失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

ゴールデンウィークの真夜中に高速を走り出し、恋する場所でこんにゃくを食しながら、若かりし頃にブラジル人の友人と遊んだ日々を思い出したこと

 ゴールデンウィークなんてどこに行っても渋滞で、人だらけで、宿もゴールデンウィーク価格とかで普段よりずっと高いし、寝て過ごそうと思っていた。

金曜日に緊急対応の続きを終え、連休に入る前日の一番幸せな夕方だったはずが、気付けば20時だ。みんな若手は嬉しそうに帰って行ったが、問題は全然解決せず、あぁまだ上海は動かないや、ゴールデンウィークまでは何とか乗り切ったけど、こりゃ明けたらいよいよ部品が入って来ないぞ、生産はストップするぞ、オワったかもしれん、「仕方がないのは分かっている。が、それでも何か打つ手はないのか?」という、仕方ないからと言って結局は誰も許してはくれないヒリヒリした地獄を、ゴールデンウィークが明けたらやんなきゃ、とため息をつきながら、オフィスの座席で深々と腰掛ける。もう誰も残っていないや、あ、向こうの方に設計部隊がまだ残っていて、何か顔を引きつらせて対応しているぞ、何かあったのかな?

いずれにせよ、昭和のプロジェクトXは、40歳以上に限定して参加となっており、若手はそういうのには参加させてはいけない事になっている。離職防止の為の暗黙の了解だ。君たちは21世紀の金の卵だから、何もかも忘れてリフレッシュして来なさい。このパンデミックの地獄は、オジサンたち使い捨て世代が屍(しかばね)となって乗り切り、乗り切った後はいよいよマジで使い捨てされて屍となる予定だけど、もはや年齢的に何ともならんので、頑張ります、ハイ。という感じだ。休みの間にもガンガン電話かかって来るのかな?なんてもう一度ため息をついてから立ち上がり、家路についた。

金曜日の夜はだいたい疲れがピークに達していて、ご飯を食べてお風呂に入ったらそのまま気絶するのだけど、いちおう何とかゴールデンウィークまで乗り切ったという安堵感もあって、僕は家に帰って手洗いうがいし、リビングでちょっと横になった瞬間、気を失っていた。ご飯も食べる気力なし。もうヘトヘトなのです。

で、目が覚めたら夜中の12時だった。あれ?今日からゴールデンウィークか。0時ってことは今始まったとこだね。家人にせかされ、お風呂に入っているうち、なんだか元気が出てきた。変な時間に寝たけど、ちょっと寝たらすっかり元気だ。

なんだかワクワクして来て、風呂を出るころにはすっかりテンションが上がっていた。今日からゴールデンウィークじゃん、若いころは長期連休の前日の夜なんてあんなに楽しかったじゃん、なに疲れ切ってるんだよ、寝て過ごそうなんて何だよ、ちょっと寝たらほら、復活したじゃん。

風呂を飛び出すやいなや素っ裸で、

「今から旅行へ行く」

なんて年甲斐もない宣言をしてみたら、さっきから鼻歌を歌って風呂に浸かっている僕の様子を察し、家人は既に半分準備していた。さすがだね。僕もいつものお泊りセット(パジャマ・着替え・歯ブラシ・旅行用のコンタクト携帯パック・ひげそり・胃薬・バファリン・携帯の充電器・携帯加湿器)を車に積み込み、きっと寒いところに行くのでダウンジャケットも後部座席に突っ込んで、いざ出発だ!

夜の高速はスイスイ走れた。でも安全第一だ。事故ったら台無しだからね。途中で立ち寄るサービスエリアの夜食とか、コーヒーとか、全部が旅行気分を盛り上げてくれる。そうそう、せっかくのゴールデンウィークだ。楽しまなきゃね。

明け方まで走り続けて、明け方に諏訪湖のほとりに到着した。さすがに昨夜は数時間寝ただけなので、眠くなって来た。湖面が朝日に照らされキラキラ輝いているそのすぐそばの駐車場で、僕は座席のシートを倒して仮眠をとることにした。窓を開けると空気が美味しい。生き返る気持ちだ。

来る途中の助手席で爆睡していた家人は、隣で、さっきコンビニで買ったお菓子を食べながら、漫画をニコニコ読んでいる。僕は数時間、湖畔でぐっすり眠った。

9時ごろに目が覚めて、外に出ると青空が広がっていた。やっぱり諏訪湖のほとりは気持ちよかった。しばらく眺め、もう一度車に乗って、白馬に向けて走り出す。安曇野までは何度かウロウロ観光したことはあったが、白馬までは行ったことがなかったので、今日はそこまで走ろうと思ったのだ。

美しい長野の風景の中を走り続け、昼前にはまだ雪の残る白馬に到着した。ゴンドラに乗って山の上まで登って行く。凄いな。スキー客がそこにまだいた。山の上に最後に残っているこの固い雪で、最後まで楽しみたいんだな、とその熱心さに驚く。

そのスキー客のすぐ横で、パラグライダーに乗って遊覧飛行を楽しんでいる人たちを見ていた。これが見たかったのだ。フライトを楽しむ人々が、順番に走り出し、大空へ飛び出し、白馬の美しい田園風景の上をゆっくり漂い始める。空は青く、どこまでも突き抜けていて、見ていて本当に気持ちの晴れる風景だった。きっと気持ちいいんだろうな。

昼ご飯は白馬で食べた。農場がやっているレストランで、おにぎり定食だ。美味しくない訳がない。コメを味わう、という意味で、おにぎりを超える料理はない。

お腹がいっぱいになったところで、僕たちは嬬恋村へ向かった。こんな直前でどっこも宿は空いていないだろな、とあきらめながら探したら、嬬恋村に一件、良心的で手ごろな宿を見つけたのだ。その夜はそこに宿泊するつもりだった。僕は長野の美しい風景をまた走り出した。

嬬恋村は初めて行ったけど、しかも到着したのが夕方だったので観光する時間がなかったけど、宿に入ってチェックインして、フロントの横のパンフレット(周辺観光の案内)を見ていたら、ありゃすんごく魅力的な場所なんだなと思った。もう日が暮れて来たし、明日は雨だから、今度、夏休みにでももう一度来ようと思った。牧場も近くにあって、動物好きの家人も喜びそうだ。

そして、お楽しみの夕ご飯は、群馬の特産品をふんだんに使ったバイキング料理だった。やっぱり、こんにゃくが本気で美味しい!群馬のこんにゃくは、というより群馬で食べるこんにゃくは、さすが有名なだけに作り方に色んな知恵が込められているのか、臭みが全くなく、本当に、こんにゃくの美味しさだけを凝縮したようなそんなこんにゃくなのである。

20代のころ、群馬の工場に飛ばされて、群馬と言ってもずっと埼玉寄りだったけどしばらくそこに住んでいた。そして、実はこんにゃくは美味しいと思ったのを覚えている。というか、それまでこんにゃくなんて、別に味のしない、もしするとすればあの土みたいな臭みのある風味と味の食べ物で、酢味噌でごまかして歯ごたえを楽しむだけのものだと思っていた。こんにゃくを作っている人たちにはひどく失礼な話だ。でも、群馬で「本物の」こんにゃくを食べてみて、その常識が変わったのだ。こんにゃくには味があり、しかも非常に美味(びみ)なもので、酢味噌はその味を引き立たせるためにあるのである。それは20代にして衝撃的な発見だった。

 バイキング形式だったので、僕は色々なこんにゃくを次々と皿に盛って、パクパク食べていた。田楽もある。やっぱり美味しい。

 群馬に住んでいたころは、その他にも食べてみて初めて美味しいと思ったものがもう一つある。ブラジル料理シュラスコだ。

当時勤めていた会社の工場の作業者にはたくさんのブラジル人がいて、大半が日系3世だった。70年くらい前にお爺ちゃんやお婆ちゃんがブラジルに渡り、ジャングルで死ぬほど苦労して生活を切り開き、その後、子供が生まれ、孫が生まれ、その孫たちが生まれ故郷の日本へ出稼ぎにやって来たのだ。

20代の僕は慣れない地方都市で、気質も違うし、あんまり地元の日本人とつるむことはなく、週末には東京に戻って友だちと騒ぐことが多かったが、それでも毎週という訳には行かないので、結局、金曜日の夜を静かに一人で過ごすことが多かった。そんな僕を見て声をかけて来たのが、工場に作業者として出稼ぎにやって来た同い年の日系ブラジル人だった。3世だから色々な血も混じっていて、目が茶色だった。いつも笑顔で、日本でお金を貯めて、ブラジルで店を開くのが夢だと言っていた。週末は彼の車に乗ってブラジル人の集まるディスコ(閉鎖された工場を改造した、薄暗いけど無茶苦茶かっこいい酒場だった)に行き、そのあとレストランでシュラスコを食べて、そのあと夜を通してビリヤードをやっていた。

