失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

キョンシーとテンテンちゃんを懐かしく思い出しながら1000年以上前からある古い村の石畳の上を散歩し、最後に大盛りのご飯を頬張って「執着」について考えたこと

2025/12/08

  目が覚めると外は久しぶりに雲一つない晴天だったので、軽く朝ご飯を食べ、コーヒーを飲んだあと、散歩に出かけた。

 タクシーで30分くらい走ったところにある古い村が、ちょっとした観光地になっていて、まぁそういうところはあっちこっちにあるのだけど、その村には古い道観(道教の寺院)の建物が残っていると聞いていたので、一度見てみようと思ったのだ。

 道観はもちろんお寺だから、昔は道士がそこで寝起きして修行していたところだ。となれば、子供時代にテレビで見た「霊幻道士シリーズ」のキョンシーが大暴れしていた舞台だ。なんて、それ程度の好奇心でしかないのだが、いいでしょう。休日の気晴らしは大切である。

 僕の駐在している内陸の僻地は、一瞬の秋(2週間くらい)が終わったら一気に冬になり、一気に気温が下がり、そこからずっと毎日どんよりとした曇り空が空を覆う。

そのままどんよりと曇った毎日が、春まで続くのだ。(ちなみに春も一瞬しかなく、すぐに雨季が始まる)

 なので、長い冬の間に時々は出逢える青空の青が本当に貴重で、タクシーの窓から久しぶりに見たそのまばゆい色が、痛いくらい目に染みた。純度の高い真水が目に入るような感覚だ。決して嫌ではない。

「着いたよ。ここだよ。帰りも必要だったら俺が迎えに来るから、電話しな」

 人懐っこい顔をした運ちゃんが、振り返ってそう言う。

 僕はお礼を言ってタクシーを降りた。朝の白い光が満ちている。

 到着した場所は、いかにも昔の村をそのまま残してみました、という感じのところだった。中心街からだいぶ離れて開発から取り残され、今さら取り壊して工業園を作るよりは、よく考えてみれば100年以上前から建っている古い建物だらけなのだから、歴史的な価値を売りに観光地として再生しましょう、という典型的な場所だった。そこが昔から特別な場所だったという訳ではなく、普通の村だったけど、たまたま昔のままだったのである。

 ヨーロッパとかでもそうだけど、地震がない場所には普通に何百年も建っている建築物がたくさんあって、本当に羨ましい。地震がないということは、大火や洪水などがなければ、そして戦(いくさ)などで人間が自らの手で破壊してしまわなければ、そのままで歴史的建造物が保存され続けて行くということだ。

 日本は、あんなに地震が繰り返し襲い掛かり、結果、大火で何度も焼け落ちる恐れのある場所だから、人々が古いものを大事にして来たその涙ぐましい努力は、そして大事にしてくれたことへの僕たちの感謝の気持ちは、計り知れない。それは地震のないところで生活している人々にはなかなか理解しにくいだろう。

 なんてことを考えながら、清朝時代に建てられたままという古い民家の隙間の、細い石畳の路地の上を、日向ぼっこしながら、僕はゆっくりと歩いて行く。

 冬の青空はどこまでも広がっている。

 田舎だから空気が美味しい。

 そして村の中心部、ちょっと奥まったところにその目的の道観はあった。

 修行道場のようなところが残っているのかな、と思い込んでいたけど、実際には神様を祀った小さなお堂が残っているだけだった。でも立派なものだ。由緒ある道観とのことで、案内プレートには英語でも説明が書かれていた。建物は作り直されているけど、道観自体は既に唐代には存在していたらしく、中に真武大帝という道教の神様が祀られている。

 道教ってあんまり日本人にはなじみがない感じだが、当然、我々の文化はその影響を大きく受けていて、だいぶ前にブームになった「陰陽師」たちの思想や儀式は、その原型が道教から来ている。日本中に像が残っている役小角(えんのおづぬ)という怪人の修験道だって、道教からたくさんの考え方や儀式を取り入れている。

