失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

親ガチャという言葉で一番好きな映画を思い出し、家族のことを思い出して、やっぱりイタリア郷土料理のティンパーノを作ってみたいと思ったこと

一番好きな映画はと言われれば、「シェフとギャルソン、リストランテの夜」を挙げる。もちろんそれ以外にも甲乙つけ難い映画はいっぱいあるけど、どれか一つを選べと言われればこの作品を選ぶ。内容はこんな感じだ。

 1950年代のアメリカの田舎町で、イタリア移民の兄弟(プリモとセコンド)がイタリア料理のレストランを営むも、アメリカ人向けの料理を作れない兄プリモのせいで店は全然流行らない。プリモは頑固なシェフで、自分たちの故郷の「本物の」イタリア料理にこだわっているのだ。アメリカ人好みの味付けに変えた料理を出せば店は流行るだろうが、プリモは自分のプライドがそれを許さず、絶対にそんな料理は作らない。そんなカタブツの兄のせいで店の経営がどんどん苦しくなって行くから、弟のセコンドは苛立ちを募らせつつ、兄の頑(かたく)なさが理解できず、それでも資金繰りに苦労しながらなんとか店を存続させようと努力する。

そんな中、知り合い(ライバル店のオーナー)に、宣伝の為に有名なジャズシンガーを店に連れて来てやると話を持ち掛けられ、兄弟はこれを最後のチャンスとばかりに財産をはたいて大一番のディナーを準備するが・・・

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 個性的な一人ひとりの登場人物の魅力はもちろん、流れるジャズミュージックのセンスの良さ、ディナーで出て来る料理が全部美味しそうに見えること、この映画の魅力は尽きない。

が、僕はそんな風に、音楽いいなとか、美味しそうだなとか、軽い気持ちで見ていたけど、エンディングの次のシーンで不覚にも号泣した。

朝、疲れ切った夜(この映画の原題はBig Night。兄弟は大騒ぎの末、それまでの互いへの不満をぶつけ、大ゲンカしている)を越えて、途方にくれながら、兄弟二人は調理場で黙って肩を並べ、卵を焼いたものを食べる。店の存続は絶望的であり、将来は見えない。二人は何も会話をせず黙々と食べる。そしてお互いの背中を叩きながら、肩を組んで、やっぱり黙々と食べるのだ。それがエンディング。たったそれだけ。が、僕は号泣した。なぜか?

これは二人きりの男兄弟を持っている人にしか分からない感覚だ。そう、男二人の兄弟というのは、たいてい、本質的には正反対なのである。他人の目から見れば表面的には似ていても、根本的な価値観とかは、どういう訳か同じように育てられても正反対になってしまうのである。

そしてそんな決して越えられない違いがあるからこそ、ある地点で、どこかの場所で一緒に宿命とか運命を共有した瞬間、僕たちは世界中の誰よりも繋がりを感じるのである。プリモとセコンドが二人で一言も交わさずに朝食を食べるそのシーン、絶望的な状況の中、肩を並べて黙々と食べるシーンに、僕は自分と自分の兄とのこれまでの人生をつい重ね合わせ、涙が不意にこぼれた。

 家が貧乏、というのが僕の兄の人格形成の中で大きな意味を占めていたのは間違いない。バブル全盛で友達の親がやたら羽振りよくなり、海外旅行へ家族で行ったり、子供に家庭教師をつけたり、留学させたり、そんな一方で、僕たちの父親は職人の身で失業し、自転車に乗ってアルバイトしに行っていた。母親もパートに行って家計を支えた。借家を転々とする。それが僕たちの子供時代だ。

が、両親は賢い人たちで、朝から晩まで働きながら、自分たちの田舎にある実家から野菜や米を送ってもったりして、子供たちに食べるものには苦労させなかった(子供たちに空腹な思いはさせなかった)。田舎から送られて来た野菜はどれも新鮮で、母親はその新鮮さを子供たちにニコニコ語り、子供の僕はウン、こりゃ確かにうまいぞ、新鮮な野菜が食べられるって運がいいな、おじいちゃんとおばあちゃんに感謝だ、なんて素直に考えていた。という横で、一切、料理の味に感想を言わない小学生の兄は、黙々とご飯を食べていた。

