失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

「燃えよ剣」を見て久しぶりに司馬遼太郎の作品を思い出し、ついついサラリーマンの哀愁を思い浮かべたこと

 歴史好きのご多分に漏れず司馬遼太郎が大好きだった。学生時代に本当に読み尽くして、エッセイも評論も随筆も全部読んで、文字になっているもので読んでないものはないくらい読んだ。それくらい好きだった。

作品の中でも、みんなに人気があるのはどうやら「燃えよ剣」や「竜馬が行く」や「坂の上の雲」で、やはりどれもドラマ化とか映画化をされている。そしてどれも160年以内の非常に最近の日本人の話だ。だから今の我々と比較的似ていて、共感しやすいというのがあるのかもしれない。

でもやっぱり僕を魅了したのはちょっと古い時代の、しかもあんまり良くわからない(ということは想像するしかない)時代やジャンルの人間を描いた物語だった。

「箱根の坂」とか「梟の城」とかだ。戦国初期や戦国末期の、要するに日本人が徳川300年でステレオタイプに収まって行く前の時代の、イキイキと、そしてドロドロと生きていた、今の日本人とは全然種類の違う人々が登場する物語である。

梟の城」の主人公の得体の知れない価値観や喜び、「箱根の坂」に出て来る権威や血に対する人々の牧歌的な信仰など、今を生きる我々にはあんまり共感できるところが少ない故に、そういった時代があり、そういった別の類(たぐい)の日本人がこの国にいたことに感嘆し、それは一種の作家の想像であってフィクションかもしれないけど、でもそんな今と全く違う世界が広がっていた事を物語を通じて想像し、なんとなくワクワクするのだ。

一方、幕末まで来ると、そこに見られる登場人物の葛藤は、今のサラリーマンの葛藤にあっさり重なったりして、共感し感動はするが、新しい世界を垣間見るワクワク感は少ない。そりゃ幕末は特別、血生臭い時代だったのかもしれないけど、やはり徳川300年後の血生臭ささである。戦国の血生臭ささとは違う。そうだよなぁ、日本人ってそんな感じなんだよなぁ、同調圧力が異様に強いんだよなぁ、周りのみんなに言われてやむを得ず腹を切ったんだねぇ、なんて登場人物に同情しつつ読んだりする。

だから、高杉晋作のかっこいいアウトローぶりは理解できるけど、やはり僕は、例えば、戦国時代初期に現れた北条早雲という怪物を、必死で想像しようとした司馬遼太郎の熱心な創作とディテールが、小説を読んでいる間だけは僕たちを別の世界に連れて行ってくれるみたいで、とても好きだったのだ。

 で、Amazonプライムで「燃えよ剣」の映画を観て、久しぶりに司馬遼太郎のことを思い出した。熱にうなされるように読み漁っていたあの頃から既に、四半世紀がたとうとしている。楽しかったなぁ。

ちなみに「ある運命について」というエッセイで人生の無意味さとブッダの立ち位置を語った有名な箇所があって、その一文を書いただけで、この司馬遼太郎という作家はこの世に生を受けて意味があったと、後世の万人がきっと評価すると思った。それくらいその一文は恐ろしく研ぎ澄まされた内容であり、真実であり、僕のその後の人生に大きな影響を与えた。これも懐かしい思い出だ。

 さて、リビングでお菓子を食べながら見ているのは、どえらいハンサムが土方を演じる「燃えよ剣」である。

もはや僕はすっかりオッサンなので、何かの作品が自分の人生に大きな影響を与えるなんて幸せな出来事は起こりそうにもなく、当人にも、若いころのように、何かを求めるが如く真剣な眼差しが1mmもない中、ときどき居眠りをしつつ、お菓子を食べつつ、ぼんやり作品を見ている。のどかな休日のリビングでの出来事だ。

土方歳三という男は写真も残っていて、その映画の役者のように男前で、剣を信じ、剣で立身出世の道を切り開き、剣で死んで行った。竜馬が千葉道場で北辰一刀流を極め、その後、あっさり剣術を止めて航海術を学んだり、剣の代わりに拳銃や万国公法を持ち歩きながらクルクル時代の裏側で動いていたのとは対照的である。もちろん拳銃や万国公法は、後付けの創作の逸話らしいが、竜馬はおよそそんな話でもくっつけられそうな曲者(くせもの)だったのだろう。

一方、土方歳三は実務家であり徹底したリアリストだった。彼にとっては、新撰組という組織をどのように強くするかが一番大切だった。そこに組織運営に身を捧げる美学はあったが、組織の将来を見据えた大局観や、行動原理としての思想はなかった。

それは石田三成の参謀だった島左近も同じだ。組織を実際に仕切る人間が土方や島のように実務家でありリアリストだと、組織はどのみち、道を誤って滅びるしかない。全員、美学のうちに死ぬしかないのである。だって組織の将来を時代の変化の中で見極める力を、もともと実務家は持っていないからだ。

だからこそ、組織のトップに必要なのは決して実務能力や、口を開けば常に最悪を想定する目の前への危機感や、筋を曲げない美学ではない。大局観をもってその時々で情熱的に思想を語れること(それが楽観的な大ボラであっても)が重要なのである。

