失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

天平時代より昔に作られた古い寺で台風の破片の生ぬるい風に吹かれながら、不条理に対する人間の思索を思い返し、やっぱりなぁんにも成長していない自分を軽く笑ったこと

2023/09/10

 台風の季節到来で、先月からやたらめったら台風が現れて日本や大陸の沿海部にやって来て、大きな爪痕を残して行くが、僕がいるこの異国の山奥は、あまりに内陸過ぎて、途中にそびえる膨大な数の山々を台風は越えることが出来ず、結局、そのままの形でここまで辿り着けない。テレビで見るニュース番組の暴風雨の映像は、まったく外の世界の出来事である。ここは巨大な盆地(だから夏が死ぬほど熱く、冬は死ぬほど底冷えするけど)であり、幸いにして台風の猛威は、遥か山々の向こうの海側の出来事となっている。

 そんな大盆地はもちろん残暑も厳しいのだけど、秋口に入りさすがにいくらか過ごしやすさも出てきたから、休日には近場の観光地へ足を運ぶこともあり、とは言ったって無名の場所の無名の観光地なので、地元の人たちだけで賑わっている門前町とか、実は十年前に作った景勝地(人口の湖にいかにも数百年前からあったかのような歴史建造物っぽい様式の橋や塔を作ったところ)などを、ゆっくり散歩する程度の話である。

 で、観光地はそんな感じだが、帰り道にぷらっと立ち寄った町のそのあたりに建っている小さな寺が、実は日本でいう奈良時代初期の創建だったりして、ありゃびっくり、なるほどね、歴史の長さという意味では、この国はちょっと規模感が違うのかもね、なんて思いながら、ペンキでピカピカに塗りなおした境内や仏像をゆっくり眺めている。

 「ペンキでピカピカ」は勿論、日本人としては違和感があるのだけど、昔、東南アジアのスタッフが僕に言っていたように「だって大切なものを綺麗にしたい、色を新しく塗りなおしたり、ダイヤモンドを埋め込んだりしたいって思うのは、人間として普通ですよね」の通り、どちらかというと、仏像の片足や片腕がちぎれて取れていようが、顔の一部の塗装が剥げてボロボロになっていようが、そのままにしておいて寧ろそのボロボロの様子に、無常観や侘び寂び(わびさび)のような美意識を感じる日本人の方が、異様なのである。

が、僕はやはり日本人だ。「ペンキでピカピカ」への違和感は決して拭い去ることが出来ず、そのピカピカを眺めながら、自分の国の古都の懐かしいあの仏像たちを思い出している。

 台風の話だけど、山を越えられず熱帯低気圧に分解したその破片は、雨として落ちることはないものの、この山奥に風となって到達する。普段あまり風の吹かない地域だが、台風が沿海部で大暴れして分解した破片の一部がこの地に辿り着いて空を覆った時、一瞬、太陽は雲に隠され、湿った風が辺りに漂う。湿った風なんてほとんど吹かないから、あぁ台風だった雲の破片がここまでやって来たんだねって気づくのだ。僕が歩いている古い寺の境内の柱の間を、すうっとそんな風が通り抜けて行く。

 子供のころ、両親の実家の農村が大きな台風の被害を受けた。その年の台風による死者数が最も多かった被害を受け、地域一帯が壊滅状態だった。

毎年「おじいちゃんとおばあちゃんの所」へ夏休みのお盆に遊びに行くのが楽しみだったけど、その年は遊びに行けなかった。道路などのインフラがようやく復旧した夏休み明け直前になって1日だけ、墓参りに「おじいちゃんとおばあちゃん」に会いに行ったが、そこはもはや僕の知っている楽園ではなく、大きく側面をえぐられた山々とか、そこにあったはずの集落を飲み込んだ広大な土砂の塊たちとか、まだ濁っている、そして且つての何倍にも川幅が広がってしまった黒い濁流を目にした。

「先に婆さんを連れて避難所に行ってさ、戻ってきたらもう・・なかった・・あいつら・・・家ごと流されてた・・」

子供ながらに、自然ってとんでもない規模で急に人間に襲い掛かり、人間はそれがどんなにいい人間であっても、それまで一生懸命生きていたとしても、まったく無関係に命を奪われてしまうんだな、と思った。毎年、そこへ行くたびに交流があった従妹の友人たちも、家族をその災害で失っていた。父の従弟の家族も亡くなった。台風という自然現象は、小さな集落を、そこで平和に暮していた人々を、ある日、突然、まったく意味を持たず襲い、まったく意味を持たずそれらの人々の命を奪った。残された人々にとって、まったく意味がないのに苦しまなければならないって、要するに不条理ってことだ。僕は子供から大人になる途中で、小説の世界を通して、有名なカミュの不条理という概念を知ったけど、真っ先に思い浮かべたのが、この子供時代に見た台風が襲ったあとの集落の風景だった。

 自然現象(自然法則)ってやつはだいたい、宇宙の始まりから始まって、終始一貫して、まったく意味を持たないのである。だから、台風はもちろん、これも自然現象の一つでしかない僕たち人間の命や運命だって、まったく意味を持たない。だから、愛する人がまったく意味を持たず命を奪われても、そこに一切れ(ひときれ)の回答も見い出せない。耐え、死にたければ死に、死ねなければ生きるだけである。そして幸運にも何かの意味を見出したりしてその後の数十年を生き延びたとしても、いずれ自身も、自然現象の一つとして、まったく意味を持たず死んで行く。どういうこと?どうして?って言うところから、この不条理って何?という大昔からやっている人間の膨大な思索(しさく)があるのだ。

 カミュだけではない。ヨーロッパではアウシュビッツを生き残ったヴィクトール・フランクルが不条理を深く深く考察し、単にインテリの知的なお遊びではなく、実体験に根ざして誰も文句を言えない場所で、人間にとっての不条理を語った。ヨーロッパ人の不条理に対する感覚は、自然現象から孤立して立ち尽くす人間のイメージだ。ヨーロッパの気候とかキリスト教の影響かもしれない。荒涼たる草原の中で、人間が他の生き物とは区別されるべき特別な存在たらんとして、不条理を前に立ち尽くしているそんな様子が、彼らの思索から思い浮かぶのである。

 一方、アジアの不条理に対面するやり方(知恵)は、人間が他の生き物とは区別されず、自然現象の中に内包されて存在が消えてしまうようなやり方である。自然現象から孤立して立つのではなく、いつの間に自然現象の中に存在が解消されてしまうような感じだ。東南アジアの仏跡がジャングルに飲まれてそのままとなっていたように、いわば仏像の顔が木々の隆々(りゅうりゅう)とした幹や根の渦の奥に見え隠れしているような、そんなイメージである。それは自然法則と対面するやり方ではなく、自然法則そのものに自ら内包されようとするやり方である。やはりこれも、アジアの気候や豊穣な自然の影響かもしれない。ヨーロッパの自然からは生まれにくい発想だ。彼らは大災害を乗り越えたりしない。受け入れている訳でもない。災害の大惨禍の中にあって、座り込み、佇(たたず)み、ただその中にあり続ける様子が、テレビのニュースでよく映し出されている。

 で、ここ中国である。中国には老子という天才が大昔にいて、無為自然という分かり易い概念を提起していて、後継者たる荘子がたとえ話をたくさん使って更に分かり易く解説している。ただしこれは不条理に対する態度というのではなく、時の為政者や儒教に対する反発でもあり、その上で中国的=現世的かもしれない。身内が災害で死んだのは悲しいけど、クヨクヨしても始まらない。まずはご飯を食べよう。ご飯を食べれば元気も湧くし、元気が湧けば、また明日からご飯を食べるために頑張れる。そうやって自然に一生懸命生きて行けば、きっと生きている間は我々は幸せにやって行けるんだ、余計な「人間のあるべき姿」など不自然で七面倒くさい事は考えなくてよろしい、なんてな発想だろう。これはここにいる中国の人々の逞しさであり、決して日本人がマネできない代物(しろもの)なのである。

 だから、不条理を前に、僕たち日本人はどの立場も取りにくいのだ。ヨーロッパ人のように、神なき荒野に立ち尽くすといったヒロイックな孤独に共感することが文化的に難しく、赤道直下の東南アジアの人々のように、自然に完全に内包されるようなジャングル的感覚もなく、一方、現世をどこまでも貪欲に生き抜こうとする中国人のタフさもない。で、朽ちて果てて行く仏像のほほ笑みの横顔を見つめながら、僕たちは無常というコトバで感傷的に不条理と向き合うだけである。態度とか方法ではなく、大惨禍を前に、感傷という気分で僕たちは不条理に向き合っている。

