失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

「あーおいしかった」という魔法の言葉から始まる永遠に気づき、信じることと知ることと味わうことの違いを理解して、100年前のドイツ人の偉大さを改めて感じたこと

2025/10/10

 ご飯を食べに行って、家族が「あーおいしかった」と自然に言うのを耳にした時、なんだか、これ以上の生きる意味なんて無くても上等だな、って思うことがある。

 たいていは、食後にレストラン等から出て、帰りの車に向かう駐車場を歩きながら耳にする言葉だけど、こういう言葉を聞くために、僕は頑張り続けていて、そしてやっぱりなんだか、結局のところ自分が生かされているのを感じる瞬間でもあるのだ。

 「あーおいしかった」を発した時のその言葉の魔法の威力。

 もちろん、自分自身もこの言葉が自然と口からこぼれた時は、無条件の幸せを感じている。無条件というのは、自己完結していて目的が不要ということだ。過去も未来もなく、とにかく今を大満足して、それでさっぱり終了、という潔(いさぎよ)い幸福である。

 さっき食べたオムライスは本当に美味しかった。テーブルに現れたその姿は、デミグラスソースがたっぷりかかっていて芸術ともいうべき美しさで、スプーンで一口食べれば、卵の焼けた表面の香ばしさとソースの風味が口の中で広がってもう完璧で、いずれ太陽の膨張に地球が飲み込まれて何もかもが無に帰するとしても、この「おいしかった」事実は、永遠に消えない。この幸せだったという「記憶」も「記録」もいつか消えるかもしれないが、自分が幸せだったという事実は決して消えない。そんな感じだ。

 子供のころ、田舎にある母親の実家に、一人で泊りがけで遊びに行くと、おやつの時間に、お婆ちゃんがいつも、メロンパンと牛乳(瓶の)を出してくれた。

 メロンパンったって、テレビでよく紹介されるようなオシャレで高級なやつではなく、今もコンビニで売っているような、シンプルで素朴な昔ながらのメロンパンである。

 これが美味しかった。表面のビスケット層がしっかりと歯ごたえがあって、噛んでいるうちにほんのりと口に甘さが広がった。その甘さは牛乳を飲みながら食べるとより一層引き立って、僕はこの組み合わせが大好きだった。そういや、牛乳を飲みながらアンパンを食べるのも好きだったっけ。食べ物のおいしい組み合わせを探し出すことは、人生の幸せを努力して探すことと同じ謂(いい)である。

 その田舎の家でのおやつの時間は、僕は縁側(えんがわ)で食べることにしていた。町育ちの僕にとって、縁側(えんがわ)なんて珍しいし、ちょっと特別な場所だったのだ。

 木製の立派な縁側(えんがわ)に座って、足をぶらぶらさせ、眼下の緑の山々を眺め、空にとんぼが飛び交うのを眺め、もぐもぐメロンパンを食べていた。そして牛乳で流し込み、食べ終わると、周りに誰一人いる訳でもないのに、「あーおいしかった」ってそっとつぶやいて、そのまま後ろにゴロンと寝転ぶ。きっとそんな様子だったのだろう。今からまた釣りに行こうかな。夕まづめを狙って渓流を登って行こうか。子供のころから僕は一人で遊ぶのが好きだった。

 縁側(えんがわ)はそのまま仏間(ぶつま)に繋がっていて、仏間(ぶつま)には数代くらい前からのご先祖様の写真が飾ってあった。寝転んだ僕の視界の隅に、知らない人たちが白黒で写ってこっちを見ている。