そしてこれは会社の経営幹部になる人間も同じである。大きくて強い組織の経営幹部はたいてい、大局観を持ってリスクプロテクトが出来るし、口を開けば熱い理想をペラペラ喋れるし、そのくせ、信じがたい変節や部下の切り捨て、自分の保身の為の大嘘など、およそ美学とはかけ離れた行為をしがちなのである。

これは当たり前の話だ。

我々は土方の美学をカッコいいと感じ、一方、そのリアリストぶりが行きつく先は、破滅しかないことを知っている。時代は常に変わり続け、時代とともに価値は変わって行く。それに付いて行けるだけの柔軟さがなければ、滅びるだけだ。例えば、十数年前まで数字を出すためにパワハラをやって何人もの自分の部下を潰して来た人間が、出世して相応の地位につき、今や率先して「働きやすい職場環境を、ハラスメントのないマネジメントを」と熱く語ったりしているのを見ると、ウン、なるほどね、これぞ経営幹部だ、なんて思うのだ。

そこに人としての美学はないが、大きな時代の変化の中で、組織が生き延びる為に必要な思想はある。土方はサラリーマンになっていたら、出世はしなかっただろう。

そんなことを考えながら、やっぱり司馬遼太郎の作品は、うんと古い時代の物語がよかったな、なんて思い出していた。ハンサムな土方がテレビ画面の向こうで、バッタバッタ人を斬っている。う~ん、絵になるなぁ。

 ご存じの通り、日本刀が実戦で使えたのは、屋内や狭い通りで人を斬るのが流行った幕末の一瞬だけである。町屋で数十人の殺し合いをやる分には有効だったが、そんな規模で世の中は動かない。世の中を動かす規模の殺し合いは数千、数万規模でやる戦(いくさ)であり、戦(いくさ)で圧倒的に主要な武器として機能したのは戦国時代から弓矢と鉄砲だ。そういう飛び道具以外であれば槍が最も殺傷力があった。考えてみたら分かる話だ。鎧を着た者同士で日本刀で斬り合っても、全く埒があかないのである。防具の隙間を縫って相手の身を突き刺すには、間合いを取った場合は槍が、接近戦ではむしろ脇差が有効だった。

が、武士という殺人を職業にしながら、ほぼ殺人をすることなく一生涯を終えざるを得ない特殊な江戸時代にあって、武士たちの屈折した美学は日本刀という実用面からは中途半端な武器に傾き、その日本刀に魂を込めてその美学を磨こうとした。池田屋事件を始めとする幕末の数十人の斬り合いは、徳川300年で屈折した武士たちの最後の小さな晴れ舞台だ。土方たちはもともと武士ではなかったゆえに、強烈に武士たる者であろうとし、それは剣に生きることだった。

で、その土方率いる新撰組鳥羽伏見の戦いで日本刀を振り上げ、振り下ろし、散々負けた。やはり日本刀は戦(いくさ)で使うものではないのである。

 ハンサムな土方が映画のエンディングで華々しく最期を迎えようとしている。実際には土方の亡骸は行方不明なのだから、これは後世の人間が想像を楽しめばいいのである。エンドロールが流れ、僕は別のお菓子を取りにソファから立ち上がる。

のどかな休日の午後はぷらぷらと続いていく。

 パンデミックの前まで、会議室でホワイトボードを使いながら上手に議事進行するというのは、ちょっとした主要な技術だった。或いは、p.pでプレゼンするとか、Excelで複雑な計算式を組めるとか、Accessを使いこなすとか、要するにサラリーマンの嗜(たしな)みとして、そういったスキルはある程度要求された。僕たち中高年は若いころからそれらを嗜みとして頑張って身に着け、若者時代にはブラインドタッチ一つ出来ない上の世代を馬鹿にした。

でも、アフターコロナが見え始めた最近では、なんとなく僕たちが身に着けて来たそれらのスキルも、幕末の日本刀みたいなものなのかな、なんて思い始めている。

最近の新入社員は下手をすると僕たちオジさんなんかよりExcelが使いこなせないが、TeamsやZoomでサクサク機能を使いこなして会議を進めて行く。対面して直(じか)に話すと目を見て堂々と話せなかったり、理路整然と話せないくせに、オンライン会議ではペラペラ喋って議事を進行し、必要なデータを引用して共有し、まさに光を放っている。そして僕たちオジさんたちは、昨夜一生懸命作ったExcelの資料を共有しようとして、ボタンを押し間違い、あたふたしている。

時代はまた新しく変わったのかな?僕たちは日本刀を振り回し、これから散々負けるのかな?

駄目だ駄目だ、こんなところに落ち込んでは。やっぱり司馬遼太郎の作品はもっともっと古い時代の話がいいや。江戸以降の話はどうもサラリーマンっぽい考えが頭に湧いてしまって、よくない。

僕は新しいポテチの袋を開けて、一枚、口に放り込んだ。次の映画を観て、元気を出そう。おバカなアクションでも見ようかな?

休日の午後が、ゆっくりと過ぎて行く。

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