失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

たねやの末廣饅頭を食べながら、秀次の人生とKADOKAWA映画ばりのブルジョワ家庭のお坊ちゃんの事を思い出したこと

 「たねや」の末廣饅頭(すえひろまんじゅう)が食べたくなって、家人を連れて近江八幡を訪れた。残暑のまっすぐな青空が頭上いっぱいに広がる休日だ。

 近江八幡は八幡堀を挟んで古い町屋が建ち並ぶ美しい水郷の街である。豊臣秀次が築いた城下町を起源とし、一日のんびり歩いて過ごすにはちょうどいいくらいのサイズで、土産物屋も多い。

僕たちは八幡堀沿いをゆっくり歩き、時々立ち止まって手漕ぎ船が流れて行くのを眺め、たねやに向かった。本当に美しい街である。豊臣秀吉の甥である秀次は、18歳でこの地に入城し、街を築き、大人たちに補佐されて善政を敷いた。彼はこの地では名君として名を残すことが出来た。

で、末廣饅頭である。黒糖を使った茶色い素朴な饅頭を、僕たちはたねやに入って並んで買って、店の外のベンチに腰掛け早速食べた。ちゃんと甘いけど、全然クドくなく、サイコーに美味しい。小さな饅頭なのでついパクパク行ってしまう。やっぱり焼きたては絶品だ!

和菓子を味わって楽しむというのは、年をとってからの格別な楽しみだ。逆に、スイーツとか洋菓子の類が、最近ではぜんぜん目が向かなくなった。ホテルのバイキング料理でも、デザートはさらっと果物を数切れ皿に盛る程度である。

和菓子については、昔は「餡子(あんこ)とか入っていて全部一緒じゃん」なんて思っていて、ほとんど興味がなかった。それが今や「いやいや違うでしょ、餡子の世界は深いよぉ」てな具合に、材料や製法によって種類がたくさん分かれるという話を饅頭を食べながらペラペラ喋って、やはり家人に「黙って食え」と言われる始末だ。

 豊臣秀次という人は、たまたま秀吉という天下人の甥っ子として生まれ、あれよあれよと高い身分がお膳立てされ(最後は関白まで)、あれよあれよと追い詰められて自害した。自害については、秀吉が謀反を理由に命令したという説以外にも、自分で身の潔白を訴える為にやったという説もあり、或いは石田三成を始めとする官僚たちの暴走だったという説もあるが、一人のお坊ちゃんが、なんか物凄い勢いで伯父さんが出世して行くのに引きずられ、大きなプレッシャーとざらっとした不安感を持ちながら、必死で生き、一瞬で死んだ、そんなイメージだ。

生まれ持って身分が用意されるというのは、その立場にならないと分からない重圧や不安を、実は本人はずうっと抱えて生きているので、傍目(はため)から見えるほど幸せでもなさそう、と感じるのである。これは現代でも同じである。

 大学生の時に家庭教師をした相手が、まさにそんな「身分を用意された」大金持ちの息子だった。先祖が横浜で代々続く名家で江戸時代からの豪商だった。父方は地元の不動産会社を一族で経営し、父親自身は誰もが名前を知っている一部上場企業の副社長をしていた。母方の祖父も財閥会社の会長を務めていた。一族ごと、とんでもないセレブである。

初めてその家に行った時、僕が元町の駅で待っているとベンツが迎えに来て、そのまま山手の高級住宅街へ車は入って行った。そして一軒の大豪邸の前で車が止まると、自動シャッターがゆっくり開き、車は中へ入って行った。20歳の貧乏学生だった僕は、ベンツの後部座席の中で小さくなりながら「堅気だよな・・」なんてやはり小さく手を握り締め、周りをキョロキョロ見ながら、思わず口に出して呟きそうになったのを覚えている。

教え子となるそのお坊ちゃんは、痩せた長身の子供だった。高校3年生だったから、当時の僕と2歳しか違わなかったが、ずっと子供に見えた。実際、話をしてみると中身も子供であり、ミニカーが大好きで、普通の家のリビングくらいある大きさの自分の勉強部屋の棚に、世界中から集めた大量のミニカーが並べて置いてあった。

「六大学くらいは挑戦させてやりたいので」

ご挨拶に来られた父親は、大組織の中にあってトップを走っていただけに、眼光鋭く精悍な体つきで迫力があった。息子が色白だったのに対し、その父親は物凄く黒光りした肌の色をしていた。ギラギラした現役の経営陣の一人だったのだろう。

で、そのあと学力テストをしてみて、僕は口をあんぐりと開けていた。六大学なんてレベルではない。そもそも勉強をするという習慣がない子供だ。高校1年生からやり直しが必要な学力である。もう夏休みを過ぎていたから、少しでも名前のある大学に行きたいのなら、どう頑張ったって現役では合格出来そうにない。あの迫力のある父親はそれで納得してくれるだろうか?

