失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

嬬恋再訪で、父親の思い出とキャベツ畑の記憶の為に、軽井沢でペイネのグラスを買ったこと

 秋の初めに嬬恋へ行った。再訪である。浅間山の麓(ふもと)一帯に広がるキャベツ畑を観たいと思っていたのだ。

夏前に初めて行った時はまだ時期が早過ぎた。キャベツは芽が出始めたところだった。でも、もしこれが全部丸いキャベツとして成長したら、きっとすんごい景色なんだろうな、いつか絶対に観に来たいな、なんて思っていたから、ついに念願がかなったのである。

で、実際に目の当たりにしたけど、こりゃ有名になるだけあると思った。広大な畑に緑色のキャベツたちが延々と育っていた。その向こうに浅間山と高い秋空が広がり、まさに壮観である。

僕たちは車に乗って、どこまでも続くキャベツ畑の間を走り抜けた。美しい景観だった。最高のドライブコースだ。何度も行ったり来たりし、「愛妻の丘」でおにぎりを食べ、また走り出した。ずっと走っていたい風景だった。

 その昔、ヤマトタケルが東国征伐に行く途上、海上で暴風雨に遭った。船はうねりに飲み込まれ、岸辺に戻ることさえ出来ないひどい嵐だった。同行していたヤマトタケルの妻は、戦(いくさ)に女である自分が付いて来てしまったので、きっと海の神が怒っているのだと考え、沈みそうになるその船から荒れ狂う海に身を投げた。結果、海は嘘のように静まった。ヤマトタケルは無事に東国に到着し、その後、あまたの豪族たちを打ち負かし、伝説を作り、無事に都への帰途についた。

そうして浅間山の麓に来た時、空を見上げたヤマトタケルはふと、自分を想って身を挺したあの妻の事を思い出した。急にたまらなく恋しくなって、「あぁ、我が妻よ!」と泣き叫んだ。

そこから嬬恋のある「吾妻(あがつま)郡」や「嬬恋(つまこい)」の地名が生まれた、という事らしい。

なるほどねぇ、なんて、延々と続くキャベツ畑を横目に、僕はハンドルを握っている。ヤマトタケルがほとんど神話の人物であり、実在したかどうかはともかく、少なくとも、仕事はバリバリ出来たが、男としては平凡な人だったんだろね、って考えてしまうのだ。一人の平凡な男として、だろうね、って思うのである。

若者から脱皮して以降、仕事の面白さが分かり始めると、ベテランの一人としてある程度の役割を任され、或いは担い、さらに面白くなって、生活や価値観の中心にシゴトを据えてしまうのはよくある事だ。仕事に没頭しているその間、他のこと、例えば家族や友人や自分の趣味でさえ、二の次になるというのは、一種の幼児性であり、男が陥りがちな、どうしようもなさでもある。本人にとっては、妻も子供も実は人生の副次的な産物に過ぎず、シゴトに、もっと厳密に言うと「シゴトが出来る自分に」夢中になってしまうのである。妻の小言を聞いている間も、子供と一緒に遊んでやっている間も、頭の中は仕事のことでいっぱいで、どうやって結果を出してやろうか、そんな事をずっと考えている。

で、そんなのは所詮、バランスを欠いた幼児性でしかないから、仕事が一段落したりとか、転職や部署移動で新しいステップに移る直前のエポックに入った時とかに、急にふと我に返るのだ。

アレ?いつの間にか自分は独りで立っているぞ、あんなに自分に向かって笑顔で話しかけてくれていた、そしてその時はちょっと自分は億劫だと思っていた妻や子供たちは、もうそこにいない。いても既に心を閉ざしていて、こちらを見てくれない。全然話しかけて来ない。こちらから話しかけてみると、かつて自分が面倒だと感じていたように、妻や子供たちは露骨に面倒くさそうな態度を取るばかりだ。

アレ?なんでこんなことに?と気づいた時には既に遅く、あとは寂しい思いのまま、仕事に没頭し続け、それで結果が出続ければいいけど、どこかで頭打ちになって自分の限界を知ってしまうと、その後は「シゴトが出来る自分」さえ感じることも出来ず、家では誰も話しかけて来ず、茫洋(ぼうよう)と生きて行く。バランスを欠いたかつての幼児性の罰を受けるのだ。組織にとっても、誰かにとっても、それほど重要な存在ではない。平凡な男の人生の、平凡な中年期が到来するのである。

