失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

夏休みの読書と自転車とカルピスと、あの贅沢だった時間について思い出したこと

 子供のころの夏休みの楽しみの一つが、「○○文庫の100冊」といった類の各出版社から夏に出される小冊子を書店からもらって来ることだった。カラフルでおしゃれなイラストがいっぱいのその冊子を何度も眺め、自分のまだ読んだことのない本の紹介文を読みながら、いろいろ想像した。

 80年代、僕は小学生だった。紳士服の仕立屋だった父親は既製品の勢いに押されてどんどん仕事がなくなり、僕たち一家は借家を転々として暮らしていた。めっぽう貧しかったけど家族は仲が良く、お金がなかったけど子供の僕はお金がかからない楽しみ(書店からタダの小冊子をもらってくるとか)をたくさん見つけ遊んでいた。

 それでもやっぱり、小冊子を見ているうちに欲しくなった文庫に赤マジックで丸をつけ、貯金箱のお金を何度も取り出しては、買うべきか買わざるべきか悩むこともあった。小冊子で初めて知った作家たちの小説は、きっと僕を新しい世界に引きずり込み虜(とりこ)にするに違いなかった。

 当時、バブルが始まったばかりだった。近所の畑がどんどん売られてマンションに代わり、同じ町内の同級生のヨシキのお父さんがベンツに乗り換え、夏休みの終わりに家族で海外旅行に行って来たという証拠の土産を近所から貰うことが多かった。古い家は壊されてこぎれいな別の建物に生まれ変わり、それでも僕たちの家のようにひっそり暮らす人たちの借家街はそのまま取り残され、あるいは頑固な老人が営む小物屋の古い建物も取り残され、そんな取り残された建屋の一つに、大昔からそこでやっていた養鶏場があった。

 母親が家政婦として働いていた通りの向こうのお金持ちの老夫婦の家に、その養鶏場から産みたての新鮮な卵を持って行くのが僕の仕事だった。自転車に乗って1㎏分の卵を養鶏場へ買いに行き、もみ殻を敷き詰めたダンボールにまだ温かい卵を一つひとつ乗せてもらって、自転車の後部座席に積み、ゴム紐で縛って、老夫婦の家に向かった。

 老夫婦のお爺さんの方は昔の青年将校だったらしく、カクシャクとした人だった。優しい人だったけど体が大きくて、少し怖かった。僕は卵の入ったダンボールをそのお爺さんに手渡し、卵の代金と数百円のお駄賃を受け取ってそのまま書店へ向かった。

 当時、文庫の中には200円以下のものも結構あったはずだ。ディケンズのクリスマスキャロルもそうだったし、ジキル博士とハイド氏もたぶん百円玉2枚で買えた。新潮文庫ディケンズの作品の表紙はとてもお洒落で、いつか全部読んで集めてやろうと思ったくらいだ。

 夏の書店はたいていキンキンに冷房が効いていて、何時間でもそこで過ごしていられた。そして実際に過ごした。僕はさんざん迷ったあげく、長い夏休みのあと残りで買わなきゃいけない諸費用も考慮して、200円で買えるという理由だけでソール・ベローの「この日をつかめ」を買った。レジのおじさんに「難しい本を読むんだね」と言われたのを覚えている。

 そう、小学生の僕に、「この日をつかめ」のテーマになっていた離婚とか投資とかの話が分かるわけなく、内容が難しかったし、最終的な感想は「お金のないアメリカ人のお話かぁ」でおしまいだったけど、新品の書籍の紙の香りを思い切り味わい、そのあと自分の机で読んでいるうちに内容に没頭し、母親が夕食の時間を告げに呼びに来た時には、今いつの時代のどこの国にいて自分が誰だったか思い出すのに一瞬時間がかかった。子供時代の読書は、自分が日本人の子供だったことも一瞬忘れるくらい、心をその世界の中へ引きずり込んで行くものだった。今思うと贅沢な時間だ。今じゃ自分が普通の日本人のオジサンだと一瞬忘れるのは、海外出張中にキツイ酒を飲まされてベロベロに酔っぱらってしまった時くらいなものである。

自分を忘れて無くなってしまえるほど没頭できる時間。なんて幸せな時間だったんだろうか。

僕は夕食をそそくさと食べ終えると、お風呂に入り、カルピスを飲みながら自分の机に座って、さっきの続きを読み始めた。蚊取り線香の香りと、父親のミシンの音と、カルピスの氷が溶けてガラスコップの縁(ふち)に当たりカランと鳴る音が、全部セットになって、僕の夏休みの読書の思い出として記憶に残っているのだ。

 今年も夏の100冊は書店に並んでいた。中身をパラパラと見てみたら、子供時代の内容とずいぶん変わっていた。キクチカンって今の子供はもう知らないのかな?昭和初期の文学はテーマが普遍的で文体に迫力があって、今でも魅力的だと思うんだけどなぁ、なんてちょっと寂しい思いもしながら、僕は書店を後にした。

 80年代のあの夏の光の中で、少年だった僕は100円玉を握りしめて書店に向かい、自転車を漕いでいる。

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