2024/02/11
「強くなければ生きていけない。優しくなければ意味がない」
僕は学生時代に大学の寄宿舎で生活していたけど、そこはまさに「ザ・寄宿舎」って感じの古めかしい鉄筋の建物だった。
実際、戦前に建設されていて、終戦直後にはGHQに接収され米軍の宿舎にも使用された。大学の敷地内にあるその寄宿舎に、20歳前後の若者たちが地方から集い、青春を謳歌して、卒業(卒寮)して行ったのだ。部屋も廊下も今じゃ考えられないくらいボロボロで、時代は既に平成だったけど昭和のデカダン宜しく、そんな環境の中、僕たちはジャージ姿でウロウロし、毎晩どこかの部屋に集まっては酒を飲み、騒いだ。
もしちょっと一人になりたければ屋上に上がって、鉄製のフェンスにまたがり、眼下に広がる街の風景を見ながらゆっくり煙草を吸った。
20畳3人部屋、というのが寮の規則だったが、僕も1年生の時は、4年生と2年生の先輩と同じ部屋で暮らし、上下関係が厳しかったから、最下級生としてせっせと部屋を掃除し、先輩が授業やサークルから帰ってきたらお茶を入れたりしていた。
「強くなければ生きていけない。優しくなければ意味がない」
誰かの落書きだった。
部屋の木製の戸棚のドアの内側に、そんな言葉が毛筆で書かれていたのだ。いつの時代の学生が書いて行ったのか知らない。大昔の学園紛争が激しかった頃に住んでいた人かもしれないし、その後のシラケムードの学生だったのかも、バブル期のイケイケ時代にディスコで踊りたくっていた学生だったのか、それは分からない。が、迫力ある毛筆で、その言葉が書いてあったのだ。寮のあっちこっち無数に書かれた落書きの一つだった。
「強くなければ生きていけない。優しくなければ意味がない」
それが実はレイモンド・チャンドラーという有名な小説家の有名な言葉だと知ったのは、大学を卒業してからだ。子供のころから読書は大好きだったけど、偏った読書家だったので、普通の本好きが知ってそうな作家や作品を全然知らない、今もそういう感じである。
レイモンド・チャンドラーは第二次世界大戦前後にアメリカで大人気となった作家で、探偵小説などのハードボイルド作品を世に出し、後の作家たちにも大きな影響を与えた。
寮の部屋に書かれていた落書きの言葉も、そんなハードボイルド小説の主人公、フィリップ=マーロウが語った言葉から抜き取ったものだ。
マーロウはいかにもハードボイルドって感じのヒーローで、腕っぷしが強く、酒に強く、悪党どもをガンガンぶちのめしながら事件を解決する「強い」私立探偵だ。アメリカの古き良き時代にいた、バーボン・ウィスキーとキャメルの煙草が似合う、典型的な「強い」ヒーローだった。
それはおそらく作者であるレイモンド・チャンドラー自身の人生の理想像であり、自分が生み出したそんなヒーローの口から語らせたのが、くだんの言葉だったのである。
一方、本人であるレイモンド・チャンドラー自身は、アルコールに溺れやすい一面を持っていた。長く連れ添った妻シシィが亡くなるとひどく落ち込んで心を病み、5年後に後を追うようにこの世を去っている。
「強くなければ生きていけない。優しくなければ意味がない」
英語の原文を見ると色々な和訳が出来そうだし、事実、彼の作品の翻訳者の違いによって、その言葉は全然違って表現されているけど、僕はやっぱり、あの寄宿舎の部屋に書かれていた言葉が、一番すんなり心に響いて来る。
ところで話は変わるけど、中学校の歴史の先生にヒトミ先生という人がいて、ヒトミというのは苗字であって男の先生だったのだが、口ひげをたくわえ温厚な顔立ちで、実際に性格も温厚な人だった。スーパーマリオという当時の中学生がつけそうなあだ名で生徒から呼ばれていた。
僕の通っていた公立の中学校は当時、ひどく荒れていたから、廊下にスクーターを持って来てレースをするだの、屋上から熱湯の入ったヤカンを通行人めがけて落とすだの、運動場の外部倉庫の裏でリンチをやって授業中にパトカーと救急車が次々やって来るだの、4階のトイレは不良の巣窟(タバコ部屋)になっていて換気のために男子トイレも女子トイレも全部ドアが壊されてないだの、そんな毎日で、要するに昭和の分かりやすい荒れた学校だった。
中学校の不良が暴走族に就職し、暴走族から次のステップの反社と呼ばれるプロにヘッドハンティングされる、という流れが定着していて、まぁ地方都市にありがちな昭和の学校だったのである。
なので、性格が温厚過ぎる(優し過ぎる)先生の授業は成り立たたず、教室内はほぼ自習状態で、カードゲームをする奴、整髪料の瓶にガソリンを詰め替え家から持って来て自慢をしている奴(後日、自分で大ヤケドしていた)、窓辺に腰かけエアーガンで気まぐれに教室内の誰かの目を狙って撃って楽しんでいる奴、なんて無法地帯の中を、「やめなさい」って弱々しくつぶやきながら先生がウロウロするといった光景がよく見られた。