 という古臭い生き方を否定し、奥さんや子供のために会社員生活を辞め、バンライフで日本一周したり、地方の田舎に移住して自給自足の生活をしたり、要するに「家族」の為に自分の時間(=命)を費やそうと覚悟を決めた若い男たちが、YouTubeで溢れかえっている。これも一つの世相だ。改造した車で寝起きし、焚火で沸かしたコーヒーをニコニコ笑って飲んでいる。みんな幸せそうだ。リモートワークで仕事しながらバンライフを楽しむ夫婦も多い。もはや、ヤマトタケル的な男の平凡さは、平凡ではなくなりつつあるのかもしれない。

 が、40年前の昭和の時代にあって、同世代の大半がモーレツ社員として「平凡な」男の生き方を選択していた頃、僕の父親は明らかに違う生き方を選択していた。生活のすべてを家族とともに過ごし、自分の好きなことに時間を費やし、仕事は二の次だった。まるでYouTubeに出て来る今の若いカップルの男のような、そんな生き方だった。

時代の先を行っていた?

いや、ちょっと風変わりな男だったのだ。

朝、といっても既に昼前になって、ようやく布団から出て来た父親は、台所で新聞を読みながら、何時間もかけて妻の作っておいてくれた朝ご飯を食べる。朝ご飯は、妻がパートに自分の昼ご飯として持って行ったお弁当のおかずの内容と一緒だ。ハンバーグもあれば煮物もある。食パンを焼いてジャムを塗ってサランラップに巻いてあったりもする。大好きな妻の手作りの料理が、彼はなんだって大好きだ。新聞を読みながら、ゆっくり味わって食べ、優雅な朝食の時間を過ごす。

昼頃、ようやく仕事部屋に向かって作業を始める。高級紳士服の仕立ての仕事だ。仕事部屋には隅の方に二つの勉強机が置いてあって、家の中では二人の息子たちはここで勉強したり遊んだりしている。大好きなジャズのナンバーをかけ、ハイライトをスパスパ吸い、裁断ばさみを手に腕前をふるう。腕前はコンクールで表彰されたくらいいい。そしてちょっと疲れたら台所に行って、近所からお裾分けでもらったお菓子か何か甘いものを口に放りこみ、めっぽう濃いコーヒーで流し込む。

で、そのまま仕事部屋に戻るのかと思いきや、自転車に乗って近所のホームセンターに向かう。下の息子が「ニワトリを家で飼って卵を産ませ、その産みたての卵を食べたい」と言っていたから、お手製のニワトリ小屋を作ってあげる予定なのだ。

ホームセンターで木材と、扉に使う蝶番(ちょうつがい)などの金具一式、それからニワトリがフンをしたら網目越しに下にポトリと落ちて、新聞紙を敷いた底の引き出しから簡単に取り出せる(簡単に掃除が出来る)ような工夫をするので、金網などの材料も買って、自転車の後ろの荷台に括り付け、帰って来る。一回では持って帰れないから、二往復して家に材料を揃える。

材料が揃ったら早速、大工仕事だ。大工仕事は子供の頃から大好きだ。ニワトリ小屋だって子供の頃自分で作ったし、それを今回、下の息子の為に作ってあげたいのだ。事前に鉛筆で書いた図面をもとに、ノコギリで木材を切り、釘を打って組立て行く。

夕方前までそうやって好きなことをしていると、上の息子が小学校から帰って来る。慌てて仕事部屋に戻り、仕事を再開だ。しつけ縫い作業の続きを始める。

上の息子は学校から帰って来ると、勉強机に向かって勉強を始めた。学校の宿題はすぐに終わらせてしまい、いつもやっている通信教育の算数と国語のドリルをやって、それを自分のところへ持ってくる。自分は仕事を中断し、手元の解答集を使って答え合わせし、間違ったところについては、解答集の解説を読みながら、間違いの理由と正しい解答を教えてあげる。上の息子は下の息子と違って本当に勉強が好きだ。一生懸命間違ったところの説明を聞いている。そしてその通信教育のドリルが終わると、今度は最近始めたNHKラジオの基礎英語を聴き始めた。そうやって夕ご飯までずっと何かの勉強しているのだ。