 もうちょっと具体的に考えてみよう。

突然の死。これはありがたい。不条理に対する怒りとか、迷いとか、苦しみなく突然、無に帰するのだ。一瞬で完了し、痛みがなければなおさら、ありがたい。

執行猶予のある死。不治の病を宣告された場合だ。これも痛みがなければ実はありがたい。キュプラー=ロスは人が死を受容するプロセスを5段階に分け、第1段階「否認」(いやいや、こんなのあり得ないでしょ)→第2段階「怒り」(ふざけんなよ!一生懸命真面目に頑張って来たのに何で俺がこんな目に遭うんだよ!)→第3段階「取引き」(きっとこの治療方法なら助かるはずだ、きっと・・)→第4段階「抑うつ」(完全に終わった・・もうお終いだ・・)→第5段階「受容」(まぁ仕方ないか、どうせ遅かれ早かれ人間は死ぬんだし)、みたいな説明をしたけど、僕はもし死の宣告を受けたら、とっとと最後の「受容」の段階に入って、お世話になった方々へお礼をしに行く時間を取りたい。あとは痛みなく死ねるよう全力を尽くすだろう。痛いのは嫌だ。

が、突然死だろうが、執行猶予付きの死だろうが、これらはあくまで自分の死でしかない。肉体的に痛くさえなければ、大した苦しみでも不条理でもないのだ。痛くなければ、自分の死なんてなんてことないのだ。

本当の不条理、本当の苦しみは、愛する人を失った時、そしてそこからそれでも一人で生きて行かなければならない旅路の中にある。残されるというそんな苦しみに、僕は耐えられるだろうか?たぶん、無理だ。少なくともまだ老人になっていない今の段階では、絶対に無理だ。泣き叫び、毎日泣き叫び、それでも愛する人を失った苦しみは和らぐことなく、無意味さと哀しみの不条理と毎日、一人で向き合って行かなければならない。「受容」なんて出来っこない。僕は死を選ぶだろうか?分からない。

 江藤淳という評論家が自ら亡くなった時、僕はまだ20代だったけど、そんな事を考えていた。大切な人を失い、残されるという不条理に向き合って「受容」なんて僕も出来っこないと思った。それが20年以上たっても何にも考えが変わっておらず、要するに覚悟も身に付かず、オッサンになっただけで成熟もしなかったなんて、笑止である。が、仕方ない。その後、やはり著名な別の評論家が多摩川で入水した時も同じことを考えた。僕は日本の天平時代より前に作られた異国の寺の境内をゆっくり歩きながら、そんな事を思い出していた。遠い海で発生した台風の破片が、生ぬるい湿った風になって、僕の頬をそっと撫でて行く。

 「人間は他の生き物と違って死を選択出来る=己の生を管理できる。そこに人間として生を受けたゆえの価値を見出せる」なんて、理屈はわかるけど、やっぱりヨーロッパ人的な発想だ。そもそも自ら死を選ぶなんて恐ろし過ぎるし、その最後の瞬間(場面)を想像しただけで、なんで何十年も生真面目に一生懸命頑張って来たのに、最後の最後でこんな怖い思いをしなきゃならんのだって、途中で腹が立って来そうな気がする。それこそ不条理だ。よほどの信念がなければ、不条理の上にアホ臭さも加わって来そうだ。出来れば避けたい。

じゃあ、やっぱりいい感じの安楽死がベストだろうか。社会的にも認知され、専門の安楽死会社があったり、安楽死に対する国の補助金が出たりして、肉体的苦痛や精神的苦痛からあっさり解放される、お気楽な感じの死の選択があれば、それが「まったく意味をもたない」不条理な我々の命や運命に対するベストな回答なのだろうか?

「ごめん、来月の半ばにはもうオレ、旅行に行くからさ。うん、楽しみなんだ、ありがとう。申し込みも終わってる。」

なんて感じの軽い日常茶飯事のノリで、

「ごめん、来月の半ばにはもうオレ、安楽死しに行くからさ。うん、もう楽になろうと思って、ありがとう。申し込みも終わってる。」なんて時代が、意味がない世界の不条理に対して、最終的に人間が辿り着いた結論として、いつかやって来るのだろうか?その時には、自分で首をくくっただの、病院のベッドで痛みにのた打ち回ってから死んだだの、昔の人たちは踏ん切りがつかなかったから大変だったんだろうねぇ、社会的な認識が古くて制度やその類の施設がなかった時代は最後が本当に悲惨だったんだろうねぇ、なんてみんなは言っているのだろうか?

やはり分からない。何かが違うような気がするのだが、それが何か分からない。僕はまだ、そんなことさえ分からず年齢だけを重ねて行く。

 境内を風は吹き続けていた。僕は置いてある木製の椅子に腰を掛け、曇り空を見上げた。生ぬるい風って、なんだか誰かが何かを語りかけて来るみたいだ。千数百年もの間、この場所で人々は祈り、願い、死んで行ったのだろう。

灼熱の日々が続いた夏が終わって行く。何ということはない異国での休日の一日が、こうして静かに過ぎ去って行く。

路上で賑やかにご飯を食べている異国の家族たちの様子を横目で見ながら、映画「シェルタリング・スカイ」に出てくる夫婦と三島由紀夫と、そして自分の大切な人を想ったこと

2023/08/03

 中国の文化の大きな部分に食(しょく)が占めているのは有名だけど、実際にこちらで市井(しせい)の人々と接していて、彼らの食(しょく)へのこだわりを見せつけられると、なるほど、頭で理解している以上に、この国では「食べる」ということが人生で大きな意味を持っているんだなぁ、と改めて気づかされる。

 例えば日本人が出張でこの国にやって来て、朝から工場でいろいろと技術支援をしながら働き、昼休みになった時に「いや、ボクは日本でも昼ご飯は抜いているんで昼食はいらないです。午後から眠くなっちゃって集中力が落ちるんでコーヒーだけでいいです」なんて言った日には、ナショナルスタッフはみんな目を丸くし、食事を抜くなんて貴方は何の為に生きているんですか?くらいの怪訝(けげん)な表情で見ている。食事中に仕事の話を延々とするとか、ひどい場合は食事中に上司が部下に説教を始めるとか、要するに「食べる」という幸せを味わえる人生の貴重で奥深い時間をそんなバカげたことに日本人が費やしてしまうと(昭和の日本人の感覚ではそれほど奇異ではない)、そんな不幸な人たちを不思議そうに同情の眼差しで見つめるのだ。

 或いは、休みの日に街を散歩しているとよく出くわす場面、商店街の店先(歩道の上)に簡易のテーブルと椅子を置き、料理を広げ、その店の家族がそこで昼ご飯を食べている場面があるが、家族で集まって食べるというのは大前提で、その上で、どうせなら外で食事をした方が美味しいぞ、ぺちゃくちゃ喋りながらみんなで食った方が美味しいぞ、外で食っていれば通りかかりの近所の連中もやって来て、もっと賑やかに、もっと楽しく、だからもっと食事が美味しくなるぞ、みたいな人生の知恵が根ざしているみたいで、僕は横目でそれを見ながら歩き続け、そんな事を考えている。

時代は変わり、生活は豊かになり、子供たちは日本と同様にスマホの中で生きているのかもしれないが、相変わらず、休日の昼ご飯時にはそんな店先の家族の風景が、まだあっちこっちで見られるのだ。そしてテーブルの上に並べられた金属製(ステンレス)の食器には、家族が作ったローカル飯(野菜の炒め物など)が入っていて、みんな美味しそうに箸で食べている。

 さて、2回目の駐在が始まって2か月が過ぎた。朝から晩まで中国語の中で生活していると、その反動かどうか分からないが、無償に英語が聞きたくなって、休日にはテレビで古い洋画を見る時間が多くなった。「シェルタリング・スカイ」もその一つだ。

ベルナルド・ベルトリッチは学生時代に大好きだった監督の一人だけど、そして片っ端からその作品を見たけど、「シェルタリング・スカイ」だけは見ていなかった。理由は忘れてしまった。多分、とんがっていた若者の感性の中で、あんまりにもこの作品が有名でメジャー過ぎて、敢えて避けていたのかもしれない。

一方、今は僕はただの平凡なオッサンとしてヒーヒー言いながら異国の地で働いているので、何のわだかまりもなく、素直に、「お腹いっぱいでちょっと気持ち悪くなって来たので、中国語以外の言葉が聞きたいのです」という具合に、若かりし頃のマルコヴィッチの呻くようなアメリカ英語をソファーで寝そべりながら聞いている。音楽を聴くように映画を見ている。すっかり年齢を重ね、気兼ねせずにこだわりなく何でも(中身やジャンルを気にせず)ぼんやり鑑賞できるというのは、とても幸せなことである。

