失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

料理を食すということ

 思い出深い料理ってなんだろう?そう考えてみた。料理に限らず、人間にとっての価値は、そのものだけの価値を意味するのではなく、味わうシチュエーションとかタイミングとか、その時々の僕たちの気分や感情に大きく左右されて意味を決定されるから、ただのインスタント袋麺だって「あのとき兄貴が作ってくれた出前一丁の味は心に沁みたなぁ」なんてなことも十分にあり得る。美味しい、という思い出は、味が味覚的に美味しかった事だけじゃなく、料理にまつわるいろんな物語なんかが付随して、初めて僕たちの「美味しかった思い出」になる。

 小学校に入ったばかりの頃、3つ年上の兄貴と留守番をしていて、兄貴が出前一丁を作ってくれた。なんだかガスコンロを使ってお湯を沸かすという大人の仕事ができる兄貴を、台所ですごく頼もしく見ていた記憶がある。後々分かるのだが兄貴はひどい味オンチで、美味しいとか不味いとか言わない代わりに、何を食べても全く無頓着で、お腹が詰めばそれでいいいみたいな感じの人だった。それで、兄弟二人で留守番するときはお湯を沸かしてできる簡単なインスタント物が多かったけど、兄貴がつくるラーメンや焼きそばは、必ずお湯をたっぷり吸ったブヨブヨの代物だった。ブヨブヨだから確かにお腹はいっぱいになる。味はどうか?もちろん不味かったのだろう。でも子供の僕は、母親以外の家族が作る料理をとても新鮮に感じて、すごく美味しく味わうことが出来た。人間にとって価値の決定とはそういうものだ。今でも僕は、UFO焼きそばを作るときは、わざとブヨブヨにしてちょっと家にあるソースも加え、懐かしい気分を味わいながら食べている。

 思い出深い料理と言えば学校の給食は外せない。考えてみると昭和の給食はヘンな食べ物も多かったかな。どう考えたってカビが生えているようにしか見えない湿った緑色の揚げパンが出てきて、甘ったるく、油っこくて、とてもじゃないがなかなか全部食べられなかった。昭和の小学校の先生というのは今の先生と違って、言う事をきかない子供がいたらぶん殴る場合もあったし、ちゃんと給食を食べない子供には食べ終わるまで周りで掃除が始まろうと机に座らせ続けることも可能だったから、僕はこの悪魔のパンが出た時だけは、半べそをかきながら必死で牛乳で胃に流し込んだ。ネットで調べるとこれは「うぐいすきな粉揚げパン」と言うらしく、好きな人は好きみたいだが、今でもやっぱり食べる気がしない。なんで湿った緑色なんだ?逆に鶏肉にチーズを挟んでアルミホイルで焼いた料理が給食に出て来ると無茶苦茶嬉しかった。あまりに美味しかったので、いつも僕は最後に食べるようにしていた。これは大人になった今でも普通に料理して家人に食べさせている。たれは醤油ベースの甘辛いやつにし、焦げた匂いが食欲をそそるよう工夫して焼き上げる。

 母親の手料理は、母親が地方のさらに田舎の出身だったので、やたらみりんを使った甘い煮物が多かった。何でもかんでもたっぷりみりんを使うので、肉じゃがも煮魚も同じ味がした。食感と風味が野菜っぽいか魚っぽいかの違いだけだ。ちなみに父親も味オンチで全く文句を言わずにもくもくと食べる人だったから、またかよぉ、またみりん味の煮物がおかずかよぉ、と一番下の僕が不満を言える食卓の雰囲気でもなく、ただもくもくと食べる父親と兄貴に挟まれて、だまってその甘ったるい料理を食べるしかなかった。でもこの母親の「みりんたっぷりの煮物」の中でたまにスマッシュヒットがあって、ニンジンのシーチキン煮がまさにそれだ。すごくシンプルな作り方で、ニンジンを乱切りにして、シーチキンと醤油とみりんで煮込んだだけの料理なのだが、本当にこれが美味しかった。シーチキンの油が浮いた残り汁は捨てずに大事に冷蔵庫に入れておいて、翌日の朝、レンジでチンしてご飯にかけて猫まんまにして食べるのが僕の楽しみだった。母親の手料理といえばこのニンジンのシーチキン煮を思い出す。

 中国の田舎で駐在中に疲れを溜め過ぎて扁桃腺を腫らし、39度の熱を7日間出した。地元の役人に紹介された地元で一番の病院は、お世辞にも医療設備は整っているとは言えず、受けられる治療も点滴のみだった。ちょと尿の匂いがする大部屋のベッドの一つで天井を回る換気扇の羽を見ながら毎日うなされ、5日目を越えるころには幻覚も見た。7日目には「肺炎の初期」と言われ、いよいよ明日は上海へフライトをとって病院を変えるかどうか、というところまで行ったが、8日目に急に熱が下がり始め、僕は生き延びた。10日もすると完全に熱は下がったが、扁桃腺は腫れ続けて痛みが残り、何も食べ物が喉を通らなかった。近辺には日本料理店などなく、地元の料理は油と鷹の爪がたっぷり入った地方料理で、本来は美味しいのだが、少なくとも病み上がりの日本人の口は全く受け付けなかった。食べなきゃ回復しないぞと頭では分かっていても、ちっとも飲み込めない、そういう状態だった。

 そんな時、同じプロジェクトに参加していた香港人が自分の借りているアパートへ僕を食事に招いた。僕は正直、まだ病み上がりでスイカくらいしか口に出来ずどんどんやつれて行く自分の状況だったので、それを知っていてどうしてこの香港人は食事に招くんだろと、ちょっと迷惑に感じたが、仕事上でだいぶお世話になっていた年配の方だったので、むげに断れずアパートを訪ねた。上司からは数日したら仕事に復帰するよう言われていた。

 香港人の奥さんがその時食べさせてくれたお粥料理の味を僕は一生忘れることが出来ない。どんな料理も痛みで通さなかった喉が、その温かい薬味の効いたお粥をつるつると食道へ招き入れ、久しぶりに胃に入った固形物の感覚は、なんだかエネルギーが体の中心にふわっと入ったようなそんな気持ちだった。僕は大きめのお椀に入れたそのお粥料理をペロリと平らげ、香港人とその奥さんにお礼を言った。香港人はしたり顔で「ほらね、来てよかったでしょ」みたいな感じだったので、あぁなるほど、そういう親切の仕方をしてくれたのだと、改めて感謝した。それ以降、あれより美味しいお粥料理を食べたことがない。

 料理を食すというのはだから、美味しいとか不味いとかの話ではなく、生きている人間の物語が常に取り巻いて、味付けをし、僕たちの人生の前に現れるものなのだと、僕は思っている。

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