失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

酸湯魚の暖かいスープを飲みながら、遥か彼方のモン族たちに思いを馳せ、もっと遥か彼方にある宇宙と昔ながらのアニミズムについて考えたこと

2023/12/09

 「酸湯魚」という料理があって、貴州料理だけどもともとは中国の少数民族であるモン族の伝統料理と言われている。見た目がちょっと辛そうだが、赤いのは発酵したトマトが使われているからであり、極端に辛いという訳ではなく、冬の寒い日に食べると体の芯から温まるそんな素敵な料理だ。

ソウギョとかライギョとかの川魚の白身が入っているけど、ちゃんと泥抜きしてあるから別に臭みはなく、むしろその魚の出汁(だし)がいい感じにトマトベースのスープに絡んでいて、味が絶品なのである。

 モン族はもともと揚子江あたりに住んでいたが、国が興亡する戦乱の歴史のなかで少しずつ南下し、インドシナ半島の方も含めてあっちこっちに散らばって定住した。今も貴州あたりで大規模に纏まって生活していて、集落が観光地になっている。僕は映像で見ただけでその観光地に実際に行ったことないけど、先日、寒さに震えて外からとある料理店に入った時に、この暖かい貴州料理(料理自体は中国のどこでも食べられる)を注文した。そして陶器製のスプーンで少しずつ口元へすすりながら、遥か彼方のモン族たちにちょこっと思いを馳せてみた。

 美しい銀細工を作ったり精緻で独特なデザインの刺繍を縫うのが上手なモン族は、日本人と似ているとか、DNAを調べると日本人と同じだとか、諸説あるみたいだ。でもそんなのはどうでも宜しい。興味があるのは彼らの宗教が主にアニミズムで、もちろん祖先信仰とかもしているけど、何しろアニミズム、山や川はもちろん、木にも木の枝にも、岩や石ころにも神様がいるのである。

彼らの作る工芸品のモチーフには自然崇拝から生み出された想像上の蝶や鳥や龍が登場し、自分たちが生きるこの世界=自然の美しさへの感動と感謝が表現されている。

別にそれらを日本の八百万の神に結び付ける必要はなく、エドワード・タイラーというイギリス人の人類学者が指摘したように、そもそも人類の原初的な信仰は、「自分の周りのあっちこっちに神様がいるぞ」という素朴な類(たぐい)だったのである。インディオだって同じようにアニミズムを伝統として大切に生活の中で守り続けて来たし、きっとガチガチの世界宗教が出て来る前は、人類はみんな、「とにかく人間なんてちっぽけで、人間を取り巻くこの大地や空を仕切っている神様たちがいて、彼らは怒らせるとムチャクチャ怖く、実際、ひとたび怒らせると自然災害とか起きてむっちゃ俺たち死んじゃうから、怒らせないように何とかしよう。みんなでお供えとかしてご機嫌を取り、あわよくばお恵みをもらおう」というのをやっていたし、それを大切に守り続けている民族がまだいるということである。

 この「原初的」というのが大切で、そのあと有史以来、文明の流れにうまく乗っかった別の宗教の一部は世界宗教としてその後発展し、理論武装され、学問にまでなって権威を得て行ったけど、政治の手垢に汚れガチガチ過ぎて、もはやあんまり「人類の」もの=みんなのもの、とは言いにくくなった。違いに拘(こだわ)って相手を認められず殺し合いをする、なんていうのは「人類の」ものではなくなった証拠だ。人間存在以外の存在への素朴な畏怖(いふ)とか願いとかは、世界宗教やその亜流とは別に、やっぱり、はるか太古にみんなが「あっちこっちに神様がいるぞ。おっかないぞ」と感じていたその頃の思いにこそ含まれていた。僕たちがドキュメンタリー番組などで紹介されている世界各国のアニミズムやそれらの神話、そして神話を今も大切に守り暮している人々を目にして、いつも感じるあの暖かい気持ちや連帯感は、たぶんそんなところから来る直観みたいなものなんだろう。

 さて、僕の2度目の海外駐在は続いている。というかまだ始まったばかりだ。相変わらず中国語まみれの生活で、まぁ日本人を含めて外国人がほとんどいない場所で生活しているのだからそれは仕方ないのだけど、やっぱりお腹いっぱいで、休日には他の言語が聞きたくなる。

