失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

好きな音楽を語るということ

 音楽は何が好きって言われれば、迷わずジャズって答える。またまたぁ、カッコつけちゃってさぁってからかわれそうで、27歳まで正直に答えず、そうだねぇ、何だって聞くけどねぇ・・・という具合にその時まで適当に友達に答えていた。

 僕が27歳の時に父親が肺がんで死んだ。父親はジャズとタバコが大好きな仕立屋の職人だった。仕事場にはいつもタバコの煙が充満していて、そこが子供時代の僕と兄貴の遊び場だった。今思うと副流煙がマジでやばかったろうなという環境だったけど、タバコくさいその仕事場には、いつもジャズがかかっていた。高級紳士服の生地は子供の僕の目から見ても別格の色合いと艶があって、父親がタバコをくゆらせ、その生地を眺めてちょっと考えた後、銀色の灰皿にキュッと押し付けて火を消し、それから大きな裁断バサミを手に立ち向かって行く姿は、ものすごく格好良かった。そしていつもジャズのリズムが仕事場に鳴り響いていた。だから、たいていどんなジャズも、僕たちは耳に馴染みのあるものだったし、やっぱり耳にすると落ち着いた。それは大人になってからもだ。

 地方のさらに田舎で育った父親は、戦後に子供時代を過ごし、中学を出たらほかの同級生といっしょに集団就職した。全員が金の卵だ。社会は金の卵たちを大切に迎え入れ、金の卵たちは一生懸命働き続ければ確実に豊かで幸せになれた、そんな幸福の時代だった。いつか「なんで仕立屋の仕事を選んだの?」と聞いたら父親はちょっと恥ずかしそうに「カッコいいスーツを自分で作って着てみたかったからな」と言っていたのを覚えている。そのカッコいいスーツとは要するに、50年代のジャズシーンで輝いていたマイルス・デイビスとかが着ているようなアイビースーツだった。

 そのくせ、父親が一番お気に入りだったのは、40年代でも50年代でもなく30年代に活躍したベニー・グッドマンだった。何でだろう?格好いいと自分で思って作っていたスーツのスタイルは、まさにマイルスが着ていたようなちょっとラフなスーツだったし、僕の高校卒業のお祝いに作ってくれたスーツもそんなモダンジャズばりのちょいワルな感じだった(僕はそれが無茶苦茶ダサくて嫌だった)。でも自分が本当に大好きでカセットテープに何本も録音してナショナルのラジカセでかけていたのは、あの黒縁メガネで生真面目に蝶ネクタイをしていたベニー・グッドマンだったのだ。だからいつかの誕生日のプレゼントに、僕はベニー・グッドマン全集なるCDを贈ったあげた。たいていはナショナルでカセットテープを聞いている人で、家に1台だけあったCDラジカセを使うこともしなかったから、結局、せっかくあげたそのCDも一度も聞いているのを見たことがなかった。

 27歳の時、肺がんは父親の全身を駆け巡り、いよい危篤かもって母親から電話があった。僕は当時、東京にいてその場で上司に電話し、電車に飛び乗った。渋谷まで出て、喪服を持ってきたけど革靴を忘れたことに気づき、いったんアパートへ取りに戻った。途中で買ってそのまま行けばよかったけど、急いでいたのにわざわざ引き返したのは、なんだか死に目に会いたくない、母親が泣き叫んでいるそんな場面は一通り終わってから到着したいな、なんてちょっと頭の片隅にあったから。

 結局、病院に到着したのは、ちょうど母親が泣き叫んでしがみついている、死んだ直後のど真ん中だった。自分はずいぶん間が抜けているなぁ、と思ったのを覚えている。そのあと葬式という忙しい儀式があって、その忙しさは昔の人々から引き継いできた一種の知恵であり工夫みたいなもので、僕たち家族はその忙しさの中で悲しさを忘れ、せっせと葬儀の準備や坊さんとの打ち合わせ、親戚をもてなす食事の準備などをしていた。

