失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

トンポーローを箸でつつきながら、神保町の喫茶店で居眠りしつつ本を読んでいた頃を懐かしく思い出し、でもやっぱり僕は「なまもの」である人間でいたいなぁと思ったこと

2025/05/17

 仕事上の付き合いで食事会に招かれると、よく出て来るのがトンポーローだ。これはもともとは浙江料理の一つだけど、別に中国のどこでも食べられる豚の角煮みたいな料理である。トンポーさんという大昔(北宋時代)の政治家が考え出したので、「トンポーの肉(ロー)」という名前になっている。

 豚の角煮と言ったけど、実は日本の角煮とは見た目や風味が違う。日本の角煮はたいてい皮なしのバラ肉を使い、日本酒でじっくり煮込むがスパイスは使用しない。一方、トンポーローは皮つきのバラ肉を使って紹興酒で煮込み、八角などのスパイスで肉の臭みを飛ばしている。だからトンポーローは表面に皮があって(当然、食べられるし、むしろその歯ごたえと味わいを楽しむ)ちょっと中華料理独特の風味があるのだ。

 もちろん、最初にトンポーローが生まれ、沖縄に伝わり、本土にも伝わり、それぞれラフテーや角煮になったのだけど、いわば角煮の先祖たるトンポーローのゼラチン質のぷるぷるの皮を箸でつつきながら、ところ変われば人間が変わるのだから、好みもかわり、その場所その場所でそれぞれの文化が花開くんだなぁなんて、食事会の会話そっちのけで一人で感慨にふけってみたりするのだ。

 このトンポーさんだが、中国では非常に有名な人で、それは絵(文人画)や書に優れ、これまた優れた詩をたくさん残しているからだ。政治的には王安石という時代の寵児とその一党(新法党)と対立して何度も左遷をされ、決して組織の中では恵まれず、最後は海南島へ左遷なんて、日本でいう八丈島流刑に近い人事だったけど、彼はそれでも甘んじて受け入れ、それでも絵を描き、それでもたくさんの詩を書いて人生を楽しもうとした。ものすごくタフで人間的に魅力がある人だったのだろう。

 で、このトンポーさんが、杭州に左遷されていた時に、地元の人々に作り方を教えたのがトンポーローである。トンポーさんは組織で上手に世渡りできない人にありがちな、ものすごく有能で多才で、しかも面倒見のいい親切な人だった。古今東西、面倒見のいい親切な人は、組織でたいてい出世しないのである。彼はこのトンポーローの作り方を詩にまでしている。

<豚肉を食べる詩>

黄州の豚肉は美味しく、糞のように安い。

豊かな者は見向きもせず、貧しいものは調理の仕方を知らない。

だから少量の水でじっくり煮込むといいよ、ものすごく美味しくなる。

私は毎朝起きて一人分を料理して食べ、他人を気にせず自分で満足して楽しんでいる。

 

こんな感じの詩だ。

トンポーさんはどこまで本気だったのか知らないけど、こんな、のほほんとした詩を残しているのである。もちろん当代きっての一流の文人だったから、カッコいい詩もたくさん残している。赤壁の戦い(彼が生きた800年前)の古戦場を訪ねた時に作った詩「赤壁の賦」はものすごく有名な復古調の美しい詩だ。

 が、「美しい詩」なんて書いたけど、実は複雑な思いもある。僕は詩と呼ばれるものは何でも好きだし、例えば学校の教科書に載っていた漢文の詩なんて、どれも本当に美しい響きで大好きだった。李白の五言絶句「静夜思」を初めて読んだ時は、ほぼ衝撃に近い感動を覚えたもんだ。十代の多感な時期だったからかもしれないけど、言葉にこんな魔力があるのだと、世界がひっくり返るくらいの発見をしたような気がした。

 それがある時、まぁ要するに何十年もたって、既に中年サラリーマンになっていて、駐在先の中国の博物館みたいなところで(休みの日に遊びに行った)、李白の詩が書かれたプレートとその前に置かれた李白の胸像を見つけた。詩はよく見ると「月下独酌」だった。ブロンズ製の胸像の手前には小さな緑色のボタンがあって、それを押すと詩の朗読音声が流れる仕組みになっている。

僕はあの有名な「月下独酌」だって思って、ちょっと嬉しくなって、何の迷いもなくボタンを押したら、中国語が流れ出した。当たり前と言えば当たり前の話だ。

 ん?でも何か違うぞ。

僕の知っている、美しいなぁなんて思春期に何度も読み下して鑑賞していた、あの漢詩の美しいリズムや響きとは全然ちがうぞ、って思った時はもう遅かった。

そうか、これが本来の李白の詩であり、リズムであり、音の響きだったんだ。

遥か大昔の日本人がそれを入手し、頭をひねり、李白という偉大な詩人の作品の素晴らしさを何とか表現すべく、その美しさを損ねることなく、なんとか日本語の文体に置き換えたのが、僕の知っている「月下独酌」(書き下し文)だったのだ。

 李白たち詩仙が喋っていた中国語と、日本人が作った訓読文とは全然違うのだから、いわばオリジナルではないものに、オリジナルの素晴らしさを損ねず、別のオリジナルな素晴らしさを付加して行く、そんな作業の結果を僕たちは教科書で学んだのである。

確かに、日本の角煮はオリジナルのトンポーローとは全然違う。刺激が少なく日本人好みの繊細で優しい味だ。特に僕は薄味の角煮が好きだ。さっと小皿で登場しても、決して主役感を出さず、他の料理との味のバランスを崩すこともなく、いい感じの脇役として優れた仕事をする、そんな控えめな角煮が僕は好きなのだ。

 だから、日本の古典芸術ってきっと、だいたいそんな感じで、自分たちの感性に置き換えて、オリジナルをリスペクトしながら、新しい自分たちなりの意味や価値を与えて行った、大昔からの作業の累々とした結晶みたいなところが、きっとあるのである。

 「月下独酌」は李白が月を相手に酒を独りで飲む詩(うた)だ。月を相手にゆっくり飲もうとしたが、よく見ると月光に照らされ自分の影も見える。これで仲間が3人になった。月と影と共に酒を楽しみ、酔いが覚めればそれぞれの場所に戻って行くのだ。って言う、人生の寂しさと楽しさの入り混じった想いを、のびのびと詠んだ詩(うた)なのである。

 1000年以上も昔の日本人はそれを読み、共感し、その共感を日本人なりの感性に置き換えて表現し直した。おかげで僕たちは、古典芸術として李白の詩を鑑賞することが出来るのである。  

国が違おうと、言葉が違おうと、人種が違おうと、信仰する宗教が違おうと、所詮は人間である。同じような哀しみとか喜びを抱えながら、たった数十年で死んでゆくだけである。人生を詠んだ優れた詩(うた)に共感しない訳がないだろう。イェーツの詩に、ランボーの詩に、芭蕉の俳句に、何百年も時を越えて僕たちが共感し感動出来るのは、そういう人の性(さが)に基づいているからである。僕たちが古典芸術に感動出来る所以(ゆえん)だ。

 つまり、それが音楽だろうと、彫刻だろうと、舞踊だろうと、書だろうと、詩だろうと、絵画だろうと、古典芸術に僕たちが感動するのは、そこに人間の変わらない営みと想いを感じ取り、生きることの美しさであれ、哀しさであれ、虚しさであれ、苦しみであれ、ずっと続いて来たし、これからも続いて行くと確信し、その確信のもとで、自らを大きな時間の流れに一体化できるからである。いわば永遠へのあこがれに僕たちは心揺さぶられるのである。

特に日本の古典芸術では、生きている人間の生々しさ、生臭さが息吹いている。生々しく、みずみずしく、永遠に変わらず続いて行くことを説き続けている。だから僕たちが平家物語を読む時、徒然草を読む時、実朝の和歌を読む時、「なまもの」の息遣いに生命(いのち)を見るのだ。

そして、永遠を感じて命を味わうというのは、芸術の鑑賞を通じて生きている喜びを感じるってやつだけど、生きるってそもそも変わり続けることだから、「なまもの」である僕たちはやっぱり矛盾している。引き裂かれている。永遠の中に命を感じるって、人間はホント逆説的な生き物だ。

 最近、老眼がひどくって、カスミ目もひどく、裸眼で眼鏡をかけようが、コンタクトをして老眼鏡をかけようが、文庫本の小さな文字が読みづらくなった。読書がし辛(づら)いなんて悲し過ぎることだ。で、日本に一時帰国したとき、思い切ってKindle端末(Paperwhite)を買ってしまった。駐在しているお国ではAmazonが一切使えないから、日本に滞在しているその数日のうちに一気に読みたい本をダウンロードし(慌てて)、戻る時に持って帰って来たのだ。

興味のある本は勿論だけど、昔読んだ本とか、読んだかどうか覚えてないけどまぁいいや、もう一回読もうなんてなのも合わせ、かなりの量をダウンロードしてしまった。

帰りの飛行機の中で早速使ってみると、確かに使いやすく、目にも優しい。文字のサイズがその時の目の調子に合わせて大きく調整できるし、画面は評判通り見やすく、やっぱり評判通り本体は軽くて持ちやすい。

 そして「昔読んだ本」の中に小林秀雄の評論集も入っていた。あぁやっぱり懐かしいね、高校生になったばかりの頃、ずっと読み耽っていたのを覚えている。文章の中に「詩魂」って文字を見つけ、あのティーンエージャーだった頃の青い時代の記憶が蘇り、胸の中心がきゅって詰まる感覚があった。嫌な感覚ではない。

そうそう、詩魂って小林が芸術を評論した時によく出て来る、理屈や理論を排除し抜いた上で、作品に見出すことが出来る人生観みたいなものだけど、字義の通り、詩(うた)という芸術の魂(たましい)のことだから、そこに生命(いのち)を見るなんて、ちょっと壮絶だし格好良すぎるなぁ、なんて思った。評論家というより人生の美学者だ。もはや高校生ではなく、初老になろうとするオッサンの感想である。

が、やはり魂(たましい)って、人間の生命(いのち)を見るための昔ながらのツールであり、対象とするものは「なまもの」であり、僕たちの気持ちにぴったり合う、手に馴染んだ道具である。21世紀の今だって、何とか魂(だましい)というコトバをよくテレビでも耳にするのだ。

 さてそんな高校生のころ、やはり小林の「当麻」という評論を読んでいて、たかだか十数年を生きただけでその中身はあんまりよく分かってなかったけど、それでもやっぱりその文章の響きとリズムがあまりに美しく、古文を鑑賞するように何度も何度も繰り返し読んでいた。その内容で取り上げられている能舞台なんて古典芸術を、地方都市の高校生である僕は、もちろん生まれて一度も見たことがなかった。でもきっと能楽って、こんな美しい文章「当麻」がインスパイアされて作れるくらい、それはそれは魅力的な芸術なんだろう、って素朴に想像していたものだ。懐かしい思い出である。

 その後、大人になってから、実際に薪能(たきぎのう)を見る機会があったけど、何十年生きようと、どうやら薄っぺらい美意識のまま仕事まみれのサラリーマン生活をしていたせいか、あんまりその魅力がよく分からなかった。当日の演目に対する知識が少な過ぎたからかもしれない。

とはいえ、確かに、初めて見る能の動きの迫力(決して派手な動きではなく、むしろノロノロとした小さな動きなのに)や、舞台上のシテ、ワキ、囃子の配置の美しさに圧倒される瞬間があった。僕はその一瞬だけで、もう十分に満足だって思った。なるほど、中身はよく分かんないけど、少しの間、美しいなぁって、普通の庶民として生きて来て、背伸びせずに堂々と確信を持てたのだ。美しいと感じたこの感じは確かなものだったし、大昔から変わらないものを自分が感じられる嬉しさを、ちゃんと理解できたような気がした。だからこそ、その瞬間を、持って行ったフィルムカメラで迷わずに切り取ったのだ。僕は美学者でないので、変に無理をしなくてよろしい。

「お腹空いたし、あんまよく分かんないから帰ろうか」

もうとっくの前、始まった瞬間から退屈して帰りたがっていた家人の手を僕は引いて、目立たないように席を立った。このあと人気のハンバーグ屋さんへ行こう。

 観阿弥世阿弥の時代の人々が美しいと感じたものに、こんな数百年後を生きる一般庶民の僕でさえ、さっき少しでも美しいと思えたなら、一瞬でもそう思えたのなら、本当にありがたい話である。それだけでものすごい奇跡である。李白の詩の響きに、それは決してオリジナルの響きではなかったけど、いいなぁと思えた高校生時代と一緒だ。鑑賞している刹那のひと時でも、しっかりと心に響き、同じ人間として時間を超え相変わらず伝わってくるものがあれば、僕は大満足だし、そんな自然な感じで、肩肘張らずに古典芸術を味わうのが一番である。また気が向いたら、部屋でネットで面白そうな能の作品(映像)を探し、くつろぎながら見てみよう。

法則性への反逆。もし変わって行くというのが生命の法則なら(ナウシカベルクソンもそう言った)、それを希求しつつ古典芸術の「変わらないもの=永遠」に憧れや一体感や、そして生きている実感を見出すのは、一種の不合理である。でもこの矛盾をかかえた不合理さ加減が、まさに「なまもの」である人間の特徴だ。不合理さは一種の気まぐれでもある。

 ところで話が変わるけど、大阪万博がえらい盛況らしい。数千キロ離れた異国の地でニュースのレポート映像を見ながら、確かに面白そうだなぁ、行ってみたいなぁ、僕も体験してみたいなぁ、暑いのかなぁ、昔行ったデザイン博とか花博とかムチャクチャ暑かったなぁ、なんて思い出している。

 そんな中、著名なロボット学者の大家の方がプロデュースしたパビリオンがあり、もし行けるなら(たぶん行けない、海外赴任中なのです・・)絶対そこに行ってみたいと思った。実際に行った人たちのブログを見てみると、パビリオンの中にはアンドロイドたちがいっぱいいて、すごく面白そうだ!本当に行って見てみたい!

ロボット学の大家曰く、生物は太古の昔に無生物から生まれ、やがてそう遠くない未来、無生物に帰るらしい。何万年後にはそうなっているらしい。なるほど、きっとそうなんだろう。大学時代に映画「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」を見た時、きっと未来はそうなるんだろうなぁと思ったように、きっとそうなんだろうと思った。

ナマの肉体なんて個体差も大きいし、不具合品も多く、破損したらそれで終わりなんてな場合もあって、それらを一生背負って生きていかなければ行けないなんて、多くの人々の不幸の原因でしかない。どんどん身体をロボットパーツに交換し、腰痛とか、膝の痛みで歩けないとか、ものがちゃんと持てないとか、目が見えないとか、そんな不便さから解放されて、そう、どんどん解放されて、ついでに身長の高さ、痩せ具合、顔面の美しさを重視するルッキズムの煩わしさや、その為の無駄な労力の消費からも解放されて、老化によるたくさんの不具合からも解放されて、もっともっと自由になれば、人は幸せになれるだろう。というか、人間にそういう欲望がある以上、テクノロジーはそれに即応して必ず満足させるだろう。

脳だって同じ。デカルトの素朴な心身二元論とは違う、無意識から意識へ指示が伝わる複雑構造(精神構造)=ゴーストが、脳みそという箱の中に納まっていて、それが僕たちの身体に格納されているのである。だから、箱自体も、なまもののままではなく、ちゃんと機械化しておけば、ある日突然、腫瘍でダメになるなんて苦労はしなくてもよい。

 学生の頃、神保町をウロウロしていて「人間機械論の哲学」(勁草書房)という本を見つけて、それまで探していたから大喜びして買ってきて、自分の部屋で煙草をプカプカ吸いながら三日三晩、ちゃんとご飯も食べないで読み耽った思い出がある。大学の授業でギルバート・ライルが扱われた時、人間機械論とその周辺の考え方に強く興味を惹かれた僕は、それこそ神保町とかの喫茶店でコーヒーを飲みながら、色んな本を読み、テーブルでうたた寝し、何万年後かの機械化された人間の姿を想像し、空想し、ニヤニヤしていた。人間を対象とした学問って、きっと社会に出たら糞(くそ)の役にも立たないけど、自由な空想がどこまでも広がって、やっぱり学ぶのが楽しいなぁって思っていたものだ。(実際、社会に出て糞の役にも立たなかったけど)

そう、所詮、我々は有機物の複雑な機械にしか過ぎず、魂(たましい)なんて怪しげで不安定なものは、事実を認識するという観点から、所属するカテゴリーが違うのである。野球が下手という事実と、でも本人は野球が好きという想いが、同じカテゴリーに区分されて議論されるのが変なのと一緒だ。

人の想いはまた、これはこれで別のカテゴリー(人間の欲望がどのように形になって意識として現れ、身体にアクションとして指示を出すのか)で議論されなければいけない。そして意識も自我も構造化されており、構造化されているってことは、例えばAIのような無生物であってもちゃんとそれ(意識や自我)を持ち得る。

 というわけで、僕たちはいずれ、「心」だろうと「魂」だろうと「想い」だろうと、脳科学か何かの学問又は技術が、すっかり構造を解明して再現してくれるだろうと(数百年先か数千年先か数万年先かは分からないけど)、原理的に理解している。

GHOST IN THE SHELL」の中で、主人公の草薙は、ハッカーである人形使いから提案された「融合」に合意した。融合することによって「自分」というものの存続が最後は保証されなかったとしても、仮に自分が別物に変わって行こうとも、彼女は最終的には合意したのだ。初めて映画を観た時、その意味は大きいと思った。

電脳の奥のゴーストも生命だ。それが新しい生命の進化の形なら、じつはそれも生物であり、たとえ記憶も感情も電子制御されてチップかなんかでロボット化され、頭部の箱に格納されていても、無生物になっちゃったなんて嘆かなくていいのかもしれない。

バイトして結構お金貯まったから、ちょっと古くなったボディを交換するついでに、このゴースト飽きたから、他のゴーストと混ぜて変化させに行くよ、だから性格変わったとか言わないでよ、なんて時代が来るのかもしれない。

バグを待たなくても、そういう風に自分で自分が別のものになって行く欲求が、快楽が、本来、生命(いのち)には備わっているはずなのだ。だって、変わり続けていくのが生命(いのち)の事実だから。そして、例えばウィルスも命であり、仮に自己増殖できなくても、やっぱり変わり続けて行く事こそが生命なら、つまり生命は必ずしも「なまもの」である必要はないのである。

 とはいえ、とはいえである。

ここで僕は立ち止まってしまうのだ。

その頃もはや完全に(脳も含め)機械化された人間の僕たちは、「なまもの」ではなくなってしまった以上、あの懐かしい詩魂も消えてしまうのだろうか?