初めてシュラスコを食べたとき、ウェイターに金串に刺された大きな肉の塊を差し出され、「どの部分を食べたいか?」聞かれた時は、さすがにとまどったのを覚えている。ブラジル人のその友人の方を見ると、おススメの焼き色をした部分を教えてくれたので、僕はウェイターにそこを指さし、ナイフでその場で切ってもらって、皿に盛ってもらった。ふだんブラジル料理店の看板の写真を表から見る分には、あんまり美味しそうに見えなかったそのシュラスコだが、実際に食べてみると、炭火の芳ばしい香りが肉に程よく纏わりつき、柔らかく、本当に美味しかった。あんまり美味しいので、しばらくは毎週一人で通った。

そんな群馬時代の記憶を思い出しながら、こんにゃくを頬張る。上州牛のローストビーフもタラの芽の天ぷらも、やはりこれも地元特産のキャベツのスープも、最高に美味しかった。急に予約した宿だったけど、大当たりだった。僕はお腹いっぱい、群馬の特産料理を食べ、ビールで流し込んだ。

そういやあの頃は徹夜でも一晩中、遊べたなぁ、なんて思い出す。もう明け方になると、さすがに眠気も襲って、ブラジル人のその友人も僕も、黙々とビリヤードの球を打っていたのを覚えている。あいつは元気にしているんだろうか?夢がかなって今頃、故郷でレストランをやっているのかな?自分の人生を通り過ぎたたくさんの人々の一人の顔を、そうやって思い出し、そう、あの茶色の瞳を思い出す。

先が何にも見えない時代の日本の若者の一人として、出稼ぎで貯めたお金を使って将来、故郷で夢を叶えようとしていたそのブラジル人の若者が、ものすごく眩(まぶ)しく見えていたのは確かだ。彼らには夢があり、将来があった。一方、日本人の若者である僕たちはただただ、働けるだけマシだと思い、縮こまって行く暗い時代を、その場で必死で生きていた。

あれから20年以上がたっている。

 翌日はすごい霧が出ていた。僕たちは霧の浅間山麓をゆっくり車で走り下り、そのまま高速に乗って帰宅の途についた。

金曜日の夜中の高速道路のオレンジ色、サービスエリアの夜食の匂い、助手席の幸せそうな寝顔、朝日の光にキラキラ輝く美しい湖面、雪の残る田園風景の上を滑走する赤色のグライダー、そして美味しい地元の料理と、ブラジル人の友人と過ごした若い日々の思い出。そんな旅だった。いい旅だったね。

日本はあまりに狭いけど、そして時々、こんな同調圧力だらけの年を取った国なんて飛び出して、果てしなく遠くへまで行ってしまいたいと思うけど、まだまだ捨てたもんじゃないんだね、ニッポン!美しい長野の風景と、群馬の新鮮で美味しい野菜料理を思い返している。

なにしろ嬬恋なんて素敵な名前だ。いつか晴れた日に、パンフレットの写真で見た、延々と広がる広大なキャベツ畑を、家人と見に行こう。

平凡なサラリーマンの平凡な人生を、じっくり味わって生きて行く。楽しみが一つ増えたね。そして美しい風景だった。それで僕は十分だ。

「走れ、絶望に追いつかれない速さで」と「二十歳の原点」とジェームス・ブラントに感動しつつ、ビールを飲んでムニャムニャ言って眠ること

 なんだか90年代生まれの人たちというのはずっと年下なのだが、ひょっとすると大きく世の中を変えるのかも、と思うことが多い。音楽もそう。スポーツもそう。これまでの感性からスパっと飛び抜けた成果や作品が多く、いったい誰なんだって調べてみると、たいてい90年代生まれの人たちだ。たまたまなんだろうか。

最近じゃこんなオッサンが、通勤途中の車の中でJazzの合間にKing Gnuを聞いている。

 「走れ、絶望に追いつかれない速さで」なんて題名が、もうあれだね、ランボーの詩みたいで、カッコよすぎるなぁ、と思って監督をネットで調べると、ありゃやっぱり90年代生まれか、そして詩人なんだ、と納得する。若くにしてこんな凄い才能が発揮できるなんて本当に大したもんだ。

 映画は始終、美しい映像と構成で話が進み、最後のシーンも本当に美しい。こりゃ一遍の詩だね。主人公は親友が死んでしまった理由を知りたくもあり、知りたくもないのだが(なぜって同じように絶望に追いつかれそうだから)、そんな際どい心模様を、これまた90年代生まれの俳優が素晴らしい演技で演じている。自然で、嫌みなく、大人の所帯じみた感じもなく、すうっと人の心に入ってくるような演技をする役者さんだった。いい映画を見たなぁという感じ。

 中学生の時、たまたま手に取った「二十歳の原点」(高野悦子)という本を読んで、内容はもちろんだが、その文体とアフォリズムのみずみずしい美しさに感動し、よくこんな凄い文章を思いつくな、思いつくとかでなく、まさにそれが才能であり、湧き出て来るものなんだろうな、なんて考えていた。

たった一編の詩、音楽のワンフレーズ、映像のワンシーンであっても、もし自分が人生を生きた証と言えるような凄いものを生み出せるなら、それはきっと本当に幸せなことなんだろう。

そういやこの間、高速道路をぶっ飛ばしながら、ジェームス・ブラントの「Your’e beautiful」を久しぶりに聞いた時、う~ん、人生で一曲でもこんなのが作れたら、ミュージシャンとしてはもう大満足なんだろな、なんて思った。生きる意味があったというものだ。ジェームスさんは、最近ではちゃんと上着を着て、いい感じの落ち着いたオジサンとしてギター片手に笑顔で歌っている。他にもいっぱい素敵な曲を書いたけど、この曲をこの世に生み出した時点で、もう全てに意味があったというものだ。美しいメロディは、こんな東アジアの島国の高速道路の上でも、高い青空へ透き通って突き抜けて行くように流れる。凄い才能だね。

 が、僕たち大半の凡人は、一発で生きる意味があったと確信をもって言えるような奇跡の言葉や音楽を生み出すことなく、残して行くこともなく、たいていは、仕事キツイよぅ~とか、アレ美味しかったからもう一回食べに行きたいよぉ~とか、お尻のデキものは痒くも痛くもないけど不安だから一度お医者さんに診てもらった方がいいかなぁとか、しょうもない事をたくさん喋ってこの世に言葉を吐き出し(生み出し)、年を取って死んで行く。そこには誰かの人生を変えるような瑞々しい感性も、それを表現した作品もなく、僕たちは胃痛と共に目を覚まし、夜はビールを飲んでムニャムニャ言って、眠りにつく。ただそれだけだ。一編の詩も、美しいメロディもない。絶望的と言えば絶望的だけど、そもそも僕たちの大半は端(はな)から創作の才能がないので、絶望に追いつかれる恐怖感もない。既にここにいる場所が、所帯じみた、平凡で退屈な場所で、人生が光に輝いて飛翔して行けるような瞬間もないまま、ヘラヘラ笑ってゲップして、ただ眠ればいいのである。

そういう意味では創作に携わる芸術家たちの苦労は、想像を絶するものなのかもしれない。絶望が常に背後から追いかけて来る焦燥感の中、死に物狂いで人生に光を見つけ出し、自分のスタイルで表現し続けなければならない。「個性を磨け」なんてホント地獄なんだと思う。若くしてすんごい作品を生み出してしまった芸術家が、その後に苦しむのは、本当に当たり前のことだ。きっと辛いんだろな。

だから、平凡がよろしい。そして時々は天才の作品に触れて感動し、でもやっぱ平凡でよかったぁ、こっちの方が絶対楽チンだぁ、なんて、ポテチを食べてAmazonプライムとか見ながら感謝するのが一番だ。研ぎ澄まされた感性というのは、若いころは憧れや羨ましさがあったけど、今や出来る限り鈍感に、のほほんと生きた方がいいのを知っているので、そういうのは無くてよかったと思っている。

たかが数十年の命だ。穏やかに、味わって生きるには、平凡な感性でよろしい。

 30歳で地元へ帰って来て、地方都市で暮らすのはいいいが、休日はマジで暇だな、何にもないな、何か新しい趣味を持とうかな、なんて思って、油絵を描き始めた。学校の授業で描く絵は下手だったし才能はないのは分かっているけど、昔から絵画を見るのは好きだったので、一度、キャンバスに向かってフムフム言いながら描いてみたかったのだ。「創作」ではなく露骨な「思い出づくり」である。観光地で貸衣装を着るのと同じ感覚だ。

