失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

異国の八代亜紀のロックを聴きながら孔子様に思いを馳せ、天才たちの作品を思い返して人間の不思議さをしみじみ感じたこと

2024/05/08

 週末に一人で夕ご飯を食べてプラプラしたあと、よく行く音楽バーがある。その付近はちょっとした繁華街になっていて、こじんまりした豫園(上海の観光地)みたいな建物が連なり、なぜか中央に地元出身の昔の儒学者銅像が並んで、その周りを火鍋屋さんや串焼き屋さんなどの飲食店が取り囲むように密集し、更にその奥に、僕の行きつけの音楽バーがあるのだ。

どかんと中央にある銅像については、えらく立派なモニュメントで、その人物の略歴を解説したプレートまで付いているけど、読んでも僕はよく分からない。きっと地元の人々が誇りに思う立派な儒学者だったんだろう。

   

 あたり一帯に火鍋の香辛料の匂いと、羊肉の焼ける香ばしい香りが立ち込め、店の中にも外にも人が溢れて、みんなペチャペチャ賑やかに喋り、バクバク美味しそうにご飯を食べている。そう、ここは現世を楽しみ尽くそうとするエキスパートの集まり、中国の人々の国である。

音楽バーでは、ドラム、キーボード、ベース、ギターが揃ったバンドメンバーの生演奏をバックに、歌手が生歌(なまうた)を歌っている。有名な曲ばかりで聞きやすいし、バンドメンバーも登場する歌手たちもみんな若く、地方にいる無名のアーティストとは言えやっぱりプロなので、素人とは段違いの演奏力や歌唱力で、ステージを盛り上げる。僕は一人で行くから、テーブル席ではなく、いつもカウンターに座ってビールをちびちび飲みながら、そしておつまみのピスタチオを食べながら、演奏と歌を聴いている。

 一週間が終わってこうやってのんびり一人で過ごす時間が、本当に貴重だ。何もかも忘れて、ホッとする時間でもある。こういう時間を大事にしなくちゃね。

 何人かいる歌手の一人に、八代亜紀そっくりのハスキーボイスの人がいて、その歌手がロックを歌うとムチャクチャかっこいい。この人の声を聴くのを楽しみに行くのかもしれない。ついつい体を揺すって聴いてしまう。こんな声でもしブルースを歌ったら本当にサイコーなんだろうな、なんて考えながらビールを飲んでいる。

休憩を挟んで夜中まで次々と演奏される曲の大半はC-POP(Chinese Pops)で、要するに中国語で歌われる中華圏のポップスだけど、時々は癖の強いイントネーションで洋楽も歌ってくれる。その日はエド・シーランとかの曲に混ざって、ビートルズも歌っていた。しかもストロベリー・フィールズ・フォーエヴァーだ。そんな曲、いつぶりに聴いただろう?学生時代に赤盤と青盤を神棚に祀(まつ)っている奴がいたけど、きっと、そいつがいつも部屋でかけていたのを遊びに行った時に聴いて以来だ。だからほぼ30年ぶりに聴く名曲である。

Nothing is real(リアルなんてものは存在しないよ)

And nothing to get hung about(そして心配すべきことなんて存在しないよ)

Strawberry Fields forever(ストロベリーフィールズは永遠なんだ)

この曲の歌詞はジョン・レノンの子供時代の話に基づいているって事らしいけど、僕にはどうしても般若心経にしか聞こえない。意訳し過ぎだろうか?それとも既に誰かそんな説を唱えていて、ありきたりな解釈なのだろうか?

