失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

現地の料理の数々に圧倒されつつ、何にこだわりを持つかで人間が生み出す文化って全然違って来るよなぁと思いながら、ドイツ製のカンペンケースを手にして大満足したこと

2023/11/04

 二十数年前の若いころに勤めていた会社に、クモンさんという日本に帰化した台湾人の女性の方がいた。

大不況の中、採用大幅減の中で入って来た数少ない若手(­=徹底的にブラックにこき使われる消耗品)の僕の事を何かと気遣ってくれて、やれ昼ご飯に1品、私の持ってきた野菜炒めを食べなさい、とか、やれ疲れから回復する健康茶を持ってきたから飲みなさいとか、それほど大きく年が離れている訳ではないから、ちょっと身内のお姉さんのような心配をしてくれる人だった。

 当時は、連日、日付が変わってから帰宅する日々で、昼休みになると僕はさっさと玉子屋の弁当を食べ、クモンさんが入れてくれた味噌汁を飲み、机にうつ伏せになって睡眠を取るのが習慣だった。睡眠は取れるときに少しでも取っておかないとぶっ倒れそうなくらいに疲れていたからだ。(フツーに月間の残業時間が100数十時間以上だった時代の話である。ついでに言うと、その半分以上はサービス残業だった。)

で、昼休み明けの直前、ふと目を覚ますとカーディガンが僕の肩に掛けられていて、向かいの席ではクモンさんがニヤニヤこっちを見ていた。僕はお礼を言ってカーディガンを彼女に返し、目の前に置かれた暖かい健康茶をすすった。

そういうささいな他人の親切や思い遣りにちゃんと時間をかけて感謝の気持ちを感じるほど実は余裕なく、僕は午後の仕事に猛然と取り掛かっていた。時代の消耗品(当時の若者は全員)だったころの話だ。

 そんなクモンさんがよく言っていた言葉を最近よく思い出すのだけど、それは次のようなものだ。

「なんて言うか、日本の文化も日本人も大好きで私は尊敬して来たけど、一つだけどうしても納得出来ないのがあるのよ。それはね貴方たちがやたら自慢している日本食のこと」

クモンさん曰く、文化というのは人間が知恵と工夫で自然のものを上手に変化させて、人間の生活や人生を豊かにして行くものだ。だから中華料理や台湾料理では、いかに「普通の食材」を究極まで高めて、見た目も味も最高のものにするかが重要であり、その工夫にこそ文化というものが読み取れるのである。

なのに、「和食」と呼ばれるあれはいったい何?確かに見た目は美しいものがあるけど、「食材が命」と言っている時点で、人間の手が食材に加わる工夫や努力を軽視した、いわば文化とは言えない料理では?というのが彼女の理屈である。

勿論、「食材が命」なので、工夫をしない訳ではない。むしろ、最高の食材を、その最高をそのまま舌の上に運べるよう、その最高を食べる側がより深く感じ取れるよう、細心の注意を払って、要するに工夫して料理するところに日本食の面白みがあるのだけど、そんなややこしい話を、この年上の異国出身の女性に対して説明するほど僕には余力がなかった。「あぁそうですか、なるほどね」で終了である。工場を走り回り、事務所に戻ってはPC画面に向かって深夜まで格闘し続けていた。一生懸命だが、まるで余裕なく働いていた若者だったのである。

 さてそれから二十数年たって、その若者はすっかりオジサンになり、相変わらず時々は工場を走り回ってPCの画面に向かって考え込んでいるには違いないけど、今や日本食とは全く縁のない中国の山奥の街に住んでいる。人生って不思議なものだ。そして毎日、否応なく中華料理をひたすら口にするうちに、時々はあのクモンさんの力説していた言葉「普通の食材を究極まで高めて」が思い出されるのだ。

