失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

映画「ドライブ・マイ・カー」を観て駐車場バイトをしていた頃の青春の日々を思い出し、大切な人と気持ちを共有するって何か考えたこと

 学生の頃、駐車場バイトというのをやっていて、マンションの機械式駐車場の受付をする仕事だった。駐車場はもちろんマンションの住人も使えるが、外部からやって来る客もいるので、そんな外部からやって来る客の乗りつけた車を、中に誘導したり、ターンテーブルを操作して車の向きを回転させたり、駐車代を受け取ったりする仕事だ。

 その仕事場は横浜の日吉にあったので、場所柄、ハイソな(ハイソサエティの略です。ハイソックスの略ではありません。昭和生まれなので・・・)客が多く、近くにたくさんお受験向けの塾があった事もあり、子供の英才教育をやっている教育ママが、子供を外車に乗せて連れて来ることが多かった。

 乗りつけたそんなマダムたち(たいてい美人)が運転席から降りると、制服を着た僕が駐車カード渡しに行く。あとはお子様と手をつないで歩いて行くのを頭を下げて見送り、数時間後、お受験の為のお勉強が終わって帰ってきたら、お金を受け取った後、操作パネルを使って車を呼び出し、バックで出て来た車をターンテーブルで回転させて向きを変え、やはり頭を下げて走り去るのを見送るのだ。

 とんでもない額の月謝を払って、子供にお受験の為の塾に通わせるような家の人たちだ。車はベンツとかBMWとかポルシェが多かった。世の中は、お金があるところにはあるのである。僕は当時から車が好きだったから、ターンテーブルを回しながら、やっぱ高級車は全然フォルムが違うなぁなんて、ため息をついて見ていたものである。20歳の頃の話だ。

 そんなマダムたちの中に、サーブで子供を乗せてやって来る人がいた。その親子自体は別に他のブルジョワ親子たちと違いがなかったが、車がサーブだった。しかも900ターボの3ドアだ。僕はこのスウェーデン生まれの車が大好きだった。後ろ姿が本当に美しく、シンプルだけど個性的で力強いテールランプの形が、なおさらその後部の曲線の美しさを引き立たせていた。一介の若造ながら、いつかあんなセクシーなハッチバックに乗るぞ!と考えていたものである。

 それからそんな事もすっかり忘れて、四半世紀がたち、普通の国産車に乗って普通のサラリーマンになって、普通に家でAmazonプライムを見ていたら、「ドライブ・マイ・カー」という映画で、その美しい車を見ることが出来た。赤い美しい車だ。数十年前に僕が見ていたサーブは黒だったけど、そうそう、この車はこんな感じの後ろ姿で、そんな感じのエンジン音だったぞ、って当時を思い出し、すっかり興奮してしまった。またしても作品の中身ではなく、ディティールであれこれ思い出し、あれこれ考えだすという悪い癖が出始めた。いかんいかん、ストーリーに集中しなきゃ。

 「ドライブ・マイ・カー」は世界中で賞をとっており、カンヌでも脚本賞を受賞したとのこと。なるほど、そうなんだ。村上春樹が原作というこの作品の中で、登場人物が粛々と物語を展開させて行く。

 主人公の家福(かふく)の「僕は正しく傷つくべきだった」のコトバが作品の全てを語っており、みんなきっと、う~んってそれぞれ思い当たる節(ふし)があるんだろうな、観終わったあと、そんな事を考えて映画館を後にしたんだろなって思った。悲しみとか怒りとか、激しい感情や思いは、時には大切な人とアウトプットして共有しなければ、器用さだけでは乗り切れず、結局のところ関係が破綻する。そんな経験はみんなしているのだろう。家福と妻との会話は、常に適切な距離感で適切な言葉が選ばれ、感じよく取り交わされ続けている。が、それは適切であればあるほど、決して本当の意味では、互いに心の奥底にある情念とか思いを共有することが出来ない、ある一定の場所からは重なり合う事ができない、という意味になる。残るのは孤独感のみだ。家福は孤独だったかもしれないけど、妻はもっと孤独だったのである。そんな風に解釈してみた。