永遠への憧れも失い、矛盾に引き裂かれつつ大きな歴史の流れの一つに合一されるあの感動も、喪失してしまうのだろうか?

そいつはなんだか悲しいな、って思った。

歴史好きなら、なおさらです。

古典好きなら、なおさらなのです。

永遠にあこがれながら、やっぱり生き物だから変わり続けて行く、そんな中で命を感じるという今の僕たち、矛盾した「なまもの」の方が、趣(おもむき)があっていいや、と思うのだ。

 日本にいようと海外にいようと、どこにいようと、そこに脈々とした人の生臭い歴史があり、人々の生きてきた証(あかし)があり、それを結晶化した芸術がある以上、古典芸術といわれるものからは、そんな「なまもの」たちの息吹を感じるのである。異国の地の豚肉料理ひとつにだって、ちゃんと物語があり、歴史があり、食という文化があり、だから結局のところ人の生み出す芸術の一つがあり、たった一回きりを生きる「なまもの」の人間の魅力が、たっぷり詰まっていると感じられる。

それはギルバート・ライルの「デカルトおかしくね?」の延長線上にある、古典的な人間機械論であろうと、最新の脳科学であろうと、ロボット学であろうと、そういうものとは真っ向から目を背(そむ)ける生き方だ。目を背(そむ)けるのである。真っ向から対立するとか対抗するなんて、現代科学を相手にとてもできません。子供の反抗みたいなもので、拗(す)ねて目を背(そむ)けて「だって、それでも、僕はこっちの方がいいんだ」という駄々みたいなもんです。

ちょっと銀河鉄道999みたいな話になっちゃったけど。

「今日はどこへ行くの?」

「うん、そうだね。のんびり寺巡りでもしようか」

「ついでに美味しいものも食べたい」

「いいよ、了解」

なまものである僕たちは時々、ふらっと日常の喧騒を離れて京都や奈良のような古都へ向かい、あの古い仏像たちに逢いに行く。

千年以上もそこにあって、人々が千年以上も変わらず手を合わせ、祈り、願い、語り掛けて来た、あの優しく厳しい面立ちの仏像たちに逢いに行く。

それは、語り掛けて来た「なまもの」の人々の想いが結局のところ千年以上ずっと変わらないことを確信できる、そして自分も全く同じように語り掛けていることを自覚できる、だから、同じように「なまもの」として死んで行くことを自覚できる、とても優雅で幸せな時間だ。

幸せになりたい、幸せでいて欲しい、なるべく苦しまずに死にたい。そんな単純明快な祈りを、僕たちは何千年も何かに向けて祈り続けて来たし、そんな人間の相変わらずさが、僕たちを励まし、安心させるのである。

だから、それでも、僕はこっち(なまもの)の方がいいなぁと、しみじみ思うのである。

上海のホテルで大きな湯舟に浸かりながら、水の中に入った時の感覚と子供時代に大好きだったウーパールーパーを思い出していたこと

2025/03/30

 久しぶりに湯舟に浸かった。

 僕の住む異国の地域は、ご多分に漏れず、お湯に浸かってリラックスするという習慣は無く、マンションの自分の部屋にもシャワーしか付いていないから、出張などでどこかの都市部のホテルに泊まらない限り、湯舟にパシャンと浸かるなんて機会はないのだ。

 で、その出張に行く機会が久しぶりにあり、しかも上海のその宿泊先のホテルの部屋にかなり大きめのバスタブ(たぶん大柄な西洋人とかが入っても大丈夫なサイズ)があったので、僕は嬉しくなって、たっぷりお湯を貯め、パシャンと浸かった。

 そして、勢い余って足が滑り、大きなバスタブの底に全身がするりと潜り込んで、一瞬、頭のてっぺんまで身体がお湯の中に浸かった。完全に水中に身体を浸けるなんて一体いつぶりだろうか?

 前回、海へ泳ぎに行ったのが15年くらい前だから、水面を下から眺めるっていうのが、本当に新鮮で懐かしい気持ちに感じた。一瞬の出来事だったけど、水面の向こうに浴室の照明が光って見え、それがなんだか太陽みたいに映ったからだ。

 子供の頃は、学校のプールで溺れかけ、渓流釣りをしていて川で溺れかけ、海水浴に行って海で溺れかけた。ってどんだけ運動神経が無いのかと言われそうだけど、そして確かに無いのは事実だけど、どちらかと言うと、それだけ水に接する機会が多い子供時代だったのである。

 海も山もあるところで僕はのびのびと育ててもらった。海も山も、生(なま)の自然がどんなものであるか、大抵はとてつもなく美しく輝いていて、一方、時にとてつもなく残虐な表情を見せる、そういう世界の成り立ちを、そこから子供がたくさん学べる大切な場所だったのである。だから、そんなところで僕は子供時代を過ごしたのだから、ある意味で運がいいのだ。溺れた時は死にかかったけれど。

 もちろん、その溺れている時は、悠長(ゆうちょう)に水中から水面を見上げ、反射している太陽の光の美しさを味わうなんて出来ない。でも、普通に泳いでいる時、あるいは水の中に身を漂わせている時、例えば渓流釣りをしていて、向こう岸から竿を出して釣ろうか、なんて思って対岸に渡る途中、渓流って数十センチの深さからいきなり数メートルの深さになるところがあるから、数秒間、全身が水中にドボンと浸かって、竿を握りしめながら流れに身を任せ、また足が着くところで歩き始め、対岸側でひょこっと川面から頭を出す、って事があり、そんな時は、漂(ただよ)いながら冷静に水面を見上げ、あの砕いたガラスのような美しい光の揺らめきを目にして「きれいだなぁ」と感じる事が出来るのである。

 有名な「リバー・ランズ・スルー・イット」という映画をこれまで何十回と見てきたけど、そしてこの映画のファンはたくさんいるけど、あの作品には渓流好きが渓流に惹かれるエッセンスがたくさん詰まっていて、だからみんな飽きずに何度でも見てしまうのである。それは、映画の登場人物たちがやっているフライ・フィッシングをやらなくても、釣りさえしなくても(渓流をただ眺めるのが好き、渓流の風景を絵に描くのが好き、渓流のそばでキャンプをするのが好き、なんて色々な人がいる)、あの水辺の美しい風景と、せせらぎのリズムと、新鮮な空気を、映画を観るたびに思い出すからある。

 そして言わずもがな、海で泳いでいれば、水中に全身を沈めた時の解放感、決して地上では味わえないリラックスした気持ちを僕たちは味わうことが出来、そう、こっちも映画で言うなら、「グラン・ブルー」を何度見ても飽きないのと同じである。

 僕は日本にいる時は、休日にリビングのソファーで寝そべりYou Tube で「波の音」とか検索して、ずっと波打ち際の映像を流し、まさに波の音を聞きながら昼寝をするのが楽しみだった。平日のストレスを忘れ、よく眠れた。

 あと水と言えば、二日酔いの朝にゴクゴク飲む水。あの時ほど、僕たち人間の体にとって、水ってやっぱ基本なんだよなぁ、逆にやっぱアルコールって毒だよなぁ、なんて、つかの間の後悔(どうせすぐに忘れる)と、一個の生き物として水の有難さを感じる瞬間はない。アルコールで火傷した内臓や血管の内側を、真水が沁み込みながら治癒して行ってくれる勝手なイメージをしながら、美味しく頂くのである。

 そういや北斎の浮世絵にも川や海など水辺の風景はたくさん描かれ、モネは水面に映る光の反射の美しさを、キャンパスに表現するのに全力を尽くした人だった。市井の人々も芸術家と言われる人々も、みんな古来から、水に惹かれて、その美しさに魅了されて来たのだ。

 やっぱり、水って、外から眺めようと、その中に身を置こうと、体の中に摂取しようと、僕たち人間にとっては特別なものだ。

 水の中にドボンと浸かること、要するに泳ぐことで、人間の脳みその中にセロトニンが分泌される事が分かっている。これはメジャーな話だ。そしてセロトニンと言えば流行りの幸せホルモンだから、やっぱり水泳ってストレス解消にいいよね、泳ぐと気持ちがリフレッシュして生き生きして来るよねって話になるのだが、ではどうして泳ぐと人間の脳内でセロトニンが分泌されるのだろうか?というと、はっきり分かっていない。

 分かっていないから、そこは「人間を含む生物の祖先はもともと遡(さかのぼ)ると水中から生まれ、それが数億年前に陸に上がって・・・」という、どんだけ遡るんだって怪しげな解説が生まれたりして、でもだからこそ(よく分からないからこそ)僕たちは色んな想像を自由に広げて行くことが出来る。現代科学の力によって、人間は現実の世界の仕組みをより精緻(せいち)に解明できるようになったが、相変わらず「そもそもどうして?」という生命の謎には決して辿り着けそうにないから、そこに想像する面白さが生まれ、同時に、うさん臭さが生まれるのだ。

 これも今流行りの「Awe体験」(壮大な大自然などを目の当たりにする事で、肥大化した自意識が抑制され、謙虚に、そして他者への思いやりの気持ちを持てるようになる体験)という切り口で解釈するなら、水中に浸かることで、大自然の(大海原の)中に身を置いたように僕たちの脳が錯覚し、一種のAwe体験をしてセロトニンがガンガン出て来るという事になるのかもしれない。

 が、これだって脳科学の仮説の一つに違いない。もちろん想像する面白さの一つではある。でもやっぱり、真実にはとうてい、人間の生物としてのスペックでは辿り着けそうにない。

 あるいは、海水と羊水のミネラル成分がほぼ同じであることから、海に潜ると、我々の生まれる前の記憶が蘇り、地上では味わえない安心感を脳が感じる、という話もある。でもこれは、水の中に入った時のあの独特の感覚を説明する為に、数億年を遡るか、ちょっと遡るか、の違いでしかない。4億年前に我々人類が現れるずっと前の生物、たぶん昆虫の類が水中から地上に這い出てきて、という話よりは、自分自身が生まれて来る前の母親のお腹の中の話の方が、まだ少しは実感があって、う~ん、言われてみればそんな気もするけど、とはなる。でも、例えば真夏の太陽の下で海にパシャンと飛び込んで水の中に入った瞬間の感覚は、そういう安心感ではなく、どこまでも続くものすごく広い別の世界に自分が急に入り込んだような高揚感があって、であればどちらかと言うとAwe体験の方が近いかもしれない。

 なんてぼんやり考えながら、僕は上海のホテルで湯舟に浸かっていた。ホント久しぶりに体がほぐれる感じがして気持ちがよかった。生活していて湯舟になかなか入る機会がないなんて、日本人にはちょっとした修行だね。いわば禁欲した後の解放感を、僕はお湯に浸かってたっぷり味わってからお風呂を出た。

 水と接する機会の多かったそんな子供時代だが、話は飛ぶけど、UFO焼きそばのテレビコマーシャルでウーパールーパーを初めて見た時、僕はすっかりその魅力に憑りつかれて、両親に水族館へ見に連れて行って欲しいとせがんだのを覚えている。

 CMをきっかけに大流行して人気者になったウーパールーパーは、当時はまだ日本の水族館にはいなくて、結局、テレビ番組の映像でしか見れなかったけど、水の中でのらりくらりしているその様子(あんまり動き回らない)が、僕はいっぺんに気に入ってしまって、いつか必ず会いたいと思った。

 あんな感じで水の中でのほほんと暮らせるなら最高じゃん、なんて思ったし、いつもニコニコしているように見える口元とか、その上に乗っかっている呑気(のんき)そうなつぶらな両目とか、きっとその姿を見ただけでいいことが起こりそうな気がした。大人になってから、原産国であるメキシコでのウーパールーパーの名前が「アホロートル」であり、それは先住民の言葉アステカ語で「水で遊ぶもの」を意味することを知った時、ほらやっぱりね、と思ったものである。子供時代の僕がウーパールーパーを好きになったのは、そんな風に肩の力を抜いて水の中でタラタラ遊んでいる感じが楽しそうだったからだし、古代のアステカの民(たみ)はちゃんとそれを知っていたんだなぁと思った。

 ちなみに「アホロートル」という名前は、アステカの「ショロトル」という神様の名前から来ているそうで、このショロトル神は、太陽の復活の為にすべての存在する神様たち(アステカ文明多神教だった)が犠牲として命を捧げる事が決まった時、やべぇ、オレは死にたくないんだけど、って必死で逃げ出し、トウモロコシに変身したり、追っ手に見つかったらまた逃げ出して他の植物に変身したりしたけど、最後に両生類になって隠れていた時に捕まり、殺されてしまった。逃げて逃げて逃げまくって頑張ったけど、結局、殺されてしまった可哀そうな神様の名前を、大半はいつまでも幼生のままで成体にならない(成体になると普通のサンショウウオになる)ウーパールーパーに付けるなんてセンスがいい。アステカの民は、死にたくなくて逃げ出した神様が、いつまでも子供時代のままでいられるよう(成体になって見つかって殺されないよう)、願いを込めて、その名前を与えたのかもしれない。歴史家はアステカの人々が戦闘が大好きだったって言うけど、本当は人間というものを知り尽くした優しい人たちだったのかもしれない。

ウーパールーパーはいないね。残念だね」

「・・・・・・」

 電車に乗って連れてきてもらった水族館にはウーパールーパーはいなかった。

 昭和だから、今みたいに事前にネットでいるかどうか確認して、という時代ではなかったけど、事前に電話で水族館に確認くらいは出来たはずであるが、両親はきっと面倒くさかったんだろう、ハイハイ連れてきますよ、って感じで僕を連れて行き、まぁそのウーパールーパーって生き物はいないけど、ほら、たくさん魚が泳いでいて楽しそうだよ、という感じで軽く慰めるだけだ。

 僕は小学生とはいえある程度大きくなっていたから、さすがにそこでゴネる訳に行かなかった。でも本当は悔しくて大泣きしたい気持ちだった。魚なんか見たくない。イルカも特に可愛いと思わない。だいたい僕は動物園とかだって、入った瞬間に鼻に入って来るあの獣(けもの)のニオイが苦手だから嫌いなんだし、今日やって来たこの水族館も、やっぱりなんだか生臭い嫌なニオイがして不快だった。他の生き物を見に来た訳ではない。ただただ、ウーパールーパーを見たかっただけなんだ。

 水族館でいる間、僕は両親に連れられ、無表情に、ときどき面白くなさそうに水槽を見て歩いていた。逆に、両親は久しぶりの夫婦の息抜きを楽しんでいる様子だった。その後ろを憮然とした小学生の僕が歩いている。

 以来、そんな悔しい思いをすっかり忘れていたけど、そのあと何十年もたち、家人と名古屋にある水族館でデートしていた時、生まれて初めて、ばったりウーパールーパーに出会った。子供時代にウーパールーパーにハマった事なんて完全に記憶から無くなっていたから、不意打ちの出会いであり、そして僕は一瞬で当時のことを思い出し、ヤッター、ついに会えたんだって大喜びしてしまった。大(だい)の大人の反応ではない。

 家人は怪訝(けげん)な顔をしていた。そりゃそうだろう。さっきまで平日の仕事の疲れが顔に残ったまま、つないだ手にも力なく、あらこの人、疲れが溜まっているのね、って思ってたのに、水槽の中にいるピンク色の生き物を見た瞬間、急にテンションが上がって元気になり出したのだから。異様である。

 テンションが上がった僕は、ガチャガチャの置いてあるコーナーを見つけ、あったあった、やっぱりウーパールーパーのフィギュアがあったぞ、何千円かかっても絶対に出してやるぞ、オレはもう大人なんだ、何回でもやれる金はあるんだ、って意気込んでハンドルを回したら、一発で出て来たので狂喜した。他愛もない話である。

 今でもそのフィギュアは僕の宝物であり、日本の自宅の書斎の本棚にぶら下がっている。一時帰国の度に、椅子に腰かけ、ふと目を合わせ、「帰ったよ」って言う相手でもある。

 ウーパールーパーの正式名称は「メキシコサンショウウオ」であり、ごく一部は成体になる。要するにあの井伏鱒二の「山椒魚」と同じ生き物だ。幼生時代の愛くるしい姿は消え失せ、のっぺりした普通のサンショウウオになる。

 井伏鱒二の作品に出て来る「山椒魚」はちょっと偏屈で、高慢で、会社にたくさんいるタイプだ。自分の落ち度で大きくなり過ぎて岩屋から出られなくなり、動けない、という苦しさと、決してもう二度と外の世界を見に行けないという絶望的な哀しみを抱えながら、孤独と対峙(たいじ)する物語である。この歳になって読み返したら、もはや年を取り過ぎて転職なんかできず、上や下の世代を見て自分たちの生まれたタイミングの悪さを恨み、不満だらけで、とはいえ年齢が年齢だから、今いる会社にしがみつかざるを得ない現代の中年サラリーマン達の姿を重ねて読んでしまいそうだ。

 でもまぁ、世代に関係なく、年を取ってしまった人間がみんな、結局は感じることになる哀しみが、あの作品には描かれているのだろう。いつだって嫌な意味で人生は公平である。みんな公平に老い、病を抱え、死んで行く。

 だから、そんな残念な山椒魚に気まぐれに意地悪され、一緒に岩屋に閉じ込められ、これも一生涯をムダに過ごさざるを得なかったカエル(被害者)が、自分が死ぬ前に山椒魚(加害者)に対して放った言葉、「別にお前のことを怒っていない」という言葉の重みさえ、今なら分かるような気がするのだ。僕も歳を重ねてしまった。

 う~ん、確かにそういや、ウーパールーパーが大好きだった同じ子供時代に、地元の博物館でドラム缶みたいな水槽に入れられて展示されていた真っ黒なオオサンショウウオを初めて見た時、そいつは全然動かず、生きてるのかどうかも分からず、そこにじっと佇んでいたぞ。その姿は、なんだか岩の怪物みたいで、ちょっと怖かったのを覚えている。

 不思議だ。水の中にあって、自由に動き回れずに苦しんだりこの世を諦めているように見えれば、別の見方をすれば、のほほんと暮らしているようにも見える。同じように生きていても全然違って見えるのは、見る側の人間のその時々の勝手な解釈に依るからなんだろう。

