失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

大河ドラマを見ながら、ぜんぜんそんなシーンは出てこないのにむしろ戦(いくさ)のことを考え、僕たちは六道をしっかり生きて行かなきゃなぁと思ったこと

2024/06/17

 人それぞれなのかもしれないが、異国にいると尚更、やっぱり日本的なものがいいなぁ、なんて求めてしまう部分がある。

僕のいる東アジアの山奥の街は日本人がほぼいないところだから、やれ日本人同士でツルんでゴルフだ、飲み会だなんてな機会が無いぶん楽だけど(そういうのが一番アホくさくて嫌だ)、その分、街のどこにも日本的なものが存在しないので、どっぷり海外生活って感じで楽しい代わりに、時々はさすがに日本的なものが欲しいなぁ、なんて思うのだ。

 先日、骨付きの鶏肉(地元料理)を食べていたら、パキッて音がして奥歯の被せものが割れ、やばいなぁ、この歯はやっかいな歯で、下手に治療するとまた虫歯が再発して、いよいよ「抜かないとダメです」まで行きそうな歯なんだよなぁ、と思ったから、やむを得ず日本のかかりつけの歯科医院で新しい被せものの型を取る為に(型を取っておいて、来月に休暇帰国の予定があるので、その時に新しいものを被せてもらえるように)、ほんの一瞬だけ強行日程で一時帰国した。

 そのとき日本の家で朝ご飯に食べた納豆が、涙が出そうに美味しかった。お務め(懲役)を終えてシャバに出てきたオジサンが、食堂で久しぶりに飲むビールの味に涙ぐむのにほぼ等しい。そんな感じである。

もちろんこの異国の地でも取り寄せれば納豆も食べられるが、1個(3パック入り)で1,500円くらいするので、しかも冷凍された賞味期限切れのもので非常にマズいので、納豆なんて上海とか大都会へ出張に行って日本食を食べる時以外は、ほとんど食べないのだ。

 どんなに頑張って箸でかき混ぜても、日本のスーパーで売っている納豆みたいに、しっかりと糸を引いてくれない。本当は納豆が大好きなんだけど、まぁ仕方ないや。

 ということで、休日に見るテレビはネットの日本の番組が多く、どっぷり日本的に大河ドラマを見ている。今年の大河ドラマ平安時代が舞台となっているから、ストーリーとかは別に気にせず、時代考証を楽しんでいる。

さすがに大河ドラマだけあって、衣装とか建物とか儀式とか、ちゃんと専門家が考証しているので、もちろん議論はあるのかもしれないけど、なるほど、当時はこんな色合いの衣装だったんだ、こんなデザインの建物だったんだ、こんな華やかな儀式だったんだ、なんて思いながら「日本的なもの」を楽しめるのである。

 平安末期に武士が登場してからは、いわば「争いながら直接的な競争を通して利益を手に入れる」という現在の企業活動となんら変わらない時代となり、欲望むき出しの戦国時代を始め面白い時代になったと言えばいえるけど、今と近いだけにちょっと想像がし易い部分もあり、一方で平安以前の時代は、血の高貴さとかで貴族が権力をもって間接的に土地を支配する、ちょっと不思議な異次元の世界が広がっているから、実際にはどんな時代だったの?って容易に想像できない分、再現でもいいからビジュアルで(映像で)当時の人々の様子を見てみたいというのがある。だから、だいぶ前に平清盛が主人公だった大河ドラマも僕は時代考証が大好きだった(放映当時はえらく評判わるかったけど)。

平安以前って、今とは全く違う日本人たちが活躍していた時代の、不思議な時代の物語だ。

 が、変わらないこともあり、それは戦(いくさ)とその結果の悲惨な人々の状況である。

武士が登場する以前だって、戦(いくさ)は、要するに殺し合いのプロである兵(つわもの)たちによってやはり繰り返され、戦禍に巻き込まれた人々は家を失い、餓死や流行り病で次々と死んで行った。