いわば、若くもなく老人でもない中年期の人々が陥る、悲しみに対する一種の反応なのかもしれない。

 例えば若いカップルの場合を考えてみる。大恋愛の挙句、二人は一緒に暮し始め、そのうち倦怠期という悪魔がやって来て、何となく、何にも感じなくなる。しかも身勝手な話で、自分だって相手に飽きているくせに、相手が自分に飽きている様子、つまり、こちらに向けられる表情、会話の仕方、食事中の沈黙に滲み出る全ての面倒くさそうな相手の様子が、ひどく自分の心に刺さり、傷つくのだ。が、正面切って、

「なんかその・・・そうやって面倒くさそうにされると、ひどく辛い気持ちになるんだ・・」

なんて悲しそうな顔をしてフツーは言わない。

「なんだよその態度。面倒くさそうにしちゃってさ。こっちだってウンザリしながらやってるんだから、お互い様じゃない?」

戦おうとするのだ。優しく自分が傷ついていることを伝える、なんて奥ゆかしさはないし、そもそもそんな「傷ついている」なんてこっ恥ずかしくて認めたくないし、というか、こっちだって相手に対して面倒くさいなって思っているし、じゃあ、一方的にそんな態度を取られる覚えはないよね?なんて、泥沼にハマって行くのである。

この戦おうとする反応、ちっぽけなプライドとか負けず嫌いな気持ちに基づく歪(いびつ)な反応もまた、正しく傷つけなかった悲劇の一つだ。

「じゃあもういいよ。お互いそんな無理してるんだったらさ、付き合っている意味なくない?別れよう」

若しくは、そこまで直情的なタイプではなく、むしろ屈折したタイプなら、傷ついていることを相手に伝えながら、結局は関係を破綻させるかもしれない。

「あのね、君は本当に大好きな人なんだけど、だから尚更、こんな風にお互いに飽き飽きしてるのに、無理して関係を続けてくれているカンジがとても辛いんだ。君は優しい人だからね。でも僕たちはもう別れた方がいいと思う」

ハイ、若者たちだって、正しく傷つき、感情や思いを大切な人とアウトプットして共有できなければ、結局のところ関係が破綻するのです。

 それが中年期となると、倦怠期とか飽きたとか、そんなのはもうすっかり慣れっこで、お互いが器用に対応出来るようになる。全然関心がなくったって大丈夫。ウン、ウン、なるほどねって相槌(あいずち)を打って、きちんと相手の話を傾聴(けいちょう)しているフリをし、しかも時々は軽く質問したりして本当は全然聞いていないことが、やりとりに滲み出ないようにこなせる。一方、話している相手も、コイツ本当はなんにも聞いてないだろ、なんて分かっていても、大丈夫、犬とか猫を相手に喋っていても、とにかく聞いてくれる相手がいればスッキリするんだから、問題は無し、なんて喋り続け、大人の対応が出来るのだ。

が一方で、中年期は、若者だったころとは違う、決して逃げられない、もっと大きくて深い悲しみを背負うことも多い。子供の死であったり、自身の病気であったり、両親の介護であったり、もっとずっと深いところで傷つく場面に出くわすのだ。

そんな時、器用さで乗り切ろうしても、関係は破綻する。やはり、大切な人にはしっかりその悲しさを伝えるべきなのだ。それはコトバにしなくてもいい。二人で向かい合って、黙って食事をしているうちに、箸が止まり、静かに涙を流し、嗚咽(おえつ)が始まるかもしれない。そんな時、相手が立ち上がって泣いている自分の背中をさすり始め、肩を抱きしめ、一緒に泣いてくれるかもしれない。逆もまた然りだ。激しい感情や思いは、時には大切な人とアウトプットして、共有しなければいけないのである。それはお互い様である。人生という悲しみの連続の中で、共に傷つき乗り越えることが出来るなら、二人は戦友として穏やかな老人になれるだろう。

だから、中年期に襲う大きな悲しみに対しては、強い意志で心を閉ざしたりなんかせず、或いは、器用さの中で何もなかったかのように振舞って時間がたつのを待ったりなんかせず、自分の大切な人に「悲しい」と伝えればいいのである。でもそんな単純なことが、我々にとってどれだけ難しいことか。なまじ人生経験があって器用さを身に着けてしまった我々だからこそ、それは難しいのである。