 作品の舞台は第二次世界大戦が終わって間もないころの北アフリカだ。

アメリカ人の金持ち夫婦が、要するに暇と金を持て余した倦怠期の夫婦が、広大な砂漠の風景を旅するロードムービーだ。教授の音楽はもちろんだけど、何しろ映像が美しい。ベルトリッチ監督のような天才を生み出すイタリアという国は、美しさの追求、という点で群を抜いていて、ファッションにしろ車にしろ、世界のみんながこりゃかなわないなぁ、なんてため息をつくのである。ルネサンスを持ち出すまでもなく、歴史が違うのだろう。そんな美の追求の天才を次々と輩出するお国柄を反映して、ベルトリッチ監督はこの作品の中で、戦後間もないアフリカ、まだ未開で不毛で、だが同時に豊穣(ほうじょう)たる砂漠とそこに生きる人々の様子を、途方もなく美しい背景として、登場人物の向こう側に延々と映し出して行く。

 さて、この映画のテーマだけど「彼らは時間の経過を無視するという致命的な間違いを犯した」という出だしに登場する老人の言葉が全てだ。夫婦は倦怠期だから繰り返される全てに嫌気がさしていて、出来れば同じ行動はしたくない。妻は夫の夢の話に吐きそうな退屈を感じ、夫が車で移動するなら列車での移動を選び、ホテルで宿泊する時も部屋は別々にする。

が、相手を死ぬほど愛しているのだ。好きで仕方ないのである。そして退屈で仕方ないのだ。

だから、荒涼たる砂漠の大地に二人でやって来て、その広大な異世界の風景の中で、二人は熱烈に抱き合う(有名なシーン)。

二人はなぜ抱き合えたのか?それは、日常とは異なる大自然の中にあって、時間の無限を感じ、空間の無限を感じたからだ。無限へのあこがれは、世界や人生に倦んだ人間が志向しがちな魔物である。世界や人生の虚しさから守ってくれる(シェルタリング)砂漠の上の空は、ずうっと二人の向こうまで広がっていて、だから自分たちは一瞬だけ救われると錯覚したのである。

 でも世界や人生は無限ではない。時間の経過によって全てが移ろい行き、僕たちはいずれ消え行く。だから時間の経過がある以上、毎日繰り返される相手との会話も、一緒に過ごす食事の時間も、二人で車窓の風景を眺める沈黙の時間も、全て無限に繰り返されることはなく、いつか決して取り戻せない、どんなに泣いても願っても取り返しがつかくなる、実はそんな貴重な時間なのである。だがその事を忘れ、時間の経過を無視し、永遠に続くものだと錯覚して日常の繰り返しに退屈を感じ、無限へのあこがれを希求してしまうと、結局のところ「致命的な間違い」を犯して人は破滅する。「永遠になった」人間はだいたい幻想に埋没して死んで行った人間の形容詞だ。三島由紀夫もそういうカンジだったのかなぁ、なんていつも考えている。

 だから、僕たちは無限や永遠へのあこがれをもちつつ(それは人間の性だけど)、それを実践してはいけない。つまり時間の経過から目を背けてはいけない。我々は有限の生だからこそ、その瞬間に感謝の気持ちを持てるのだ。だって無限とか永遠って、要するに死=無の世界だもの。

 いやぁ、いろいろ苦労もしたけど楽しかったなぁ、一通り人生の酸いも甘いも味わって、なんとか無事に生きて来れたなぁ、マジで死ぬほどキツかった時もあったけど、逆にマジで天国!ってくらい幸せなこともあったし、ウン、なかなかよかった。あとはこっからは自分の体のあっちこっちが悲鳴を上げるのをなだめながら、ごまかしながら、まっすぐ死に向かって行くだけだなぁ。でもまぁ、いいか、楽しかったし。ありがたい話だ。

という平凡な中年の境地は、満たされた気分のまま、この有限の生に絶望せず、一方、死という無限の無機質な虚無に恐れをなすこともない境地だ。年齢を重ねて行くうちに、決してロマンティックな形でも英雄的な形でも何でもなく、普通のオッサンとして永遠になる、という境地である。三島由紀夫のように英雄的に永遠にならなくても、フツーのオッサンとしてだらだらと一生懸命生き、生き抜けば、そんな感じの肩の力が抜けた感じで永遠になれるのである。だから僕たちは、時間の経過をしっかり受け止め、毎日を生きて行けばいいのである。毎日繰り返される相手のコトバに、何気ない優しさに、それがいつか失われるものだと覚悟して、しっかり味わい感謝すればいいのである。

大半の人間は、無限にあこがれつつ、有限の生を生き、そのくせ有限であることを忘れて、まるで無限であるかのように繰り返しを退屈に感じる。

上手に生きる人間は、生が有限であることを思い続け、この繰り返しがいつか無限に無くなることを意識し、だからこそ感謝の気持ちをもって日常を繰り返せる。退屈なんかしない。

「俺は、今日が死ぬ日と毎日思って、その日を後悔ないように生きるようにしている」

大切な古い友人がメールで書いて来てくれた言葉だ。幸せに生きる人間には理由があるということ。

 有名な「ご飯食べたか?」という中国語は、デジタル化が進みすっかり様変わりしたこの国にあってもまだ基本の重要な挨拶だ。頻繁に使用される。それくらいこの国の人たちは「食べる」という毎日の繰り返しに対して、それをとことん味わって楽しみ尽くそうと貪欲であるということだ。そういう文化(知恵)なのである。だから「日本でも昼ご飯は抜いているんで・・・」なんて言おうものなら、貴方の人生はそれでいいの?くらいの見方をされるのである。

 僕は今日も、休日の昼間の街を歩いている。

店先にテーブルを持ってきて、そこで賑やかにローカル飯を食べている異国の家族たちを横目に、テクテクと歩いている。そしてあの映画の主人公の夫婦の末路を思い出し、自分自身のこれまでの人生と、毎日一緒にご飯を食べるというささやかな繰り返しの一部さえ失わせてしまった、自分の家族のことを思い出している。

電気自動車に乗りながら窓の外の風景を眺め、やっぱり数十年前にホリエモンが叩き潰された時点で、僕たちの国の運命は決まっていたんだなぁと思ったこと

2023/07/11

 ほぼ10年ぶりの駐在先は山奥の田舎の町で、上海などと比べると都市とは言えないくらいどっぷりローカルな場所だ。それはいい意味でかなりのローカルということ。スタッフに招かれて行った地元の料理店で、僕はその迫力のある料理の数々と対面して、改めてこの異国の地方に久しぶりに戻って来た事を実感した。

が、一方でこの国のこの10年の変化は日本の30年分に等しく、生活の利便性向上は、システム化、デジタル化、EV化を軸に進み、既に日本のずっと先を行っている。

 当たり前の話で、若い年齢層の消費性向とか需要に対応する形で、この国は技術を発展させ社会の仕組みを作って来たからだ。要するに「携帯電話で全てが解決する」そんな便利な世の中である。

2000年代に当時はまだ世の中では「若手」だったホリエモンがそんな時代が来ると公言してたなぁ、そのあと結局、日本では技術やアイデアはあったのに年寄り達のお気に召さなかったせいでなかなか実現せず、今も社会のデジタル化なんて、マイナカードがどうたらこうたら言っているうちに、海外勢に市場がどんどん食われ続けているなぁ、なんて思いながら、こちらで新しい生活に慣れようとしている。

 そう、この数十年、日本で若手が思いつきそうな新しい技術やアイデアは、常に自治会の「回覧板の人たち」に潰されて来たし、その結果がこの笑ってしまうような逆転現象だ。デジタル化に向けた政府のてんやわんやなんて、世界中のどこへ行っても、恥ずかしくて言えない。そんな前近代的な問題が本当に日本にあるの?くらいの顔をされるのがオチだ。それくらい我々の国は取り残され、堕ちてしまっているのである。

例えばタクシー。

中国ではもはや流しのタクシーなんてほとんどいない。そんな運転手にとっても客にとっても効率の悪い商売の方法は存在しない。客側が自分の携帯に行き先を入力すれば、GPSで自分の立っている場所に一番早く来れるタクシーが自動的に選ばれやって来る。携帯の画面には、やって来るタクシーの車種、ナンバープレート、運転手の名前と顔写真とその運転手のみんなの評価が表示され、地図上で今どの場所にいてあと何分でやって来るか、リアルタイムで示され続ける。そしてだいたい2~3分くらいでタクシーはやって来る。逆に言えば、僕がどの場所にいて、どこからどこに移動して、というのも含め、何もかも、がっつりデジタルで管理統制されているということだけど、だからどうしたの?って具合で僕は全然気にならない。

そういや、日本を出国する時に荷物が多いから家から駅までタクシーを呼んだっけ。。電話で呼んでもなかなかやって来ず、1時間くらい待たされ、そのくせ到着した駅前のロータリーには、客を待つタクシーの列と、暇そうにコーヒーを飲んで待っている制服姿の運転手たちの姿があった。