 当時の京都の様子は、もっともっと後の時代の鎌倉時代直前くらいから描かれ出した六道絵巻(病や飢餓で苦しむ人々を描いた地獄絵)で見れるし、僕はそれを大昔に東京の国立博物館で見たことがあるけど、生々しく、おどろおどろしく、本当に嫌な絵だった。マンガみたいでリアリティがないから余計に、その酷い状況が想像できる、そんな怖い絵だったのを覚えている。  

 六道って、天道(てんどう)、人道(じんどう)、阿修羅道(あしゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)の6つの道だけど、生まれ変わって通る道というより、この世で僕たちが生きている世界こそが、この6つの道で出来ていると考えた方がいい。だから実際の平安時代のリアルな人々の様子(戦乱や疫病で苦しんでいるときの)が、全部そこに描かれているのだ。

 今だって、企業の利益活動は、格好いい横文字で社会貢献を取り繕ったところで究極、利益を奪い合う為に戦い続ける阿修羅道である。そして僕たちは畜生道として、他の生き物を滅びるまで獲り尽くして殺して食べ、餓鬼道として出来る限り人より豊かな生活を欲し、仮に人道から天道に足を踏み入れようとも、病を得て意味なく死ぬという事実から決して逃げられない、そんな地獄道を生きている。もちろん、そのいずれの道も、具体的な通行手段として、暴力にまみれた戦(いくさ)が必要になる。

そう、戦(いくさ)は大昔から形を変えて繰り返され、人々の人生を滅茶苦茶にし、そしてすぐにその悲惨さと虚しさはすっかり忘れ去られ、また繰り返され続けて来た。いわば、六道の世界を歩いて行くための、人間の業(ごう)だ。手形でもある。それは時代を超え、国を越え、今も地球の裏側で繰り返されている。

 って見ていたら、今年の大河はほとんど戦(いくさ)のシーンはないことに気づいた。主人公が紫式部だった。そりゃそうだね。平和でよろしい。紫式部はお父さんと一緒に越前へ行ったんだね。おぉぉ、当時の越前ってこんな感じだったの?今は高速道路に乗って真っすぐ琵琶湖の東側を突っ切って峠をあっという間に越えられるけど、当時はそこを歩いて越えるなんて本当に命懸けだったんだね、なんて想像を楽しむだけで充分である。

 僕は数年前に、小浜観光からの帰り道、下道を通って京都方面へ帰ろうと峠越えし、もちろん舗装道路を車で越えるのだから安全なんだけど、それでもクネクネと曲がった薄暗い峠道を運転しながら、道の狭さにガードレールの切れ目から転落しないかとちょっと緊張し、ようやく峠を抜けて京都の街並みを見た時のホッとした気持ちとか、ずっと寝ていた助手席の家人のあの罪のない寝顔を懐かしく思い出していた。まさに海外で日本的なものを味わう効用である。

 やっぱり大河ドラマに戦(いくさ)のシーンは必要?なんて面白くない議論だ(今年の大河ドラマについては、やっぱりそういう話があるらしい)。みんな暴力を見るのが好きだし、そういう意味では、戦争映画を観るのもスポーツ中継を観るのも同じことである。要するに人間は戦(いくさ)が大好きで、それは業(ごう)であり、決して無くならないだろうと、みんな気付いているはずだから。あくまで六道を生きる我々の通行手形なのである。

 でも本当に戦(いくさ)はこの世から無くならないのか?なんてソファに寝そべりながら、そして戦(いくさ)の登場しない大河ドラマを見ながら、のんびり考えてみる。う~ん、どうなんだろう。戦争って種(しゅ)の維持という側面ではあまりにリスクが大きくて、悲惨で、でも本当に解決なんかしない?それが無くなるなんて夢ものがたり?