夕方になって、やっと下の息子が帰って来た。コイツはいつも、さんざん道草しながら小学校から帰ってくるから、こんな時間に家に着くのだ。上の息子と違ってあんまり勉強が好きじゃないから、家に帰ってからも、台所でお菓子を食って牛乳を飲んでダラダラやっている。お前もお兄ちゃんと一緒に勉強しなさい、と台所へ言いに行ったら、「ニワトリ小屋は?」と聞かれ、つい庭へ一緒に出てしまった。

下の息子が熱心に作りかけのニワトリ小屋を見ている。これからどんな風に完成させるのか、話してやると「いつできるのか?」と目を輝かせて聞いてくる。本当に楽しみで仕方ない様子だ。ニワトリは近所の養鶏場からひな鳥を分けてもらう予定である。この子は生き物が大好きだから、完成したニワトリ小屋で飼い始めたら、きっと本当に喜ぶんだろうな、なんて考える。

妻がパートから自転車で帰って来た。マズイ。昼間あんまり仕事しないで過ごしていたのがバレる。慌てて仕事部屋に戻り、仕事を再開する。妻が家の中に入って来た時には、まるで朝から一生懸命仕事し続けていたかのような様子で「おかえり」なんて言ってみる。下の息子も、さっきまで一緒に庭でニワトリ小屋の話をしていたのに、今はちゃっかり勉強机に座って、今まで勉強していたかのように振る舞い、妻に「お母さん、おかえり」なんて言っている。コイツはそういう奴だ。上の息子は無表情に、ずっと勉強机に向かって何かの勉強を続けている。

妻が庭に干してあった洗濯物を取り込んでたたみ終わると、自分は台所へ行って妻の為にお茶を入れてあげる。パートから帰って来た直後、夕ご飯を作る前のこのひと時が、彼女にとって1日で一番ホッとする大切な時間なのだ。お茶を入れてあげ、テーブルに向かい合って座り、妻の仕事場での愚痴をずっと聞いてあげる。自分は妻のことが大好きだ。この貧乏な借家暮らしにも文句を言わず、パートに出て家計を支え、子供たちにとってよき母親をやってくれている。そして何より美人だ。よく息子たちの前でも「君って美人だね」と言って怒られることがあるが、本当にそう思うからつい口にしてしまうのだ。

夕ご飯は家族全員で7時のニュースを見ながら食べる。アナウンサーのスーツの仕立てがカッコ悪いとプロらしく批判してみるが、家族は誰も反応しない。上の息子は黙って黙々と食べ、下の息子は料理の味付けが薄いと文句を言って妻に怒られている。

夕食後、8時くらいまでは子供たちと一緒にテレビを見ている。世界名作劇場とか、うる星やつらとか、要するにアニメを一緒に見る。これが結構面白い。月曜日は7時のニュースの代わりに北斗の拳を見る。

8時過ぎにお風呂に入って仕事部屋に向かう、ここからは比較的真面目に仕事する。洗い物を終えた妻がやって来てミシン縫いを手伝ってくれる。子供たちが勉強机で本を読んだりしているから、ジャズは聞かず、4人家族で同じ空間で黙々と時間を過ごす。

子供たちが寝室へ寝に行き、妻も寝に行く。もう12時前だ。カセットテープに録音した浪曲とか落語を小さな音で聞きながら、ハイライトをスパスパ吸って、マイペースに仕事する。家族は隣の部屋で眠っている。静かに夜はふけて行き、明け方まで黙々と仕事する。

そんな気ままな職人生活を長々やって、全然稼げず、バブルの真っただ中で失業し、もはや正社員として雇ってくれるところはなかったから、バイト生活を始めた。それまで職人として生きて来たプライドが打ち砕かれた部分もあったと思うが、だからと言って気持ちが荒れることはなかった。バイトから帰ってくると、子供たちの勉強の相手をし、相変わらず妻の為にお茶を入れた。父親にとってあくまで主軸は家族と自分の好きなことだったのである。一風変わった人だった。

