失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

映画「PLAN75」を観て、病院食のちらし寿司を食べながら1+1が明るく10,000に化ければいいのになって気まぐれで思ったこと

 「PLAN75」という映画をAmazonプライムで観た。

75歳以上になったら、特に健康上の理由がなくても、希望すれば安楽死を選択できるという、国の制度の話だ。

 もちろんフィクションであり、ある種のファンタジーだけど、予告編を見た時は、これってセンセーショナルな話となり、国会とかで取り上げられ、学校教育の場でも取り上げられ、なんて僕はちょっと考えていたが、実際には、国会と言えばAmazonプライムで観れるようになった今だって、1回も出席せずにクビになった人がどっかの国から帰って来るとか来ないとかの話くらいしかなく、この作品が教育現場に持ち込まれて議論されるといった事もこれまでなかったみたいだ。

「なんだか現実に十分にありそうで、怖いよね、世の中、ますます世知(せち)辛くなって来たしね」

ということで、終了である。

というのに驚いた。

なんだぁ、結構、みんなもう諦めムードなのかな?

食い詰め老人なんて僕たちの時代には半数くらいはそうなってそうだから、ウン、もう命の尊厳なんて言っている場合じゃなくて、とっとと合法的に処理しちゃいましょう、という世の中が来るのは、僕たちは若い頃から想像し、覚悟していた。「どうせ自分たちが老人になった頃には世の中そうなるぜ」ってみんなが覚悟していたから、今さらそんな映画を観たって、だよね、で終了なのかもしれない。

 一方で、既に老人となっている人たちは、もしこれを見ても、その頃には自分たちは逃げ切った後の話だから、「これからの人たちは、年をとってからも、本当に大変だわねぇ」で終了なのかもしれない。(病院の待合室でよく聞く言葉だ)

 さらに一方で、その頃には社会の中心となっていて(中年になっていて)、「処理する側」となる今の若者たちは、この映画を観て「なんだか面倒くせぇなぁ、散々食い散らかして、食い散らかされた後のゴミの山を、将来、俺たちが金払って処分するのかよ」って、ウンザリしているのかもしれない。

という殺伐とした状況にあって、あっさりこの作品はスルーされて行くのかもしれない。

というのに驚いた。

自分の感覚がすっかりズレてしまっているのだろうか?

 人生は厳しく、みじめさの中でだらだらと生きねばならないなら、自らの意思で死を選択したい、なんて普通の話だ。そして世の中は需要と供給の調整で出来ており、需要が高まれば、そいういう選択をサポートする制度やサービスが生まれ、それを法的にも担保し、倫理的にも裏打ちする世論が出来上がるのだって、自然の流れだろう。

 が、人間の不合理さとか気まぐれを、我々は本当に理解できているだろうか?

 そんな覚悟がある?

 長い夜が明けて現れた朝の日の光を見た瞬間、どんな苦しい状況にあろうと、そしてそれがこれからも続いて行く状況であろうと、「まだ生きよう」と力が湧いてくるあの不合理さを、つまり、単に朝の太陽を見たという事実だけなのに、生きる意味がまた新しく立ち現れる不思議さを、或いは、たった一人の身内の死体を見た時、その無念を晴らす為に、それまで築いて来たあらゆるものを投げ捨てて相手を殺せてしまえる強固な狂気を、つまり、単に一個の息をしない有機物を見たという事実だけなのに、なんの痛みも罪悪感も恐怖も感じず復讐すべき相手の腹にナイフを突き立ててしまえる、そんな人間という生き物の気まぐれを、僕たちは本当に理解しているのだろうか?

 人間の不合理さや不思議さは、自然の流れに逆らい、気まぐれに世の中を大きく変えて来たのである。それとも無機質なネット社会の延長にあって、もはや1+1=2でしかなく、このまま老人となって行く僕たちは、生産性の低いゴミとして焼却されて行くのだろうか?1+1=10,000とかにはならない?

 なんてな事を考えているうちに、会社では期末決算に向けた地獄のような資料作成と、部下の評価面談、今年度の振り返りと来年度の組織目標策定と報告、なんて毎晩深夜まで働いて、大丈夫、管理職は年俸制で組合なんて関係なく残業し放題だから、という具合にあっという間に1か月が過ぎて行ってしまった。

僕たちはこうやって忙しさの中で生を忘れ、死を忘れ、ある日突然、宣告を受け、病院のエントランスを後にしながら「マジかぁ、死ぬのかぁ、あっという間だったなぁ、何十年も生きたけど、結局何だかよく分かんなかったなぁ、とにかく痛いのは嫌だなぁ」なんて思うのかもしれない。

 20年以上前、学生時代に銀座の映画館にわざわざ行って「セブン」という映画を観た時、まぁ銀座で観るような映画でもなかったが、主人公のサマセット刑事がエンディングのナレーションで語った次の言葉が印象に残ったのを覚えている。

ヘミングウェイはかつて書いた。”この世は素晴らしい。戦う価値がある”と。後半には賛成だ」

そりゃ素晴らしいなんて言えるほどこの世はお花畑ではない。が、戦う価値がある、というコトバは、未来のある若者の心には刺さったのだ。平凡な話である。そう、「それでも戦う価値がある」という意味は、1+1=2の世界を人間の愛と尊厳で、なんとか1+1=10,000にするんだ、そこに人間という特別な生き物が存在する意味があるんだ、という西洋の神様から生まれた発想である。

そしてその反対側にあるのが方丈記の無常観だ。「世の中、1+1=2だよ。どうせね。それでいいじゃん」という発想である。かつて若者だった男が年齢を重ね、未来の時間がだんだん少なくなり、結局1+1=10,000に出来なかったけど、結構いろいろあって楽しかったな、最近、体のあっちこっちにガタが来てるし、涙もろくなったし、通勤途中の沿道にポツリと離れて咲いた桜の花につい感動しちゃうんだよな、なんてオジサンになると、「それでいいじゃん」に傾いて行くのである。

 で、「PLAN75」だ。

自身の命も含め、不必要なものを誰も傷つけずに処理するのは「それでいいじゃん」という1+1=2の発想だ。一方で、いやいや違うでしょ、そんなんじゃ人間の愛と尊厳の意味がないでしょ、あり得なくない?という怒りは、それでも1+1=10,000にして見せる、というサマセット刑事の静かな怒りの境地である。

そして、この映画の主人公のように、1+1=2なんだし、自然の流れでPLAN75に申し込んで、とっとと死なせてもらおうと思ったけど、やっぱり何だか違うなって思って逃げ出して、だからって1+1=10,000なんかにならないのは知っているし、もはや「価値がある」なんて戦ってみせるだけの力は残ってないけど、目の前に映る朝焼けがあまりにも美しく、山の空気は新鮮で美味しく、世界がこんなに美しく見えるから、とりあえず生きよう、という気まぐれの力が、僕たちの生の根本にあるのでは?という事である。

そう、だから、僕たちは、人間の不合理さとか気まぐれを本当に理解できているだろうか?と思うのだ。

 ところで、病院の話になったのでついでに、、、簡単な外科手術をするために数日だけ入院した。

初めての入院だったし、簡単な外科手術だから遠足気分だ。不謹慎極まりない話である。

ヨシ、買っただけで読んでいない本をこの機に読むぞって張り切って持って行ったら、入院手続きを済ませるや否やすぐに会社から電話がかかって来た。うなだれるように「念のため」持ってきたモバイルを開け、そのあとなんだかんだ言ってTeamsで会議が始まり、対応に巻き込まれ、病室から電話で指示を出し、あっという間に夕方になってしまった。チェッ、明日の手術を控え、もっと自分一人の時間を楽しみたかったのに・・・

でも夕方は、お待ちかね、初めて食べる「病院食」だ。

えっ?ちらし寿司って、「病院食」のイメージと全然違うんだけど・・・もっと何か質素でいかにも病院食って感じを想像していたので、面食らってしまったけど、あぁ、そうか、簡単な外科手術ならそんなカンジの食事でなくてもいいからか、ってそういう状況(大変な思いをしている患者の方々がたくさんいるのに)に感謝をしなければ、と急に神妙な面持ちで食べ始める。ここは病院なのに僕は不謹慎過ぎた。反省しないと。

でも美味しい!味噌汁も美味しい!

きっと、最後に残るのは生理的欲求だけである。ご飯が美味しいと少しでも感じられるだけの身体の機能が残っていたら、人はなかなか死ねないだろう。でも、それさえ無くなったとしても、窓の外の美しい風景を一目見ただけで、まだ生きたいと思うかもしれない。

そんな人間の生への執着と不思議さを、僕はずっと考えている。

「PLAN75」のプランとは勿論、計画のことだ。

計画だって?

人間が計画的に生や死を営んでいるとか、経済活動をやっているとか、歴史を切り開いているとか、本気でそう思うなら、何も見えずに人生を歩いているのでは?と思うのである。

計画だって?

我々はそんな合理的な生き物?

この作品の主人公が見ていた朝焼けが、僕の脳裏にまだ焼き付いている。それはいつか自分が見るかもしれない、死を前にした時の、絶望的で崇高で、不思議な光景である。

映画「ドライブ・マイ・カー」を観て駐車場バイトをしていた頃の青春の日々を思い出し、大切な人と気持ちを共有するって何か考えたこと

 学生の頃、駐車場バイトというのをやっていて、マンションの機械式駐車場の受付をする仕事だった。駐車場はもちろんマンションの住人も使えるが、外部からやって来る客もいるので、そんな外部からやって来る客の乗りつけた車を、中に誘導したり、ターンテーブルを操作して車の向きを回転させたり、駐車代を受け取ったりする仕事だ。

 その仕事場は横浜の日吉にあったので、場所柄、ハイソな(ハイソサエティの略です。ハイソックスの略ではありません。昭和生まれなので・・・)客が多く、近くにたくさんお受験向けの塾があった事もあり、子供の英才教育をやっている教育ママが、子供を外車に乗せて連れて来ることが多かった。

 乗りつけたそんなマダムたち(たいてい美人)が運転席から降りると、制服を着た僕が駐車カード渡しに行く。あとはお子様と手をつないで歩いて行くのを頭を下げて見送り、数時間後、お受験の為のお勉強が終わって帰ってきたら、お金を受け取った後、操作パネルを使って車を呼び出し、バックで出て来た車をターンテーブルで回転させて向きを変え、やはり頭を下げて走り去るのを見送るのだ。

 とんでもない額の月謝を払って、子供にお受験の為の塾に通わせるような家の人たちだ。車はベンツとかBMWとかポルシェが多かった。世の中は、お金があるところにはあるのである。僕は当時から車が好きだったから、ターンテーブルを回しながら、やっぱ高級車は全然フォルムが違うなぁなんて、ため息をついて見ていたものである。20歳の頃の話だ。

 そんなマダムたちの中に、サーブで子供を乗せてやって来る人がいた。その親子自体は別に他のブルジョワ親子たちと違いがなかったが、車がサーブだった。しかも900ターボの3ドアだ。僕はこのスウェーデン生まれの車が大好きだった。後ろ姿が本当に美しく、シンプルだけど個性的で力強いテールランプの形が、なおさらその後部の曲線の美しさを引き立たせていた。一介の若造ながら、いつかあんなセクシーなハッチバックに乗るぞ!と考えていたものである。

