失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

パルプフィクションと横浜の子供たちのこと

 もう四半世紀以上前の話だ。地方から上京してきた僕は、専門課程は都内にあったけど教養課程はキャンパスが横浜にあったので、出だしは横浜の寄宿舎で暮らし、横浜でアルバイトし、横浜で友達を作って、横浜で青春時代を謳歌した。

 90年代というのは本当に暗い時代で、バブル崩壊後の長い冬の時代が続き(そのころはそのあと更に何十年も冬が続くとは思っていなかったが)、自然災害が立て続いて発生したり、得体のしれない猟奇犯罪も立て続けに起こったり、前代未聞の都市型テロが起こったり、そんな中、山手線や中央線へダイブする中年サラリーマンの横を、茶髪のルーズソックスがチーマーと腕を組んで闊歩するような、魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした人の欲動が渦巻くどす黒い時代だった。

 そんな中、僕は人格形成の最期を完成させ、そこで暮らしていた。横浜の友達は生粋のハマっ子が多く、地方都市出身の僕にはその遊び方、人との距離感、ファッション、タバコの銘柄の選び方や使っているジッポライターの絵柄まで、すんごくオシャレだなぁ、と思ったものだ。当時、タランティーノが流行っていて、大ヒットしたパルプフィクションを映画館に何度も見に行ったが、映画館を一緒に出て、バーでたくさん飲んで、ちょっと酔っ払ったハマっ子の女友達が、映画でユマ・サーマンが演じていたミアのダンスを駅に向かう路上で真似した時、「あぁ、こういう人たちがいるのが都会なんだ」なんてしみじみ思ったのを覚えている。青春時代のまばゆい一瞬の光の光景である。

 パンデミックの前、家人を助手席に乗せてなんとなくドライブで走り、なんとなく高速に乗って、なんとなく何時間も走らせているうちに横浜にたどり着いた。すっかり日が暮れて、横浜はきれいな夜景を港の水辺の表面に浮かべ相変わらず光り輝いていた。仕事では出張で立ち寄ることがあっても、オフィスや倉庫と駅をまっすぐ行き来するだけで、とても街の風景なんて見ていない。が、こうして休暇になんとなくたどり着いてじっくり街を見ていると、なんだか青春時代を思い出して感傷的になった。あぁあのあたりを二十歳前後の自分が一人でテクテク歩きながらバイトに向かい、自分が何者でもない大きな不安と大きな希望を胸に、一生懸命前に進もうとしていたなぁ、とか、まさに友達のハマっ子たちと一晩中飲み明かした裏通りの場末感が今もそのまま残っているなぁとか、いろいろと昔の場面が思い出される。

宿泊なんて計画外だったから、家人が慌てて予約したホテルだったが、みなとみらいの観覧車の前にあって、ベイブリッジを正面に、部屋からは美しい夜景を見渡せた。お上り(のぼり)さんとして今夜は楽しもうと思い、風呂に入ってバルコニーに出ると、缶ビールを一気に飲み干し、横浜の港を見渡した。

 もうすっかり年を取り、初老に近づいた自分は、十分に何者かになっている。さすがに四半世紀の間に、誰かにとっての何者かであり、どこかの組織にとっての何者かに落ち着いている。不安もないが新しい希望といったものも既に失いつつある。そんな感じだ。でもロスジェネとして生きて、生き延びて、しみじみ人生を味わっている。そう思った。いつだって目の前には大きな割れ目や落とし穴があり、それでもそこを僕たちは歩いている。

あの90年代の青春時代に出会った超おしゃれなハマっ子たちは今何をしているのかな?きっとおしゃれな大人としてこの横浜のどこかで暮らしているんだろな。またいつか会えるといいな。なんてちょっと酔いが回りながら、夜景をみてそう思った。

ダメだダメだ。こんなとこで感傷的になっていてはダメだ。まだまだ人生は続き、まだまだ厳しい時代を、僕たちは死ぬ直前まで必死で働き続け、明るく生きて行かなきゃいけない。

僕はバルコニーから部屋に戻ると、もう一本缶ビールをあけた。こういう気まぐれ旅行をニコニコひっついて来て楽しそうにしている家人がそこにいた。

「何を思い出していたの?」

「別に」

明日はまた、数百キロを無事にこの人を乗せて家に帰らなきゃね、なんて独りごちて、僕はまたビールを飲み、90年代の若者だった自分に語り掛けていた。そしてベッドの上に寝転んだ。

 すっかり年をとってしまった自分がここにいる。

 

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