失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

怪人プチオは無敵の人とは違うけどある意味、この世で最悪であるということ

 学生時代に銀座の地下通路にあった映画館「銀座シネパトス」で「怪人プチオの密かな愉しみ」という映画を見た。おそろしくマイナーな映画で、でも迫力のある内容で、第二次世界大戦中のナチス占領下のパリに実在した医師プチオの話である。

占領下という異常な状況、混沌とした時代背景の中で、プチオは国外逃亡を手助けすると言ってはユダヤ人をだまして自宅へ匿い(所有する貴金属も持って来いと指示した上で)、ワクチンの接種証明が必要と偽って毒薬らしきものを注射し、一室に閉じ込め死んでいくのを待つ。そして死体は焼却炉で焼いて、金品を自分のものにしてしまう、を繰り返した。

なんと30人以上が犠牲になったというのだから、いわばサイコパスによる連続殺人である。サイコパスというと快楽殺人と結び付けて考えてしまうけど、たいていのサイコパスはもっと人を殺す動機が平凡であり、「だってご飯食べるにはお金がいるでしょ?殺したらお金が手に入るでしょ?だからやるだけ」という、生活のためにバイトしなきゃ、と同じニュアンスで人を殺すサイコパスの方が圧倒的に多く、実は人間の自由意志と対極の生き方をしていて、プチオはその典型だった。

どういうことかと言うと、もしこの世に善悪などなく、すべての価値は相対的で、実際には自然法則の一部として我々はただ生きて死ぬのであれば、「生活のためにバイトしなきゃ」と「生活のために人を殺しに行かなきゃ」に大きな違いはない。だって、たまたまバイトは合法(無罪)で、人殺しが非合法(有罪)な価値観をもった文化に我々はいるだけであり、そんなものは未来永劫に持つかどうか分からない。現に、殺人は悪、と言う一方で、我々は正義の為の戦争、という矛盾した概念をフツーに受け入れている。文化とか、そこから導き出された善悪の価値観なんて一面ではそれ程度のものだ。だから、サイコパスたちからすれば、「いや・・別に特別なことをしてる訳じゃなくて、ほら、食べるためにはお金がいるでしょ?そのためには・・」と簡単に一般的な人々が持つ善悪の彼岸を乗り越えて行ってしまえるのは、別に不思議なことではない。

 でも、1+1=2の数式みたいに、簡単に考えて割り切れないのが人間であり、そこに自由意志という不思議なものが見え隠れする。

「やっぱり人は殺せない・・」もしそれが合法的であったとしても、正義の為と言われても、なんとなくザラッとした抵抗があるなら、それは、自然法則に支配されない自由な選択(より良くあろうとする選択)が人間にはあるはずであり、だから善悪が存在すると我々は実感でき、「殺さないという選択肢もあったはず」という自由意志を前提に裁判所で罪人は裁かれる。

まぁ真実はともかく、人間は自然法則に抗えないまま生きて行くしかないのかもしれないけど、それじゃ嫌だ、自由な選択があって、だからこそ善悪というものがあって、だからより良い方を選択し、善良に生きたいんだ!というワガママな感じがいわば人間と言う種である。

一方、お金の為にバイトするように人殺しをするサイコパスが一定割合でいて、昔からいたし、これからもいる。彼らにとって他人は仕事の対象であり、同情や共感の対象ではない。そもそも同情や共感というものがない。

ということで、この類のテーマは繰り返し今までも映画で取り上げられ、これも古い映画で恐縮だけど、コーエン兄弟の「ファーゴ」とか「ノーカントリー」にもこの手の平凡なサイコパスは登場する。いずれも主人公(こっちは真人間)が「どうしてそんなことが出来るのか、私には全く理解できない」と言うのだが、それはメジャーがマイノリティに対して言うコトバであり、言われた側には何も響かない。

 なぜこんな話を長々したかというと、最近「無敵の人」という言葉をよく耳にするようになり、実際にそういう人が怒りのやり場を求めて彷徨い、どこかで発散して社会的な事件を起こし、それを見て、したり顔で世の中が終わったみたいな言説を吐く人が多いから。

無敵の人は一定割合で昔からいたし、これからもいる。でもそんな話ではなく、無敵の人はいわばプチオとは違うということ。無敵の人は怒りの源(みなもと)に高すぎるプライドがあり、自分の作りたかったストーリーが破綻した上で善悪の彼岸を越えてしまっているが、プチオはそもそもストーリーとか破綻とか苦しみとかがなく、そもそもプライドといった価値に付随する概念もなく、本棚から本を取り出すように人を殺してしまった。それはある意味、本当の無敵であり、最悪である。最悪の中の最悪である。

「常識よりもお菓子がいい」

自転車に乗って街を疾走するプチオの言葉だ。常識って曖昧なものよりも、ってお話だが、だからこそ逆に、僕たちは常識と言うカビ臭いけど、人の手渡しで伝わった、信じるに値するはずのものを大切に、今日も愚直に生きて行く。それは矛盾を抱えつつ、自然法則という殺伐としたものに抗い続けて来た、つまりは、より良く生きて行くために戦って文化や道徳を築いて来た人間の歴史そのものである。

 だから、プチオのような本当の意味で無敵の人が一定割合を越えて現われない限り、僕たちは、僕たちのこの世界を決して簡単に「終わった」なんて言ってはいけない

それは人間の尊厳に対する本物の最悪とは何かを、全然理解していない、生悟りの、ぬるま湯説法に聞こえるのである。

僕たちは、どんな不遇でも、惨めでも、それでも人生に価値がある、人を愛することに意味があると言い続けてこそ、日々の生活に感動し、人間でいられる。 

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