「誰この人たち?大昔の人?名前は?権兵衛さん?」

 権兵衛さんとは、名無しの権兵衛さんのことだ。名前がないのではなく、ちゃんとあったけど、数代下った子孫の僕は全く知らないから、そういう言葉が出て来た。

 が、その写真しか残っていなかったかもしれないけど、権兵衛さんは確実に生きていたのである。そして普通に生き、誰かを愛し、幸せだったなら、その事実は永遠である。さっき釣り道具を取りに縁側(えんがわ)から走り出して行った子供が、もうそれっきり写真さえ見ることなく、それ以降、その子の人生に一切、かかわりが無くなってしまったとしても、権兵衛さんが大昔に、自分の人生を味わって「あーよかった」って言って死んで行ったのであれば、全く問題なく、永遠に価値のあることなのである。

 100年前のドイツにハインリヒ・リッケルトという学者がいて、一回性の中に価値判断が生まれる、要するに「価値」って一回きりで起こる人間の時間(歴史)に紐づくもの、逆に言うと価値判断の中で歴史は紐づけされて構成されるもの、と言った。

 どっかの王様がどっかの国と戦ったぞ、とか、どっかの立派な政治家が農政改革をして人々の貧しい暮らしを救ったぞ、とか、どっかの街は流行病でほぼ全滅して、そんな中で幼少期を過ごした聖職者の誰それは・・・みたいな無数の事実の中から、ある特定の価値判断がなされて、取捨選択された一回きりのイベントを集めたものが歴史である、という考え方だ。

 学生時代に彼の本を読んで、なるほどなぁ、これって究極、快楽主義につながるよなぁと思った。どうせ一回きりの人生なんだから楽しもう!というのは、発言者によっては刹那主義的な幼稚さを感じる場合もあるけど、もし「世界の空っぽさ加減」を思い知った上でこの覚悟の言葉(一回きりの人生から価値が生まれる!)が口から出て来るなら、それは物凄く誠実で大人びた快楽主義ってやつだと、思ったのである。

 例えば江戸時代の自分のご先祖様の権兵衛さんが、村で一番の器量よしの娘を嫁(よめ)に貰って(設定がステレオタイプ過ぎて恐縮だけど)、子宝にも恵まれ、すごく幸せだったんだねという事実があるとしたら、未来の子孫である僕たちが「権兵衛?誰それ?知らんがな」という状態であったとしても、更にもっとずっと時間がたった未来において、いつか自然法則にのっとり太陽の膨張とともに完璧に何もかもが無に帰したとしても、過去のある時点で一回きりで現実に発生した価値として、権兵衛さんの幸福は永遠に消え去ることはない。

 彼が自分の人生を楽しみ、味わい、大好きな妻のことを大切にし、美味しいものもたくさん食べ、「あーよかった」と大満足して死んだなら、その記憶や記録が後世で完全に滅失しようと、地球がいずれなくなろうと、死んだあと、生きているうちに聞かされていた「あの世」が実際には存在しなくとも、彼にとっては関係のない話だ。

 だから、歴史は価値として自然科学の法則性とは別の次元に発生するものであり(法則性は一回きりの事象を排除する)、権兵衛さんが幸せだったことを、誰も、どんなことも、否定することは出来ないのである。

 ということで、一回きりの人生を生きる僕たちは、「あーおいしかった」とか「あーよかった」と言えるために(言って貰うために)コツコツと努力するのだけど、それが本人や本人にとって大切な人々の為であるうちは問題はない。が、それが国家のためとか組織の為とか、集団の為という話になって来ると、急にキナ臭くなるのである。不思議な話だけど。

 先月亡くなったロバート・レッドフォードブラッド・ピットと共演していた「スパイ・ゲーム」でも描かれていたように、個人の価値判断(個人の「あーよかった」)と国家の方針(国の「あーよかった」)との相克をテーマにした映画は多い。ディカプリオが主演した「ワールド・オブ・ライズ」も中東を舞台にしながら同じテーマを扱っていた。

 それらの映画の中では、僕たち一人ひとりの絶対的な価値判断が、国家や組織などの集団が下す相対的な価値判断へ引きずられ、潰されて行くエピソードが展開され、ハリウッド映画ではちゃんとハッピーエンドが用意されるかもしれないが、現実の世界では、たいていは悲劇で終わるのだ。

