失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

飛鳥鍋を食べて古墳の周りを散歩しながら、「気まぐれ」の歴史に思いを馳せたこと

 明日香村へ飛鳥鍋を食べに行った。その土地で古来から食されて来た牛乳の鍋である。

毎年冬になるとソワソワして、「飛鳥鍋を食べたいねぇ」なんて休日の何気ない会話が始まる。そして家人を乗せてビュンと車で走って食べに行くことになる。

 その日は良く晴れていて、変な言い方だけど「飛鳥日和」だった。古墳群の向こうに高くて澄み渡った冬の青空が広がっている。

飛鳥鍋はまさに飛鳥時代、唐の渡来人から伝わった。「牛乳」と「鶏料理」が混ざって土着化し、今の姿になったらしい。要するに大陸から持ち込まれた新しい食文化だったとのこと。渡来人たちは生活を便利にする技術や、人を効率的に殺す武器づくりの技術だけでなく、美味しい料理という平和的な食文化もこの国に持ってきてくれた、ということになる。

この飛鳥鍋だが、牛乳のこってり感が鶏肉とよく合う。チーズと鶏肉の相性がぴったりなことを考えると、当たり前と言えば当たり前だけど、ダシのきいた牛乳に浸かったほろほろの鶏肉が、口の中で絶妙に調和しながら崩れ、本当に美味しく、なるほど、そりゃ1000年以上も昔からみんなに食べられて来た訳だ、なんて改めて思った。最近では観光客向けに、牛肉や魚の白身、果てはキムチなんかも入った飛鳥鍋があるみたいだけど、僕はやっぱりオーソドックスな鶏肉の鍋が一番好きだ。

 お腹がいっぱいになったので、青空の下をぷらぷら歩くことにした。

風もなく、穏やかな一日である。これまでもう何度も訪問しているけど、やっぱり定番だよね、ということで、石舞台古墳を見に行った。ただ巨石を積んだだけの墓だが、直接触れられるし中にも入れるし、なんせあの蘇我馬子の墓だから、子供の頃に初めて行った時はひどく興奮した。この中に馬子が眠っていたんだと思うと、ちょっと恐ろしかったけど、子供ながらに遥か悠久の昔に思いをめぐらせ、とても感動したのを覚えている。

僕たちは入場券を買って、枯れ木の小道を通り抜けた。巨石は相変わらず、丘の上に静かに鎮座し続けていた。美しい場所である。

蘇我一族が飛躍したのは、飛鳥鍋の文化をもたらした(厳密には牛乳を飲んだり鶏肉を食べたりする文化を持ち込んだ)渡来人たちを活用したからである。新しい技術を積極的に取り入れ、仏教という新しい文化の流布に力を入れた。一方で古きものにこだわり続けたライバルの物部氏は滅び、ライバルのいなくなった蘇我はしばらくの間はこの世の春を謳歌出来た。

 新しいものを取り入れた権力者が時代の先駆けをするというのは、例えば鉄砲の威力にいち早く目を付けた信長とかをすぐに思い出すが、それまでの既成概念を破った彼らの柔軟さが時代を切り開いた、なんて歴史家の説明はもっともらしいけど、そんなのは結果論でしかないだろう。歴史に埋もれて行っただけで、その時々に応じて新しいものに飛びついた野心家はこれまでたくさんいただろうが、それが仮にどんなに合理的であったとしても結果的に歴史の表舞台に立てなかった場合、そのまま人々から忘れ去られ、評価されることもなかったはずだ。新しいものが時代を作るのではなく、「特定の」新しいものがその時代の人々に受け入れられ、次の時代へと導いて行くのである。そして結果的に評価されているに過ぎない。

「なんか蘇我の領民たちが使っている鍬(くわ)って、すんごいらしいよ」

「何がすんごいの?」

「むっちゃ荒れ地を耕せるらしいよ」

「なんで?」

「先っちょについてる固いの(鉄)が、その、すんごい固いんだって」

「へ~、そうなの?」

「うん、蘇我の領民はタダでその鍬を使ってもいいんだって」

「へ~、羨ましいなぁ。俺たちも蘇我の領民にしてもらう?」

なんておバカな空想は結果論的な説明にしか過ぎない。例えば、当時はまだまだ異国の信仰だった仏教に初めて触れた時、人々は何を感じたのだろうか?金ピカの仏像を見て、何を考えたのか?