 それからそんな事もすっかり忘れて、四半世紀がたち、普通の国産車に乗って普通のサラリーマンになって、普通に家でAmazonプライムを見ていたら、「ドライブ・マイ・カー」という映画で、その美しい車を見ることが出来た。赤い美しい車だ。数十年前に僕が見ていたサーブは黒だったけど、そうそう、この車はこんな感じの後ろ姿で、そんな感じのエンジン音だったぞ、って当時を思い出し、すっかり興奮してしまった。またしても作品の中身ではなく、ディティールであれこれ思い出し、あれこれ考えだすという悪い癖が出始めた。いかんいかん、ストーリーに集中しなきゃ。

 「ドライブ・マイ・カー」は世界中で賞をとっており、カンヌでも脚本賞を受賞したとのこと。なるほど、そうなんだ。村上春樹が原作というこの作品の中で、登場人物が粛々と物語を展開させて行く。

 主人公の家福(かふく)の「僕は正しく傷つくべきだった」のコトバが作品の全てを語っており、みんなきっと、う~んってそれぞれ思い当たる節(ふし)があるんだろうな、観終わったあと、そんな事を考えて映画館を後にしたんだろなって思った。悲しみとか怒りとか、激しい感情や思いは、時には大切な人とアウトプットして共有しなければ、器用さだけでは乗り切れず、結局のところ関係が破綻する。そんな経験はみんなしているのだろう。家福と妻との会話は、常に適切な距離感で適切な言葉が選ばれ、感じよく取り交わされ続けている。が、それは適切であればあるほど、決して本当の意味では、互いに心の奥底にある情念とか思いを共有することが出来ない、ある一定の場所からは重なり合う事ができない、という意味になる。残るのは孤独感のみだ。家福は孤独だったかもしれないけど、妻はもっと孤独だったのである。そんな風に解釈してみた。

いわば、若くもなく老人でもない中年期の人々が陥る、悲しみに対する一種の反応なのかもしれない。

 例えば若いカップルの場合を考えてみる。大恋愛の挙句、二人は一緒に暮し始め、そのうち倦怠期という悪魔がやって来て、何となく、何にも感じなくなる。しかも身勝手な話で、自分だって相手に飽きているくせに、相手が自分に飽きている様子、つまり、こちらに向けられる表情、会話の仕方、食事中の沈黙に滲み出る全ての面倒くさそうな相手の様子が、ひどく自分の心に刺さり、傷つくのだ。が、正面切って、

「なんかその・・・そうやって面倒くさそうにされると、ひどく辛い気持ちになるんだ・・」

なんて悲しそうな顔をしてフツーは言わない。

「なんだよその態度。面倒くさそうにしちゃってさ。こっちだってウンザリしながらやってるんだから、お互い様じゃない?」

戦おうとするのだ。優しく自分が傷ついていることを伝える、なんて奥ゆかしさはないし、そもそもそんな「傷ついている」なんてこっ恥ずかしくて認めたくないし、というか、こっちだって相手に対して面倒くさいなって思っているし、じゃあ、一方的にそんな態度を取られる覚えはないよね?なんて、泥沼にハマって行くのである。

この戦おうとする反応、ちっぽけなプライドとか負けず嫌いな気持ちに基づく歪(いびつ)な反応もまた、正しく傷つけなかった悲劇の一つだ。

「じゃあもういいよ。お互いそんな無理してるんだったらさ、付き合っている意味なくない?別れよう」

若しくは、そこまで直情的なタイプではなく、むしろ屈折したタイプなら、傷ついていることを相手に伝えながら、結局は関係を破綻させるかもしれない。

「あのね、君は本当に大好きな人なんだけど、だから尚更、こんな風にお互いに飽き飽きしてるのに、無理して関係を続けてくれているカンジがとても辛いんだ。君は優しい人だからね。でも僕たちはもう別れた方がいいと思う」

ハイ、若者たちだって、正しく傷つき、感情や思いを大切な人とアウトプットして共有できなければ、結局のところ関係が破綻するのです。

 それが中年期となると、倦怠期とか飽きたとか、そんなのはもうすっかり慣れっこで、お互いが器用に対応出来るようになる。全然関心がなくったって大丈夫。ウン、ウン、なるほどねって相槌(あいずち)を打って、きちんと相手の話を傾聴(けいちょう)しているフリをし、しかも時々は軽く質問したりして本当は全然聞いていないことが、やりとりに滲み出ないようにこなせる。一方、話している相手も、コイツ本当はなんにも聞いてないだろ、なんて分かっていても、大丈夫、犬とか猫を相手に喋っていても、とにかく聞いてくれる相手がいればスッキリするんだから、問題は無し、なんて喋り続け、大人の対応が出来るのだ。

が一方で、中年期は、若者だったころとは違う、決して逃げられない、もっと大きくて深い悲しみを背負うことも多い。子供の死であったり、自身の病気であったり、両親の介護であったり、もっとずっと深いところで傷つく場面に出くわすのだ。

そんな時、器用さで乗り切ろうしても、関係は破綻する。やはり、大切な人にはしっかりその悲しさを伝えるべきなのだ。それはコトバにしなくてもいい。二人で向かい合って、黙って食事をしているうちに、箸が止まり、静かに涙を流し、嗚咽(おえつ)が始まるかもしれない。そんな時、相手が立ち上がって泣いている自分の背中をさすり始め、肩を抱きしめ、一緒に泣いてくれるかもしれない。逆もまた然りだ。激しい感情や思いは、時には大切な人とアウトプットして、共有しなければいけないのである。それはお互い様である。人生という悲しみの連続の中で、共に傷つき乗り越えることが出来るなら、二人は戦友として穏やかな老人になれるだろう。

だから、中年期に襲う大きな悲しみに対しては、強い意志で心を閉ざしたりなんかせず、或いは、器用さの中で何もなかったかのように振舞って時間がたつのを待ったりなんかせず、自分の大切な人に「悲しい」と伝えればいいのである。でもそんな単純なことが、我々にとってどれだけ難しいことか。なまじ人生経験があって器用さを身に着けてしまった我々だからこそ、それは難しいのである。

◎楽しさの感情の共有

そんなの簡単だ。

「何、もう旅行の用意しているの?」

「うん、だって来週には出発でしょ。少しずつ準備しておかなきゃ」

向こうは寒いのかな?もっと暖かい服装の方がいい?なんてやっているうちに、もう一度「じゃらん」を覗き込んで、やっぱり旅行先ではココにも立ち寄って欲しいなんて甘えて来る。それをニコニコ眺めて、自分もウキウキし始める。

怒りの感情の共有

これはひたすら大切な人の味方になることが重要だ。正しさとか妥当性とかをもって、客観的なジャッジをしていけない。ただただ同意するのです。

「本当に腹が立つのよ、その人。どう思う?」

「うん、確かにそいつはサイテーだな」

「でしょ。せっかくこっちは親切に言ってあげたのに、そんな態度ある?」

「まぁ、そんな奴もいるんだよ」

「私は間違ってないでしょ?」

「うん、もちろん、君は全然悪くないよ」

苦しさの感情の共有

これは慎重に対応しなければいけない。一緒に苦しんでしまうと、一緒に鬱々と落ち込んでしまって、一緒にメンタルをやられかねない。

「もう耐えられなくて・・・なんでこんなビクビク怯えながら働かなきゃいけないのかって思うし、でも、ひょっとすると私が駄目なのかなって思うし・・・」

「まぁ、とりあえず着替えなよ。メシ作ってやるからさ、何か好きなもの言いなよ」

「でも冷蔵庫に何にもないよ」

「じゃあ今からスーパーへ食材を買いに行く」

「えー・・今からまた出るの?・・私このまま寝たいんだけど。胃が痛くて何にも食べたくないし」

「ハイハイ一緒に行くよ。食いたいもの考えながら歩こう。体を動かしているうちにお腹も空いてくるから」

繋いだ手を握り締め、外へ一緒に飛び出して行く。苦しい時って口から出て来るコトバは全部ネガティブな毒だから、たくさん外へ吐き出してもらってそれ見ているだけでいい。そして何より一緒に身体を動かすこと。

悲しみの感情の共有

これはコトバも身体の動きもいらない。一緒に佇(たたず)めばいいのである。というか、一緒に佇むしかない。前述の通りだ。そして一緒に佇むから、安心して「悲しい」と伝えてくれればいい。逆に、迷惑かもしれないけど、ここで僕はわんわん大声をあげて泣くから、そばにいてくれればいい。そのあと、暖かいお風呂に入って、一緒にご飯を食べに行こう。

哀しみの感情の共有

「悲しみ」は生きることを前提にしているけど、「哀しみ」はいずれ命がなくなる人間の宿命を前提にしている。だからまだ僕には未知の世界だ。が、いつかもし大切な配偶者を失くした時、もし子供に先立たれた時、もし命の絶対的な儚さと空しさを目の前に叩きつけられた時、僕はまた誰か大切な人とその「哀しみ」を共有できるのだろうか?

もはやその頃には独りぼっちの老人になっていて、大切な人なんていないし、いる必要もないし、どこかの施設で自身の死を待つのみならば、誰かと感情を共有などせず、静かに窓の外を見て心を閉ざし続けるのだろうか?

 

 ところで、あんまりサーブが懐かしいので、ネットで調べていたら900ターボのミニカーを見つけてしまった。しかも本格的な大人向けの高級ミニカーだ。つい衝動買いしてしまったけど、もちろんその値段を家人と共有する根性はない。が、あんまりにも気に入ってしまって、箱から取り出しもせず、ニヤニヤ箱を眺めてお酒を飲んでいる。家族から見れば、さぞ不気味な様子なんだろう。でも、絵や写真だけで、本当に美しい車なのだ。

 20歳だった僕は、走り去って行くサーブの美しい後ろ姿を見送りながら、あの懐かしい夏の光の中にいる。まだ「悲しみ」も「哀しみ」も知らない楽しい馬鹿騒ぎの日々を暮らし、いつかあんな高級車に乗って颯爽(さっそう)と走り出してみせるぞ、なんて夢を見ている一人の若者だ。

 そう、大切な人と一緒にいるには、もちろん楽しいとか気持ちいいとか、要するに幸せな思いを一緒に共有する事が大切だけど、それ以上に、苦しいとか悲しいとか哀しいとか、人生の痛みを共有出来なければ、いずれ心は離れて行ってしまうということ、そんな事を全然知りもしなかったあの若かった頃の無邪気な自分を、ふと思い出してみるのだ。

飛鳥鍋を食べて古墳の周りを散歩しながら、「気まぐれ」の歴史に思いを馳せたこと

 明日香村へ飛鳥鍋を食べに行った。その土地で古来から食されて来た牛乳の鍋である。

毎年冬になるとソワソワして、「飛鳥鍋を食べたいねぇ」なんて休日の何気ない会話が始まる。そして家人を乗せてビュンと車で走って食べに行くことになる。

 その日は良く晴れていて、変な言い方だけど「飛鳥日和」だった。古墳群の向こうに高くて澄み渡った冬の青空が広がっている。

飛鳥鍋はまさに飛鳥時代、唐の渡来人から伝わった。「牛乳」と「鶏料理」が混ざって土着化し、今の姿になったらしい。要するに大陸から持ち込まれた新しい食文化だったとのこと。渡来人たちは生活を便利にする技術や、人を効率的に殺す武器づくりの技術だけでなく、美味しい料理という平和的な食文化もこの国に持ってきてくれた、ということになる。

