失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

ベティ・ブルーにみる過剰に自由な恋愛は破滅するしかないということ

 大好きな映画は何?と言われれば、いっぱいあり過ぎて悩んでしまうけど、これまで繰り返し何回も見てきた映画は何?と言われれば、ジャン=ジャック・ベネックスの「ベティ・ブルー」を挙げる。要するに好きか嫌いかはともかく、ついつい何度も見てしまう映画なのである。

 初めて見たのは大学生になったばかりの頃だ。実際にこの作品が発表されてから8年くらいたった後だったから、レンタルビデオ屋では既に「昔の名作コーナー」に並び始めた頃だった。因みにベティ・ブルーというのは英題であって、フランス語の原題は「朝、摂氏37.2度」という女性が妊娠しやすい体温とのことで、これだけで相当クセの強い監督が、相当クセの強い役者を使って、相当クセの強いストーリーに仕上げているのが十分想像できると思う。主人公の男前(ゾルグ)を演じたジャン=ユーグ・アングラードは、その後「キリング・ゾーイ」で、汚らしいハイパーダーティな役を演じた稀代のカメレオン役者だ。

 物語は主人公ゾルグがベティという女性に出会い、恋をするという単純な話である。テーマも古典で言うところのボニー・アンド・クライド、90年代のナチュラル・ボーン・キラーズに見られるような、社会的な道徳や法をどんどん逸脱して、追われながら更に激情が増して行くような、そういう激しい恋愛である。ちょっと違うのは、ゾルグもベティも基本的には社会的な道徳や法を破るということはなく、従ってボニーやクライドのように警察に追われることもなく、ただただ、ベティの激しい愛情に振り回されながら、ゾルグが新しい生活へ、新しい生活へと巻き込まれて行く話だ。ベティのゾルグへの思いは、何かに取り憑かれたような、何かから逃げ出すような激しさだったから、やはり、二人は流浪していく生活の中で、つまり、追われるような緊迫感の中で激しく愛し合って行く。

 ゾルグは小説家志望のフラフラ生きていた優男(やさおとこ)だったから、ベティに振り回され放題だった。これがこの物語の肝(きも)だ。家族との結びつきや社会との結びつきがあれば、我々はそうそう振り回される訳にはいかない。サラリーマンをしていたら、どんなに大好きな女性であっても、朝、目覚めたベッドの中で「今日もスーツ着て頭ペコペコ下げに行く気なの?あなたはもっと偉大な人間よ。あなたの上司はもっとあなたに敬意を払うべきなのよ。今日は私があなたと一緒に会社に行って、その馬鹿上司にはっきりと言ってあげるわ。俗物は俗物らしくもっと謙虚にしなさいってね」みたいな感じで言ったら、そりゃ自尊心は満たされ、すごく嬉しい一方、マジごめん、それ本気でやられたら俺、無理だわ、ごめん、さようなら、というのが普通である。我々は家族や社会との結びつきの中でしがらみを抱いて不自由に生き、この不自由さの制約の中で恋愛する。相手に理解を求めるというのは、そういう不自由さ(ごめん、急な出張が入ったから土日に予定していた旅行はキャンセルだ、みたいなこと)に対する許しを請うということである。でもゾルグはそんな制約がなかったから、自由に振り回され続けることが出来た。ベティはゾルグの雇い主を2階から突き落とし、火の灯ったランプをその家主の家に投げ込だ。二人はそのまま走り出す。果てしなく自由な、過剰に自由な大恋愛の始まりだ。

 自由というのは大昔から人間にとって哲学上の主要なテーマの一つで、それだけ人間にとって厄介な代物ということである。エーリヒ・フロムというドイツ人が「自由からの逃走」という題名そのまんまの内容に沿って、自由主義的なワイマール共和国がナチス独裁国家へなぜ変貌して行ったのか、なぜ人間は過剰な自由から逃げ出すのかを書いていたけど、そんな小難しい話は別にしても、あんまり自由過ぎると人間は不安で不安定になり、バランスを崩して過激な方へ走りがちだよね、そして立て直せないとそのまんま身を持ち崩すよね、という普通に年齢を重ねて行くうちにほとんどの人が理解する話のことだ。僕たちはある程度の不自由さの中で、ブチブチと文句言いながら、平凡に生きるのが一番幸せなのである。恋愛もおんなじだ。若くして大成功を収めたIT長者たちの恋愛はだいたい長続きしない。お金が溢れ返っているということは、過剰に自由ということだ。確かにお金がうなるほどあれば、彼女を誕生日にサプライズで自家用ジェットに乗せてどこかへ飛んで行けるかもしれない。機内でシャンパンを空ければ、この世の天国、自分たちが世界の中心であるかのような高揚感の中で、愛し合うことが出来る。が、その彼女とは最後まで添い遂げることが出来ないだろう。ボニーとクライドは銃撃戦の中で激しく恋愛の炎を燃やし尽くし、ゾルグとベティはフランス映画の瑞々しいお洒落な舞台の上で、どこまでも自由に、過剰に自由に愛し合い、走り続けた。そして結果は決まっている。いつまでも二人で仲良く暮らしましたとサ・・・なんてハッピーエンドはあり得ない。過剰に自由な恋愛は必ず破滅するように出来ている。それは人間の性(さが)でもある。

 じゃあなんで何回もこの映画を見るの?というと、典型的なフランス映画でとにかくお洒落なのだ。撮り方も音楽も、登場する人物も、衣装も、家具も小物も、登場人物が食べる料理もそれが載せられている食器も、全てがお洒落全開で、そこで主人公たちによる過剰に自由な恋愛が繰り広げられ、ついつい見入ってしまうのだ。好きとか嫌いとかじゃなく、見入ってしまう。過剰な自由はちょっとゴメンだけど、休日のちょっとした贅沢は、小市民的な自由恋愛としてささやかな楽しみになる。ベティ・ブルーはそのヒントをくれるオシャレ教科書だ。

 だから僕は、ベティ・ブルーを見返すと、時々は奮発して、安月給のサラリーマンには似つかわしくないお洒落な高級レストランで、たまには家人と美味しいご飯を食べてみたくなる。ハメをはずして束の間の過剰な自由を味わいたいのだ。店の雰囲気を楽しみ、食事を楽しむ。そして時々そんなことが出来れば、僕はそれで十分だ。過剰に自由な恋愛は素敵だが、僕の人生にはちっともいらない。

 

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