テストの後、初日ということで勉強はそれまでとし、今後の学習計画は僕がそのテストの結果を踏まえて立てて、次回持って来ることにした。スケジュールに合わせ、出だしで必要な参考書も買って来てあげる必要があった。

「ありがとうございました。お食事を用意しましたのでどうぞ」

通された「食堂」は最上階にあった。個人の家なのに5階建てで、僕は階段を上りその食堂に入って行った。

そこはガラス張りの広い広いリビングで、大きなテーブルに中華街から持って来させた料理の数々が並べてあった。ガラス窓の向こうは広いデッキになっていて、その向こうには眼下に広がる横浜港の夜景があった。僕はもう一度、口をあんぐりと開けた。昔の角川映画に出てきそうなブルジョアの住まいだ。そんなことを考えていた。そういや近所には沢田研二も住んでいるんだっけ。

その息子はそんなお城の中に住んでいて、友人はほとんどおらず、おそらく思春期に味わうべき「一般的な」楽しさも苦しさも味わってこず、ずっと家にいる母親との閉鎖的な環境の中で静かに生活していた。きちんとこちらと目を合わせて話が出来ず、ちょっとオドオドしていて、そのくせ口は悪かった。そして攻撃的だった。

「ボクが現役で大学行けなかったら、先生も親父にぶっ飛ばされるよ」

うん、確かにぶっ飛ばされそうだが、そんな事はお前に心配される話ではない。僕は買ってきた参考書と問題集を開き、まず勉強のやり方から教え始めた。決して頭が悪いわけではないのはすぐ分かったので、あとは興味を持って自分で効率的に取り組む術(すべ)を身に着ければ、光明は見えて来るはずだった。

家庭教師と生徒の関係というのは、どのみち受験という戦争に対面した戦友のような関係になるもので、最初は心を開かず、目をそらしながら「許せねえ」「意味が分かんねえ」「死んだ方がいいんじゃないの」なんて悪態をついていたその息子は、雰囲気は体育会系だけど中身は文化系のちょっと年上のこの先生に対して、少しずつ心を開き始めた。何しろ外の世界を知らないのだ。外の世界への好奇心でいっぱいだった。

 大学生活ってどんな感じ?先生もコンパって行ったことあんの?やった事ってある?やるってどんな感じ?先生ってどんな友達がいるの?何をして遊んでいるの?自分の母親が自分に干渉して来るので嫌で仕方ないんだけど、どうすればいい?あの父親とは子供の頃から普通に会話した記憶がないし、どうせ上手く喋れなくて「何を言っているんだ?」ってすぐ怒られるから、いつもこっちは黙っているんだけど、先生の父親もそんな感じ?先生は将来どんな仕事をするつもり?

 大学生活はそれまでに逢った事がない類(たぐい)の人と出会って友達になれるから、すごく楽しいよ。うん、コンパは時々行く。やった事もあるよ。どんな感じかって言うと・・・お前も早く大学デビューしてやりゃいいじゃん。寄宿舎に住んでいるから、同じ寮生が友達の大半だね。そいつらと寝食を共にして毎日、家族みたいに暮らしている。一晩中、屋上で酒を飲んで喋り倒したり、そのまま一緒に大学へ午前の授業を受けに行ったり、電車に乗って渋谷へ服を買いに行ったり、それこそコンパに行ったり、害虫駆除の臨時バイトに一緒に行ったり、いろいろだよ。母親かぁ・・・母親なんてそんなもんだよ。でもその干渉っぷりが、離れて暮らすと思い出すだけで有り難みを身に染みて感じ始めるから、お前も大学に入ったら一人暮らしをした方がいいぞ。僕の父親?親父は仕立て屋の職人をしていたけど、失業して今はバイトしている。「何を言っているんだ?」ってお袋によく怒られているような父親だよ。僕の将来の仕事?う~ん、な~んにも考えてねぇ。

