのだから、体制側に入って得られる既得権益、要するに甘い汁をしっかり吸って、もし不正やおバカな権力闘争を見たとしても、「まぁまぁ、色んな政治家がいますわなぁ」なんてノラリクラリやった上で、こりゃいかん、どうやら馬鹿ばっかりで国が滅びそうだから、貯めた金を使って地元で商売でも始めようか、くらいを考えるのが普通の感覚だと思うのである。実際、南宋が滅びる直前に、文天祥の同僚のトップエリートたちは、片っ端から次々と逃げ出し、自分と自分の一族が無事に生き延びられるよう、都から去って行った。

でも文天祥はそんなフツーの人ではなかった。フツーの人だったら英雄として歴史に名前は残さなかっただろう。

 その後、南宋の皇帝(幼少だったので実際には摂政)が元に降伏し、文天祥は元の首都である大都(現在の北京)に移送される最中に脱出を決行。彼はあっちこっちで元軍を相手にゲリラ戦を展開し始めた。文官で登用されたエリートだったのに血の気も多かったみたいだ。

とはいえ、大軍を相手のゲリラ戦なんていつか終わりが来る。文天祥は再び元に捕まってしまった。その有能さと勇猛さを高く評価していたフビライから自分に仕えるよう直に談判があったが、彼はこれを一蹴し、フビライはやむを得ず、文天祥の処刑を命じる。

松陰が真似た「正気の歌」はまさにこの最後に捕まった時に獄中で書いた詩だ。

正義はこの世にはっきりと存在するのであり、自分は世の中が大変な時に生を受けたので、必死で正義を守ろうと頑張ったけど、結果が出なかった。無念だ。そんな内容である。

文天祥南宋の都の方角に深々とお辞儀し、それから従容と死刑に臨んだ。

 2杯目のコーヒーを飲み終えて、僕は土産物屋を出ると、もう一度、書院の別の棟へ入って行った。そこには昔の科挙の勉強の様子が人形で再現されていて、なるほどね、昔の勉強たって今と変わらず机に向かって奮闘するだけなんだよなって思った。

 机上の勉強と、実際の実践(実際に人と会話したり何かを処理したりして物事を進めること)で学ぶ勉強は別だけど、前者(机上の勉強)が実践の前の基礎として重要であることに変わりはない。そのツールが人形たちの持っている毛筆からモバイルPCに変わろうが、勉強の中身が科挙のように暗記一辺倒から、現代の基礎教育のように「考え方」や「発想」を重視した応用力を鍛える頭の訓練に変わろうとも、やはりまずは机上で基礎を身に付けた人間が一番強いのである。

 文天祥は稀代の天才だったというが、天才というより秀才だったのだろう。本を読めば一発で内容が頭に入り、物事がどのようなルールで動いているのか一発で見抜く事ができ、見抜いたルールを活用して人やモノを動かすのが簡単に出来てしまった。そういうずば抜けて優秀な人は確かに世の中にいるのだ。

で、持て余したその優秀さをもって世を渡ろうとしたが、決して上手く行かなかった。時代が悪かっただけではないだろう。それはきっと、優秀さとは別に、彼の性格とかそれによって形成された人生観によるものだ。自分に立身出世の道を切り開いてくれた儒学でもなく、実際に立身出世させてくれた皇帝や宰相や南宋という国でもなく、自分が考える「こうあるべき」という正義こそが彼にとって重要であり、その正義の為に彼は戦い続け、死んで行った。勝ち目のないゲリラ戦も、粛々と処刑されるのを待つのも、本人としてはいたって当たり前の話であり、「正気」なら当然だよねって事だったのだろう。

 でも、本人は当たり前だよねって死んで行ったが、同時に家族も殺されているはずだ。

僕はこの点が一番興味があった。本人はそのまま歴史に名を残す英雄となったが、家族はどうなったのだろうか?

色々と調べたけど、よく分からない。古い時代過ぎて資料が残っていないのかもしれない。子孫の墓が深センで見つかったらしいけど、それはどうやら文天祥の弟の子孫らしく、文天祥の奥さんとか息子たちがどうなったかは分からない。当時の習いで殺されている可能性が高いが、仮にそうだったとしても、文天祥にとっては「正気」なら当然だよねって事だったのだろうか?