この飛鳥鍋だが、牛乳のこってり感が鶏肉とよく合う。チーズと鶏肉の相性がぴったりなことを考えると、当たり前と言えば当たり前だけど、ダシのきいた牛乳に浸かったほろほろの鶏肉が、口の中で絶妙に調和しながら崩れ、本当に美味しく、なるほど、そりゃ1000年以上も昔からみんなに食べられて来た訳だ、なんて改めて思った。最近では観光客向けに、牛肉や魚の白身、果てはキムチなんかも入った飛鳥鍋があるみたいだけど、僕はやっぱりオーソドックスな鶏肉の鍋が一番好きだ。

 お腹がいっぱいになったので、青空の下をぷらぷら歩くことにした。

風もなく、穏やかな一日である。これまでもう何度も訪問しているけど、やっぱり定番だよね、ということで、石舞台古墳を見に行った。ただ巨石を積んだだけの墓だが、直接触れられるし中にも入れるし、なんせあの蘇我馬子の墓だから、子供の頃に初めて行った時はひどく興奮した。この中に馬子が眠っていたんだと思うと、ちょっと恐ろしかったけど、子供ながらに遥か悠久の昔に思いをめぐらせ、とても感動したのを覚えている。

僕たちは入場券を買って、枯れ木の小道を通り抜けた。巨石は相変わらず、丘の上に静かに鎮座し続けていた。美しい場所である。

蘇我一族が飛躍したのは、飛鳥鍋の文化をもたらした(厳密には牛乳を飲んだり鶏肉を食べたりする文化を持ち込んだ)渡来人たちを活用したからである。新しい技術を積極的に取り入れ、仏教という新しい文化の流布に力を入れた。一方で古きものにこだわり続けたライバルの物部氏は滅び、ライバルのいなくなった蘇我はしばらくの間はこの世の春を謳歌出来た。

 新しいものを取り入れた権力者が時代の先駆けをするというのは、例えば鉄砲の威力にいち早く目を付けた信長とかをすぐに思い出すが、それまでの既成概念を破った彼らの柔軟さが時代を切り開いた、なんて歴史家の説明はもっともらしいけど、そんなのは結果論でしかないだろう。歴史に埋もれて行っただけで、その時々に応じて新しいものに飛びついた野心家はこれまでたくさんいただろうが、それが仮にどんなに合理的であったとしても結果的に歴史の表舞台に立てなかった場合、そのまま人々から忘れ去られ、評価されることもなかったはずだ。新しいものが時代を作るのではなく、「特定の」新しいものがその時代の人々に受け入れられ、次の時代へと導いて行くのである。そして結果的に評価されているに過ぎない。

「なんか蘇我の領民たちが使っている鍬(くわ)って、すんごいらしいよ」

「何がすんごいの?」

「むっちゃ荒れ地を耕せるらしいよ」

「なんで?」

「先っちょについてる固いの(鉄)が、その、すんごい固いんだって」

「へ~、そうなの?」

「うん、蘇我の領民はタダでその鍬を使ってもいいんだって」

「へ~、羨ましいなぁ。俺たちも蘇我の領民にしてもらう?」

なんておバカな空想は結果論的な説明にしか過ぎない。例えば、当時はまだまだ異国の信仰だった仏教に初めて触れた時、人々は何を感じたのだろうか?金ピカの仏像を見て、何を考えたのか?

「いやいや、あんな人いないでしょ」

「でも大昔にいたらしいよ」

「あんな金ピカだったの?」

「それは分からん。でもきっと有難い姿だったんだろね」

「で、なんか我々にしてくれるの?」

「いやいや、神様とかじゃないから、そういうのじゃない」

「何にもしてくれないの?」

「いやいや、きっと何かはしてくれるんだよ」

「何を?」

「サトリとか言っていたけど、俺にもよく分からん」

「で、なんで金ピカなの?」

人々は何かよく分からないけど、その新しさに惹きつけられ、少しずつ受け入れ、その新しさを利用した権力者が時代の最先端に立つことが出来た。何かよく分からない、というのは、要するに特定の新しいものが「気まぐれ」に受け入れられた、ということだ。「気まぐれ」が人々の生を次の時代へと繋いで行ったのである。

この「気まぐれ」がこの世界やその中にいる我々にとってどれほど重要な構成要素であるか、量子力学の世界をほんのちょっと垣間見るだけで、なんとなく腹落ちするのだ。とんでもなく頭のいい人々が物理の研究を極め、極められたものを次の世代のこれまたとんでもなく頭のいい人々が更に極め、いわば世界の頭脳たちが極め続けて100年以上たった結果、「ウ~ン、我々の認識できる物理法則では成り立たない動きが、宇宙の最小単位の構成要素になってるかも」という、結局のところ「気まぐれ」が我々の世界を支配しているかのような結論になっている。世界から法則性を抜き出すことに躍起になった挙句、法則性が成り立たないのが世界かも、なんてアイロニーが結論なのである。

 なお、生物の進化でもこの「気まぐれ」は登場する。突然変異と自然淘汰なんて古臭い話を持ち出すまでもなく、生き物はきっと「気まぐれ」に進化して来たのだ。突然変わった奴が出て来て環境の変化に強かった、そいつらが生き残って遺伝子を残した、なんて合理的な話ではなく、なんか分かんないけど変わった奴が出て来て、それが一気に周りに増えて、気付いたら全員そういうことになっていました、みたいな「気まぐれ」進化がきっと生き物の真実なんだろう。そんな無意味な進化の仕方では、世界の最終目標(神の世界の実現)みたいなのを想定している人々には到底納得できないかもしれないけど、きっと、量子力学の世界も、カンブリア爆発も、最終的にはその根本が「気まぐれ」に辿り着いて行く。

宇宙は、世界は、人間は、「気まぐれ」に存在し、「気まぐれ」に変わり続け、「気まぐれ」にきっと消えて行く。そこに意味などなく、だから我々は「気まぐれ」に人類愛を訴えて募金しながら、「気まぐれ」にミサイルを撃ち込んで皆殺しにできるのだ。意味や目的の無い「気まぐれ」が世界の真実だからこそ、その真実に我々人間は楽しさを見つけることも、恐怖を感じることも出来る。

 1950年代にマイルス・デイヴィスが新しい音楽を始めた時とか、1980年初頭にデトロイトでテクノ・ミュージックが生まれた時とか、もっと大昔に初めて人々がマティスやダリの絵を見た時とか、何か新しいものが始まるぞ!というワクワク感の楽しさを、初めて触れる人々は感じて来たし、それまでの当たり前のコード進行とか、当たり前の絵画の構図が、まったく予想しなかった形で崩される、そんな先が全く予想できない、「気まぐれ」にしか思えない天才たちの創作を、人々は熱狂的に支持し高く評価し続けて来た。我々にとって「気まぐれ」の楽しい側面だ。

一方、「気まぐれ」の恐ろしい側面は、北野武のバイオレンス映画で結晶化された「予想していないタイミングでいきなり殺される」という、人が人に対して行う「気まぐれ」の狂気であったり、或いは、昨日まで元気で活き活きしていた人が急に事故とか病気とか災害で死んだ時に我々が感じる、いわば自然や偶然が人に対して行う「気まぐれ」の暴力だ。そして恐ろしいと感じつつ、何度もそんなシーンを映画作品に入れたがるのは、我々人間が「気まぐれ」に恐れを抱きつつ惹かれているのである。

そう、意味のない「気まぐれ」が世界の真実だからこそ、僕たちは新しいものが始まるワクワク感を楽しむ一方、あっけない生の終焉をもたらす、人の狂気や自然や偶然の暴力に恐怖を覚えつつ惹かれて行く。

 ちなみに、僕の行きつけのイタ飯屋は口ひげを生やした気難しい感じのシェフがやっているが、彼の作る料理はどれも個性的で無茶苦茶美味しい、時もある。

時もある、というのは、行く度に見た目も味も変わるのだ。最初は違う人が作っているのかと思ったけど、カウンターの向こうで作っているのはそのシェフだけだ。要するに味にムラがあるのである。ダメじゃん、土日の昼飯時でも座席はガラガラだ。もちろん流行っていないのだ。そりゃそうだろう。前菜で出されるカルパッチョは、ある時にはこんなに味が深く、オリーブ油が香り高く調和しているのは食べた事ない!ってくらい美味しいのに、ある時は生肉の表面がカピカピで、ひょっとしてサラダ油をかけた?って思うくらい臭くて不味いのだ。ビザもパスタも同様、いつも個性的だが、行く度にムラがあるので、一回でも不味いのを食べさせられたら、普通は客は二度と来ない。

が、僕はそれでもここに通い続ける。どうしてか?

シェフの「気まぐれ」サラダが楽しみだからだ!

そう、口ひげの気難しそうなシェフが、あの挨拶もろくにしない黙々と料理しているシェフ、その料理の味はムラだらけで、店内の壁には彼のバックパッカー時代の写真が飾ってあるあのシェフ(どの写真も全然笑っていない)が、さらに「気まぐれ」で作ったサラダが出て来るのである。一種の博打に近い。出て来るサラダはひょっとすると恐ろしく不味いかもしれないけど、ひょっとすると人生で一番美味しいサラダになるかもしれない。ワクワクしない訳がなかろう。

 という、やはりおバカな僕の趣味でこの話は終わるのだけど、何という事はない、この世から「気まぐれ」が無くなってしまえば、味気ない、合理的な生活だけが残っているのだろうなぁと思うのである。付き合い始めたカップルの激しい恋愛の中においても、長々と夫婦生活をやって来た日常の中にも、「気まぐれ」から始まる物語が僕たちの人生に色を添えるのだ。

「どうしてそんな事を言うの?」

「またバカなことを言い出して・・・」

僕たちは時に「気まぐれ」に身を任せ、人生をより深く味わおうとする。それはたまには刺激が欲しいとかではなく、そうすることが自然だからである。人間は、世界や宇宙の原理がそうであるように、実は不合理な気まぐれで歴史を決断して来たし、これからもそうするはずだ。

 遥か悠久の昔に初めて渡来人たちが作った金ピカの仏像を見た時の、古(いにしえ)の人々のポカンとした表情を想像しながら、その好奇心と、恐れと、きっと何か新しいことが始まるんだという高揚の気分を思い浮かべながら、青空の下、僕は家人と手をつないで馬子の墓の周りをプラプラ歩いている。

こうして「気まぐれ」が世界を動かし、「気まぐれ」に命は続いて行くのである。

クリスマスソングを耳にしながらサンタの服の赤さに愛と寛大さを想い、キズナって哀しみの中で初めて生まれるよねって思い出したこと

 街にはクリスマスソングが流れ、行きかう人々の表情もなんだかウキウキしていて、というのは昔の話で、地味な感じの年末だなぁ、なんて思いながら歩いている。だいたい、みんなマスクしていて、街を行きかう人々が笑っているのか、泣いているのかよく分からない。人々はなるべく集まったりしてはいけないし、なるべく直接触れ合ってはいけないのである。会話もディスプレイ越しが望ましい。という具合の昔はSFの設定以外になかったような時代に、幼少期や思春期や青春を過ごした人たちが、我々の数十年後の老後を支えることになっている。いや、支えないだろう。感情なくゴミのように捨てるかも。自分たちだって貧しいし、別に年寄りだからって尊敬できるわけでもないし、そもそもアイツら生産性が低いし、みたいな感じで。

来年あたりから、「大学時代にサークルとか入る機会なかったですよ。講義も大半がリモートだったし、飲み会なんて高校時代の友人数人とオンラインで時々やったくらいですね」みたいな人たちが、新入社員としてやってくる。昭和から本質的には脱却できていないこの組織や社会にだ。もはや世代間の価値観の違い、とかいう次元の話ではなく、宇宙人との交信くらいを想定しておいた方がよろしい。

 クリスマスというと、恋人と過ごす、というのが定番なのは、バブル真っ盛りの商業戦略が当たった日本くらいのものである。海外ではたいていクリスマスは家族と過ごすのが定番だ。恋人と過ごすなんて強迫観念は全くない。

「いやいや違うでしょ。サンタの服が赤いのはなぜか知ってる?あれはキリストの血の色だぜ。要するに愛と寛大さとそれを支える絆(きずな)を意味しているんだ。なので俺は今から、愛と寛大さをもって(相手は誰でもいいから)、キズナを求めに行く(ナンパしに行く)」

なんてイヴの夜の街へ飛び出して行った不届き者の同僚がいたが、今はちゃんと家庭を持って、良きパパとして子供のもとへ帰って行く。今ごろサンタの恰好でもしてプレゼントでも渡しているのだろうか?築いた家族との絆(きずな)を大切に、それを守り抜くために、毎日頑張っているんだもんね。

ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る♪

 僕はバブルが崩壊してすっかり暗い時代に入ってから東京で青春時代を過ごしたが、それでも且つての栄光とウキウキ感がまだ世の中に残っていて、失業率が高かろうが、大卒のかなりの人々が就職できずにフリーターや派遣社員で働いていようが、「クリスマス」となると、町中にジングルベルが流れ、なんだかみんなソワソワし出して、なんだかみんな人恋しくなる雰囲気だった。

恋人がいない場合?