 ブシュっと缶のプルタブを引き上げ、風呂上りのビールをちびちび飲みながら僕は窓際まで歩いてみた。宿泊している部屋がちょっと高層階にあるから、上海のオフィス街の夜景がずっと向こうまで広がっている。今からまた、モバイルを開いて明日の仕事の準備の続きをしないといけないけど、湯上りで気持ちがいいし、もうちょっとこんな感じで休憩しよう。

 僕は、遥かかなたメキシコで暮らすウーパールーパーたちを想像してみた。太平洋を挟んだ向こう側にいるんだね。

 彼らは、確かに大海につながる水の世界で生きているが、つながっている世界が果てしなく広いとか、きっといちいち気になんかせず、目の前に見えるものをじっと見つめ、味わい、楽しんでいるだけかもしれない。そんなに動き回れなくても、広い世界へ飛び出して行けなくても、悲しみや孤独や悲壮な諦めを感じることなく、ただただ、のほほんと水中での生活を楽しんでいるだけかもしれない。それは羨ましい姿だし、僕が子供時代に見て感じていた彼らの自然な姿だ。そしてきっと、生き物としてそれが自然な姿だ。

 だから水中に入った時、僕たちが空間や時間の広がりを感じ、解放されたと感じるのは、実は数億年前の太古の時代を思い出す訳でもなく、母親の羊水の中を思い出す訳でもなく、大海原につながっている自分をイメージしている訳でもなく、単にそういう風に安心したり解放されたいと願う人間の強い欲望が現れているだけかもしれない。

 何しろ、みんなが生きているのはヒドいストレス社会だもんね。そこはウーパールーパーたちが暮らしている世界とは全く違い、きっと不自然で歪(いびつ)な世界だ。みんな、自由で解放された気分になりたいのである。いわば歪(いびつ)な世界の歪(いびつ)な生き物である我々が、歪(いびつ)な欲望を持って暮らしているだけかもしれないのである。井伏鱒二は、山椒魚という作品を描きながら、実は、そんな歪(いびつ)な生き物である人間の姿そのものを描いたのかもしれない。

 2本目の缶ビールに手が伸びそうになって、やっぱりやめた。リラックスタイムは終わり。さあ、また仕事だ。

 部屋のデスクに腰かけPCを起動させてからも少しの間だけ、僕はもう一度、昔、一人で山深い渓流で釣りをし、水音を聞いて、水に浸かって、水の流れを眺めていた頃を思い出していた。もう20年近く前の話だ。東京からUターンして転職した直後だった。気持ちがクタクタだった。あの頃、そうやって一人で静かに何時間も釣り糸を垂れて、水に接する時間が僕の救いだった。

 水に接しながら、世界が美しく見えるあの一瞬を、気持ちを流れに漂わせつつ、鎧(よろい)とか鱗(うろこ)が自然と自分の心から剥がれ落ちて行くかのような感覚を、もう一度、思い出していた。あれは何かから解放されるというよりは、どちらかと言うと、もとの形に戻って行くそんな感覚だった。

 あれからもう20年だ。

 上海の海のちょっと向こうには、僕がその20年前に釣り糸を垂らしていた美しい島国があり、そのさらにずっと大きな海の向こうには、子供時代に大好きだったウーパールーパーたちが生きているのだ。

 さてお仕事。このストレス社会を、僕たちは死ぬ直前まで働き続けないとね。

そして仕事を始めれば、もう窓の外を見る事はない。

水の中に入った時の、あの懐かしい優雅な感覚も、そこにはもうない。

映画「KU-KAI」を見ながら正月前に餅にかぶりつき、来年こそはまた家族と本物の年越しそばを食べて過ごしたいもんだなぁと思ったこと

2024/12/22

毎日、仕事に追われ、あっという間に日々が過ぎ、気づけばもう年末だ。

日本にいれば小さなスーパーにでさえクリスマスソングが流れ、デパートへ行けばおせち料理のコーナーが並び、街の雰囲気も人々の動きもいよいよ年の瀬って感じでせわしなく、でもみんなちょっとウキウキしていて、否応がなく「あぁ1年が終わるんだなぁ」って感じられるけど、ここは中国でした。

今年の旧正月は1月の末から2月初なので、12月の半ばになっても、街や人の雰囲気もほぼ通常通りで、「年の瀬」って感じが全くない。ちっともない。当たり前だろう。だって彼らにとって、年の瀬とか正月はさらに一カ月先のイベントなんだから。

 ということで、だからと言って周りに日本人がいる訳でもなく、相手をしてくれるような日本語をしゃべれる店員のいる店も街になく、そもそも12月末にそんな雰囲気を外に飛び出して味わえる環境ではないので、僕は部屋の中で日本風の年の瀬感(としのせかん)を一人で味わうことにした。

 ネットで取り寄せた冷凍のクリスマスケーキを自然解凍しつつ、これまたネットで取り寄せた日本酒を電子レンジで温め、やっぱりネットで取り寄せたサトウの切り餅をフライパンで焼いた。(こんな内陸の田舎の街に日本のものは売っていないのです)

餅を砂糖醤油に付けて海苔で巻いて食べる。う~ん美味しい。温かい日本酒も美味しいぞ。テレビを見ながらチビチビやろう。休日の昼間からこんな風に楽しむのはサイコーだ。

そしてお餅でお腹がいっぱいになったら、あとでケーキも食べよう。そのあとソファーでウトウトして、夕ご飯はきっともういらないけど、もし夜になってまた小腹が空いてきたら、このあいだ出張支援者がお土産に持って来てくれた、あの「どん兵衛」のそばを食べよう。

今日は休日。僕は年の瀬どころか、クリスマスと大晦日と正月を一気に味わう予定でいる。

なぜって、今年はそのクリスマスあたりから年明けにかけて、いくつかの出張や来客や月末処理やで結局、ほとんど休めそうにないからである。今日、味わっておかないと、気づいたら仕事しているうちに2025年、ということになってそうだ。

 去年は一時帰国休暇のタイミングを日本の年末年始に重ねる事が出来たから、正月を家族と一緒に過ごすことが出来、けっこう楽しかったなぁ、なんて思い出している。

まぁ、日本を出た瞬間に、そういうチャンスを失うことは覚悟しているけど、今年は結局、美しい日本の紅葉も見れず、クリスマスの雰囲気も少しも味わえそうになく、こうしてこのまま、たぶん仕事まみれで年を越えて行こうとしている。はぁ~

 テレビでは6年前に日本にいた時に映画館へ家人と一緒に見に行った映画をやっていた。「KU-KAI」という夢枕獏の原作を、チェン・カイコーが監督して撮影した作品だ。今日は日本映画を観ようなんて選んだけど、結局どういう訳か、毎日聞いている中国語が、選んだその映画の中でバンバン飛び交っている。日本の役者さんたちも出演しているし、まぁいっか。原作を読んだ人たちからは、やっぱりだいぶ不満が出たみたいだけど、そこはさすがチェン・カイコー。映像が本当に美しく、はるか1200年前の国際都市である長安の姿が見事にビジュアル化されているのを、改めて感動しながら見ていた。

 1200年も昔に、100万人近い人々が集まり、しかも東南アジアやヨーロッパからも商人や留学生が大勢やって来ていて、もちろん空海を始めとして日本人も遣唐使船に乗ってやって来ていたのだ。その映像化され再現された長安の様子を見ると、なるほど命懸けでも行ってみたいと昔の人が思ったのは無理ないなぁと思った。きっと本当に魅力的で刺激的な大都市だったんだろう。

 空海ってとんでもない天才だった、というのは伝説というより事実だ。確かに日本中に伝わる「空海さんがこの湧水を湧かせて、それが薬湯になった」とか「空海さんが地面に刺した杖が大銀杏に成長し、この銀杏を拝むと乳の出が良くなった」とか、いわば超人伝説が無数にあるのは事実だけど、そういう他愛もない伝説はともかく、史実として彼がやった事、やり抜いた事を追って行けば、尋常ではない頭脳と胆力を持った人であり、そりゃ留学先の中国であろうと、帰国後の日本であろうと、誰もが放っておかない類まれな天才であったんだなぁってみんな理解するのだ。歴史家は彼から真偽が確認できないあまたの伝説を根気強く取り除いて、結局のところ、やっぱりそれでも客観的に、トンデモナイ人物だったという結論に辿り着く。

そういや家人が一時期、お遍路に興味を持っていて、お遍路装束とかグッズも買わされ、四国旅行に行くついでにいくつか寺を回ったっけ。空海ゆかりの八十八もの寺を巡るなんて大変そうだなぁって、本格的にお遍路をしていると思われる方たちの様子、境内で一心にお経を唱えているその様子を見て思ったのを覚えている。

そして言わずもがな、高野山には何度か観光で行き、行くたびにあの特別な空気感を味わいながら、人が紡ぐ歴史の迫力を感じていた。

 革命者としての空海は、それまでの日本で熟成された仏教が、結局、世界の真実を探求しようとする学問になってしまっており、そういう真実の探求では人間は救われないと考えた。そりゃそうだ。病気がどのように自分の身体を蝕(むしば)み、どのように自分が死ぬのかを病院で理路整然と医者に説明されても、ヤッター真実が分かったぞ!なんて気持ちが楽になって救われる人はいない。知ることと信じることは別だからである。

 だから、真実の探求ではなく、「それでも大丈夫」と人間は優しく言って欲しいのである。そして、何が大丈夫?と聞かれても誰も答えられないから、誰かが大ぼらを吹かない限り、誰も救われないのである。任せなさい、大丈夫、と言ってくれる人や教義があって初めて、人々は安心して生き、安心して死んで行ける。空海を始め大宗教者と呼ばれる天才たちの覚悟は、そんなところにあったんだろうなあ、って高野山の奥之院の参道を歩きながら、いつも想像しているのだ。

そう、誰かが大ぼらを吹かない限り、誰も救われないのである。

 久しぶりに食べるお餅が美味しく、もう一個をパックから取り出して焼き始めた。お餅って色々な食べ方があるけど、僕は砂糖醤油に漬けて海苔で巻くこの食べ方が一番好きだ。でも子供の頃は専ら、きな粉にまぶして食べるのが一番好きだった。毎年、正月にお婆ちゃんの家に遊びに行き、お土産にたんまりお餅を持たされ、3学期が始まると毎朝、朝食はお餅だった。きな粉餅を食べてから学校へ行くのが僕の小学生時代の正月明けの思い出だ。お餅については、家族それぞれで食べ方の好みは分かれていて、兄貴はお汁粉に餅を入れて食べるのが大好きだった。そして父親がいつも食べていた餅は、焼いてから熱々の濃い番茶に入れて、あら塩をまぶし食べるやり方だった。地方独特の食べ方なのかもしれない。僕は父親以外でそういう食べ方をしている人を実際に見たことがなかったけど、大人になって一度、真似をしてそういう風に食べてみたら、お茶のお雑煮みたいで美味しかった。あら塩をまぶすなんて、年齢を重ねた渋い大人の食べ方である。

 父親で思い出したけど、この間、一時帰国したら母親の終活が加速しており、実家のモノがポイポイ捨てられている。ほんとにポイポイ捨てているのだ。僕は父親の思い出になるもの、例えばラジオの浪曲を録音して演目を自筆で書いたカセットテープのコレクションとか、仕立屋の職人だったからいつも使っていた道具とかは、全て捨てないようお願いしたが、「どうせこんなの残されても迷惑でしょ。置いておいたって、どうせあなた達が捨てることになるから大丈夫よ」と母親は容赦なく捨てて行く。

 先々月に自分の誕生日だった時、この異国の地にあって、僕は一人でローカルの料理屋でご飯を食べながら「あぁ、この年齢のあと10年後くらいに親父はガンで死んだんだなぁ」なんてぼんやり考えていた。と言ったってあんまり実感が湧かない。遺伝的にそれくらい(あと10年)で死ぬかも、くらいは意識して毎日感謝し、頑張らないとね、とは思うけど、やっぱり人の死って肉親のものだろうと、自分のものではないからピンとは来ないみたいだ。我々人間には、忘却の中で死の直前まで鈍感に生きて行ける強さが備わっている。

 どちらかというと、今の自分の年齢くらいの時に、父親は思春期ど真ん中の気難しい息子たち(兄貴や僕のようなティーンエージャーたち)がいたことになる、と思い出していた。あの気難しい息子たち、何を考えているか分からない、本ばかり読んでいる、そして時に激しくモノに当たり散らして感情を爆発させている若者たち、ちなみに読んでいる本も考えていることも、怒りながら喋っている小難しい言葉も、さっぱり自分には分からないが、とにかく世の中に出て行く直前に、ひどく苛立ち苦しんでいるであろう危うい時期の息子たち(ある意味、平凡な息子たち)と、僕のこの年齢で父親は対峙していたんだなぁ、なんて思い出していた。どんな気持ちだったんだろうか?

「この世で起こったことはこの世でちゃんと解決するんだぜ」

父親は宗教と名の付くものが大嫌いで、そういう類(たぐい)の仕事で世を渡り飯を食っている連中をひどく軽蔑していた。新興宗教に入っていた伯母とは、それだけが理由で仲が悪かった。

「だいたい変な話さ。供養しろ、金を払えなんて、もしちゃんと供養しないと先祖が子孫に悪さをするなら、そんなやっかいな先祖はこっちから願い下げだ。馬鹿馬鹿しい」

そんな事をよく言っていた。

でもそのくせ、若いころ一度、自分の兄弟たちと一緒に行った京都の知恩院(本家の宗派が浄土宗だった)の思い出をよく僕に語り、その建築物の壮大さと、大好きだった浪曲に登場する左甚五郎の忘れ傘(知恩院の御影堂の軒裏に置かれた唐笠。大昔の伝説の大工である左甚五郎が、わざと置いて行ったと言われ、落語や講談のネタになっている)の話もよくしてくれた。伯父たちが死んだ時も、いつもと変わらない様子で葬式に参加し、面倒な付き合いもこなし、慣習まみれの坊さんとのやりとりも淡々とこなしている感じだった。宗教を信じるとか信じないとかではなく、人は生き、死んで行くのだから、死んで行った者は生き残った者がしっかり後始末してやらねばならない、という感じのクールなところがあった。

要するにリアリストだったんだね。

一方、そんな父親が今の僕の年齢だった頃、17歳だった僕は書物の中に閉じこもっていた。世界は恐ろしく残酷で、どうしようもなく頑強で、死ぬほど退屈なものであると自分で決めつけ、常に苛立って見えないものを相手に苦しんでいた。そこに真実があるかもなんて、一縷(いちる)の望みにかけて、図書館に籠り、あるいは家で寝ないで大量の本を読み漁っていた。

そんな息子を心配した母親から「あなたからも何か声を掛けてあげなさいよ」くらいのお話があったのだろう、僕と二人でいる時に唐突に父親がぽつりと言ったのだ。

「この世で起こったことはこの世でちゃんと解決するんだぜ」

昔見た東映映画か何かの登場人物のセリフからパクったのかもしれない。父親は楽天的な職人であり、自分で面倒な哲学をぶつ人ではなかったから。

が、今考えると、その父親のシンプルな言葉は、あの世の物語なんかよりもずっと信じられる、リアリストの大ぼらだったように思う。この世で問題は決して解決し切れず、世界のあまたの場所で争いに巻き込まれた人々が、意味なく屍(しかばね)を晒し続けている。自分のこの命だって、これからどんなに努力しようと、物語を紡ごうと、ただひたすらに意味なく生成し、消滅して行くだけである。決して光は見えない。解決なんかしない。世界ってそんなもんだ。

でも当時、父親の「それでも大丈夫」というニュアンスを含んだその唐突な言葉の暖かさが胸に深く沁み込み、17歳の僕は泣き出した。張りつめていた糸が切れたみたいに。

 そして社会人になってからは、毎年、父親の死んだ9月にその左甚五郎の忘れ傘が置いてある知恩院へ、有給休暇をとって行き、一人でお参りしていたものである。例年のちょっとしたイベントでもあった。行って、お寺の事務所でお金を払って、お坊さん達にお経をあげてもらうだけだけど、それが終わると毎回、外へ出て軒裏を見上げ、アレだよね、って忘れ傘を確認していた。さすが国宝だけあって、本当に迫力のある立派なお寺なのだ。映画「ラストサムライ」でトム・クルーズが歩いた石段を上がり、御影堂でそんな風に父親の為にお経をあげてもらい、左甚五郎の忘れ傘を見上げて、またゆっくり降りて来る。なんだか「大人の休日」って感じで優雅な気分にもなれたのである。

このお参りについては、終わった後、僕はたいてい、知恩院からちょっと平安神宮に向けて歩いたところにある「明日香」という飯屋に向かい、そこで、にしんそばを食べてから帰るのを楽しみにしていた(このお店は今もあるけど、全部の料理が本当に美味しい!)。

 それが結婚し、家人と一緒にこの恒例イベントに行くようになってから、飯屋どころか「ついでに」あっちこっちの京都のグルメ処へも連れて行かなければならなくなったけど、それでも最初はちゃんと知恩院でお経をあげてもらうところからスタートだった。

 というのをやっているうちに、知恩院の御影堂は平成の大修理に入り、行っても外からはその姿がしばらく見れなくなった。工事用の囲いが建物の全体を覆っている。その脇に簡易のプレハブ小屋が建っていて、「瓦志納」という看板があり、話を聞くと今回の修理で使用する瓦を奉納する申し込み場所だとのこと。先祖代々の供養とか家内安全だとかの文字と一緒に、奉納した人の名前を瓦の裏側に書いてもらって、それがそのまま御影堂の屋根にふかれ設置されるとのこと。

 ありゃりゃ、これは父親が大嫌いだった先祖供養ってやつだ。それに瓦の裏側とは言え、毛筆で書いた文字なんてすぐに消えてしまうのでは?と聞いてみたら、プレハブ小屋で対応してくれた若いお坊さんが、

「瓦に書いた墨は消えません。実際、京都には1000年以上前に墨で瓦に書いた文字が、たくさん残っています」と教えてくれた。

 見本サンプルが受付の横に置いてあって、瓦ったって相当大きなサイズで立派なものだった。この裏側に、名前が書かれる。それなりの金額がしたから勇気がいったけど、結局「1000年以上持つ」という言葉に心が揺れて、僕はお布施した(あとで毛筆で書いた瓦の写真も送って頂いた)。僕と家人の名前が並んで書かれた瓦が、1000年後まであの大きな御影堂の屋根の上にあり続けるのなら、それはちょっとロマンティックだ。

それ以降は「いずれ死んだら知恩院の屋根の上で、二人でのんびり京都の街並みを眺め、だらだら過ごそうか」なんて僕は酔っぱらうと家人によく言うようになり、家人はいつも通り聞き流しているけど、この酔っぱらいの戯言(ざれごと)も一種の「それでも大丈夫」という大ぼらのつもりである。

地球が出来て46億年、この先、太陽の膨張に巻き込まれて消滅するまで50億年、いわば約100億年の地球の寿命の中で、二足歩行を始めてヒトが誕生してから700万年という事は、地球から見れば人間なんて、まだ自分の寿命の0.07%しか一緒に存在していない種である。数え切れない種が、その能力の限界や運の悪さで滅んで行った(地球からすれば忘却した)ように、いずれヒトも滅んで行くのかもしれない。我々人間の脳みそは異様に大きくなったけど、命の謎を含めた宇宙の真理を理解するには、あまりにスペック不足で、原理的にごく一部しか知り得ず、ある者は同胞の大ぼらに感謝して死んで行き、ある者はあきらめずに新興の大ぼらにのめり込み(80年代~90年代に多かった)、ある者はどうせ知り得ないことを気にせず笑って死んで行くだろう。いずれにせよ大半の人々は、それでも生きて行く為の、そして死んで行く為に紡がれた物語が、そう、大ぼらが必要なのある。

メリークリスマス!