 何か自分が信じる価値を信じ切って、それに命を懸け、それで死んで行けるなら、それはきっと恐ろしく幸福なことなんだろう。文天祥のように後世で英雄として高く評価される場合もあれば、ファシズムに洗脳され可哀そうな死に方をした人たちと言われる場合もあるけど、後世なんてどうでもよく、その瞬間、もし本気で「正気」に何かの価値を信じていたなら、当人は幸せに死んで行けるはずだ。

が、これだけ情報が溢れ、考え方、生き方の「多様性」に既にお腹いっぱいになっている僕たち現代人が、そもそも「こうあるべき」という価値を見出すのは難しい。ましてや命を投げ出せるような価値なんて、ないない、ありません。

自分の信念の為に家族を犠牲に?それも無理無理、そんな信念はございません。自分ごときのヤワな信念の為に、大切な家族が悲しむなら、そんな惨めで空しいことはありません。そんな信念はさっさと捨てます。

だから、僕たちはフツーの人として、迷いながら生き続け、「こうあるべき、なの?」なんて常に最後にクエスチョンマークを付けながら、ダラダラと生きて行く。そうして年齢とともに身体は劣化し、痛みが始まり、「痛いなぁ」「嫌だなぁ」「心配だなぁ」なんて老人として生き始め、やがて身体のあちこちの機能が不具合を起こし、停止し、腐って死んで行く。栄光なんてどこにもなく、そうやって僕たちはフツーに生きて死んで行く。それが英雄ではなくフツーの人間として年を取るという事だ。

はぁ~・・・仕方ないか。

 外に出ると文天祥の大理石の像が立っていた。真っ青な空を背景に、超然と立っていた。真っすぐな人、迷いなく生き、迷いなく死んで行った英雄。

でも、思うのだ。

英雄なんてほんのごく一部だ。文天祥の時代にだって、書院に通って勉強していた人々の中には、秀才でも何でもない僕のような平凡な人間もいたはずだ。そして彼は当時の流行りに乗って努力し、必死で科挙というトンデモない受験戦争をなんとかくぐり抜け、が実社会に出ようとするころには実社会(国家)は傾いていて、みんながその泥船から逃げ出そうとしていて、なんだよ、せっかく科挙に合格したのに、立身出世なんて昔の話で、どうやら俺たちは苦労だけしそうだなぁなんて思いつつ、一応、宮仕えをして働いてみたけど、やっぱりそこは泥船、駄目だこりゃって田舎に帰って静かに暮そうと決意し、地元に帰り、そこで、ごくごく平凡な人生を歩み、年を取り、名もないまま死んで行ったはずだ。

きっとそんな人もいたのでは?

僕は自分たちの世代(ロストジェネレーション)の人生に重ねながら空想を続けた。

そう、彼は若かりし頃、科挙制度という受験戦争に巻き込まれながら、きっと全てにクエスチョンマークを持っていたのだ。(僕たちも同じだった)

こんな勉強、本当に意味あるんだろうか?

そんな儒教ってすごいか?この世の真理か?

皇帝に仕えるってすごいこと?

立身出世ってそんな人生の勝利者

世の中、すでにヤバそうだけど、もし科挙に合格したら上の世代みたいに人生安泰ってまだ本当?

そもそも幸せってどういうこと?

書院で勉強しながら、そんな、いらん事を考え始めた人、決して真っすぐではないけど、優柔不断だけど、クエスチョンマークの中で迷い続け、運の悪さと時代の波に翻弄されてため息をつき、でもそれでも愚直に生き続け、結果的に幸せに長生きし、人生を味わい尽くせた人がきっといたはずだ。

 ウン、文天祥のように迷いなく生きて死んだ英雄ではなく、迷いの中でダラダラ生きて人生を味わい尽くした人、それも、人生のある意味、勝利者に違いない。

僕はふと思い返し、先ほどの人形たちのところ、科挙の勉強をしている様子が再現された部屋へもう一度、戻った。

はい、やっぱりいました。

ユーウツな顔して悩んでます。

きっとこの人は秀才でもなく、英雄にもなれなかっただろう。そんな面構えだ。でも、幸せな人生を送ったかもしれない。そのチャンスは、迷いの中でダラダラと生きる中に生まれる。

 書院の外に出ると、本当に突き抜けるような空が広がっていた。

人生は不思議である。ダラダラと平凡に生きようと20年前に東京から地元に帰って来たはずなのに、僕は今、そこから数千キロ離れた異国の田舎町で、澄み切った青空を見上げている。

そして僕はまだまだ、これからもダラダラと迷いの中で生きて行かないと。

 屋根付きの豪華な橋を渡って、ゆっくり歩きながら家に戻る途中、考え事を続けていた。半世紀を生きて、まだ半分だなんて悪夢だな、と思いつつ、でも日々の些細な出来事をしっかり味わい、しっかり感謝し、人生50年でよいのでは?なんて途中で投げ出さず、これからも生きて行こうと思った。

異国の青空はずっと向こうまで広がっていて、つながっていて、その先には僕の故郷(ふるさと)があるのである。

酸湯魚の暖かいスープを飲みながら、遥か彼方のモン族たちに思いを馳せ、もっと遥か彼方にある宇宙と昔ながらのアニミズムについて考えたこと

2023/12/09

 「酸湯魚」という料理があって、貴州料理だけどもともとは中国の少数民族であるモン族の伝統料理と言われている。見た目がちょっと辛そうだが、赤いのは発酵したトマトが使われているからであり、極端に辛いという訳ではなく、冬の寒い日に食べると体の芯から温まるそんな素敵な料理だ。