 そして道教の「道(たお)」は辿りに辿って行くと、紀元前に本当にいたかどうか分からない老子というヒーローの教えであり、「だって(生まれてしまった以上)仕方ないじゃん」という諦念(ていねん)から出発した、だからこそ、せめて生きているうちは大いに楽しみましょう、余計なことはしないでおきましょう、自然に流れて行きましょう、という楽観的で合理的な概念である。

 僕は道観の中や外をしばらくクルクルと見て回り、あ、もう終わっちゃったや、と思いながらも、少し離れた場所に一軒の売店を見つけたので、そちらへ歩いて行った。

 売店でお茶を買って、レンガ造りの古い建物に囲まれた小さな休憩スペースで、ベンチに座る。空気は冷たいけど、風がなく、気持ちがいい。

 そういや子供ながらに可愛いなぁって思っていた大人気のテンテンちゃんは、「幽玄道士シリーズ」と「霊玄道士シリーズ」のどっちに出ていたのだっけ?というか、「幽玄道士シリーズ」と「霊玄道士シリーズ」の違いってそもそも何?って思ったから、僕は熱すぎるお茶を少し冷ますために、足元に置き、スマホで調べ出した。

 なるほどね。「霊玄道士」が香港映画で、「幽玄道士」は台湾映画であり、テンテンちゃんは台湾の人だったんだね、ってスイカ頭(一緒に出演してたおっちょこちょいのキャラ)はテンテンちゃんの実のお兄さんだった事をついでに知る。

 便利な世の中だ。こんな内陸の山奥でも、青空を眺め、1000年以上の歴史を持った田舎の村でお茶を飲んで、ゆっくりと時間を過ごしつつ、必要な情報をサクッと見る事が出来る。

 ちょっと向こうには、さっき見た道観が小ぢんまりと佇んでいる。うん、いい感じだな、道場はなかったけど、あれはあれでいい。この村の人たちは、遥か大昔からここで生まれ、育ち、死に、それを次々と繰り返し、人生の折々であの小さな道観にお祈りをしに行ったのだろう。市井の人々の生活の中に溶け込んだ、自然体の信仰である。

 釈迦の原始仏教が目指した地点、「世界に本来、意味などない、もちろん命だってそれを宿(やど)す人間の人生だって意味などない、それを受け入れるとか受け入れないとかいう自分自身さえ、そもそもない、要するになーんにもない、以上」という、フツーの僕たちがとてもじゃないが辿り着けない、恐ろしく殺伐(さつばつ)とした地点が、この道教の「でも、だって仕方ないじゃん、せめて大いに楽しみましょう」の影響を受けて、海を渡って日本へやって来た。

 要するに中国から伝わった仏教が、既に道教や儒教の影響を受けていたのだ。この大陸にまず道教や儒教の素地があり、そこへ仏教が伝わったから、例えば先祖信仰とか死後再会の願いなんて、そういう素地の色濃い部分がもろに仏教に反映され、そのまま海を渡って日本へやって来た。

 先祖信仰には現世利益(今を生きる自分たちをきっと助けてくれる)という側面と、自分たちの今の頑張りがそのまま子孫へも繋がって行く(今を生きる自分たちはこの世に形を変えて残って行く)という側面があるが、要するに今を生きているそのことに執着し、そこから逃れられない人間の性(さが)を受け入れた考え方だ。

 一方、世界中にある死後再会の願いは、大切な人と離れたくない!きっとまた逢える!という執着ど真ん中であり、これもやはり今を生きているそのこと(他者との関係性)に執着し、やっぱりその執着から逃れられない人間の自然な欲望なのだろう。

 道教の道(たお)って、そういう人間の執着を決して無理に乗り越えようとしない、「だって仕方ないじゃん」のまま、自然に流れて行くのを肯定する生き方だ。

 四半世紀前の20代だった頃、父親の葬式でみんなが念仏をひたすら唱えていて(実家が浄土宗だった)、面白い儀式だなぁ、こんなことをみんなずっとやって来たんだなぁ、と僕は不思議に思った。だって、念仏を唱えておけば観音さまが極楽浄土へ連れて行ってくれる、って言うその浄土信仰は、釈迦が始めた原始仏教の殺伐(さつばつ)とした真実の世界(なーんにもない、以上)とあまりにもかけ離れていて、あまりに人間臭くて、そして自然で、面白いと思ったからだ。

