失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

眠る前にピアノの鍵盤をポンポン叩いて自分の殻に閉じこもり、時々は面倒くさい世界から逃げ出して、タラタラ時間を楽しむのって大事だなぁと感じたこと

2025/06/07

 今回の駐在生活で何か新しいことを身に付けようと思った。単身での駐在だからどうせ一人で過ごす時間が多くなる。

前回は語学の勉強だ、会計学だ、とか大昔の教科書を引っ張り出してきて赴任時の引っ越し荷物にそれらを加え、実際に駐在の間、休日の一人の時間に机に座ってコツコツ勉強していた。

 当時はまだ30代だったし、一つでも二つでもスキルを身に付けとかないと、いつでも潰(つぶ)される、世の中からいつでも弾(はじ)き出されるぞという感覚が、少し残っていたからかもしれない。ロストジェネレーションの一人として、世の中の事も、会社の事も、もちろん国の事も、なーんにも信用なんかしてない(誰も助けてなんかくれない)、そして子供のころから競争、競争に身を晒(さら)され続けて来たせいで、常に何かに追いかけられているかのような、そんな感覚が残っていたのである。

 が、今回は既に初老なのです。少々スキルがあるからと言って、もはや年齢で切られます。時代の人身御供(ひとみごくう)として、いよいよ、そしてどんどん我々は世の中から切り捨てられて行きます。そういう残念な世代なのです。あきらめましょう。だから、新しいことを始めるにしても、別に今さら仕事に役に立つスキルなんかじゃなくてOKです。どうせ若さには勝てません。とっとと諦めて、自分が好きな事を始めましょう。

 ということで、ピアノを始めることにした。

 今回の駐在が決まって、荷物をまとめている時に、あぁそうそうピアノを始めるんだった、買わなきゃねって思ったから、ネットで適当に電子ピアノを注文した。あっさり買ってあっさり駐在先へ送り込んだのである。

 で、いま住んでいるマンションの部屋で早速、休日に練習しようと思ったけど、どうも上手く行かない。日本を出る前に「戦場のメリークリスマス」の初心者向けの楽譜をダウンロードし、その時はYouTubeの模範演奏を見ながら、あの美しい名曲が、いくら初心者向けだからって少しアレンジが簡単でチープ過ぎやしないかなんて思っていたのに、実際、駐在先の自分の部屋で鍵盤を叩き始めると、とんでもない、指がそんなに複雑に動きません、そもそも指の順番ってこんなんでいいいのだろうか?なんてグダグダ考えているうちに、だんだん嫌になって来て、あっという間に練習しなくなった。

ありがちな話である。

 それでしばらくの間は、日本から持ち込んだ電子ピアノが部屋に置きっぱなしになっていたけど、やっぱり楽器をもう一つくらい出来るようになりたいなぁ、って目の片隅にその姿が入る都度、思っていた。

楽器の演奏はストレス解消になるから、休日にサックスを吹く。で、そこに一緒に置いてある鍵盤を見て、やはりせっかく持って来たのに挑戦しないなんて、もったいないような気がしていたのである。

 うん、一念発起だ。駐在が終わって日本に帰る時、案の定、年を食っただけで戻るんだね、って思うのは嫌だと思った。新しい事を始めるんだった。ちゃんとやり抜かないとね。

 それで、一時帰国した時に、飛び込みでピアノ教室へ1日だけ通い、楽譜の読み方(それさえ完全に分かってなかった)、指づかい、練習の仕方など、突貫で一通り知りたかったことを先生に教えて貰い、駐在先に戻って猛然と練習を開始した。はい、ロストジェネレーションってこんな感じで、常に目標を設定し真面目に取り組む人たちが多いのです。

 そうして1年間、コツコツと少しずつ練習をして行くうちに、不思議なもので1曲を通して弾けるようになっていた。もちろんしょっちゅう間違って鍵盤を叩いてやり直したり、隣の鍵盤と一緒に叩いて汚い音が途中で混じったりしているけど、最初は絶対に無理だと思っていた両手での演奏も、ヨレヨレながら出来るようになり、なんとか楽譜の最期まで弾けるようになったのである。とても人に聴かせられる代物(しろもの)ではないが、人に聴かせる気は全くないので問題ありません。

 そんな風に、僕はヨレヨレの状態で弾いているけど、例えば仕事が終わってからも、しょうもない付き合いで酒を飲み、しょうもない話を長々と聞いてそれでも笑顔で対応し、やっとマンションに帰ったらシャワーを浴びて、PCに向かって家族とちょっと会話し、そのあとようやく寝る直前のほんのわずかの時間、1日の終わりに一人でピアノに向かって旋律を奏でている時って、本当の意味で自分の世界に閉じ籠(こも)れる幸せな時間だ。そこでは効率的な処理も、そのくせそれに相反する組織人としてのやりとり(「付き合い」なんかを含む非効率的な儀式)も全く要求されず、そしてその為に消費する膨大な気力も体力も不必要で、要するに、雇われ人(サラリーマン)として働くために求められ続ける、アホ臭い偽りの時間が流れないのである。