ったって、あと3日後だし、ここは、どこにもイルミネーションなんか見当たらない、異国の僻地のマンションの一室でした。僕はテレビの画面に映っている、若かりし頃の空海を演じる役者さんの、もの静かで迫力のある演技を目で追いながら、ちょっとまだ解凍し切れずにシャリシャリ感が残ったケーキをスプーンで口に運んだ。

 このあとコーヒー飲んだら、ちょびっと昼寝しよう。今日は休日。ゆっくり過ごしたい。

 なお、空海が日本に伝えたたくさんのもの(土木技術とか)のうち、うどんはあまりに有名だけど(まぁ実際に空海が伝えたのかどうかはともかく)、確かに長安(今の西安)のあたりは、地域としては麺の発祥地であり、今でもみんな麺を主食にして食べている地域だから、空海が1200年前に密教と一緒にその作り方を持って帰ったという想像は真偽と関係なく楽しい。

 僕は若いころ、実はうどんよりそばが好きで、休日の都度、関東近辺の蕎麦屋をウロウロしていた時期もあったけど、30歳を過ぎて生まれて初めて讃岐の本場のうどんを食べ、あっという間にうどん派へ転向してしまった。それぐらい本場のうどんは、コシがあってたまらなく美味しい。

 そして40歳を過ぎて、四国へ旅行するたびに香川県に寄って食べていたのは、家人に教えてもらった有名な小縣屋のうどんだ。

 小縣屋のうどんは、まず大根と大根おろしが出てきて、注文した客は全員、大根をせっせとおろす。そのあと出てきたうどんに、自分でおろしたばかりの大根を乗せて、胡麻や刻みネギをふりかけ、さらに「すだち」をぶっかけ、醤油で食べる。「すだち」は好みが分かれて、かけ過ぎると酸っぱくなるから嫌がる人もいるけど、僕はたっぷりかけて、誰かが「もはや、うどんという名のデザートです」って言っていたのを思い出しながら、その爽やかな風味を味わい、コシのある麺の食感を味わい、醤油のコクを味わって、うどんを喉に流し込む。

 ありがとう、空海さん。こんなに美味しいものを教えてくれたのはあなたであり、それが真実かどうかは関係なく、なぜなら、教えてくれたというあなたへの感謝の気持ちが人々に最初にあったからこそ、自然とこんなにたくさんの伝説が生まれたのです。あなたへのありがとう、という人々の1000年以上もの気持ちが、うどんを作り、お遍路という傷ついた人々の気持ちを整理するための工夫を作り、そして、遥か彼方の国際都市からあなたが持って帰って来たたくさんのアイテムを使って家族の葬式が行われ、人々は安心して死んで行けるのです。大ぼらなんて言っては罰が当たりますね。ごめんなさい。

 僕のクリスマスと大晦日と正月がいっぺんに過ぎて行く。

ソファーでまどろみながら、来年はまたこういう儀式(餅やケーキやそばを家族と一緒に食べるとか)を、きっと大昔からあるからこそ、人々の知恵と大ぼらが詰まったそういう儀式を、やりたいもんだなぁなんて思った。

テレビの画面では、生きとし生ける全ての者を救ってみせると決意し、1200年前のここ中国へ海を渡って学びにやって来て、華やかな長安の街をひたすら歩き続けている、野心満々の一人の若者が映っている。

 僕はそれを横目で見ながら、ソファーの上でゆっくりと浅い眠りへ落ちて行く。

差し出されたみかんの甘さを味わって人様(ひとさま)の身の上話を聞いたあと、「泣いた赤鬼」って結局どんな話だったっけ?と思ったこと

2024/11/24

 出張先の駅の待合室で一人の男に声を掛けられた。

「駅の待合室」というと何だか昭和のイメージだけど、実際には高速鉄道と呼ばれる中国を縦横無尽に走っている新幹線の駅であり、待合室と言っても空港のように広くて天井も高い。

なにしろ高速鉄道に関しては、駅も設備も線路も車両もこの10年ちょっとの間に出来たばかりのものだから、全部が最新式でピカピカなのだ。

そして待合室にはマッサージチェアが壮観なくらい大量に並べられていて、待っている間、そのチェアに座り、携帯のアプリでQRコードを読むと、200円くらいの銀行引き落としで気持ちのいいマッサージが始まる。

というカンジで、仕事も終わってあとは新幹線に乗って帰るだけだぁ、疲れたぁ、クタクタだぁ、なんて深々とマッサージチェアに座って口を半開きにしてリラックスしていたら、急に名前を呼ばれてびっくりした。正面に知らない男が立っていて、でもはっきりと僕の名前を呼んでいる。

 僕が怪訝そうな顔をしていたら、僕がいつもご飯を食べに行く食堂の店の名前を口にして、

「お前は土曜日の夜に店にやって来る日本人だろう?」と男が言った。

あぁ、分かった。あの食堂のコックさんだ。住んでいる街のよく行く食堂だね。一度、味付けで僕がアレコレ注文をつけたら、厨房から大きな包丁を持って出て来て、

「お前の注文した料理は、お前のリクエストの通り唐辛子を全く入れないなんてやり方で調理したら、すごく不味(まず)くなるぞ。本当にそれでいいのか?この料理は唐辛子の辛さがあって初めて野菜の美味しさが引き立つのに、わざわざお前は不味(まず)くするのか?」

と聞きに来た人である。

着ているエプロンは汚いし、手にしている包丁も恐ろしいくらいデカいし、もし彼の言っている言葉を聞き取れなかったらムチャクチャ怖かっただろうなぁ、と思いながら、要するにこの人は料理人として生真面目で仕事熱心なだけだと理解したので、

「分かった。それは知らなかった。教えてくれてありがとう。唐辛子の辛さがあって美味しくなるならぜひ使って料理して。でも僕は外国人であんまり辛すぎると身体が不慣れでお腹を壊すから、ちょっと控えめの辛さにして」ってお願いした。

コックさんは大きく頷き、また厨房へ戻って行った。

で、出てきた料理は今でも僕がその店でよく食べる定番のインゲン豆の料理だけど、豆の甘みがしっかり引き出された、本当に「唐辛子の辛さ」があって初めて成り立つ美味しい料理だ。

その店は何度も通っているから、わざわざ口で言わなくても、僕の注文する料理は全て、ちょっと地元の人たちに出す料理よりも辛くない、調整してくれた味付けで出してくれるのである。注文を取りに来た店員が厨房に向かってオーダーを告げる時、僕の頼んだ料理名とともに「日本人的(日本人のやつだよ)」と言っているから、それに基づいてコックさんが味加減をしてくれているのだろう。

 あの日以来、直接は対面していないので僕は相手の顔を見ても誰だか分からなかった。一方で向こうは、厨房の陰から、作った料理を食べている僕を見ていたから、あぁ、あのしょっちゅう来る日本人ね、と顔を知っていたのである。僕は機会があって店のオーナーと懇意にしているので、名前をオーナーから聞いたのかもしれない。

 が、だからと言って彼と何を会話すればいいのだろう?

 いつも美味しい料理をありがとう、なんて間が抜けているし、急に話しかけられても、そもそもあんまりお互いのことを知らないし、こっちは靴を脱いでリラックスした態勢でいるし、どうも気まずい。

「みかんを食うか?」

コックさんは持っていた赤いビニール袋から小さなみかんを一つ取り出し、マッサージチェアに座っている僕に差し出した。

もうこうなると降参である。

僕は「ありがとう」と言ってマッサージチェアから立ち上がり(まだ途中だったけど)、みかんを受け取って、自分のカバンを肩にかけ、靴を履いて、向こうの普通の座席へ移動しよう、あっちでこのみかんを食べるから、と言った。コックさんはやっぱり大きく頷き、僕と並んで一緒に歩き始め、何時に出発する高速鉄道に乗るのか聞いて来た。僕が便名を答えると「俺も一緒の鉄道に乗って帰る予定だ」と言う。そりゃそうでしょう。同じ街に住んでいて、この時間帯にこの待合室にいるなら、そういうことになります。

 本当はのんびり一人で待合室で過ごしたかったのである。出張って仕事中はもちろん、仕事の後の付き合いも含め、一から十まで誰かと会話し、誰かに気を遣い、気を遣ってもらい、まぁそういうのを含めて組織で働くってことだから仕方ないのだけど、それでもやっと全部が終わって解放され、あとは一人で考え事でもしながら高速鉄道に乗って帰るだけだって思っていたから、やれやれ、また誰かと会話するのか、と思うと気が重かった。

が、成り行き上、仕方がない。

 僕は空港とか駅とか、一人であれば何時間でも待てる人間だ。本を読んだり、居眠りしたり、売店でコーヒーを飲んだり、他の待っている客たちの様子を眺めたり、色々と考え事したり、そういうのを何時間も一人で繰り返して過ごすのが好きなのである。

「立ち止まり 振り返り またも行く 一筋の道だった」

これは「泣いた赤鬼」という童話で有名な作家の浜田広介という人が、自分の童話作家としての人生を振り返った言葉だ。

立ち止まり、振り返り、またも行く、という言葉に、この作家の人柄の生真面目な優しさが滲(にじ)んでいて、僕はこの言葉に個性がないからこそ、一種の感動を覚える。

そう、空港とか駅の待合室って、何十分か何時間かしたらどうせまた出発しなければいけない事を前提に、そのつかの間、立ち止まり、自分を振り返って時間を過ごせる貴重な場所なのである。だからそこで過ごす時間を本当は誰にも邪魔されたくなかった。

 ところで話は変わるけど、このあいだネットでニュースを読んでいて、今年ノミネートされた流行語大賞のワードを見て、なんとそのほとんどを僕は知らなかった。海外に住んでいるから、ますます世事(せじ)に疎(うと)くなっているというのもあるけど、やっぱり年齢のせいかもしれない。そういやカウントダウンTVに出て来る歌手のほとんどを知らない、という状態になってしまって久しい。このままどんどん最近の流行に興味が無くなって行くのだろう。

 ノミネートされていた言葉に「ソフト老害」という言葉があって、少し興味が湧いたから意味を調べてみる。あぁそういうことね。ちょっと年を取ったらもうダメなのね。いよいよ始まる「年寄りなんて生産性低いしジャマじゃん、なんで特権があるの?意味が分からない、平等に苦しんでもらわないと不公平じゃね?」のファシズム(僕たちは数十年前の若者時代に、自分たちが将来、年寄りになろうとするタイミングでこれが産まれるのを予想していた)のことだね、って思った。国としていよいよお金がなくなってしまえば、解決策はそれしかない。ガス室を作って焼くなんてさすがに出来ないから(僕たちが学生時代にこの解決策を山手線の中で冗談交じりで議論していたら、同じ車両に乗っていたジイさんにムチャクチャ怒られた)、年寄りだからって平等、野垂れ死にするならそれも自己責任、という世論の流れを何十年かかけて徐々に作り、安楽死をいつか合法化し、解決を図ろうとするのは、1+1を2にするくらい当たり前で合理的で、高級官僚がサクッとどこかの会議室でプレゼンしていそうな内容だ。表現は変えているだろうけど。

 新しい価値観が産まれ、文化が産まれ、若い世代が時代を謳歌し、その世代が年齢を重ね、その価値観が廃(すた)って、その文化が「古臭いもの」として軽蔑され、また新しい価値観が産まれ・・なんて繰り返しを見ていると、あるタイミングで、もはやそんな流転を見るのもおっくうになって、あぁそうなの?最近はそういうのが流行っているの?なんて口にしながら、全く興味を持たないのである。

 そしてだからと言って、その流転を延々と眺めていられる訳もなく、僕たちは一回限りの命を終えないといけないから、まぁそんな感じで相変わらず次々と新しい価値観が産まれますなぁと思いながら、で、自分の生きてきた時代、この全身に何十年もこびり付いて来た価値観とか、「いいなぁ」ってやつはどうだったんだろう?命の折り返し地点を過ぎて、そろそろ清算を始めないといけないのだけど、やっぱこびり付いているのはある時代の一個の価値観でしかなく、もはや「古臭いもの」と軽蔑されるし、そうやって滅んで行くだけなのかなぁ、なんてぼんやり待合室の椅子に座って考えるのである。

 みかんが思いのほか美味しかった。なんだコレはというくらい甘く、待合室の椅子(こんどは普通の長椅子)に並んでコックさんと座った僕は、あっという間に食べてしまった。コックさんは横で一緒に食べながら、美味いか?もっと喰え、と赤いビニール袋からもう一つ取り出し、僕に渡してくれる。

「お前は仕事で来ていたのか?」

「うん」

「よく出張するのか?」

「ここにはあまり来ない。1年ぶりくらい。あなたはどうしてここにいるの?」

「子供に会いに来た」

「お子さんがここに住んでいるの?」

聞けばコックさんは僕と同い年だった。僕よりだいぶ年上だと思っていたから驚きだった。向こうは逆に、僕が一回り下だと思っていたらしく、日本人って全員、見た目が若いのか?いや、そういう訳でもなくて、なんてよくある会話を、みかんを食いながら二人でやっている。

 息子さんはコックさんが24歳の時に生まれた。地元で一番優秀な子供たちが学ぶ学校を卒業し、省都にある有名な大学を卒業して、更に都会にあるこの街へやって来て就職した。

 が、1年もしないうちに会社を辞めてしまい、他の会社に転職したけどそれも続かず、転職を繰り返すうちに仕事探しもやめてしまい、出前の配達のアルバイトなんかで食いつなぐ生活を始めた。

 息子さんは学生時代までは何度も故郷の街へ帰って来たし、あの食堂にも来たし、コックさんだって自慢の一人息子と一緒に酒を飲み、ご飯を食べるのを楽しみにしていた。

でもこの街で仕事を転々とし始めてからは、息子さんはほとんど家に帰ってこなくなり、ある日、連絡も来なくなってしまった。

 コックさんは奥さんと二人で慌ててこの街へ会いに来たが、息子さんが住んでいたアパートは引き払われた後だった。奥さんの落ち込みようは激しく、いったんはその日は帰って、数週間たったのち、コックさんが一人でここへもう一度やって来た。そして息子さんと交流のあった友達と連絡を取り、この2日間、一緒に探していたとのこと。

「広州の方へ行ったってところまで、分かったんだ」

「・・・・・」

こんな広い国で見つかるだろうか、なんて思っていても口には出来ない。ニコニコ喋っているコックさんの表情が、むしろ僕の胸を突き刺す感じがした。笑顔だが目は充血している。本当はどれだけ辛いだろうか。

「自分が分からないのは・・・」

コックさんが言った。

「息子は別に悩んでいる感じではなかったし、何かやりたいとかも言ってなかった。ただ何となく仕事を辞めてしまい、何となく帰って来なくなり、急に消えてしまったんだ」

「だから、ずっと自分が息子のことを分かっているつもりで育てて来たけど、本当は何一つ分かっていなかったのかもしれない」

中学しか卒業していないコックさんにとって、学業が優秀な息子は自慢だった。学校で先生に褒められ、職場の人たちからも羨ましがられ、そんな息子のために毎日、一生懸命、彼は働き続けた。生活は日に日に豊かになり、狭いけど家も買って、中古だけど車も買って、息子が大学に入ったら仕送りをするために、それまでよりもっと仕事を頑張った。今の店へはそのころヘッドハンティングされて移った。このままいつか、息子が可愛い奥さんを連れて帰って来て、孫が産まれ、その孫の面倒を見ながら、上の世代がやっているように公園で日向ぼっこしたりして、のんびり過ごす人生が待っていると思っていた。

が、息子は消えてしまった。ほんの少しだって想像していないことだった。自分が一生懸命歩んできた道の向こうに、このような続きがあるとは思っていなかった。自分の人生がこんなところに落ち込んでしまうなんて、今でも信じられないでいる。

彼はこの2日間、息子が勤めていたアルバイト先を巡り、知り合いの知り合いとか言う人にも会い、結局見つからず、妻にはさっきメールで連絡したけど、直接電話するのはちょっと出来なくて、でも明日からまた仕事、家に帰らなければいけなくて、そしてこんな風に、たまたま駅の待合室で見つけた馴染み客の外国人に声をかけ、一緒にみかんを食べている。

「見つかるといいね」

「ああ」

1時間くらい喋って、搭乗開始の時間になったので僕たちは別れた。同じ列車だけど乗り込む車両が全然違ったのだ。ホームへ降りて行く彼の後ろ姿が、向こうにちらっと見えた。外はもうだいぶ気温が下がっていて、僕はコートの襟を立てて歩いて行った。

「立ち止まり 振り返り またも行く」

彼は本当は今は、立ち止まりたくなかったのかもしれない。だから、早めに着いてしまった駅の待合室で、誰か喋る相手を探していた。たまたま自分の勤めている店によく食べにくる外国人が、なぜかそこにいて、彼はみかんを差し出した。そんな想像をしてみる。

そうだね。立ち止まるって本当は苦しいことなんだよね。価値の再構築なんて、一人の人生で何度も出来るもんじゃない。特に年齢を重ねてからやるのは大仕事だ。マイペースでやらないと。

でも立ち止まるって、別に駅の待合室でやらなくたっていいのだ。「振り返る」ことは、直接、自分の過去や現在を見ることに限らない。昔、アトリエを貸してもらって、僕は油絵を描いて休日を過ごしていた時期があったが、黙々と色を塗っている瞬間とか、いわば、無心に自分の表現したいものを見つめる作業をしている時間は、直接ではないけど、確かに立ち止まって自分を見つめている瞬間なのである。芸術の創作も鑑賞も、一種の「立ち止まり 振り返り」である。そして必ず、僕たちはそこからまた歩いて行かなければいけない。

いつの間にか自分の信じていたものが色褪(あ)せ、輝きを失い、意味を失った時、人は立ち止まるのだろう。それはそれでいいのである。

あとはタイミングとその長さだけ。無理はしなくていい。

もう半世紀近くを生きてしまった人間としては、このまま立ち止まり続ければ、頑固で偏屈な老人が完成するだろうし、しっかり立ち止まることもせず、むやみに世間をキョロキョロ見回して合わせ、そのまま歩き続ければ、「痛い中年」としてこれまたその成熟の無さを叩かれるのだろう。あんまり他人や世の中に振り回されないことだ。人生がそれぞれであるように苦しみは人それぞれ。それぞれの人生に向き合う以上、立ち止まって振り返るそのやり方も、それぞれでいいはずである。

 高速列車の車窓には時々、小さな雨粒が叩きつけている。それは冷たくて尖った形をした水の塊(かたま)りだ。もうすぐ本格的な冬がやって来るのだ。彼はこの列車のどこかの座席に座っていて、僕と同じように車窓から外の景色を眺め、もはやあきらめて、立ち止まり、自分の人生を振り返っているのだろうか?それとも、隣の席に座った別の客にまたみかんを差し出し、喋り続け、とにかく今は立ち止まらずに前を見て進もうとしているのだろうか?