そんな具合だから、真っ赤なジャージを着た角刈りの体育教師が「生活指導」として着任し、いつも竹刀をもって校内をウロウロし、授業を抜け出して煙草を吸っている生徒を見つけては追い回しぶん殴っていた。
授業が崩壊しないよう、たいていの先生たちはちょっとでも騒ぎ出す生徒が現れたら豹変してその場で怒鳴りつけ、時には教科書の背で頭を叩き、複数回ビンタし、教室内が一瞬静まり返った後で粛々と自分の授業を再開した。荒れた学校で授業を維持する為の一種のテクニックだったのだろう。ホントにいかにも昭和の中学校だった。
さて、ヒトミ先生はそんな学校にあって温厚な性格だったから、決して怒鳴ることもせず、従って生徒たちはフツーはつけ上がり、授業を崩壊させるはずだったが、なぜかみんな彼の歴史の授業を静かに聞いていた。不良と呼ばれる連中も、後ろの席で自分の机にうつ伏せになって寝たり、弁当を食べたり、時々教室を抜け出してタバコを吸いに行くことはあったが、大声をあげて授業を中断したり、他の生徒にちょっかいを出してもめ事を起こすといった事もせず、静かにしていた。
僕はいたって普通の真面目な生徒だったが、ヒトミ先生のそんな授業の光景が不思議だった。
時々、騒ぎ出そうとする生徒がいても、ヒトミ先生がそいつの方を真っすぐ見据えて「うん、やめな」と、分かってるだろ?みたいな感じで一言いうと、その生徒は大人しくなったのだ。温厚な先生だったけど、僕たち生徒たちからは不思議な力のある人だった。スーパーマリオは普通の大人ではなく、ひょっとしたら、普段は優しいけど、怒らせたらマジで後悔するくらい怖いのかも、なんて中学生に想像させるような不思議な迫力を持った人だったのである。
ヒトミ先生の歴史の授業はいつも一人称だった。というと語弊があるかもしれないけど、事実の羅列(られつ)の中で相関関係をポイントとして抽出して「これテストに出るぞ」なんてな勉強のための授業ではなく、どちらかというと、戦国時代にこういう人物がいてな、ずば抜けて有名ってわけではないけど、これが凄く魅力的な人物でな、みたいに、ヒトミ先生が興味のある歴史上の人物の人生をゆっくり語りながら、その人物が生きた時代の背景や、政治体制や価値観を語る、そういうスタイルだった。
彼の授業を受けることで歴史が好きになった生徒は多かったはずだ。僕はもうそのずっと前から兄貴の影響で歴史が大好きだったけど、それでもヒトミ先生が紹介する人物に興味を持ち、そのあと町の図書館へ行って自分でもいろいろ調べるなんて幸せな時間を、子供なりに持つことが出来た。
だから、スーパーマリオが口ひげをもぞもぞ動かして語っていたのは、決して義経や信長や高杉なんかのスーパーヒーローではなく、平忠盛とか豊臣秀長とか山岡鉄斎とか、常に時代の裏側にあって、決して目立たないけど、でも確かに時代のど真ん中にいたそんな人物たちだったのである。
僕が歴史上の人物で一番好きなのは山岡鉄斎だけど、それはそんなヒトミ先生の授業を受ける機会もあったからだ。勿論それまで、幕末の志士や新選組のメンバーは何度もテレビや映画に登場して大活躍していたから知っていた。でも江戸末期の本当の最後の最後のしんがりを務めたこの人物のことは中学生になるまで知らなかった。
北辰一刀流を学んだ剣客だったが、その剣の強さを表に出すことなく(特別に有名なエピソードもなく、生涯一人も殺めたことがなく)、滅んで行く江戸幕府の体制側にあって、粛々と自分の立場で出来る最善のことをやった人だ。
戊辰戦争の時に、本音は「新しい時代の為に江戸は焼き尽くし、古いものは徹底的に破壊しておかなければならない」と考えていたであろう西郷隆盛が駿府まで迫り、いよいよ江戸で戦(いくさ)か、という時に、勝海舟の使者として単身、その駿府まで西郷に会いに行き、後の無血開城に至る勝と西郷の会談の事前段取りを行った。途中で斬られても不思議ではない敵地への使者である。が、山岡はそれを粛々とやり切り、しかもそれを自身の手柄にすることがなかった。勝のように「あの時はさぁ」なんて武勇伝をのちに語ることもしていない。
明治政府が出来ると出仕して知事を歴任し、明治天皇の侍従となり、その後は剣術道場をやりながらたくさんの芸術的な書を残している。幕府の旗本だったのに新政府にあっさり仕えるとはどんな料簡か、なんて心無い陰口を投げつけられる事もあったが、本人は一向に気にせず、自分が出来ることを粛々とやるのみって感じで、その時その時の仕事に全力で打ち込み、一緒に働く人々を気遣い、人々に慕われ、きちんと結果を残している。
さて、そんな山岡鉄斎の最期はどうだったか?