「いやいや、あんな人いないでしょ」

「でも大昔にいたらしいよ」

「あんな金ピカだったの?」

「それは分からん。でもきっと有難い姿だったんだろね」

「で、なんか我々にしてくれるの?」

「いやいや、神様とかじゃないから、そういうのじゃない」

「何にもしてくれないの?」

「いやいや、きっと何かはしてくれるんだよ」

「何を?」

「サトリとか言っていたけど、俺にもよく分からん」

「で、なんで金ピカなの?」

人々は何かよく分からないけど、その新しさに惹きつけられ、少しずつ受け入れ、その新しさを利用した権力者が時代の最先端に立つことが出来た。何かよく分からない、というのは、要するに特定の新しいものが「気まぐれ」に受け入れられた、ということだ。「気まぐれ」が人々の生を次の時代へと繋いで行ったのである。

この「気まぐれ」がこの世界やその中にいる我々にとってどれほど重要な構成要素であるか、量子力学の世界をほんのちょっと垣間見るだけで、なんとなく腹落ちするのだ。とんでもなく頭のいい人々が物理の研究を極め、極められたものを次の世代のこれまたとんでもなく頭のいい人々が更に極め、いわば世界の頭脳たちが極め続けて100年以上たった結果、「ウ~ン、我々の認識できる物理法則では成り立たない動きが、宇宙の最小単位の構成要素になってるかも」という、結局のところ「気まぐれ」が我々の世界を支配しているかのような結論になっている。世界から法則性を抜き出すことに躍起になった挙句、法則性が成り立たないのが世界かも、なんてアイロニーが結論なのである。

 なお、生物の進化でもこの「気まぐれ」は登場する。突然変異と自然淘汰なんて古臭い話を持ち出すまでもなく、生き物はきっと「気まぐれ」に進化して来たのだ。突然変わった奴が出て来て環境の変化に強かった、そいつらが生き残って遺伝子を残した、なんて合理的な話ではなく、なんか分かんないけど変わった奴が出て来て、それが一気に周りに増えて、気付いたら全員そういうことになっていました、みたいな「気まぐれ」進化がきっと生き物の真実なんだろう。そんな無意味な進化の仕方では、世界の最終目標(神の世界の実現)みたいなのを想定している人々には到底納得できないかもしれないけど、きっと、量子力学の世界も、カンブリア爆発も、最終的にはその根本が「気まぐれ」に辿り着いて行く。

宇宙は、世界は、人間は、「気まぐれ」に存在し、「気まぐれ」に変わり続け、「気まぐれ」にきっと消えて行く。そこに意味などなく、だから我々は「気まぐれ」に人類愛を訴えて募金しながら、「気まぐれ」にミサイルを撃ち込んで皆殺しにできるのだ。意味や目的の無い「気まぐれ」が世界の真実だからこそ、その真実に我々人間は楽しさを見つけることも、恐怖を感じることも出来る。

 1950年代にマイルス・デイヴィスが新しい音楽を始めた時とか、1980年初頭にデトロイトでテクノ・ミュージックが生まれた時とか、もっと大昔に初めて人々がマティスやダリの絵を見た時とか、何か新しいものが始まるぞ!というワクワク感の楽しさを、初めて触れる人々は感じて来たし、それまでの当たり前のコード進行とか、当たり前の絵画の構図が、まったく予想しなかった形で崩される、そんな先が全く予想できない、「気まぐれ」にしか思えない天才たちの創作を、人々は熱狂的に支持し高く評価し続けて来た。我々にとって「気まぐれ」の楽しい側面だ。

