失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

東京の雪の景色を映像で見ると、北欧映画の数々を思い出すこと

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東京は大雪になるらしい。というか今年はやたら寒く、やたら雪が降る。比較的暖かい僕の住むこの地方都市にも、今年は何度か雪が降った。

東京時代、雪がチラつくとなんとなく北欧映画が見たくなって、レンタルビデオ屋へ足を運んだ。当時は笹塚に住んでいて、会社から帰る途中、駅から出て甲州街道へ歩きながら粉雪がチラつくのを目にすると、スーパーに立ち寄って夕食の食材を買った後、アパートへ向かう途中にあったレンタルビデオ屋に入り、いろいろと借りた。そして一人鍋なんか作りながら、ゆっくりテレビデオで作品を見るのだ。「ボクたちはみんな大人になれなかった」の時代の一人の若者の話である。

 北欧映画といってもいろいろあるが、90年代であれば「春にして君を想う」が有名な作品だ。これは老人ホームから抜け出した幼馴染のカップルが、ホームを抜け出し、生まれ故郷へ死への旅路に出かける話を描いた美しいロードムービーである。作品中に映し出されるアイスランドの圧倒的な自然の風景の連続に、そこに住む人々の死生観、日本人が持つニュアンスと違う「自然に還る(かえる)」を見せつけられる、そんな作品だ。人間は自然から生まれ、自然に戻って行く、それが生と死ということ。

 最近見た北欧映画では「ハロルドが笑うその日まで」(ノルウェー映画)があり、やっぱり雪国の生活は大変そうだな、なんて思ったし、妻に先立たれて死のうとするところから始まっていて、あぁやっぱり北欧映画のストーリーにありそうだな、なんて思った。中身はものすごくブラックユーモアに富んだオシャレな作品である。

そしてこれも最近見た「幸せなひとりぼっち」(スゥエーデン映画)も、やはり妻に先立たれた老人が首をくくろうとするところから話が始まる。これは主人公の妻の墓参りの仕方(リラックスしてピクニックのように墓石のそばで過ごし、故人に語りかけ続ける)がものすごく自然でいいなぁ、なんて思った。日本の墓参りは、所作に無駄がなく短時間のご挨拶で終わる。だから主人公がダラダラと墓のそばで過ごす、というその様子がとても印象的だった。好きなシーンだ。

と言う訳で、東欧の映画はなぜか死を扱いたがる。何か理由があるのかな?

そんな大学の講義(映画論)とか、そういう類の比較文化論がありそうだけど、素人の僕は不案内だ。ただ、雪景色の中で暮らし、雪に閉じ込められた長い冬を、暖かい家の中で長時間、静かに過ごし、生と死をじっくり、そして、人生を、ゆっくり見つめ直す時間を、彼らは大切にしているのかもしれない、なんて想像している。

社会保障の税負担率がべらぼうに高い、幸福度は高いが自殺率も高い(実は日本人ほどではない)、いろいろ言われるけど、それぞれ国にそれぞれの歴史と事情があり、そもそも僕たちは「北欧」とまとめているけど、「東アジア」で日本と周辺の国がひとまとめにされるくらい乱暴な話だと思う。

だから、安易な社会論や比較文化論に陥るのではなく、フツーに「うん、そうだよね。最後はみんな一人で死んで行かなきゃ。だから残される側は誰だって辛いよね。そしてその苦しみは大昔からニンゲンが味わって来たことだし、大昔からのニンゲンのテーマの一つだよね」くらいの素直さで、僕たちは北欧映画を見ればいい。

でも、なぜこんなに扱うテーマは重いのに、北欧映画はいつだって、自然の圧倒的な美しさとか、人間の滑稽でユーモラスな哀愁とか、ある種の明るさ伴うのだろうか?この明るさは、北欧映画の大きな魅力の一面だ。

とここまで考えると、要するに雪景色の中に閉じ込められて、ニンゲンがニンゲンの生きるという事と死ぬという事をじっくり考えた結果が、こんな明るい作品として表現されるなら、ひょっとするとニンゲンの生と死の本質は、存外、明るいものなのかもしれない。それは僕たちにとって大きな希望だ。映画の主人公たちも、結局は希望を取り戻しながら生き、死んでいく。

世界は美しい自然に満たされ、人間はやっぱり身近な人間を愛し続け、いつか雪景色の中に閉じ込められても、君を想いながら幸せに独りぼっちの生活を楽しみ、いつか笑って死んで行ける。ある人はそれを人間の強さと言うかもしれない。でも僕はこれを人間の明るさと言う。

だから、僕は雪景色に厳しさとか孤独のイメージを持ってはいない。それは北欧映画から学んだこと。東京の雪景色に、あの北欧映画の数々を思い出しながら、ニンゲンが生きることと死ぬことの明るさを思い返している。希望はあるということだね。

東京はもうすぐ大雪になるらしい。

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