 つまり、絶対的価値はあくまで個人の体験からしか生まれないのに、物事(ものごと)が個人の話から集団の話へ移行すると、いつの間にか絶対的価値から相対的価値へ重点がシフトして行ってしまうのである。

 例えば組織に所属していると、個人的には本当はイヤだなぁ、とか、周りを見渡した時に、みんな絶対に狂っているよなぁ、とか思っていても、まぁ組織が生き延びるためには相対的に仕方ないかぁ、エラいさんが朝礼でも言っていたしなぁ、やっぱ必要かぁ、という判断が始まり、あっという間に引きずられる、というのはよくあることだ。 

 これは同調圧力が極端に強い組織やお国柄では顕著な傾向だけど、ハリウッド映画でも取り上げられるのだから、国民性は関係なく、人間の一般的なテーマなんだろう。

 古来、個人の価値判断が集団の価値判断に飲み込まれ、最終的に誰も幸せになれず、生み出された結果に対して、各々がそれぞれのやり方で「なんでこんなことになったんだろう・・」と後悔するという話はたくさんあったはずだ。そうやってたくさんの戦争があったし、価値ってそんなもんだ。

 だから、人として僕たちが頑張るべきことは、あくまで個人的な体験のレベルで「あーよかった」を出来る限りたくさん探し出し、その為に一生懸命努力することなのある。それ以外は人生にとって些事(さじ)だ。そしてこの考え方を支えるのが、まさに快楽主義なのである。

 でもそんな単純な真実にさえなかなか気づけないのは、もちろん、日々のしょうもない仕事の煩わしさや、生活の厳しさや、健康上の問題などでアレコレ考えているうちに、時間が飛んで行くからだけど、何より、すっかり大人になり切ってしまった僕たちは、一通り人生をやって来たので、もう人生を変えてしまうような感動はなさそうだし(変えてしまうような悲しみはあったとしても)、あとは体が朽ちて死んで行くだけかぁ、なんて惑(まど)って何となく生きていて、意識してその真実に気づこうとしたがらないからである。

 僕たちは「世界の空っぽさ加減」を知ったあと、試されている。ついつい生活の煩雑(はんざつ)さの中で忘れてしまいがちだけど、レストランのオムライスに最初にスプーンを入れる時の幸せを、メロンパンを食べながら牛乳でお腹に流し込む幸せを、一回きりの人生を幸せにするために、それらをしみじみ味わう努力を、し続けて行かなければ、「それでもなお、生きて行く意味はあるの?」と、信と不信の間で、知と無知の間で、快楽と自暴自棄の間で、揺れ続けてしまうのである。

 惑(まど)い、揺れるとは、限られた命の時間を浪費することであり、とても不幸なことだ。僕たちはいつだって、そんな風に試され続けている。だから意識して、自分の幸福が何かを考え、意識して人生を味わないとね。

 ただし、信じることと、知ることと、味わうことは、実はぜんぜん別のことだ。

 そしてやっぱり、それを集団でやることと、個人でやることも、全く別のことだ。

それをごちゃまぜにすると、混乱し、紛糾し、反目し、僕たちは落とし穴に堕ちて行く。大切なことからもっともっと離れてしまい、迷子になったまま死んで行く。結局は惑(まど)い、揺れながら、ちゃんと「あーよかった」と言えずに死んで行くのである。

 

◆信じること

 こいつは便利だけどやっかいなやつだ。宗教とか人類愛とか呼ばれるもので、原始人がアニミズムシャーマニズムなどの自然崇拝をしていたところから始まって、「なんとかが地球を救う」までに至る、人間の本性に根ざした根深いやつである。

 これを集団でやること。

 真っ先に教会がイメージされる。その道具は、人々に連帯感を生み出してコミュニティを安定させるかもしれないが、十字軍を持ち出すまでもなく、徒党を組んで別のものを信じる人々を叩きのめしに行くから、やっぱりろくなことはない。

