2025/05/17
仕事上の付き合いで食事会に招かれると、よく出て来るのがトンポーローだ。これはもともとは浙江料理の一つだけど、別に中国のどこでも食べられる豚の角煮みたいな料理である。トンポーさんという大昔(北宋時代)の政治家が考え出したので、「トンポーの肉(ロー)」という名前になっている。

豚の角煮と言ったけど、実は日本の角煮とは見た目や風味が違う。日本の角煮はたいてい皮なしのバラ肉を使い、日本酒でじっくり煮込むがスパイスは使用しない。一方、トンポーローは皮つきのバラ肉を使って紹興酒で煮込み、八角などのスパイスで肉の臭みを飛ばしている。だからトンポーローは表面に皮があって(当然、食べられるし、むしろその歯ごたえと味わいを楽しむ)ちょっと中華料理独特の風味があるのだ。
もちろん、最初にトンポーローが生まれ、沖縄に伝わり、本土にも伝わり、それぞれラフテーや角煮になったのだけど、いわば角煮の先祖たるトンポーローのゼラチン質のぷるぷるの皮を箸でつつきながら、ところ変われば人間が変わるのだから、好みもかわり、その場所その場所でそれぞれの文化が花開くんだなぁなんて、食事会の会話そっちのけで一人で感慨にふけってみたりするのだ。
このトンポーさんだが、中国では非常に有名な人で、それは絵(文人画)や書に優れ、これまた優れた詩をたくさん残しているからだ。政治的には王安石という時代の寵児とその一党(新法党)と対立して何度も左遷をされ、決して組織の中では恵まれず、最後は海南島へ左遷なんて、日本でいう八丈島流刑に近い人事だったけど、彼はそれでも甘んじて受け入れ、それでも絵を描き、それでもたくさんの詩を書いて人生を楽しもうとした。ものすごくタフで人間的に魅力がある人だったのだろう。
で、このトンポーさんが、杭州に左遷されていた時に、地元の人々に作り方を教えたのがトンポーローである。トンポーさんは組織で上手に世渡りできない人にありがちな、ものすごく有能で多才で、しかも面倒見のいい親切な人だった。古今東西、面倒見のいい親切な人は、組織でたいてい出世しないのである。彼はこのトンポーローの作り方を詩にまでしている。
<豚肉を食べる詩>
黄州の豚肉は美味しく、糞のように安い。
豊かな者は見向きもせず、貧しいものは調理の仕方を知らない。
だから少量の水でじっくり煮込むといいよ、ものすごく美味しくなる。
私は毎朝起きて一人分を料理して食べ、他人を気にせず自分で満足して楽しんでいる。
こんな感じの詩だ。
トンポーさんはどこまで本気だったのか知らないけど、こんな、のほほんとした詩を残しているのである。もちろん当代きっての一流の文人だったから、カッコいい詩もたくさん残している。赤壁の戦い(彼が生きた800年前)の古戦場を訪ねた時に作った詩「赤壁の賦」はものすごく有名な復古調の美しい詩だ。
が、「美しい詩」なんて書いたけど、実は複雑な思いもある。僕は詩と呼ばれるものは何でも好きだし、例えば学校の教科書に載っていた漢文の詩なんて、どれも本当に美しい響きで大好きだった。李白の五言絶句「静夜思」を初めて読んだ時は、ほぼ衝撃に近い感動を覚えたもんだ。十代の多感な時期だったからかもしれないけど、言葉にこんな魔力があるのだと、世界がひっくり返るくらいの発見をしたような気がした。
それがある時、まぁ要するに何十年もたって、既に中年サラリーマンになっていて、駐在先の中国の博物館みたいなところで(休みの日に遊びに行った)、李白の詩が書かれたプレートとその前に置かれた李白の胸像を見つけた。詩はよく見ると「月下独酌」だった。ブロンズ製の胸像の手前には小さな緑色のボタンがあって、それを押すと詩の朗読音声が流れる仕組みになっている。
僕はあの有名な「月下独酌」だって思って、ちょっと嬉しくなって、何の迷いもなくボタンを押したら、中国語が流れ出した。当たり前と言えば当たり前の話だ。
ん?でも何か違うぞ。
僕の知っている、美しいなぁなんて思春期に何度も読み下して鑑賞していた、あの漢詩の美しいリズムや響きとは全然ちがうぞ、って思った時はもう遅かった。
そうか、これが本来の李白の詩であり、リズムであり、音の響きだったんだ。
遥か大昔の日本人がそれを入手し、頭をひねり、李白という偉大な詩人の作品の素晴らしさを何とか表現すべく、その美しさを損ねることなく、なんとか日本語の文体に置き換えたのが、僕の知っている「月下独酌」(書き下し文)だったのだ。
