失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

大昔の受験戦争とそれを潜り抜けた英雄の物語を知ったけど、結局、英雄の生きざまではなく、自分は凡人としてダラダラ幸せに生きて行くんだなぁと思ったこと

2024/01/15

 珍しく晴れ上がって青空が広がっていたので、休日にコートを着て近くを散歩した。大昔の時代の儒学の学校である「書院」というのが、中国のあっちこっちに復元されていて、そこら中で大なり小なり観光名所化され公園などになっており、そのうちの一つが住んでいるマンションの近所にあるので、初めて散歩に行ったのだ。

 書院は川の中州に復元されており、屋根付きの橋を渡って歩いて行くのだが、これがまたいかにも大昔からあったかのような豪華な見た目で復元されている。地方都市も含めて、お金のあるうちにこういった観光施設をあっちこっちに作ってしまう、というのは我々の国も35年くらい前に経験したなぁ、なんて考えながら僕は橋を歩いている。 バブル期に建てられた妙に豪華な建造物が、日本のあっちこっちで無人のまま老朽化して、社会問題になった時期が少し前にあったっけ。

  

 書院は昔の儒学の学校と言ったが、宋代以降は私塾として発展し、朱子学陽明学を市井に生み出した。当時は科挙制度全盛でとにかく試験に合格さえすれば立身出世の道が約束されていたから、野心のある若者たちはこの書院に通って、死に物狂いで勉強したらしい。

 橋を渡り終えたあと、更にテクテク奥まで歩いて辿り着いた「書院」は綺麗に整備され、まるで美術館みたいに復元されていた。僕は中に入って展示物やパネルを一つ一つ眺め、ゆっくりと広大な回廊を巡った。

 宋の時代って武断政治から文治政治への転換期って昔、歴史の授業で学んだけど、辺境を守っている武官たちが大抵、次第に力を持ってやりたい放題を始めて、調子に乗って中央の都に攻め上り、遂に国が傾く場合が多かったから、いかんいかん、やっぱり試験で頭のいい奴を雇って官職を授け、そういう高級官僚を辺境に派遣して、そこにいる暴れん坊たち(武官たち)を上手にコントロールさせよう、という、要するにシビリアンコントロールのことだった。だから、武ではなく文で治める、という考え方だったんだね。

 でも、武官たち(暴れん坊たち)がそもそも辺境を守っていたのは、その向こう側にいっぱいいる北方民族の侵入を防ぐ為であり、これがまたもっと輪をかけて暴れん坊たちだったから、文治政治とか言っているうちに、馬に乗って何度も攻め込まれ、お金をあげるから許してねって交渉をしたが、ついに北半分をうしない(北宋の滅亡)、結局、南に残った国も、最後に暴れん坊の親玉だったフビライに攻め落とされて滅んだ(南宋の滅亡)。

 だから宋代というと、ちょっと脆弱なイメージだが、実は南北の時代を合わせると300年も続いており、その間、農業技術と土木技術の飛躍的な発展、未曽有の経済繁栄があり、火薬・羅針盤・印刷術という三大発明があったのもこの時代だ。この時代は絵画の世界でも、宮廷画とは別のもっと自由な絵(美しい自然の風景を対象にしたり)を描くのが流行って、文人画として成立し、日本の水墨画にも大きな影響を与えた。実は「お金あげるから許して」の裏側で、平和が維持され、商工業が発達し、文化が発展した上で、人々の生活水準も一気に上がった豊かな時代だったのである。

 さて、こうして、大昔に学校の授業で習った内容を思い出しながら近所を散歩している僕の2度目の海外駐在は、もうそろそろ半年以上がたつところだ。逆に言うとまだ半年ちょっとだ。決して暇ではなく、休日こそ、こんな風にプラプラしているが、平日は朝から晩まで、むしろ仕事に忙殺されているのに、時間がたつのが妙に遅く感じられるのは、僕がもう年を取り過ぎたからだろう。まだ若さが残っていた1度目の駐在の時に味わったあの忙しさは、何もかもに対してがむしゃらで、言葉の問題もあり、どこかで常に不安もあった上での忙殺だった。

 しかし今の忙殺は、言葉の問題が解消されているだけでなく、仕事の上でもどこかに老獪(ろうかい)な開き直りがあり、不安と言えば、身体がすっかり老朽化しているので、いつか一気に崩れないかその点のみである。

 嫌だなぁ、僕も若いころ見上げていたあの上の世代のオッサンたちのように、ふてぶてしさと鈍感さの入り混じった、だらだらと時間を消費する、そしてたいていは自分の身体のことのみ心配している、しょうもない人間になってしまったのだろうか?