 テレビの画面の中では、キレイな衣装を着たキレイな面立ちの男女が優雅に抱き合っている。そのまんま夢ものがたりだ。さっきこのドラマが始まる直前の短いニュースでは、やっぱり地球の裏側で家族を殺され、泣き叫ぶ人々のリアルな映像が流れていた。それを僕は、こんな異国の地でぼんやり眺めている。

「行っては駄目、絶対に死んでしまう。行っては駄目!」

15年前に1回目の海外駐在が決まった時、老人ホームへ訪ねて行ったお婆ちゃんが僕の腕をギュッとつかみ、そう言った。もうだいぶ認知症が進んで、既に僕がしょっちゅう会いに来る孫の一人だなんて分からない状態だったけど、仕事でアジアの山奥へ行くって言ったら、それまでアイスクリームを食べてニコニコしていたのに、急に態度が豹変(ひょうへん)し、顔がゆがみ、車いすに座ったままこちらを見上げ、僕の腕をつかんだのだ。

「絶対に死んでしまう・・」

大正生まれだったお婆ちゃんの記憶の中には、第二次世界大戦で南方に送られ、ことごとく死んで行った彼女の大切な人々がいて、その姿が急に蘇(よみがえ)り、目の前にいる僕を見てそう言ったのだろう。みんな笑顔で出かけ、そして骨にさえならず帰って来る。みんな死んでしまう。それが戦(いくさ)だ。

生き残った自分たちはどうすればこの悲しみを癒せるのか?誰も答えを見出せない。意味があったなんて言い出すのは、いつも後世を生きる人々、それも直接痛みを感じる必要のない安全な場所にいる人々だ。いつの時代も、戦(いくさ)はそれを味わった人々の人生を破壊し、苦しみをまき散らし、その悲しみの記憶は、生き残った人々に死ぬまで取りついて残り続ける。

 だから、富の再分配がうまく行かなかった時の必要悪だとか、そもそも政治の延長であって政治なんて所詮は富の分配の話でしかないとか、そんなクールな話では片付かないほど、戦争は絶望的に残虐で、絶望的に破壊的で、それは人間が生物(いきもの)として不具合があるのでは?と思ってしまうほど酷い習性である。もちろん他の動物だって殺し合いはするけど、我々のように種として全滅するリスクがあるほど大規模にはやらない。我々人間はやはり欠陥があるのかもしれない。

 この間、ドキュメンタリー番組を見ていたら、オキシトシンについて取材していた。「愛情ホルモン」とか「幸せホルモン」とか呼ばれる巷(ちまた)で人気のホルモンだ。こいつを増やしてハッピーに生きましょう、その為の生活習慣はたくさん睡眠を取って、マグネシウム亜鉛を摂取し、休日には自然の中で人と触れ合い・・・という具合である。

 が、このオキシトシン、本当の正体はそんな優しい名前で表現されるようなものでなく、まさにこのオキシトシンこそ、我々人間が戦争に駆り立てられる元凶だとのこと。

 大脳新皮質を発達させた人間とそれ以前の生き物との違いは、「共感と絆」を強く持てるという事である。自分の隣で外敵に襲われ喰い殺されている奴がいれば、「うわぁ~むっちゃ痛そう・・可哀そう」なんて共感し、「よし次は別の奴がやられそうならオレは戦おう」って棍棒を手に持って、再び現れた外敵を追っ払おうとする。そこに他者との間の絆が生まれる。そうやって他者への共感と絆の輪が広がり、コミュニティが発生し、ムラが発生し、都市が発生し、国家が発生する。で、この「共感と絆」を我々人間が強く感じられるのは、脳の中でオキシトシンが分泌されるからである。

 う~ん、確かに、子供の頃、虫かごの中で昆虫とかを見ていると、隣で外敵にパクパクと同胞が食われていても、あんまり気にしてなさそうだったし、一方で大災害が発生して「頑張ろう〇〇」なんて「共感と絆」を強調している時に、我々人間がより「人間らしさ」を感じるのは事実かもしれない。

 でも、このオキシトシンによって共感と絆が深まるだけ、僕たち人間は「外敵」に対して強烈な攻撃性を帯びるのだ。身内に対する愛情の裏返しで、身内を危険にさらす(と信じる)外敵に対しては、徹底的に攻撃し、そいつがどんな相手だとか、そいつにも家族がいるとか、あんまり気になんかしない。身内の安全と幸せのために、滅びるまでブチ殺そうとする。これがオキシトシンという「愛情ホルモン」のなせる業(わざ)であり正体だ。