教育も同じだ。両親はお金がないから僕たちに一切の習い事をさせることが出来なかったが、通信教育くらいならなんとか費用を捻出できたので、それを申し込んで子供たちにやらせた。小学校時代は学校から帰って来ると、学校の宿題はもちろん、その通信教育の算数と国語の課題(テスト)を1日1枚やってからしか、外へ遊びに行かせなかった。僕たちは学校の宿題はすぐに終わらせることが出来たけど、その通信教育のテストはすごく難しくなかなか終わらなかった。

夜、父親は子供たちから提出されたテストの回答を添削し(正解集は父親が持っていた)、子供たちに計算の間違いや、文章の間違いを指摘して教育した。中学しか出ていない父親でも、さすがに小学生くらいの算数や国語は教えられる。

その後、子供たちが中学に入ると、Z会(これも通信教育)を使って勉強させた。Z会の添削による指導内容は非常に中身が濃く、もはや父親がフォローする必要がなかった。僕たちはそんな風に、塾に行かなくても学校のプラスアルファで勉強していたし、僕は「ああ学校の宿題だけなら余裕なんだけどなぁ」なんて思いながら、それでも通信教育の練習問題をせっせとこなしていた。

兄はそれでも足りないと判断したのか、さらに書店で参考書や問題集を買って来て自分で勉強していた。とんでもないガリ勉だ。マンモス中学に通っていて、1学年の人数が480人くらいいたけど、兄は中学3年間の実力テストの成績をずっと1位で通し、他に譲らなかった。3つ年上だったから、兄が卒業すると同時に、僕は同じ中学校に入学し、兄の学年の担任をしていた先生たちがそのまま下りて来て1年生となった僕たちの学年の担任をしたので、入学時に「お前があいつの弟か?」なんて授業で言われたのを覚えている。もはや伝説の人だった。僕はどんなに勉強を頑張ったって学年で1位なんてとれないから、褒められることもなく、マジ嫌だなぁ、損だなぁ、なんて思っていた。

だから次男坊である僕は、美味しい野菜もたくさん食べさせてもらったし、あんまり好きじゃない勉強も、人よりたくさんさせられたな、なんて振り返るのだ。家が貧乏だからって、それで何かを感じることなく、僕はのびのびと成長した。

が、長男というのは、全然違うみたいだった。

兄は何かを背負うように勉強していたし、弟の僕が学校のテストで悪い点を取ってくると間違ったところを僕に教え、僕の理解が遅いとぶん殴った。なんて人だ、勉強で殴られたのは、両親でも先生でもなく、兄貴だったのだ。そして彼は思春期になると、自分たち兄弟の置かれている状況がいかに将来にとって不利か語り、一生懸命がんばらなきゃいけない、と僕によく言った。高校生として進学校に通う兄は、大学受験に向けた勉強の中で、さすがに独学で勝ち抜く不利を感じ始めていたようだ。都市部の大手の予備校へ電車で通わせてもらったり、家庭教師をつけてもらったりするライバルたちを凌ぐのは、かなり難しい様子だった。教育にお金はかかり、お金をかけてもらえる子供が、将来お金を稼げるように有利な立場に立ちやすいのである。古今東西、どこでも同じだ。

で、子供のころからご飯を食べることも勉強することも、何も文句言わず黙々とやってきた兄は、思春期に一気に苛立ちを募らせ、父親と対立することが多くなった。職人の父親も気の強い人だったから、まぁ男の子がいる家庭にはよくある話だけど、殴る蹴るもフツーにあって、古い借家の壁やドアは穴だらけだった。そんな日々だ。

そして兄が高校を卒業する際、彼が選んだ道は、「分子生物学の勉強をしたいが、そんな学科はこんな田舎の駅弁大学にはないので、都会へ出て行く。奨学金を借りて全部自分でやるので、今後は自分の人生に親は関わらないでもらいたい」というものだった。

そしてその後、本当に家を出て都市部の国立大に入学し、国の金で修士号まで取ってしまった。生活費は貸費の奨学金を借りたみたいだったが、学費は大学4年間の分も、大学院時代の2年間の分も、途中でアメリカに1年間留学した分も、全部、試験を受けて給費の奨学金を手に入れ、国に金を出させた。有言実行である。