 若かった頃、老境に差し掛かった中年のオッサンたちが、せっかく一緒に会社の食堂で昼ご飯を食べているのに、自分たちの病気の話を延々としているのを聞いて、ものすごく不快だったけど(なんだ、コイツら。自分の身体の心配ばっかで、もう少し自分たち若者に対する配慮とかないの?こっちはずっと聞いているだけなんだけど)、要するにそういうしょうもない「生き物」になったのかと思うとゾッとした。このままどんどん自分の生(せい)にのみ固執して行けば、やがてそうやって、関心事の中心は自分の年金の金額と病院通いという、しょうもない、そして国をどんどん傾けて行った膨大な数のあの人々と同様の生き物になってしまうのではないか?

 とここまで考えたら、あれれ、大丈夫だ。少なくとも「年金」とか「病院通い」というのが、自分たちの老後にはもはや生活の中心として成り立たない事を思い出した。ちょっとした補助制度くらいのもんになるんだったね。自己責任という名のサバイバルゲームが僕たちの老後には待っているんだった。

が、年を取れば何事にもそんなに驚かず、それはひどく不安にもならないが、心から感動したり熱中することも無くなった、という事であり、一方、我々人間は「身体」に引きずられて行くのだ。富める年寄りも貧しい年寄りもそれは同じである。何かに感動し、熱中してがむしゃらになる事が少なくなる一方、毎日、あぁ今日はカスミ目がひどいなぁとか、先週ひねった足が歩くたびに痛いぞとか、そんなしょうもない事が頭の中心を占め始めるのである。僕たちは肉体に引きずられて生き、肉体に引きずられて死んで行く。人間50年を越えて行けば、やっぱり、そんな長寿は不自然なことであり、このまま「しょうもない生き物」に僕はなって行くのだろうか?それは恐怖だ。人間50年が一番よいのでは?

「ホットコーヒーを一つ」

だいぶ歩いたから、さっきから喉が渇いていた。

書院のそばにあった土産物屋でコーヒーを売っているのを見つけ、僕はブラックを一つ注文して椅子に座った。

 コーヒーを飲む文化はすっかりこの国にも定着したけど、そうは言ってもやっぱりお茶の国であり、都市部じゃない限りまだまだ田舎では飲み慣れていない人も多く、喫茶店で死ぬほど薄かったり、逆に死ぬほど濃かったりして出されるものである。

出てきたコーヒーを恐る恐るすすってみたら、ちょうどいい濃さだった。この書院は川の中州に建てられているだけあって、太陽が出ているとは言えやはり季節は冬であり底冷えがする。暖かいコーヒーが飲めるのが本当に有難かった。

 ふと横を見ると、土産物の中に書籍があって、書院→儒学儒者というつながりの中で、有名な儒者科挙で合格した高級官吏の伝記本が並んでいた。何気なく手に取って、コーヒーを飲みながら読んでみる。文天祥、あぁ知っているぞ、有名な人だね。そうか、彼も宋の時代(南宋時代)の人で、科挙試験で一発合格して立身出世した有名人だったんだ。なんて興味を持ち、もう一杯、コーヒーを頼んで読み続けた。どうせすることはない。そして2杯目が「死ぬほど濃い」上に数滴、ソーサにこぼして出されて来たので一瞬、ムッとしたけど、僕はその土産物の伝記を読み続けた。

 文天祥南宋末に現れた中国の英雄だ。その生涯は幕末の吉田松陰藤田東湖にも影響を与え、松陰は文天祥の「正気の歌」をベースに同じような漢詩を作っている。

 彼は中国の田舎の出身だけど、22歳で科挙試験(その中でも殿試という皇帝直轄の試験)を1番で合格した。科挙って合格率が3000分の1って言われる難関試験だったから、相当優秀な人だったんだろう。でもそんな風に若くしてトップエリートの官僚となったのに、その真っすぐ過ぎる性格が災いして、政治の中枢にいた宦官の腐敗を糾弾し、それが無視されたのであっさり官職を投げ捨て、そのまま地元へ帰ってしまった。間違っているものは間違っている、とはっきりとモノを言い、絶対にそれを曲げない人だったんだね。

とはいえ、当時は北方の金を滅ぼした元(モンゴル人たち)が次々と南宋を襲い国は危機に瀕しており、そんな時に限って人材がなかなかいないということもあって、文天祥は再び時の宰相に呼び戻され政治の道に戻る。が、その自分を政治に戻してくれた宰相をまた「アイツ駄目じゃん。無能じゃん」と弾劾してしまったので今度は地方に飛ばされてしまった。そして実際、その宰相は文天祥の言った通り駄目で無能だったので、南宋は大きな戦に負け続けて、いよいよ国自体が滅びようとしていた。

 せっかく科挙試験で体制側のトップエリートになったのに、「正しいものは正しい、間違ったことは間違っている」を貫き通して体制から外へ飛び出し、その後、またその体制側に戻されたけど、今度は「駄目なものはダメ、無能なものは無能」と言ったら辛酸を舐めさせられ、そんな目に自分を遭わせた体制(国家)がいよいよ滅んで行く最中にあって、文天祥はなんと私財を投じ義勇軍を募り、元と戦っている。