日本で個人情報がどうたらこうたら言っているうちに、デジタル化され社会の仕組みごと効率化された中国が、はるか我々の先を行っているのである。生産性が低い、なんて仕事のやり方だけにとどまらず、こんな生活の一つでも露呈するのだ。日本のあの駅前の制服を着たタクシーの運転手たちの暇そうな様子を、なんとなく暗い気持ちで思い出しながら、僕はタクシーの窓から異国の街の風景を眺めている。

例えばお金。

中国ではもはや現金をほぼ使用しない。全て携帯電話で決済するのだ。もちろん現金も使用出来るけど、ほぼ全員が携帯で決済するので、現金を使うとお釣りがないとか、お釣りのやり取りをするのが面倒とかで、ものすごく嫌な顔をされる。だから、こちらで携帯電話を入手し銀行口座を開設するまでの3週間は、本当に肩身の狭い思いをした。町のちっちゃな雑貨屋でティッシュ一つ買うのも携帯で決済するのが普通である。ドアもエアコンもないどローカルな定食屋でご飯を食べた後も、お勘定をする時は携帯電話でレジの横のQRコードをスキャンして、支払いを済ませるのだ。お年寄りから子供まで、誰も現金を持ち歩かず、徹底している。財布を取り出して現金で払おうとする行為が、ものすごく恥ずかしいのだ。

携帯でタクシーを呼び、携帯で全ての買い物、食事の支払いを行い、携帯で部屋の家電のスイッチを入れたり操作の予約を行い、携帯で買った通販の家具を組み立てる時は、箱に印刷されたQRコードを携帯でスキャンすると、自動でビデオ映像が始まって組み立て方の説明をしてくれるので、それを見ながら組み立てる。特に、家具の組み立てについては、紙に書いた説明書のイラストなんかよりずっと分かり易いし(僕は日本ではこれが苦手だった)、まさにペーパーレスだ。

なので、20年前にホリエモンが言っていたけど潰されて実現しなかった社会、要するに携帯電話で全ての生活が成り立っている社会がここにあり、そしてそういう新しい社会に対応した新しい需要に対するサービスがまた生まれ、洗練され、いつか後れを取って後を追いかけて来た外国に販売されるのだろう。その速度は圧倒的だ。僕たちはまた、ドローンなんかと同様、かつて商業用で高度な基礎技術を持っていたのに、好奇心をもってその使い方を考えても、誰かの既得権益で国内ではすぐに実現せず、そうこうするうちにもっと魅力的で利便的で安価なその技術の活用方法を思いついた中国人から、お金を払ってその財やサービスを買うことになるのだろう。我々は、この類(たぐい)の間の抜けた事をやり続けてもう20年近くがたっている・・・・

 第二次世界大戦が終わった直後、日本の平均年齢は23歳だった。一回焼け野原になって、そこからは全てがゼロスタートだから、余計なプライドとかこだわりは無くてよかった。いいものはどんどんマネをすればいいのである。便利なものはどんどん取り入れればいいのである。

外国人(自分たちのほうが日本より文化が進んでいると思い込んでいた白人たち)から「猿真似」と言われようと、「美的センスがない」と言われようと、好奇心をもって外国の新しいものをどんどんマネし、取り入れて不都合があれば自分たちなりに改善し、どんどん発展させて行ったのだ。加藤周一はそれを雑種文化と言ったけど、それは合理的な考え方(いいものはどんどん自分たちなりに取り入れればいいじゃん)に基づくものであり、日本に決して独特のものではなく、要するに若手の柔軟な発想が幅をきかせる社会であれば、いつでも実現するのである。

が、自動車の猿真似(1960年代くらいまでの日本の昔の車は見た目がことごとくアメリカ車ヨーロッパ車のコピーだった)をし続けた日本人は、いつの間にか世界を追い越し、先頭を走り、いつの間にか全員が老いて、平均年齢は50歳となり、「自分たちの文化が進んでいる」と思い込んだまま、今は世界から取り残されている。

平均年齢が50歳ということは、仕切っているのは70歳以上の連中ということだ。駄目だこりゃ。

 ところで、電気自動車がガンガン売れているこちらの国にあって、携帯電話で呼んだタクシーのかなりの割合が電気自動車だ。電気だからものすごく静かだし、乗り心地も全く問題なく、あぁやっぱりこれが将来、僕たちの国に乗り込んで来て席巻し、かつて80年代にアメリカで日本車がやったように、日本の市場から日本車を駆逐し、多くの日本人の仕事を奪うのかなぁ、なんて半信半疑で考えている。

かつてアメリカ人が「やっぱり車はアメリカ車だ。日本車なんて安っぽいしパワーが全然ない」なんて言っていたように、これからは年寄りになった僕たちが「やっぱり車は日本車だ。中国車なんて安っぽくて運転しにくい」なんて瘦せ我慢を言いつつ、既に家電の一種になった自動車の購入の選択の一つとして、若者たちが安くて品質のいい中国車を気兼ねなくガンガン買うのを苦々しく横目で見る時代が来るのかもしれない。(僕たちが年寄りになった時のありがちなステレオタイプかもしれない)

で、タクシーには、何かと話題のBYD(中国の電気自動車メーカーの最大手)の車も走っており、初めて乗ったときはちょっと感動して思わず写真を撮ってしまった。

運転席を見ると、インパネがないに等しいくらい小さくて、その代わり、センターに無骨にディスプレイがドカンと取り付けられている。

あれ?テスラのマネでは?

なんて言ってはいけない。猿真似とか美的センスがないと言い出したなら、かつての誰かさんたちと同じになるということ。いいものはどんどんマネをして取り入れて何が悪いの?問題があれば都度、自分たちなりに改善して行けばいいじゃん。

そういう明るい発想は、年齢を重ねた人間たちからは生まれにくいのである。

 そして、僕のいるこの異国も、いつかは年齢を重ねた人々が中心となり、若手のアイデアが幅を利かせなくなり、隣の年老いてしまった島国と同じプロセスを辿るのだろう。そのプロセスは高齢化という一種の現象であり、誰に罪があるわけでもない自然災害であり、何をどう頑張ってもみんなの生活が厳しくなって行く長い苦難の道である。若手が頑張ってみんなの生活が豊かになったけど、豊かになればやっぱり子供に高いレベルの教育を受けさせたいよね、じゃあ、お金かけたいからあんまりたくさん子供は欲しくないよね、だって今の豊かな生活レベルも落としたくないしね、なんて言っているうちに始まる東アジアの定番プロセスだ。

 僕が住むマンションの向かい側に地元で最も優秀な子供たちが通う中学校があり、夕方になると校門の前の大通りには、電気自動車で迎えに来たたくさんの親御さん達が、路上で列をなして待っている。携帯電話で株の相場を見たり、これから買うマンションの情報を見たり、子供の学習塾を探したり色々だけど、教育熱心でギラギラしたそんな親たちの様子が、ちょうど僕たちが子供時代に見た様子に重なり、なるほどねぇ、なんて思うのだ。まさに僕たちが子供時代に、国の経済が最盛期を迎え(内実はともかく)、受験競争は熾烈を極めた。

時代が本当に大きく変わってしまったことを、そして同じことが東アジアで繰り返されつつあることを、日本から数千キロ離れた田舎町で、知識というより生活の肌感覚で、僕は体感し続けている。

機内食を食べながら「無限の青」を眺め、でも結局この地面にへばり付いてうたかたの命を生きて行くんだなぁと異国の地でしみじみ思ったこと

2023/05/16

 いよいよ出国することになった。いろんな意味で長い旅になりそうだ。まだまだパンデミックの影響で現地への直行便が極端に少なく、会社の指示で僕は関西国際空港でもセントレアでもなく羽田から飛ぶことになった。しかもフライトの24時間前にPCR検査を受けて陰性証明だった旨を渡航先の税関の入国システムに登録して、携帯にQRコードをダウンロードして、なんて面倒くさいったらありゃしない。去年、アセアンへ飛んだ時もさんざん面倒くさい手続きをして出張したけど、既に世界はアフターコロナとか言っているのに、まだこんな面倒なことを、と思いながら僕は粛々と手続きを進めて行った。

 羽田なんて何年ぶりだろうと懐かしい思いで駅に降り立ち、隣接してつながっているホテルにチェックインしてベッドにゴロンと横になる。

見送りに付いて来た家人は、僕のそばに座って、羽田の3つのターミナルそれぞれに入っているたくさんの料理店を検索し、さて、この人が飛び立つ前に何を食べさせてもらうか、なんて真剣そのものの眼差しで携帯をのぞき込んでいる。こんな面白い食いしん坊さんの様子も、これからはリアルでは見れなくなるんだなと思うと、ちょっと寂しくなって来た。

いいよ、いいよ、いくらでも好きなものを食べなされ。

 ところで、「日本の風景」なんて感じの写真を撮っておいて、向こうでの新しい生活が始まってから時々恋しくなったら眺めようと思ったから、実はこの数日、携帯で何枚か自分なりの写真を撮った。もちろん観光地のようなコテコテの日本の風景なんかじゃない。僕にとっての日本の風景だ。