 僕は列車のシートに深く座り、今度こそ目を閉じて静かに時間を過ごしている。そうして自分の過去を振り返って、と言いたいところだけど、実際には、立ち止まりたくないなぁ、面倒だなぁ、ニュースとか見てると、次々生まれる何とかハラスメントにみんなが怯え、日本ってますます住みにくくて窮屈な感じになってそうだなぁ、いつか帰国した時には、日本での生活が再開するや否や、お前の価値観は古いから変えろってみんなうるさいんだろうなぁ、面倒だなぁ、人の価値観にどうたらこうたら言って来て統一しようとするのが、本当に好きな人たちだしなあ、そういやお腹すいて来たけど今晩何を食べようか?程度しか考えていない。

そんなもんだ。

 きっとゆっくりでいいのである。マイペースでいい。自分のタイミングで、僕は僕なりに「立ち止まり 振り返り またも行く」をやろうと思った。

 列車はトンネルの合間に山間部の集落を突き抜け、走り続けている。僕は目をつぶったまま、さっきの同い年の男の顔を何度も思い出している。

お茶を飲みながら神農さんの生涯に思いを巡らし、1000年前に土をこねて器(うつわ)を作った人々の様子を想像しつつ「それでも人間っていいな」って思ったこと

2024/10/13

 上海の天山茶城でお茶を買った。

天山茶城とは上海にある有名なお茶市場の一つで、連なって建っている雑居ビルにお茶の専門店が何百軒も入っている、ちょっとディープだけど、お茶好きにはたまらない名所だ。薄暗いビルの中に所狭しと店が入っていて、お茶や茶器がこれまた店の中に所狭しと並べて置いてある。

 もっとも僕だって中国茶に興味をもち始めたのはこの半年くらい前のことであり、今年の旧正月に家人が中国へ遊びに来た時、「中国茶の茶器が欲しい。あれで飲みたい」と言い出したので、上海に行き、この天山茶城でお茶を買い、ついでにちょっとドキドキするような値段のお茶道具一式をお土産に買わされ、日本へ上機嫌で帰って行くのを見送ったところからスタートだ。   

 道具一式を買ってあげたのはいいけど、なんであんなに器(うつわ)の種類があったんだろう?天山茶城のお店で試飲させてもらった時に出てきた細長い器(うつわ)、確か聞香杯って名前の「お茶の香りを楽しむため」だけの器(うつわ)って、正式にはどうやって使うんだろう?そもそもお湯を沸かしてからの一般的な手順は?なんて調べているうちに興味を持ち始めた。

 で、国慶節にまた家人が遊びにやって来たので、やっぱり上海へ見送ったついでに天山茶城へ二人で行き、今度は僕はちょっと中国茶の勉強をした後だったから、試飲しながら、うん、これは黒茶の一種だね、プーアル茶だね、うん、やっぱ烏龍茶は鉄観音もいいけど、この大紅袍の香りがサイコーだね、なんて偉そうに解説して調子に乗っていたら、お店の女主人と家人がどんどん僕を持ち上げて(要するに共犯だ)もっと調子づかせて、あれよあれよと言う間に色んな種類のお茶を買わされてしまった。

大半は家人がごっそり日本へ持って帰っちゃったから、僕の手元に残っているのは、まさに調子に乗って絶賛していた大紅袍の3袋だけだ。高かったからこいつを大事に飲まなきゃ。

 もともとお茶は神農(しんのう)という中国の神話に出て来る神様が「解毒にいいぞ」とみんなに教えたのが始まりらしい。そういえば中国の神話って、調べてみると本当に面白く、やっぱり神話にはおなじみの、大地や太陽や風や水を作った巨人とか、泥をこねて最初の人間を作った話とか、もちろん男神とか女神とかも登場するのだが、神農(しんのう)は医薬と農業を司る神様で、人間に地面を耕し農作物を作る方法を教え、食べられるものと食べられないもの、病気に効く植物なんかを教えてくれた神様だった。で、そんな神様が「コレいいよ」っておススメしたのがお茶だったとの事。

 その後、お茶は唐代に製法が確立し、人々に一般的に広まって「みんなの文化」になったのは宋の時代だった。宋と言えば商業経済が発達した時代であり、当時の文化は文人文化って名前がついているが、要はお金持ちが始めた娯楽が多く含まれ、お金持ちって、もともとは一発当てた一般の庶民から出て来るものであるから、決してその生み出す娯楽は敷居の高いものではなく、ちょっと奮発して贅沢すれば誰でも参加できる「みんなの文化」の一つだった。

 だから、その後、清の時代になって最終的に今の中国茶のスタイル(茶道具もいろいろ揃ったスタイル)が確立したけど、それは優雅で洗練されつつも、決してストイックではない、興味を持てば素人でも始め易い楽しみの一つになっている。

 一方で、日本の茶道は禅と結びついているからまた独特だ。

 最初は最澄空海が留学先の中国から持って帰ったが、お茶はまだまだ一部の貴族以上の階級のもの、薬でしかなかった。

 それを時代がだいぶ下って、栄西という、どこまでも生真面目で人への配慮を怠(おこた)らない立派な人が、禅宗と一緒に広め、日本中で一気にお茶の栽培がされるようになり、やっと「みんなの文化」がそこから始まった。

 だから、もっと時代が下って茶道を千利休が完成させて以降も、その文化のもともとの広まり方が広まり方だったから、必然的にちょっと生真面目で、ちゃんと「おもてなし」のルールが決まっていて、ほんの少しストイックで、あんまり自分の好き勝手にやっては駄目で、所作の美しさとか侘び寂びの風情を大切にする独特のものとなった。それはそれで奥の深い立派な文化として成立している。

 いずれにせよ中国茶の方は、神農さんが太古の昔に「こりゃいいぞ」って言ってから、徐々に広大な国の隅々にまで広まり、愛され、それをお金持ちが洗練させ、みんなの文化となったので、ピリッとした精神世界に身を置く必要もなく、普段着でリラックスして味わえ、手順や作法もある程度ラフで、なにしろ味わうお茶の種類やブランドがいろいろあって、我々は気軽にそれを楽しめるのである。

 ということもあり、そんな話(中国茶って面白いねとか、道具一式を買わされたんだよ、とかいう話)を会社のスタッフと雑談していたら、僕の住むこの街にも大昔に(唐代末から元時代にかけて)有名な焼き物の村があって、茶道具も含め陶磁器の製作が盛んだったとのこと。村は明代に廃れてしまったが、古い窯の遺跡から当時の器(うつわ)がたくさん発掘されていて、博物館まであるとのこと。

 季節は10月という、散歩日和が連続するタイミングである。この地域は例年のごとく、もう少ししたらある日突然、20度くらい温度が下がって一気に冬がやって来るだろうから、今のこの過ごしやすいタイミングで外出を楽しんでおかないといけない。僕は週末の特に天気の良い日を選んで、タクシーに乗り込みそこへ出かけた。

秋のまばゆい光の中に、その場所があった。お土産物屋(器屋とかお茶屋)がずっと向こうまで続いている。まだちょっと早い時間だったから閑散としていたけど、そのうち観光客がバスに乗ってやって来るのだろう。

 そして、一匹の犬が通りの脇で寝そべっている。

 僕の住む地域の犬は、どこへ行っても、飼われているのか、それとも野良なのかがよく分からないのが多いけど、どいつも痩せていて、大人しいのが多い。吠えることもしない。というか哀愁が漂っているのが多い。たいていは「もう疲れているんですよ、そっとしといてください」みたいなのが多いのである。

君もそんな感じだね。

 会社のスタッフに教えてもらっていた博物館は、お土産物屋の通りをずっと行った突き当りにあって、この10年間のこの国の勢いそのままに立派な建物だった。外国人だけど大丈夫?って入口で聞いたら「問題なし」と言われ、中へ入って行く。

 ここにあった古い窯がフル稼働していた宋の時代に、たくさんの陶磁器が作られ、それを日本の僧が留学に来たついでに持って帰り、「天目(てんもく)」という名前で鎌倉・室町・戦国・江戸と時代を越えて大切にされ、一部は重要文化財となっている。実際、調べてみるとここで南宋時代に作られた茶碗が日本に持ち込まれ、今は京都の国立博物館で展示されているものもあった。ありゃりゃ、そんな由緒ある窯だったとは驚きだ。

 中国の博物館は当時の様子を再現した人形が多く、それぞれに表情があって僕は好きだ。やって来た博物館にも、当時の陶器づくりの工程を再現した作業をしている人形たちが置いてあり、それがとても面白かった。

 1000年以上も前に、ここでこんな風にせっせと茶碗や急須や皿が作られ、それらは大半が庶民の日常生活の道具として使われ、消耗されて捨てられ、ごく一部の茶碗は海を渡って、隣の島国で珍重され、ずっと大事に保管されて来たのである。歴史って面白い。

 後からバスでやって来た観光客の一団が賑やかに館内へ入って来た。子供も走り回っているし 大人もガヤガヤと楽しみながらリラックスして見学を始めている。いいねぇ、ここはちょっとしたツアーの訪問地になっているみたいだ。

 展示されている器は大半が宋代のものだったけど、その時代、同時期にいろんな種類の器(うつわ)が作られていて、もちろん製法が少しずつ違い、動物や花の切紙をマスキングして釉(うわぐすり)を塗って焼くことで模様を出すとか、木の葉を置いてその上に重ねて釉(うわぐすり)を塗ってから焼いて模様をつけるとか説明されていた。釉(うわぐすり)の種類やそれぞれ焼いて熱を加えた時の反応のバリエーションとかも細かく解説されていて、とても興味深かった。プレートにはちゃんと英語でも内容が解説されているから、確実に理解もできる。

 なお、発掘されたのは器(うつわ)だけでなく、仏像もあったらしく、展示されていた仏像が、これまた素朴で愛嬌があって、本当に魅力的だった。北宋時代のものだと言う。入口でも確認したけど、写真を撮っていいかと念のため係員にもう一度聞いたら、OKとのこと。

確かに、僕のすぐそばで観光客の年配の女性が自撮り棒で撮影しながら歩いている。大きな声で友達と喋りながら、楽しそうに館内を闊歩(かっぽ)している。自由でよろしい。

「静かに!」なんて眉をひそめお互いに牽制を仕合い(日本人はこれが本当に大好きだ)、ストレスを抱えるよりは、こんなフリーな感じの方が楽でよろしい。

みんなせっかくの休日なんだからね。お互いに気を使い過ぎず、楽しみましょう。

 北宋時代と言うことは、藤原道長がこの世の春を謳歌していた頃に、この中国の田舎で誰かが人間の善性を想像し、「それでも人間に可能性がある」と信じ、信じたから素直にそれを「あこがれ」として目に見える形にしたのだろう。仏像を製作したいって人間が思うのは、そういう単純な希望に依(よ)るものだ。きっと1000年以上の大昔に、この村で誰かが、人間が素晴らしいと信じ、素晴らしいものであり得ると信じ、このおだやかな表情の仏像を作って窯で焼いたのだ。

 日本でもそうだけど、名のある仏師による名作もいいが、境内にポツンと佇(たたず)んでいる誰もその由緒を知らない石仏とかが、ものすごく味があって、ついその表情に引き込まれ、それを作った市井の人の思いを想像し、立ち止まって、ふんわり感動するものである。京都や奈良でプラプラと古寺をめぐっていてよく経験する話だ。

 僕は大昔に、奈良の聖林寺の境内にある石仏を初めて見た時のことを思い出していた。聖林寺は国宝になっている十一面観音像が有名だが、そして僕も何度も通っていたのは、その観音像に会いに行く為だったけど、いつもどおりその荘厳な美しさに圧倒されてから伽藍(がらん)の外へ出た時、境内の隅に、優しい表情の石仏が一体、佇(たたず)んでいるのに気づいた。

 お寺の受付の方に聞いたが、誰がいつ作ったのか知らないと言う。僕はさっきまで見ていた十一面観音の、ほぼ凄まじさと言うに近い寂寞(せきばく)とした表情とは全く違う、その石仏の柔らかい面立ちに、つい見入ってしまった。これも一種の仏像に対する人間の解釈だと思った。人間はこうでもあり得るんだ、という希望を表現して形にしたら、仏像が生み出される。作り手の解釈によって、仏像は表情を変えて行く。

 ところで、最近は休日に部屋にいる時は、ずっとテレビで歴史番組(ヒストリーチャンネル)を見ていて、昔勉強した知識を思い出し、あぁそうそう、高校生のころインドネシアの歴史を勉強した時に「シュリーヴィジャヤ王国」なんてコトバが登場し、マジか、こんな難しい名前をどうやって覚えようか、でももう日本史じゃなくて世界史を選択しちゃったしなぁ、なんて悩んでいたら、次に「シャイレ-ンドラ朝」というもっと難しい名前の王国まで出てきて、頭を抱えた事を思い出したりしている。十代のころの懐かしい思い出だ。受験勉強で得たそれらの歴史の知識は、未だに用語として覚えているが、あんまりしっかり内容をイメージ出来ておらず、博物館にある当時を再現した人形と同じように、歴史番組の再現ドラマがその自分のイメージの無さを補完してくれるみたいな気がして、いつも番組を楽しく見れるのだ。

 このあいだは、カエサルの生涯をドキュメンタリードラマ風に追った番組をやっていて、洗濯ものを畳んだり、ご飯を食べながらずっと見ていた。

 カエサルって、言わずもがな、ローマ帝国の英雄にして悲劇の主人公だけど、若者時代から終身独裁官まで成り上がって行くまでの経緯、彼がやった事を史実に基づいて歴史家たちが丁寧に追っていくと、そのえげつなさと生々しさが見えて来る。

彼の根本には権力への飽くなき欲望があって、すべてはその上に乗っかって来るのだ。元老院の固陋(ころう)な政治を打倒するための平民派としての彼の演説は、一般の民衆の思いを代表するものではあったが、言葉を発していたカエサル本人に実際にその思いがあったかどうかは別の話である。

 彼は権力を手に入れるために政治家として借金に借金を重ね、いつも首が回っていない状態だった。口が上手く、自分より権力のある人間を魅了するのが得意で、平気で嘘をついて他人を陥れる事を常習的にやっていた。だから、演説で頻繁に使われた「われわれ民衆の為」というキレイな言葉は、本心から出て来たというよりは、その場に応じ、あくまで彼の野心の道具として、口先から次々と生まれて来たに過ぎなかったのだろう。

 ガリア遠征で今の西ヨーロッパのあっちこっちで戦っていた時も、ローマに自分が英雄的な活躍をしたかのような宣伝をするチャンスとなるなら(ローマの人々の人気を得るためなら)、カエサルは少数部族を相手に必要のない虐殺を繰り返した。女も子供も容赦なく殺した。なぶり殺した。そもそもガリア遠征に行ったきっかけは、ローマでの政治家時代に、民衆の人気取りの為にお金を使い過ぎて、大きな負債を抱え過ぎて、いよいよ債権者たちに追い詰められたからだった。彼は借金の返済からいったん逃れるために、あっちこっちに手を回し、将軍職に就くことで上手にローマから逃げ出した。カエサルはいつも雄弁で社交的で、立ち回りが上手く、おまけに男前だった。番組を見ていて僕は、あぁ、要するにテッド・バンディみたいな人だったんだね、と思った。

 他人と共感できないサイコパスが、たまたまIQが人より高く、口が上手く、自分の抑え切れない性欲を満たす為に快楽殺人者になったり、自分の抑え切れない権力欲を満たす為に偉大な政治家や経営者になる事は、昔からよくあったのだろう。

 サイコパスである快楽殺人者の犠牲は、被害者やその家族の立場からは絶対に許せないだろうし、絶対に許してはいけないが、戦争ほどの社会的影響力はない。あくまで個人の犯罪だから。

が、サイコパスである政治家や経営者の犠牲は、その数も尋常ではなく社会的な影響があまりにも大きい場合が多い。なんでこんなにたくさんの人々が死んで、こんなに大きな苦しみと深い悲しみを世界にまき散らしてしまったの?って歴史を辿ると、実はたった一個のサイコパスが、病的な虚栄心や自己満足の為に権力に固執して政治の実権を握ったのが理由だったりして、なんてことだろうか、こんなたった一個の馬鹿の為に、人間は振り回され、人間の歴史は暗い時代を紡いだんだって唖然とすることも多いのだ。アドルフの個人の人生を描いた映画、人々を振り回した張本人って結局どんな人だったの?と問い続ける映画は、繰り返し作り出される。

 カエサルだってそうだ。数々の有名な改革は、実務家たちが地道に積み上げた実績を、英雄が要領よく、かっさらったものかもしれない。だいたい、大借金で首が回らず、人を殺(あや)め、嘘をついて、人から奪うのを平気でやるなんて、どこにでもいる強盗の類(たぐい)、夕方のニュース番組で警察に連行される様子が映し出される強盗殺人の犯人とあんまり変わらず、そういう人間性だったはずの一個の人物が、一歩間違えると偉大な英雄になってしまうのである。あるいは伝説的な経営者にもなり得る。