 ドキュメンタリー番組では「線引きと攻撃性」という便利な言葉を使って説明していたけど、要するに自分が守るべき者たちとの間に線を引き、線の向こう側にいる敵と戦うパワーをさく裂させるのが、大脳新皮質を発達させたヒトの特徴なのである。

子連れのクマは危ないけど、まだ自分の子供を守ろうっていうレベルは規模が小さい暴力で済む。これが赤の他人の為に命を懸けて戦えるなんて話になると、ただの殺し合いではなく、「戦争」に変貌するのだ。

 じゃあ僕たちはオキシトシンの作用で爆発する攻撃性をコントロールするため、「線引き」をどうにかすればいいのだろうか?問題は線引きをどこにすればいいか、ということ?この線引きを、民族間とかでやるから僕が大学生の時、ルワンダでとんでもない大虐殺が起こり、国家間でやるからいまだに悲しいニュースが映像で流れ続けるということ?

「ありゃ風刺映画だと思うわ」

20代のころ、自主映画を作っている女友達がいて、まぁ創作に携わっている若者にありがちな感じの常にイライラした感じとか、鋭い舌鋒(ぜっぽう)とか、若いのに身だしなみに故意に気を使わないとか、いわば都会にいがちな典型的な創作家志望の人だったけど、恵比寿の喫茶店でコーヒーを飲みながら談笑したあと、一緒に映画でも見に行く、なんて話になって、貴方は何を観たいのか?と聞かれ、僕はつい「インディペンデンス・デイ」と答えてしまった。

 ヤバイなぁ、あんなおバカなハリウッド映画、この人を相手に行きたいなんて、軽薄だとか映画が分かっていないとか軽蔑されそうだぞ、でもテレビで宣伝を見る限り、おバカなアクションなりに楽しそうだしなぁ、なんて考えていたら、意外にも一緒に行きましょう、という話になった。で、映画館で見て僕は大いに楽しんだのだけど、要するに宇宙人襲来とか、隕石衝突とか、地球の外から敵がやってきてその間に線引きされれば、僕たち人間はさすがに国家間の争いなんてやめて(戦争がなくなって)、人類として一致団結できるかも、という話だ。オキシトシンによる線引きは大気圏の上で行われるのである。

「ありゃ風刺映画だと思うわ」

映画館を出て、今度は居酒屋で一緒に飲みながら彼女の口から出てきた言葉を、その時は(ひょっとすると今も)意味が分からなかったけど、ふと思い出す。

確かに、人類が団結してやっと宇宙人を打ち負かしたその原理は、国家間で今まで自分たちが繰り返しやってきた戦争の原理(愛する者の為に!)と全く一緒だなんて、人間の残念な性(さが)を風刺していたのかもしれない。

 でも実際には、宇宙人襲来とか隕石直撃とかあんまり確率論的には簡単に起こりそうにないから、その間に人類は技術をさらに発展させて宇宙へ出て、そこで暮らし始めるだろう。そうしたら厳しい環境の宇宙で暮らす人々の間に共感と絆が生まれ、特権をもって地球上でぬくぬくと生活を続ける連中との間に軋轢(あつれき)が生じて、あれ?これはガンダムの世界だ。ジオン公国地球連邦軍の戦いだなんて、やっぱり僕たち人類は、宇宙に出てまでオキシトシンの絆と共感に振り回され、戦争を始めるのかもしれない(というか始めるだろう)。

じゃあやっぱりモビルスーツで戦っているうちに、太陽系の外から宇宙人がやって来てとか、太陽がそろそろ爆発してとか、とにかく人類共通の敵が外部から現れて・・・

キリがないねぇ。

僕たちの欲望はどんどん外部に広がって行き、その中で線引きをして殺し合いを続け、う~ん、こりゃいつか滅びるかもね、なんて考えてしまうのである。

 外に広がって線引きをしようとするからいけないのでは?と想像してみる。

内部の線引きはどうだろうか?