古い映画でいいのだ。古くて、有名だから題名は知っているけど、そういや観てないぞ、というのがいい。

ちょうど「死ぬまでに観たい映画特集」って宣伝しているし、英語が聞けるから、これを観ようって思って2週間前の休日に「ミッション」という映画を見る事にした。

 ソファーに寝そべりリモコンを手に映画を選択する。ネット社会って本当に素晴らしい。ネットがなかったら、さすがにこんな僻地での駐在生活は大変だったろう。戦後、まだネットのなかった時代に、それでも世界の奥地へ奥地へと支店を切り開いていった昭和のモーレツ商社マンたちに脱帽だ。

 さて、「ミッション」はカンヌのパルムドールを獲った86年のアメリカ映画である。学生時代によく利用していた東京の笹塚駅前のレンタルビデオ屋で「懐かしの名作」という棚に並べてあって、そのパッケージの写真を何度も目にしたけど、なんだかそこに写っているデニーロのやる気マンマンの表情にちょっと萎えてしまって、素通りし、そのまま見ないでこの年齢になるまで過ごして来た作品だ。だから、名優の若かりし日の脂が乗り切った作品ってイメージだ。きっと若者だった僕にとっては、その脂っこさに抵抗があったんだね。

今はそんな若者も、自身が脂が出尽くしてそろそろカスカスになりそうなオジサンになり、のほほんとソファーに寝そべって、時々うたた寝しつつ、作品を見ている。

 物語の舞台は18世紀半ばの南アメリカパラグアイ)のスペイン植民地で、ストーリーはイエズス会の宣教師たちの布教活動の話である。イエズス会って、よくまぁこんな根性をもって命懸けで世界の果てまで布教に行けたなぁと思うし、実際に多くの宣教師が布教の過程で原住民たちに殺害された訳で、しかも実話から着想を得てこの作品が作られたというのだから、見ていて、人間の信念というものは底が知れないと思った。「信じる」ということの底恐ろしさだ。

そして、ストーリーとか映像とか演出が、さすが名作と言われるだけあって凄いのは分かったけど、実は何より一番印象に残ったのが、枢機卿の前で原住民の少年が讃美歌を歌わされているシーンだった。要するに、こんな原住民でもしっかり布教活動の成果が出たおかげで、ここまで生まれ変わらせる事が出来たんです、という事を証明するための一種の演出なのだが、美しい歌声とは裏腹に、少年を見つめる枢機卿たち白人の目があまりに冷たく、まるで不良品を修理してやっているくらいの様子で、相手への眼差しが決して人間を見る目ではないのだ。アニミズムという概念をその100年後に規定したまさにエドワード・タイラーが、当時の流行りの進化論に基づき、アニミズムが人間の原初的な宗教であり、これが文明の発達によってどんどん「進化」して行くなんて、おバカな事を言った訳だけど、土着の神々への妄信を捨てさせ、人間でない者たちを人間にしてやる、という白人たちの傲慢で冷酷な眼差しが、当時の布教活動の根底に既にあったのだろう。この映画を通して、他のどんなシーンよりも、少年が歌うその場面が残酷だと思った。

 タイラーの進化論はともかく(そんな考え方はもうメジャーでも何でもないので)、やっぱり「原初的な宗教」というアニミズムの規定は分かり易いのだろう。そしてその点は正しいはずだ。文明によって洗練された(手垢で汚された)宗教以前に、人類は素朴に「あっちこっちに神様がいるぞ。おっかないぞ」の中で、人間以外の存在を認識し、そして同時に人間自身の認識をしようとしていた。それが原初的な形だったのだ。

だって、他者を認識して初めて自己を認識できるのだから、おっかないぞ、の向こう側に、おっかながっているちっぽけな僕たち人間って何?という命題が立ち現れるのだ。人々は自分自身を知るために、自分たちと神との関係を物語った神話を作り、神話の中で生活様式を決めて生活していた。神々の前でちっぽけな存在の人間は、謙虚に、祈り、捧げ、静かに運命を受け入れるのみだったのだ。それでよかったのである。

 ところで、話は全然変わるけど、最近の宇宙論では宇宙の膨張の仕方がどうも今までとはだいぶ違うらしい、という話が出て来ている。当初のビッグバン説ではドカンと爆発が起こって宇宙が出来たのが138億前だったという事であり、そのあと光の速さより速い勢いで膨張してるという事だったけど、最近の一部の観測と理論では、どうやら宇宙はこれまでの説の倍の267億年前に誕生し、しかも膨張の速度は膨張する方向によって全然違うらしい、という事になっている。

ありゃりゃ、最新の「自然」とか「世界」は、理論上ではとんでもない規模感だ。山に登った時のヤッホーとかで音の速さくらいは日常生活で実感できるけど、光の速度とかそもそも実感できないし、時間感覚で言えば1億年だってイメージ湧かないのに、いよいよ267億年なんて言われると全然想像できないぞ、と思うのだが、それは僕たちがまだ、こんな地球という小さな惑星の上でのみチマチマと生きて死んで行くからかもしれない。

 いつか人類が宇宙に出て宇宙で暮らし始めた時、「自然」や「世界」の概念が変わって、いわばその時の最新の宇宙論を前提にした、新しいアニミズムが生まれて来る可能性があるのだろうか?