 確かにここの地元の中華料理を食べていると、「普通の食材」が驚くべき変貌を遂げている。ただの野菜や魚をよくここまで美味しく、そして見栄え良くできるものだと驚かされることが多い。場末のローカル飯は費用の関係でやっぱり味重視だけど、レストランの宴会で出てくるちょっと高級な料理は見栄えをよくする技術もふんだんに使われていて「えっ?さっきの表に並べてあった食材がこんな風になるの?」と度肝を抜かれることがある。ほぼ芸術だ。

ただのカボチャがこんなに美味しく美しい料理に変身

実はこれ、目玉焼きと卵白で作ったはんぺんだけ→要するに食材は卵だけ

魚も最大限に見栄え良く盛り付けられ、皿の柄としっかりマッチ!

店の入口の水槽で泳いでいたコワモテの彼も「コレ食べたい」と指さすと・・

赤ピーマンとパクチーに彩られて美しい料理に変身!

 まぁここまで「食材」を大変身させ、味も見た目も最高のものにしてみせるぞ!というカンジは、究極、中国の人々が昔から「食べる」ことに徹底して拘(こだわ)りを持っているからだろう。その数千年の努力の歴史は圧倒的だ。「食材が命?何言っているの?」となる訳である。

 ところで話は全然変わるけど、日本から筆箱を持って来るのを忘れた。筆記用具はやはり日本製が非常に使いやすいから、大量のボールペンやシャーペンや消しゴムを持ってきたけど、それを収納する筆箱がない。近くのスーパーや百貨店に行ってもどういう訳かなく、そうか、今や中国は携帯電話で何でも買えるんだった、と思って探し始めた。

が、いざ探し始めると色々あって、どれにするか迷ってしまう。あんまり安いのもすぐに壊れるだろうしなぁ、なんて考えていると、ドイツ製の高級カンペンケースを見つけてしまった。ネットに掲載されている写真は銀色に輝いていて、なんだかとってもカッコいい。日本円で2,000円以上するし数日迷ったけど、結局買ってしまった。中国の山奥で、ドイツ製の高級筆記用具を買うという、よく分からない経験だ。

 そして到着した商品の現物を手に取ると、僕はそれがいっぺんに気に入ってしまった。写真の通りだ。重厚感があってむちゃくちゃカッコいい!

手触りも蓋を開けた時のヒンジの感触も、「あぁこれは値が張るだけあって、品質がかなりいいな」というのが一発で伝わる製品だった。こんなしょうもないことに感動出来るのだから、やはり結構、この僻地での駐在生活は慣れているとは言え、色々厳しい思いをしているのかもね、なんて独りごちてみた。

 重厚な銀色と言えば、クラシックカメラだ。昔の100%メイドインジャパンレンジファインダーカメラは全部、ネジの一本まで日本人が作っていた幸福なモノづくりの時代にあって、今でもその輝きを失っていない。日本の自宅の自分の小さな書斎の押し入れには、コツコツ集めたそれらのクラシックカメラが大切にしまってあって、きっと今度、休暇で一時帰国したら、夜中に家族が寝静まったころ、一人でまた眺めてニヤニヤするんだろう、なんて自分の姿が想像出来るのだ。

 日本のモノづくりは過剰品質に陥り、価格が高いせいで海外で勝てない、だから日本基準の品質の考え方を捨てなければ(価格に転嫁されている品質を一部犠牲にしなければ)、我々はグローバルマーケットで負け続ける、このままでは滅びる、なんて海外の現地では鼻息荒くみんなが言うし、だから日本の本社は駄目だ、こういう最前線にいる現場の我々の温度感が伝わらない、なんて昔のドラマ「踊る大捜査線」のセリフみたいな発言も会議でよく耳にするけど、まぁ無理でしょう。だって我々は日本人であり、要するに性格的に、正確さは美しさだと感じられ、正確さに基づいて達成されたモノづくりの品質の高さに感動出来てしまうのだから、そこから絶対抜け出せないのだ。性格に根ざしたものって、個人のレベルでも、会社のレベルでも、国家のレベルでも、なかなか変化出来ず、やっかいなものなのである。なんて、銀ピカのドイツ製のカンペンケースを手に、考えている。やっぱ、僕は日本人なんだなぁと、しみじみ感じるのだ。