人と共感できない自己中心的な性格の、いわば強盗まがいの人間が英雄になり得るし、残念ながら、そういう類(たぐい)を次々と生み出し、そういう類(たぐい)に振り回され、辛酸を舐めるのも我々人間なのである。

 地球の裏側からは今日も、終わらない悲しみの現場、大切な人を失い、傷つき、途方に暮れている大勢の人々の映像が、送られ続けて来る。延々と終わりのない苦しみが、今も続いている。そして終わらせようとしない老人たちが、なにかに取り憑かれ、高級スーツを着て記者会見をしている。

 実際に手を下し殺す側や奪う側に回る人々には自分たちなりの大義があるかもしれない。でも、自ら手を下さず、殺すことや奪うことを指示している側は、辿って行くと、実はしょーもない一個のサイコパスの「オレはやりたいんだよぉ、欲しんだよぉ」に辿り着くかもしれない。そんな悲劇でもあり喜劇が、僕たち人間の歴史でもあり得るのだ。

 って「人間のどうしようもなさ」を思い返している時って、だいたい心がささくれ立っているから、気づかないうちに傲慢になっている時が多く、待てよ、僕は「どうしようもない」なんて偉そうに言っているけど、自分自身を振り返ってみて、過去の一瞬でも自分がクズでなかったと宣言できるだろうか?なんて立ち止まり、すいません、クズだった瞬間もあったと思います、「あなたサイコパス?」って怒られた時もあります、という具合にうな垂れるのだ。きっとそれが普通だ。外部に立ち続けてはいけない。そんな安全で卑怯な場所なんてこの世にない。

だから、どうしようもなさは、自分も含めた「人間」っていう話である。

クズに振り回されてしまうのが人間であり、自身もクズになる時だってあり、が、人間のどうしようもなさに、「そのうち滅んでも仕方ないや」と救いの無さを感じる半分で、生きているうちに、生活しているうちに、時々は人間の素晴らしさを、絶大な魅力を、愛すべき価値を感じるのが人間なのである。そしてそういう時に自画像を描くように、人間はきっと仏像を作り上げる。そう、人間は矛盾し、引き裂かれているのである。

 有名な話だけど、初期の仏教は偶像崇拝を禁止している。だから、仏像を作るって、原理原則を大切にしたブッダはきっと「おいおい止(や)めなはれ」と言うかもしれないけど、モデルご本人とは関係なく、人間が「それでも人間はよい」と肯定的に思える「思い」が自然と形になった時、仏像はこの世に次々と生み出されて行くのである。仕方ありません。

 僕はだいぶ時間をかけて、展示物ひとつひとつの解説もしっかり読んで、休日ののんびりした時間を過ごした。博物館を出たらもうお昼になっていた。秋のまばゆい日差しは、ちょっと残暑に戻ったくらい強くなっていて、少し汗ばむほどで、僕は上着を脱いだ。

 そして、うん、全部面白かったけど、何しろ1000年も昔に作られた、あの素朴な様子の仏像に会えたのが、今日の何よりの収穫だった、なんて考えながら、また来た道を歩き出した。

 ここへ来た時には気づかなかったけど、立ち並ぶお土産物屋の間に、ひっそりとお茶の歴史館みたいなところがあった。

え?何?歴史館って面白そうなんだけどって、うかうか入って行ったら立派な茶館があり、覗いてみるといかにも「中国茶をお楽しみあれ」みたいなセットが用意されている。

 直ぐにチャイナドレスを着た店員に声を掛けられ、やっぱりうかうかお茶をご馳走になり掛かったけど、値段を聞いて慌てて飛び出した。庶民には無理です。そのお値段で週末のご飯を三食が食べられます。立派なセットでお茶を入れて頂ければ、確かに素敵で優雅な時間を過ごせそうだけど、庶民としてはそろそろタクシーに乗って行きつけのローカル飯屋(めしや)へ向かい、炒飯を食べながらビールでも飲みます。危ない、危ない。

 僕はまた通りを歩き出した。あの犬はちょっと日陰に移動していて、やっぱり同じ格好で寝そべっていた。そんな感じで一日を過ごすんだね。

 なお、人間にお茶を伝えた神農は、神様のくせに最後に死んでしまう。というか、もともとは伝説の人が神様になったのだから、死んでも不思議ではない。ひょっとすると歴史の真相は、実は空想ではなく、そんな人が実在していて、死んでから神様として祀られたのかもしれない。そういう想像はとても楽しい。

彼は毎日、どれが薬となり、どれが毒になるのか、自分の身を挺(てい)して調べる人だったので、1日に70もの毒にあたった事もあり、要は命懸けで研究している神様だった。で、ついに体が持ちこたえない何かの猛毒にあたったのか、それとも、それまでさんざん蓄積された毒にやられたのか、死んでしまう。人々の為にそこまで出来るって、確かに伝説の人物だったのだろう。

「というのを知って、神農さんてどんな姿か見たいんだけど、どこかに像とか祀ってないの?」とスタッフに聞いたら「神農像はあんまりないです。有名だけどほとんど祀ってない。関帝三国志で有名な関羽)とかお金持ちになれる神様は皆よく祀ってます」とのこと。

あぁ、そういうことね。感謝の気持ち(色々教えてくれてありがとう、という)はみんな神農さんに持ちつつ、やっぱり今を生きる自分たちがまずはお金持ちになって、豊かに暮して行かないとねって事で、分かり易いなぁと思った。

 が、この国の人々は忘れていないのだ。アレが食えるとかアレが食えないとか、コレを飲むと病気が治るぞとか、コレ食べたら死にそうになったとか、人々の為にそんなことを命懸けでやり続けた、ちょっと風変わりな人が太古の昔にいてくれて、そのおかげで自分たちは大地から食べ物を作る方法を知り、体調を整えるお茶を飲み、幸せに暮らして行けるということを。

 それは一種、底抜けの性善説に基づいた、そんな類型を人間の一部にも見出せる「それでも人間は素晴らしい」という確信に基づくものであり、だからこそ人々は、感謝の気持ちを込めて彼を神様にしたのである。それは、仏像を作る人の気持ちとよく似ている。

 どこからかお茶の香りがぷーんと漂って来た。そうそう、ここはお茶と器(うつわ)の村だった。何千年も時を越えて、香ばしい匂いが、大陸の高い高い秋空を静かに上って行く。

僕はお茶もいいけど、やっぱりまずはビールかな、なんて考えながら、またゆっくりと歩き始めた。

散歩日和の10月の白い光が、通りを向こうまで照らし続けている。

大昔の村人の生活を想像しながら中秋節のまぁるい月餅を食べ、どうせ現実に戻って来るのだから「からの自由」ってやっぱり時々は大切だよなぁって思ったこと

2024/09/22

 中秋の名月を見た。復元された古城がライトアップされていて、その向こうに美しく光っていた。ここ中国では中秋節という立派な休日があって3連休だった。みんな一緒に家族と過ごし、団らんし、月餅を頬張ったのだろう。

僕はと言えば、いつもの休日の通り、その日も朝から洗濯して、掃除して、そのあとちょっとお腹もすいて来たし、なんか出前でも取ろうかなと思ったけど、外は天気がめっぽういい。

今晩は中秋の名月なんだから、部屋に閉じこもってないで、一人でプラプラ外へ出かけようって決めたのだ。マンションから出てタクシーに乗る。翌日も休みだから、夜遅くに帰って来ても問題なかった。

 空は気持ちいいくらい晴れていて、残暑の向こうにうっすらと乾燥した涼しい風が流れ、それが窓を開けたタクシーの車内にも入って来た。なるほど、まだまだ気温は30度を超えているけど、確かに季節は秋になったんだなぁって思った。汗ばみつつ、うっすら秋を感じるってやつである。

 タクシーで30分も走ると、目的地である古い村に到着した。そこはちょっとした観光地になていて、前回の駐在の時にも何回か来た事があったけど、「この10年でものすごく変わったんです。レストランとか出来てとても立派になったんです」とナショナルスタッフがやたらおススメして来るから、久しぶりに一度行ってみようと思ったのだ。

明代から清代にかけて作られた数百年前の古い民家が固まって建っている集落は、地方都市のどこにでもある「古村」と呼ばれる観光地の一つではあった。

 で、実際に行ってみて驚いた。すっかり様変わりしている。前はただの農村がそのまま残っているって感じだったから、実際に人も住んでいたし、畑に囲まれていたし、従って洗濯ものも干してあれば、作物もゴザの上で天日干しされ、ついでに通路で老人たちが煙草を吸って日向ぼっこしながら将棋(中国の)をさしていた。まさに「古い建物のまま、そこでまだ住んでいます」って感じだったのだ。

 それがいきなり入口にエントランスらしき建物が作ってあって、入場料を取るという。日本円で600円くらいだったけど、それを支払ったら村内地図みたいなのを渡された。僕はゆっくりと歩いて行く。それから村に到着するまでに、風鈴を大量にぶら下げた鳥居のようなところをくぐり(現地の人はこういうのが好きだ)、花や樹木が植えられた小径(ずっとスピーカーから中国の伝統楽器で奏でた優雅な音楽が鳴り響いている)を通って、15分後にようやく村へ到着した。

 で、到着してその姿を見てちょっと唖然とした。村の建物のかなりの部分が修復あるいは増築されていた。見た目は清代の古い建築様式と同じように作ってあったけど、まぁキレイなこと、以前のようにあっちこっちに半壊した建物がそのまま残っている訳でもなく、たぶん村の4分の1くらいは修復されており、一見、村全体が復元されたアトラクションみたいだった。

 そしてあっちこっちに食べ物を売っている出店もあって、ガラス張りのおしゃれなテラスが設けられ、飲み物は大学生のアルバイトたちが売店で売っていた。「これより先は村民のみ入れる」なんて看板をチラホラ目にするけど、どこにも村民がいる気配がなかった。おそらく大半は引っ越していなくなってしまったのだろう。あの将棋をさしていた老人たちもだ。

 ナショナルスタッフから話を聞いただけでおよその変貌ぶりを予想していたけど、その予想以上にすっかり観光地化してしまって、がっかりだなぁと思った。確かに花々に囲まれ、美しい音楽が流れ、デートするにはいい感じだし、現地の人たちが好きそうと言えば好きそうだが、やっぱりあの生活感まるだしの「まだそのまま住んでますが何か?」って感じが懐かしい。でもそれは地元の人が何をどのように大切にするかという感覚の問題だから仕方ないだろう。僕たち日本人の侘(わ)び寂(さ)びは、仏様の両腕がちぎれていても修復せずにそのまま有難く拝む、独特の世界観である。

 とは言えせっかくここまで来たのだ。僕は腹を満たす為に出店で買った千挑面(地元の混ぜうどん)を、プラスチックの椅子に座って頬張りながら、のんびり楽しんで帰ろうと思った。清代の民家の玄関をリノベーションした休憩所の中から、爽やかな秋空が広がっているのが見える。

大昔の木製のドアになんかイラストを描いちゃったんだね。まぁそれっぽくていいんじゃない。

僕は青空の青を眺めている。この木製のドアには数百年の歴史があるのだ。その隙間から流れて入って来る風は、確かに秋の風だった。

 中秋節は唐の時代に皇帝が豊作を願ってお月様にお祈りしたのが最初の由来らしい。その満月に見たてた月餅を、家族で食べるというのが伝統行事だ。

 人の想像力というものは面白いものである。雲の上の存在である皇帝の行事が、いつの間にか自分たち平民の幸せを祈る行事に変換され、夜空に浮かぶ美しい天体である月が、団らんしながら家族と美味しく食べる丸いお菓子に変換されて行く。僕たち人間は、いつだって一つの意味に固定されることなく、常にそこから自由に「想像」して、自分たちが生きている場所で、より幸せに生きて行けるよう新しい意味を見出し、楽しみを見出し、歴史を紡いで来た。

 何百年も前に作られた重厚な木製のドアに、このふざけたイラストを描いた人だって、きっと悪意無く、観光に来たみんなが喜ぶだろうって書いてみたのだ。僕はうどんをかき込む箸をちょっと止め、もう一度、そのドアの向こうの秋空を見上げた。うん、悪くないね。人間は自由でないと。

 一昨日の夜、あんまり早く寝過ぎて夜中に目が覚め、もうそこからは寝られないからソファーで横になって10年前のドキュメンタリー映画を観ていた。「CLOSER TO THE EDGE」という題名のバイクレースの話で、直訳すると「極限に近づく」って言う意味だけど、要するに死の淵(EDGE)ぎりぎりまで近づいて勝利という栄光を勝ち取るか、そのまま淵を越えて命を落とすのか、というレーサーたちの生きざまを切り取った作品だ。

 なにしろ彼らが挑み続けるマン島TTというイギリスの歴史あるバイクレースは、これまで200人以上が死んでしまったトンデモないレースなのである。何百もの高低差とカーブを越えて、時速320キロでぶっ飛ばして行く。そりゃ次々死ぬだろう。今年、優勝記録を更新したトップレーサーのマイケル・ダンロップは、叔父、父親、兄を全員、レースで失っているレーサ一一家に生まれたらしい。というか、いくらそういう一家に生まれたからって、そんな一族の命の落とし方があり得るのか?って普通は思うけど、実際にあり得るのが、バイクレースという「極限に近づく」ことを生業(なりわい)にした人々の世界なのだろう。

 と言って、僕はバイクに乗らない。自分で運転したこともなければ、レースも見ない。あんまり運動神経とか自信のない自分が、エンジンの上に直接跨って自分の身をさらけ出し、堅いアスファルトの上を疾走するなんて、いくら命があっても足りないからだ。

 が、バイク好きの気持ち、猛烈なスピードの中に身を置いて、極限に近づき風になりたい、というのは何となく分かる気がするのだ。もっと速く、もっと遠くへって、僕たち人間に備わっている根源的な欲求なのかもしれない。もっと速く、自分たちが生きているこの空間から一刻も早く次の場所へ脱出して、そこから更にもっと速く次の別の空間へ。その連続の向こうに死の淵が立ち現れたとしても、やはり空間を飛翔して突っ走って行く魅力には敵わないのだろう。

スピードは僕たちを魅了し、だからこそ色んな形のレースを人は作り出し、熱中してきた。

 実は古い歴史を感じる、というのはこれもレースと同じである。ただし脱出するのは空間ではなく時間だ。

当時の人々の暮らしを想像し、人生を想像するとは、死者の心の中を覗くという事である。そうすることで、僕たちはこの今という時間の制約から逃れ、別の時間へ、想像さえすれば遥かかなたの大昔の時間へ脱出が出来る。歴史を味わうというのは、自分が死の淵を覗く必要はない平和な作業だけど、そこに現れる人々は全員死んでいる。死者との対話であり、今という時間から逃れる手段が、歴史を味わうという行為だ。そしてこれもまた、人間の根源的な欲求なのだろう。紀元前のギリシア時代に人々が神話を作ったように、僕たち人間はトンデモなく昔の時点で、さらに大昔を想像したいと願い、神様の物語や戦いの物語を紡いで、自分が現実に生きている時間から脱出する楽しさを知っていた。

だから、僕たち人間は、時間や空間を越えて行ける自由をどこまでも欲し続けている。

な~るほど。食後の散歩を兼ねて、こうして昔の家屋の中庭(キョンシーが出てきそうな)の中をウロウロ歩いていると、大昔にここで生まれ、子供時代をここで過ごし、ここで人に言えない秘め事をし、ちゃんと恋愛もし、子供を作り、天へ舞い上がって行くかのような幸福な出来事と、地獄の業火で焼かれるかのような不幸な出来事を一通り味わい、それでもやがて年をとり、耳が聞こえなくなり、目が見えなくなり、歩けなくなり、遂に食べられなくなり、そっと死んで行ったあまたの人々の人生が、累積しているそれら一つ一つの命の数々が、確かにここにあったんだと感じ取れる。

それは日常という今の時間に縛られて生きている僕にとっては、ちょっとした気持ちの飛躍であり、自由を感じられる楽しい時間だ。やはり、時間や空間を超えて行ける自由が、人間には必要なのである。

 大昔の学生時代、というか大学に入学したばかりのころ、一般教養科目も専門科目も含め、講義を選択すると同時に大量の教科書を生協で買わされた。

僕は当時、ひっどい貧乏学生だったし、早速始めたアルバイトのお給料はまだすぐには振り込まれないし、だから、最初は出来る限り図書館を利用したり、友達が買ったのを貸してもらうなんて考えていた。バイトの給料が月末に入って来て寄宿舎の寮費を払って、生活が安定するまでの辛抱だ。中にはその講義をする教授の出版した書籍が授業の教科書に指定されていて、要するに俺の本を買わないと単位をやらないぞ、みたいな悪質なのもたくさんあったから、尚更、出だしで実際にお金を出して買う教科書は厳選しようと思った。単位の為だけでなく、そのあとも自分の本棚に置いておきたいと思える教科書を優先的に買おう、と考えていたのだ。

 そんな中、何の授業だったか正確に覚えていないけど、購入指定された書籍にエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」があった。これは教科書というより、もはや古典だ。受験科目の現代文とかに出てきそうな内容であり知ってたけど、読んだことはない。

ふ~ん、なるほど、古典ならこれから何度も繰り返し読めるかなぁと思い、思い切って買うことにした。高かったけど。

 で、30年以上たった今も僕の書斎の本棚に置いてある。あの寄宿舎から数えてこれまで8回も引っ越しして来て、その間に捨てられてしまった数千冊の同胞たちを横目に、生き残って来たツワモノだ(もうカバーとかボロボロだけど)。

 「からの自由」という受動的な自由で留まっていれば人間はいずれ行き詰り、結局、その自由から逃げ出してしまうだろう。だから「への自由」という新たな価値観を生み出す能動的な自由に至らなければ、世の中は狂ってしまうのだ。というフロムの解説は、20歳前後の若者にはダイレクトに響き、ナチス台頭という悪夢の歴史の分かり易い解説に思え、でも一方で、能動的な自由が大切とか、愛に基づいて価値を創造せよなんて、なんだかヨーロッパの神様のお話みたいで、要するに、荒涼たる大地に立って神様と向き合い、一人ひとりが人間たる理由を打ち立てよ、人間は特別なんだ、なんてあんまりピンと来ないなぁ、なんて思っていた。

 が、30年以上、その本は僕の本棚で生き残って来たのだ。さすがに古典なだけあって、その時々の人生の局面で、それは読み返され、意味が変わって行き、従って僕に寄り添って生活してくれたんだなぁって思うのである。

 「からの自由」はあくまで受け身である。逃れる相手は生まれた場所や時代の価値観だったり、現実のキビシー人生だったりする。ハリウッド映画のSFものでよくある設定、脳みそに電極を差して、現実とは全然違う自分が現実とは全然違う世界で幸せに暮らすなんて、まさにこの類だし、ヤク中もある意味「からの自由」で留まっている状況だ。

なので必ず行き詰る。

第一次世界大戦後に古い伝統的な共同体の価値観がぶっ壊れて自由になった人々は、結局、その何でもありの孤独に耐えられず、自由をゴミ箱に捨ててナチスを狂信し始め、連帯し、国家としての一体感の高揚を謳歌し、街が焼け野原になるまで戦い続けた。

映画の「マトリックス」の中での生活は実は仮想であり、リアルの自分の肉体は機械たちの動力源(餌)に過ぎない。

そしてお薬のせいで脳みそに新たな欲望を作ってしまった(そんな身体になった)人たちは、そのままキビシー現実からの自由(快感)を求め続ければ、やがて身も心もボロボロになって滅びる。

 ということで、我々人間は、「からの自由」なんて誰かから貰おうとする受け身の姿勢でいては駄目であり、自分一人で自分の人生に新たに意味を与え(価値を打ち建て=への自由)、その上で人様(ひとさま)を愛し、そうやって連帯が生まれ、我々は孤独から解放されるのである。

というのがフロムのご意見だったけど、う~んホント?と懐疑しながら、でもこの老ユダヤ人の圧倒的で緻密な論法に納得しながら、僕はだらだらと年齢を重ねて来たんだなぁって思うのである。「自由からの逃走」のカバーはもう白色なんかじゃなくて、黄色に焼け焦げて日本の自分の家のあの本棚に並んでる。

 オートバイで320キロで疾走して死の淵を突っ切って行くこと、あるいは、何百年も昔を生きた死者たちと会話すること、これらってやっぱり「からの自由」であり、受け身なのだろうか?現実というしょーもない世界から逃げ出す、一種の受動的な逃避であり、やり続ければいずれ僕たちは行き詰るのだろうか?フロム先生に叱られる?