だって、雇われてお金をもらうってことは、自分の時間(=命)に付加価値(非人間的な効率性とか、そのくせ泥臭い人間的な忍耐とか)をひっ付けて、いわば偽りながら切り売りするってことだから、特に仕事に役に立つわけでもなんでもないこんな鍵盤に向かう努力なんて、素のままの自分がやっている行為であり、家族のためでも誰のためでもない、自分だけのための物凄くエゴイスティックな行為なのである。

僕は何度も何度も間違いながら、鍵盤をポンポンと叩き、自分だけの世界で音を奏で続け、眠いぞ、そろそろ寝ようかって頃にピアノを離れ、ちょっとう~んって身体を伸ばしてから、ベッドルームへ向かう。それが習慣になっている。

 昔、ピアノレッスンという有名な映画を観た時、映像にマッチした本当に美しい音楽の数々が次々と流れ、映画というより別のもの、例えば歌劇か何か別の形式の芸術を鑑賞しているように感じたのを覚えている。あんまりにもマイケル・ナイマンの音楽が美しく、薄暗い19世紀のニュージーランドを背景にピアノの響きがあんまりに幻想的で、僕は滅多に買わないサントラCDを、ふらりと立ち寄った渋谷のHMVで買ってしまった。

この映画の内容はって言うと、演出やストーリーの難解さのせいで、色々な解釈があるみたいだ。確かに難しい。でも若者だった僕はただ素直に、主人公のエイダが6歳で話すことを止めたのは、きっと、あぁこの世の中はかなり面倒くさいぞ、言葉なんて発すればもっともっと面倒くさい役割を押し付けられるぞ、いっそ言葉を発するのを自分で禁じてしまおう、そう考えたんだろうなぁと思った。

でも、生きて行かなければいけないのだ。その時代の価値観に制約され続けながら、他人と生きて行く為には、言葉を封じたところで、やはり嫌な役割も果たさざるを得ない。そんな中、ピアノを奏でるという行為は、彼女にとって、世界から押し付けられ続ける役割から逃避できる、いわば生きる面倒くささから一瞬逃げ出して、自分のためだけの時間を生きられる大切な行為だったのだろうと思った。

 そう、多かれ少なかれ、生きるために嫌でも人生を切り売りせざるを得ない僕たちは、そんな偽りの自分ではなく、もっと自由に自分自身を謳歌(おうか)出来る時間を、何かの行為を通じて見つけたいと願うのが、至極、自然なのである。そして、そういう目的に照らせば、楽器の演奏は非常に好都合だ。そういう目的であれば、当然、人に聴かせる必要はなく、ただただ自分で黙々と演奏したいだけなのである。

 コロナ禍の前に、東京へ出張した時、駅前にストリートピアノが置いてあり、人と待ち合わせしていたから何となく聞いていた。まだYouTuberがストリートピアノでガンガン弾く前の頃の話だ。腕自慢たちが「皆さん、聴きなされ」という感じで得意げに演奏する場合もあれば、人前で演奏すればもっと上達するかも、なんて生真面目そうな人が緊張しながら弾いている場合もある中で、一人の銀行員風の男性がピアノの前にすっと座った。同い年くらいかなって感じの中年の人だった。

 銀行員風と思ったのは、スーツの感じもそうだし、持っているアタッシュケースがいかにも銀行員が持ってそうな感じがしたからだ。痩せ気味のその男性は、僕と同様、仕事の合間にポッカリ空いた時間を、僕はボケっと突っ立っていただけだけど、ピアノの前に座ることにしたみたいだった。

 弾き始めた曲は「ハレルヤ」だった。40年くらい前のレナード・コーエンの曲で、無数のアーティストがカバーしているから、みんなどこかでは聴いたことのある曲だ。

 どうみても子供のころから弾いていた人のようだった。何と言うか、弾き方が正統で、基礎がちゃんとある人が弾いている、そして誰かに聴いて欲しいというより、自分自身が今ここでピアノを弾いてみたい、自分が自分の弾いているピアノの音を聴きたい、そんな風に見えた。

 さっき物凄い勢いで流行曲を弾いていた「どうよ、この腕前を」みたいな若者の弾き方とは全然違って、その銀行員風の男性は目を瞑(つむ)って音を味わいながら淡々と弾いていた。時々は頭を振るけど、それは自然な所作で振っているみたいで、疲れたサラリーマンが喫茶店へ入ってアイスコーヒーを一口飲んだ直後にフゥッと息をつくような、そんな感じだった。

 この人、疲れているのかな?

 仕事は楽しいんだろうか?

