失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

アラン・シリトーの「長距離走者の孤独」はランボーの「永遠」という一編の詩に帰結し、地方都市の若者は東京を目指すということ

 ストーリーの中身そのものというより、文体の美しさとか躍動感でどんどん読み手をその世界観へ引き込んで行く、そんな小説がある。

和文学でいうところの谷崎潤一郎であれば「母を恋ふる記」という作品なんて、ようするに自分が見た夢の話をタラタラ書いただけなのに、それはもう驚くほど美しい文体であり、切ない一個の叙事詩になっている。ストーリーそのものに特に工夫はない。ただただ文体の美しさの中に読者は吸い込まれて行くのである。

 その点、「疾走感」というコトバがぴったりの文体で書かれているのが、アラン・シリトーの「長距離走者の孤独」という短編である。長距離走者の話で疾走感なんて、まるでウクレレを弾きながら「ハワイの夕暮れ」という題名の曲を演奏するようなもので、そのままじゃん、と言われれればその通りなのだが、その瑞々しい文体は英語の原文を読んでも主人公の焦燥感や息使いまでが伝わって来そうな迫力をもって、非常に読後感が気持ちいいのである。

 窃盗の罪で感化院(少年院)に入ったスミスが、院内のクロスカントリーの選手に抜擢されトレーニングに打ち込み始める。院長の大きな期待を受けながら院の代表として競技大会に参加し、2位以下を大きく引き離してゴールまで近づくのだが・・・・そんなストーリーだ。

 10代の少年の反抗的でパンクな精神は「疾走感」というテーマとよく似合い、これまでもいろんな形で表現されて来た。が、尾崎豊とかホットロードとかは10代の少年少女がやるから様(さま)になるのである。オジサンが疾走感をやると、現実には現実から逃げ出した、だからと言ってそこに瑞々しい反抗心とか壊れそうな繊細な不安とかがもう残っている訳でもない(年を取って面の皮が厚くなっているので)、ちょっと薄汚れたプライドがそこに見え隠れしているだけである。なので、映画の「ライフ」(監督+主演 ベン・ステイラー)みたいなファンタジーや、ミスチルの「くるみ」のMVみたいな名曲に乗ってこそ初めて人様(ひとさま)に受け入れられるのであり、もし現実でオジサンがこの「疾走感」をやると、「あぁ、会社がホントに嫌だったんだね、逃げたかったんだね」くらいの残念な扱いで終わる。まったく小説にも曲にもならない。

 ところで、疾走感の行き着く先はいったいどこだったのだろうか?

 結局、若者だった僕たちはそこに到達したのか?

 もう何もいらない、迷いも不安も抱えながら幾夜も乗り越え、僕たちはただ光を放つ方向へ向かって走って行く、なんて類(たぐい)のティーンエイジャーの疾走感は、もっと古いところでは、ランボーの詩集でも味わえるし、有名な「永遠」という彼の一編の詩は、いわば若者が疾走した最後に行き着くゴールを示したような陶酔感の極みだ。

なので、高校生だった僕は、ランボーの文庫版詩集か、それともこのシリトーの「長距離走者の孤独」の文庫をジーンズの後ろのポケットに入れて持ち歩き、授業中、または授業をサボってやって来た映画館のロビー、なんとなく電車に乗ってずっと乗り続けてたどり着いたよく知らない山奥の駅舎のベンチなんかで、繰り返し読んでいた。

あるいは昼休みの学校の中庭で独りで、図書館の隅の夕暮れに照らされた窓辺の椅子に座って独りで、その疾走感を繰り返して読んでいた。カバーがボロボロになり裏からテープで貼って、それでもなぜか縋り(すがり)付くように繰り返し読んだ。

若かったんだね。結局、どこに辿り着いたのか?

 覚えていない、というのが正直な感想だ。高校生だった僕は、午後の数学の授業をサボって駅に向かい、電車に乗って、乗り継いで、夕暮れが迫っても乗り続け、いつの間にか窓の外は真っ暗だった。乗客は向こうの座席に一人、老人が座っているだけで、電車は闇の中を静かに走り続けていた。

衝動的になんとなく降りた駅は無人だった。しまったと思ったけどもう遅い。夏の蒸し暑い風が顔に当たって不快だった。自動販売機さえないぞ。僕は駅の反対側のホームへ歩いて行き、時刻表を見たら次の電車が1時間後にしか来ないことを知る。駅の周りは何もなく、林の中にポツンと駅舎があるようなそんな場所だった。ベンチに腰掛け、ポケットから文庫本を取り出し、また読み始める。そうそう、この「長距離走者の孤独」は短編集で、他にもイングランドの場末感のあるさまざまな舞台で、人々の暮らしや人生が魅力あるストーリーとして語られ、何回読んでも飽きないのだ。

 そしてふと目を上げると、プラットホームの天井の蛍光灯に夏の虫たちがたくさん集まり、競って回転し、ぶつかり、ホームの上に落ちて、くるくる転がっていた。なんということはない、恐ろしく平凡な行動で、光の周りを群れをなして回転して飛んで、次々と落ちていた。僕の足元にそのうちの一匹が転がって来る。たくさんの虫たちの中の平凡な一匹が、大量生産されて生きて来た虫たちの中の平凡な一匹が、こうやって疲れて地面に落ちて、苦しみながら地面を転がっている。そしていつか動かなくなり死んで、亡骸は風に飛ばされ線路に落ちて、粉々に轢かれ、土に帰る。僕はじっとその虫を見ていた。薄暗い駅のホームのベンチに座って、目の前で回転するその平凡な虫を見ていた。そして、あぁこんな田舎で年をとって死んでいくのは嫌だな、東京へ行こう、って思った。

 という、ありがちな地方都市の青春の一幕である。今はもうその駅は閉鎖されツタに覆われ、電車は通過するだけだ。でも今日もどこかでどこかのティーンエイジャーが、そんな決意を胸に都会へ、そしてこの古く腐っていく国の外へ、いつかは飛び出していくんだろな、なんて想像しながら車窓の外を眺めている。

 

 

スポンサーリンク

スポンサーリンク

スポンサーリンク