 古村での散歩が終わり、一通り全部見たから、そろそろ帰ろう、街の中心へ戻り、もうちょっとプラプラして、夕ご飯を食べながら夜にお月様が出るのを待ち、それを眺めて、それからマンションの自分の部屋へ戻ろうと思った。

 携帯電話のアプリでタクシーを呼んだら、さすが田舎にあって、20分くらい待たなければやって来ないみたいだ。すぐそこで営業していた茶屋に入って、中国茶を飲む。観光地価格だから値段は張るが、コクがあって美味しい。ついでにサービスで月餅が出てきた。今日は中秋節、小さな皿の上に乗せられた、ちょっとだけ歪(いびつ)な形の小さな月餅だった。丸と言っても厳密には模様のついた、ヒマワリのような形の丸い姿である。

 結局のところ、どうだったかというと、僕は学生から社会人になってみて、むしろ「からの自由」をいかに上手に生活に取り入れるかが重要であるかを知った。

ストレス耐性の強い人って、時々は頭をカラッポにして狂える人(完全に仕事を忘れてリフレッシュできる人)だし、会社で生き残っている上の世代のオジサンたちは、片っ端からそんな感じだったからだ。昼間、厳しいプレッシャーの中でバリバリ仕事をしているくせに、夜になると酒を飲んで深夜まで乱痴気騒ぎし、数時間だけ寝たらまたシャキッとして仕事に現れる、そういう類(たぐい)の人間が生き残り、上に上がって行くのを知った。時代は平成だったけど、誰の給料も上がらず、昭和が温存され続けたからである。

 だから実際には、休日に海岸線沿いをバイクに跨って死の淵までぶっ飛ばしてみたり、やはり休日に誰とも口を利かずに京都や奈良の古都の仏像たちの前で一日中ボケーと過ごしてみたり、週末に酒を飲んで周りから大丈夫か?と心配されるくらい狂って大暴れすることが、要するに現実「からの自由」な時間を生活に取り入れることであり、そしてその後でまた月曜日という現実の世界へ戻っていくことが、生き延びる為には必要であると知ったのである。もちろんはやり方は人それぞれ色々だったけど、僕たちはそれぞれのやり方で「からの自由」を工夫しようとした。

 逆にそういうことが全然出来ないと(仕事を忘れた完全なリフレッシュの時間を持てないと)、やがて息が詰まり、追い詰められ、仕事を失い、場合によっては失い続け、復活できず、滅び、だからと言って誰も気にしない。僕たちは時代の消耗品世代であり続けたからだ。「からの自由」ってどうせ逃げられない現実、お金を稼ぐために再び戻って来ざるを得ないしょうもない現実、を生き抜くための、大切な時間だったのである。

 で、一方で、愛をもって価値を打ち建て「への自由」を求めたところで、僕たちはどうせ無意味に一人で死んで行かなければならない。そこに連帯なんてない。どこまでも孤独だ。一個の自然法則の一つとして、一瞬発生した有機体の一つとして、どんなに愛情を注ぎ、どんな大切な人がいようと、どんなに誰かに大切に想われようと、身体は老朽化し、壊れ、やがて滅び、何もかもが消滅する。中年になって以降は、次々とこの世から卒業して行く叔父さんや叔母さんの式に出て骨を拾いながら、アレ?若いころ友達の結婚式に出席する為に作ったオーダーメイドの黒いスーツが、今じゃ完全に葬式用になってるぞ、なんて感じながらそう思い当たるのだ。

自分の人生に意味を与えたところで、決して意味はない。僕たちは5世代くらい上の肉親たちがどんな思いをしてどんな風に生きたのか知っているだろうか?誰か知っている?何か残っている?名家じゃない限り、たいていは誰も知らない。そしてそれはたった数百年後の僕たちの運命でもある。誰も知らない。何も残らない。特に意味はない。

 という訳で、フロム先生の古典は、僕の書斎の本棚にあって、これからも僕の人生に寄り添ってくれそうだけど、どこまでも東洋人の僕には、ふ~ん、分かるけど・・・という疑問符が付き続けるのだろう。そういう不思議な関係である。長々とやって来た不思議な関係だ。

 街に戻ったら日が暮れ始めた。ちょっと早いけど、なじみのローカル料理店へ入りビールを飲み始める。そしてトマトと卵の炒め物やニガウリ料理などを注文し、ゆっくり食べ始めた。いつもと変わらない休日だけど、昼間にけっこう歩いたから心地よい疲れが出て、ビールも美味しい。

 そしてお腹いっぱいになったところで外へ出たら、もう夜空に月が浮かんでいた。

昼間食べた月餅とは違って、ちょっと無機質でいかにも天体って感じのシャープな形の白い月だった。

もちろん美しかったけど、やっぱり僕は、人々の祈りがこもった、生きて行く為の知恵がたくさん詰まったあの月餅の、ちょっといびつな丸さが好きだと思った。あれの暖かい丸さの方が、ずっと僕たちには価値があると思ったのだ。

 復元された古城の横を歩きながら、それでも時々立ち止まって月を見上げ、僕はまた歩き出した。そして30年ほど前の、希望で胸をいっぱいにしながらどの書籍を買おうかなんて悩んでいる若者時代の自分の姿を思い出し、懐かしい気持ちになった。

あの春の日、買ったばかりの書籍をカバンに詰め、肩に食い込むその重さを感じながら、桜の舞い散るキャンパスを僕は歩いていた。

 自由の重さも、愛の意味も知らない、そして世界の全てが新鮮だったころの僕が、まっすぐに、桜並木の間を今と同じように、ゆっくりと歩いている。

友人から送られて来た地元の料理の写真を見て、一片の漢詩を読み、2500年前の伝説のヒーローの有難いお言葉を思い出したこと

2024/08/29

 異国の地に赴任して季節が一巡した。まだまだ残暑厳しく、たいていは工場の建屋の中にいるけど、時々は40度を超える炎天下を外へ出かけ、倉庫を走り回り、スタッフに指示し、戻って汗でずぶ濡れになったYシャツを着替え、もう一度、工場を回る。あとは夜が更けるまで事務所でPCに向かって数字と格闘だ。

 そんな日々を過ごしていたら、平日の昼間、現地の友人からグループメッセージで写真と詩が送られて来た。彼はプライベートで知り合った人だけど、近郊の農村から街に出稼ぎに来ていて、平日は会社の寮で生活しながら労働し、週末にはバスに乗って3時間かけて地元に帰って家族と一緒に過ごし、日曜日の夜中にまた街に戻って来るといった生活を送っている。この国にあまたいる一般的な労働者の一人だ。

  一人で食べる昼の食事の侘しさ

  それは決して良いものではなくていい

  ただただ自分の胃を満たすだけでよい

  どのみち、人生の半分は火の消えた燃えかす あとの半分が瑞々しい清流

 ※中国語の詩を意訳

 写真の料理はこの地域でみんなが食べている普通の料理だ。たいていの出稼ぎの人々は昼食をこんな質素な食事で済ませて、また家族の為に黙々と午後の仕事に取り掛かる。「自分の胃を満たすだけでよい」なんてまさに、足るを知るってやつだ。

「足るを知る」という言葉は、2500年も前の老子の言葉である。古過ぎて、実際の所そんな人がいたのかどうかも分からないくらいだけど、確かに「知足者富(足るを知る者は富む)」という言葉は何千年も中国で生き残り、生き残った以上、その理由があるのだろう。実際には老子なんて伝説めいたヒーローがいなくても、人々によって彼が言ったという言葉が大切にされ続けて来たのであれば、それは一個の真実である。

「足るを知る」とは、要するに「もっと欲しいよ~、ヤッター!手に入ったぞ!う~ん、今度はアレが欲しいぞ、アレもくれよ~、う~ん、どうしてくれないんだよぉ~、アレが手に入らないなんて苦しいよぉ~、早くアレを俺にくれよぉ~」という、人間の欲望の際限の無さとそこから生まれる無限の苦しみを避ける為に、いわば執着という人間の業(ごう)から解放されるための知恵として、大昔に生まれ、人々が大切にして来た言葉なのである。

そしてこの言葉には実は続きがあるのだ。

「知足者富(足るを知る者は富む)強行者有志(強めて行う者は志あり)」

 満足することを知っている者は豊かに生きて行けるし、強い決意を持って行動する者はその為の志を持っているものだ。そう、人生の大半は、しょーもない相手と嫌でも付き合わざるを得ず、しょーもない時間を嫌でも過ごさざるを得ず、それでも食べて行く為には懸命に働き、だから、そんなしょーもない事に多くの時間を費やす生き方に、それでも満足して耐え得る忍耐力が何より必要で、ムダにあがかず、途中でそれを投げ出さず、そうやってずっとやり抜く為には、強烈な意志を持たなければならない。

 死に物狂いで現状に満足せよ、とはさすが老子先生、すさまじい言葉である。ブチ切れそうな苛立ちが日々の生活であったとしても、命を懸けて「あるがまま(無為自然)」に満足せよ、だって、どうせ世界に意味なんて端(はな)から無いのだから、という有難いお言葉である。

 う~ん、確かにそうだ。くだんの友人が送ってくれた一編の詩のように、人生の半分は火の消えた燃えかすであり、が、それでも僕たちは食べて行くためにそれを受け入れ、「もっといいもの」をついつい手に入れようとする欲望の虚しさを知り、粛々と終わりに向かって今を歩いて行かなければいけない。

嫌だねぇ。

面白くないねぇ。

面倒くさいねぇ。

 さて、どこにも日本人なんかいない異国で暮らしていると、日々の生活の中で、例えば洗面台の前で歯を磨いている時とかに、ふと過去の思い出がフラッシュバックのように突然よみがえることがある。これは不思議な現象だ。生活していてあんまりにも日本人に会わないから、かえって日本での記憶(風景とかその時会話した人物とか)が急に鮮明に思い出されるのだ。気持ちの面で何かを補完しようとしているのかもしれない。前回の駐在の時にもよくあった現象だ。そしてこの間は、もう7年くらい前の思い出が、歯を磨いていて急によみがえった。

 7年前、日々の鬱屈した仕事に僕はクタクタになっていて、週末の都度、車で何百キロも走って小旅行を繰り返し、もう旅行にはあっちこっち行き過ぎて日本のどこも目新しい場所なんかないぞ、大昔に出張で行ったとこなんか含めると全部行っちゃったや、なんて監獄にいるような気持ちになる時があり、それでも土日を家でじっと過ごすのが嫌で、車で夜中に走り出すことがあった。貧しい国の(働けど、働けど、大半はジジババに召し上げられて、わが暮らし、クタクタになる割に楽にならず、じっとキーボードの上に置いた手を見る・・・みたいな)平凡な中年の管理職サラリーマンの典型だったんだね。

 和歌山の白浜で夕日を眺め、もうそれだって何回もこれまでに繰り返し見て来ているから、もちろんその美しさに心を奪われつつも、今日は日曜日、明日から始まるウンザリするような仕事のことを考えると、あぁ家に帰りたくないなぁ、なんて心ここにあらずみたいな部分もあり、何回も見に来ている分、冷静に夕日を見ているから、さすがに「日常を忘れる」ほどではなかった。  

当時、日常は常に僕を追いかけ続け、僕を閉じ込め、本当に監獄にいるみたいな気分だった。どこか遠く遠くへ逃げ出し、果てしなく広がる異国の砂漠が見てみたい、なんて頻繁に空想していた時期だ。

 だから、和歌山へは高速でやって来たのに、このまま高速に乗ってすんなり家に帰る気がしなかった。もう日は暮れていたけど、どうせ日曜日の夜なんて、仕事のことを考え出してほとんど寝れない。早く帰っても意味ないんだから、下道で、しかも恐ろしくローカルな道を帰ろうと思って走り出した。

 これが大失敗だった。というかナメていた。紀伊半島の中心を奈良方面へ突っ切る下道は、どのルートも極端に狭く、一部は酷道と呼ばれる道で、なにせ村一つない山道をただひたすら何時間もかけて走る道なのだ。しかも途中で「やっぱキツいから高速使うよ」なんて切り替えられない。もうひたすら走り続けて抜け出すしかないのである。途中で通過する小さな集落も真っ暗で、店一つなく、古びた自動販売機の缶コーヒーが買える程度である。

なんてな暗い山道(もちろんきちんと舗装はされているけど)を、僕は何時間も走り続けた。助手席にいる家人にちゃんとした休憩を取らせてあげられず、自分のミスジャッジを悔やんでいた。道の駅もなく、トイレさえ行けなかったのだ。乗り潰していた車(既に走行距離は20万キロを超えていた)がトラブってこんな所で停まったら、もうおしまいだって考えていた。夜の9時を回って、むこうから対向車さえ現れる気配がなかった。

 だいぶ走って、ようやく暗い山道を抜け出し、奈良盆地の南の端まで出てきた時、小さな村の家々の明かりを見て本当にほっとしたのを覚えている。すぐに最初に見つけたコンビニの駐車場に停車し、トイレに行った。そして暖かいお茶とパンを買って、車に戻ろうとした。

「星がきれいね」

さっき一緒にトイレへ駆け込んだ家人が、ニコニコしながら頭上を見上げている。あぁ、この辺りはまだ田舎で、周辺に光がないから、冬の(12月くらいだった)夜の澄んだ冷たい空気の向こうに、美しい満点の星空が見えるんだ。

僕も一瞬だけ頭上を見上げ、星を見て、それから二人で車に乗り込んだ。エンジンをかける。

「うん、きれいだ」

再びハンドルをにぎり、まっすぐに前を向く。

自分に腹を立てていた。

僕はもう気づいていた。

4時間前からずっと押し黙って難しい顔のまま運転し続けていた僕に、文句ひとつ言わず、それからずっとこんな風に、隣に座ってニコニコ一緒にいてくれた人。

「・・・」

 もし日常という監獄があるとしたら、それは強烈な意志を持っていない、いわば覚悟のない人間の頭の中で作り出す檻(おり)なのかもしれない。強い意志をもって日常を味わえるなら、自分がどんな場所にいようと、何をしていようと、心は自由なのだろう。命を懸けて「あるがまま」に満足できないなら、そういう強さがないなら、どこに行こうとも、どんな景色を見ようとも、その檻(おり)から決して出る事なんて出来ないのだ。そして檻(おり)の中にいる人間は、日常=当たり前の風景、をちゃんと見ておらず、ちゃんと味わうこともできなければ、ちゃんと相手に感謝することも出来ない。それが実は奇跡のように有難いものであったとしてもだ。

 という訳で、数日前に洗面台の前で歯を磨きながら、7年前の冬の星空を急に思い出し、フラッシュバックした家人のあの笑顔を思い出し、当時、心の監獄の中にいて何も見えていなかった自分を殴ってやりたくなって、不意に涙があふれてきた。そうして鏡に映ったオッサンの半べそを見て、そのみっともない様子に自分でひどく驚き、慌てて口を漱ぎ、顔を洗った。一人でいる時ってそんなもんだ。誰にも見せられやしない。

異国の普通の人々の生きざまにさえ、脈々と流れている大昔の知恵を、僕はもう一度思い返した。

「どのみち 人生の半分は火の消えた燃えかす あとの半分が瑞々しい清流」

みんな燃えかすと清流の間を行ったり来たりしながら、それでも平凡な人生を、「どのみち」限りある命を覚悟を持って生きている。

あるがままを受け入れるって、何か無理をしている人にかける慰め言葉みたいだけど、真実はそんなんじゃなくて、どんなにキツくったって、息が詰まりそうだって、それを超えて行くような強さを持って味わいながら生きて行けよ、って言う励ましの言葉なんだ。でないと、僕たちは人生にとって本当に大切なものを見落とし続けてしまうのだ。それは不幸なことである。

 はるか2500年前、老子という伝説の人が何もかもを捨てて峠を越えて歩いて行く後ろ姿を、僕はなんとなく想像した。

 そういえば、あの時たどり着いた小さな村は吉野のあたりだったけど、あそこはまさに「瑞々しい清流」の流れる美しい場所だった。山々に囲まれ、空気が本当に美味しい場所だった。