父親は本当は、長男である兄に地元の国立大学を出てもらって、地元で働き、家庭を築いてもらって、孫の顔を見たかったのだろう。家を出てからほとんど実家に立ち寄らない、そして立ち寄っても父親と顔を合わせずに帰ってしまう兄、「お金を稼げない」ということで思春期に入ってから自分を罵倒し続けるそんな兄に対して、一人の男としてのプライドや、父親としての面目が潰され、口を開けば怒りが出て来る一方、その長男の近況が気になって仕方ないみたいだった。母親に「あいつはどうしているか?」を何度も聞いていていたらしい。

一方、同じ環境で育てられた僕は野菜の新鮮さに感動しつつ、料理の味にうるさい、そして勉強好きの兄貴のおかげで、そこそこ勉強させられたぞ、なんて考えている、ちょっとのんびりした人間に育った。「東京へ行って色んな種類の人間と接し、たらふく遊んでみたい」なんて好奇心剥き出しのお馬鹿な動機で大学に入学し、兄同様に仕送りがなかったから生活費こそアルバイトで稼いで食いつないだが、学費は全部、貸費の奨学金を利用した。利子がつかなかったけど、全額を返し終わるのは30歳を越えてからだった。兄弟でもぜんぜん違うや。なんて今でも思っている。

でも僕だって、大学に入ってから、遅ればせながら、今でいう「親ガチャ」の意味を理解したのだ。大学はぶっ飛んだ金持ちの子供が比較的多く通うことで有名な私立大学だったので、時々、世離れした同級生に出会うこともあった。生まれた時から「お金」を意識する必要のない連中だ。そういう身分の人たちが結構の数でいるということ。それは知識として知っているのと、実際にそういう階級の連中と接するのでは、全然違った。それはこの世の不合理な真実の一つだ。

そして大学卒業後、超買い手市場の就職戦線で玉砕した同級生たちは、別の途(みち)を見つける際に、両親の支援を更に得られるかどうかで運命が分かれた。ある者は公認会計士司法書士を目指して、両親からの支援を更にもらって資格学校に通い始め、ある者は卒業直前に休学して海外留学し、英語力を武器に翌年の就職活動を改めて戦い、社会に潜り込むことが出来た。他方、僕同様に大学卒業にて、「もうこれ以上はお金がありません(お金は借りられません)」という連中は、ブラック企業の社員だろうと、派遣社員だろうと、フリーターだろうと、食べて行くために、どんな形でもいいから働くのみだった。

20代に「金がねぇ、奨学金の返済が重いやぁ、仕事がブラック過ぎだぁ、世の中は俺たち若者のことなんて見る余裕はねぇ、どっかで死んでても気にしねぇ、転職してランクアップなんて時代は当分は来ねぇ」なんてヒーヒー言いながら、若さを燃焼させていた。

「親ガチャ」なんて今に始まったことではないし、大昔からもっと酷いレベルであったし、海外ではもっと露骨である。それが国際基準である。この世が不平等なのは、夜が明ければ朝が来る程度に当たり前の話なのである。

でも遅ればせながら、僕は持つ者と持たざる者との違いと、決して人生は公平ではないことを、20代の自分や周りを見渡して、感じていた。幸い、既に僕は大人だったから、「親が」なんてアホな話ではなく、「自分が」どうすれば持たざる者のまま年を取り死滅しないで済むのか、他の同世代と酒の席でそんな話をしながら、考えていた。

そして僕が27歳の時、父親がガンで死んだ。

いよいよ危篤かもって母親から電話があったけど、僕は当時、東京にいて、地元の病院へ到着した時は既に亡くなった直後だった。そしてそこにほぼ10年ぶりに顔を合わせる兄がいた。僕は東京へ出て行ってからも、お盆や正月には実家に帰ることがあったが、兄は必要がない限り実家に立ち寄ることがなかったので、僕が高校を卒業して以来、ほぼ10年間は、電話で話すことがあっても顔を見ることがなかった。実に10年ぶりに兄の顔を見たのである。泣き叫んで母親がしがみついているベッドの上の父親の亡骸(なきがら)の向こう側に、すっかり大人の顔をした兄がちょっと手を挙げ、笑顔で「久しぶり」ってあいさつした。僕もちょっと手を挙げ、笑顔で返した。奇妙なご臨終の場面である。

