失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

芸術を味わうということ

 「芸術」というと何だか高尚なイメージで、芸術を鑑賞しに行った、なんて口にしてしまうと、ちょっと意識高い系の連中と一括りにされそうで、凡人としてはついつい怖気づいてしまうのだが、美術館へ行って作品を見たり、お気に入りの作家の個展へ出かけることだけが、本当に芸術を鑑賞することになるのだろうか?と考えてしまう。だいたい「芸術を鑑賞する」というのはステレオタイプの表現で、意味が限定されてしまうような気がして、どっちかというと「ゲイジュツを味わう」くらいの表現の方が僕はシックリくるなぁなんて思うのだ。もちろん美術館や個展に足を運ぶことも素敵な時間を味わういい機会になる。でも、もっと身近で、朝起きて、歯を磨いて、なんてフツーの日常生活の中から、ふと立ち止まる瞬間として、「ゲイジュツを味わう」があれば、それが一番自然だなぁと思う。

 山崎正和という人は著書の中で「芸術」をよく扱って議論していたが、高校生の僕は彼の評論を読み漁っているうちにすっかり影響されてしまって、しかも10代の頃に影響を受けた考え方は結構そのまま大人になっても考え方の原型を成している場合があり、従って僕の「ゲイジュツ」に対する考え方は、今思うとほぼほぼ山崎正和という天才の受け売りだ。今も書斎の本棚の奥に彼の書籍は大事にしまってあるけど、その中の「人生としての藝術」という評論の中で、「人生のための藝術」か「藝術のための藝術」かという数百年前から繰り返されて来た議論を取り上げ、最終的に、どっちでもなく、芸術とは人生の営みの一つであって「人生そのものとしての藝術」が正解、と彼は書いていた。

 高校生だった僕は、ははぁん、なるほどね、と思ったものだ。確かに、個人の人生や個人の集団である社会のために役立ってこそ芸術だ、なんて考え方は、一見もっともらしい。世界でまだまだ大勢の子供たちが飢えている中で、自分の芸術がなんの意味があるのか?なんと芸術は無力なのか?なんて考え方は、すごくヒロイックでヒューマニズムに基づいた考え方に聞こえる。でも、ちょっと芸術を一種の道具にしているみたいで、それが仮に個人の幸福や世の中や利益のために役立つものであっても、やっぱり家電じゃないんだし、役立つというニュアンスが少しでも入ってくると実用的で萎えるよなぁ、なんて思った。だから「人生のための藝術」は全然、腹落ちしなかった。

 一方、いわば芸術至上主義みないな人たち、芸術は人生の幸福とか社会的な利益とかそんな世俗的な低次元のものとは関係なく、世界の最上位を占める最高の価値に関わるものなんだ、そしてオレたちは芸術至上主義者としてこの最高価値に命を捧げるんだ、なんて鼻息荒い野心満々の芸術家たちにも、いやぁな印象しかなくて、「藝術のための藝術」は胡散臭さしか感じなかった。

 だから、「人生のための藝術」でもなく「藝術のための藝術」でもなく、「人生そのものとしての藝術」というのが、「藝術」って難しい漢字を使ってるなって思いながらも、なるほど、生きるってことそのものが一種の悲劇や喜劇で、だから文学に僕たちは魅了され続けるんだよな、平凡でちっちゃな人間の平凡でちっちゃな生活の中に、あぁ奇麗だなぁとか、あぁ趣があるなぁとか、あぁ哀しいなぁとか、しみじみ感じるものがあるればそれがゲイジュツなんだよなと、しっかり腹落ちが出来た。そして今も、ゲイジュツに対する考え方はそこから変わっていない。

 家族の健康を祈って買ってきた動物の置物とか、当時はCADなんてなくて手で図面を描いたであろう大昔のの古いカメラなどの工業製品とか、このあいだニトリで買ってきた普通のシャンプーボトルの優しいフォルムとか、普段の日常生活の中で、なんとなくそれらを眺めて立ち止まりぼんやり物思いに耽る瞬間など、一種の芸術を味わっている時間なんだと思っている。芸術は人生の向こう側にあって役に立ったり、人生とは別の場所で光を放つものではなく、この生きて行く一つ一つの行為の中に、しみじみ味わうものとして立ち現れるものなのだ。だから、凡人は怖気づく必要などなく、目に映るものや風景を大切に、じっくり生きて行けばそれでよい。僕たちは高尚ぶったり、おしゃれな自分を演出する必要はなく、フツーに平凡に生きて行けばそれでいいのである。だってそれがまさに、芸術を味わうことだからである。

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