 そもそも大学なんてその息子は行かなくても、将来は一族が経営している不動産関係の会社の一つを任せてもらえるだろうし、要するにいずれはどっかの社長になれるはずだった。が、その道を担保する後ろ盾の父親はあくまで厳しく、期待に応える為には頑張らなければいけないと思う一方で、必ずしも結果が出るとは思えず、一般の人々が暮らすずっと上の世界に彼はいたけど、そこは一本の綱の上のような場所で、いつか真っ逆さまに落ちるのではないのかという漠然とした不安を感じながら、高級な生活をしていた。あぁ、これが上流階級のお坊ちゃんって奴だね。僕はそう思っていた。僕のような平凡な庶民の息子は、頑張って石段を積んで行けば少しずつは上に上がって行けるが、そもそも人の一生に積み上げられる石段なんて大して高くないし、落ちたってちょっと怪我する程度の高さでしかないし、そういう遥か高い場所から真っ逆さまに落ちて行く不安なんて微塵もない。その息子が感じていたであろう大きなプレッシャーとか、ざらっとした不安感とは無縁の生活をしていたから、ぶっ飛んだ金持ちの家に生まれるのも大変なんだなぁなんて、思っていた。

 結論を言うと、やはり現役合格は無理で、一年の浪人の後、彼は関東では名前のある大学に合格した。約一年と半年間の家庭教師生活の中で、僕は友達のいないその息子の話し相手になり、遊び相手になった。母親が僕になつく一人息子の様子を見て非常に喜んでいたのだ。僕は夏には招待されて葉山の別荘で数週間を過ごした。午前中は勉強を教え、昼は海へ泳ぎに行き、ボートに乗って遊び、一緒に昼寝し、夕方には豪華なご馳走を頂いた後、夜はまた勉強を教えた。その息子はいつの間にか僕の目を見てしっかり話せるようになり、失礼な態度は取らなくなり、一生懸命言う通りに勉強して、一生懸命合格しようとしていた。この素直さが脆(もろ)さの裏返しなんだよな、なんて感じながら、僕は僕で貰っているお金だけの成果が出せるよう、一生懸命に勉強を教え、悩みごとの相談に乗ってあげた。

 合格した時、彼の父親は「そうか」しか言わなかったらしい。

その息子はそう言っていた。「やっぱり不満なのかな?」と僕に聞くから「自分で聞いてみろよ。息子が必死で頑張った結果に対して不満なのか?ってさ」と答えた。

 息子は結局、父親に「不満なのか?」を聞けなかったみたいだけど、そしてその後も父親に対してちゃんと向き合って会話できなかったみたいだけど、大学に入学後、母親の反対を押し切り家を出て一人暮らしを始め、その後、大学を辞めて起業した。後は知らない。もううんざりして我慢出来ず、高い場所にある一本の綱の上から思い切って飛び降りて、そこから自分の足で歩き始めたのかもしれない。

 なんて、たねやの末廣饅頭から豊臣秀次に想像が巡り、家庭教師をやっていた頃に出逢ったあの長身で痩せぽっちのお坊ちゃんの事を思い出した。もう四半世紀前の話だ。元気にしているんだろうか?思い切って高い場所から飛び降りて良かった?でこぼこの地面の上を、自分の足で立って歩くって本当に面倒でしんどいけど、結構楽しかったでしょ?と、今なら聞くかも知れない。

 秀次は、小牧・長久手の戦いで大失敗した時、秀吉に「このままの体たらくだったらいずれ手討ちにする」と宣言され、その後、秀吉の甥という事で自動的に身分を上げて貰いながらも、必死で武功を挙げ、善政を敷き、その細い綱の上を生真面目に歩き続けた。が、最後に謀反の疑いを掛けられ、謁見も許されず、高野山へ行けと言われ、それさえ素直に従った上で、あっさり腹を切った。一本の綱の上を歩くのがもう嫌になったのかもしれない。大きなプレッシャーの中で、漠然と不安を抱き続けた生涯を、彼は高野山で閉じることに決めた。

 八幡堀の上に広がる青空は澄み渡っている。僕は何百年も街の上に重ねられた歴史に包まれ、橋の上を家人とのんびり歩いている。

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