失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

海外赴任がいきなり決まってから中国語で料理を頼めるようになるまでのこと

 いきなり中国の田舎へ赴任が決まって、行ってみたらどこにも日系企業はなく、従って日本人もおらず、日本語はもちろん英語すら伝わらない。だいたいそこに住んでいる人たちは外国人をほとんんど見たことがないし、僕を見て日本人を生で見るのが初めての人もいるようなところで、これはエライところに来てしまったと思った。

 勤めているところが海外生産比率が95%のメーカーなんだから英語くらいは勉強し直すか、と考え、休日にちまちまとTOEICの勉強を始めるもあんまりやる気も起こらず、まぁ英語なんて簡単なコトバだから、いざ行かなきゃならんとなれば、何とか現地で使っているうちに慣れるかなと思いつつ、でも実際に赴任が決まったら慌てないで済むように、日常会話の学習も織り交ぜながら、少しずつ受験英語のレベルを戻していた。

 そして赴任が決まったのは中国の山奥である。想定外だ。上海から1時間半くらいフライトして降り立った空港は、日本の田舎のJRの駅みたいな小さなターミナルだった。スーツケースがなかなか出てこないので英語で「自分のスーツケースが出てこない」と空港の職員に話しかけたら、「はぁ?」みたいな感じで聞き返された。空港の職員でさえ英語が通じるかどうか怪しそうだった。迎えに来てくれた運転手(もちろん地元の人)は、僕の顔をみると笑顔で中国語で挨拶し、車に乗り込んでからもずっと中国語を話し続けた。こっちが理解しているかどうかはそんなに関係ない。中国語でずっと何かを喋っていた。そのあとよく分かったことだが、ずっとその地域で生きてきた人たちにとっては、中国語以外の言葉が存在することさえ特に意味をなさず、もし中国語が分からないなら、それは目が見えなかったり耳が聞こえなかったりするみたいに「かわいそうに」くらいの感覚でいるみたいだった。ある意味、堂々とした中華思想だ。

 仕事では日本語を喋れる部下を1名つけてもらったが、会社を一歩出れば中国語以外は全く通用しない世界である。休日にホテル(会社が部屋を貸し切ってくれていた)の部屋を出ると、そこからは全てが中国語で動いている。雑貨屋でミネラルウォーターを買う時も、クリーニング店でスラックスをクリーニングに出す時も、全てが中国語しか通用しない世界で、僕は音声機能つきのEx-wordを片手に「これを下さい」「いつ受け取りに来ればいいですか?」なんてやり取りしていた。まだスマホが世界中に流布する直前の話である。Ex-wordは勉強に使用するにはよかったけど、持ち歩いて通訳機として使うには重く不便だったし、不完全なコミュニケーションしか図れなかった。クリーニングに出したスーツはドライクリーニングされず、まさかの水洗いをされてしまって、すっかり色あせカウンターの向こうから出てきた。そんな言葉が通用しないことから生じる失敗は、日常茶飯事だった。

 そして食事である。ローカルの料理店はたくさんあるのだが、メニューはもちろん全てが中国語である。まず席に座ったとたん、店員が外国人である僕の姿を見ると、物珍しそうに集まってきて数人で取り囲む。今はどうか分からないけど、一昔前の中国の田舎の店は、料理店だろうとスーパーだろうと、やたら店員の数が多く、大半は暇そうに突っ立っているが、何か買おうとするといっせいに取り囲まれ、あれだこれだと中国語でまくし立てられた。本当はまくし立ててなどいないけど、中国語が分かるようになるまでは、まくし立てているようにしか聞こえなかった。メニューを渡され年配の女性店員たちに囲まれ中国語でまくし立てられながら、僕は料理の写真の一つを指し示して「これにして!」と日本語で大声で言い返した。ホテルの部屋を出る前は「ジェイガ(これ)」みたいな中国語を覚えて料理店で使ってやろうと決めていたのに、実際にオーダーする時には、そんな風に囲まれてまくし立てられ、焦ってジェスチャーと日本語で乗り切るという、残念な結果に終わった。頼んだチャーハンをスプーンで口に運びながら、俺はここで生きていけるのかな?なんてちょっと心配になって来たのを覚えている。

 なので、コツコツ勉強するしかないと考え、毎朝、ホテルの部屋を出る前の1時間を中国語の勉強に充て、覚えた言葉をその日の生活の中で実際に使ってみる、というのを始めることにした。実際に中国語を勉強したことのある方はご存知だと思うが、中国語は発音だけでなく、四声と呼ばれる音の高低と長短の組み合わせも正確でなければ全然通じない。例えば「猫」も「毛」も「mao」と読むが、「マオ」というのを声のトーンを高く平らに発音させれば「猫」になり、上昇させながら発音させれば「毛」になるので、トーンを間違うだけで全く意味の違う言葉になる。「時間」も「事件」もスペルは「shi jian」なので「シージェン」と口にすればいいが、この声のトーンの違いが当然あり、間違うと全然意味が変わるので通じない。文法が物凄く単純で、そもそも漢字なので日本人には馴染みがあるが、いざ実用で会話しようとすると付け焼刃では全く歯が立たないのが中国語なのだ。

 なので、この声のトーンも含めた正確な発音が出来るようになるまでは、勉強していても何度も挫折しそうになった。だって、部屋であんなに練習したのに、昼間、実際に試しに使ってみたら、「はぁ?」とその場で聞き返されるのだ。英語であれば少々発音が悪くても全然コミュニケーションが図れる。中国語はなんて難しい言葉なんだと、しみじみ感じ、本当にこんなコトバ、使えるようになるんだろうか?と途方に暮れることが多かった。