 そう、中国人が食べることに極端と思える拘(こだわ)りがあるように、日本人はモノづくりに極端と思える拘(こだわ)りがあるのである。海外の現地スタッフを指導している際に「マジすか?そこまで細かくやるんですか?アンタら日本人はちょっと異常ですなぁ」という顔(言葉では日本人は凄いって褒めて来るけど)をよく目にするのである。が、そこまでグローバルマーケットの買い手は、高い品質を求めておらず、お金を出したいと思わず、だから我々はずっと負け続けている。はぁ~

 そんな風に、銀色のカンペンケースを見ながら考え、なんでただのモノでしかないのに、僕たちはこんなに感動したり、思い入れが出て来るんだろうって改めて思った。これは日本人が、というより我々人間が、という話だろう。たまたま、日本人は「正確さ」とか「品質」の側面でモノに対する思い入れが強いだけで、モノそのものに対して、その実際の使用価値以上の意味を持たせ、お金を支払おうとするのは、我々人間全員に共通する不思議さだ。僕は改めてそれを考え始めた。

 「ものごとは気持ちの持ち方次第」なんて生活の知恵だけど、太古の昔から議論されてきたテーマでもある。世の中って物理的な法則で成り立っているよね、性格も考え方も、それこそ「気持ちの持ち方」も、遺伝とか環境とか生育プロセスに還元されて、アナタのそのネクラな性格を生み出す脳構造が出来上がったんだよね、というのが唯物論(ゆいぶつろん)なら、その反対に、いやいや、そんなに世の中捨てたもんじゃなくて、アナタの見えている世界が狭いだけであって、もっとリラックスして周りを見渡してごらん、人様(ひとさま)の優しさとか、情熱を込めた仕事とか、全員で頑張ろうとする逞しさとか、色々見えてくれば、ウン、生きるって気持ちの持ち方次第だよねって気づかない?というのが唯心論(ゆいしんろん)だ。

で、どっちが正しいかっていうと、人間と人間が生きる世界を裏表(うらおもて)から見ているだけで、どちらが真実かというより、どちらも真実なんだろう。

※ちなみに唯心論とは別に唯識論というのもあるけど、これは「ものごとは気持ちの持ち方次第」の後に「まぁそんな人間の個々の気持ちなんて所詮、何の価値もない幻想でしかないけどね」というのが追加される、非常に殺伐とした考え方であり、ブッダから始まるいわば生きている人間が絶対辿り着けない、というか辿り着く必要もない、般若心経に書いてあるような考え方である。

 人の心も命も価値も、美も善も悪も、そして平和も正義も喜びも悲しみも全て、物の世界に還元されて、物の世界の法則に従って構成され機能しているのかもしれないが(現代科学の発展)、一方で、個人として一回限りのこの生を生きる僕たちにとって、「よってアンタらの人生や命を含めてモノの一部でしかないのよ」なんてしたり顔で言われたって、だからどうしたの?世界の真実が何であろうと、そこに何の意味も持たない自然法則が絶対王者として君臨していようと、そんなこと知ったこっちゃない。僕たちは相変わらず、アイツの顔みるのマジで嫌だなぁ、なんて怒りっぽい上司の品のない顔つきを思い出しながら満員電車に乗って出勤したり、ただの東アジアの平凡な女性の一人なんだと分かっていても(もちろんこっちも、すいません、ただの東アジアの平凡な男性ですが)、仕事が終わっていつものスタバの前であの子と顔を合わせれば、やっぱこの笑顔は唯一無二で世界一サイコーに可愛く愛(いとお)しいなぁなんて思える、世界の真実とかは全然関係ないそんな生(なま)の生(せい)を生きて、生きて、生き抜いて行かなければならない。