不思議な人だ。

科挙試験に合格しトップエリートになったのだから、体制側に入って得られる既得権益、要するに甘い汁をしっかり吸って、もし不正やおバカな権力闘争を見たとしても、「まぁまぁ、色んな政治家がいますわなぁ」なんてノラリクラリやった上で、こりゃいかん、どうやら馬鹿ばっかりで国が滅びそうだから、貯めた金を使って地元で商売でも始めようか、くらいを考えるのが普通の感覚だと思うのである。実際、南宋が滅びる直前に、文天祥の同僚のトップエリートたちは、片っ端から次々と逃げ出し、自分と自分の一族が無事に生き延びられるよう、都から去って行った。

でも文天祥はそんなフツーの人ではなかった。フツーの人だったら英雄として歴史に名前は残さなかっただろう。

 その後、南宋の皇帝(幼少だったので実際には摂政)が元に降伏し、文天祥は元の首都である大都(現在の北京)に移送される最中に脱出を決行。彼はあっちこっちで元軍を相手にゲリラ戦を展開し始めた。文官で登用されたエリートだったのに血の気も多かったみたいだ。

とはいえ、大軍を相手のゲリラ戦なんていつか終わりが来る。文天祥は再び元に捕まってしまった。その有能さと勇猛さを高く評価していたフビライから自分に仕えるよう直に談判があったが、彼はこれを一蹴し、フビライはやむを得ず、文天祥の処刑を命じる。

松陰が真似た「正気の歌」はまさにこの最後に捕まった時に獄中で書いた詩だ。

正義はこの世にはっきりと存在するのであり、自分は世の中が大変な時に生を受けたので、必死で正義を守ろうと頑張ったけど、結果が出なかった。無念だ。そんな内容である。

文天祥南宋の都の方角に深々とお辞儀し、それから従容と死刑に臨んだ。

 2杯目のコーヒーを飲み終えて、僕は土産物屋を出ると、もう一度、書院の別の棟へ入って行った。そこには昔の科挙の勉強の様子が人形で再現されていて、なるほどね、昔の勉強たって今と変わらず机に向かって奮闘するだけなんだよなって思った。

 机上の勉強と、実際の実践(実際に人と会話したり何かを処理したりして物事を進めること)で学ぶ勉強は別だけど、前者(机上の勉強)が実践の前の基礎として重要であることに変わりはない。そのツールが人形たちの持っている毛筆からモバイルPCに変わろうが、勉強の中身が科挙のように暗記一辺倒から、現代の基礎教育のように「考え方」や「発想」を重視した応用力を鍛える頭の訓練に変わろうとも、やはりまずは机上で基礎を身に付けた人間が一番強いのである。

 文天祥は稀代の天才だったというが、天才というより秀才だったのだろう。本を読めば一発で内容が頭に入り、物事がどのようなルールで動いているのか一発で見抜く事ができ、見抜いたルールを活用して人やモノを動かすのが簡単に出来てしまった。そういうずば抜けて優秀な人は確かに世の中にいるのだ。

で、持て余したその優秀さをもって世を渡ろうとしたが、決して上手く行かなかった。時代が悪かっただけではないだろう。それはきっと、優秀さとは別に、彼の性格とかそれによって形成された人生観によるものだ。自分に立身出世の道を切り開いてくれた儒学でもなく、実際に立身出世させてくれた皇帝や宰相や南宋という国でもなく、自分が考える「こうあるべき」という正義こそが彼にとって重要であり、その正義の為に彼は戦い続け、死んで行った。勝ち目のないゲリラ戦も、粛々と処刑されるのを待つのも、本人としてはいたって当たり前の話であり、「正気」なら当然だよねって事だったのだろう。

 でも、本人は当たり前だよねって死んで行ったが、同時に家族も殺されているはずだ。

僕はこの点が一番興味があった。本人はそのまま歴史に名を残す英雄となったが、家族はどうなったのだろうか?

色々と調べたけど、よく分からない。古い時代過ぎて資料が残っていないのかもしれない。子孫の墓が深センで見つかったらしいけど、それはどうやら文天祥の弟の子孫らしく、文天祥の奥さんとか息子たちがどうなったかは分からない。当時の習いで殺されている可能性が高いが、仮にそうだったとしても、文天祥にとっては「正気」なら当然だよねって事だったのだろうか?