つくればいい。つくる機会にしては?気になっているあの人をイヴに食事に誘っては?みたいな雰囲気があって、まぁ要するに、社会の人口のまだ大きな比率が若かったのである。前述の同僚も、そして僕もまだ若かった。

そして、人恋しさを解決する手段はまだまだアナログで、相手の顔を見て「直接」伝えるのが常套(じょうとう)だったのである。何かのツールを使ったりそれを通して間接的に伝えるのではなく、相手の目を見つめ、相手の吐く白い息を見つめ、そこから一緒に飛び出してくるコトバをしっかり受け止め、自分は自分の口で相手に「直接」伝えるのである。

勿論、仕事でもオンラインで何かをするのは特別な時だけだった。普通は直接人に会い、人と触れ、人と衝突し、人と語り合い、人に思いを伝え、人と一緒に歩いて仕事をしていた。

だから、プライベートで過ごす時間は、携帯電話で誰かと長時間話すこともあったが、お金かかるし、散々携帯電話ごしに喋ったけど、結局、部屋を飛び出し、電車に乗って逢いに行き、直接顔を見て、直接話をして、直接触れた。そんな時代である。直接逢いに行く途中で乗った電車の、窓に映る自分の顔、その向こうに見えている電飾(イルミネーション)で飾られた街の風景、高揚感と焦燥感が入り混じった表情の、そんな若い頃の自分の姿が、記憶の片隅に残っている。

 さて、とは言っても、仕事が大変で、マジで忙しくて、プライベートとか恋人とか言っている場合ではなくて、アレ?、今年のクリスマス・イヴ?、きっと普通の金曜日で、きっと普段通りサービス残業して深夜に家に帰って、やっと寝れる!みたいな感じなんだけど、みたいな場合も多かった。

「今から遊びに行くけど、一緒に行かない?」

夜の9時。

週末だから工場は夜勤もなく稼働が止まったけど、管理事務所はガンガン明かりが灯っていて、僕はそこでPCに向かってひたすら数字を打ち込んでいた。若者は、あくまで擦り潰して使う消耗品だった時代の話だ。

帰り間際に声を掛けて来たのは3つ年上のカオリさんという女の人だった。工場で現場で作業者として働いていて、確か青森出身で何年か前に上京して来た人だった。酒が滅法強く、目が丸くて色が白く、いわゆる東北美人だ。が、ガラが悪かった。十代の頃は車やバイクで町中を蛇行する同好会?の類に入っていたらしい。結婚、出産、離婚という定番のコースを経て、上京後、今の会社に入った。

この前の会社の懇親会でたまたま席が近かったので、「直接」たくさん話す機会があり、二次会も一緒に行って、酔いが回るにつれ色々と話をしてくれたのである。

結婚はしたが旦那が博打好きで、あっちこっちで借金を作って来たこと、子供に暴力をふるうサイテーな奴だったこと、でも旧家の出身で、義母が何かとやたら出て来て上品ぶって自分に説教して来るのがムカついたこと、結局、我慢できず離婚して子供を抱え、逃げるように上京して来たこと、上京したけど仕事がなかったこと、昼間のバイトだけでは子供を託児所に預けるお金とアパートの家賃を払うお金が稼げず、風俗店で働き始めたこと、風俗嬢をしながら子育てしている事がバレて、青森から義母と自分の両親がやって来たこと、そのあとの喉の奥に釘を一本ずつ刺して行くような家族会議。

子供は結局、青森に義母が連れて帰り、今は旧家の将来の大事な跡取りとして、元旦那と一緒に暮しているのだと話していた。カオリさん自身はそのまま東京に残り、風俗の仕事は辞め、バイトだけど工場で普通の仕事をして、運送業をやっている彼氏と阿佐ヶ谷で一緒に暮していた。

「あれ?彼氏がアパートで待っているんじゃないですか?」

「いやそれがさ、向こうが今日は夜勤で朝まで帰って来ないのよ。今から飲みに行くから一緒に来ない?」

僕はデスクを見回し、山積みの書類と、結局まだまだ終わりそうにない入力と、月曜日に必要な資料の作成はどうやったって土日にココへ来てやるしかないぞ(もちろん無給)というのを思いめぐらし、今日はもう遊んじゃえって思って、「行きます」と笑顔で答えた。

何十年も前の、寒い寒いクリスマス・イヴの夜の話である。

 カオリさんの飲み方は豪快だった。最初の一軒こそ、上野のもんじゃ焼き屋でジョッキ片手に大人しく食べてビールを飲んでいたが、その後はどんどんテンションが上がり始め、居酒屋を2件、3件とハシゴし、日本酒、焼酎、ワイン、何でもござれでドンドン飲み続けた。

ハシゴの合間に冬の夜の冷たい風が一瞬、身体を包み込むと、酔いがいい感じに醒めて行き、また次のアルコールを求めて、二人でヨタヨタ肩をぶつけながら通りを歩いて行く。

カオリさんはずっと大声で上機嫌に喋り続けていた。現場の作業の話、意地悪なバカ主任の話、今の彼氏がさすが運送業で肉体労働しているだけあって脱ぐと筋肉が隆々(りゅうりゅう)である話、同じ作業者の山岡ちゃんは実はそんなバカ主任と不倫しているという話、故郷の青森の冬は雪に閉ざされ、その空気の凍るような冷たさは非情なもので、こんな東京の冬の寒さなんて寒さのうちに全く入らないという話、そして大好きだったバイクの話。

時々、隣のテーブルに座っているサラリーマンの集団や、学生たちのサークルの飲み会にもいきなり大声で話し掛け、あれっトイレからなかなか戻って来ないぞと思って振り返ったら、ずっと向こうで全然知らないお爺ちゃん達と一緒に馬鹿笑いして飲んでいた。僕を見つけると、手招きして「アンタもこっちへ来てこの人たちと一緒に飲もうよ」と叫んでいる。

そんな感じでクリスマス・イヴの夜は更けて行き、終電間際の時間になった。

「ねぇ、今から自由が丘へ行かない?」

「えっ?今からですか?」

「うん、面白い店知ってるんだ。遊びに行こ」

自由が丘なんて山手線の反対側を越えたところだし、昼間は上品でおしゃれなイメージしかなく、こういっちゃ失礼だけど、この人とあんまりイメージが結びつかないんだけどなぁ、なんて二人で電車に乗った。そして駅前に着いた時には既に終電なんてない時間だった。

「行くよ」

カオリさんは相変わらず上機嫌だ。どんどん前を歩いて行く。

その時まで知らなかったけど、自由が丘という街は色んな顔があって、夜は夜で、もちろんおしゃれなバーも軒を連ねているけど、ちょっと行けば昭和感が満載のスナックやパブがたくさんあって、僕たちはその中の一軒(雑居ビルの中)に入って行った。

 そこは、いわゆる「おなべバー」だった。その辺りの男連中なんかよりよっぽどイケメンの元女性たちがずらりと並び、一緒にお酒を飲み、客と一緒に歌っていた。

カオリさんはお気に入りのスタッフを指名し、一緒に酒を飲み始めた。僕はというと、そんな店は初めてだったし、もしシラフだったら少しくらいはドギマギしていたのかもしれないけど、既にだいぶ酔いが回っていたから、普通に「乾杯!」って一緒にグラスを合わせ飲み始めた。カオリさんがマイクを手に当時流行っていた「亜麻色の髪の乙女」を歌い始める。雪国の人はむちゃくちゃ歌が上手いや、なんて、僕は飲みながらムニャムニャ言っていた。カオリさんのお気に入りのハンサム君は、気を遣って僕に笑顔で何かを話し掛けてくれている。

 隣のテーブルでは別の女性客がスタッフに肩を抱かれながら酒を飲んでいた。夢見心地という表情でワインを飲んでいる。「仕事が終わって店からすぐにここへ逢いに来た」とか言っているから、服装とか持っているブランド物のバッグを見る限り、水商売でもしているのだろう。仕事でモノとして扱われる代償を、刹那的であってもここにある優しさで贖いに来ているのかもしれない。

「テメェ、ふざけんなよ!」

いきなり掴み合いが始まった。

僕はちょっとお腹がすいて来たので、頼んで出て来たグラタンをスプーンで一生懸命食べている最中だった。なんだなんだって顔を上げると、すぐそばでカオリさんと、さっきまで夢見心地の顔でワインを飲んでいた隣のテーブルの女性客が取っ組み合いをしている。

どうやら歌っているカオリさんを見て、隣のその客がクスクス笑ったのが原因らしい。馬鹿にされたと思い込んだカオリさんが、掴み掛かって行った。スタッフたちが二人を引き離し、優しい言葉でなだめ、上手に距離を離し、また喧嘩が始まらないように別のテーブルへそれぞれを案内する。その辺りは日常茶飯事の業務だろうから慣れたものだ。僕も立ち上がって、グラタン皿とスプーンを手に、食べながら新しく用意されたテーブルの方へ歩いて行った。新しい席につくと、カオリさんは僕にイザコザを起した事をちょっと謝って、それから、アイツがトイレに行ったら自分も後から入って行ってボコる、なんて息巻き、やっぱりスタッフになだめられていた。僕はケラケラ笑って、今度は自分がマイクを手に歌い始めた。

そうやってバカ騒ぎの夜が更けて行った。何時間も遊び、明け方の太陽の薄明かりが、ようやく自由が丘の通りを照らし始めたころ、僕たちはその店を出た。一晩中騒いだのだ。二人ともさすがに遊び疲れ、喉もかれ、二日酔いの予兆が頭の奥で始まろうとしていた。

吉野家で味噌汁が飲みたい」

カオリさんがそう言ったので、僕はうなずいた。駅から来る途中に確かに吉野家があったのだ。当時20代だった僕は、数時間前にグラタンを食べたけど、そう言われると、なんだかまたお腹が空いてきて、うん、牛丼をさらさらっと味噌汁でかき込んでから家に帰ろうか、なんて思ったのだ。まだ若かったんだね。