一方、「気まぐれ」の恐ろしい側面は、北野武のバイオレンス映画で結晶化された「予想していないタイミングでいきなり殺される」という、人が人に対して行う「気まぐれ」の狂気であったり、或いは、昨日まで元気で活き活きしていた人が急に事故とか病気とか災害で死んだ時に我々が感じる、いわば自然や偶然が人に対して行う「気まぐれ」の暴力だ。そして恐ろしいと感じつつ、何度もそんなシーンを映画作品に入れたがるのは、我々人間が「気まぐれ」に恐れを抱きつつ惹かれているのである。

そう、意味のない「気まぐれ」が世界の真実だからこそ、僕たちは新しいものが始まるワクワク感を楽しむ一方、あっけない生の終焉をもたらす、人の狂気や自然や偶然の暴力に恐怖を覚えつつ惹かれて行く。

 ちなみに、僕の行きつけのイタ飯屋は口ひげを生やした気難しい感じのシェフがやっているが、彼の作る料理はどれも個性的で無茶苦茶美味しい、時もある。

時もある、というのは、行く度に見た目も味も変わるのだ。最初は違う人が作っているのかと思ったけど、カウンターの向こうで作っているのはそのシェフだけだ。要するに味にムラがあるのである。ダメじゃん、土日の昼飯時でも座席はガラガラだ。もちろん流行っていないのだ。そりゃそうだろう。前菜で出されるカルパッチョは、ある時にはこんなに味が深く、オリーブ油が香り高く調和しているのは食べた事ない!ってくらい美味しいのに、ある時は生肉の表面がカピカピで、ひょっとしてサラダ油をかけた?って思うくらい臭くて不味いのだ。ビザもパスタも同様、いつも個性的だが、行く度にムラがあるので、一回でも不味いのを食べさせられたら、普通は客は二度と来ない。

が、僕はそれでもここに通い続ける。どうしてか?

シェフの「気まぐれ」サラダが楽しみだからだ!

そう、口ひげの気難しそうなシェフが、あの挨拶もろくにしない黙々と料理しているシェフ、その料理の味はムラだらけで、店内の壁には彼のバックパッカー時代の写真が飾ってあるあのシェフ(どの写真も全然笑っていない)が、さらに「気まぐれ」で作ったサラダが出て来るのである。一種の博打に近い。出て来るサラダはひょっとすると恐ろしく不味いかもしれないけど、ひょっとすると人生で一番美味しいサラダになるかもしれない。ワクワクしない訳がなかろう。

 という、やはりおバカな僕の趣味でこの話は終わるのだけど、何という事はない、この世から「気まぐれ」が無くなってしまえば、味気ない、合理的な生活だけが残っているのだろうなぁと思うのである。付き合い始めたカップルの激しい恋愛の中においても、長々と夫婦生活をやって来た日常の中にも、「気まぐれ」から始まる物語が僕たちの人生に色を添えるのだ。

「どうしてそんな事を言うの?」

「またバカなことを言い出して・・・」

僕たちは時に「気まぐれ」に身を任せ、人生をより深く味わおうとする。それはたまには刺激が欲しいとかではなく、そうすることが自然だからである。人間は、世界や宇宙の原理がそうであるように、実は不合理な気まぐれで歴史を決断して来たし、これからもそうするはずだ。

 遥か悠久の昔に初めて渡来人たちが作った金ピカの仏像を見た時の、古(いにしえ)の人々のポカンとした表情を想像しながら、その好奇心と、恐れと、きっと何か新しいことが始まるんだという高揚の気分を思い浮かべながら、青空の下、僕は家人と手をつないで馬子の墓の周りをプラプラ歩いている。

こうして「気まぐれ」が世界を動かし、「気まぐれ」に命は続いて行くのである。

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