 だからいつかまた、日常という繰り返しをあの小さな老いた国で再開し始めた時、僕はもう一度あそこへ家人を連れて行って、一緒にまた星空を見上げようと思った。そして今度こそ、強い意志を持って自由な心で日常に満足し、感謝し、僕こそがニコニコして「ありがとう」って言おうと思った。

 そんな吉野から数千キロ離れた異国の地ではまだまだ酷暑が続いている。

 僕は汗を流しながら、そこで毎日働き、日本のあの冬の夜空を思い出している。

北海道の優雅な馬たちの姿を眺め、ちょっとフランドン農学校の豚を思い出し、結局お腹いっぱいに美味しいものを食べて「ぼくのなつやすみ」を楽しんだこと

2024/07/07

 休暇帰国を利用して北海道へ旅行した。

今回の帰国のタイミングが季節の上で梅雨のど真ん中だったし、一方せっかくの休暇なのだから、僕は日本の美しい夏空を見たかったので、いっそ帰国したその日に家には帰らず、そのまま降り立った空港から乗り継いで千歳へ飛んで、梅雨のない北海道の青空を見に行こうと思ったのだ。日本に着くやそのまま旅行に行ってしまう、というプランである。会社に顔を出すのは旅行から帰って来てからでいいや、そんな具合だった。

  そして北海道と言えば、やっぱり海鮮です。僕の住んでいるこんな異国の内陸では絶対に食べられない、あの新鮮でサイコーに美味しい魚介類たちをどうしても食べたい。ついでに登別温泉に行ってゆっくり疲れを癒して、あぁそうそう、7月初なら富良野のラベンダーがきっとキレイだぞ、なんてスカイプで家人を相手に事前打ち合わせしていたら、

「私は馬が見たい」と言い出した。

アレ?そうか、この人は馬という動物が大好きだったんだ。

 かつて一緒に行ったことのある競馬場でも、馬券は買わずにずっと馬を見ていた。こっちはふだん一切しないギャンブルを、せっかく競馬場なるものに遊びに来たんだから、試しにやってやろうって見方の分からない競馬新聞を買って、勢いで馬券を数枚買ったけど、案の定、全然当たらず、やっぱり賭け事は全然向いてないんだねぇなんて考えていたら、家人はお土産コーナーで馬の写真集とかをずっと見入っていて、この子は本当に馬という動物が好きなんだなぁって思ったのを覚えている。眺めるのが好きなのだ。

 そして動物全般が好きな人だが、特に馬が好きなんだった。

 日高地方には引退した競走馬たちがのんびり暮らしていて、彼女はそこへ逢いに行きたいとのこと。

あぁそうっスか。

馬ねぇ。

馬刺しは好きだけど、そんな馬好きの家人の前ではどうせ食えないし、まぁ北海道ならどこでも海鮮は美味しそうだし、日高、日高、日高ね、って調べていたら、僕が最初に希望していたコースと正反対だった・・・そうかぁ・・そっちかぁ・・・

 本当は千歳でレンタカーを借りたら、富良野、札幌、函館、登別なんてクルクル回って満喫するつもりだったのだ。が、引退馬たちが暮らしているという日高はその反対方向に100キロほど東に行ったところにあった。こりゃひたすら牧場で馬を見るということになりそうだ。

「こう言っちゃなんだが、馬がメインの場所で、あんまり他の観光ってないけどいいの?」

「うん、馬に逢えればいい」

 ハイ、一時帰国は家族の接待が目的でもあります。普段、がんばって一人で日本で留守番してくれている家人に、思い切り楽しんでもらうのが目的でもあります。

僕はとっとと方向転換し、それならいっそ、徹底して牧場をめぐる旅にすることにした。馬には全然興味ないけど、きっと牧場には僕が見たかった日本の美しい青空が広がっていて、家人がカメラ片手に大喜びで走り回るなら、それはそれでサイコーの休暇になるはずだ。

 ということで、異国での仕事にキリをつけ、ナショナルスタッフに見送られ、やっと帰国の途に就いた。

が、まず上海に向かうフライトが当日キャンセルになった(航空会社の都合で飛ばない・・)ので、急遽、地上を移動することになった。慌てて飛び乗った高速鉄道で8時間も中国大陸の真ん中を揺られ続け、真夜中にようやく上海に到着。もう既にクタクタなんですけど。

 そして翌日の朝、今度は乗り込んだ飛行機がなかなか飛ばない・・・上海空港の名物たる「飛行機の大渋滞」に巻かれ、動き出してからテイクオフまでに2時間以上もかかってしまって、日本に降り立ったのが昼過ぎだった。

危ない、危ない、あと2時間後の新千歳行きに乗り換えないとね。

ニコニコ笑顔で出迎えてくれた家人と一緒に国内線に乗り込む。

 日本で国内線って久しぶりに乗るぞ、ってウキウキしてついついビールを飲んでしまう。もうすっかり休日モードだ。周りも日本人だらけだし、みんな大人しくて静かだなぁって思っていたら、あっという間に着陸態勢に入った。そして夕方の6時を回っていたけど、僕たちは新千歳に無事に到着した。

ヤッター、遂に北海道だ!

 さて今晩は空港近くのホテルで宿泊だけど、夕ご飯はさっそく北海道を満喫したいところです。空港内にたくさんお店があって迷います。

どのラーメン屋さんも美味しそう!

僕たちはさんざん迷った挙句、ススキノの行列店(看板に書いてあった)、「SORA」のラーメンを食べた。

 スープの上に乗ったバターが溶けてコーンに絡み、本当に美味しい。安直で中身のない表現だけど、北海道に来ましたって感じです。ハイ、これでいいのです。

「お腹いっぱいになったし、休もうか」

「うん」

 僕は2日間で鉄道や飛行機を乗り継ぎ数千キロの移動をしたから、どっと疲れが出て、急に睡魔が襲って来て、千歳のホテルでフカフカのベッドに倒れ込むように眠った。安心感が半端ではない。そしてやっぱり日本って何もかもが快適でいいや。

こういう安寧(あんねい)は自分の国でなければ味わえやしない。

 翌日、ホテルの朝食はバイキングだった。北海道の名産を使った素朴な料理ばかりだ。

 郷土料理ってその土地の人々が昔から食べていた料理だから、やっぱり一番興味がある。この三平汁は魚の塩漬けを根菜と一緒に煮込んだもので、魚から染み出した塩出汁がジャガイモとか玉ねぎの野菜の甘みに混ざり合って、本当に優しい味で美味しい。

 僕たちはホテルを出るといったん空港に戻り、そこからバスに乗ってレンタカー屋さんに向かい、予約してあった車に乗り込んで走り出した。

さぁ、いよいよ、ぼくの夏休みの始まりだ!

※昔、「ぼくのなつやすみ」というゲームが好きだったのでつい・・・

 まずは空港近くの牧場に行って家人が逢いたかった馬たちに挨拶し、そのあと日高へ向かう。途中、ずっと車の中でしゃべり続ける家人の話を、僕は運転しながら聞いていた。いつも通り、声を聴いていただけで内容は聞いていなかった。楽しそうに喋っている家人の声があればそれで宜しい。

 日本にいる時は、週末の都度、こんな感じで二人で行き当たりばったりでドライブに出かけ、ずっとこんな風に楽しそうな様子の声を聴いていたのだ。その声を聴いて僕はずっと運転していた。仕事を忘れ、時間を忘れ、な~んにも考えずにハンドルを握る時間。これが当たり前の幸せな日常だったんだよなぁ、なんて、ちょっと感傷的になってしまった。

 いかん、いかん、せっかくの休暇。たっぷり楽しんでもらって、僕もたっぷりリラックスして、楽しみ尽くさないとね。そして事故ったら一発で旅行が台無しだから、安全運転第一だ。

 2時間くらい走って、日高に入るや否や、本当にあっちこっち牧場だらけで、そのあとも帰るまでに、もう数えきれないくらいたくさんの馬を見ることになったけど、僕は、そのよく手入れされた美しい毛並みのサラブレッドたちを見ていて、なるほど、こんな大人しくて気品のある動物なら、古来から人間に愛されて当然かもしれないなぁと思った。

 人間と馬との付き合いは古い。紀元前の3500年に中央アジアで家畜化がされていたらしいから、四大文明が始まった頃にはいずれも馬は既に生活や戦(いくさ)の一部だった。

 十数年前にG1レースを走った名だたる馬(らしい)を目の前に見て、う~ん、なるほど、この黒目勝ちの大きな瞳は、特定の人たちには「たまらなくかわいい」と映るんだろうって納得する。九州旅行では馬肉をムシャムシャ食べていた僕でさえ、その動物が美しく高貴なだけでなく、かわいい姿に見えるのである。

 ところで、特定の動物に対して愛護の気持ちが湧くのは、「ベビースキーマ」という特徴に対する人間の反応らしい。ベビースキーマは、顔の中央寄りに位置する大きな目とか、全体に丸みのある体形とか、柔らかい肌触りとか、要するに人間がペットとして買っている犬や猫、あるいはアニメキャラクターの持っている特徴のことである。

なんでも戦前にオーストリアの動物行動学者が発表した学説で、人間の赤ん坊に似たこれらの特徴を持った対象に対して、人間は「守ってあげたい」という愛護の感情が湧く、という学説だ。

「赤ん坊を守る」という強烈な感情は、脳みそが発達し過ぎて未熟な身体で生まれて来るようになった人間の生存システムみたいなものだから、動物が可愛いというのは、赤ん坊が可愛いと同じであり、赤ん坊が可愛いと感じるのは人間の種の保存欲求だから、結論として、動物が可愛いと感じるのは人間が自分たちが生き延びたいという欲望の延長線の感情、ということになる。

「だから、動物が可愛い、ってのは要するに、自分たち人間の種を残したいって思うのと同じ事らしいよ」

という話を運転しながら家人にしたが、いつも通り黙殺された。

向こうは向こうで、こっちの話を全く聞いていない。ひたすら楽しそうに笑顔で窓の外を見ている。

 真っすぐ続く北海道の一本道は、右も左も牧場だった。馬たちは親子でのんびり日向ぼっこしており、仔馬は母親のそばで安心仕切って眠っていた。本当に美しい場所であり、家人は上機嫌だ。僕も勿論、心の底からリラックスしている。これぞまさに休暇だ。

 ちなみに、このベビースキーマに基づく動物愛護の感情だけど、その特徴をどれだけ持っていても、現実問題として「お肉が美味しい」というのを知っている人間の場合、感情にフィルターがかかって結論が変わって来る。豚や牛の顔をよく見てみると、みんな丸くて優しい目をしていて、柔らかい身体をしているのに、やっぱりベーコンやステーキは美味しいのだ。牧場で実際に彼らの顔を見て、その無垢な様子を見て、可愛いなぁなんて思った直後、いや、でも我々はガンガン食べてるんだよなぁ、しかも美味しいんだよなぁ、なんて思い出し、ちょっと罪悪感みたいな引き裂かれた気持ちになって、思わず目を背けてその場を立ち去る、なんて平凡な僕たちの一般的な経験だ。命に感謝を表し無駄をせずに食べようって、勿論大切なことだけど、やはり、僕たちは屠殺し、切り刻み、食べ続けるのだ。

 きっと最終結論を出す必要はないのかもしれない。最終結論=生命はこうあるべき、なんて神様の視点であり、ちょっと傲慢であり、僕たち人間はどうせ矛盾しつつ引き裂かれ、宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」という作品、家畜から死亡承諾書を取らないといけなくなった国で豚が屠殺されるまでを描いた哀しい作品を読んで涙し、そのあとマックでベーコンエッグバーガーを食べて友人と談笑するのである。

という話もハンドルを握りながら家人にしてみたが、やっぱり黙殺された。

ゴタクはいい、小難しい話なんて聞かない、目の前にあるものを素直に受け止め、笑いなさいよ、楽しみなさいよ、味わいなさいよ、それ以上は人生に何にも無くて、必要なくて、どうせ年をとったらフツーにみんな死んで行くのよ、という単純明快で男前なカンジの家人が、僕は本当に大好きだ。

 ということで、北海道に来ないと楽しめない買い物をすることにした。生まれて初めて立ち寄る北海道のコンビニ「セイコーマート」だ。関東圏にも何店舗かあるらしいけど、僕は行ったことがなくて、テレビでしか見たことがなくて、嬉しくてつい写真を撮ってしまった。

 ホントだ。店内で調理された料理(ホットシェフ)がある!感動しつつ、店内をウロウロすると、やっぱりありました。北海道限定のカップラーメンです。

 いずれも持って帰って美味しく頂きました。こんなのが旅の何よりの楽しみだ。

2日目は牧場の中にあった従業員用の宿舎をそのまま宿に変えたところに泊まった。これも家人の希望だった。到着した時はもう日が暮れかかっていて、ちょっと天気も悪く、風が冷たかったので、近くのスーパーで買って来たご飯を食べてそのまま寝たけど、翌朝、まばゆい光の中で目が覚めると、部屋の窓という窓から晴天の牧場が見下ろせて、馬たちがすぐそこでのんびり歩いていた。ものすごく牧歌的な風景だ。

 天気が本当にいい!僕たちは大はしゃぎして外へ飛び出した。青空と、美しい牧場と、優雅な馬たちがそこにいた。

かつてレースで大活躍した(らしい)馬たちは、思い思いに草をはみ、思いついたように走り、リラックスして引退後の生活を楽しんでいる。

 どうやら「牧場猫」というのがどこの牧場にもいるらしく、その牧場にもいた。驚くほど人懐っこく、僕はどちらかというと動物から好かれないのに、その猫は僕にすり寄って来て、牧場で家人と馬を見ている時も、牧場から朝食を食べに牧場内に併設されたレストランへ向かう時も、ずっと付いて来た。生まれて初めて猫がかわいいなぁと思った瞬間だ。だって、たいていの犬猫は僕を警戒して近づいてこないもの。

 人間と猫の付き合いは古い、って始めそうになった僕を、家人は放っておいて、この猫と一緒に向こうへ走り出した。猫は家人の横をぴったりとくっついて走って行く。北海道の広大な夏空の下、緑まばゆい牧場の間の小径(こみち)を、家人と猫が並んで走って行く。僕はカメラを構え、シャッターを何度も切って、彼女たちの後ろ姿を撮った。最高の構図だ。なんと素敵な写真だろうか!それらの連続写真は、結局、今回の旅で一番の思い出となる写真になった。帰りの飛行機の中も含め、僕は何度も何度も見返した。見返しては泣きそうになった。そこには僕が見たかった日本の美しい青空が広がっていて、家人が大喜びで牧場を走っている姿が写っていた。これがやりたかったんだ。旅の目的はこの瞬間、果たしたと言っていい。

 とはいえ、まだまだ家人の行きたい牧場はあります。

 僕たちは更に日高を東へ東へと向かって、これまた大きな牧場に併設されたホテルへ向かった。途中で立ち寄った道の駅で、「あらいそまる」という真っ黒な肉まんを見つけ、食べてみる。

 日高は日高昆布でも有名だ。あらいそまるの竹炭の真っ黒な皮には、たっぷり昆布が入った餡が包まれてて、その昆布の味が肉とよく合っていて、本当に美味しい。

こういう新しい食べ物と出会えるのも旅ならでも楽しみである。

 そのあともたくさんの牧場でたくさんの馬たちに逢った。よくまぁ飽きないんだねぇと思いながらも、ずっとニコニコと馬を見ている家人を見ていた。ウン、楽しんでもらえて何よりです。僕は自分もプラプラと牧草の上を歩きながら、こういうのんびりした時間は貴重だなぁ、今晩のホテルの夕ご飯のメニューは何だっけ?そういや海鮮をまだ食べてないぞ、なんて考えていた。

 広いって本当に人間の気持ちを解放してくれる。北海道の人たちは全員ではないにしても、こんな風景を見ながら育った人が多いんだなぁと思うと、う~ん、羨ましいような気がする。もちろん、冬の気候の厳しさを考えた時、簡単に羨ましいなんて言うべきではないのかもしれない。開拓期の人々の苦労なんて筆舌に尽くしがたいものがあったのだろう。やはりここは特別な風景が広がっている以上、日本人にとっては特別な場所なのかもしれない。

 

◎リクエストが叶って食べることが出来たもの

①えりも巻き

 有名なえりも巻きをどうしても食べたかったので、念願が叶って本当に嬉しかった。昆布巻きの中でもこういう鮭とかニシンが巻かれているものが、本当に僕は大好きだ。ホテルのバイキングで食べることが出来たけど、やっぱり本当に美味しかった。

②ラム肉のしゃぶしゃぶ

 北海道に来た以上は羊肉は食べたいと思って、宿泊したホテルのレストランでラム肉のしゃぶしゃぶを注文させて頂きました。実はマトンが得意ではないのでラム肉を選択。これも本当に美味しかった。

イクラ軍艦巻き

 だいぶ前に小樽に行った時もそうだったけど、北海道の回転寿司のクオリティが、僕たちが近所で食べる回転寿司のものと全然違って、値段も違うのだけど、やっぱり本当に絶品なのである。なので新千歳空港に戻った時、僕はついに「海鮮を食べたい」と宣言し、函太郎というお店でたくさん食べた。そして僕がどうしても食べたかったネタは・・

④ニシンの握り

 ハイ、もう思い残すことはありません。

 僕たちは空港内でたくさんお土産を買って、帰りの飛行機に乗った。窓の外の北海道の大地がどんどん遠ざかる。

 家に辿り着くのはきっと夜だけど、僕はずっと幸せな気分だった。1時間後に降り立つ空港から、今度こそ自分の車に乗って、自分の家に帰れる。途中でコンビニに寄って、お茶とお菓子を買って、ゆっくり運転して帰ろう。助手席にはやっぱり上機嫌の家人がいて、後部座席とトランクにはたくさんのお土産が積んであって、日本の街並みを眺めながらのんびり家路につこう。

 あともう数日の休暇を楽しんでから、僕はまたあの異国の山奥へ戻らなければいけない。それまではフツーのことを、噛みしめて、味わって帰ろうと思った。

 久しぶりにセブンのサンドイッチが食いたいぞ、なんて思いながら、座席に深く腰掛けて、ちょっと目を閉じる。

 瞼(まぶた)の裏側には、あの美しい夏空と、優雅な馬たちの表情と、猫と一緒に並んで牧場の小径(こみち)を向こうへ走って行く家人の後ろ姿が焼き付いていた。

 これは僕の宝物だ。

 そしてこれが、今回の「ぼくのなつやすみ」だ。

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