カオリさんは「アンタ、どこまでも付き合いがいいねぇ」なんて、僕の腕を組んで大股で歩き始めた。一瞬だけ、服の上から伝わって来る二の腕のその肉感にドキッとしたけど、僕も笑顔で大股で歩き出した。冷え切った街のアスファルトの上を、二人は上機嫌で元気に歩き出した。

が、吉野家で二人で牛丼を食べ、味噌汁をすすっている間は、ずっと無口だった。さすがに遊び疲れていたのと、味噌汁が身体に沁みていたのだ。二人で並んでカウンターに座り、静かに食べ続けていた。

食べ終えてお茶を飲むころ、カオリさんが爪楊枝を口に入れてボソッと言った。

「去年のクリスマスは青森にこっそり帰ったのよ。親にも誰にも会わなかったけど」

「・・・・・・・」

「なんかさぁ、急に子供に会いたくなってさぁ。衝動的に夜行電車に飛び乗って行ったのよ。結局会わなかったけどね」

「そうなんですか?」

「ウン、元旦那の実家の門のところから、中庭で遊んでいるあの子をちょっと見ただけ」

「どうして?せっかく行ったんだから話せばよかったじゃないですか?」

「いや、ババアが一緒にいたのよ。あの女、私の事を母親として失格だって言ってゴミを見るような目で見て来るからさ」

「そうですか」

「だから今年はあんまり一人で過ごすのも嫌だなぁって思ってさ」

「・・・・」

「もうあそこには帰れないってあの時、分かったし」

窓の外は粉雪が舞っていた。ビュンビュンと強い風がガラス戸を叩きつけている。

あ、そうだったんだ、と僕はお茶をすすりながら、カオリさんの横顔をそっと見た。そこには、さっきまでお酒を飲んで大暴れしていた元ヤンの姿はなく、一人の母親の顔があった。

ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る♪

あれから数十年たっても、この季節になると、白いマスクの群れの頭の上に、相変わらずジングルベルの曲が流れ続けている。そんな街の風景を見ながら、だいぶ年を取った僕がコートの襟を立てて歩いて行く。今年のイヴは雪が降るらしい。そう、このマスクの一つ一つに物語があって、それは喜びだったり苦しみだったりするけど、それでも人間は生きて、年を取って、病を得て、死んで行く。それを知りながら、それぞれの事情を抱えながら、それでも生きて行く。

だから、人種の違いも、貧富の差も、年齢の差も、境遇の違いも関係なく公平に結びつき、もし人間がキズナを築けるとしたら、それはどんな人生にも公平に訪れる「哀しみ」の中でだろう。それでも生きて行く、という哀しみの中で、僕たちはやっとその違いを越えて結びつける。

ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る♪

はい、明日はクリスマスです。愛と寛大さとそれを支える絆(きずな)を大事にする日でした。大切な人の為にプレゼントを買いに行かなきゃね。

若かった頃に過ごしたイヴの一夜を思い出しながら、平和な国で、静かに、静かに時間が流れ、こうやって僕は年を重ねて行く。

「絶望ライン工ch」を観ながら、アジアの奥地で食べたダイナミックな野菜炒めを思い出し「貧しさ」について考えたこと

 もうすぐ師走である。この国はどんどん貧しくなって行くけど、そして、国ごとオワコンだなんて言われているけど、大丈夫、ショッピングモールに行けば、結構みんな大きな袋を抱えて楽しそうに買い物をしている。クリスマスケーキの予約も、お節料理の予約も、人気のあるやつはあっという間に完売だ。そしてモールのレストラン街に行けば、そう、みんな少々値段が張っても美味しいものを食べる為にはお金を出し、さらに行儀よく並んで待っている。

要するに内需の国なのだ。1億人も人口がいるっていうのは、実は非常に大きなマーケットがあるということ。自信を持って日本人が日本人に対してガンガン商売をしかけ、ガンガン稼いでガンガン消費すれば、かなりいい感じの経済になるのである。

だから、一人当たりのGDPがついに隣の国に抜かされたぁ、なんて周りと比較して落ち込まなくても、このたくさん消費者がいる日本の国で、日本人を相手に商売すればいい。

が、問題は、せっかく数はいるのに、その三分の一が年金暮らしで「ガンガン稼いでガンガン消費」していないということだ。これではいくら人口がそれなりにいても意味がない。なので、年金なんて死ぬ直前まで与えないでおいて、「ガンガン稼いでガンガン消費」させれば問題解決じゃん、という発想が出て来るのは当然だろう。

ということで、僕たちの老後は「もはや老人という概念はない、むしろ差別用語だ。健康寿命の70歳過ぎまで働くのは国民の義務だ。それまでは年金なんて貰おうとしてはいけない。甘えては駄目だ。みんなでこの国を支えるのだ。がんばろう日本!」という時代になるのを知っている。知っていて、それでも尚、僕たちは愚直に働き、税金を納め、生活をしている。「みんなでこの国を支えるのだ」なんてスローガンのもと、70歳を過ぎた自分たちが、ハローワークでアルバイトの奪い合いをしている姿を想像し、20代の就職難の頃と全然変わってないじゃん、もっと上の世代から早くこれをやっておいてくれよぉ、なんて愚痴り合っているのかな、なんてクスクス笑って想像しながら、この厳しい中年期を過ごしているのである。戦後で一番忍耐力がある世代であると言ってよい。

 なので、例えば家族を連れてちょっと贅沢に外食なんてしていたら、「こんな風にちょっと贅沢、なんて自分たちが年寄りになったら出来ないんだろね。今のうちに食べておこう」という類(たぐい)の会話が始まり、どんどん体が衰え死に向かいながらも、少なくともそこへ上乗せして「どんどん貧しくなって行く」なんて想像する必要がなかった上の世代を羨ましいなぁ、なんて考えるのだ。自殺の理由の多くは健康問題であり、次いで生活・経済問題である。僕たちが年寄りになるころ、またこの国は自殺者が3万人を越えて行くのだろう。その頃には安楽死とかが合法化されていて病死にカウントされ、そういった暗い不名誉な数字が解決されるのかな?高級官僚が考えそうな解決策だ。

 じゃあ、「貧しくなって行く」その先で、年寄りになった僕たちは、体のあっちこっちが痛いよぉ、昼間やったバイトがキツかったよぉ、なんてブチブチ言いながら、夕ご飯を食べているのだろうか?その時食べているものは一体何?

昭和風に言うなら、毎日毎日、白米とめざし?

いやいや、めざしって今や結構な値段で、貧乏暮らしで食べるものではありません。それは偏見というものです。

じゃあ数十年後、70歳になった僕たちが、年金も貰えずに食べている質素なご飯って何だろうか?納豆と卵かけご飯?

いやいや、納豆も卵かけご飯も馬鹿にしてはいけません。いずれも栄養価が高く、熱々の白米に納豆を乗せた時のあの幸せ、卵かけご飯の白身と醤油が混ざって舌の上をツルンと流れて行くときの食感と味わい、それらを是非思い出して下さい。食生活が貧しくなるなんて、間違った考え方です!

というのを、「絶望ライン工ch」という有名なYouTuberの方の作品を観ていて、改めて思った。そうだよなぁ、食事って奥が深く、料理をする際、それがスーパーで安くで買って来た食材であっても、創意工夫と、何より「美味しいものを作ってみせるぞ」というワクワク感のプロセスを楽しめれば、もうその時点で半分成功しているのである。もはや「貧しい」食事などではない。「絶望ライン工ch」では、こじんまりした炊事場で、モヤシとかシャケとかコンニャクとか味のある食材が並べられ、それが魔法のように美味しそうな料理に生まれ変わって行く。そこにあるのは、ステレオタイプに収まろうとしない食生活の楽しみ方であり、厳しい時代を生き抜いて行く為に何だって楽しんで味わってやるぞ、という逞(たくま)しい覚悟である。出来上がった料理は、YouTubeの中で「カンパーイ」と共にビールでお腹に流し込まれ、定番の素敵な音楽が流れ始める。

 アジアの山奥に駐在していた頃、そこはまだ経済発展の恩恵を受けていない地域で、人々の大半は貧しい暮らしをしていた。小さな家に、お爺さんとお婆さん、両親、叔父さんとその奥さんと生まれたばかりのいとこ、それから自分の兄と兄の奥さんと甥っ子、さらに自分の妹と・・という具合で一族が大勢で一緒に暮らし、雑魚寝(ざこね)し、ご飯を食べ、トイレで排泄し、密集してみんなで水道水のシャワーを浴び、ワイワイガヤガヤ賑やかに暮らしていた。会社のスタッフの家に食事に招かれて行くと、大抵、暮らしぶりはそんな感じだった。

僕は当時、ホテルで暮らしていたけど、周囲に日本食が食べられる場所なんてなく、地元の料理を食べるしかなかった。且つ、最初の頃はコトバもほとんどしゃべれなかったし、メニューも読めないし、そもそもどこに美味しい店があるのか分からなかった。

なので、休日の昼食はホテルの食堂へ行って、身振り手振りと筆談で料理をオーダーし、ステンレス製のボールにその料理を入れて貰って食べていた。

貧しい地域のどローカルなホテルの汚い食堂である。コックの男は不愛想で、エプロンの首元が垢で汚れていて、もちろんエプロン自体も洗っていないから汚れていた。全身からなんだか変な臭いがしていた。でも仕方ない。

「何を食べたいのだ?」

「野菜を食べたい」

「何の野菜を食べたいのだ?」

「トマトと、それから緑の野菜」

「緑の野菜ってなんだ?」

「う~ん、何というか、ほら、要するにキャベツとかレタスとかキュウリとか」

「今は季節が違うからそんなものはない」

「う~ん、じゃあ適当に緑の・・・」

「緑だったらいいのか?」

「いい」

「分かった。作ってやる」

出て来たのはトマトとニガウリを油たっぷりで炒めた料理だった。このあたりでは何でもニンニクをぶち込んで油でダイナミックに炒めるのだ。食材については、毎朝、地元の農家の婆さんたちが、大きな麻袋に採れたての野菜を入れて、食堂の裏口に持ち込み、この不愛想なコックと値段交渉して売っていた。

お金を払う。日本円で60円だった。えらく安い。ずっしりと中身の入ったボールを抱え、部屋に戻ると机の上に置いて、スプーンですくって一口食べる。

美味しい!