ソウギョとかライギョとかの川魚の白身が入っているけど、ちゃんと泥抜きしてあるから別に臭みはなく、むしろその魚の出汁(だし)がいい感じにトマトベースのスープに絡んでいて、味が絶品なのである。

 モン族はもともと揚子江あたりに住んでいたが、国が興亡する戦乱の歴史のなかで少しずつ南下し、インドシナ半島の方も含めてあっちこっちに散らばって定住した。今も貴州あたりで大規模に纏まって生活していて、集落が観光地になっている。僕は映像で見ただけでその観光地に実際に行ったことないけど、先日、寒さに震えて外からとある料理店に入った時に、この暖かい貴州料理(料理自体は中国のどこでも食べられる)を注文した。そして陶器製のスプーンで少しずつ口元へすすりながら、遥か彼方のモン族たちにちょこっと思いを馳せてみた。

 美しい銀細工を作ったり精緻で独特なデザインの刺繍を縫うのが上手なモン族は、日本人と似ているとか、DNAを調べると日本人と同じだとか、諸説あるみたいだ。でもそんなのはどうでも宜しい。興味があるのは彼らの宗教が主にアニミズムで、もちろん祖先信仰とかもしているけど、何しろアニミズム、山や川はもちろん、木にも木の枝にも、岩や石ころにも神様がいるのである。

彼らの作る工芸品のモチーフには自然崇拝から生み出された想像上の蝶や鳥や龍が登場し、自分たちが生きるこの世界=自然の美しさへの感動と感謝が表現されている。

別にそれらを日本の八百万の神に結び付ける必要はなく、エドワード・タイラーというイギリス人の人類学者が指摘したように、そもそも人類の原初的な信仰は、「自分の周りのあっちこっちに神様がいるぞ」という素朴な類(たぐい)だったのである。インディオだって同じようにアニミズムを伝統として大切に生活の中で守り続けて来たし、きっとガチガチの世界宗教が出て来る前は、人類はみんな、「とにかく人間なんてちっぽけで、人間を取り巻くこの大地や空を仕切っている神様たちがいて、彼らは怒らせるとムチャクチャ怖く、実際、ひとたび怒らせると自然災害とか起きてむっちゃ俺たち死んじゃうから、怒らせないように何とかしよう。みんなでお供えとかしてご機嫌を取り、あわよくばお恵みをもらおう」というのをやっていたし、それを大切に守り続けている民族がまだいるということである。

 この「原初的」というのが大切で、そのあと有史以来、文明の流れにうまく乗っかった別の宗教の一部は世界宗教としてその後発展し、理論武装され、学問にまでなって権威を得て行ったけど、政治の手垢に汚れガチガチ過ぎて、もはやあんまり「人類の」もの=みんなのもの、とは言いにくくなった。違いに拘(こだわ)って相手を認められず殺し合いをする、なんていうのは「人類の」ものではなくなった証拠だ。人間存在以外の存在への素朴な畏怖(いふ)とか願いとかは、世界宗教やその亜流とは別に、やっぱり、はるか太古にみんなが「あっちこっちに神様がいるぞ。おっかないぞ」と感じていたその頃の思いにこそ含まれていた。僕たちがドキュメンタリー番組などで紹介されている世界各国のアニミズムやそれらの神話、そして神話を今も大切に守り暮している人々を目にして、いつも感じるあの暖かい気持ちや連帯感は、たぶんそんなところから来る直観みたいなものなんだろう。

 さて、僕の2度目の海外駐在は続いている。というかまだ始まったばかりだ。相変わらず中国語まみれの生活で、まぁ日本人を含めて外国人がほとんどいない場所で生活しているのだからそれは仕方ないのだけど、やっぱりお腹いっぱいで、休日には他の言語が聞きたくなる。

古い映画でいいのだ。古くて、有名だから題名は知っているけど、そういや観てないぞ、というのがいい。

ちょうど「死ぬまでに観たい映画特集」って宣伝しているし、英語が聞けるから、これを観ようって思って2週間前の休日に「ミッション」という映画を見る事にした。

 ソファーに寝そべりリモコンを手に映画を選択する。ネット社会って本当に素晴らしい。ネットがなかったら、さすがにこんな僻地での駐在生活は大変だったろう。戦後、まだネットのなかった時代に、それでも世界の奥地へ奥地へと支店を切り開いていった昭和のモーレツ商社マンたちに脱帽だ。