地元の海を撮り、よく家人と行くドライブコースの山の風景を撮り、夕暮れ時の城跡の公園の小径(こみち)を撮った。そして最後にちょっと遠出して、お気に入りの寺で一枚パシャリと撮影した。

古都の古寺(聖林寺)の本堂から三輪山を望む眺望だ。静寂に包まれた空間の向こうに、はっきりと僕は日本の美しい風景を目にし、必ず無事にこの国に戻りたいと願った。僕は家人と縁側に出て、長い間、透き通るような空気に満ちたその風景を見ていた。

惜別(せきべつ)の時間はたつのが早い。見つけた空港内の料理店で食いしん坊さんのお腹を満たし、そのあとターミナルのあっちこっちにあった空弁(空港弁当)の自動販売機を見て二人で大はしゃぎしているうちに、夜になってしまって、二人で眠りに落ちたらすぐ朝だ。

朝ご飯を食べ、チェックアウトして直ぐ出たところのカウンターに向かい手続きを済ませた。

「じゃあ、行くよ」

「・・うん」

向こうに到着するのは夜中だ。きっと家人は起きているだろうから、ホテルに着いたらスカイプで少しだけでも話そう。もうちょっとあの子の顔を見ていたかったな、あぁやっぱこの瞬間は慣れないんだよなぁ・・・なんて浮かない気持ちで搭乗口へ歩いて行く。

パンデミックの影響もあり、飛行機に乗るのも1年ぶりだった。地上から機体が浮き上がった瞬間、胸の内で、さよならって言った。いつもの祈りだ。また必ずここへ戻って来る。

 なんだかんだ言って朝ご飯から結構時間がたっていて、僕は出てきた機内食を堪能することにした。当面はまっとうな日本食が食べられないから、しっかり味わっておかないとね。

ふと窓の外を見ると、雲の上に青空が広がっていた。飛行機に乗るたびに目にするいわば見慣れた風景だけど、やっぱり僕は心を打たれる。つい見とれてしまう。それは地上から人が見上げる青空の青ではなく、本来は人間の身体能力に限界があって(人は自分の身体では空を飛べない)立つことが出来ない場所から眺める、雲を突き抜けたその向こうに無限に広がっている青空の青だ。僕はそれが「無限の青」だと思っている。雲の上に行かないと見れない、宇宙へ飛び出して行く飛行士が一瞬目にする、ずうっと限りなく続いて行く青色が、窓の向こうに広がっていた。

 宇宙に飛び出して行った時に、昔の多くの飛行士たちは人生観が変わったと語った。なぜか?

今じゃ自分が一生体験出来ないような事も、YouTubeなんかの映像を見ていくらでもシミュレーションできる時代であり(実際に体験したような気になれる)、僕たちはもはやどんな映像を目にしたってなかなか「人生観が変わった」なんて体験はしにくいが、それでもこの「無限の青」を見ると、あぁこの更に上に向かって宇宙飛行士たちは飛び出していき、そこにもっともっと突き抜けた空間があって、無数の星々があって、どこまでも続いて行くその世界を目の当たりにした彼らは、「無限」とか「永遠」というコトバの意味を、きっと脳みそではなく身体で体感するのかもしれないなぁ、なんて思った。そりゃ人生観も変わるだろう。「無限」や「永遠」は、その反対側にいて地面にへばりつきながら生きて死んでいく我々人間にとって、いわば自分たちの生を逆照射する概念である。

僕たちはどうせ、一時(いっとき)は飛行機に乗ってこんな美しい無限の青の青さを眺めることが出来ても、また地面に降りて、そこでへばりついて有限の生を生きて行かなければならない。

 久しぶりに降り立った上海は予想通り蒸し暑かった。ここから更に飛行機に乗って内陸に向かう。浦東から虹橋空港へ向かうタクシーの中から、僕は外の様子を眺め、高速を並走する現地の電気自動車の群れを眺め、これからの新しい生活と仕事のことを考えていた。それからふと我に返り、家人はもう新幹線に乗って家に帰ったかな?それともまた「空弁は冷凍食品だからお家で保存できるの。だから自分のお土産に明日いくつか買って帰る」なんて言っていたから、あの後で空港ターミナルをもう一度ウロウロして楽しんで、それから帰る途中だろうか?

いかんいかん、さっそくホームシックになりそうな自分の横っ面を心の中で叩き、僕は前を向いた。

長い旅になりそうだ。でも「無限」でも「永遠」でもない、命という一瞬のうたかたの時間だけである。この異国の地で僕は、かつ消えかつ結びて、結局のところ、久しく同じ場所に留まることにもならず、またいつかあの老いた小さな国に戻るはずだ、それでは頑張らないとね。

さっき見た無限の青を思い出しながら、僕はそんなことをぼんやり考えていた。

まだスタート地点にも立っていない不安定な気持ちの一日が、こうして静かに過ぎて行く。

再びアジアの山奥へ行けと言われて慌てて準備し、いつの間にか半世紀近く生きていたので、改めてしみじみ人生を振り返ったこと

 再びアジアの山奥へ行けと言われて、家に帰ってからその旨を家人に伝え、あらびっくり、と言っているうちに、一週間もしたらまた呼び出され、ちょっと事情が変わって、アジアの山奥じゃなくて南方の海の上にある国に行けと言われたので、家に帰ってからその旨を改めて伝え、あらそれまたびっくり、と言っているうちに、さらに一週間したらまた呼び出され、やっぱりアジアの山奥へ行けと言われた。

話が二転三転するからもう家人はびっくりしない。要するにまた貴方はノートPCのディスプレイの向こうに行くのね、とこちらを見ないで言っている。

ウン、ごめん、Skypeで話すにも何かとノートでは持ち運びに不便だろうから、タブレットを買ってくるよ、もし自治会とかでタチの悪い連中に君が絡(から)まれても大丈夫、そのタブレットを取り出しな。僕が「タブレットおじさん」として画面の向こうからちゃんと言ってやるよ。

「情報収集にはやっぱり紙に文字が書いてある回覧板が大切だとか、無償労働でゴミ当番しろとか、どうせ十数年でアンタたちが施設に入る頃には、全部それらはなくなって廃止か外部委託されているのだから、我々の世代にあんまり面倒をかけさせないで欲しい。すでにこんなに税金を納めているのに、フレックスを使ってゴミ当番してから働きに行けとかマジで許して。どうせ僕たちがアンタたちの年齢になる頃には、下の世代にそんな類(たぐい)の自分たちの要望を出したって、はぁ?って言われるだけなのだから」

ウン、この国(自治会)の主権者(権力者)たちに毅然と僕がそう言ってやるから安心して、なんて話を逸らしてみたが、無理な話だった。そんなに甘くはない。

やっぱり家人は向こうを向いている。

 という具合に時間がたち、会社では業務の引継ぎも終わらせ、ビザ取得のための健康診断、書類の提出、手続きの為の出張とかやっているうちにゴールデンウィークとなり、それが明けたらフライトすることになってしまった。あっという間だ。この数カ月、土日のたびに買い物とか荷物の取りまとめとか準備していたから、二人で旅行に行ってゆっくり話す時間もなく、もう来週には行かなければいけない。

ご機嫌をなんとか直して頂きたいのですが・・・

「どこか旅行に行こうか?」

 僕は去年のゴールデンウィークを思い出していた。確か夜中に気まぐれにドライブを始め、そのまま行き当たりばったりで諏訪湖まで行って、諏訪湖の湖面の美しい朝の光景を見ながら車で居眠りをしたっけ?家人は助手席でお菓子を食べながら、コンビニで買ったマンガを上機嫌で読んでいた。ずっと笑っていた。そしてそのまま白馬へ行ってやはり美しい風景を二人で眺め、嬬恋へ向かった。

楽しかったなぁ。

「今年はどこも人だらけだからいい。遠くには行きたくない」

ということで、僕たちはゴールデンウィークの真っただ中に近所でランチを食べ、すぐ近くの海へ散歩に行くことにした。本当に普通の休日の普通の過ごし方だ。が、それがもう貴重な時間になってしまった。

青い海と青い空が重なる光景が好きだ。

僕はこの海を見て子供時代を過ごし、ここで育ち、思春期になってこの海があるこの町の中途半端な地方都市ぶりに怒りを覚え、大学から東京へ飛び出して行き、東京で働き、果てしない上の世界と、果てしない下の世界があることを体感して、若者なりに世界の広さ(=自分の小ささ)を知り、そのあと父親が死んで、またここへ帰って来た。

そして今から行くのは海からは千数百km以上離れた内陸の、海のない異国の街だ。

 僕は家人と手をつなぎ、5月の気持ちのいい風を受けてゆっくり浜辺を歩いている。海は荒ぶるときこそ真っ黒になって牙を剥くけど、晴れた天気の良い日には、穏やかな表情で迎え入れ、僕たちを包み込んでくれる。