 この世は地獄じゃぁ、もうこんな世の中は嫌じゃぁ、とっととおさらばして来世に生まれ変わりたいんじゃぁ、というパターン(戦国時代の一向一揆)と、この世は極楽じゃぁ、ずっと続いて欲しいんじゃぁ、死んでもこの幸せを失いたくないから来世でも同じようにお願いします・・・というパターン(藤原家の建てた平等院)の二つの側面が浄土信仰にはあるけど、これは今も変わらず、時代を越えて残っている。

 「とっととおさらば」も、「ずっと続いて欲しい」も、極楽という現世の鏡(そのままか正反対かは別にして)に執着しているのであり、そんなのないよ、浮世の夢くらいは運がよければ見れるけど、死んだらどうせないよ、無だよ、ゼロです、以上、なんて殺伐(さつばつ)とした考え方には同意できないから、人々は執着を執着のまま素直に受け止め、みんな葬式を挙げて阿弥陀様に手に合わせるのである。そしてこの今を生きる自分は残り続ける、死んでしまった大切な人にもいつか逢えると、信じようとするのである。

 ところで葬式がほぼ現在の形になったのは江戸時代だ。幕府が導入した寺請制度によって、みんなが檀家としてどこかの寺に紐づけされ、葬式については、紐づけされた寺の坊さんがお経を挙げるもの、という風に慣習化され、葬式と仏教ががっちり結びついてしまった。

 だから「葬式仏教」という言葉は、釈迦の悟りとは全く関係なく、そんな風にイベント会社のような役割として寺と坊さんが葬儀を行い、経営をして行くことを揶揄(やゆ)した言葉だけど、そうなってしまったのは自然というより、江戸幕府の政治上の必要(住民の戸籍管理の必要)から生まれた人為的な理由である。

 が、父親の葬儀で僕が感じたのは、打合せだ、納棺だ、通夜だ、葬儀だ、出棺だと、みんなで大忙しでやりながら、何度も念仏を唱え、うーん、不思議だけど、とても流れが自然だなぁということだった。故人を見送りつつ残された人たちが喪失感と向き合う、というそのやり方が、形式化された葬儀のお経のリズムに乗って、何となく自然に腹落ちする感じで進行して行くような、そんな気がしたからだ。

 今でも、父親の棺を火葬場で火葬炉に入れる直前のあの場面を忘れられない。僕は子供時代を含めて親戚の葬式に参加することはあったが、火葬場までは行ったことがなかったので、棺を焼くとか、骨を拾うなんて初めての経験だった。

「ありがとね。さいなら、さいなら」

 それまで手続きとか親類の対応で忙しくしていて、悲しんでいる暇もないという感じだった母親が、棺から顔だけ出した父親にすがり付き、何度も頬を撫でながら、急に取り乱して、号泣し始めた。本当に急に表情を変えて取り乱したので、みんなが驚いていた。

 傍らに立つ僕も、つい同じように号泣していたけど、それは自分自身が悲しい以上に、夫婦にしか分からない歴史とか深い繋がりというものを、そしてその迫力を、目の前で見せられているようで、ひどく感動していたからだ。

 あともう一つは、マジか、親父の身体(からだ)が焼かれるのか、死んでるから痛くないのだろうけど、焼くってそんな酷いことをしなきゃいけないんだ、可愛そうじゃないか、というなんとも子供じみた感覚に加えて、遂に肉体が焼かれてしまうなら、いよいよこの人ともお別れしないといけないんだ、という実感が腹の底から湧いて来て、ものすごく寂しい気持ちになったからである。