 さて、「ミッション」はカンヌのパルムドールを獲った86年のアメリカ映画である。学生時代によく利用していた東京の笹塚駅前のレンタルビデオ屋で「懐かしの名作」という棚に並べてあって、そのパッケージの写真を何度も目にしたけど、なんだかそこに写っているデニーロのやる気マンマンの表情にちょっと萎えてしまって、素通りし、そのまま見ないでこの年齢になるまで過ごして来た作品だ。だから、名優の若かりし日の脂が乗り切った作品ってイメージだ。きっと若者だった僕にとっては、その脂っこさに抵抗があったんだね。

今はそんな若者も、自身が脂が出尽くしてそろそろカスカスになりそうなオジサンになり、のほほんとソファーに寝そべって、時々うたた寝しつつ、作品を見ている。

 物語の舞台は18世紀半ばの南アメリカパラグアイ)のスペイン植民地で、ストーリーはイエズス会の宣教師たちの布教活動の話である。イエズス会って、よくまぁこんな根性をもって命懸けで世界の果てまで布教に行けたなぁと思うし、実際に多くの宣教師が布教の過程で原住民たちに殺害された訳で、しかも実話から着想を得てこの作品が作られたというのだから、見ていて、人間の信念というものは底が知れないと思った。「信じる」ということの底恐ろしさだ。

そして、ストーリーとか映像とか演出が、さすが名作と言われるだけあって凄いのは分かったけど、実は何より一番印象に残ったのが、枢機卿の前で原住民の少年が讃美歌を歌わされているシーンだった。要するに、こんな原住民でもしっかり布教活動の成果が出たおかげで、ここまで生まれ変わらせる事が出来たんです、という事を証明するための一種の演出なのだが、美しい歌声とは裏腹に、少年を見つめる枢機卿たち白人の目があまりに冷たく、まるで不良品を修理してやっているくらいの様子で、相手への眼差しが決して人間を見る目ではないのだ。アニミズムという概念をその100年後に規定したまさにエドワード・タイラーが、当時の流行りの進化論に基づき、アニミズムが人間の原初的な宗教であり、これが文明の発達によってどんどん「進化」して行くなんて、おバカな事を言った訳だけど、土着の神々への妄信を捨てさせ、人間でない者たちを人間にしてやる、という白人たちの傲慢で冷酷な眼差しが、当時の布教活動の根底に既にあったのだろう。この映画を通して、他のどんなシーンよりも、少年が歌うその場面が残酷だと思った。

 タイラーの進化論はともかく(そんな考え方はもうメジャーでも何でもないので)、やっぱり「原初的な宗教」というアニミズムの規定は分かり易いのだろう。そしてその点は正しいはずだ。文明によって洗練された(手垢で汚された)宗教以前に、人類は素朴に「あっちこっちに神様がいるぞ。おっかないぞ」の中で、人間以外の存在を認識し、そして同時に人間自身の認識をしようとしていた。それが原初的な形だったのだ。

だって、他者を認識して初めて自己を認識できるのだから、おっかないぞ、の向こう側に、おっかながっているちっぽけな僕たち人間って何?という命題が立ち現れるのだ。人々は自分自身を知るために、自分たちと神との関係を物語った神話を作り、神話の中で生活様式を決めて生活していた。神々の前でちっぽけな存在の人間は、謙虚に、祈り、捧げ、静かに運命を受け入れるのみだったのだ。それでよかったのである。

 ところで、話は全然変わるけど、最近の宇宙論では宇宙の膨張の仕方がどうも今までとはだいぶ違うらしい、という話が出て来ている。当初のビッグバン説ではドカンと爆発が起こって宇宙が出来たのが138億前だったという事であり、そのあと光の速さより速い勢いで膨張してるという事だったけど、最近の一部の観測と理論では、どうやら宇宙はこれまでの説の倍の267億年前に誕生し、しかも膨張の速度は膨張する方向によって全然違うらしい、という事になっている。

ありゃりゃ、最新の「自然」とか「世界」は、理論上ではとんでもない規模感だ。山に登った時のヤッホーとかで音の速さくらいは日常生活で実感できるけど、光の速度とかそもそも実感できないし、時間感覚で言えば1億年だってイメージ湧かないのに、いよいよ267億年なんて言われると全然想像できないぞ、と思うのだが、それは僕たちがまだ、こんな地球という小さな惑星の上でのみチマチマと生きて死んで行くからかもしれない。

 いつか人類が宇宙に出て宇宙で暮らし始めた時、「自然」や「世界」の概念が変わって、いわばその時の最新の宇宙論を前提にした、新しいアニミズムが生まれて来る可能性があるのだろうか?