◎楽しさの感情の共有

そんなの簡単だ。

「何、もう旅行の用意しているの?」

「うん、だって来週には出発でしょ。少しずつ準備しておかなきゃ」

向こうは寒いのかな?もっと暖かい服装の方がいい?なんてやっているうちに、もう一度「じゃらん」を覗き込んで、やっぱり旅行先ではココにも立ち寄って欲しいなんて甘えて来る。それをニコニコ眺めて、自分もウキウキし始める。

怒りの感情の共有

これはひたすら大切な人の味方になることが重要だ。正しさとか妥当性とかをもって、客観的なジャッジをしていけない。ただただ同意するのです。

「本当に腹が立つのよ、その人。どう思う?」

「うん、確かにそいつはサイテーだな」

「でしょ。せっかくこっちは親切に言ってあげたのに、そんな態度ある?」

「まぁ、そんな奴もいるんだよ」

「私は間違ってないでしょ?」

「うん、もちろん、君は全然悪くないよ」

苦しさの感情の共有

これは慎重に対応しなければいけない。一緒に苦しんでしまうと、一緒に鬱々と落ち込んでしまって、一緒にメンタルをやられかねない。

「もう耐えられなくて・・・なんでこんなビクビク怯えながら働かなきゃいけないのかって思うし、でも、ひょっとすると私が駄目なのかなって思うし・・・」

「まぁ、とりあえず着替えなよ。メシ作ってやるからさ、何か好きなもの言いなよ」

「でも冷蔵庫に何にもないよ」

「じゃあ今からスーパーへ食材を買いに行く」

「えー・・今からまた出るの?・・私このまま寝たいんだけど。胃が痛くて何にも食べたくないし」

「ハイハイ一緒に行くよ。食いたいもの考えながら歩こう。体を動かしているうちにお腹も空いてくるから」

繋いだ手を握り締め、外へ一緒に飛び出して行く。苦しい時って口から出て来るコトバは全部ネガティブな毒だから、たくさん外へ吐き出してもらってそれ見ているだけでいい。そして何より一緒に身体を動かすこと。

悲しみの感情の共有

これはコトバも身体の動きもいらない。一緒に佇(たたず)めばいいのである。というか、一緒に佇むしかない。前述の通りだ。そして一緒に佇むから、安心して「悲しい」と伝えてくれればいい。逆に、迷惑かもしれないけど、ここで僕はわんわん大声をあげて泣くから、そばにいてくれればいい。そのあと、暖かいお風呂に入って、一緒にご飯を食べに行こう。

哀しみの感情の共有

「悲しみ」は生きることを前提にしているけど、「哀しみ」はいずれ命がなくなる人間の宿命を前提にしている。だからまだ僕には未知の世界だ。が、いつかもし大切な配偶者を失くした時、もし子供に先立たれた時、もし命の絶対的な儚さと空しさを目の前に叩きつけられた時、僕はまた誰か大切な人とその「哀しみ」を共有できるのだろうか?

もはやその頃には独りぼっちの老人になっていて、大切な人なんていないし、いる必要もないし、どこかの施設で自身の死を待つのみならば、誰かと感情を共有などせず、静かに窓の外を見て心を閉ざし続けるのだろうか?

 

 ところで、あんまりサーブが懐かしいので、ネットで調べていたら900ターボのミニカーを見つけてしまった。しかも本格的な大人向けの高級ミニカーだ。つい衝動買いしてしまったけど、もちろんその値段を家人と共有する根性はない。が、あんまりにも気に入ってしまって、箱から取り出しもせず、ニヤニヤ箱を眺めてお酒を飲んでいる。家族から見れば、さぞ不気味な様子なんだろう。でも、絵や写真だけで、本当に美しい車なのだ。

 20歳だった僕は、走り去って行くサーブの美しい後ろ姿を見送りながら、あの懐かしい夏の光の中にいる。まだ「悲しみ」も「哀しみ」も知らない楽しい馬鹿騒ぎの日々を暮らし、いつかあんな高級車に乗って颯爽(さっそう)と走り出してみせるぞ、なんて夢を見ている一人の若者だ。

 そう、大切な人と一緒にいるには、もちろん楽しいとか気持ちいいとか、要するに幸せな思いを一緒に共有する事が大切だけど、それ以上に、苦しいとか悲しいとか哀しいとか、人生の痛みを共有出来なければ、いずれ心は離れて行ってしまうということ、そんな事を全然知りもしなかったあの若かった頃の無邪気な自分を、ふと思い出してみるのだ。

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