李白たち詩仙が喋っていた中国語と、日本人が作った訓読文とは全然違うのだから、いわばオリジナルではないものに、オリジナルの素晴らしさを損ねず、別のオリジナルな素晴らしさを付加して行く、そんな作業の結果を僕たちは教科書で学んだのである。
確かに、日本の角煮はオリジナルのトンポーローとは全然違う。刺激が少なく日本人好みの繊細で優しい味だ。特に僕は薄味の角煮が好きだ。さっと小皿で登場しても、決して主役感を出さず、他の料理との味のバランスを崩すこともなく、いい感じの脇役として優れた仕事をする、そんな控えめな角煮が僕は好きなのだ。
だから、日本の古典芸術ってきっと、だいたいそんな感じで、自分たちの感性に置き換えて、オリジナルをリスペクトしながら、新しい自分たちなりの意味や価値を与えて行った、大昔からの作業の累々とした結晶みたいなところが、きっとあるのである。
「月下独酌」は李白が月を相手に酒を独りで飲む詩(うた)だ。月を相手にゆっくり飲もうとしたが、よく見ると月光に照らされ自分の影も見える。これで仲間が3人になった。月と影と共に酒を楽しみ、酔いが覚めればそれぞれの場所に戻って行くのだ。って言う、人生の寂しさと楽しさの入り混じった想いを、のびのびと詠んだ詩(うた)なのである。
1000年以上も昔の日本人はそれを読み、共感し、その共感を日本人なりの感性に置き換えて表現し直した。おかげで僕たちは、古典芸術として李白の詩を鑑賞することが出来るのである。
国が違おうと、言葉が違おうと、人種が違おうと、信仰する宗教が違おうと、所詮は人間である。同じような哀しみとか喜びを抱えながら、たった数十年で死んでゆくだけである。人生を詠んだ優れた詩(うた)に共感しない訳がないだろう。イェーツの詩に、ランボーの詩に、芭蕉の俳句に、何百年も時を越えて僕たちが共感し感動出来るのは、そういう人の性(さが)に基づいているからである。僕たちが古典芸術に感動出来る所以(ゆえん)だ。
つまり、それが音楽だろうと、彫刻だろうと、舞踊だろうと、書だろうと、詩だろうと、絵画だろうと、古典芸術に僕たちが感動するのは、そこに人間の変わらない営みと想いを感じ取り、生きることの美しさであれ、哀しさであれ、虚しさであれ、苦しみであれ、ずっと続いて来たし、これからも続いて行くと確信し、その確信のもとで、自らを大きな時間の流れに一体化できるからである。いわば永遠へのあこがれに僕たちは心揺さぶられるのである。
特に日本の古典芸術では、生きている人間の生々しさ、生臭さが息吹いている。生々しく、みずみずしく、永遠に変わらず続いて行くことを説き続けている。だから僕たちが平家物語を読む時、徒然草を読む時、実朝の和歌を読む時、「なまもの」の息遣いに生命(いのち)を見るのだ。
そして、永遠を感じて命を味わうというのは、芸術の鑑賞を通じて生きている喜びを感じるってやつだけど、生きるってそもそも変わり続けることだから、「なまもの」である僕たちはやっぱり矛盾している。引き裂かれている。永遠の中に命を感じるって、人間はホント逆説的な生き物だ。
最近、老眼がひどくって、カスミ目もひどく、裸眼で眼鏡をかけようが、コンタクトをして老眼鏡をかけようが、文庫本の小さな文字が読みづらくなった。読書がし辛(づら)いなんて悲し過ぎることだ。で、日本に一時帰国したとき、思い切ってKindle端末(Paperwhite)を買ってしまった。駐在しているお国ではAmazonが一切使えないから、日本に滞在しているその数日のうちに一気に読みたい本をダウンロードし(慌てて)、戻る時に持って帰って来たのだ。
興味のある本は勿論だけど、昔読んだ本とか、読んだかどうか覚えてないけどまぁいいや、もう一回読もうなんてなのも合わせ、かなりの量をダウンロードしてしまった。
帰りの飛行機の中で早速使ってみると、確かに使いやすく、目にも優しい。文字のサイズがその時の目の調子に合わせて大きく調整できるし、画面は評判通り見やすく、やっぱり評判通り本体は軽くて持ちやすい。
そして「昔読んだ本」の中に小林秀雄の評論集も入っていた。あぁやっぱり懐かしいね、高校生になったばかりの頃、ずっと読み耽っていたのを覚えている。文章の中に「詩魂」って文字を見つけ、あのティーンエージャーだった頃の青い時代の記憶が蘇り、胸の中心がきゅって詰まる感覚があった。嫌な感覚ではない。