例えば宇宙空間での生活(仕事を含め)が日常になった人々にとって、アニミズムが再び新しい宗教になるのではないだろうか?なんて考えるのだ。

つまり、宇宙の構造や流れている時間の途方もない規模を前に、人類は、ちっぽけな人間の人生になんて全く意味なんてないぞ!と今の我々も感じているような事をより一層感じ、その意味の無さはブラックホールのような深い深い闇に飲まれて行く感覚を生活実感として生み出し、それはやがて「おっかないぞ」という恐怖に変わって、それでも生きて行かなければならない、その上で意味なくちっぱけに死んで行かなければならない、という哀しみへとやがて繋がり、仕事中、あるいはシャトルに乗る通勤中、ふと窓の外に目をやって、目の前に映る無数の星々の美しさについ見とれながら、うん、でもまぁいいか、自分たちの命のそんな意味の無さも含めてこんなに美しい宇宙だというなら、仕方ないか、といつか悟れるのかもしれない。モン族が圧倒的な自然の美しさへの感動と感謝を銀細工や刺繍で表現しているみたいに、未来の人類は自分たちが生活をしている宇宙空間の圧倒的な美しさに感動し、畏怖し、諦め、穏やかな気持ちで死んで行ける可能性を持てるのかもしれない。それはきっと新しいアニミズムだ。そんな空想をしてみるのである。

だって何しろ、伝統が守り抜かれた地域で生まれて育たない限り、僕たちにとって今更、昔ながらの神話に裏打ちされた神様のおどろおどろしい話なんてホラーでしかなく(昔ながらのアニミズム)、またはどこかの神様とか天国の話なんて無理のあるフィクションにしか聞こえず(西洋の某宗教)、一方、命の無意味さに対する殺伐とした厳し過ぎる「諦めの境地」なんて生きてる人間には絶対無理だから(東洋の某宗教)、いずれも受け入れられないのが正直な気持ちなのである。

そうやって考えると、こうして地球の中だけで生活する窮屈さを感じ、一般人が簡単に宇宙に飛び出して行ける科学技術もまだなく、あぁ早く生まれ過ぎたかなぁなんて考えてしまうのだ。未来に生まれる新しいアニミズムはあと何十年後の話なのか、あるいはあと何百年後の話なのか、今は分からない。地球上の大自然とか比べ物にならないくらい、きっと宇宙には大規模で美しい光景が広がっているはずだ。そしてそこからきっと、新しい価値観や人生観が生み出されて行くんだろうなぁ、なんて考えるのだ。

 ちなみに、「酸湯魚」に入れる魚の話だけど、ライギョソウギョも食用として日本に持ち込まれ、大きい魚ゆえの強烈なアタックを楽しむ釣り人も多いみたいだが、獰猛な肉食性であるライギョは日本のあっちこっちに定住して生き残っているのに対して、その名の通り草食性のソウギョの方は一部の地域の河川域にしか生息が確認されていない。やっぱ大人しい草食性よりも、前のめりな肉食の方が生き残るのに有利みたいだね。ガンガン肉食して生き延び、人類は宇宙へ出て行かないと、と思って赤いスープをすすりながら、店員に「この魚はライギョ?それともソウギョ?」と聞いてみた。

「川で釣って来たフナ」

あぁ、フナね。肉食でも草食でもなく雑食でした。そして雑食こそ生き延びるのに一番強いんだったね。

何でも食べるよ。何でも食べて、生き残って、生きて、生きて、意味がなかろうと、こんな狭い惑星から外へ出られないで生涯を終えようと、それでも生きて生きて、そしていずれ死んで行くんだ。

 寒い冬がやって来た。僕は異国の名もない田舎で、ちょっと震えて背を丸め、暖かいスープを少しずつ飲みながら、ここから更に遠い場所に住んでいるモン族たちと、遥か彼方の宇宙の美しい景色のことを考えている。

現地の料理の数々に圧倒されつつ、何にこだわりを持つかで人間が生み出す文化って全然違って来るよなぁと思いながら、ドイツ製のカンペンケースを手にして大満足したこと

2023/11/04

 二十数年前の若いころに勤めていた会社に、クモンさんという日本に帰化した台湾人の女性の方がいた。

大不況の中、採用大幅減の中で入って来た数少ない若手(­=徹底的にブラックにこき使われる消耗品)の僕の事を何かと気遣ってくれて、やれ昼ご飯に1品、私の持ってきた野菜炒めを食べなさい、とか、やれ疲れから回復する健康茶を持ってきたから飲みなさいとか、それほど大きく年が離れている訳ではないから、ちょっと身内のお姉さんのような心配をしてくれる人だった。

 当時は、連日、日付が変わってから帰宅する日々で、昼休みになると僕はさっさと玉子屋の弁当を食べ、クモンさんが入れてくれた味噌汁を飲み、机にうつ伏せになって睡眠を取るのが習慣だった。睡眠は取れるときに少しでも取っておかないとぶっ倒れそうなくらいに疲れていたからだ。(フツーに月間の残業時間が100数十時間以上だった時代の話である。ついでに言うと、その半分以上はサービス残業だった。)