例えば宇宙空間での生活(仕事を含め)が日常になった人々にとって、アニミズムが再び新しい宗教になるのではないだろうか?なんて考えるのだ。

つまり、宇宙の構造や流れている時間の途方もない規模を前に、人類は、ちっぽけな人間の人生になんて全く意味なんてないぞ!と今の我々も感じているような事をより一層感じ、その意味の無さはブラックホールのような深い深い闇に飲まれて行く感覚を生活実感として生み出し、それはやがて「おっかないぞ」という恐怖に変わって、それでも生きて行かなければならない、その上で意味なくちっぱけに死んで行かなければならない、という哀しみへとやがて繋がり、仕事中、あるいはシャトルに乗る通勤中、ふと窓の外に目をやって、目の前に映る無数の星々の美しさについ見とれながら、うん、でもまぁいいか、自分たちの命のそんな意味の無さも含めてこんなに美しい宇宙だというなら、仕方ないか、といつか悟れるのかもしれない。モン族が圧倒的な自然の美しさへの感動と感謝を銀細工や刺繍で表現しているみたいに、未来の人類は自分たちが生活をしている宇宙空間の圧倒的な美しさに感動し、畏怖し、諦め、穏やかな気持ちで死んで行ける可能性を持てるのかもしれない。それはきっと新しいアニミズムだ。そんな空想をしてみるのである。

だって何しろ、伝統が守り抜かれた地域で生まれて育たない限り、僕たちにとって今更、昔ながらの神話に裏打ちされた神様のおどろおどろしい話なんてホラーでしかなく(昔ながらのアニミズム)、またはどこかの神様とか天国の話なんて無理のあるフィクションにしか聞こえず(西洋の某宗教)、一方、命の無意味さに対する殺伐とした厳し過ぎる「諦めの境地」なんて生きてる人間には絶対無理だから(東洋の某宗教)、いずれも受け入れられないのが正直な気持ちなのである。

そうやって考えると、こうして地球の中だけで生活する窮屈さを感じ、一般人が簡単に宇宙に飛び出して行ける科学技術もまだなく、あぁ早く生まれ過ぎたかなぁなんて考えてしまうのだ。未来に生まれる新しいアニミズムはあと何十年後の話なのか、あるいはあと何百年後の話なのか、今は分からない。地球上の大自然とか比べ物にならないくらい、きっと宇宙には大規模で美しい光景が広がっているはずだ。そしてそこからきっと、新しい価値観や人生観が生み出されて行くんだろうなぁ、なんて考えるのだ。

 ちなみに、「酸湯魚」に入れる魚の話だけど、ライギョソウギョも食用として日本に持ち込まれ、大きい魚ゆえの強烈なアタックを楽しむ釣り人も多いみたいだが、獰猛な肉食性であるライギョは日本のあっちこっちに定住して生き残っているのに対して、その名の通り草食性のソウギョの方は一部の地域の河川域にしか生息が確認されていない。やっぱ大人しい草食性よりも、前のめりな肉食の方が生き残るのに有利みたいだね。ガンガン肉食して生き延び、人類は宇宙へ出て行かないと、と思って赤いスープをすすりながら、店員に「この魚はライギョ?それともソウギョ?」と聞いてみた。

「川で釣って来たフナ」

あぁ、フナね。肉食でも草食でもなく雑食でした。そして雑食こそ生き延びるのに一番強いんだったね。

何でも食べるよ。何でも食べて、生き残って、生きて、生きて、意味がなかろうと、こんな狭い惑星から外へ出られないで生涯を終えようと、それでも生きて生きて、そしていずれ死んで行くんだ。

 寒い冬がやって来た。僕は異国の名もない田舎で、ちょっと震えて背を丸め、暖かいスープを少しずつ飲みながら、ここから更に遠い場所に住んでいるモン族たちと、遥か彼方の宇宙の美しい景色のことを考えている。

スポンサーリンク

スポンサーリンク

スポンサーリンク