そうそう、詩魂って小林が芸術を評論した時によく出て来る、理屈や理論を排除し抜いた上で、作品に見出すことが出来る人生観みたいなものだけど、字義の通り、詩(うた)という芸術の魂(たましい)のことだから、そこに生命(いのち)を見るなんて、ちょっと壮絶だし格好良すぎるなぁ、なんて思った。評論家というより人生の美学者だ。もはや高校生ではなく、初老になろうとするオッサンの感想である。
が、やはり魂(たましい)って、人間の生命(いのち)を見るための昔ながらのツールであり、対象とするものは「なまもの」であり、僕たちの気持ちにぴったり合う、手に馴染んだ道具である。21世紀の今だって、何とか魂(だましい)というコトバをよくテレビでも耳にするのだ。
さてそんな高校生のころ、やはり小林の「当麻」という評論を読んでいて、たかだか十数年を生きただけでその中身はあんまりよく分かってなかったけど、それでもやっぱりその文章の響きとリズムがあまりに美しく、古文を鑑賞するように何度も何度も繰り返し読んでいた。その内容で取り上げられている能舞台なんて古典芸術を、地方都市の高校生である僕は、もちろん生まれて一度も見たことがなかった。でもきっと能楽って、こんな美しい文章「当麻」がインスパイアされて作れるくらい、それはそれは魅力的な芸術なんだろう、って素朴に想像していたものだ。懐かしい思い出である。
その後、大人になってから、実際に薪能(たきぎのう)を見る機会があったけど、何十年生きようと、どうやら薄っぺらい美意識のまま仕事まみれのサラリーマン生活をしていたせいか、あんまりその魅力がよく分からなかった。当日の演目に対する知識が少な過ぎたからかもしれない。
とはいえ、確かに、初めて見る能の動きの迫力(決して派手な動きではなく、むしろノロノロとした小さな動きなのに)や、舞台上のシテ、ワキ、囃子の配置の美しさに圧倒される瞬間があった。僕はその一瞬だけで、もう十分に満足だって思った。なるほど、中身はよく分かんないけど、少しの間、美しいなぁって、普通の庶民として生きて来て、背伸びせずに堂々と確信を持てたのだ。美しいと感じたこの感じは確かなものだったし、大昔から変わらないものを自分が感じられる嬉しさを、ちゃんと理解できたような気がした。だからこそ、その瞬間を、持って行ったフィルムカメラで迷わずに切り取ったのだ。僕は美学者でないので、変に無理をしなくてよろしい。

「お腹空いたし、あんまよく分かんないから帰ろうか」
もうとっくの前、始まった瞬間から退屈して帰りたがっていた家人の手を僕は引いて、目立たないように席を立った。このあと人気のハンバーグ屋さんへ行こう。
観阿弥・世阿弥の時代の人々が美しいと感じたものに、こんな数百年後を生きる一般庶民の僕でさえ、さっき少しでも美しいと思えたなら、一瞬でもそう思えたのなら、本当にありがたい話である。それだけでものすごい奇跡である。李白の詩の響きに、それは決してオリジナルの響きではなかったけど、いいなぁと思えた高校生時代と一緒だ。鑑賞している刹那のひと時でも、しっかりと心に響き、同じ人間として時間を超え相変わらず伝わってくるものがあれば、僕は大満足だし、そんな自然な感じで、肩肘張らずに古典芸術を味わうのが一番である。また気が向いたら、部屋でネットで面白そうな能の作品(映像)を探し、くつろぎながら見てみよう。
法則性への反逆。もし変わって行くというのが生命の法則なら(ナウシカもベルクソンもそう言った)、それを希求しつつ古典芸術の「変わらないもの=永遠」に憧れや一体感や、そして生きている実感を見出すのは、一種の不合理である。でもこの矛盾をかかえた不合理さ加減が、まさに「なまもの」である人間の特徴だ。不合理さは一種の気まぐれでもある。
ところで話が変わるけど、大阪万博がえらい盛況らしい。数千キロ離れた異国の地でニュースのレポート映像を見ながら、確かに面白そうだなぁ、行ってみたいなぁ、僕も体験してみたいなぁ、暑いのかなぁ、昔行ったデザイン博とか花博とかムチャクチャ暑かったなぁ、なんて思い出している。
そんな中、著名なロボット学者の大家の方がプロデュースしたパビリオンがあり、もし行けるなら(たぶん行けない、海外赴任中なのです・・)絶対そこに行ってみたいと思った。実際に行った人たちのブログを見てみると、パビリオンの中にはアンドロイドたちがいっぱいいて、すごく面白そうだ!本当に行って見てみたい!
