失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

路上で賑やかにご飯を食べている異国の家族たちの様子を横目で見ながら、映画「シェルタリング・スカイ」に出てくる夫婦と三島由紀夫と、そして自分の大切な人を想ったこと

2023/08/03

 中国の文化の大きな部分に食(しょく)が占めているのは有名だけど、実際にこちらで市井(しせい)の人々と接していて、彼らの食(しょく)へのこだわりを見せつけられると、なるほど、頭で理解している以上に、この国では「食べる」ということが人生で大きな意味を持っているんだなぁ、と改めて気づかされる。

 例えば日本人が出張でこの国にやって来て、朝から工場でいろいろと技術支援をしながら働き、昼休みになった時に「いや、ボクは日本でも昼ご飯は抜いているんで昼食はいらないです。午後から眠くなっちゃって集中力が落ちるんでコーヒーだけでいいです」なんて言った日には、ナショナルスタッフはみんな目を丸くし、食事を抜くなんて貴方は何の為に生きているんですか?くらいの怪訝(けげん)な表情で見ている。食事中に仕事の話を延々とするとか、ひどい場合は食事中に上司が部下に説教を始めるとか、要するに「食べる」という幸せを味わえる人生の貴重で奥深い時間をそんなバカげたことに日本人が費やしてしまうと(昭和の日本人の感覚ではそれほど奇異ではない)、そんな不幸な人たちを不思議そうに同情の眼差しで見つめるのだ。

 或いは、休みの日に街を散歩しているとよく出くわす場面、商店街の店先(歩道の上)に簡易のテーブルと椅子を置き、料理を広げ、その店の家族がそこで昼ご飯を食べている場面があるが、家族で集まって食べるというのは大前提で、その上で、どうせなら外で食事をした方が美味しいぞ、ぺちゃくちゃ喋りながらみんなで食った方が美味しいぞ、外で食っていれば通りかかりの近所の連中もやって来て、もっと賑やかに、もっと楽しく、だからもっと食事が美味しくなるぞ、みたいな人生の知恵が根ざしているみたいで、僕は横目でそれを見ながら歩き続け、そんな事を考えている。

時代は変わり、生活は豊かになり、子供たちは日本と同様にスマホの中で生きているのかもしれないが、相変わらず、休日の昼ご飯時にはそんな店先の家族の風景が、まだあっちこっちで見られるのだ。そしてテーブルの上に並べられた金属製(ステンレス)の食器には、家族が作ったローカル飯(野菜の炒め物など)が入っていて、みんな美味しそうに箸で食べている。

 さて、2回目の駐在が始まって2か月が過ぎた。朝から晩まで中国語の中で生活していると、その反動かどうか分からないが、無償に英語が聞きたくなって、休日にはテレビで古い洋画を見る時間が多くなった。「シェルタリング・スカイ」もその一つだ。

ベルナルド・ベルトリッチは学生時代に大好きだった監督の一人だけど、そして片っ端からその作品を見たけど、「シェルタリング・スカイ」だけは見ていなかった。理由は忘れてしまった。多分、とんがっていた若者の感性の中で、あんまりにもこの作品が有名でメジャー過ぎて、敢えて避けていたのかもしれない。

一方、今は僕はただの平凡なオッサンとしてヒーヒー言いながら異国の地で働いているので、何のわだかまりもなく、素直に、「お腹いっぱいでちょっと気持ち悪くなって来たので、中国語以外の言葉が聞きたいのです」という具合に、若かりし頃のマルコヴィッチの呻くようなアメリカ英語をソファーで寝そべりながら聞いている。音楽を聴くように映画を見ている。すっかり年齢を重ね、気兼ねせずにこだわりなく何でも(中身やジャンルを気にせず)ぼんやり鑑賞できるというのは、とても幸せなことである。

 作品の舞台は第二次世界大戦が終わって間もないころの北アフリカだ。

アメリカ人の金持ち夫婦が、要するに暇と金を持て余した倦怠期の夫婦が、広大な砂漠の風景を旅するロードムービーだ。教授の音楽はもちろんだけど、何しろ映像が美しい。ベルトリッチ監督のような天才を生み出すイタリアという国は、美しさの追求、という点で群を抜いていて、ファッションにしろ車にしろ、世界のみんながこりゃかなわないなぁ、なんてため息をつくのである。ルネサンスを持ち出すまでもなく、歴史が違うのだろう。そんな美の追求の天才を次々と輩出するお国柄を反映して、ベルトリッチ監督はこの作品の中で、戦後間もないアフリカ、まだ未開で不毛で、だが同時に豊穣(ほうじょう)たる砂漠とそこに生きる人々の様子を、途方もなく美しい背景として、登場人物の向こう側に延々と映し出して行く。