 荼毘に付す前日、棺桶に入れる思い出の品を持って来るように言われた。僕はかつて仕事場だった父親の部屋に入り、それらしいものを探そうとした。既に使わなくなっていた仕立屋の道具は、たいていは金属で出来ていたから、燃えやすそうな日記帳とかアルバムとか、そんなのをかき集めた。そして引き出しの奥に、そのベニー・グッドマンのCDを見つけた。まっさらで新品みたいにそこにしまってあった。やっぱり聞かなかったのかなって、蓋を開けCDを取り出すと、ケースの裏にマジックで年月日と「47歳の誕生日に息子から貰う」と書いてあった。昭和の初めのほうに生まれた人は、みんなやたらめったら手に入れた日付とかをこうやってモノに書く習慣があり、父親もそうだった。僕はクスっと笑ってから少し泣いた。ダンボールに詰め込んだ副葬品を葬儀屋に渡すと、葬儀屋は燃えるものと燃えないものを峻別し、そのCDを手に「これもですか?」と僕に聞いた。僕はダイオキシンが出るとかでプラスチック製のものも燃やせないのを知っていたけど、葬儀屋の目をまっすぐ見据え「それもです」とはっきり言った。ベニー・グッドマンは翌日、そのまま父親の体と一緒に煙になった。

 それ以降、好きな音楽はと人に聞かれれば、僕は迷わずジャズと答えている。 

しみじみ探し続けるということ

 ロストとは失ったということ。氷河期とは時間が止まったということ。でも僕たちはそれでも息をしてご飯を食べて服を着替え、毎日、ドアを開けて家を飛び出して行く。そうやって前へ歩き続けて来たし、これからも歩き続ける。

 だいぶ無理をさせて来た体はそろそろあっちこっちがメンテナンスを必要としているけど、胸の内の雑草たるマインドは青々と茂り、まだまだ僕たちは前を向いて歩き続ける。失ったものとか手に入らなかった時間があったとしても、それはそれ。嘆いても仕方ない。目が覚めたら息をし続けるしかない。だから僕たちはやっぱりドアを開け前を向いて歩いて行く。

 頑張ったって何ともならないかもしれない、結論も理由もないままひどい目に遭うこともあれば、決して努力したわけでもないのに上手く行くこともある、そういう子供のころには教えてもらわなかった不思議な世界の中で、それでも頑張らなきゃって坂道を上りながら、僕たちはときどき立ち止まり、あぁ長いや、なんだこの坂は、疲れちゃったよ、どこまで続くんだ?このずっと先は何があるのかな?今さら期待はしちゃいけないのは知っているけど、でも目を凝らしたらあの向こうにはきっと・・・僕たちが失った世界とか手に入らなかった世界が広がっているのかもって、しみじみ考える。ちょっと周りを見渡しながら、しみじみ考えてみる。

 そう、立ち止まった瞬間に人生のずっと向こうを眺めながら、そんな風にしみじみと考えるってことは、僕たちはまだ、しみじみと探し続けているってことなんだろう。

 しみじみ探し続ける。何を?

 僕にとって何を?

 あなたにとっては何を?

  息をし続ける僕たちは、坂道を上りながら、焦らず、投げ出さず、あきらめず、卑屈にならず、そして長期戦なんだから肩の力はたっぷり抜いて、しみじみと人生を味わいながら、それを探し続けている。

  10年前にアジアの僻地に飛ばされた。舗装もされていない赤土の道路を、スラックスの裾をドロドロに汚しながらテクテク歩き、毎日仕事していた。40度を超す気温に身をさらし、汗を流して働いていた。

 ブラック?

いやそんな感覚ではなく、ハエのたかった食事とか、ゴミだらけの路地裏とか、日に焼けた坊主頭の少年の白い歯とか、要するに自分が育った国はたいがい豊かで、小さいけど高品質で高性能な幸せや楽しみが、あそこにはたくさん溢れていたんだと思い知った。

 あれから10年。今もまだ僕は坂道を上っている。小さいけど高品質で高性能な幸せや楽しみがたくさんあるこの国で、生活を楽しみ、テクテク歩いている。上り切った最後の場所には結局、何にもなく空っぽかもしれないけど、そんなことは多分知っているけど、僕は歩き続け、時々立ち止まり、周りを見渡し、やっぱりしみじみ探している。失われた世界が、まだどこかにあると信じているからだ。