塩コショウで炒めているだけなのに、こんなに美味しいんだ、ってやみつきになり、それ以降、僕の休日の昼ご飯の定番になった。この料理は、たぶん自分の一生で一番、美味しさに対する費用対効果が高かった料理だ。ニガウリも強火で油で炒めることによって、ほどよくエグ味が消え、そこにニンニクの芳ばしい風味が加わって本当に美味しかった。僕はホテルの窓の外ののどかな風景を眺めながら、あっという間にその料理を平らげた。食事を楽しむというのは、決してお金をかければいいってもんじゃないのだ。貧しいからって食生活が貧しくなるなんて、間違った考え方なのである。

 が、いったん豊かになった国が貧しくなる場合、かつて貧しかった頃のような豊かな食生活は戻りにくいのかもしれない。そこにワイワイガヤガヤと一緒に食べる大家族はおらず、新鮮な採れたての野菜も口にするのは難しく、そもそもそういうものは健康志向の食材だから無茶苦茶値段が高い。だから、一人で、アパートで、スーパーで買ってきた普通の食材(必ずしも採れたてではない)を使って、どうやって美味しい料理を作り楽しむのかが、これから貧しくなって行くこの国で、それでも楽しんで生き延びて行く為の処世術になるのである。

生きてるって悲しいね~

「絶望ライン工ch」の軽快な音楽が素敵な歌詞とともに流れる。

そうだね、悲しいね。昔、誰かが「ニヒリズムぎりぎりのオプティミズム」という言葉を使ったけど、そう、人生は方丈記で言う「うたかた(水面に浮かぶ泡)」のように、そして「ゴミ」のように続いて最後には全員が平等に骨になるのだけど、それでも生きて行く、楽しみを見つけしみじみ味わって行くんだ、という楽観が、僕たちを支え続ける。

 ところで、遂に80億人に達した世界の人口のうち、10億人が深刻な飢餓状況に陥っているらしい。これは、せっかくオギャーと人間に生まれても、8人に1人は食べることさえ難しいということだ。だからあんまり贅沢を言ってはいけない。羨んではいけない。世界は広く、まだまだ途方もない悲しみが広がっているのである。この小さな島国で、かつて繁栄を極めた古い国で、僕たちは、最後まで逃げ切る為に目の前の富にしがみ続ける年寄りたちをおんぶしながら、ヨロヨロしながら、それでも、それぞれのやり方で黙ってサバイバルをして行くのだ。

目の前の小さな幸せを見落とさないように、ゆっくり生きて行こう。

アジアの僻地で食べていた、あのダイナミックな野菜炒めを思い出しながら、僕はニヤニヤとYouTubeを観ている。

芝居のチラシを見て、演劇と演技を考え、バイオリンと旧車の曲線美を思い出し、芸術の秋を感じたこと

 古いアルバムの積み重なった隙間から芝居のチラシが出て来た。休日に部屋で衣替えをしているうち、アレ、これ懐かしい本だぞ、なんて読み出して、衣替えは遅々として進まず、ついでにCDラックはもう邪魔だから捨ててしまおうか、なんてあれこれ引っ張り出しているうちに部屋がどんどん乱雑になり、遂に怒られ、ハイハイやりますよって片づけていたら、懐かしいそのチラシを見つけた。

 別に自身が芝居をやっていた訳ではない。学生時代に、芝居見物が好きだった友人から劇団を旗揚げするから手伝ってくれと言われ、裏方として手伝ったことがあった。人集めとか練習場所の確保とかそういった類(たぐい)だ。学生時代の僕は、映画でも音楽でも絵画でも、要するに創作されたものがなんでも好きだったから、芝居見物もよくした。その延長で、趣味の高じたその友人の手伝いをしたのである。

 旗揚げされた劇団は学生も社会人も混ざっており、土日を使って練習していた。夏には清里のコテージで合宿までやり、朝から晩まで役者の人たちがそこで練習をしていた。そして夜はお楽しみの飲み会だ。芝居をやる連中はそもそも表現したくて仕方がない人たちだから、たいていディープなキャラをしている。毎晩、激しく、ちょっと乱れつつ、楽しい飲み会をした。いわば古臭い言い方をすると青春の一幕として、そこで出会った懐かしい面々が僕の記憶に残っている。参考の為に彼ら(彼女ら)と一緒に見に行った他の劇団の公演や、そこで知り合って一緒に飲んだ別の劇団関係のやっぱりディープな人たちのギラギラした雰囲気が、そのチラシを見てふと蘇って来た。そうそう、これはまさに、あの連中と一緒に東京中あっちこっちの芝居を見に行っていた頃、パンフレットに挟まれていたチラシの一つだ。

みんな元気にしているんだろうか?

もう普通の中年として、あるいは良き父親、母親として、フツーに生活しているんだろうか?

地元に帰った?

それともまだ、東京のどこかの場末の酒場で演劇論を熱く語りながら、夢を追いかけ続けているのだろうか?

 高校生の頃、小林秀雄とか加藤周一とかの評論を読み漁っていて、他にも山崎正和の芸術論がとても読みやすく、僕は大好きだった。その中にアランの芸術論を紹介した文章があって、一言で言うと、「自分はこれがイイと思うんだ!これがまさに自分なんだ!」にたどり着く道(創作活動)の上で、素材の抵抗というものが重要、という話があった。例えば彫金師は、銀の皿に自分の表現したいイメージを彫り続けるが、その際、銀という金属の固さが鏨(たがね)を持つ手に伝わり、その固さと闘いながら、いわば素材の抵抗を受けながら、少しずつ自分の主題を形にして行く。だから、素材の抵抗とは、作り手にとって、自分の主題を見える化して行く重要な契機であり、逆にすんなり抵抗なく作ってしまっては、しっかりと自分の主題を見つめ直す時間が足りないので、結局、そのような作品は簡単に作れるけど、やっぱり迫力がない。僕たちが「手作り」で丁寧に作ったモノに感動するのは、そんなところに理由があるのである。

 これは工業製品にも当てはまる。コンピュータで製図をする前までは、車のデザインだってカメラのデザインだって、炊飯器のデザインだって、みんな人の手で描いた。車のデザインも、CADなんてなかった時代は、デザイナーが手書きでラインを引き、それに基づいてクレイモデルを作った上で、板金をプレスする金型を作成した。

「だから昔の車の曲線は暖かいんだ。ボクは製図を手でやっていたころの工業製品の曲線の暖かさが好きで、いつか旧車に乗りたいと思っている。曲線はね、人の手が生み出すと、暖かいもんなんだよ」

前に勤めていた会社の工場に、派遣社員として現場で作業者をしていたカマタさんという人がいた。僕より2つほど年上で、九州の名門国立大学を出て、大阪のバイオリンを作る専門学校に就職し、上司のひどいパワハラを長期間受けて心を病み、退職して東京へ出て来た。東京で正社員の中途採用の試験を何社も受けたが門戸は全て閉じられていたので、カマタさんは仕方なくアパートの家賃を払うために、派遣社員で作業者として働くことにした。当時ではごく普通の話だ。誰も守っちゃぁくれないのである。つぶれる奴はつぶれるし、誰も気にしない。そもそもパワハラなんて言葉も概念もなかった。野垂れ死にする奴はするだけで、誰も気にしないのである。それが僕たちの20代だ。そうして、僕たちの70代や80代の頃には、若者ではなく今度は年寄りとして、再びそういう扱いを受ける時代がやって来るんだろう。野垂れ死にする奴はするだけで、どうせ誰も気にしないのである。

カマタさんは工場で毎日汗まみれになって作業しながら、少しずつお金を貯めていた。いつかどこかの田舎に移住して、自分の工房を持ってバイオリンを作るのが夢だった。僕とは妙に気が合い、よく会社の帰りに飲みに行った。非常に温厚な性格で、謙虚で、物知りで、焼酎が大好きだった。

「人の手が生み出すと、曲線は暖かいもんなんだよ」

酔って紅潮した顔をこちらに向け、カマタさんは微笑みながら静かに語っていた。渋谷の安酒場で飲んでいて、熱い夏の夜だった。これも懐かしい思い出だ。

今はどこにいるんだろうか?

無事に生き延びている?

自分の工房でバイオリンを作るという夢は叶った?

その工房のガレージには、いつかカマタさんが乗りたいと言っていた、あの暖かみのある曲線を持つ昭和の旧車が停められている?

 一方、芝居という芸術の創作活動にあって、素材は人間そのものであり、素材の抵抗とは、その人間の肉体と個性である。肉体は演技の練習によってある程度、制御できるかもしれない。一生懸命に技術を磨けば、それなりに演技できるようになる。でも個性は制御が簡単ではない。演技の向こう側に、制御できない自分の個性が滲(にじ)んだ時、役者はその役になり切れず、しかも見え隠れしているその個性が平凡でしょうもないものだったら、確実に大根役者と呼ばれる。

だから、芝居という芸術では、画家がキャンバスに向かって格闘するように、役者が自身に向かって格闘しているのである。迫力がない訳がない。芝居に関わる全てが迫力だらけである。そこにディープな魅力を感じ、そこに魅せられ、抜け出せない人が多いのは当たり前の話なのである。「自分はこれがイイと思うんだ!これがまさに自分なんだ!」に向かって、自分の肉体を、個性を、人格を、人生を、全力で投げ出すのである。

 出て来た古いチラシを手に、そんな懐かしい人たちの事を思い出していた。いかん、いかん、全然、衣替えが進まないぞ。部屋の状況は更に悪化している。また怒られるかも・・・

僕は一瞬そのチラシをゴミ箱に捨てかけ、やっぱりアルバムの隙間に挟んでおいた。今度目にするのは何年後だろうか?

晩秋の休日の昼間の木漏れ日が、部屋に柔らかく射していた。もうすぐ冬がやって来る。

僕は衣替えしながら、こうやってどんどん年を取っていくんだなぁ、なんてぼんやり考えていた。確実に言えるのは、「自分はこれがイイと思うんだ!これがまさに自分なんだ!」の挙句に、全員どのみち骨になるということである。芸術に打ち込もうが、仕事に打ち込もうが、家庭に打ち込もうが、独りでいることに打ち込もうが、いずれ僕たちはみんな、たった数十年で平等に骨になる。

いかん、いかん、って僕は冬物の服を衣装棚から取り出し、順番にクローゼットへ掛けて行った。今年は寒いのかな?なんて呟く。あと数時間したら、家人を車に乗せて、前から行きたいと言っていた中華料理店へ連れて行かなきゃ。

もうすぐ冬がやって来る。

僕の生きる時間は、そうやって静かに過ぎて行く。

嬬恋再訪で、父親の思い出とキャベツ畑の記憶の為に、軽井沢でペイネのグラスを買ったこと

 秋の初めに嬬恋へ行った。再訪である。浅間山の麓(ふもと)一帯に広がるキャベツ畑を観たいと思っていたのだ。

夏前に初めて行った時はまだ時期が早過ぎた。キャベツは芽が出始めたところだった。でも、もしこれが全部丸いキャベツとして成長したら、きっとすんごい景色なんだろうな、いつか絶対に観に来たいな、なんて思っていたから、ついに念願がかなったのである。

で、実際に目の当たりにしたけど、こりゃ有名になるだけあると思った。広大な畑に緑色のキャベツたちが延々と育っていた。その向こうに浅間山と高い秋空が広がり、まさに壮観である。

僕たちは車に乗って、どこまでも続くキャベツ畑の間を走り抜けた。美しい景観だった。最高のドライブコースだ。何度も行ったり来たりし、「愛妻の丘」でおにぎりを食べ、また走り出した。ずっと走っていたい風景だった。

 その昔、ヤマトタケルが東国征伐に行く途上、海上で暴風雨に遭った。船はうねりに飲み込まれ、岸辺に戻ることさえ出来ないひどい嵐だった。同行していたヤマトタケルの妻は、戦(いくさ)に女である自分が付いて来てしまったので、きっと海の神が怒っているのだと考え、沈みそうになるその船から荒れ狂う海に身を投げた。結果、海は嘘のように静まった。ヤマトタケルは無事に東国に到着し、その後、あまたの豪族たちを打ち負かし、伝説を作り、無事に都への帰途についた。

そうして浅間山の麓に来た時、空を見上げたヤマトタケルはふと、自分を想って身を挺したあの妻の事を思い出した。急にたまらなく恋しくなって、「あぁ、我が妻よ!」と泣き叫んだ。