 これを個人でやること。

 個人の信仰は大切である。なので別に自由なんだけど、そしてそれでその個人の心が安定するならよいのだけど、大半の人々は、信と不信の間を行ったり来たりして、あんまり安定しない。

 だって神秘や奇蹟はいつだって胡散(うさん)臭いから。一方、神秘や奇蹟がないのに、かたくなにそれでも信仰を続けるのは、立派なことかもしれないけど、よほど強靭(きょうじん)な意志の持ち主でないと大変だから。

 そして個人でだろうと、集団でだろうと、永遠を目指して「信じること」に基づき、自ら死へ跳躍する人(または人々)もいる。が、それは気持ちは分かるが、生き残った者にとっては暴力であり悲劇だ。

 

◆知ること

 こいつは科学だ。どこまで行っても科学だ。一回性を排除して法則を見つけ出し、当てはめ、応用し、世界をどんどん区分して明確にして行く、それ自体が自走してどんどん前に進んで行く、ときどき人間の手には負えなくなるやつだ。

 これを集団でやること。

 17世紀のヨーロッパで始まった科学革命は、爆発に近いスピードで広がり、先鋭化し、20世紀になると、世界から神秘や奇蹟をことごとく駆逐(くちく)した。でもそのおかげで、僕たちは住みやすい暮らしと、長寿を手にしている。頭痛が最近ひどいな、ちょっと心配だな、病院でMRIを撮ってもらおう、って待合室で待っているあいだ、スマホを取り出し、世界中のニュースを見たり、音楽を聴いたり、ゲームをしたりするなんて、100年前に生きていた、くだんのリッケルトから見れば、もはやSFの世界を僕たちは生きている。

 でも、みんな知っているけど、住みやすいから幸せな人生が送れるわけではない。長生きすればそれが幸せな人生なのではない。その人の人生が幸せかどうかは、決して時代に制約されないのである。

 これを個人でやること。

 科学が個人の人生にとってどういう意味を持つのかという話だ。こんなの結論は見えている。白衣を着た脳外科医が、画像を指し示しながら、患者の痛みがどのような原因で、どのようなプロセスで発生しているのか、「ほら分かったよ!すごく正確でしょ!」と得意げに言ったなら、患者は殺意を覚えるだろう。そんなの知ったところで、痛いものは痛い。知ったところで問題が解決もしなければ、幸せにもなれない。知ることが幸せにつながる訳ではない。

 

◆味わうこと

 こいつは快楽主義だ。何かを信じて人生に価値を持たせようとか、何かを探求して真理に辿り着くことで生きることに意味を与えるとか、そういうのは一切「無理です」って潔(いさぎよ)く諦めて、一回きりの人生を快楽を求めて走り出す、別の道である。

 これを集団でやること。

 やっぱりろくなことはない。「ファイトクラブ」の世界観だ。この映画は消費社会に支配されるしがないサラリーマンがその価値観をぶっ壊して行く、という話だけど、テーマはさておき、「自分を取り戻して好きにやろうぜ!」を集団になってやり始めると何が起こるのか、分かり易く描かれていた。それは新興宗教の内部でも発生しやすい構造だ。密室では独特の価値観が出来上がって残虐な行為が行われかねない。アナーキズムになったり、退廃主義になったり、いずれにせよ、徒党を組むとろくなことはないのである。

 これを個人でやること。

 僕たちの生きる時代には、道が2つに分かれている。

 1つ目は自暴自棄なジョーカーの道。

 原因は生い立ちのせいかもしれない。プライドの高さが本人を孤独へ追い詰めているのかもしれない。長いあいだ、不公平を感じながら苦しい生活を続けて来た結論なのかもしれない。いずれにせよ、彼は集団から完全に孤立し、かといって結局は一人で暗い道を歩くことを楽しめない、一人で人生を味わえない、だから集団の方が気になって仕方がない通り魔の道。ラスコーリニコフは現代でも思考の迷路を彷徨(さまよ)っているのである。一人で歩けないから、本当は集団に振り向いて欲しいから、ついに彼は銃やナイフを手に取り、街へ走り出して行くのだ。脳みそが空っぽの輩(やから)たちがそれを模倣(もほう)し、やはり街へ走り出して行く。