 そこからさらに遡(さかのぼ)ること20数年前、日本が高度経済成長期に入ったころ、地方の農村で生まれ育った父親は、中学だけ卒業して地方の都市部に集団就職した。「かっこいいスーツを自分で作って着てみたい」という夢があったから、仕立て屋の職人に弟子入りし、兄弟子たちと一緒に寝起きしてひたすら修業した。

その数年後、修業を終えて独立すると、親類のおばさんが縁談を持ってきた。相手は自分が生まれ育った村の隣村の評判の娘だった。写真を見ると無茶苦茶かわいい。5人兄弟の一人娘で、大切に育てられたらしい。一張羅(いっちょうら)のスーツを着て、見合いすることにした。実際に会ってみたらホントに美人だった。しかも気立ても良さそうだった。結婚することにした。最初の子供は流産してしまったが、やがて長男が生まれ、次男が生まれた。

家で仕事し、家族とともに時間を過ごし、酒は飲まず、付き合いは一切せず、自分の好きなことをして、大好きな妻と子供と一緒に暮らし続けた。途中で仕事が無くなったが、バイト生活をしながら暮らし、そのうち成長した息子たちは順番に家を出て行き、そうして60歳になった時、肺に癌が見つかった。

 父親が癌で手術を受けた時、僕は群馬の工場で働いていた。20代の半ば過ぎだった。母親からの電話で手術の話を知り、しかも「メスで開いたが全身に癌は回っていて、もはや手遅れ」という話だった。僕は群馬の借り上げアパートの一室で号泣し、翌日、有休をもらって電車を乗り継ぎ、新幹線に乗って帰省した。

地元の病院に到着すると、すっかりやせ細った父親がそこにいた。僕は前日に一人で号泣しておいたから、冷静さを装うことが出来た。軽く右手を上げた。父親は不思議な表情でこちらを見ていた。

半日くらい病室でとりとめの無い会話をし、いよいよ帰る時間が来た。もうこの様子では、次に会うのは危篤状態になってからだと分かっていた。

「じゃぁ、行くよ」

「遠いところ悪かったな」

「うん」

「母さんを頼むぞ」

僕は振り向かずにそのまま病室を出て、階段を降り、病院を出て駅に向かって歩き出した。涙が止まらなかった。まだ20代半ば過ぎだった。何一つ親孝行していなかった。早過ぎる、という怒りがこみ上げていた。

「母さんを頼むぞ」

本人に告知はなかったが、先がない事は悟っていたのだろう。大好きで仕方ない妻と一緒に暮らし、その大好きな妻に看取られて死んでいく一人の男があそこにいた。

僕は電車に乗って群馬へ戻った。

 そんな群馬にある嬬恋村だ。僕は家人を助手席に乗せ、キャベツ畑の間を走り続けている。秋空はどこまでも青く、どこまでも高い。運転しながら、ずっと父親のことを考えていた。

 宿は前回と同じ旅館を予約して宿泊し、夕食に旬のキャベツ料理を腹いっぱい食べた。キャベツの冷静スープ、キャベツと豚肉の冷しゃぶ、回鍋肉など、全部が本当に美味しく、大満足だった。キャベツって本当に美味しい!

翌日、軽井沢を抜けて家路につくことにした。途中、ペイネ美術館へ立ち寄って作品を眺め、グラスをお土産に買った。ペイネは好きな人と長く長く一緒に暮らし、90歳まで生きたフランスの画家だ。「ペイネの恋人たち」というシリーズの作品をたくさん残していて、ほのぼのとした画風は見る者の心を本当に穏やかにする、そんな画家である。

 僕はめったに土産物を買わないが、グラスに刻まれたイラストがあまりにも魅力的で、父親の思い出と、今回の家人との嬬恋旅行の思い出と、キャベツ畑の記憶と、そして何より祈りを込めて、そのグラスを買った。

「あぁ、我が妻よ!」

ヤマトタケルの泣き叫ぶ声は、未来永劫(みらいえいごう)、どうしようもない男たちが放つ、哀しい咆哮(ほうこう)である。嬬恋(つまこい)なんてロマンチックな名前だけど、情けない男の姿が表裏一体となった、際どい名前だと思った。

秋の突き抜ける青空が、運転席の頭上いっぱいに広がっている。僕は平凡な男の一人として、ここで生きている。

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