近所で画家の先生がアトリエを開放していて、お金を払えばそこで自由に描いてよかったので、僕はその絵画教室に申し込んだ。油絵具とかパレットとか何種類の筆とか、ガラス瓶に入った溶き油とか、とにかく道具を揃えるのが楽しくて、嬉しくて、アトリエに来ても一向に絵を描こうとせず、色ってこんな種類があるんスか?、この木製のパレットが味があって気に入ってます、なんて先生を相手にベラベラ喋っていた。

一応、先生もプロの立場からいろいろアドバイスをしてくれるのだが、何しろ生徒のこちらが全く不真面目で言うことを全然聞かない。オリジナルであることが大切、なんて先生が他の生徒に教えているすぐそばで、僕はマイルス・デイビスの顔写真が入ったCDジャケットを持ち込んで、それを模写し始めた。何か大切なものを新しく表現しようとか生み出そうとか、最初から全くそんな事をやる気のない、極めて不真面目な生徒だったのである。

先生は苦笑いをしていた。「仕事でストレスが溜まってんだと思うよ。そうやって絵の具まみれで何かやっていると、気持ちが晴れるんでしょ?」なんて僕を諭した。僕はそんなものかな、と思いつつ、油絵具のこの匂いとか、アトリエの雰囲気はいいなぁと思っていた。懐かしい思い出だ。

 もちろん、本格的に絵を勉強しに来る社会人もいた。彼ら(彼女たち)は働きながら二科展とか目指している生徒さんだった。そういう人たちは気合の入り方が全然違ったし、先生の指導も見ていると厳しかった。ヤだね、休日にまで誰かに指示されるなんて御免だなと、横目で見ていたのを覚えている。

 そして僕と同じ時間帯には、美術大学を目指す女の子も描きに来ていた。いつも恐ろしく不機嫌で、アトリエに入って来ても誰にも挨拶はせず、まっすぐに自分の描きかけの絵を手に取って、イーゼルに乱暴に立てかける。そしてそこからは言葉通り「一心不乱に」描き始めるのだ。大きなキャンバスは暗い緑色(黒とか灰色が混ざった緑)まみれで、一見、ただの薄暗い緑色の壁みたいだけど、目をこらすと、ぼんやりとその奥に人間の目や鼻や口らしきものが見えて来る。そんな凄まじい絵だった。題名が「自画像」だ。彼女は叩きつけるようにキャンバスに絵の具を塗りこめ、必死で何かを表現しようとしている様子だった。きっと人生に光を見出そうとしていた。まだ十代だ。たくさんの可能性があり、何者でもない自分への苛立ちと不安に苛まれながら、きっと戦っていたのだろう。そして将来、もし無事に芸術の道に進んだなら、その戦いはずっと続いて行くのだろう。きっと辛いんだろうな。なんて想像していた。創作って決して楽しいより苦しい方が多いはずだ。僕はCDジャケットの写真をそのまんま、油絵を混ぜて模写していた。創作ではなく写経か塗り絵に近かった。お気楽なもんである。

 今日もどこかで、特に東京の片隅、下北沢か高円寺か上野かどこかで、自分の才能を信じて死に物狂いで創作し、不安に苛まれ、それでも戦っている若者たちがいるのだろう。彼らは長々と平凡に時間を積み重ねて生きて行く事を良しとせず、そして実際には20年くらいしか生きていないけど、もう彼らにとっては十分であり、生まれて来たことに意味があったと、たった一発の作品で世の中に証明してみせる為に、そのたった一発をこの世に生み出す瞬間を狙うために、必死に生きているはずだ。エミネムのOne shot ってやつだね。

大丈夫、絶望なんて追いかけて来ないよ。美味しいもの食べて、ビール飲んで、眠ろう。そう言ってやりたいオジサンがここにいる一方、絶望から逃れるように創作に打ち込むそんな若者たちのその若さに、眩しいものも感じているのだ。

100年前の世紀末である1890年代(要するに90年代)、芥川龍之介宮沢賢治ヘミングウェイも生まれた。

何だか楽しみだね。

そんなことを平凡なオジサンは、ビールを飲みながら、のほほんと考えている。

神保町の古本屋とドストエフスキーとベルジャーエフとソロヴィヨフのこと

 子供のころから本が大好きで、図書館が小学生時代の僕のお気に入りの場所だった。そしてそのまま大人になり、読書好きは大学生の頃にMAXを迎えた。当時はヘビースモーカーだったから(その後やめたけど)、セブンスターをスパスパ吸いながら一晩中、煙でモヤのかかった部屋で本を読み、朝になっても読み、そのまま昼前まで読み続けて、疲れて机の上でうつ伏せになって眠り、目が覚めたら日が暮れていた。電気をつけ、カップラーメンをすすったら、また煙草に火をつけて本を読み始める。そんな感じだった。

 今は仕事で疲れた目を休めたいのと(会議までTeamsになったので、ずっとPCのディスプレイを見続けている)、老眼がひどくなって来たせいで全然本を読まなくなったが、人生をちょっと無駄にしているかも、なんてまた最近は思い始めた。本は人生を豊かにする、というのは古今東西、世界中で言われて来たことだ。

 読書好きがピークだったそんな大学生時代、僕は他の本好きの例に漏れず、古本屋めぐりをしょっちゅう楽しんだ。なんせ時間はたっぷりある大学生だ。一週間近くをぶっ通しで神保町に通って過ごすこともあった。サイコーに幸せな時間だ。

 古本屋というのは一軒一軒に個性があって、店主のこだわりが見え隠れする。それがまた楽しい。なぜか店の一角にガラスケースが置いてあって、骨董の能面が並べられて売られていることもある。そんなのもまた面白い。ありゃなんだろ?

今はどうか知らないけど、神保町の古本屋街は雑居ビルと雑居ビルが細い通路でつながっていて、まさに古書のハシゴが出来た。売る気があるのかないのかよく分からないような乱雑な積み上げ方で、通路狭しと茶色く焼けた古本が並べてあり、その隙間を次の店、次の店へと渡って行く感じだ。本当にワクワクして飽きなかった。

当時、ドストエフスキーが大好きで、もちろん本人の小説は全部読んだ上で読むものが無くなって、ベルジャーエフとかソロヴィヨフとかその周辺の思想家の本も読み漁っていた。思春期以降ハマっていた昭和文学や英米文学を経て、最終的にロシア文学が大好きだった頃の話だ。

そしてその本は、一軒の雑居ビルに入っていた薄暗い古本屋で見つけた。山積みに置かれた古本たちの隙間に表題が見え、僕はそれを取り出すのに、いったん手前のいくつかの本を横にどけてから手に取った。奇跡の出会いだ。古本屋で買った本は、すべてその人にとって奇跡の出会いとなる。後で思い出してみても、よくあんな場所からこれを見つけたな、って思うからだ。

表題は「ドストエフスキーの世界観」という書籍で、昭和30年に第三版が発行されたベルジャーエフの評論だった。

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もちろん、例によって、僕は自分の部屋でセッタ(セブンスター)をスパスパ吸って中身を読みながら、この偏狭だがズバ抜けてものが深く見えてしまっているロシア男の一言一句に感嘆していたけど、その古本の特徴は、おそらく最初に買った人が書き込んだであろう線があっちこっちにたくさん引いてある事で、それが物凄く面白く感じた。前の持ち主がどの部分に興味を持ったのか、要するに「心に刺さった」のか知るのは面白いものだ。

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ああ、なるほどね、そこにグサッと来たんだね、という場合もあれば、なんでこんな所にこの人は二重線を引いているんだろ?と首をかしげる場合もある。いずれにせよ、それまでその本を手に取った人々とそんな風に対話できるのも、古本を読む楽しみの一つだった。

ちなみに、この本の後ろには、これを買った人が書いたと思われる文字が記載されている。「1956.12.25.東京 日本橋丸善にて」ってカッコいい筆跡だ。

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1956年と言えばジェームズ・ディーンが死に、ワルシャワ条約機構が結ばれた年だ。

ワルシャワ条約機構だなんて、今の世界情勢を考えると、おいおい、本質は何にも変わらないんだねって思う。

ネットで「戦後」「丸善」「日本橋」を並べて画像で検索すると、今はない立派なビルと、白黒写真に写る集団就職でやって来た金の卵たち(若者たち)、彼らが希望と夢を胸に働き、いずれ手にする三種の神器が次々と現れる。