ロボット学の大家曰く、生物は太古の昔に無生物から生まれ、やがてそう遠くない未来、無生物に帰るらしい。何万年後にはそうなっているらしい。なるほど、きっとそうなんだろう。大学時代に映画「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」を見た時、きっと未来はそうなるんだろうなぁと思ったように、きっとそうなんだろうと思った。
ナマの肉体なんて個体差も大きいし、不具合品も多く、破損したらそれで終わりなんてな場合もあって、それらを一生背負って生きていかなければ行けないなんて、多くの人々の不幸の原因でしかない。どんどん身体をロボットパーツに交換し、腰痛とか、膝の痛みで歩けないとか、ものがちゃんと持てないとか、目が見えないとか、そんな不便さから解放されて、そう、どんどん解放されて、ついでに身長の高さ、痩せ具合、顔面の美しさを重視するルッキズムの煩わしさや、その為の無駄な労力の消費からも解放されて、老化によるたくさんの不具合からも解放されて、もっともっと自由になれば、人は幸せになれるだろう。というか、人間にそういう欲望がある以上、テクノロジーはそれに即応して必ず満足させるだろう。
脳だって同じ。デカルトの素朴な心身二元論とは違う、無意識から意識へ指示が伝わる複雑構造(精神構造)=ゴーストが、脳みそという箱の中に納まっていて、それが僕たちの身体に格納されているのである。だから、箱自体も、なまもののままではなく、ちゃんと機械化しておけば、ある日突然、腫瘍でダメになるなんて苦労はしなくてもよい。
学生の頃、神保町をウロウロしていて「人間機械論の哲学」(勁草書房)という本を見つけて、それまで探していたから大喜びして買ってきて、自分の部屋で煙草をプカプカ吸いながら三日三晩、ちゃんとご飯も食べないで読み耽った思い出がある。大学の授業でギルバート・ライルが扱われた時、人間機械論とその周辺の考え方に強く興味を惹かれた僕は、それこそ神保町とかの喫茶店でコーヒーを飲みながら、色んな本を読み、テーブルでうたた寝し、何万年後かの機械化された人間の姿を想像し、空想し、ニヤニヤしていた。人間を対象とした学問って、きっと社会に出たら糞(くそ)の役にも立たないけど、自由な空想がどこまでも広がって、やっぱり学ぶのが楽しいなぁって思っていたものだ。(実際、社会に出て糞の役にも立たなかったけど)
そう、所詮、我々は有機物の複雑な機械にしか過ぎず、魂(たましい)なんて怪しげで不安定なものは、事実を認識するという観点から、所属するカテゴリーが違うのである。野球が下手という事実と、でも本人は野球が好きという想いが、同じカテゴリーに区分されて議論されるのが変なのと一緒だ。
人の想いはまた、これはこれで別のカテゴリー(人間の欲望がどのように形になって意識として現れ、身体にアクションとして指示を出すのか)で議論されなければいけない。そして意識も自我も構造化されており、構造化されているってことは、例えばAIのような無生物であってもちゃんとそれ(意識や自我)を持ち得る。
というわけで、僕たちはいずれ、「心」だろうと「魂」だろうと「想い」だろうと、脳科学か何かの学問又は技術が、すっかり構造を解明して再現してくれるだろうと(数百年先か数千年先か数万年先かは分からないけど)、原理的に理解している。
「GHOST IN THE SHELL」の中で、主人公の草薙は、ハッカーである人形使いから提案された「融合」に合意した。融合することによって「自分」というものの存続が最後は保証されなかったとしても、仮に自分が別物に変わって行こうとも、彼女は最終的には合意したのだ。初めて映画を観た時、その意味は大きいと思った。