晩年は既に剣術・禅・書の達人として名声が確立していた人物である。末期の胃がん(当時は激痛に耐え死を待つのみだった)の病床をひっきりなしに親交のあった人々が見舞う中、いよいよ今日が最後という日に、いつも通り、弟子たちに剣術の練習を始めさせ、いつも通り奥さんには琴の練習を始めさせ、とは言ってもなかなか死なない自分のせいで見舞いに来ている皆に退屈をさせては申し訳ないと、親友の落語家に落語をやらせた。最後まで人々を気遣う人だった。優しい人だったんだね。
享年53歳。
文武に秀でた達人と呼ばれ、多くの人に愛されたこの人物の辞世の句はどんな内容だったのか?さすがと後世の人々を唸らせる、非凡な句だったのか?
「腹いたや 苦しき中に 明けがらす」
胃の激痛の中で苦しんでいるうちにカラスの鳴く明け方になっていたよ、という内容である。
え?ホントに?
そのままである。
どこまでも平凡に、決して自らを大きく見せることなく、自らの運命や使命を素直に受け止め、自分が出来ることを粛々と一生懸命やるのみ、というその志(こころざし)に、この人の凄みを見るのだ。辞世の句を初めて読んだ時に僕はそう思った。本当の強さとはそういうものなのかもしれない。
「あるがままを受け入れればいい」なんて体調のいい時にキレイごとでは言えるけど、末期癌の痛みと苦しみの中で、普通の人がそんな悟りの境地になれるものだろうか?よほど強い人間でなければ無理かもしれない。ましてや痛みに極端に弱い僕には絶対無理な話だ。きっと「とにかくこの痛みを何とかしてくれ!」って最期まで誰かを相手に泣き叫びながら死んで行くのだろう。
「武士道」というものがあるとすれば、バッサバッサ人を斬ることや、難しそうな顔をして禅の修行をしながら、時々パフォーマンス的に日本刀を振り回して演武することなんかじゃなく、または自分の大切なものの為に命を懸けたり、あっさり自分の命を投げ出してヒロイックな感傷に浸ったりするのではなく、まさに山岡がやり抜いたように、平凡に、自らの運命や使命を素直に受け止め、甘えず、自分が出来ることを粛々と一生懸命やり抜く事なのかもしれない。
「襲撃だ!シュウゲキー!シュウゲキ開始!」
黒塗りの車高を落としたセダンが物凄い轟音を響かせて突如、運動場に侵入して来た。体育の授業を受けていた生徒たちは高跳び用のマットとかを放り出していっせいに校庭の隅の方へ逃げ出し、セダンは時々クラクションも鳴らしながら、運動場を猛スピードで何度も周回した。
教室の中で授業を受けていた生徒たちはみんな、これから始まるシュウゲキの一幕を見ようと、自分の席を立って運動場が見える窓辺に集まって来た。
セダンが運動場のど真ん中でピタリと停まり、中から5人組の大男たちが飛び出して来る。みんな学ランは来ているけど、持っているのはカバンとかじゃなくて、鉄パイプみたいな類(たぐい)の武器で、およそ勉強には関係なさそうな代物である。これからこの校舎の誰かがいる教室に乗り込み、囲み、街で生意気な態度だったことを詫びさせ、他の生徒が見ている前で土下座させ、それでも許さず、泣いて許しを請おうとも許さず、やはり他の生徒が見ている前で痛めつけるのだろう。で、通報を受けた警察が到着する直前に、車にも乗らずバラバラになって徒歩で逃げ去って行くのだ。車は乗り捨てて行く。前にも何度か見た光景だった。
「席に戻りなさい」
「席に戻れ」
みんな成り行きに興味津々だったけど、ヒトミ先生のちょっとキツめの指示もあり、そして5人組も校舎の中へ入って見えなくなってしまったから、それぞれが自分の席に戻った。歴史の授業再開だ。
が、ちょっと黒板にチョークで板書を書いていたヒトミ先生は、手を止め、やがて僕たちの方を振り返るとゆっくり語り出した。
「あのな」
スーパーマリオの声は静かに、そしてマイルドに教室を響き渡る。
「あのな、ああいう連中はどこにでもいるんだ」
「先生が高校生だった頃の話だけどな、先生は高校受験に失敗して行きたかった所へ行けず、ああいう連中が牛耳っている学校に通っていた」
