失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

ブタメン焼そばの豚の顔に挨拶することと焼き物の美しさを味わうことは同じ芸術の鑑賞であるということ

 家人がやたら食べ物を買い溜めしたがるので、台所に買い物袋が並べてあって、そこからカップ麺やその他のレトルトの包装が見え隠れしている。毎朝、僕はそこでコーヒーを入れて立ち飲みしてから会社に行くのだが、見え隠れしているインスタント食品の一つにエースコックブタメン焼そばがあり、その真っ赤な包装イラストがもの凄く豪快で、マスコットの豚の顔が、いつもコーヒーをすすっている僕を見上げている。毎朝、顔を合わせるうちに僕はその豚に「おはよう」と挨拶するようになり、なんだか愛着が湧いてしまった。そしてこういう製品の一つ一つにも開発の段階で企画会議があり、何度も何度も打ち合わせを繰り返した結果、こんな豪快なイラストと豚の顔が誕生したはずだ。この豚の顔を描いた人はどんな人だろう?どんな気持ちでこの商品を世の中へ送り出そうと意気込んだのか?そんな事を考え、色々と作り手側の創作している姿を想像し、明るい気持ちでコーヒーを飲んでいる。このあいだ一つ食べたけど、昭和のインスタント焼きそばの素朴な味がして、本当に美味しかった。他愛もないけど、これは日常の中でしみじみ味わう、一種の芸術の鑑賞である。

 話は変わるが、実家の客間の戸棚の上に信楽焼の一輪挿しが昔から置いてあった。昼間は普通の小ぢんまりした器にしか見えないのに、その客間で中学生の僕が夜更かしして本を読んだり勉強したりしているうち、深夜の蛍光灯の光に照らされ、妖しげな美しさが満ち溢れて来て、不思議な気分で眺めていた。当時は、谷崎潤一郎とか三島由紀夫とかを筆頭に昭和文学にドップリつかっていた時期だったし、小林秀雄にハマり始めていた頃だったから、余計にそんな風に通(つう)ぶった、ちょっと大人ぶった感覚で「やきもの」を見ていたのかもしれないけど、でも大人になってからも、なんとなく「やきもの」が好きで、ありきたりな表現だけど特に陶器の土の温かみが好きで、個展とかあれば立ち寄るようになった。

 家人とデートする時も、日本各地の焼き物の街を訪ね、眺めて回った。別に買ったりはしない。ただただ、所狭しと陶器が並べられた店を入っては出て、入っては出て(焼き物の街はだいたいこういう店が集まって通りに建ち並んでいる)、ちょっと疲れたら喫茶店でコーヒーを飲み、あぁやっぱりこんなとこにある喫茶店のコーヒーカップだから、当然〇〇焼きだよね、なんて話しながら時間を過ごした。「やきもの」の街はどこも高齢化が進んでさびれている場合が多いけど、それも含めてプラプラ歩いているだけで雰囲気に趣があり、気持ちが洗われる。もう使わなくなった登り窯とか、大量に捨てられた器の破片の山とか、全部が風景の一連のセットになっていて、何時間いても飽きないのが「やきもの」の街である。

 家を建てたとき、食器棚も新調して備え付けたが、子供のいない二人暮らしで、食器も少ない。それまで住んでいたアパートから持ってきた食器を全部収納したら、なんとガラス戸の中に入れるものが無くなってしまった。そりゃそうだ。僕たちはファミリータイプの食器棚を買っていた。計画性ゼロである。でも大は小を兼ねるというからいいか、なんて考えていた。

 が、そのうちさすがに気になって、家人が集めていたコンビニの景品(リラックマカップなど)を入れてみたが、それでもガラス戸の中の右半分しか埋まらない。

 そうだ、せっかくだから左半分はギャラリーみたいにして、自分のお気に入りの「やきもの」でも集めてみようと思った。ヤフオクで探し始める。益子焼織部焼志野焼信楽焼伊賀焼、京焼、備前焼萩焼唐津焼。僕は好きな作家の作品を見つけ、こつこつ落札して集めては、ガラス戸の中のミニギャラリーに飾って行く。

 ところで、「やきもの」は窯の炎で釉薬(ゆうやく)や土の生地の色が七変化するので、その偶然性を楽しみに作家は窯へ作品を入れ、薪をくべる。いわば炎と作家が協業して芸術を作り上げ、成功すれば個展で陳列され、失敗すれば窯から出された直後に叩き割られるというのがこのアートのプロセスだ。なので、やっぱり炎の効果が焼き物のアートの価値を構成する重要な要素となり、作家の手触りで世界に生み出されたフォルムにどれだけ炎が不思議な色合いを付けてくれるかが鍵となる。

 そういう意味で、僕が特に好きなのは伊賀焼である。ビードロ釉と呼ばれる釉薬が高熱によってガラスに変化し、作家の手触りで形となった土の器の表面の一部を美しくコーティングする。僕がヤフオクで落札したのは、谷本光生という伊賀焼の大御所が作った茶碗で、初めて手にした時、なによりそのビードロ釉の美しさに圧倒された。変な言い方だけど「美しさの迫力」ってこういうのを言うのかな、なんて思った。伊賀焼アシンメトリーが特徴で、作家によっては極端に左右のバランスの崩れを強調してフォルムを作る人もいるが、この大御所は奇をてらわずにあくまで淡々と形の良い端正な器を作り、炎を信頼し炎と共演している。穏やかな人柄だったらしいけど、だからなおさらアーチストとしての凄みを感じる作品だと思った。凄腕の剣豪が普段ニコニコしているのに似ている。

 ブタメン焼きそばの豚の顔と、伝統的な焼き物の大御所の美しい器を並べるのは不敬かもしれない。怒られるかな?

でも、僕は確信犯としてこれを並べて論じ、確信犯として同じようにこれを芸術の鑑賞と呼ぶ。それが大量生産されるものであっても、作家による一回きりの創作であっても、僕たちの生活を明るくし、僕たちに生活をしみじみ味わせてくれるものは、等しく人生にとって大切なものだ。この視点を見落とすと、人生を無駄にする。崇高な芸術と低俗な芸術がある訳ではない。崇高さも低俗さも、それが作品に反映され、その向こう側に創作に賭ける作り手の姿と情熱を思い浮かべて楽しめるなら、我々の人生にとって大切な芸術である。

僕は今日もコーヒーを飲みながら豚の顔に挨拶し、食器棚のガラス戸を開けて大御所たちの情熱の結晶をしみじみ眺めている。

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