 4歳の自分。従兄弟たちと一緒に泳いでいる。季節がお盆近くになっているから既に波は高い。一瞬、溺れかかった僕の腕を、父親の大きな手がしっかり握りしめ、水中からまた夏空の広がる地上へと引っ張り上げてくれる。あの時、ものすごい力の波に引きずり込まれながら、死ぬってこういうこと?って感じた生まれて初めての瞬間だった。僕の腕を持ち上げた父親は、大きく笑いながらそのまま僕を背中に乗せて、浜辺へゆっくり歩いて行く。海辺には貝を焼く醤油の焦げた匂いが広がっている。

 11歳の自分。明け方に兄貴といっしょに冷たい冷たいと言いながら、腰まで海に浸かって足踏みしている。カレイの稚魚を採りに来たのだ。こうやって水中で足踏みしているうちに、やがてどちらかの足がヌルっとしたものを踏む。僕は兄貴に目配せし、兄貴は水中に潜って僕の足の裏にいるカレイの稚魚を手づかみし、取り上げ、持ってきたバケツに入れる。稚魚は母親の手でそのまま唐揚げにされるか、朝食の味噌汁に入れられることもあった。兄弟はそのまま日が昇るまで採り続け、バケツの底が見えないくらいになったら両親の待つ家に帰って行く。

 14歳の自分。学ランを着たまま、幼馴染と待ち合わしている。自分も幼馴染もどんどん変わって行く自分の体と心に戸惑い、興奮し、コントロールできず、会えば延々と終わらない話を冷たい海風に吹かれながら堤防の上で喋っている。自分たちが何をしているか分かっておらず、世界がどんな風な仕組みで動いているかも分かっておらず、ただ込み上げる欲動に振り回され続け、だからこそごく普通に思春期をやっている。

 17歳の自分。一人で海を見ている。誰とも話したくなく、怒りに包まれ生きている。世界がどんな風な仕組みで動いているか、自分の恐ろしく狭い視野の中で考え抜き、考え抜いて見えて来た世界は恐ろしく狭い現実の一部でしかないのだけど、それが世界の全てだと思い込んで怒りを感じ、その中で生きて行くことに怒りを感じ、海を見ている。目の前に映る海の光景が美しかろうと、天気が悪くて荒れ狂っていようと、あまり関係はない。怒りの檻(おり)の中にいるから、外の風景は同じにしか見えていない。地方都市にいがちでありきたりな進学校の学生の一人だ。

 25歳の自分。そこは育った町の海ではなく、都心から車で数時間、車を走らせてやってきたリゾート地だ。若者にとっては厳しい時代を生きているけど、休日は思い切り楽しめばいい。ちょっとだけお金も持ち始め、心も体もクライマックスの時期だ。柄にもなく流行りのスタイルをちょっとだけ取り入れたラフな格好をして、格好をつけてビーチに置かれた白い椅子に深々と腰かけ煙草を吸っている。要するに無敵の時期だ。疲れを知らず、疲れたらいくらでも眠れる。夜の浜辺で酒を友達と飲んで大騒ぎし、コントロールし切った自分の心と体を使って、心と体の快楽を思い切り楽しんでいる。

 31歳の自分。また一人で海を見ている。またこの海だ。育った町の海だ。朝から母親が祖母のいる施設へ見舞いに行くのに車で送ってあげ、実家へ帰して、そのあと一人で自分のアパートに帰る途中、なんとなくやって来た海だ。缶コーヒーを飲みながら、ゆっくり秋の浜辺を歩いている。高い空とまだら模様の雲が頭上いっぱいに広がり、若くもなく、年寄りでもない僕は、何も考えず、未来も想像せず、想像したいとも思わず、心を閉じて歩いている。

 35歳の自分。家人と手をつないで白い砂浜を歩いている。家人はずっとこっちを見て笑っている。よく笑う人だ。そして僕はこの人の声が大好きだ。もう一度開いた自分の心で僕はこの人と向き合い、手をつなぎ、青い海を眺め、もう一度未来を想像し始めている。買い換えたばかりのガラケーで撮影した家人の笑顔の向こうに、春の生ぬるい風が漂う白い海が映っている。

 40歳の自分。この海で家人と浜辺に座り、花火を見ている。周りも人でぎっしりだけど、僕たちは夕方にはここへ来て一番よく見える場所を取ってあったから、最高のポイントから花火見物を楽しめる。家人はさっき出店で買ってきてあげたブルーハワイのかき氷を食べつつ、時々びっくりするくらい大きく開く花火に歓声を上げ、こっちを見て笑う。最初の海外赴任から帰って来てまた一緒に生活を始め、漸く新婚時代を取り戻すかのように始まった日々の最初の頃の話だ。すっかり中年になった僕は、家人の背中と、夜空に広がる花火の光の渦を眺めながら、これから始まる私生活の楽しみと、平日の仕事の難しさを思い出し、やっぱり未来を想像している。

 もうすっかり年を取って中年どころか老境の入り口に入ろうとしかかっている自分が、人生100年だなんて悪夢のような話だけど、そしてたいていはピンピンコロリと逝けないみたいだけど、最後の最後まで時代の波に飲まれ、もがき、生き残り、大切な人たちを支え、そう、支え続けて行かなければ行けない。

年をとって体力がなくなったとか、もう目が見えにくいとか、腰が痛いなんて言っていられないし、そんなことは許されない時代に入って行くのである。そんなのが許されたのはこの国の歴史上、奇跡のように世の中が繫栄し、一瞬、貴族階級の世代(回覧板の人たち)が発生した一瞬でしかない。歴史はまた元に戻って行くのだ。

80年前に少年だからと言って許してもらえず戦場に駆り出され人が死んで行ったように、今度は年寄りだからと言って許してもらえず最後まで戦場に駆り出され僕たちは死んで行く。だから頑張って働かないとね。

なんてテキトーな話をして海辺で散歩しながらなだめてみたけど、家人のご機嫌は直らなかった。海の向こうを見ている。

 ところで、我々人間が海に惹かれるのには科学的根拠があるらしい。そもそも我々を含め生命は海で生まれたし、我々人間の体を構成する成分と海の成分はよく似ていて、胎児の頃に我々が浸かっていた羊水の成分は海水の成分とほぼ同じ、それから、海の青さを見た時には、我々の脳みそはセロトニンを分泌するので、自然にリラックスできるとのこと。

なるほどね。どおりでついついここへ来てしまう訳だ。

これまでの人生を振り返り、その折々(おりおり)の気持ちの中で、幸せだろうと不幸だろうとそのどちらでもなかろうと、僕は海を見に来ていたんだなと思った。そしてその青さを見ているうちに、僕はまだ無事に生き延びており、普通に生きて来られ、普通の人生をいろいろ味わせてもらえたなぁ、なんて急に感謝の気持ちでいっぱいになって来た。僕の人生に関わってくれたみんなに対して、感謝の気持ちでいっぱいだ。

ありがとう。

どうも国を離れる時は、感傷的になっていけない。

「あのね、画面越しだけでは嫌だから、やっぱりしょっちゅう会いに行くことにした」

「あぁ、遊びに来るんだね」

「うん、タブレットおじさんだけではダメ」

「分かった」

夫婦の他愛もない会話である。家人がようやくこっちを見て笑ってくれた。そして今も未来を想像している自分の境遇と、そうさせてくれたこの人に感謝だ。

ありがとう。そしてこれからも宜しくね。また必ずこの海に来て二人で真っ青な海と空を眺め、一緒に手をつなぎ散歩しよう。

素敵な休日だった。僕たちは手をつないで砂浜を歩き続けた。

生まれて半世紀近くになり始めたロストジェネレーションの一人が、もうすぐ国を離れる。

ここはまだ、頭上いっぱいに青空が広がった海の見える、僕の故郷(ふるさと)だ。

映画「PLAN75」を観て、病院食のちらし寿司を食べながら1+1が明るく10,000に化ければいいのになって気まぐれで思ったこと

 「PLAN75」という映画をAmazonプライムで観た。

75歳以上になったら、特に健康上の理由がなくても、希望すれば安楽死を選択できるという、国の制度の話だ。

 もちろんフィクションであり、ある種のファンタジーだけど、予告編を見た時は、これってセンセーショナルな話となり、国会とかで取り上げられ、学校教育の場でも取り上げられ、なんて僕はちょっと考えていたが、実際には、国会と言えばAmazonプライムで観れるようになった今だって、1回も出席せずにクビになった人がどっかの国から帰って来るとか来ないとかの話くらいしかなく、この作品が教育現場に持ち込まれて議論されるといった事もこれまでなかったみたいだ。

「なんだか現実に十分にありそうで、怖いよね、世の中、ますます世知(せち)辛くなって来たしね」

ということで、終了である。

というのに驚いた。

なんだぁ、結構、みんなもう諦めムードなのかな?