で、昼休み明けの直前、ふと目を覚ますとカーディガンが僕の肩に掛けられていて、向かいの席ではクモンさんがニヤニヤこっちを見ていた。僕はお礼を言ってカーディガンを彼女に返し、目の前に置かれた暖かい健康茶をすすった。

そういうささいな他人の親切や思い遣りにちゃんと時間をかけて感謝の気持ちを感じるほど実は余裕なく、僕は午後の仕事に猛然と取り掛かっていた。時代の消耗品(当時の若者は全員)だったころの話だ。

 そんなクモンさんがよく言っていた言葉を最近よく思い出すのだけど、それは次のようなものだ。

「なんて言うか、日本の文化も日本人も大好きで私は尊敬して来たけど、一つだけどうしても納得出来ないのがあるのよ。それはね貴方たちがやたら自慢している日本食のこと」

クモンさん曰く、文化というのは人間が知恵と工夫で自然のものを上手に変化させて、人間の生活や人生を豊かにして行くものだ。だから中華料理や台湾料理では、いかに「普通の食材」を究極まで高めて、見た目も味も最高のものにするかが重要であり、その工夫にこそ文化というものが読み取れるのである。

なのに、「和食」と呼ばれるあれはいったい何?確かに見た目は美しいものがあるけど、「食材が命」と言っている時点で、人間の手が食材に加わる工夫や努力を軽視した、いわば文化とは言えない料理では?というのが彼女の理屈である。

勿論、「食材が命」なので、工夫をしない訳ではない。むしろ、最高の食材を、その最高をそのまま舌の上に運べるよう、その最高を食べる側がより深く感じ取れるよう、細心の注意を払って、要するに工夫して料理するところに日本食の面白みがあるのだけど、そんなややこしい話を、この年上の異国出身の女性に対して説明するほど僕には余力がなかった。「あぁそうですか、なるほどね」で終了である。工場を走り回り、事務所に戻ってはPC画面に向かって深夜まで格闘し続けていた。一生懸命だが、まるで余裕なく働いていた若者だったのである。

 さてそれから二十数年たって、その若者はすっかりオジサンになり、相変わらず時々は工場を走り回ってPCの画面に向かって考え込んでいるには違いないけど、今や日本食とは全く縁のない中国の山奥の街に住んでいる。人生って不思議なものだ。そして毎日、否応なく中華料理をひたすら口にするうちに、時々はあのクモンさんの力説していた言葉「普通の食材を究極まで高めて」が思い出されるのだ。

 確かにここの地元の中華料理を食べていると、「普通の食材」が驚くべき変貌を遂げている。ただの野菜や魚をよくここまで美味しく、そして見栄え良くできるものだと驚かされることが多い。場末のローカル飯は費用の関係でやっぱり味重視だけど、レストランの宴会で出てくるちょっと高級な料理は見栄えをよくする技術もふんだんに使われていて「えっ?さっきの表に並べてあった食材がこんな風になるの?」と度肝を抜かれることがある。ほぼ芸術だ。

ただのカボチャがこんなに美味しく美しい料理に変身

実はこれ、目玉焼きと卵白で作ったはんぺんだけ→要するに食材は卵だけ

魚も最大限に見栄え良く盛り付けられ、皿の柄としっかりマッチ!

店の入口の水槽で泳いでいたコワモテの彼も「コレ食べたい」と指さすと・・

赤ピーマンとパクチーに彩られて美しい料理に変身!

 まぁここまで「食材」を大変身させ、味も見た目も最高のものにしてみせるぞ!というカンジは、究極、中国の人々が昔から「食べる」ことに徹底して拘(こだわ)りを持っているからだろう。その数千年の努力の歴史は圧倒的だ。「食材が命?何言っているの?」となる訳である。

 ところで話は全然変わるけど、日本から筆箱を持って来るのを忘れた。筆記用具はやはり日本製が非常に使いやすいから、大量のボールペンやシャーペンや消しゴムを持ってきたけど、それを収納する筆箱がない。近くのスーパーや百貨店に行ってもどういう訳かなく、そうか、今や中国は携帯電話で何でも買えるんだった、と思って探し始めた。

が、いざ探し始めると色々あって、どれにするか迷ってしまう。あんまり安いのもすぐに壊れるだろうしなぁ、なんて考えていると、ドイツ製の高級カンペンケースを見つけてしまった。ネットに掲載されている写真は銀色に輝いていて、なんだかとってもカッコいい。日本円で2,000円以上するし数日迷ったけど、結局買ってしまった。中国の山奥で、ドイツ製の高級筆記用具を買うという、よく分からない経験だ。

 そして到着した商品の現物を手に取ると、僕はそれがいっぺんに気に入ってしまった。写真の通りだ。重厚感があってむちゃくちゃカッコいい!