 前日までは、死んだとはいえ肉体がそこにある以上、棺の横で添い寝もしていたし、そばで伯父さんたちと酒を飲んで雑談していたし、既に死んでいても、まだ何となく本当にこの世からいなくなってしまった、という実感を持っていなかったのだ。

 昔、子供の頃に読んだリーダーズ・ダイジェストで、ドナルド・キーンという日本文学の研究家が、自分は日本に何十年も暮らして何十年も日本人を研究し、だいたいは日本人のことを理解しているつもりだったけど、飛行機事故で日本人遺族が自分の家族の肉体に強くこだわる様子を見て、とても驚いた、と書いていたのを、その時に思い出した。

 自分もやっぱり日本人だ。行方不明になったとしても、髪の毛一本でも戻って来て欲しい、指先の一つ、歯のかけらでもいいから戻って来て欲しい、というその日本人の感覚を初めて自覚した。

 だから、いよいよ父親の肉体を焼くのだ、1000度もの炎で灰にしてしまうのだという時の気持ちは、もう本当に逢えなくなるのか?永久に逢えなくなるのか?という、やっぱり子供じみた自問とともに、とても重くて苦しいものだった。

 お経が終わり、あっさり棺は焼却炉に入れられ、重い金属の扉が閉まる。僕は泣き過ぎてフラついている母親の体を支えながら、控室へ戻って行った。葬儀を通して一番辛いイベントだった。

 そして、そのあとは「骨上げ」と呼ばれるイベントだ。

 焼かれて骸骨になった父親の骨を、箸で骨壺に入れる儀式である。その後の人生でも何度かその体験はしたけど、この段取りをやってくれる火葬場の担当者の方は、だいたいがサバサバしていて、なぜか饒舌(じょうぜつ)な人が多かった。

「はい、こっちへ来て下さい、みんなで囲んで。説明しますね。ここの奥にあるのが喉ぼとけ、あとこの辺りの骨は・・・」

 父親の時は上述の通り僕は初めての経験だったので、なんてむごいイベントが用意されるんだ!骸骨になった父親を取り出して、このよく知らないオジサンが、手に持った小さなショベルみたいなので頭蓋骨をぐしゃっと潰し、テキパキと「この辺りの骨がちょうどいいですね」なんて指示するのに従うなんて、ただでさえフラついている母親が気絶してしまうのでは?なんて心配していたのである。

 が、骸骨を見た時も、知らないオジサンの言われるままに骨を箸で拾っている時も、みんなカラッとした雰囲気で、おっ焼けたね、しっかり焼けたね、さて、骨壺は小さいし、たくさんある骨の中から上手に選んで拾わないとね、みたいな吹っ切れた雰囲気の中で、作業を開始するのである。誰も泣いていなかった。母親もそうだったし、僕もそうだった。

 あ、もういなくなったんだね、という自然な腹落ちが、骨を拾うという作業を黙々とやりながら得られるような、そんな感じだったのだ。

 そうして、「骨上げ」が終わり、火葬場から移動するタクシーの中で、隣に座った母親が「向こうに行ったね」とぽつりと言った言葉を聞いた時、あぁなるほど、一連のこのイベントは、すごく上手くできた仕掛けだ、釈迦の悟りとは全く関係なく形式化されているかもしれないけど、長い間に手垢の付いたその形式の中には、人々の知恵がいっぱい詰め込まれているんだろう、と思った。それは「だって仕方ないじゃん」の知恵でもあるのである。

 「絶望のあとの無気力の向こう側で執着を手放すのではなく、やり切った大満足の向こう側で執着を手放したい!」

 早稲田の小劇場で見た何かの芝居の中で、大柄な役者が叫んだそのセリフを覚えている。その言葉は、当時まだ二十歳過ぎの若者だった自分に大きく響いたけど、今は少し違う。

 だって、仮に大志を抱き、努力し、何かを成し遂げ(起業でも出世でも、大家族を築く、でもなんでもいいけど)、要するに結果をこの世に見える形で残し、いよいよ老化した自身の肉体に引きずられて病院のベッドの上で死んで行くとき、俺はやり切ったんだ、大丈夫だ、うん、うん、なんて一生懸命自分を無理に納得させようと、人は最後まで努力していそうだからだ。