いったん焼け野原になって、そこから若者たちが上を目指して頑張り始めた栄光の時期に、日本橋丸善でこの本を買った人がいるんだ、という感慨にふける。

若者たちは毎日一生懸命働き、一日一日が豊かに変化して行き、頑張れば頑張るだけ報われると、信じるに値する日々を生きていた。僕が生まれる遥か大昔の話だけど、羨ましい限りの時代だ。僕が生まれたころ、この国は改めて資源問題にぶち当たり、緩やかに坂を下り始めた。

 さて、この古本は「パンセ書院」という出版社が発行しているが(たぶん今はない)、思想書の翻訳が多く、裏表紙に不思議なイラストが載っている。

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何だろう?女性らしき人が松明か紐をくくりつけた棒か何かを持って、走っている。走るというより何だか駆け上がって行くような姿だ。

 きっと出版社を興した誰かの思いが込められているんだろな、って想像しながら、そしてその思いはきっと希望に満ちたものだったのだろうな、なんて空想しながら、書斎で時々手に取って、その不思議な姿を眺めている。

そう、希望はあるということだ。

それは人間の変わらない本質のどうしようもなさの一方で、焼け野原からでも灯(ともしび)を見つけ駆け上がって行ける人間の明るさが確かにあるということだ。僕たちはずっとニュースで、誰かの悲しい姿を見続けている。泣き叫び、これからも誰かが泣き叫び続ける。でもきっと希望はあるということ。

 64年前に誰かが日本橋へ行って、丸善ビルに入り、この本を手に取って買った。

東京が焼け野原になって10年くらいしかたっていないあの時代に、誰かが世界の何かの真理を求めて、希望を胸にこの本を買ったのである。

「ボクたちはみんな大人になれなかった」と「明け方の若者たち」と脂ぎった外国の友人のこと

 サブスク全盛である。休みの日になんとなくテレビをつけても、テレビ番組を見ることはない。そのままチャンネルをアマゾンプライム、hulu、Netflix、と順番に流して行き、なんとなく興味があれば映画をだらだらと見て、何にもなければYouTubeに切り替えて「リラクゼーション:波の音」なんて流しながら、ソファーで昼寝する。

 だからとりとめもなく映画を見るのだけど、ついつい懐かしさから「ボクたちはみんな大人になれなかった」とか「明け方の若者たち」を見ていた。どっちも東京の懐かしい風景が映画に散りばめられていて、あぁ懐かしいなぁとか、何にも変わってないなぁ、なんて感慨深く見ていた。

だから肝心のストーリーはあんまり頭の中に入って来ない。もちろん入って来るけど、そんなに重要にも思えず、ただただ、登場人物のいる店の内装とか、かかっている音楽とか、町の風景に目が行ってしまって、いつの間にかエンディングだ。

こりゃいかん。ちゃんともう一回中身を見て、感動の一つくらいしなきゃ・・・

 「ボクたちはみんな大人になれなかった」は世代的にもど真ん中である。だからなおさら「おぉー懐かしい!」が目白押しで、そのまんま見終わってしまった。そうそう渋谷の街並みも、みんなのファッションも、90年代はそんな感じだったね、あぁそうそう、こういう類(たぐい)の人たちがあの頃はいたなぁ、なんて思っているうちに、ありゃエンディングだ。

一方「明け方の若者たち」はグンと世代が下がって、二回りくらい若い人たちの話だけど、舞台が明大前とか下北沢とか高円寺とか、要するに自分が若者時代を過ごした町が次々出て来るものだから、ついつい、あぁまだこの建物があるんだ、なんて見入ってしまう。特に明大前は甲州街道にかかるその大きな歩道橋を毎日渡って会社に通っていたから、映画の中で登場人物たちがその歩道橋を渡る都度、ついそちら(歩道橋)に目が行って、登場人物たちの会話とか恋愛模様とか素通りしているうちに、ありゃエンディングだ。

で、ストーリーを何度見ても、つい、昔のままの居酒屋のカウンターだとか、あそこの公衆電話がまだあるのかなとか、要するに登場人物の心情の機微に対して一向に集中力が持てないのは、僕が既に年を取り過ぎたからだと気づいた。

町の風景だけではなく、まさに人間こそな~んにも変わらないんだな、という率直な感想と、そもそもの人間への興味の無さである。これは生悟りの感想であり、マズいなぁと思う。

 実際のデータが示す通り、日本人は男も女も驚くほどシャイで、一生で付き合うパートナーの数が、恐ろしく少ない。一歩、日本の外に出れば、自分たちの国民性のシャイぶりや保守的な価値観が、いかに独特であるか気づいてしまう。

そりゃ一部の人々は次々とパートナーを変えて人生を楽しんでいるが、僕たち日本人の大半は、ナイーブで相手との距離というものを物凄く意識して生活し、そうやって年を取って行く。だから、世界基準で絶対量がそもそも少ないから、一回の恋愛の持つ意味やインパクトが非常に大きく、壊れてしまった時の引きずり方も半端ではない。ピュアといえばピュアだが、若さなんてそんなに長く続かないのだから、そんな過去の1個の恋愛に引きずられては、人生がもったいないのでは?次のパートナーを探しに町へ飛び出して行けば?と、脂ぎった海外の友人(架空の想像の友人)あたりに言われそうである。

が、やっぱり僕たちはシャイで淡泊な日本人だ。大半は自分の数少ない「大恋愛」の一つ一つの記憶と思い出を宝物のように大切に、胸に秘め、生きている。なんと殊勝(しゅしょう)な人たちだ。開放的な南の国の人々からすれば、もったいない人生だが、本人たちは年をとって以降も感傷を味わいながらそんな過去の「大恋愛」を思い出したりするのが大好きなので、放っておけばよろしい。

確かなことは、世代が変わろうと、少なくともここ30年間は、賃金や物価がほとんど変わらなかったように、「若者」の恋愛の中身も登場人物も行為も、ひょっとすると、なんにも変わっていないかも、ということだった。

或いは、僕が偏狭なものの見方をしてしまっているのか?

昔から、本気でなくても相手と肉体関係を継続できる人は、肉体関係の相手をどこまでも記号として愛しているだけであり、どんなにきれいな言葉で感情を表現しても、相手を人間として愛することはなく、記号として愛するだけだった。そして記号は、代替可能な娯楽であり、代替して行くことに一抹の罪悪感とか後悔はない。ザイアク感とかコウカイとかの記号(おしゃれな思い出としての記号)にはなり得ても、相手という一個の感情を持った人間の心を潰したかもしれない、という生々しい罪悪感や、自分の人生に将来に亘って苦しみを与え続けるであろう具体的な痛みとしての後悔などではない。それは他の誰かと肌を重ねながら快楽の合間に思い出す、おしゃれな記憶のファッションである。

だからそういう類(たぐい)の人々は、何度でも別の相手と本気ではなく肉体関係を継続して行ける。実は配偶者ともそれが出来る。これは、シャイとかシャイではないとかの話ではなく、淡泊とか脂ぎっているとかの話でもなく、保守的とか開放的とかの話でもない。浮気する人はずっと繰り返しやり続けるよね、という、男女問わずどこにでも、いつの時代にもある平凡な話である。そういう意味では、失恋しても次の恋を探しに町へ飛び出して行く脂ぎった海外の友人(架空の想像の友人)は、毎回本気で相手を人間として愛し続けるのだから、いたって真面目な人間なのである。彼は浮気はしないはずだ。もちろん真面目か不真面目かは個人の生き方の一領域の話なので、誰かが誰かを裁く話でもない。あるタイミングや年齢から急に真面目になってしまい、人が変わったようになる場合もある。もちろん逆もありき。一緒に飲みながら、最近こいつ急に色気づきやがって、熱く愛を語っているけど、やっとることヒドイな、なんてケラケラ笑って話を聞くこともある。悲喜こもごも、それぞれの人生をみな平等に歳取って行く。

なんてソファに寝ころんでテレビ画面を見ながら、ぼんやり考える。

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 さて、実は「明け方の若者たち」を見て一番心に刺さったのは、主人公たちの恋愛の話ではなく、主人公の友人の若者が、優秀で前途有望だったろうに、結局、数年で会社を辞めて転職を決意するシーンだった。本筋には影響のない、些細なシーンだが、僕の心に刺さった。こんないい若者を手放してしまう、生き生きと活躍する場所を用意できない会社組織って何だろうか?という気持ちである。

もちろんフィクションの中の話だけど、その主人公の友人の若者を見ているうちに、会社の自分の部下の若者の一人の顔が思い浮かび(そいつも本当にいい若者だ)、もし新しい世代が新しい時代を築くチャンスを与えられていないなら、僕たちジジイになりかかっている連中は、上の世代が僕たちにやった事と同じことをしているのかもしれない、なんて思った。