手触りも蓋を開けた時のヒンジの感触も、「あぁこれは値が張るだけあって、品質がかなりいいな」というのが一発で伝わる製品だった。こんなしょうもないことに感動出来るのだから、やはり結構、この僻地での駐在生活は慣れているとは言え、色々厳しい思いをしているのかもね、なんて独りごちてみた。

 重厚な銀色と言えば、クラシックカメラだ。昔の100%メイドインジャパンレンジファインダーカメラは全部、ネジの一本まで日本人が作っていた幸福なモノづくりの時代にあって、今でもその輝きを失っていない。日本の自宅の自分の小さな書斎の押し入れには、コツコツ集めたそれらのクラシックカメラが大切にしまってあって、きっと今度、休暇で一時帰国したら、夜中に家族が寝静まったころ、一人でまた眺めてニヤニヤするんだろう、なんて自分の姿が想像出来るのだ。

 日本のモノづくりは過剰品質に陥り、価格が高いせいで海外で勝てない、だから日本基準の品質の考え方を捨てなければ(価格に転嫁されている品質を一部犠牲にしなければ)、我々はグローバルマーケットで負け続ける、このままでは滅びる、なんて海外の現地では鼻息荒くみんなが言うし、だから日本の本社は駄目だ、こういう最前線にいる現場の我々の温度感が伝わらない、なんて昔のドラマ「踊る大捜査線」のセリフみたいな発言も会議でよく耳にするけど、まぁ無理でしょう。だって我々は日本人であり、要するに性格的に、正確さは美しさだと感じられ、正確さに基づいて達成されたモノづくりの品質の高さに感動出来てしまうのだから、そこから絶対抜け出せないのだ。性格に根ざしたものって、個人のレベルでも、会社のレベルでも、国家のレベルでも、なかなか変化出来ず、やっかいなものなのである。なんて、銀ピカのドイツ製のカンペンケースを手に、考えている。やっぱ、僕は日本人なんだなぁと、しみじみ感じるのだ。

 そう、中国人が食べることに極端と思える拘(こだわ)りがあるように、日本人はモノづくりに極端と思える拘(こだわ)りがあるのである。海外の現地スタッフを指導している際に「マジすか?そこまで細かくやるんですか?アンタら日本人はちょっと異常ですなぁ」という顔(言葉では日本人は凄いって褒めて来るけど)をよく目にするのである。が、そこまでグローバルマーケットの買い手は、高い品質を求めておらず、お金を出したいと思わず、だから我々はずっと負け続けている。はぁ~

 そんな風に、銀色のカンペンケースを見ながら考え、なんでただのモノでしかないのに、僕たちはこんなに感動したり、思い入れが出て来るんだろうって改めて思った。これは日本人が、というより我々人間が、という話だろう。たまたま、日本人は「正確さ」とか「品質」の側面でモノに対する思い入れが強いだけで、モノそのものに対して、その実際の使用価値以上の意味を持たせ、お金を支払おうとするのは、我々人間全員に共通する不思議さだ。僕は改めてそれを考え始めた。

 「ものごとは気持ちの持ち方次第」なんて生活の知恵だけど、太古の昔から議論されてきたテーマでもある。世の中って物理的な法則で成り立っているよね、性格も考え方も、それこそ「気持ちの持ち方」も、遺伝とか環境とか生育プロセスに還元されて、アナタのそのネクラな性格を生み出す脳構造が出来上がったんだよね、というのが唯物論(ゆいぶつろん)なら、その反対に、いやいや、そんなに世の中捨てたもんじゃなくて、アナタの見えている世界が狭いだけであって、もっとリラックスして周りを見渡してごらん、人様(ひとさま)の優しさとか、情熱を込めた仕事とか、全員で頑張ろうとする逞しさとか、色々見えてくれば、ウン、生きるって気持ちの持ち方次第だよねって気づかない?というのが唯心論(ゆいしんろん)だ。

で、どっちが正しいかっていうと、人間と人間が生きる世界を裏表(うらおもて)から見ているだけで、どちらが真実かというより、どちらも真実なんだろう。

※ちなみに唯心論とは別に唯識論というのもあるけど、これは「ものごとは気持ちの持ち方次第」の後に「まぁそんな人間の個々の気持ちなんて所詮、何の価値もない幻想でしかないけどね」というのが追加される、非常に殺伐とした考え方であり、ブッダから始まるいわば生きている人間が絶対辿り着けない、というか辿り着く必要もない、般若心経に書いてあるような考え方である。