電脳の奥のゴーストも生命だ。それが新しい生命の進化の形なら、じつはそれも生物であり、たとえ記憶も感情も電子制御されてチップかなんかでロボット化され、頭部の箱に格納されていても、無生物になっちゃったなんて嘆かなくていいのかもしれない。
バイトして結構お金貯まったから、ちょっと古くなったボディを交換するついでに、このゴースト飽きたから、他のゴーストと混ぜて変化させに行くよ、だから性格変わったとか言わないでよ、なんて時代が来るのかもしれない。
バグを待たなくても、そういう風に自分で自分が別のものになって行く欲求が、快楽が、本来、生命(いのち)には備わっているはずなのだ。だって、変わり続けていくのが生命(いのち)の事実だから。そして、例えばウィルスも命であり、仮に自己増殖できなくても、やっぱり変わり続けて行く事こそが生命なら、つまり生命は必ずしも「なまもの」である必要はないのである。
とはいえ、とはいえである。
ここで僕は立ち止まってしまうのだ。
その頃もはや完全に(脳も含め)機械化された人間の僕たちは、「なまもの」ではなくなってしまった以上、あの懐かしい詩魂も消えてしまうのだろうか?
永遠への憧れも失い、矛盾に引き裂かれつつ大きな歴史の流れの一つに合一されるあの感動も、喪失してしまうのだろうか?
そいつはなんだか悲しいな、って思った。
歴史好きなら、なおさらです。
古典好きなら、なおさらなのです。
永遠にあこがれながら、やっぱり生き物だから変わり続けて行く、そんな中で命を感じるという今の僕たち、矛盾した「なまもの」の方が、趣(おもむき)があっていいや、と思うのだ。
日本にいようと海外にいようと、どこにいようと、そこに脈々とした人の生臭い歴史があり、人々の生きてきた証(あかし)があり、それを結晶化した芸術がある以上、古典芸術といわれるものからは、そんな「なまもの」たちの息吹を感じるのである。異国の地の豚肉料理ひとつにだって、ちゃんと物語があり、歴史があり、食という文化があり、だから結局のところ人の生み出す芸術の一つがあり、たった一回きりを生きる「なまもの」の人間の魅力が、たっぷり詰まっていると感じられる。
それはギルバート・ライルの「デカルトおかしくね?」の延長線上にある、古典的な人間機械論であろうと、最新の脳科学であろうと、ロボット学であろうと、そういうものとは真っ向から目を背(そむ)ける生き方だ。目を背(そむ)けるのである。真っ向から対立するとか対抗するなんて、現代科学を相手にとてもできません。子供の反抗みたいなもので、拗(す)ねて目を背(そむ)けて「だって、それでも、僕はこっちの方がいいんだ」という駄々みたいなもんです。
ちょっと銀河鉄道999みたいな話になっちゃったけど。
「今日はどこへ行くの?」
「うん、そうだね。のんびり寺巡りでもしようか」
「ついでに美味しいものも食べたい」
「いいよ、了解」
なまものである僕たちは時々、ふらっと日常の喧騒を離れて京都や奈良のような古都へ向かい、あの古い仏像たちに逢いに行く。
千年以上もそこにあって、人々が千年以上も変わらず手を合わせ、祈り、願い、語り掛けて来た、あの優しく厳しい面立ちの仏像たちに逢いに行く。
それは、語り掛けて来た「なまもの」の人々の想いが結局のところ千年以上ずっと変わらないことを確信できる、そして自分も全く同じように語り掛けていることを自覚できる、だから、同じように「なまもの」として死んで行くことを自覚できる、とても優雅で幸せな時間だ。
幸せになりたい、幸せでいて欲しい、なるべく苦しまずに死にたい。そんな単純明快な祈りを、僕たちは何千年も何かに向けて祈り続けて来たし、そんな人間の相変わらずさが、僕たちを励まし、安心させるのである。
だから、それでも、僕はこっち(なまもの)の方がいいなぁと、しみじみ思うのである。