 何か自分が信じる価値を信じ切って、それに命を懸け、それで死んで行けるなら、それはきっと恐ろしく幸福なことなんだろう。文天祥のように後世で英雄として高く評価される場合もあれば、ファシズムに洗脳され可哀そうな死に方をした人たちと言われる場合もあるけど、後世なんてどうでもよく、その瞬間、もし本気で「正気」に何かの価値を信じていたなら、当人は幸せに死んで行けるはずだ。

が、これだけ情報が溢れ、考え方、生き方の「多様性」に既にお腹いっぱいになっている僕たち現代人が、そもそも「こうあるべき」という価値を見出すのは難しい。ましてや命を投げ出せるような価値なんて、ないない、ありません。

自分の信念の為に家族を犠牲に?それも無理無理、そんな信念はございません。自分ごときのヤワな信念の為に、大切な家族が悲しむなら、そんな惨めで空しいことはありません。そんな信念はさっさと捨てます。

だから、僕たちはフツーの人として、迷いながら生き続け、「こうあるべき、なの?」なんて常に最後にクエスチョンマークを付けながら、ダラダラと生きて行く。そうして年齢とともに身体は劣化し、痛みが始まり、「痛いなぁ」「嫌だなぁ」「心配だなぁ」なんて老人として生き始め、やがて身体のあちこちの機能が不具合を起こし、停止し、腐って死んで行く。栄光なんてどこにもなく、そうやって僕たちはフツーに生きて死んで行く。それが英雄ではなくフツーの人間として年を取るという事だ。

はぁ~・・・仕方ないか。

 外に出ると文天祥の大理石の像が立っていた。真っ青な空を背景に、超然と立っていた。真っすぐな人、迷いなく生き、迷いなく死んで行った英雄。

でも、思うのだ。

英雄なんてほんのごく一部だ。文天祥の時代にだって、書院に通って勉強していた人々の中には、秀才でも何でもない僕のような平凡な人間もいたはずだ。そして彼は当時の流行りに乗って努力し、必死で科挙というトンデモない受験戦争をなんとかくぐり抜け、が実社会に出ようとするころには実社会(国家)は傾いていて、みんながその泥船から逃げ出そうとしていて、なんだよ、せっかく科挙に合格したのに、立身出世なんて昔の話で、どうやら俺たちは苦労だけしそうだなぁなんて思いつつ、一応、宮仕えをして働いてみたけど、やっぱりそこは泥船、駄目だこりゃって田舎に帰って静かに暮そうと決意し、地元に帰り、そこで、ごくごく平凡な人生を歩み、年を取り、名もないまま死んで行ったはずだ。

きっとそんな人もいたのでは?

僕は自分たちの世代(ロストジェネレーション)の人生に重ねながら空想を続けた。

そう、彼は若かりし頃、科挙制度という受験戦争に巻き込まれながら、きっと全てにクエスチョンマークを持っていたのだ。(僕たちも同じだった)

こんな勉強、本当に意味あるんだろうか?

そんな儒教ってすごいか?この世の真理か?

皇帝に仕えるってすごいこと?

立身出世ってそんな人生の勝利者

世の中、すでにヤバそうだけど、もし科挙に合格したら上の世代みたいに人生安泰ってまだ本当?

そもそも幸せってどういうこと?

書院で勉強しながら、そんな、いらん事を考え始めた人、決して真っすぐではないけど、優柔不断だけど、クエスチョンマークの中で迷い続け、運の悪さと時代の波に翻弄されてため息をつき、でもそれでも愚直に生き続け、結果的に幸せに長生きし、人生を味わい尽くせた人がきっといたはずだ。

 ウン、文天祥のように迷いなく生きて死んだ英雄ではなく、迷いの中でダラダラ生きて人生を味わい尽くした人、それも、人生のある意味、勝利者に違いない。

僕はふと思い返し、先ほどの人形たちのところ、科挙の勉強をしている様子が再現された部屋へもう一度、戻った。

はい、やっぱりいました。

ユーウツな顔して悩んでます。

きっとこの人は秀才でもなく、英雄にもなれなかっただろう。そんな面構えだ。でも、幸せな人生を送ったかもしれない。そのチャンスは、迷いの中でダラダラと生きる中に生まれる。

 書院の外に出ると、本当に突き抜けるような空が広がっていた。

人生は不思議である。ダラダラと平凡に生きようと20年前に東京から地元に帰って来たはずなのに、僕は今、そこから数千キロ離れた異国の田舎町で、澄み切った青空を見上げている。

そして僕はまだまだ、これからもダラダラと迷いの中で生きて行かないと。

 屋根付きの豪華な橋を渡って、ゆっくり歩きながら家に戻る途中、考え事を続けていた。半世紀を生きて、まだ半分だなんて悪夢だな、と思いつつ、でも日々の些細な出来事をしっかり味わい、しっかり感謝し、人生50年でよいのでは?なんて途中で投げ出さず、これからも生きて行こうと思った。

異国の青空はずっと向こうまで広がっていて、つながっていて、その先には僕の故郷(ふるさと)があるのである。

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