 2つ目はメロンパンと牛乳の道。

 決して群れて楽しむことはない。徒党は組まない。あらゆるコミュニティから孤立していても全然平気か、またはネット社会にあって自分と他者との間に上手に一定の距離を保つ(ネトゲでの交流)とか、せいぜい参加してもオフ会に顔を出して時々気分転換をする程度とか、普段はお金の為に会社で働いてしょうもない人付き合いをしつつ、休日は星野リゾートでドカンと大枚はたいて、おひとり様の旅行を全力で楽しむとか、家族や幼馴染みのような「身内」のみとしか、やっぱり休みの日には付き合わないとか、そういう道を自分なりに探して歩き、人生を楽しもうと努力する、他人さまとは幸せを共有する気はサラサラない、でもちゃんと陽のあたる道である。

 これは一回きりの人生を潔(いさぎよ)く味わい「あーよかった」と言って、そのこと自体に満足し、その事実は確かなものとしてあったのだから、その後の地球がどうなろうが、あの世がなかろうが、特に問題ないとする生き方だ。味わい方と言ってもいい。

 

「あー楽しかった」

「そうかい」

「うん、ありがとう」

「・・・・」

 その時、病院のベッドのそばで僕は手を握りしめて泣きじゃくっているかもしれない。でもこれは一つの結末だ。その結末はずっとずっと遠くの未来であって欲しいし、でなければ決して耐えられないけど、いつかのその結末に向かって、僕はどんなに苦しくても、どんなに惨めでも、頑張り続ける意味を見出し、胸を張って生きて行けるのである。例え取り残されたとしても、一人で生きて行けるのである。そして死んで行けるのである。

「あーおいしかった」

 前回の一時帰国の時、駐在先へ戻る前日の夜、ファミレスへご飯を食べに行った帰りに聞いた言葉だ。会計を済ませて、店を出て、車に向かう駐車場を歩きながらそう言った家人の言葉が、ずっと僕の耳に残り続けた。それは、これまで数えきれないくらい聞いた言葉なのに、翌日の飛行機の中でも、数千キロ離れた駐在先の異国の地へ到着してからも、タクシーの中でも、ずっと頭の中で繰り返し聞こえるものだった。なんだか不思議で、ありがたくて、感謝の気持ちでいっぱいで、本当のことを告白すると、僕はこの数カ月間、その理由を考え続けていたのだ。食事の時も、シャワーを浴びている時も、街を一人で歩いて散歩している時も、ずっと考え続けていた。実はその言葉を聞いた時には理解していなかったのだ。

 だから、今ははっきりとその意味が分かるのである。

 あのうだるように暑い日本の夏の夜を、ちょっと離れた場所に停めてしまった車に向かって、僕たちはほんの少しの距離なのに、1分もかからないのに、駐車場を手をつなぎ歩いていた。

 ギュッと握りしめ、握りしめ返された手の感覚が、魔法の言葉と一緒に思い出されるのだ。

「あーおいしかった」

 いつか二度と逢えなくなる日が来るとしても、それまでは、その言葉を出来る限りたくさん言ってもらえるように、その言葉をもっともっと長い間一緒に口に出せるように、そしてそう言いながら、こんな風に手をつないで上機嫌で二人で歩いて行けるように、僕は頑張り続けるよ。

 なんて、その時は気づきもしなかった自分の幸福に、今ははっきりと気づいているのである。

 それは、一回きりの人生を生きる僕の覚悟であり、いわばメロンパンと牛乳の道であり、僕にとっての「永遠」でもあるのだ。

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