それは最悪である。滅ぶべき国がさらに滅んで行くだけである。硬直した国や組織に新しい世代の活躍する場所が用意出来ないなら、せめて世界へ出して羽ばたくチャンスくらいは与えた方がいいのかもしれない・・・

 さてだらだらと過ごす休日の時間が続いて行く。次は何を見ようか。パンデミックが終わったら、「海外出張はホテルに出るゴキブリとかがデカいから苦手っス」とか言っているあの若者を、ニヤニヤしながら送り出してやろうかな。

老人だらけのこんな国には無いものを見て、何かを感じて、新しい時代を築いて行ってくれたらな、という期待がそこにはある。

もはや恋愛映画を見た感想とか、どうでも良くなっているね。恋愛映画なんて見る年齢ではなくなったってことだね。と、ソファに寝ころび独りごちてみた。

暖かい春の日の休日の一日だ。まどろみつつ、若者時代を過ごしたあの東京の風景を思い出している。

平凡な勤め人が時々ちょっと贅沢して普通に幸せを味わい尽くしたこと

平凡だけど幸せな休日を、お腹いっぱい味わいたいなと思い、実行してみる。そんなフツーの勤め人のフツーの休みの日の話である。

 朝、目が覚め、まだシゴトの数字がぐるぐる回っている。あ、そうだ。あの国はまだロックダウンしているんだった。エアー便も空港でストップしていて、緊急対応ったって手の打ちようがない。海外工場の生産がストップしているから、週明けにはまた大騒動だな。ヒステリックな檄が飛ぶだろう。いつまで続くのかこの世界的大混乱。が、続けていかないと。

全部が終わる2年くらい先には、史上まれにみる大恐慌とか来ていて、大混乱の死地を乗り切った地上の星たちは、ハイご苦労さんってな具合に次々リストラされるのかな?なんて暗い想像をしながら、さて、ともかく土日は全部忘れて、幸せな休日をお腹いっぱい味わうぞって、外へ飛び出して行く。

「久しぶりに海鮮が食べたいのです」

という僕の願いは無事承認され、車に乗って走り出す。って早速お腹がすいたぞ。途中で腹ごしらえだ。サービスエリアによれよれと入って行って、料理の匂いにつられよれよれってラーメン屋に入って行く。

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大阪の有名店が監修したらしい。シンプルな鶏がら塩味のスープにオリーブオイルがふんわり乗せられ、細麺に絡む。美味しい!

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味玉の中身のトローリ黄身がスープに溶け出すと、これまたサイコー!

さて、早々と目的地に到着したので、チェックイン前に動物園だ。今日はな~んにも考えないぞ。動物だ、動物だ。檻に捕らわれた悲しい獣(けもの)たちを、いっぱい見るぞ。そしてたくさん歩いてお腹をすかせて、夜は宿でバイキングだ。

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いや、悲しい獣とかじゃなくて、結構、のほほんと楽しんで暮らしんでいるみたいなんですけど・・・

バリバリ音を立てて、激しく笹を貪る様は迫力満点。中国語で大熊猫さん。はぁ?何か文句あるんか?と言わんばかりのふてぶてしさが魅力。

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フラミンゴは幸運と愛の鳥です。なぜ愛の鳥かというと、2匹が向かい合って並ぶとハート型になるから、ってそんなシャッターチャンスはなかったけど、やっぱり縁起がよさそうな鳥だね。僕のセルマー(サックス)には、このフラミンゴたちが刻印されていて、アフリカの大地のどこかで、いつか思い切り吹いてみたい。

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バッファローたち。一番見たかった動物。高校生の頃、よく学校をサボって映画館に閉じこもっていたけど、そのときダンス・ウィズ・ウルブズという映画を見て、いっぺんに好きになった動物。この背中の曲線が堂々としていて美しい。映画はフロンティアがまだ残っていた古い時代のアメリカの話だった。

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バスのすぐ横をのそっと出てきたトラさん。毛並みが本当にきれいだ。こういうのを実際にアジアの野生の森で見たら、まぁすぐに命を失くすのかもしれないけど、そのフォルムの凛々しさに、一瞬目を奪われるかもしれない。

 さて、動物園をウロウロしているうちに、だいぶお腹がすいてきた。宿へチェックインだ。お風呂だ。な~んにも考えないぞ、仕事も数字もおさらばだ。

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部屋にお風呂がついているので、本日はこちらと冷蔵庫を行ったり来たりする予定。途中のコンビニで買ったたくさんのビール缶を、せっせと冷蔵庫に詰め込む。

ハイ、これからが本番です。

お湯は本当に気持ちよかった。温泉の香りと磯の香りと土の匂いが、大きく深呼吸した胸いっぱいに広がり、湯船の中でふうって息をつく。疲れがどんどん溶けて流れ落ちて行く。

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ありがとうございます。

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本当にありがとうございます。

さんざん食べて、もうお腹いっぱいだったけど、やっぱりもう一回食べて、もうエビは十分です、刺身も十分ですってなったので、部屋に戻ってもう一度お風呂にザブンッ!

あとはお湯につかり、冷たいビールを飲んで、またお湯につかり、幸せな時間を過ごす。な~んにも考えません。仕事なんて知りません。ただただ、温泉の香りとビールの味を楽しみ、夜をたらたらと過ごして行く。

平凡だけど幸せな休日。ほんの時々、こんな贅沢をしつつ、あとは地味にコツコツと、静かに静かに、ウィークデーは忍耐強く生きて行く。

もうすっかり年を取ってしまった国の、すっかり年を取ってしまった勤め人の、平凡で一般的な、フツーの休日だ。家人は隣でニコニコしている。だから僕は、十二分に幸せな人生だ。

南国の人々の逞しさと生きる喜びは、きっと強い太陽の眼差しのおかげだと思ったこと

 いきなり行けと言われてたった10日間で準備し、アセアンの工場へ飛び立った。そこからは毎日が仕事だ。朝から夜中まで、その生まれたての工場で、僕は現地のニューカマーたち相手に死に物狂いで働き、運用を立て直し、日本の部隊と会議を重ねて必要な技術支援を要請し、また現場へ走って、それは土曜日の深夜まで及んだ。日曜日はホテルの部屋から一歩も出ず、朝から晩までかけて報告書を作成し、また月曜日の朝がやって来る。そんな1か月だ。

 南国の人々は控えめで大人しく、一生懸命だった。この日本からやって来た丸い目の日本人の、いかにも日本人がやりそうな緻密な管理、細かいゴール(納期)の設定、整理し順序立てられたプロセスの指導に対し、最初は遠巻きに、少しずつほだされて自分たちなりにチャレンジを始め、褒められて、前のめりに頑張り始めた。

ウン、アジアの人々は、それぞれの国で組織の動かし方とか、大事にしていること、傷つけてはいけないこと、それぞれが違ったとしても、相手を想い一生懸命接すると、必ずそれぞれのスタイルでその一生懸命さが返って来る。

有難いな、なんて思いながら、朝晩の気温が5度くらいで「春はまだかい」の日本から、いきなり35度の常夏の国にやって来て、「おいおい、太陽が完全に夏の太陽じゃんか、冬からいきなり夏だなんて、こんなの付いて行けねぇよぉ、勘弁してくれよぉ」と初老になり始めた自分の身体が悲鳴を上げているのを感じていた。倒れてはならない。それは日本に帰ってからだ、なんて気持ちを張って、働き続ける。

 何百年もの間、白人たちの植民地だったその場所は、混血が進み、地元の血と白人の血と中華系の血と、要するに色々な顔や瞳の色、髪の毛の色、バラエティー豊かに混ざって、どの顔も日に焼け、いつも笑顔だった。他人を押しのけて上に立つ、という喧嘩も始まらず、仲良く頑張る。オリジナルに拘ったり誇りを持ったり、それらを守るためなら争いも厭わない、というのではなく、便利なら高いものを買わされようと買い、クールならそれが異国の文化でも従容として受け入れ、しかも楽しむ。だから使う側というより使われる側に立ちやすいけど、だからと言って卑屈になる訳でもなく、あるがままを受け入れ、神に感謝し、家族で支え合い、笑顔を絶やさない、そんな人々だ。

やれ民族の起源がなんだとか、誇りがなんだとか、国を豊かにするためにどうやって海外と戦うとか、そいういうのはあんまり向いていないので、気にしない。結果的に国の中は、すぐにそういうのに熱中して他を出し抜こうとする東アジアの連中(もちろん我々もその一種)の資本だらけだけど、別に気にしない。仕事がたくさんあれば、外資だろうと国内産業だろうと、助かるよね、それでお金が貰えれば、家族みんなでご飯が食べられる。そんな感覚だ。それは彼らの明るさでもあり、逞しさでもある。それ以上の幸せがどこにあるの?って具合だ。

 この逞しさ、決して無理に努力して獲得したものではない、あるがままの自然な彼らの逞しさは、いったいどこから来るんだろうか?熱帯気候が育む豊かな自然から?