人を待ちながら、そんなことを考え、僕は彼の演奏を聴いていた。ちょっと心が揺れるような、そして弾いているその男性の背中に彼の人生をつい想像したくなるような、そんな演奏だった。

 もし銀行員の外回りなら、やっぱりキツイ仕事だろう。学生時代の友人たちも、せっかく厳しい関門を潜り抜けメガバンクに入ったものの、大半は数年で転職した。融資プラン提案、書類作成という効率化して処理して行かないと昼ご飯も食べられない業務をやりながら、人と会い、説明し、相手のくだらない愚痴や文句を聞き、笑顔を作り、やっと契約まで漕ぎつけたら今度は締結までの段取りを行わなければいけない。それを延々と繰り返し、常に自分の限界のちょっと上に設定された(無理を強要された)ノルマをこなさなければ、毎日の朝礼で皆の前で罵倒される(当時はまだパワハラなんて言葉は世間に存在しなかった)。

さらに上司との人間関係が上手くいかなければ出世にもろに影響する独特の世界だから、定時後の飲み会にも、休日の上司の家での勉強会にも、ちゃんと参加をしなければいけない。

 まぁ銀行員に限らず、求められる非人間的な効率性(絞り出すかのような)と、そのくせ非効率的な泥臭い儀式の繰り返しの中で、消耗して行く人間が多かったのである。どこまでも頭のよさと精神的なタフさが求められたけど、停滞し続ける時代の中にあって、僕たちは何となくそんな昭和サラリーマンたちの価値や、それを目の前に叩き続けて来る世の中に胡散(うさん)臭さを感じていた。もうだいぶ前から平成なんですけど、ホントにこんな感じで世の中は続いて行くんですかい?あんたらは散々美味しいとこ取りをして逃げ切る気では?なんて思いながら、それでも食べるために働き続け耐えていた若者時代だったのである。

 ということで、それから30年近くがたって、案の定、今や仕事に非人間的な効率性は求められず、AI登場である。非効率的な泥臭い儀式(飲み会やパワハラ)も絶滅寸前です。時代は変わったのです。変われないあなた達はこれから老人になって、これまでの老人たち以上にお金がかかりそうなので、出来れば下の世代たちに迷惑をかけないで、なかったこととして自然に消えて頂きたいのです。そんな新しい時代の風(かぜ)を感じながら、今も東京のどこかの街をあの男性はアタッシュケースを持って歩いているのだろうか?

 主をたたえよ ハレルヤ ハレルヤ

 主をたたえよ、ハレルヤ、ハレルヤ

なんだか皮肉を込めた自嘲みたいだ。

 弾き終わったその男性は、周囲でパラパラ鳴った拍手にも一切表情を崩さず、まるでそこに人がいないかのように立ち上がって駅の構内の向こうへさっさと歩いて行った。まだまだ仕事が続いて行くのだろう。休憩時間は終わりだ。みんな生きて行くのに必死なんだ。それは今も昔も変わらない。

 まだ1曲さえちゃんと完璧に弾けない僕は、さっそく次の曲も練習し始めている。ヘタクソでも死ぬ前に3曲くらいは楽譜を見ないで弾けるようになっておきたいなぁ、って思っているからだ。  

だから譜面台には「Moanin」が立てかけてある。一年前、突貫でピアノ教室へ教えを請いに行った時、「ちなみに先生、これもいつか弾けるようになりたいんですが」とカバンからその譜面をおずおずと取り出したら、先生に一瞥(いちべつ)され、黙殺されたやつである。うん、昔、ピアノが弾ける大学の先輩が「ジャズが一番難しい」なんて言っていたのを思い出したぞ。ジャズに初心者が挑戦するなんて無謀なのかもしれない。

 でも、いいんだ。誰に聴かせるわけでもない、間違って弾いても何度でもやり直せばいい、最終的に弾き切れなくてもいい、嫌になれば途中で止めてもいい、そして気が向いたらまた弾き始めればいい、そんなピアノの演奏が、一日の終わりに僕に暖かく寄り添ってくれる。ちゃんと自分で楽しめるよう、帰国してからも趣味として続けられるよう頑張ろうと思った。

 あっ、「頑張る」なんてダメだったね。

すぐに目標を決めて頑張ろうとし出す僕たちの世代は、時代の消費物として安価で使い捨てて行くには、あまりに便利だったのかもしれない。だからもう、せっかくのプライベートの時間は、しっかりと意識して怠けよう。頑張らずにタラタラと時間をかけて練習しよう。

 そんな感じで、僕は今日もつかの間の時間をピアノに向かっている。このピアノ、日本に持って帰った時に僕の書斎に入ったっけ?他の置き場所を家人と交渉できるかな?なんて余計な心配も頭の片隅でちょっとしながら、いつか見たあの銀行員風の彼と同じように、誰に聴かせるわけでもなく、ただ黙々と、眠りに就く前の音を楽しんでいる。

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