 投げやりでも現実逃避でもなく、何にもない、何にも意味はない、幸せも苦しみもない、だから大丈夫、なんて歌詞の境地は、法事の時に坊さんと一緒に読まされる(たいていボロボロになったお経の冊子をその場で手渡されて)般若心経の文字を見ながら、生きてるうちはまず無理だろなぁっていつも思う境地だ。希求しつつ絶対に辿り着かない、だから僕たちは常に矛盾を抱え、引き裂かれている。人間は矛盾した不合理な存在なのである。

 ところで、音楽バーの外に立っている儒学者たちの像で思い出したけど、かの孔子さまも音楽が大好きで、人間として道徳を完成させるためには、音楽を愛することが重要だと説いていた。孔子さまも、音楽が人間にとって特別な意味を持つことを感じていたんだね。カウンターに座りながら、音楽バーと儒学者の組み合わせなんて、不思議な縁であり、必然の縁なのかもしれない、と考えていた。

 特定の音やリズムがどうして我々を快適に感じさせるのか?その仕組みはまだ分かっていない。音楽理論を紐解けば、すぐにピタゴラスから始まる数式として音楽の解説が始まってしまって、確かに、人間が快適さを感じる音の組み合わせに法則があることは証明されているけど、さて、どうしてある特定の組み合わせを受け取った時に、人間が「気持ちいい」と感じるのか、これは脳科学の話だから、やっぱりまだまだ分からないことが多いのである。

 と思っていたら、テレビ番組でそういう脳の研究をしているアメリカの女性科学者がインタビューに答えていて、ものすごく面白い話をしていた。

 彼女によると、音楽を聴いて我々が「気持ちいい」と感じるのは、組み合わせを予測することを脳が喜ぶからだ。ここで言う組み合わせとは、ビートでもあり音でもある。ビートが組み合わさるとシンコペーションが生まれてグルーヴ感が発生し、音の組み合わせは協和音を生み出して、楽曲と呼ばれるものはそれらを繰り返す。繰り返されることで、僕たちの脳ミソは、「次もこんな感じで来るんだね!」ってまた同じビートや音の組み合わせを予測し、実際にその通りに曲が流れると、「ほらね、やっぱり来た来た!」と快感を感じる。予測して、予測した通りになった事を喜ぶのだ。

 研究の結果、このビート予測と呼ばれる脳ミソの「来るよ、来るよ、ほら来た~!」という繰り返しに対する予測の反応は、報酬系と呼ばれる「気持ちいい」の感情を生み出す脳の部位に作用し、さらに脳の運動領域にも影響を及ぼすので、ノリのいい音楽を聴くと、僕たち人間は自然に体を動かし始め、ついに踊り始める、という事らしい。

ビート以外にも、音楽にはメロディ展開とか予測すべきアイテムがいっぱいあるけど、その女性科学者が強調していたのは、脳は予測が裏切られるともっと喜ぶ、という実験結果だった。これは曲の途中で転調があったりして、「おいおい、そう来るか!予測を裏切ったね、面白いね!」という具合に、脳が更に大喜びする(快感物質がもっと出る)という事である。

 うん、確かに、ジャズなんてまさに転調天国、予測をカッコよく裏切ってこそ最高のアドリブと言えるし、逆にJ-POPの多くで使われ過ぎる、最後の最後のサビで転調させて半音上げるなんて、全然、ありきたりで僕たちの脳ミソの予想を裏切らないから、ちょっとみんな飽き飽きしているのかもしれない。

 八代亜紀の声をした女性歌手が歌いながらこっちを見て手を振ってくれた。僕はちょうど2本目のビールをグラスに注ごうとしていたところだったから、バドワイザーの瓶を片手でちょっと持ち上げて微笑み返した。

ワオ!きっと日本人ってバレてるんだろな。カウンター越しに僕としょっちゅう喋っているバーテンダーが漏らしたに違いない。

歌っているのは、「風中的承諾」という曲で、これは大昔の(僕が子供だった頃の)近藤真彦の「夕焼けの歌」の有名なカバー曲だ。まぁ、この地方都市には日本人がほぼいないから、そんなのが頻繁にやって来たら、少しは目立つのかもしれない。気を使ってくれたのかな。そしてその歌手はやっぱり声がいい。今度日本へ帰ったら八代亜紀のアルバムでも買おうか、なんて考える。