「ああいう連中って括(くく)ってしまうと教育者として先生は失格なのかもしれないけどな、ああいう暴力と自分の欲求が一つになった外道(げどう)ってのがどこの社会にもいてな、そういうのがその場を仕切っている事が多いんだ」
「でな、先生はその外道たちに目をつけられて毎日毎日、使い走りにされてな、あれ買って来い、これ買って来いって金をせびられて、高校時代は本当に地獄だった」
「先生も結構、体は大きい方だけど、相手のボスってのが後々プロレスラーになる人で、もし名前を出したら君たちのお父さんやお母さんが多分知っているような有名人で、当時からガラが悪く、当時から先生よりもっとガタイがよくて、誰も絶対に逆らえなかったんだ。すぐにキレるし、その場で思いついた意地悪を相手が誰だろうとやろうとするし、すぐに人を殴ったり蹴ったりする人だった」
「でもな、17歳とか18歳でいよいよ精神的にも大人になるタイミングで先生もな、さすがにこんなの納得が出来ない、そもそも自分の人生はこんなはずじゃなかった、なんで自分が毎日毎日、小突き回され続けなければいけないんだ、やっぱりあんな外道たちが野放しになっているのは世の中が間違っているって思って、卒業間際に一度だけ反抗したことがある。」
中学生たちからすれば「大人の体験談」である。「大人の暴力」は「大人の性」と同様に、こんな刺激の強い話はない。教室の中でみんな固唾(かたず)をのんでヒトミ先生の話に聞き入っていた。
「入院した」
「自転車の空気入れで後頭部を叩き割ってやろうと持ってったけど、取り上げられて逆に笑いながらボコボコにやられた」
「暴力に対して先生は暴力で勝とうとしたんだけどな、暴力っていくらでも上があるし、もしその場で勝ったとしても、さらに次の暴力の世界があるし、あんま意味ないんだよな」
「何カ月も入院しながらそう思ったんだ」
「だから外道はどこにでもいるんだが、そんなものは放っておいて、先生なりに正しいと自分で誇れることをやろうと思ったのさ」
「高校受験に失敗してあきらめてたけど、またコツコツ勉強を始めて大学入試を受けることにした。通ってた高校はそんな外道たちの集まりで、大学なんか行く奴はいないところだったけど、コツコツ勉強して、1年浪人して、大したところじゃないけど大学に入ったんだ」
その後、ヒトミ先生は教員免許を取り、大好きな歴史を子供たちに教えるという、自分にとって正しい、誇りを持てる仕事に就いて、決して給料は高くないし出世は見込めないけど、コツコツと授業をやっている。
外道たちにも外道となった理由があるのかもしれないし、家庭環境の悪さは本人たちのせいではないかもしれないけど、外道は外道だ。教師としてそういう括り方(切り捨て方)は問題かもしれないが、自分は放っておくのだ。運が良ければ立ち直るかもしれないし、そのまま行けばどっかの都会の汚い川に死体となって浮き上がるだろう。暴力の世界はどこまでも深く、どこまでもえげつなく、だからそれだけのことで、自分は相手が子供だろうと立ち入らない。自分にはどうすることも出来ないのを知っているから。
ヒトミ先生はそんなことを語った。そして静まり返った教室を背に、また再び板書を始めた。
今思うと、ヒトミ先生も、自分の立場で自分に出来る最善のことを粛々とやっていた人だったのかもしれない。そういう人には自然と漂う他人への気遣いとか優しさがあって、自然と人が集まって来るのだろう。校長の受けは悪そうだったが、生徒には人気があった。そして、どんな不良も手を出さない不思議な迫力のある人だった。
「強くなければ生きていけない。優しくなければ意味がない」
人はそれぞれの制約の中で人生を選び、選んだ人生それぞれの中で、本当の強さとは、本当の優しさとはを考えながら、不条理の世界を生きている。
30年前に暮らしたあの寮はまだ横浜の小高い丘の上にあるみたいだけど、中身はすっかりリフォームされているだろうから、もうあの毛筆で落書きされたフィリップ=マーロウの言葉は無くなっているに違いない。
青春を謳歌したその場所にあって、その時は誰の言葉かも知らず、意味も深く考えなかった落書きの言葉を、自分の選んだ人生を半世紀生きて来た僕が、今しみじみと思い出し、自分なりに強く在りたいなぁなんて、しみじみ考えているのである。