 僕たち人間なんてそんなものである。それぐらい、息をしているあいだは、「執着」を手放すことなんてできない。何をやり切ったって同じだ。あれから四半世紀以上がたって、そう確信しているのである。

 確かに釈迦は執着を手放せと言った。人を愛することさえ執着だと言った。

 でも、その教えを何千年もかけて人々は大切にし、そこに残っているのはそれでもなお手放せない執着ならば、手放せないのではなく、手放す必要がないのでは?

 それが人々が何千年もかけて辿り着いた真実では?

 そう思うのである。

 そりゃ手放したほうが世の中、解決することが多いのはみんな知っている。執着するから、満たされようと満たされまいと「不幸」とか「不公平」とかいう意識が始まり、怒りや欲望は再生産され、戦(いくさ)はなくならない。

 でもある程度残ってしまうものは、残ってしまうことにきっと理由があるのだから、無理をして余計なことをせず、生きている以上、無理です、でいいのでは? と思うのだ。

 手放すことなんて出来ない執着を、慰めるための知恵がそのまま残され続けて行く。葬式だってその一つなんだろう。

 遥か大昔、釈迦の教えがシルクロードを渡り、中国を経由して日本へ伝わる過程で、そんな膨大な数の人間の命の知恵、「だって仕方ないじゃん」が、つまり生きて死んで行った人々の知恵が、そこにあるのかもしれない。僕はそこに人の優しさを感じるのだ。

 お茶を飲み終わった後、もうしばらくその1000年以上の歴史を持つ村をウロつき、そのあとお腹もすいて来たし、帰ることにした。アプリを使ってタクシーを呼ぼうとしたけど、ありゃりゃ、周囲に1台も走っていないのでだいぶ待たされそうだ。

 で、さっきの運ちゃんに教えてもらった携帯電話へ電話したら、近くで時間をつぶしていたらしく、すぐにやって来てくれた。

「どうだった?」

「うん、よかったよ。古いものが残っているって素敵だね」

「ハハ、そりゃよかった。ここは田舎だから、古いものはたくさん残っている」

 そのままマンションには帰らず、中心街へ戻ってご飯を食べる。このあいだ、ナショナルスタッフの一人が、新しく開店したレストランを紹介してくれたのだ。感想を聞かせて下さいって言われているから、行って食べないとね。

 わぁ、楽しいぞ!

 料理を頼んだら、この炊飯器の一つがテーブルに出てきて「ハイ、ご飯は好きなだけ自分でよそって食べなさい」ってやつだ。

 並べられた炊飯器たちが全部、豚さんみたいに見える。これは食欲をそそります。僕はテーブルにつくと、野菜炒めと、牛肉の煮込みと、ビールを頼んだ。先に出してもらったビールをコップについで、昼間から一気に飲み干す。

 あー美味しい!

 辛気臭いことを考えちゃっていた、さっきまでの自分を反省だ。生きているあいだは、出来る限り僕たちは楽しまないとね。

 世界に本来、意味はない、でも生まれてしまった以上、仕方ないじゃん、せめて出来る限り楽しみましょう、執着は全部は手放せないけど、なるべく頑張ります、以上。これでいいのでは?

 そうやって、煩悩まみれで肉を食い、争って富を奪い合い、悲しみに暮れる時は昔からある知恵を享受して癒され、いつか自分の命の灯(ともしび)が消えて「なーんにもない、以上」になるまで、出来る限り味わって楽しみ、出来る限り大切な人たちに楽しんでもらい、時々は何かに手を合わせて神妙な顔をして祈り、僕たちは生きて行く。

 いただきます!

 僕はもう一杯、冷たいビールを飲み干し、それから、思わず笑みがこぼれるようなその可愛い見た目の炊飯器から、ご飯をよそった。

 僕たちはこうやって食べて、生きて、死んで行くのである。

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