そんなことをぼんやり考えながら、早朝にホテルに迎えに来た車に乗り、工場へ向かう途中の窓の外の風景を見ていた。

30年前に大噴火を起した火山が朝焼けの隣に姿を見せる。朝霧に包まれ、ふわっと宙に浮いているみたいで、雲の帽子をこれもまた頭の上に宙に浮かせ、茫洋と立ち現れている。

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そう、今からまた夏の太陽を、熱気にあふれたあの光線の祝祭を、この草原に覆われた地面に、注ぎ始めるのだ。朝のそんな風景と、昼間にやって来るであろう強烈な太陽の光が、なんとなく想像の中で重なって、うん、きっと彼らの優しさとか逞しさは、今から注がれるあの太陽の光のおかげなんだな、と思った。

日本からやって来た、疲れたサラリーマンのぼんやりした想像である。

バタイユは太陽の過剰なエネルギーが人を破壊行動に走らせると言ったし、カミユは小説の主人公に「太陽のせい」と言わせて罪を犯させた。が、そんなヨーロッパ人が考えそうな思想は、アジアにはない。そんなのは支配しに来た側の異質な感覚だ。

太陽は地元の人々の肌を焦がし、果物を甘く熟させ、豊かな穀物の実も実らせて、ついでに草原にいる獣たちを太らせ、今度はそれらを収穫した地元の人々が、皮を剥ぎ、肉を引き裂き、火であぶって、お腹一杯になるまで食べ、そのあと音楽に合わせてみんなで踊り、夜明けまで祝祭を続ける。そうしてまた朝が来て、霧の彼方から太陽が姿を再び現す。何百年も何千年も、仮に侵略者によって血も文化も変更させられる事があったとしても、太陽が光を注ぐ限り、彼らは暗く落ち込んで閉じ籠ったりなんかしない。恨み続けることもしない。毎日を楽しみ、味わい、逞しく楽しんで、生き伸びて行く。

 さて1か月ぶりに帰って来た日本は、やっぱり寒かった。袖の付け根が少し破れたダウンジャケットがスーツケースに入らず邪魔だったので、向こうでつい捨てたのが失敗だった。少々破けていようと、ちゃんと持って帰ればよかった・・・すんごく寒く感じる。また身体が「おいおい」と愚痴り始める。

あっという間の1か月だった。夢中で仕事し、彼らの笑顔に囲まれ、彼らの穏やかな情熱に火が付くよう、僕は全力で工夫した。

I hope things get back to normal soon・・・・

うん、大丈夫だよ。世界は決して元に戻らないけど、ひょっとしたら、もっともっと取り返しのつかない過ちを犯すかもしれないけど、でもきっと大丈夫。

太陽はこれからも貴方たちの小麦色の肌を焼き、貴方たちにおいしい果物を、そして丸々と豊かに太った豚や牛や鳥たちの肉を与え続け、貴方たちはそのまま自然にそれらを享受し、そのまま逞しく、笑顔で家族と太陽の贈り物を分かち合いながら、楽しく暮らして行けると思う。それは何百年も何千年も貴方たちが繰り返して来たことだ。たかだか100年ちょっとくらい前に世界の舞台に踊り出したサムライの緻密な技術を受け入れようと、或いは受け入れまいと、あまり関係はない。あなたたちは最初から人生の幸せを知っている勝者だから。

 シティホテルの狭い一室のガラス窓からは、足早に歩くスプリングコートの群れが見下ろせる。皆、静かで、表情なく、何も語らない。笑うこともないその群れが、都会のアスファルトの上を、駅に向かって黙々と歩いて行く。

ここはまだ、早春の日本だ。

東京の雪の景色を映像で見ると、北欧映画の数々を思い出すこと

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東京は大雪になるらしい。というか今年はやたら寒く、やたら雪が降る。比較的暖かい僕の住むこの地方都市にも、今年は何度か雪が降った。

東京時代、雪がチラつくとなんとなく北欧映画が見たくなって、レンタルビデオ屋へ足を運んだ。当時は笹塚に住んでいて、会社から帰る途中、駅から出て甲州街道へ歩きながら粉雪がチラつくのを目にすると、スーパーに立ち寄って夕食の食材を買った後、アパートへ向かう途中にあったレンタルビデオ屋に入り、いろいろと借りた。そして一人鍋なんか作りながら、ゆっくりテレビデオで作品を見るのだ。「ボクたちはみんな大人になれなかった」の時代の一人の若者の話である。

 北欧映画といってもいろいろあるが、90年代であれば「春にして君を想う」が有名な作品だ。これは老人ホームから抜け出した幼馴染のカップルが、ホームを抜け出し、生まれ故郷へ死への旅路に出かける話を描いた美しいロードムービーである。作品中に映し出されるアイスランドの圧倒的な自然の風景の連続に、そこに住む人々の死生観、日本人が持つニュアンスと違う「自然に還る(かえる)」を見せつけられる、そんな作品だ。人間は自然から生まれ、自然に戻って行く、それが生と死ということ。

 最近見た北欧映画では「ハロルドが笑うその日まで」(ノルウェー映画)があり、やっぱり雪国の生活は大変そうだな、なんて思ったし、妻に先立たれて死のうとするところから始まっていて、あぁやっぱり北欧映画のストーリーにありそうだな、なんて思った。中身はものすごくブラックユーモアに富んだオシャレな作品である。

そしてこれも最近見た「幸せなひとりぼっち」(スゥエーデン映画)も、やはり妻に先立たれた老人が首をくくろうとするところから話が始まる。これは主人公の妻の墓参りの仕方(リラックスしてピクニックのように墓石のそばで過ごし、故人に語りかけ続ける)がものすごく自然でいいなぁ、なんて思った。日本の墓参りは、所作に無駄がなく短時間のご挨拶で終わる。だから主人公がダラダラと墓のそばで過ごす、というその様子がとても印象的だった。好きなシーンだ。

と言う訳で、北欧の映画はなぜか死を扱いたがる。何か理由があるのかな?

そんな大学の講義(映画論)とか、そういう類の比較文化論がありそうだけど、素人の僕は不案内だ。ただ、雪景色の中で暮らし、雪に閉じ込められた長い冬を、暖かい家の中で長時間、静かに過ごし、生と死をじっくり、そして、人生を、ゆっくり見つめ直す時間を、彼らは大切にしているのかもしれない、なんて想像している。

社会保障の税負担率がべらぼうに高い、幸福度は高いが自殺率も高い(実は日本人ほどではない)、いろいろ言われるけど、それぞれ国にそれぞれの歴史と事情があり、そもそも僕たちは「北欧」とまとめているけど、「東アジア」で日本と周辺の国がひとまとめにされるくらい乱暴な話だと思う。

だから、安易な社会論や比較文化論に陥るのではなく、フツーに「うん、そうだよね。最後はみんな一人で死んで行かなきゃ。だから残される側は誰だって辛いよね。そしてその苦しみは大昔からニンゲンが味わって来たことだし、大昔からのニンゲンのテーマの一つだよね」くらいの素直さで、僕たちは北欧映画を見ればいい。

でも、なぜこんなに扱うテーマは重いのに、北欧映画はいつだって、自然の圧倒的な美しさとか、人間の滑稽でユーモラスな哀愁とか、ある種の明るさ伴うのだろうか?この明るさは、北欧映画の大きな魅力の一面だ。

とここまで考えると、要するに雪景色の中に閉じ込められて、ニンゲンがニンゲンの生きるという事と死ぬという事をじっくり考えた結果が、こんな明るい作品として表現されるなら、ひょっとするとニンゲンの生と死の本質は、存外、明るいものなのかもしれない。それは僕たちにとって大きな希望だ。映画の主人公たちも、結局は希望を取り戻しながら生き、死んでいく。

世界は美しい自然に満たされ、人間はやっぱり身近な人間を愛し続け、いつか雪景色の中に閉じ込められても、君を想いながら幸せに独りぼっちの生活を楽しみ、いつか笑って死んで行ける。ある人はそれを人間の強さと言うかもしれない。でも僕はこれを人間の明るさと言う。