その後、葬式の段取りをするところから葬式までの数日間を一緒に過ごしたが、兄はあんまり変わっていなかった。修士号を取ってまで勉強した分子生物学はとっくの前に放り出し、ある会社の役員としてその会社の海外進出や株式上場に熱中している最中だった。人に使われるサラリーマンは嫌だと言っていたから、そのままその言葉も有言実行をし続けているみたいだった。ブチブチ文句を言いながら、土日を楽しみに人に使われる道を選んだ僕と、やっぱり対照的だ。

でも僕たちは互いに近況を雑談しているうち、あぁなるほどな、と感じていたのだ。そう、僕たちは極端に貧乏ではなかったけど、お金には苦労しているし、これからもこの圧倒的についた差(高度経済成長からバブルまでにその家がどれだけ財を蓄積できたか)は、付いて回るんだろね、という諦念に似た感覚である。第二次ベビーブーマーたちは、その後どんなに頑張っていい大学に行こうが、どんなに努力していい会社に入ろうが、そんなんでは埋められないくらい、親の世代で決着がついていた。まぁ仕方ないよね。焼け野原から復興し、大きくコケるまでの2世代くらいの間で勝ち負けが決まったのがこの国の戦後の富の歴史だからね。

という訳で、父の遺産は、郵便貯金の15万円だけだった。借金は一切残さず、きれいな生き方をして、ジャズを聴いて楽しんで、愛する妻が大好きで、あっという間に死んだ。羨ましい限りだ。

その後も、僕は地元にUターンして来たが、兄は実家に帰ることなく、立ち寄ることもなかった。父が死んでだいぶたつけど、僕が年老いた母が住む実家の近くにいるから、なおさら安心して、1回も帰って来なくなった。兄はまだ、思春期に感じたあの不公平感と不利な状況を覆すために、外で戦い続けているのだろうな、なんて想像し、同じ兄弟として半分は理解でき、でもそんな風な価値観や生き方を選ばなかった僕との違いを不思議に思っている。

きっとあと数十年たって、それまで一生をかけて築いて来たものが、一方は会社だったり、一方は家庭だったりして、でもその頃にはいずれも全て失っていて、老人ホームで再会したら、僕たち兄弟はプリモとセコンドみたいに肩を叩きあって、黙ってご飯を食べるのかな?生き方も価値観も違う二人が、でも必死で生きて来た結論が、こんな感じのしょぼくれた老人たち、っていう哀愁を感じながら、僕たちは再会するのだろうか?

そう、その時はきっと、僕たち兄弟は、それまでの生き方や価値観の違いを越えて、長い道のりを越えて、生まれて来た宿命と一緒に育った運命を改めて共有し、世界中の誰よりも繋がりを感じることが出来るのかもしれない。それはもはや年老いて、互いにこの世を去る直前の話かもしれないけど。

ちなみに、この作品にはプリモが渾身の力を込めて作った「ティンパーノ」という料理が登場し、僕はこの作品を通じて初めてこのイタリアの郷土料理を知った。色々な具材をパスタで包み込み、大きなボールで焼いた料理である。糖質制限の食品が全盛の今のこの国にあってはトンデモ料理だけど、自分たちが美味しいと思うものを全力でぶち込んでそれらにハーモニーを与え、一つの真心を込めた料理に完成させる、という昔ながらの郷土料理の、ニンゲンの気持ちの温かさを感じることが出来る、まぁその作品を見たら必ず食べたくなる料理だ。いつか挑戦してみたいな、なんて思っていたら、結構これに挑戦して料理している(やはりこの映画を見て)人がいるのをネットを見て知った。なるほどね。いいものは皆いいと評価するんだね。

 兄は人に使われるのは絶対イヤだから、人を使う側になりたい、と若い頃から言って、血の滲む努力をして来たみたいだが、実は「人に使われるのは絶対イヤ」というのは、まさに兄が軽蔑した、誇り高い職人の父の口からよく聞く言葉だった。だから父は一つのアルバイトが長続きしなかった。そして料理の味には無頓着で、子供時代に母親が大失敗したヒドイ味付けの料理を、父も兄も同じ顔をして、文句を言わずにむしゃむしゃ食っていた。要するに、子供の僕から見たらそっくりだった。

というのを、弟の僕はいつか、老人ホームの食堂で兄の肩を叩きながら、言ってやろうと思っている。

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