そこから嬬恋のある「吾妻(あがつま)郡」や「嬬恋(つまこい)」の地名が生まれた、という事らしい。

なるほどねぇ、なんて、延々と続くキャベツ畑を横目に、僕はハンドルを握っている。ヤマトタケルがほとんど神話の人物であり、実在したかどうかはともかく、少なくとも、仕事はバリバリ出来たが、男としては平凡な人だったんだろね、って考えてしまうのだ。一人の平凡な男として、だろうね、って思うのである。

若者から脱皮して以降、仕事の面白さが分かり始めると、ベテランの一人としてある程度の役割を任され、或いは担い、さらに面白くなって、生活や価値観の中心にシゴトを据えてしまうのはよくある事だ。仕事に没頭しているその間、他のこと、例えば家族や友人や自分の趣味でさえ、二の次になるというのは、一種の幼児性であり、男が陥りがちな、どうしようもなさでもある。本人にとっては、妻も子供も実は人生の副次的な産物に過ぎず、シゴトに、もっと厳密に言うと「シゴトが出来る自分に」夢中になってしまうのである。妻の小言を聞いている間も、子供と一緒に遊んでやっている間も、頭の中は仕事のことでいっぱいで、どうやって結果を出してやろうか、そんな事をずっと考えている。

で、そんなのは所詮、バランスを欠いた幼児性でしかないから、仕事が一段落したりとか、転職や部署移動で新しいステップに移る直前のエポックに入った時とかに、急にふと我に返るのだ。

アレ?いつの間にか自分は独りで立っているぞ、あんなに自分に向かって笑顔で話しかけてくれていた、そしてその時はちょっと自分は億劫だと思っていた妻や子供たちは、もうそこにいない。いても既に心を閉ざしていて、こちらを見てくれない。全然話しかけて来ない。こちらから話しかけてみると、かつて自分が面倒だと感じていたように、妻や子供たちは露骨に面倒くさそうな態度を取るばかりだ。

アレ?なんでこんなことに?と気づいた時には既に遅く、あとは寂しい思いのまま、仕事に没頭し続け、それで結果が出続ければいいけど、どこかで頭打ちになって自分の限界を知ってしまうと、その後は「シゴトが出来る自分」さえ感じることも出来ず、家では誰も話しかけて来ず、茫洋(ぼうよう)と生きて行く。バランスを欠いたかつての幼児性の罰を受けるのだ。組織にとっても、誰かにとっても、それほど重要な存在ではない。平凡な男の人生の、平凡な中年期が到来するのである。

 という古臭い生き方を否定し、奥さんや子供のために会社員生活を辞め、バンライフで日本一周したり、地方の田舎に移住して自給自足の生活をしたり、要するに「家族」の為に自分の時間(=命)を費やそうと覚悟を決めた若い男たちが、YouTubeで溢れかえっている。これも一つの世相だ。改造した車で寝起きし、焚火で沸かしたコーヒーをニコニコ笑って飲んでいる。みんな幸せそうだ。リモートワークで仕事しながらバンライフを楽しむ夫婦も多い。もはや、ヤマトタケル的な男の平凡さは、平凡ではなくなりつつあるのかもしれない。

 が、40年前の昭和の時代にあって、同世代の大半がモーレツ社員として「平凡な」男の生き方を選択していた頃、僕の父親は明らかに違う生き方を選択していた。生活のすべてを家族とともに過ごし、自分の好きなことに時間を費やし、仕事は二の次だった。まるでYouTubeに出て来る今の若いカップルの男のような、そんな生き方だった。

時代の先を行っていた?

いや、ちょっと風変わりな男だったのだ。

朝、といっても既に昼前になって、ようやく布団から出て来た父親は、台所で新聞を読みながら、何時間もかけて妻の作っておいてくれた朝ご飯を食べる。朝ご飯は、妻がパートに自分の昼ご飯として持って行ったお弁当のおかずの内容と一緒だ。ハンバーグもあれば煮物もある。食パンを焼いてジャムを塗ってサランラップに巻いてあったりもする。大好きな妻の手作りの料理が、彼はなんだって大好きだ。新聞を読みながら、ゆっくり味わって食べ、優雅な朝食の時間を過ごす。

昼頃、ようやく仕事部屋に向かって作業を始める。高級紳士服の仕立ての仕事だ。仕事部屋には隅の方に二つの勉強机が置いてあって、家の中では二人の息子たちはここで勉強したり遊んだりしている。大好きなジャズのナンバーをかけ、ハイライトをスパスパ吸い、裁断ばさみを手に腕前をふるう。腕前はコンクールで表彰されたくらいいい。そしてちょっと疲れたら台所に行って、近所からお裾分けでもらったお菓子か何か甘いものを口に放りこみ、めっぽう濃いコーヒーで流し込む。

で、そのまま仕事部屋に戻るのかと思いきや、自転車に乗って近所のホームセンターに向かう。下の息子が「ニワトリを家で飼って卵を産ませ、その産みたての卵を食べたい」と言っていたから、お手製のニワトリ小屋を作ってあげる予定なのだ。

ホームセンターで木材と、扉に使う蝶番(ちょうつがい)などの金具一式、それからニワトリがフンをしたら網目越しに下にポトリと落ちて、新聞紙を敷いた底の引き出しから簡単に取り出せる(簡単に掃除が出来る)ような工夫をするので、金網などの材料も買って、自転車の後ろの荷台に括り付け、帰って来る。一回では持って帰れないから、二往復して家に材料を揃える。

材料が揃ったら早速、大工仕事だ。大工仕事は子供の頃から大好きだ。ニワトリ小屋だって子供の頃自分で作ったし、それを今回、下の息子の為に作ってあげたいのだ。事前に鉛筆で書いた図面をもとに、ノコギリで木材を切り、釘を打って組立て行く。

夕方前までそうやって好きなことをしていると、上の息子が小学校から帰って来る。慌てて仕事部屋に戻り、仕事を再開だ。しつけ縫い作業の続きを始める。

上の息子は学校から帰って来ると、勉強机に向かって勉強を始めた。学校の宿題はすぐに終わらせてしまい、いつもやっている通信教育の算数と国語のドリルをやって、それを自分のところへ持ってくる。自分は仕事を中断し、手元の解答集を使って答え合わせし、間違ったところについては、解答集の解説を読みながら、間違いの理由と正しい解答を教えてあげる。上の息子は下の息子と違って本当に勉強が好きだ。一生懸命間違ったところの説明を聞いている。そしてその通信教育のドリルが終わると、今度は最近始めたNHKラジオの基礎英語を聴き始めた。そうやって夕ご飯までずっと何かの勉強しているのだ。

夕方になって、やっと下の息子が帰って来た。コイツはいつも、さんざん道草しながら小学校から帰ってくるから、こんな時間に家に着くのだ。上の息子と違ってあんまり勉強が好きじゃないから、家に帰ってからも、台所でお菓子を食って牛乳を飲んでダラダラやっている。お前もお兄ちゃんと一緒に勉強しなさい、と台所へ言いに行ったら、「ニワトリ小屋は?」と聞かれ、つい庭へ一緒に出てしまった。

下の息子が熱心に作りかけのニワトリ小屋を見ている。これからどんな風に完成させるのか、話してやると「いつできるのか?」と目を輝かせて聞いてくる。本当に楽しみで仕方ない様子だ。ニワトリは近所の養鶏場からひな鳥を分けてもらう予定である。この子は生き物が大好きだから、完成したニワトリ小屋で飼い始めたら、きっと本当に喜ぶんだろうな、なんて考える。

妻がパートから自転車で帰って来た。マズイ。昼間あんまり仕事しないで過ごしていたのがバレる。慌てて仕事部屋に戻り、仕事を再開する。妻が家の中に入って来た時には、まるで朝から一生懸命仕事し続けていたかのような様子で「おかえり」なんて言ってみる。下の息子も、さっきまで一緒に庭でニワトリ小屋の話をしていたのに、今はちゃっかり勉強机に座って、今まで勉強していたかのように振る舞い、妻に「お母さん、おかえり」なんて言っている。コイツはそういう奴だ。上の息子は無表情に、ずっと勉強机に向かって何かの勉強を続けている。

妻が庭に干してあった洗濯物を取り込んでたたみ終わると、自分は台所へ行って妻の為にお茶を入れてあげる。パートから帰って来た直後、夕ご飯を作る前のこのひと時が、彼女にとって1日で一番ホッとする大切な時間なのだ。お茶を入れてあげ、テーブルに向かい合って座り、妻の仕事場での愚痴をずっと聞いてあげる。自分は妻のことが大好きだ。この貧乏な借家暮らしにも文句を言わず、パートに出て家計を支え、子供たちにとってよき母親をやってくれている。そして何より美人だ。よく息子たちの前でも「君って美人だね」と言って怒られることがあるが、本当にそう思うからつい口にしてしまうのだ。

夕ご飯は家族全員で7時のニュースを見ながら食べる。アナウンサーのスーツの仕立てがカッコ悪いとプロらしく批判してみるが、家族は誰も反応しない。上の息子は黙って黙々と食べ、下の息子は料理の味付けが薄いと文句を言って妻に怒られている。

夕食後、8時くらいまでは子供たちと一緒にテレビを見ている。世界名作劇場とか、うる星やつらとか、要するにアニメを一緒に見る。これが結構面白い。月曜日は7時のニュースの代わりに北斗の拳を見る。

8時過ぎにお風呂に入って仕事部屋に向かう、ここからは比較的真面目に仕事する。洗い物を終えた妻がやって来てミシン縫いを手伝ってくれる。子供たちが勉強机で本を読んだりしているから、ジャズは聞かず、4人家族で同じ空間で黙々と時間を過ごす。

子供たちが寝室へ寝に行き、妻も寝に行く。もう12時前だ。カセットテープに録音した浪曲とか落語を小さな音で聞きながら、ハイライトをスパスパ吸って、マイペースに仕事する。家族は隣の部屋で眠っている。静かに夜はふけて行き、明け方まで黙々と仕事する。

そんな気ままな職人生活を長々やって、全然稼げず、バブルの真っただ中で失業し、もはや正社員として雇ってくれるところはなかったから、バイト生活を始めた。それまで職人として生きて来たプライドが打ち砕かれた部分もあったと思うが、だからと言って気持ちが荒れることはなかった。バイトから帰ってくると、子供たちの勉強の相手をし、相変わらず妻の為にお茶を入れた。父親にとってあくまで主軸は家族と自分の好きなことだったのである。一風変わった人だった。

 そこからさらに遡(さかのぼ)ること20数年前、日本が高度経済成長期に入ったころ、地方の農村で生まれ育った父親は、中学だけ卒業して地方の都市部に集団就職した。「かっこいいスーツを自分で作って着てみたい」という夢があったから、仕立て屋の職人に弟子入りし、兄弟子たちと一緒に寝起きしてひたすら修業した。

その数年後、修業を終えて独立すると、親類のおばさんが縁談を持ってきた。相手は自分が生まれ育った村の隣村の評判の娘だった。写真を見ると無茶苦茶かわいい。5人兄弟の一人娘で、大切に育てられたらしい。一張羅(いっちょうら)のスーツを着て、見合いすることにした。実際に会ってみたらホントに美人だった。しかも気立ても良さそうだった。結婚することにした。最初の子供は流産してしまったが、やがて長男が生まれ、次男が生まれた。