 バドワイザーって日本のビールとアルコール度数は変わらないのに、やたら飲みやすいのでついつい飲み過ぎてしまう。僕はバーテンダーに3本目を頼んだ。

 もし予測を楽しみ、予測を裏切られることをもっと楽しむ、そんな風に僕たちの脳が出来ているなら、そしてそれが芸術を楽しむ僕たち人間の身体の仕組みならば、それは音楽に限った話ではないのかもしれない。

 例えば言葉。言葉の組み合わせは文体という形で一定のリズムやメロディを生み出し、予想を裏切った文章の流れが、美しい詩として成立する。小説の世界でいえば、谷崎や三島の文章に僕たちが美しさを見るのは、美しい音楽を聴くのと同じ作用だ。

で、もっと露骨に言うと、宮沢賢治さんがいました!

風の又三郎」の「どっどど どどうど」という風を表したオマノトペ(音や様子を文字にした擬音語や擬態語)は、賢治という天才が生み出した音楽の1小節であり、彼の作品を何度も読み返したくなるのは、いい曲を何度も聴きたくなるのと同じ理由に違いない。

ランボーの「永遠」という詩も同じだ。「また見つかった。何が?永遠が」なんて恍惚とした情感から、そのあと一気に命令口調の厳しい言葉がスピード感をもって叩きつけられ、読んでいる側は、そのリズムの美しさと、予想を裏切るコトバの流れに魅了されてしまう。

 でもなぜ僕たちの脳ミソは、そんな風に予測を楽しむだけでなく、予測が裏切られることをもっと楽しむ仕組みになっているのだろう?予測の裏切りって、結局それは変化のことである。予想していたのが違ったってことは、何か変化があったということだ。そうすると、僕たちの脳ミソはそもそも、予想が裏切られるのが気持ちいいのだから、常に何かの変化を求めるように出来ているのだろうか?

それって生物学的に正解?

少しずつ変化を求める、変わって行く、っていうのが、僕たち人間が種を保存して行く上で重要なのだろうか?

 僕が小学生の頃に、普段はマンガを全く読まない兄貴が、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」の原作本を買って来た。兄貴は既に中学生になっていて、いつも勉強ばかりしていて、本と言えば背表紙の日本語さえ難しくてよく分からないような書籍を読んでいる人だったから、マンガを買って来るなんてとても珍しく、非常に記憶に残っている。作品はまだ当時、話が完結していなかったから、3巻までしか出ておらず、兄貴はその3冊を一気にまとめて買ってきて、まとめて読み始めた。そして読み終わったのを、僕も読ませてもらった。

それまでテレビで何度かその作品の映画版は見ていたが、原作本を読むのはその時が初めてだった。そして圧倒的な世界観に引き込まれ、まだ全然話が終わりそうになく、早く続きが読みたくて仕方なかった。続きはいつ出るんだろう?待ち遠しいなぁ。当時、みんなそう思ったに違いない。

 結局、原作の完結巻(第7巻)が出されたのは、なんと僕が大学生の頃だった。期間というより内容の濃さが、とんでもない大作である。たまたま遊びに行った友達の部屋に、全巻が揃えて置いてあって「あ、完結したんだ。子供の頃に最初の方を読んだぞ」なんて久しぶりに読み始め、やっぱり圧倒された。そしてご多分に漏れず、その驚愕の結末に口をアングリと開けてしまった。そんな結末なのねって感じで、平凡な読者の一人として、よくこんなの思いつくなぁって感嘆し、そして主人公がクライマックスシーンで語る言葉「生きることは変わることだ」が若者ながらに強烈に印象に残った。