 朝、目が覚めると歯を磨き、コーヒーを飲みながら教科書を開く。教科書は日本から持って行ったやつだ。まずCDを聞きながら何度も母音と子音の発音練習をし、そのあと「今日こそ一発で聞き取ってもらうゾ」というセンテンスや短文をノートに何度も書き出しながら、口で発音し暗記する。「その資料をメールで私に送って下さい」とかそういった類の仕事で使う簡単な文章だ。そのあとホテルの食堂で暖めた豆乳とお粥を食べて、迎えに来た社用車に乗り込む。会社では通訳以外のナショナルスタッフはことごとく中国語しか喋れないから、朝おぼえた単語を実践で使う機会はいくらでもある。で、いよいよその瞬間が来て部下に話しかけてみて、「はぁ?」で返され、ガックリ落ち込む。そんなことを繰り返していた。

 上海みたいな都会だったら、地元の人たちも外国人が喋るヘタクソな中国語に聞き慣れているから、ある程度は聞き取ってくれる。そういういう意味で、僕が赴任した場所は、本当に正確な発音をしないと「はぁ?」を食らうハードルの高い場所だった。何度も折れそうになりながら、それでも僕は毎朝、必ず1時間は中国語の勉強に充て、粘り続けた。

 そして3か月くらいたったある日、突然、自分の喋る中国語が一発で伝わり始めた。会社のスタッフの場合、逆に僕のヘタクソな中国語に聞き慣れ始めたのでは?という疑いがあったが、町で地元の店員相手に話し掛けた時に、「はぁ?」を食らう回数が減り始めた。上達したのは間違いなさそうだった。僕はやっと努力が報われたことに気づき、すごく嬉しかった。折れずに発音の基礎を毎日やり続けてよかったと改めて思った。

 その後、料理店で地元の料理を頼めるようになった僕は、味付けや調理方法の指定まで出来るようになった。「鷹の爪は少なめであんまり辛くしないでね。それからニンニクは細かくみじん切りにしてから一緒に炒めて」みたいな感じで、日本人の口に合いやすいように調理方法を指定して注文し、出張支援に来てくれた日本人の同僚をもてなせるようにもなった。

 これも有名な話だが、中国人にとって食べるということや料理の味というものは、人生の本当に重要な地位を占めている。彼らにとって食べるという行為は、よりよく生きる為の重要なファクターなのだ。なので、たとえば出張支援者の日本人が「昼飯は食べないですから準備は結構です。眠くなって集中力が無くなるのが嫌なので」と言った日には、信じられないという顔をし、「ご飯を抜くなんて、アナタは何の為に生きているのですか?」とあるスタッフは真顔で言っていた。そして同じことだが、「食」は人間関係上のつながり方にも大きく影響をしている。

 上海へ出張に行ったとき、事前交渉がなかなかまとまらず、どうしても先方の中国人の購買部長がYESと言わなかった。まず僕に会おうともしなかった。僕は1日滞在を延長し、翌日またオフィスへ行って打ち合わせを申込んだ。やはり会わないという。僕は粘った。「〇〇という田舎に駐在していて、私はそこから1時間半を飛行機に乗って今回、上海に来ているんです。せめて少しだけでもお話させて頂けないですか?」

 果たして「昼ご飯に外に出るので、そこで食べながら話すならいい」という回答を受付からもらった。僕はお礼を言って外へ出てしばらくブラブラして時間を潰し、昼前にもう一度オフィスの受付に戻った。出てきた部長は眼光の鋭い、いかにも叩き上げという感じの僕より10歳くらい年上の中国人だった。そして日本語がペラペラだ。

 その部長と一緒に食べた四川料理は美味しかった。僕は仕事の話をせず、出てきた料理の味の話などをしていた。そしてまだ全然ヘタだけど、あんなクソ田舎で生きて行くにはどうしても必要なので一生懸命に中国語を勉強していること、少しずつ伝わるようになって本当に嬉しかったこと、確かにクソ田舎だけど、あそこの地元の料理は野菜が新鮮でとても美味しく、今の季節は苦瓜炒肉(ゴーヤと豚肉の炒め物)が飛び切り美味しく、ビールに合うので大好きなこと。みな田舎の人間ばかりで人柄が素朴で真面目な人たちが多いこと。でも町の病院の水準があまりに低くて、肺炎で死にそうになったこと。

 黙って僕の話を聞いていた部長は、実はそのクソ田舎が自分の故郷であることを僕に言った。なんだ、そういうことか。ありゃりゃと思ったけど、もう遅い。そんな悪くは言ったつもりはないけど、クソ田舎という表現はマズかったかな、なんて思った。

「最近はあまり帰れていないが、あなたの話を聞いて、地元の苦瓜炒肉をまた食べたいと思いました。上海のような都会では確かにあんな新鮮な野菜はなかなか食べられない。ともかくあなたは頑張って中国語の勉強を続けて下さい」

 そのあと四川料理店からオフィスに同行し、打ち合わせをさせてもらった。日本の大学を卒業しているその部長は、完璧な日本語を操るタフネゴシエーターだった。僕はあきらめずに交渉し続けた。

 その日の夕方のフライトでクソ田舎へ戻る飛行機の中で、今回は運がよかったなと思いつつ、料理でつながる人間関係がこの国を動かしているってのは、ホントかもなんて考えていた。出てきた機内食をモグモグ食べながら、ところでこのよく分からん料理はなんて名前なんだろと、小さくなっていく上海の夜景を目にしながら、僕はぼんやり考えていた。

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