夏の思い出と読書するということ

 子供のころの夏休みの楽しみの一つが、「○○文庫の100冊」といった類の各出版社から夏に出される小冊子を書店からもらって来ることだった。カラフルでおしゃれなイラストがいっぱいのその冊子を何度も眺め、自分のまだ読んだことのない本の紹介文を読みながら、いろいろ想像した。

 80年代、僕は小学生だった。紳士服の仕立屋だった父親は既製品の勢いに押されてどんどん仕事がなくなり、僕たち一家は借家を転々として暮らしていた。めっぽう貧しかったけど家族は仲が良く、お金がなかったけど子供の僕はお金がかからない楽しみ(書店からタダの小冊子をもらってくるとか)をたくさん見つけ遊んでいた。

 それでもやっぱり、小冊子を見ているうちに欲しくなった文庫に赤マジックで丸をつけ、貯金箱のお金を何度も取り出しては、買うべきか買わざるべきか悩むこともあった。小冊子で初めて知った作家たちの小説は、きっと僕を新しい世界に引きずり込み虜にするに違いなかった。

 当時、近所の畑がどんどん売られてマンションに代わり、同じ町内の同級生のヨシキのお父さんがベンツに乗り換え、夏休みの終わりに家族で海外旅行に行って来たという証拠の土産を近所から貰うことが多かった。古い家は壊されてこぎれいな別の建物に生まれ変わり、それでも僕たちの家のようにひっそり暮らす人たちの借家はそのまま取り残され、あるいは頑固な老人が営む小物屋の古い建物も取り残され、そんな取り残された建屋の一つに、大昔からそこでやっていた養鶏場があった。

 母親が家政婦として働いていた通りの向こうのお金持ちの老夫婦の家に、その養鶏場から産みたての新鮮な卵を持って行くのが僕の仕事だった。自転車に乗って1㎏分の卵を養鶏場へ買いに行き、もみ殻を敷き詰めたダンボールにまだ温かい卵を一つひとつ乗せてもらって、自転車の後部座席に積み、ゴム紐で縛って、老夫婦の家に向かった。

 老夫婦のお爺さんの方は昔の青年将校だったらしく、カクシャクとした人だった。優しい人だったけど体が大きくて、少し怖かった。僕は卵の入ったダンボールをそのお爺さんに手渡し、卵の代金と数百円のお駄賃を受け取ってそのまま書店へ向かった。

 ○○文庫の中には200円以下のものも結構あったはずだ。ディケンズのクリスマスキャロルもそうだったし、ジキル博士とハイド氏もたぶん百円玉2枚で買えた。

 夏の書店はたいていキンキンに冷房が効いていて、何時間でもそこで過ごしていられた。僕はさんざん迷ったあげく、長い夏休みのあと残りで買わなきゃいけない諸費用も考慮して、200円で買えるという理由だけでソール・ベローの「この日をつかめ」を買った。レジのおじさんに「難しい本を読むんだね」と言われたのを覚えている。

 そう、小学生の僕に離婚とか投資とか分かるわけなく、内容が難しかったし、感想は「お金のないアメリカ人のお話かぁ」でおしまいだったけど、新品の書籍の紙の香りとか、自分の机で読んでいるうちに没頭し、母親が夕食の時間を告げに呼びに来たとき、今いつの時代のどこの国にいて自分が誰だったか思い出すのに一瞬時間がかかったことは、鮮明に記憶している。子供時代の読書は、自分が日本人の子供だったことも一瞬忘れるくらい、心をその世界の中へ引きずり込んで行くものだった。今思うと贅沢な時間だ。今じゃ自分が普通の日本人のオジサンだと一瞬忘れるのは、海外出張中にキツイ酒を飲まされてベロベロに酔っぱらってしまった時くらいなものである。

 今年も夏の100冊は書店に並んでいる。中身をパラパラと見てみたら、子供時代の内容とずいぶん変わっていた。キクチカンって今の子供はもう知らないのかな?昭和初期の文学はテーマが普遍的で文体に迫力があって、今でも魅力的だと思うんだけどなぁ、なんてちょっと寂しい思いもしながら、僕は書店を後にした。

 80年代のあの夏の光の中で、少年だった僕は100円玉を握りしめて書店に向かい、自転車を漕いでいる。

 

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