だから、僕は雪景色に厳しさとか孤独のイメージを持ってはいない。それは北欧映画から学んだこと。東京の雪景色に、あの北欧映画の数々を思い出しながら、ニンゲンが生きることと死ぬことの明るさを思い返している。希望はあるということだね。

東京はもうすぐ大雪になるらしい。

親ガチャという言葉で一番好きな映画を思い出し、家族のことを思い出して、やっぱりイタリア郷土料理のティンパーノを作ってみたいと思ったこと

一番好きな映画はと言われれば、「シェフとギャルソン、リストランテの夜」を挙げる。もちろんそれ以外にも甲乙つけ難い映画はいっぱいあるけど、どれか一つを選べと言われればこの作品を選ぶ。内容はこんな感じだ。

 1950年代のアメリカの田舎町で、イタリア移民の兄弟(プリモとセコンド)がイタリア料理のレストランを営むも、アメリカ人向けの料理を作れない兄プリモのせいで店は全然流行らない。プリモは頑固なシェフで、自分たちの故郷の「本物の」イタリア料理にこだわっているのだ。アメリカ人好みの味付けに変えた料理を出せば店は流行るだろうが、プリモは自分のプライドがそれを許さず、絶対にそんな料理は作らない。そんなカタブツの兄のせいで店の経営がどんどん苦しくなって行くから、弟のセコンドは苛立ちを募らせつつ、兄の頑(かたく)なさが理解できず、それでも資金繰りに苦労しながらなんとか店を存続させようと努力する。

そんな中、知り合い(ライバル店のオーナー)に、宣伝の為に有名なジャズシンガーを店に連れて来てやると話を持ち掛けられ、兄弟はこれを最後のチャンスとばかりに財産をはたいて大一番のディナーを準備するが・・・

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 個性的な一人ひとりの登場人物の魅力はもちろん、流れるジャズミュージックのセンスの良さ、ディナーで出て来る料理が全部美味しそうに見えること、この映画の魅力は尽きない。

が、僕はそんな風に、音楽いいなとか、美味しそうだなとか、軽い気持ちで見ていたけど、エンディングの次のシーンで不覚にも号泣した。

朝、疲れ切った夜(この映画の原題はBig Night。兄弟は大騒ぎの末、それまでの互いへの不満をぶつけ、大ゲンカしている)を越えて、途方にくれながら、兄弟二人は調理場で黙って肩を並べ、卵を焼いたものを食べる。店の存続は絶望的であり、将来は見えない。二人は何も会話をせず黙々と食べる。そしてお互いの背中を叩きながら、肩を組んで、やっぱり黙々と食べるのだ。それがエンディング。たったそれだけ。が、僕は号泣した。なぜか?

これは二人きりの男兄弟を持っている人にしか分からない感覚だ。そう、男二人の兄弟というのは、たいてい、本質的には正反対なのである。他人の目から見れば表面的には似ていても、根本的な価値観とかは、どういう訳か同じように育てられても正反対になってしまうのである。

そしてそんな決して越えられない違いがあるからこそ、ある地点で、どこかの場所で一緒に宿命とか運命を共有した瞬間、僕たちは世界中の誰よりも繋がりを感じるのである。プリモとセコンドが二人で一言も交わさずに朝食を食べるそのシーン、絶望的な状況の中、肩を並べて黙々と食べるシーンに、僕は自分と自分の兄とのこれまでの人生をつい重ね合わせ、涙が不意にこぼれた。

 家が貧乏、というのが僕の兄の人格形成の中で大きな意味を占めていたのは間違いない。バブル全盛で友達の親がやたら羽振りよくなり、海外旅行へ家族で行ったり、子供に家庭教師をつけたり、留学させたり、そんな一方で、僕たちの父親は職人の身で失業し、自転車に乗ってアルバイトしに行っていた。母親もパートに行って家計を支えた。借家を転々とする。それが僕たちの子供時代だ。

が、両親は賢い人たちで、朝から晩まで働きながら、自分たちの田舎にある実家から野菜や米を送ってもったりして、子供たちに食べるものには苦労させなかった(子供たちに空腹な思いはさせなかった)。田舎から送られて来た野菜はどれも新鮮で、母親はその新鮮さを子供たちにニコニコ語り、子供の僕はウン、こりゃ確かにうまいぞ、新鮮な野菜が食べられるって運がいいな、おじいちゃんとおばあちゃんに感謝だ、なんて素直に考えていた。という横で、一切、料理の味に感想を言わない小学生の兄は、黙々とご飯を食べていた。

教育も同じだ。両親はお金がないから僕たちに一切の習い事をさせることが出来なかったが、通信教育くらいならなんとか費用を捻出できたので、それを申し込んで子供たちにやらせた。小学校時代は学校から帰って来ると、学校の宿題はもちろん、その通信教育の算数と国語の課題(テスト)を1日1枚やってからしか、外へ遊びに行かせなかった。僕たちは学校の宿題はすぐに終わらせることが出来たけど、その通信教育のテストはすごく難しくなかなか終わらなかった。

夜、父親は子供たちから提出されたテストの回答を添削し(正解集は父親が持っていた)、子供たちに計算の間違いや、文章の間違いを指摘して教育した。中学しか出ていない父親でも、さすがに小学生くらいの算数や国語は教えられる。

その後、子供たちが中学に入ると、Z会(これも通信教育)を使って勉強させた。Z会の添削による指導内容は非常に中身が濃く、もはや父親がフォローする必要がなかった。僕たちはそんな風に、塾に行かなくても学校のプラスアルファで勉強していたし、僕は「ああ学校の宿題だけなら余裕なんだけどなぁ」なんて思いながら、それでも通信教育の練習問題をせっせとこなしていた。

兄はそれでも足りないと判断したのか、さらに書店で参考書や問題集を買って来て自分で勉強していた。とんでもないガリ勉だ。マンモス中学に通っていて、1学年の人数が480人くらいいたけど、兄は中学3年間の実力テストの成績をずっと1位で通し、他に譲らなかった。3つ年上だったから、兄が卒業すると同時に、僕は同じ中学校に入学し、兄の学年の担任をしていた先生たちがそのまま下りて来て1年生となった僕たちの学年の担任をしたので、入学時に「お前があいつの弟か?」なんて授業で言われたのを覚えている。もはや伝説の人だった。僕はどんなに勉強を頑張ったって学年で1位なんてとれないから、褒められることもなく、マジ嫌だなぁ、損だなぁ、なんて思っていた。

だから次男坊である僕は、美味しい野菜もたくさん食べさせてもらったし、あんまり好きじゃない勉強も、人よりたくさんさせられたな、なんて振り返るのだ。家が貧乏だからって、それで何かを感じることなく、僕はのびのびと成長した。

が、長男というのは、全然違うみたいだった。

兄は何かを背負うように勉強していたし、弟の僕が学校のテストで悪い点を取ってくると間違ったところを僕に教え、僕の理解が遅いとぶん殴った。なんて人だ、勉強で殴られたのは、両親でも先生でもなく、兄貴だったのだ。そして彼は思春期になると、自分たち兄弟の置かれている状況がいかに将来にとって不利か語り、一生懸命がんばらなきゃいけない、と僕によく言った。高校生として進学校に通う兄は、大学受験に向けた勉強の中で、さすがに独学で勝ち抜く不利を感じ始めていたようだ。都市部の大手の予備校へ電車で通わせてもらったり、家庭教師をつけてもらったりするライバルたちを凌ぐのは、かなり難しい様子だった。教育にお金はかかり、お金をかけてもらえる子供が、将来お金を稼げるように有利な立場に立ちやすいのである。古今東西、どこでも同じだ。

で、子供のころからご飯を食べることも勉強することも、何も文句言わず黙々とやってきた兄は、思春期に一気に苛立ちを募らせ、父親と対立することが多くなった。職人の父親も気の強い人だったから、まぁ男の子がいる家庭にはよくある話だけど、殴る蹴るもフツーにあって、古い借家の壁やドアは穴だらけだった。そんな日々だ。

そして兄が高校を卒業する際、彼が選んだ道は、「分子生物学の勉強をしたいが、そんな学科はこんな田舎の駅弁大学にはないので、都会へ出て行く。奨学金を借りて全部自分でやるので、今後は自分の人生に親は関わらないでもらいたい」というものだった。

そしてその後、本当に家を出て都市部の国立大に入学し、国の金で修士号まで取ってしまった。生活費は貸費の奨学金を借りたみたいだったが、学費は大学4年間の分も、大学院時代の2年間の分も、途中でアメリカに1年間留学した分も、全部、試験を受けて給費の奨学金を手に入れ、国に金を出させた。有言実行である。