 だから、モノそのものの中に美を見出すというのは、個人の生(せい)の思索に太古より常に寄り添って来たそんな唯心論の極みみたいなところがあって、それゆえ僕たち人間は、ただの工業製品に原材料費と加工費と販売管理費を合算した以上のブランド価値を見出し、あるいは機能性の悪さを凌駕(りょうが)するデザインの美しさに価値を見出し、よく思い出してみれば、戦国時代から古ぼけた茶碗にとんでもない値段が付けられ、武将たちは争って(命を懸けて)それを手に入れようとしたのだ。

その上で、何に美しさを積極的に見ようとするかは、性格がモロに現れるから、国民性も露骨に反映される。古来から日本人がハレ(良い非日常)とケ(日常)とケガレ(悪い日常)の思考習慣の中で生活して来て、ケガレを忌み嫌って日々せっせと掃除するというのがやっぱり根本にあり、どうやら世界標準から見ると俺たちキレイ好き過ぎない?過剰品質?という自覚があっても、基本的にどの日系メーカーもそこから抜け出せないのは、僕たちが基本的にはキレイ好きで、品質第一で、正確に、そして丁寧に作られたものが大好きだからである。

そんなのは昭和のオジサンたちが滅んだら消えてなくなるかと言うと、いやいや、度の過ぎたキレイ好きは、やっぱり若者でも同じで、時代が変わろうとそこだけは変わって行きそうにない。日本の部下の若者も海外スタッフの若者も、確かに同じようにプレッシャーに弱くて脆弱に見えるけど、それはこっちがオッサンになっただけの話で気にならないが、うん確かに日本の若者のあの様子、清潔感満載で出社して来る彼らの自分のアパートのDIYした部屋の写真なんかを、飲み会の席で携帯電話の写真で自慢げに見せてもらったことあるけど、あれはやっぱり日本人だなぁって思うのだ。ケガレを忌み嫌う、そんなキレイ好きな性格は、これからも過剰品質と言われながら脈々と日本のモノづくりに受け継がれて行くに違いない。仮に世界で負け続ける宿命だとしてもだ。それほど性格に根ざした拘(こだわ)りというやつは、根深いのである。個人差があるにしても、いったん外へ出てしまうと、やっぱ日本人ってキレイ好きだなぁと痛感するのである。

 さて、そんな具合で僕の目の前にはドイツ生まれの銀色のカンペンケースが置かれている。ただのカンペンケースからえらいところに思索が広がってしまった。でも、この美しい製品を眺めながら、拘(こだわ)りって国民性が出るよなぁ、って思い始め、普段目にする中国人のあの圧倒的な食べる事への拘(こだわ)りを思い浮かべ、そうして、この大きな時代の転換期にあって、世界のマーケットで負けてもなおこれまで自分たちが信じてきた品質第一という価値(実はこれも単に性格に根差しているだけ)を捨てられない悲しい日本人を思った。

「なんて言うか、日本の文化も日本人も大好きで私は尊敬して来たけど、一つだけどうしても納得出来ないのがあるのよ」

まったく別の角度からモノは見えてるはずのに、なかなか気づけないということ。

が、僕たちは、世界で負け続けているからと言って、80年前の終戦直後のように、卑屈になって全否定したり悲観することはないのだろう。坂口安吾のようなヒロイックな復活の道しるべも不要だ。80年前のあの焼け野原から這い上がり、頑張って来たあまたの昭和の人々の思いや、その努力の結果として世界に広まっている日本人と日本の製品に対する印象「大好きで私は尊敬」はまだアジアのいたるところで息づいていて、ただその延長線上で、僕たちは大きく躓(つまず)いているだけである。

 真新しいカンペンケースを撫でながら、若かった頃に異国の出身の方から受けた日常のささいな優しさを、当時は全く気にしなかったその言葉とともに、僕は今頃になって、暖かい気持ちで思い出している。

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