人類共通の生きとし生き物に付きまとう哀しみという内なる共通の敵、我々は全員、年を取り、病を得て、死んで行き、いずれ意味なくそれらを経験しなければいけないと知りながら、それでも生きて行かなければならない、という哀しみは、人間の内なる共通の敵である。

あるいは六道絵巻に描かれた地獄は、逃れられない人間の業(ごう)を表現したものであり、あれこそ僕たちが生きている間に対峙(たいじ)し続ける苦しみであり、その悲しみや苦しみの前に、線引きし、僕たちは哀しい生き物として共感し、絆をもって人間同士の戦(いくさ)を止めないのだろうか?

止めない、というのが結論だ。だから戦争もきっとなくならない。

古来より、敢えて絵巻にして思い出させないといけないくらい、僕たちは日常生活のなかで悲しみや地獄の苦しみから目を逸らそうと生きて来た。それは誰も責められない。

哀しみを見ないように、忘れるように、少しでも軽減できるように、我々はそうやって生きているし、でないと辛気臭い面白みのない人間となり、幸せは逃げて行くだろう。

「何にも考えていません」みたいなバカ騒ぎのなかで、人生は心の底から楽しめるのだ。それが友人との間であれ、家族との間であれ、出来る限り忘却のなかで僕たちは人生を楽しみ、生きようとする。病気を抱えたりとか、肉体的或いは精神的な痛みを常に抱える状況にならない限り、出来る限り忘れて生きて行くのが自然の知恵だからである。

だから悲しみや苦しみという内なる敵の間に一線を引くなんてメジャーにはならない。

だから僕たちは、外部との間に線を引き続け、愛するものを愛するがゆえに殺し合いを止めないのである。

 ドラマは終わり、またニュースが始まった。日本は良くも悪くもな~んにもないらしく、アメリカで大活躍するスポーツ選手の話と、やっぱり地球の裏側の悲惨な映像のみが流れている。

あとは豪雨に注意とのことで天気予報だって。ゆっくり傾き続けて行くだけで、ホントに何にもない国なんだねぇ。

さっき携帯電話で頼んだ夕食の出前がやって来たので、僕はようやくソファーから立ち上がり、食事の準備を始めた。

この間一瞬、日本に帰った時に仮歯を作って付けてもらったおかげで、また心置きなくご飯が食べられるようになったのだ。数週間後の休暇帰国時には完成した正式な被せものを取り付けてもらい、今回のトラブルはようやく一件落着だ。

そして安心した僕は性懲りもなく、くだんの被せものを割ってしまった骨付きの鶏肉料理をまた食べようとしている。だって本当に美味しいんだもの。鶏肉と干し椎茸に、ニンニクと生姜を刻んだものを入れて、丁寧に煮込んだ料理なのである。

見た目はあんまり宜しくないけど、骨付きの鶏肉だって干し椎茸だって、本来それのみでも出汁が(旨み成分が)たくさんあふれ出す最高の食材である。美味しくない訳ないだろう。骨に気を付けて食べればきっとOK。

ハイ、僕は六道をまっしぐらに生きています。

他の生き物の命だってパクパク食べるよ。煩悩と迷いの中、いっぱい食べていっぱい笑い、いつか老人になって味わう体の不自由さや、いつかやって来る大切な人たちとの辛すぎる別れとかを、出来る限りの忘却の中でしっかり暮らして行くよ。

そして線引きはどこかって言えば、やっぱり僕は日本のサラリーマンだ。自分の大切な人たちを守るためなら、どんな惨めな思いでも戦いだと思って我慢してみせる。実際に家族を傷つけると思われる相手なら、どんな手を使ってでも戦って息の根を止めてみせる。

そう、結局のところ僕も、業(ごう)を背負ったごくごく平凡な一人の人間なのである。そしてニュースでは今も、地球の裏側の悲劇を、永久に続いて行く人間の残念な性(さが)を、繰り返し流し続けている。

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