 さて、この映画のテーマだけど「彼らは時間の経過を無視するという致命的な間違いを犯した」という出だしに登場する老人の言葉が全てだ。夫婦は倦怠期だから繰り返される全てに嫌気がさしていて、出来れば同じ行動はしたくない。妻は夫の夢の話に吐きそうな退屈を感じ、夫が車で移動するなら列車での移動を選び、ホテルで宿泊する時も部屋は別々にする。

が、相手を死ぬほど愛しているのだ。好きで仕方ないのである。そして退屈で仕方ないのだ。

だから、荒涼たる砂漠の大地に二人でやって来て、その広大な異世界の風景の中で、二人は熱烈に抱き合う(有名なシーン)。

二人はなぜ抱き合えたのか?それは、日常とは異なる大自然の中にあって、時間の無限を感じ、空間の無限を感じたからだ。無限へのあこがれは、世界や人生に倦んだ人間が志向しがちな魔物である。世界や人生の虚しさから守ってくれる(シェルタリング)砂漠の上の空は、ずうっと二人の向こうまで広がっていて、だから自分たちは一瞬だけ救われると錯覚したのである。

 でも世界や人生は無限ではない。時間の経過によって全てが移ろい行き、僕たちはいずれ消え行く。だから時間の経過がある以上、毎日繰り返される相手との会話も、一緒に過ごす食事の時間も、二人で車窓の風景を眺める沈黙の時間も、全て無限に繰り返されることはなく、いつか決して取り戻せない、どんなに泣いても願っても取り返しがつかくなる、実はそんな貴重な時間なのである。だがその事を忘れ、時間の経過を無視し、永遠に続くものだと錯覚して日常の繰り返しに退屈を感じ、無限へのあこがれを希求してしまうと、結局のところ「致命的な間違い」を犯して人は破滅する。「永遠になった」人間はだいたい幻想に埋没して死んで行った人間の形容詞だ。三島由紀夫もそういうカンジだったのかなぁ、なんていつも考えている。

 だから、僕たちは無限や永遠へのあこがれをもちつつ(それは人間の性だけど)、それを実践してはいけない。つまり時間の経過から目を背けてはいけない。我々は有限の生だからこそ、その瞬間に感謝の気持ちを持てるのだ。だって無限とか永遠って、要するに死=無の世界だもの。

 いやぁ、いろいろ苦労もしたけど楽しかったなぁ、一通り人生の酸いも甘いも味わって、なんとか無事に生きて来れたなぁ、マジで死ぬほどキツかった時もあったけど、逆にマジで天国!ってくらい幸せなこともあったし、ウン、なかなかよかった。あとはこっからは自分の体のあっちこっちが悲鳴を上げるのをなだめながら、ごまかしながら、まっすぐ死に向かって行くだけだなぁ。でもまぁ、いいか、楽しかったし。ありがたい話だ。

という平凡な中年の境地は、満たされた気分のまま、この有限の生に絶望せず、一方、死という無限の無機質な虚無に恐れをなすこともない境地だ。年齢を重ねて行くうちに、決してロマンティックな形でも英雄的な形でも何でもなく、普通のオッサンとして永遠になる、という境地である。三島由紀夫のように英雄的に永遠にならなくても、フツーのオッサンとしてだらだらと一生懸命生き、生き抜けば、そんな感じの肩の力が抜けた感じで永遠になれるのである。だから僕たちは、時間の経過をしっかり受け止め、毎日を生きて行けばいいのである。毎日繰り返される相手のコトバに、何気ない優しさに、それがいつか失われるものだと覚悟して、しっかり味わい感謝すればいいのである。

大半の人間は、無限にあこがれつつ、有限の生を生き、そのくせ有限であることを忘れて、まるで無限であるかのように繰り返しを退屈に感じる。

上手に生きる人間は、生が有限であることを思い続け、この繰り返しがいつか無限に無くなることを意識し、だからこそ感謝の気持ちをもって日常を繰り返せる。退屈なんかしない。

「俺は、今日が死ぬ日と毎日思って、その日を後悔ないように生きるようにしている」

大切な古い友人がメールで書いて来てくれた言葉だ。幸せに生きる人間には理由があるということ。

 有名な「ご飯食べたか?」という中国語は、デジタル化が進みすっかり様変わりしたこの国にあってもまだ基本の重要な挨拶だ。頻繁に使用される。それくらいこの国の人たちは「食べる」という毎日の繰り返しに対して、それをとことん味わって楽しみ尽くそうと貪欲であるということだ。そういう文化(知恵)なのである。だから「日本でも昼ご飯は抜いているんで・・・」なんて言おうものなら、貴方の人生はそれでいいの?くらいの見方をされるのである。

 僕は今日も、休日の昼間の街を歩いている。

店先にテーブルを持ってきて、そこで賑やかにローカル飯を食べている異国の家族たちを横目に、テクテクと歩いている。そしてあの映画の主人公の夫婦の末路を思い出し、自分自身のこれまでの人生と、毎日一緒にご飯を食べるというささやかな繰り返しの一部さえ失わせてしまった、自分の家族のことを思い出している。

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