食い詰め老人なんて僕たちの時代には半数くらいはそうなってそうだから、ウン、もう命の尊厳なんて言っている場合じゃなくて、とっとと合法的に処理しちゃいましょう、という世の中が来るのは、僕たちは若い頃から想像し、覚悟していた。「どうせ自分たちが老人になった頃には世の中そうなるぜ」ってみんなが覚悟していたから、今さらそんな映画を観たって、だよね、で終了なのかもしれない。

 一方で、既に老人となっている人たちは、もしこれを見ても、その頃には自分たちは逃げ切った後の話だから、「これからの人たちは、年をとってからも、本当に大変だわねぇ」で終了なのかもしれない。(病院の待合室でよく聞く言葉だ)

 さらに一方で、その頃には社会の中心となっていて(中年になっていて)、「処理する側」となる今の若者たちは、この映画を観て「なんだか面倒くせぇなぁ、散々食い散らかして、食い散らかされた後のゴミの山を、将来、俺たちが金払って処分するのかよ」って、ウンザリしているのかもしれない。

という殺伐とした状況にあって、あっさりこの作品はスルーされて行くのかもしれない。

というのに驚いた。

自分の感覚がすっかりズレてしまっているのだろうか?

 人生は厳しく、みじめさの中でだらだらと生きねばならないなら、自らの意思で死を選択したい、なんて普通の話だ。そして世の中は需要と供給の調整で出来ており、需要が高まれば、そいういう選択をサポートする制度やサービスが生まれ、それを法的にも担保し、倫理的にも裏打ちする世論が出来上がるのだって、自然の流れだろう。

 が、人間の不合理さとか気まぐれを、我々は本当に理解できているだろうか?

 そんな覚悟がある?

 長い夜が明けて現れた朝の日の光を見た瞬間、どんな苦しい状況にあろうと、そしてそれがこれからも続いて行く状況であろうと、「まだ生きよう」と力が湧いてくるあの不合理さを、つまり、単に朝の太陽を見たという事実だけなのに、生きる意味がまた新しく立ち現れる不思議さを、或いは、たった一人の身内の死体を見た時、その無念を晴らす為に、それまで築いて来たあらゆるものを投げ捨てて相手を殺せてしまえる強固な狂気を、つまり、単に一個の息をしない有機物を見たという事実だけなのに、なんの痛みも罪悪感も恐怖も感じず復讐すべき相手の腹にナイフを突き立ててしまえる、そんな人間という生き物の気まぐれを、僕たちは本当に理解しているのだろうか?

 人間の不合理さや不思議さは、自然の流れに逆らい、気まぐれに世の中を大きく変えて来たのである。それとも無機質なネット社会の延長にあって、もはや1+1=2でしかなく、このまま老人となって行く僕たちは、生産性の低いゴミとして焼却されて行くのだろうか?1+1=10,000とかにはならない?

 なんてな事を考えているうちに、会社では期末決算に向けた地獄のような資料作成と、部下の評価面談、今年度の振り返りと来年度の組織目標策定と報告、なんて毎晩深夜まで働いて、大丈夫、管理職は年俸制で組合なんて関係なく残業し放題だから、という具合にあっという間に1か月が過ぎて行ってしまった。

僕たちはこうやって忙しさの中で生を忘れ、死を忘れ、ある日突然、宣告を受け、病院のエントランスを後にしながら「マジかぁ、死ぬのかぁ、あっという間だったなぁ、何十年も生きたけど、結局何だかよく分かんなかったなぁ、とにかく痛いのは嫌だなぁ」なんて思うのかもしれない。

 20年以上前、学生時代に銀座の映画館にわざわざ行って「セブン」という映画を観た時、まぁ銀座で観るような映画でもなかったが、主人公のサマセット刑事がエンディングのナレーションで語った次の言葉が印象に残ったのを覚えている。

ヘミングウェイはかつて書いた。”この世は素晴らしい。戦う価値がある”と。後半には賛成だ」

そりゃ素晴らしいなんて言えるほどこの世はお花畑ではない。が、戦う価値がある、というコトバは、未来のある若者の心には刺さったのだ。平凡な話である。そう、「それでも戦う価値がある」という意味は、1+1=2の世界を人間の愛と尊厳で、なんとか1+1=10,000にするんだ、そこに人間という特別な生き物が存在する意味があるんだ、という西洋の神様から生まれた発想である。

そしてその反対側にあるのが方丈記の無常観だ。「世の中、1+1=2だよ。どうせね。それでいいじゃん」という発想である。かつて若者だった男が年齢を重ね、未来の時間がだんだん少なくなり、結局1+1=10,000に出来なかったけど、結構いろいろあって楽しかったな、最近、体のあっちこっちにガタが来てるし、涙もろくなったし、通勤途中の沿道にポツリと離れて咲いた桜の花につい感動しちゃうんだよな、なんてオジサンになると、「それでいいじゃん」に傾いて行くのである。

 で、「PLAN75」だ。

自身の命も含め、不必要なものを誰も傷つけずに処理するのは「それでいいじゃん」という1+1=2の発想だ。一方で、いやいや違うでしょ、そんなんじゃ人間の愛と尊厳の意味がないでしょ、あり得なくない?という怒りは、それでも1+1=10,000にして見せる、というサマセット刑事の静かな怒りの境地である。

そして、この映画の主人公のように、1+1=2なんだし、自然の流れでPLAN75に申し込んで、とっとと死なせてもらおうと思ったけど、やっぱり何だか違うなって思って逃げ出して、だからって1+1=10,000なんかにならないのは知っているし、もはや「価値がある」なんて戦ってみせるだけの力は残ってないけど、目の前に映る朝焼けがあまりにも美しく、山の空気は新鮮で美味しく、世界がこんなに美しく見えるから、とりあえず生きよう、という気まぐれの力が、僕たちの生の根本にあるのでは?という事である。

そう、だから、僕たちは、人間の不合理さとか気まぐれを本当に理解できているだろうか?と思うのだ。

 ところで、病院の話になったのでついでに、、、簡単な外科手術をするために数日だけ入院した。

初めての入院だったし、簡単な外科手術だから遠足気分だ。不謹慎極まりない話である。

ヨシ、買っただけで読んでいない本をこの機に読むぞって張り切って持って行ったら、入院手続きを済ませるや否やすぐに会社から電話がかかって来た。うなだれるように「念のため」持ってきたモバイルを開け、そのあとなんだかんだ言ってTeamsで会議が始まり、対応に巻き込まれ、病室から電話で指示を出し、あっという間に夕方になってしまった。チェッ、明日の手術を控え、もっと自分一人の時間を楽しみたかったのに・・・

でも夕方は、お待ちかね、初めて食べる「病院食」だ。

えっ?ちらし寿司って、「病院食」のイメージと全然違うんだけど・・・もっと何か質素でいかにも病院食って感じを想像していたので、面食らってしまったけど、あぁ、そうか、簡単な外科手術ならそんなカンジの食事でなくてもいいからか、ってそういう状況(大変な思いをしている患者の方々がたくさんいるのに)に感謝をしなければ、と急に神妙な面持ちで食べ始める。ここは病院なのに僕は不謹慎過ぎた。反省しないと。

でも美味しい!味噌汁も美味しい!

きっと、最後に残るのは生理的欲求だけである。ご飯が美味しいと少しでも感じられるだけの身体の機能が残っていたら、人はなかなか死ねないだろう。でも、それさえ無くなったとしても、窓の外の美しい風景を一目見ただけで、まだ生きたいと思うかもしれない。

そんな人間の生への執着と不思議さを、僕はずっと考えている。

「PLAN75」のプランとは勿論、計画のことだ。

計画だって?

人間が計画的に生や死を営んでいるとか、経済活動をやっているとか、歴史を切り開いているとか、本気でそう思うなら、何も見えずに人生を歩いているのでは?と思うのである。

計画だって?

我々はそんな合理的な生き物?