父親は本当は、長男である兄に地元の国立大学を出てもらって、地元で働き、家庭を築いてもらって、孫の顔を見たかったのだろう。家を出てからほとんど実家に立ち寄らない、そして立ち寄っても父親と顔を合わせずに帰ってしまう兄、「お金を稼げない」ということで思春期に入ってから自分を罵倒し続けるそんな兄に対して、一人の男としてのプライドや、父親としての面目が潰され、口を開けば怒りが出て来る一方、その長男の近況が気になって仕方ないみたいだった。母親に「あいつはどうしているか?」を何度も聞いていていたらしい。

一方、同じ環境で育てられた僕は野菜の新鮮さに感動しつつ、料理の味にうるさい、そして勉強好きの兄貴のおかげで、そこそこ勉強させられたぞ、なんて考えている、ちょっとのんびりした人間に育った。「東京へ行って色んな種類の人間と接し、たらふく遊んでみたい」なんて好奇心剥き出しのお馬鹿な動機で大学に入学し、兄同様に仕送りがなかったから生活費こそアルバイトで稼いで食いつないだが、学費は全部、貸費の奨学金を利用した。利子がつかなかったけど、全額を返し終わるのは30歳を越えてからだった。兄弟でもぜんぜん違うや。なんて今でも思っている。

でも僕だって、大学に入ってから、遅ればせながら、今でいう「親ガチャ」の意味を理解したのだ。大学はぶっ飛んだ金持ちの子供が比較的多く通うことで有名な私立大学だったので、時々、世離れした同級生に出会うこともあった。生まれた時から「お金」を意識する必要のない連中だ。そういう身分の人たちが結構の数でいるということ。それは知識として知っているのと、実際にそういう階級の連中と接するのでは、全然違った。それはこの世の不合理な真実の一つだ。

そして大学卒業後、超買い手市場の就職戦線で玉砕した同級生たちは、別の途(みち)を見つける際に、両親の支援を更に得られるかどうかで運命が分かれた。ある者は公認会計士司法書士を目指して、両親からの支援を更にもらって資格学校に通い始め、ある者は卒業直前に休学して海外留学し、英語力を武器に翌年の就職活動を改めて戦い、社会に潜り込むことが出来た。他方、僕同様に大学卒業にて、「もうこれ以上はお金がありません(お金は借りられません)」という連中は、ブラック企業の社員だろうと、派遣社員だろうと、フリーターだろうと、食べて行くために、どんな形でもいいから働くのみだった。

20代に「金がねぇ、奨学金の返済が重いやぁ、仕事がブラック過ぎだぁ、世の中は俺たち若者のことなんて見る余裕はねぇ、どっかで死んでても気にしねぇ、転職してランクアップなんて時代は当分は来ねぇ」なんてヒーヒー言いながら、若さを燃焼させていた。

「親ガチャ」なんて今に始まったことではないし、大昔からもっと酷いレベルであったし、海外ではもっと露骨である。それが国際基準である。この世が不平等なのは、夜が明ければ朝が来る程度に当たり前の話なのである。

でも遅ればせながら、僕は持つ者と持たざる者との違いと、決して人生は公平ではないことを、20代の自分や周りを見渡して、感じていた。幸い、既に僕は大人だったから、「親が」なんてアホな話ではなく、「自分が」どうすれば持たざる者のまま年を取り死滅しないで済むのか、他の同世代と酒の席でそんな話をしながら、考えていた。

そして僕が27歳の時、父親がガンで死んだ。

いよいよ危篤かもって母親から電話があったけど、僕は当時、関東にいて、地元の病院へ到着した時は既に亡くなった直後だった。そしてそこにほぼ10年ぶりに顔を合わせる兄がいた。僕は東京へ出て行ってからも、お盆や正月には実家に帰ることがあったが、兄は必要がない限り実家に立ち寄ることがなかったので、僕が高校を卒業して以来、ほぼ10年間は、電話で話すことがあっても顔を見ることがなかった。実に10年ぶりに兄の顔を見たのである。泣き叫んで母親がしがみついているベッドの上の父親の亡骸(なきがら)の向こう側に、すっかり大人の顔をした兄がちょっと手を挙げ、笑顔で「久しぶり」ってあいさつした。僕もちょっと手を挙げ、笑顔で返した。奇妙なご臨終の場面である。

その後、葬式の段取りをするところから葬式までの数日間を一緒に過ごしたが、兄はあんまり変わっていなかった。修士号を取ってまで勉強した分子生物学はとっくの前に放り出し、ある会社の役員としてその会社の海外進出や株式上場に熱中している最中だった。人に使われるサラリーマンは嫌だと言っていたから、そのままその言葉も有言実行をし続けているみたいだった。ブチブチ文句を言いながら、土日を楽しみに人に使われる道を選んだ僕と、やっぱり対照的だ。

でも僕たちは互いに近況を雑談しているうち、あぁなるほどな、と感じていたのだ。そう、僕たちは極端に貧乏ではなかったけど、お金には苦労しているし、これからもこの圧倒的についた差(高度経済成長からバブルまでにその家がどれだけ財を蓄積できたか)は、付いて回るんだろね、という諦念に似た感覚である。第二次ベビーブーマーたちは、その後どんなに頑張っていい大学に行こうが、どんなに努力していい会社に入ろうが、そんなんでは埋められないくらい、親の世代で決着がついていた。まぁ仕方ないよね。焼け野原から復興し、大きくコケるまでの2世代くらいの間で勝ち負けが決まったのがこの国の戦後の富の歴史だからね。

という訳で、父の遺産は、郵便貯金の15万円だけだった。借金は一切残さず、きれいな生き方をして、ジャズを聴いて楽しんで、愛する妻が大好きで、あっという間に死んだ。羨ましい限りだ。

その後も、僕は地元にUターンして来たが、兄は実家に帰ることなく、立ち寄ることもなかった。父が死んでだいぶたつけど、僕が年老いた母が住む実家の近くにいるから、なおさら安心して、1回も帰って来なくなった。兄はまだ、思春期に感じたあの不公平感と不利な状況を覆すために、外で戦い続けているのだろうな、なんて想像し、同じ兄弟として半分は理解でき、でもそんな風な価値観や生き方を選ばなかった僕との違いを不思議に思っている。

きっとあと数十年たって、それまで一生をかけて築いて来たものが、一方は会社だったり、一方は家庭だったりして、でもその頃にはいずれも全て失っていて、老人ホームで再会したら、僕たち兄弟はプリモとセコンドみたいに肩を叩きあって、黙ってご飯を食べるのかな?生き方も価値観も違う二人が、でも必死で生きて来た結論が、こんな感じのしょぼくれた老人たち、っていう哀愁を感じながら、僕たちは再会するのだろうか?

そう、その時はきっと、僕たち兄弟は、それまでの生き方や価値観の違いを越えて、長い道のりを越えて、生まれて来た宿命と一緒に育った運命を改めて共有し、世界中の誰よりも繋がりを感じることが出来るのかもしれない。それはもはや年老いて、互いにこの世を去る直前の話かもしれないけど。

ちなみに、この作品にはプリモが渾身の力を込めて作った「ティンパーノ」という料理が登場し、僕はこの作品を通じて初めてこのイタリアの郷土料理を知った。色々な具材をパスタで包み込み、大きなボールで焼いた料理である。糖質制限の食品が全盛の今のこの国にあってはトンデモ料理だけど、自分たちが美味しいと思うものを全力でぶち込んでそれらにハーモニーを与え、一つの真心を込めた料理に完成させる、という昔ながらの郷土料理の、ニンゲンの気持ちの温かさを感じることが出来る、まぁその作品を見たら必ず食べたくなる料理だ。いつか挑戦してみたいな、なんて思っていたら、結構これに挑戦して料理している(やはりこの映画を見て)人がいるのをネットを見て知った。なるほどね。いいものは皆いいと評価するんだね。

 兄は人に使われるのは絶対イヤだから、人を使う側になりたい、と若い頃から言って、血の滲む努力をして来たみたいだが、実は「人に使われるのは絶対イヤ」というのは、まさに兄が軽蔑した、誇り高い職人の父の口からよく聞く言葉だった。だから父は一つのアルバイトが長続きしなかった。そして料理の味には無頓着で、子供時代に母親が大失敗したヒドイ味付けの料理を、父も兄も同じ顔をして、文句を言わずにむしゃむしゃ食っていた。要するに、子供の僕から見たらそっくりだった。

というのを、弟の僕はいつか、老人ホームの食堂で兄の肩を叩きながら、言ってやろうと思っている。

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