 人の心も命も価値も、美も善も悪も、そして平和も正義も喜びも悲しみも全て、物の世界に還元されて、物の世界の法則に従って構成され機能しているのかもしれないが(現代科学の発展)、一方で、個人として一回限りのこの生を生きる僕たちにとって、「よってアンタらの人生や命を含めてモノの一部でしかないのよ」なんてしたり顔で言われたって、だからどうしたの?世界の真実が何であろうと、そこに何の意味も持たない自然法則が絶対王者として君臨していようと、そんなこと知ったこっちゃない。僕たちは相変わらず、アイツの顔みるのマジで嫌だなぁ、なんて怒りっぽい上司の品のない顔つきを思い出しながら満員電車に乗って出勤したり、ただの東アジアの平凡な女性の一人なんだと分かっていても(もちろんこっちも、すいません、ただの東アジアの平凡な男性ですが)、仕事が終わっていつものスタバの前であの子と顔を合わせれば、やっぱこの笑顔は唯一無二で世界一サイコーに可愛く愛(いとお)しいなぁなんて思える、世界の真実とかは全然関係ないそんな生(なま)の生(せい)を生きて、生きて、生き抜いて行かなければならない。

 だから、モノそのものの中に美を見出すというのは、個人の生(せい)の思索に太古より常に寄り添って来たそんな唯心論の極みみたいなところがあって、それゆえ僕たち人間は、ただの工業製品に原材料費と加工費と販売管理費を合算した以上のブランド価値を見出し、あるいは機能性の悪さを凌駕(りょうが)するデザインの美しさに価値を見出し、よく思い出してみれば、戦国時代から古ぼけた茶碗にとんでもない値段が付けられ、武将たちは争って(命を懸けて)それを手に入れようとしたのだ。

その上で、何に美しさを積極的に見ようとするかは、性格がモロに現れるから、国民性も露骨に反映される。古来から日本人がハレ(良い非日常)とケ(日常)とケガレ(悪い日常)の思考習慣の中で生活して来て、ケガレを忌み嫌って日々せっせと掃除するというのがやっぱり根本にあり、どうやら世界標準から見ると俺たちキレイ好き過ぎない?過剰品質?という自覚があっても、基本的にどの日系メーカーもそこから抜け出せないのは、僕たちが基本的にはキレイ好きで、品質第一で、正確に、そして丁寧に作られたものが大好きだからである。

そんなのは昭和のオジサンたちが滅んだら消えてなくなるかと言うと、いやいや、度の過ぎたキレイ好きは、やっぱり若者でも同じで、時代が変わろうとそこだけは変わって行きそうにない。日本の部下の若者も海外スタッフの若者も、確かに同じようにプレッシャーに弱くて脆弱に見えるけど、それはこっちがオッサンになっただけの話で気にならないが、うん確かに日本の若者のあの様子、清潔感満載で出社して来る彼らの自分のアパートのDIYした部屋の写真なんかを、飲み会の席で携帯電話の写真で自慢げに見せてもらったことあるけど、あれはやっぱり日本人だなぁって思うのだ。ケガレを忌み嫌う、そんなキレイ好きな性格は、これからも過剰品質と言われながら脈々と日本のモノづくりに受け継がれて行くに違いない。仮に世界で負け続ける宿命だとしてもだ。それほど性格に根ざした拘(こだわ)りというやつは、根深いのである。個人差があるにしても、いったん外へ出てしまうと、やっぱ日本人ってキレイ好きだなぁと痛感するのである。

 さて、そんな具合で僕の目の前にはドイツ生まれの銀色のカンペンケースが置かれている。ただのカンペンケースからえらいところに思索が広がってしまった。でも、この美しい製品を眺めながら、拘(こだわ)りって国民性が出るよなぁ、って思い始め、普段目にする中国人のあの圧倒的な食べる事への拘(こだわ)りを思い浮かべ、そうして、この大きな時代の転換期にあって、世界のマーケットで負けてもなおこれまで自分たちが信じてきた品質第一という価値(実はこれも単に性格に根差しているだけ)を捨てられない悲しい日本人を思った。

「なんて言うか、日本の文化も日本人も大好きで私は尊敬して来たけど、一つだけどうしても納得出来ないのがあるのよ」

まったく別の角度からモノは見えてるはずのに、なかなか気づけないということ。

が、僕たちは、世界で負け続けているからと言って、80年前の終戦直後のように、卑屈になって全否定したり悲観することはないのだろう。坂口安吾のようなヒロイックな復活の道しるべも不要だ。80年前のあの焼け野原から這い上がり、頑張って来たあまたの昭和の人々の思いや、その努力の結果として世界に広まっている日本人と日本の製品に対する印象「大好きで私は尊敬」はまだアジアのいたるところで息づいていて、ただその延長線上で、僕たちは大きく躓(つまず)いているだけである。

 真新しいカンペンケースを撫でながら、若かった頃に異国の出身の方から受けた日常のささいな優しさを、当時は全く気にしなかったその言葉とともに、僕は今頃になって、暖かい気持ちで思い出している。

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