「生きることは変わることだ」

はい、その通りです。

生と死の違いはその一点にあると言ってよい。もっと言うと、変わることが出来る自由を手にして、初めて僕たちは生きていると言えるのである。

もし仮に誰も憎しみ合わない、苦しみがない、そんな素敵な天国があったとしても、いったんそういう「サイコーに幸せ」な価値が固定してしまって、それが最終目標になってしまえば、僕たちは生きているとは言えないのだ。生きることの最終目標として何らかの意味を固定してしまうと、それがどんなに理想的であったとしても、僕たちは別の価値を生み出す自由を失い、自ら変わって行けるチャンスを失い、変わって行く環境に適合できずに、いつか種として滅びるかもしれない。こういう文脈での「自由」は、ドストエフスキーが滔滔(とうとう)と長い長い自分のお話(小説)で書いている。

 だから、少しずつ変化を求める、変わって行く、を求める僕たちの脳ミソの仕組みは、実は生物の重要な機能として当たり前に備わっているのかもしれない。予測を裏切られて気持ちいい、なんてちょっと変態チックだけど、種の保存という意味では大切な武器かもしれないのだ。

 ところで、僕がランボーの詩を初めて読んだのは高校生になってからだ。くだんの「永遠」という作品も、やっぱりご多分に漏れず、なんてカッコいい作品だろうって、いろんな翻訳版で読み、いつか自分もこんなカッコいい詩が書けたらなぁ、なんていつもカバンに詩集を入れて授業に通っていた。十代の頃の懐かしい思い出だ。そしてまさにランボーが見つけた「永遠」は、太陽が海に溶けて行く美しさの中で、意味が固定され、意味が固定されるってことは、生きるとは正反対、つまり死を意味していた。

 だから、歴史に名を残す天才芸術家たちって、やっぱり凄いなあって思うのだ。変化を一切拒絶した永遠(死)をテーマにして、ランボーは、予測できない変化(生)を言葉のリズムに与えることで、一篇の詩を作ってみせた。僕たちは、永遠や理想郷という死にあこがれつつ、常にそれをぶち壊して(裏切って)、新しい意味を求め生き物として変化し続けながら生きて行こうとする。そんな風にいつも矛盾を抱え、引き裂かれている。どこまでも不合理な、不思議な生物なのである。天才と呼ばれる詩人は、そんな人間の真実を、一篇の詩で突き止めてしまうのだ。

Strawberry Fields forever(ストロベリーフィールズは永遠なんだ)

でも僕たちの脳ミソは永遠を拒否し、予想を裏切って変わって行くことを望んで、ビートルズの曲をまた聴きたいなって思わせる。音楽の効用である。般若心経の境地なんて、生きている人間にはとても到達なんか出来っこないんだよね。

 いつの間に休憩時間になって、店内は明るいBGMが流れ、バンドメンバーも歌手の人たちも控室へ戻って行った。さて僕もそろそろ帰らないと。

さっきの八代亜紀が控室から姿を現し、ふらっとカウンターまで近づいて来て、バーテンダーに何か酒を作ってくれとお願いしている。

シャカシャカとシェーカーが振られている間、僕は休憩中のその八代亜紀の横顔を見ていた。

まだ若いな。いつか大都会へ出て行ってもっと大きな大きなステージで歌うことを夢見ているのかな?それとも既にいったん都会に出て夢破れ戻って来た後で、こんな田舎のバーで何で私が歌わなきゃいけないの、なんて本音の中、鬱屈しながら歌っているのかな?

いかん、いかん、そんなの遠くからやって来た外国人のオッサンの想像でしかない。人間は矛盾した不合理な生き物だった。一人ひとりの人生だって、決して単純ではなく、簡単に説明できるものでもなく、だから僕たちはいつも引き裂かれている。

 店を出てタクシーに乗って帰る途中、車窓を流れる夜の街を見ていた。ハイ、息抜きは終わりです。また明日から仕事ですよ。

だいぶ酔いが回ったから、シャワーは明日の朝にしてこのままソファーで寝ようか、なんて考えながら、僕はオレンジ色の街灯に染まった異国の町の風景を眺めていた。

ハスキーボイスの歌声が、まだ耳の奥に残って響いている。

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