失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

人生に特に意味や目的はないが食べる料理が美味しいので人生は生きるに値すると確信をもって言えること

 人間は37兆個の細胞で出来ていて、脳とか心臓は別だけど、大半が数年で入れ替わるらしいが、入れ替わるべき新しいものはどこからやって来るかというと、口から入って来る食べ物だ。だから生きるということは食べ物を食べるということだと言われる。でも、どうせなら美味しい食べ物(料理)が食べたい。美味しい料理が食べたいというのは、なんだかちょっと卑しいイメージがあって、昭和のステレオタイプだと、美食家としてちょび髭を生やした太った男の映像が思い浮かぶくらいだ。食いしん坊というコトバにもあんまり崇高なイメージはない。でも人は生きていく中で、生きがいとか自己実現とかいろいろ悩んだ挙句、最終的には「おいしいものが食べたいよね」に落ち着いて行く。なぜなら人間の人生に特に意味はなく、目的はないからである。

 マズローの5段階欲求説では、生理的欲求→安全欲求→社会的欲求→承認欲求→自己実現欲求、の5段階で人間の欲求の次元は上がって行くことになっている。

1.食べたいよぉ~(生理的欲求)

2.痛いのは嫌だよぉ~(安全欲求)

3.仲間に入れてくれよぉ~(社会的欲求)

4.もっと褒めてくれよぉ~(承認欲求)

5.生きる意味を教えてくれよぉ~(自己実現欲求)

まぁだいたいこんな感じだ。高校生の頃に岩波新書の何かの本でこのマズローの5段階欲求説を知って、なるほどそうかぁ、なんてひどく感心したけど、そのあと長々と生きて、平均寿命の半分を越えた瞬間、うーん、違うな、こりゃ続きがあるぞ、なんて思った。5段階目以降というのはこうだ。

6.あれれ、生きる意味なんてないじゃん(自己実現欲求くそくらえ)

7.それってどうせ社交辞令だよね(承認欲求くそくらえ)

8.なんか・・会社やめて一人で農業したいなぁ(社会的欲求くそくらえ)

ということで、5段階まで上がって行った欲求は、年齢と経験を重ね、人間の人生に特に意味はなく目的がないことを腹落ちして以降、順番に元に戻って行く(下へ降りて行く)のである。そして残りの安全欲求(痛いのは嫌だよぉ)と生理的欲求(食べたいよぉ)だけが残る。これが中年ってやつだ。

まだ老人ホームでチューブに繋がれて生きている訳ではないので、安全第一である。痛いのは絶対に嫌だ。事故に遭ったり病気にならないことを日々祈っている。だって、痛いのは本人にしか分からないし、本人以外に伝わらないし、従って、単に本人が苦しいだけの、本人だけが損をする話だからである。こいつは避けたい。だから中年の車の運転は安全第一である。僕たちは日本という安全な国で暮らせることを何よりも幸せに感じている。とても窮屈だけど。

一方、生理的欲求の大御所は睡眠欲、性欲、食欲だ。でも、人生の折り返し地点に立ってからは、どうせ休みの日に目覚まし時計をセットせずに眠りについても、朝早くに目が覚めて、そこからちゃんと眠れない。浅い眠りしかできず、若かった頃のように「泥のように昼まで眠る」楽しみにはならない。従って欲求の筆頭には上がって来ない。そして性欲は言わずもがなだ。それが欲求の筆頭だったのは10代から20代にかけてであり、あとはどんどん遠慮気味に後退して行って、今や草葉の陰で静かに控えている。

なので、人生の後半の生理的欲求の筆頭は食欲である。これはまだまだ健在。そしてこれは、たぶん死ぬ直前まで健在なんだろうなと思う。

いつか老人ホームでチューブに繋がれて生きる状態となった時、安全欲求なんて概念もなくなり、残るのは生理的欲求のみになるだろう。そうやってマズローの説には続きがあって、最後は生理的欲求の「食べたいよぉ~」だけが残って、僕たちは死んで行く。

全ては人生に特に意味や目的がないということを知ったその時から、後ろに引き返して生まれた直後に戻って行くのである。さんざん頑張って高い次元に上って来たつもりなのに、頂上で「とくに意味なし」という看板を見て、僕たちは山を下り始める。そして最後は、オムツを交換してもらい、スプーンで口に運んでもらう食事の味のみが、生きる目的となる。赤ん坊に戻って死ぬのは必然だ。

 マズロー先生。なので貴方の説が間違っていたとは言わないが、続きがあるということです。が、それが悲劇だとも不幸だとも思わない。自己実現なんて、人間が自然法則を超えた存在であるかのように、ほかの動物とは一線を画しているかのように、人間を肯定的にとらえる為のちょっと便利な装置です。それは経験が少なく不安だらけの若者には必要な装置だが、若者時代は人生の最初の頃の一時期でしかなく、決して人生の中心ではない。人間は自然法則の一部であり、ほかの動植物同様、ただ生きて死んで行くだけだから、それを謙虚に受け止めさえすれば、そんな大仰(おおぎょう)な装置を使わなくても、信じなくても、十分に日々の生活を楽しめます。美味しいものを美味しいと言いながら、好きな人とその美味しい料理を食べることが出来れば、それだけで人生は生きるに値(あたい)するのです。

 ところで、僕は普段の仕事のストレスを解消するかのように、家事をやっているので、家で料理を作るのはほとんどが僕である。家人はソファで寝そべって料理が出てくるのを待ち、食べ終わったらやはり僕が食器を撤収し、洗い、食器棚へ戻す。何も考えずにそんな作業をしている時間が、僕にはありがたいからだ。

が、家人がソファからおもむろに立ち上がって時々、気まぐれにササッと作る料理が、これまた死ぬほど美味しく、料理のセンスは勝てないなといつも思う。そう、料理は芸術の創作と同じで、努力でカバーできるところに限界があり、センスが全てなんだよなって思うのだ。最近作ってくれた料理では、ピーマンにチーズと豚肉を巻いて焼いた料理が、一瞬で作ってしまうのにサイコーの味付けとシャキッとした食感で、特にお気に入りである。

僕は出された家人のその料理を、美味しいと感じ、美味しいと口にして伝え、一緒にテレビを見て笑いながら食べる。そうやって日々の生活を味わっている。それ以上に生きる目的も喜びも、今のところ僕には不要である。

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