家で仕事し、家族とともに時間を過ごし、酒は飲まず、付き合いは一切せず、自分の好きなことをして、大好きな妻と子供と一緒に暮らし続けた。途中で仕事が無くなったが、バイト生活をしながら暮らし、そのうち成長した息子たちは順番に家を出て行き、そうして60歳になった時、肺に癌が見つかった。

 父親が癌で手術を受けた時、僕は群馬の工場で働いていた。20代の半ば過ぎだった。母親からの電話で手術の話を知り、しかも「メスで開いたが全身に癌は回っていて、もはや手遅れ」という話だった。僕は群馬の借り上げアパートの一室で号泣し、翌日、有休をもらって電車を乗り継ぎ、新幹線に乗って帰省した。

地元の病院に到着すると、すっかりやせ細った父親がそこにいた。僕は前日に一人で号泣しておいたから、冷静さを装うことが出来た。軽く右手を上げた。父親は不思議な表情でこちらを見ていた。

半日くらい病室でとりとめの無い会話をし、いよいよ帰る時間が来た。もうこの様子では、次に会うのは危篤状態になってからだと分かっていた。

「じゃぁ、行くよ」

「遠いところ悪かったな」

「うん」

「母さんを頼むぞ」

僕は振り向かずにそのまま病室を出て、階段を降り、病院を出て駅に向かって歩き出した。涙が止まらなかった。まだ20代半ば過ぎだった。何一つ親孝行していなかった。早過ぎる、という怒りがこみ上げていた。

「母さんを頼むぞ」

本人に告知はなかったが、先がない事は悟っていたのだろう。大好きで仕方ない妻と一緒に暮らし、その大好きな妻に看取られて死んでいく一人の男があそこにいた。

僕は電車に乗って群馬へ戻った。

 そんな群馬にある嬬恋村だ。僕は家人を助手席に乗せ、キャベツ畑の間を走り続けている。秋空はどこまでも青く、どこまでも高い。運転しながら、ずっと父親のことを考えていた。

 宿は前回と同じ旅館を予約して宿泊し、夕食に旬のキャベツ料理を腹いっぱい食べた。キャベツの冷静スープ、キャベツと豚肉の冷しゃぶ、回鍋肉など、全部が本当に美味しく、大満足だった。キャベツって本当に美味しい!

翌日、軽井沢を抜けて家路につくことにした。途中、ペイネ美術館へ立ち寄って作品を眺め、グラスをお土産に買った。ペイネは好きな人と長く長く一緒に暮らし、90歳まで生きたフランスの画家だ。「ペイネの恋人たち」というシリーズの作品をたくさん残していて、ほのぼのとした画風は見る者の心を本当に穏やかにする、そんな画家である。

 僕はめったに土産物を買わないが、グラスに刻まれたイラストがあまりにも魅力的で、父親の思い出と、今回の家人との嬬恋旅行の思い出と、キャベツ畑の記憶と、そして何より祈りを込めて、そのグラスを買った。

「あぁ、我が妻よ!」

ヤマトタケルの泣き叫ぶ声は、未来永劫(みらいえいごう)、どうしようもない男たちが放つ、哀しい咆哮(ほうこう)である。嬬恋(つまこい)なんてロマンチックな名前だけど、情けない男の姿が表裏一体となった、際どい名前だと思った。

秋の突き抜ける青空が、運転席の頭上いっぱいに広がっている。僕は平凡な男の一人として、ここで生きている。

落ち込んだ時に効く魔法のコトバをきっかけに、人生で出会って来た料理の数々を思い出したこと

 仕事でもプライベートでもなかなか上手く行かない、前に進んでいかない、苦しい、みじめだ、空しいなんて、腐るほど経験するのがフツーだけど、それが「フツーだよね」って寝そべりながらゲップでもするように言えるのは、その人が年をとっているからである。人間の年齢は我々に、肉体の衰えという悲しい試練を与えるが、同時に、「面の皮が厚くなる」という素敵な贈り物もくれるのだ。

が、若い人はそうは行かない。若い人たちは可能性という希望がある一方、傷つきやすさの呪縛の中で生きている。なかなか上手く行かない、前に進んでいかない、苦しい、みじめだ、空しい、のまま落ち込んで行き、そのまま気持ちが底の底まで墜落して行って、ある日、「仕事を辞めようと思います」と打ち明けて来る。

何?仕事辞めてどうするの?ユーチューバーになってバンライフとか始めるの?仕事なんてどこだって一緒だよ。どうせ天然資源がこれっぽっちもない貧しい国なのに、しかもこんな年寄りだらけの国なのに、GDPが未だに世界第3位だなんて、みんなヒドイ目に遭いながらヒーヒー言って働いて税金納めて何とか成り立っているのがこの国のカラクリだよ、どこの会社行ったって国を飛び出さない限り一緒なんだよ。この国で働くってそういうもんだよ。

なんて言ってはいけない。これはド昭和の言説である。そんな事を落ち込んでいる若い人に言っても、「昔はね、防空壕というのがあってね」と僕たちが子供の頃、お爺ちゃんやお婆ちゃんから聞いてポカンとしていたように、彼らの心に何も響いて行かないのだ。

で、若い人が離職するのは、会社組織がそもそも古いとか、日本という国がそもそもオワっているとか、そういう事は置いておいて、マネージャーたちが活き活きした職場づくりを出来ていないからだ!と人身御供(ひとみごくう)のように中年たちが責められ、責められたそんなマネージャーたちがため息をついてうなだれているのを見て、あぁ、あれが自分たちの数十年後か・・・なんて若い人たちはますます仕事を辞めて行く。これが世相というやつだ。

落ち込んだ時にどのようにそこから抜け出せばいいのか?これを傷つきやすさの呪縛の中にいる若者たちに、どうやって効果的にアドバイスするのか?

若い部下の人たちと面談をする度にその問いを考えてみるが、これだけ年齢が離れると、世代が違い過ぎて、つまりは価値観が違い過ぎて、そのくせ一緒に生きているこの国や社会は老人たちが牛耳り続け、昔のまま閉塞感でいっぱいで、希望のある上手な答えが見つからないのである。

「苦しい時には、自分のそれまでの人生を振り返ってみて、一番みじめで悲惨だった頃の自分を思い出すんだよ」

僕が若者だったころ、上司だった40代の課長が僕にそうアドバイスしてくれた事があった。もちろん、これは昭和のアドバイスである。今じゃ全く使えない。

「これまで頑張って来て今の君があるわけでしょ。昔、頑張って乗り越えて来たその過去の自分がさ、大丈夫だよ、あんな大変な時期も乗り切って来たんだから君は大丈夫だよ、なんてな具合に、今の自分を励ましてくれるんだよ。最後の最後に自分を支えるのは、親でも友達でもなく、過去の頑張った自分であって、その自分が今の苦しんでいる自分の横に立って励まし続けてくれるんだよ。」

これは昭和のアドバイスをちょっと丁寧に言い換えただけである。平成くらいまでは通用したけど、令和の若者にはやっぱり「防空壕」でしかない。はぁ~・・・

という話を家人にしたら、

「イヤなことがあった時は、美味しい食べ物のことを考えればいいのよ」

と明快なお言葉を頂いた。男前な見解である。

美味しい食べ物かぁ、なるほどね。確かに、人は美味しい食べ物を食べている間は、死にたいなんて絶対思わない。

僕はそっと頬を撫で、出来る限り長生きし、そしてこの人より数日だけ長生きし、見送る時には院号に「満腹院(まんぷくいん)〇〇〇〇」と付けてやろうと密かに考えている。

結婚前に家人が作ってくれた迫力いっぱいのアップルパイ

画質が悪いのは大昔のガラケーで撮影しているから。でも初めてこれを作ってくれた時、そのリンゴの大きさに、そして全体のつくりの迫力に圧倒され、その向こう側でこちらをニコニコ見ている家人の笑顔にすっかり参ってしまって、僕は携帯電話をおずおずと取り出し、撮影した。もう大昔の話だ。でも人生で本当に「美味しかった!」食べ物の一つである。

中国の奥地で食べた舌の根元まで痺れる本場の本物の麻婆豆腐

駐在時代に中国の山奥のローカル料理屋で本場の麻婆豆腐を食べた。本物の麻婆豆腐は「辛い」のではなく「痺れる」のである。その痺れ方が癖になるほど美味しく、僕は何杯もお替りした。

神戸へ遊びに行くたびに必ず食べるずらっと並んだ明石焼き

さあ、片っ端から食べるぞ!という感じで、お椀にだし汁をいっぱい満たし、箸でつまんでパクパク食べ始める瞬間のあの幸せ。

郡上八幡で郡上踊りを見に行ったついでに食べた鯉のあらい

鬼平犯科帳を読んでいて、頻繁に登場するのが、軍鶏鍋とこの「鯉のあらい」。昔から食べたくって、いつか食べようと思って、郡上踊りを見に行った時に立ち寄った老舗の料理屋で、念願かなってついに食べることが出来た。酢味噌をつけてキュッと食べたら喉越しがサイコ―!日本酒が欲しくなる訳です。

道後温泉に浸かったあと道後ビールを飲みながら食べた鯛めし

鯛めしというのを、そんなに期待していなかったのに、食べ始めたら止まらなくなって、お櫃(ひつ)を空けてしまった。鯛のだしは、コメを別次元の美味しさに進化させる、というのを思い知った。腐っても鯛、だなんて、昔の人はよく言ったもので、鯛って魚の中ではやっぱり別格なんだね。

温泉旅館の自動販売機で売っている焼おにぎり

温泉と言えば、旅館で湯に浸かっては出てビール飲んで、湯に浸かっては出てビール飲んでいるうちに、夜半、ちょっと小腹がすき始めると、ふらふらビールの自販機の隣の食べ物関係の自販機に行って、ついつい買ってしまうのがこの「焼おにぎり」だ。

中身はこんな感じ。自販機で温められてから出て来るので、開ければ芳ばしい香りがプンと飛び出して来る。ハイ、またビールが進みます。

ふと立ち寄った料理屋で出て来たブリかまの塩焼き

ブリかまの塩焼きなんて、近所のスーパーで買って来て家であら塩をまぶして焼いて作れるから、ちょっとこんなお金を出して食べるかな?と迷ったけど、注文して大正解だった。プロの手にかかると、塩の種類、焼き具合でこんな風味豊かな「料理」になるのかと、ひどく感嘆したのを覚えている。あれ以上美味しいブリかまの塩焼きを、僕は食べたことがない。

海老と甘露の東海寺焼

胡蝶蘭という出て来る料理全部が絶品の旅館で食べた焼物料理。「ワカメ、シメジ、玉ネギ、ベーコン、チーズ、パスタ、パセリ」が入っていて、要するに美味しいものをギュッと器に詰め込んだ美味しい一品だった。

「おふくろの味」の一つである桜餅

田舎育ちの人だから、母の料理はなんでも味が濃くて、餡子(あんこ)はめっぽう甘く、周りを包む桜の葉はめっぽう塩辛い。その田舎臭い味付けも含め、愛情のこもった「おふくろの味」。

 

あ、元気が出たかも。

ひどい一週間を終えて、あぁもうウンザリだよ、キツいよぉ、なんて落ち込んだ気分のまま、死んだように眠る週末だけど、これまで食べて来た美味しい食べ物の数々を思い出しているうちに、なんだか気分がすっかり良くなって来たぞ。

「イヤなことがあった時は、美味しい食べ物のことを考えればいいのよ」

僕はこの単純明快な魔法のコトバを思い出し、お風呂に浸かっている。今日は金曜日の夜だ。

さて週末。ゆっくり休もう。

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