この作品の主人公が見ていた朝焼けが、僕の脳裏にまだ焼き付いている。それはいつか自分が見るかもしれない、死を前にした時の、絶望的で崇高で、不思議な光景である。

映画「ドライブ・マイ・カー」を観て駐車場バイトをしていた頃の青春の日々を思い出し、大切な人と気持ちを共有するって何か考えたこと

 学生の頃、駐車場バイトというのをやっていて、マンションの機械式駐車場の受付をする仕事だった。駐車場はもちろんマンションの住人も使えるが、外部からやって来る客もいるので、そんな外部からやって来る客の乗りつけた車を、中に誘導したり、ターンテーブルを操作して車の向きを回転させたり、駐車代を受け取ったりする仕事だ。

 その仕事場は横浜の日吉にあったので、場所柄、ハイソな(ハイソサエティの略です。ハイソックスの略ではありません。昭和生まれなので・・・)客が多く、近くにたくさんお受験向けの塾があった事もあり、子供の英才教育をやっている教育ママが、子供を外車に乗せて連れて来ることが多かった。

 乗りつけたそんなマダムたち(たいてい美人)が運転席から降りると、制服を着た僕が駐車カード渡しに行く。あとはお子様と手をつないで歩いて行くのを頭を下げて見送り、数時間後、お受験の為のお勉強が終わって帰ってきたら、お金を受け取った後、操作パネルを使って車を呼び出し、バックで出て来た車をターンテーブルで回転させて向きを変え、やはり頭を下げて走り去るのを見送るのだ。

 とんでもない額の月謝を払って、子供にお受験の為の塾に通わせるような家の人たちだ。車はベンツとかBMWとかポルシェが多かった。世の中は、お金があるところにはあるのである。僕は当時から車が好きだったから、ターンテーブルを回しながら、やっぱ高級車は全然フォルムが違うなぁなんて、ため息をついて見ていたものである。20歳の頃の話だ。

 そんなマダムたちの中に、サーブで子供を乗せてやって来る人がいた。その親子自体は別に他のブルジョワ親子たちと違いがなかったが、車がサーブだった。しかも900ターボの3ドアだ。僕はこのスウェーデン生まれの車が大好きだった。後ろ姿が本当に美しく、シンプルだけど個性的で力強いテールランプの形が、なおさらその後部の曲線の美しさを引き立たせていた。一介の若造ながら、いつかあんなセクシーなハッチバックに乗るぞ!と考えていたものである。

 それからそんな事もすっかり忘れて、四半世紀がたち、普通の国産車に乗って普通のサラリーマンになって、普通に家でAmazonプライムを見ていたら、「ドライブ・マイ・カー」という映画で、その美しい車を見ることが出来た。赤い美しい車だ。数十年前に僕が見ていたサーブは黒だったけど、そうそう、この車はこんな感じの後ろ姿で、そんな感じのエンジン音だったぞ、って当時を思い出し、すっかり興奮してしまった。またしても作品の中身ではなく、ディティールであれこれ思い出し、あれこれ考えだすという悪い癖が出始めた。いかんいかん、ストーリーに集中しなきゃ。

 「ドライブ・マイ・カー」は世界中で賞をとっており、カンヌでも脚本賞を受賞したとのこと。なるほど、そうなんだ。村上春樹が原作というこの作品の中で、登場人物が粛々と物語を展開させて行く。

 主人公の家福(かふく)の「僕は正しく傷つくべきだった」のコトバが作品の全てを語っており、みんなきっと、う~んってそれぞれ思い当たる節(ふし)があるんだろうな、観終わったあと、そんな事を考えて映画館を後にしたんだろなって思った。悲しみとか怒りとか、激しい感情や思いは、時には大切な人とアウトプットして共有しなければ、器用さだけでは乗り切れず、結局のところ関係が破綻する。そんな経験はみんなしているのだろう。家福と妻との会話は、常に適切な距離感で適切な言葉が選ばれ、感じよく取り交わされ続けている。が、それは適切であればあるほど、決して本当の意味では、互いに心の奥底にある情念とか思いを共有することが出来ない、ある一定の場所からは重なり合う事ができない、という意味になる。残るのは孤独感のみだ。家福は孤独だったかもしれないけど、妻はもっと孤独だったのである。そんな風に解釈してみた。

いわば、若くもなく老人でもない中年期の人々が陥る、悲しみに対する一種の反応なのかもしれない。

 例えば若いカップルの場合を考えてみる。大恋愛の挙句、二人は一緒に暮し始め、そのうち倦怠期という悪魔がやって来て、何となく、何にも感じなくなる。しかも身勝手な話で、自分だって相手に飽きているくせに、相手が自分に飽きている様子、つまり、こちらに向けられる表情、会話の仕方、食事中の沈黙に滲み出る全ての面倒くさそうな相手の様子が、ひどく自分の心に刺さり、傷つくのだ。が、正面切って、

「なんかその・・・そうやって面倒くさそうにされると、ひどく辛い気持ちになるんだ・・」

なんて悲しそうな顔をしてフツーは言わない。

「なんだよその態度。面倒くさそうにしちゃってさ。こっちだってウンザリしながらやってるんだから、お互い様じゃない?」

戦おうとするのだ。優しく自分が傷ついていることを伝える、なんて奥ゆかしさはないし、そもそもそんな「傷ついている」なんてこっ恥ずかしくて認めたくないし、というか、こっちだって相手に対して面倒くさいなって思っているし、じゃあ、一方的にそんな態度を取られる覚えはないよね?なんて、泥沼にハマって行くのである。

この戦おうとする反応、ちっぽけなプライドとか負けず嫌いな気持ちに基づく歪(いびつ)な反応もまた、正しく傷つけなかった悲劇の一つだ。

「じゃあもういいよ。お互いそんな無理してるんだったらさ、付き合っている意味なくない?別れよう」

若しくは、そこまで直情的なタイプではなく、むしろ屈折したタイプなら、傷ついていることを相手に伝えながら、結局は関係を破綻させるかもしれない。

「あのね、君は本当に大好きな人なんだけど、だから尚更、こんな風にお互いに飽き飽きしてるのに、無理して関係を続けてくれているカンジがとても辛いんだ。君は優しい人だからね。でも僕たちはもう別れた方がいいと思う」

ハイ、若者たちだって、正しく傷つき、感情や思いを大切な人とアウトプットして共有できなければ、結局のところ関係が破綻するのです。

 それが中年期となると、倦怠期とか飽きたとか、そんなのはもうすっかり慣れっこで、お互いが器用に対応出来るようになる。全然関心がなくったって大丈夫。ウン、ウン、なるほどねって相槌(あいずち)を打って、きちんと相手の話を傾聴(けいちょう)しているフリをし、しかも時々は軽く質問したりして本当は全然聞いていないことが、やりとりに滲み出ないようにこなせる。一方、話している相手も、コイツ本当はなんにも聞いてないだろ、なんて分かっていても、大丈夫、犬とか猫を相手に喋っていても、とにかく聞いてくれる相手がいればスッキリするんだから、問題は無し、なんて喋り続け、大人の対応が出来るのだ。

が一方で、中年期は、若者だったころとは違う、決して逃げられない、もっと大きくて深い悲しみを背負うことも多い。子供の死であったり、自身の病気であったり、両親の介護であったり、もっとずっと深いところで傷つく場面に出くわすのだ。

そんな時、器用さで乗り切ろうしても、関係は破綻する。やはり、大切な人にはしっかりその悲しさを伝えるべきなのだ。それはコトバにしなくてもいい。二人で向かい合って、黙って食事をしているうちに、箸が止まり、静かに涙を流し、嗚咽(おえつ)が始まるかもしれない。そんな時、相手が立ち上がって泣いている自分の背中をさすり始め、肩を抱きしめ、一緒に泣いてくれるかもしれない。逆もまた然りだ。激しい感情や思いは、時には大切な人とアウトプットして、共有しなければいけないのである。それはお互い様である。人生という悲しみの連続の中で、共に傷つき乗り越えることが出来るなら、二人は戦友として穏やかな老人になれるだろう。

だから、中年期に襲う大きな悲しみに対しては、強い意志で心を閉ざしたりなんかせず、或いは、器用さの中で何もなかったかのように振舞って時間がたつのを待ったりなんかせず、自分の大切な人に「悲しい」と伝えればいいのである。でもそんな単純なことが、我々にとってどれだけ難しいことか。なまじ人生経験があって器用さを身に着けてしまった我々だからこそ、それは難しいのである。

◎楽しさの感情の共有

そんなの簡単だ。

「何、もう旅行の用意しているの?」

「うん、だって来週には出発でしょ。少しずつ準備しておかなきゃ」

向こうは寒いのかな?もっと暖かい服装の方がいい?なんてやっているうちに、もう一度「じゃらん」を覗き込んで、やっぱり旅行先ではココにも立ち寄って欲しいなんて甘えて来る。それをニコニコ眺めて、自分もウキウキし始める。

怒りの感情の共有

これはひたすら大切な人の味方になることが重要だ。正しさとか妥当性とかをもって、客観的なジャッジをしていけない。ただただ同意するのです。

「本当に腹が立つのよ、その人。どう思う?」

「うん、確かにそいつはサイテーだな」

「でしょ。せっかくこっちは親切に言ってあげたのに、そんな態度ある?」

「まぁ、そんな奴もいるんだよ」

「私は間違ってないでしょ?」

「うん、もちろん、君は全然悪くないよ」

苦しさの感情の共有

これは慎重に対応しなければいけない。一緒に苦しんでしまうと、一緒に鬱々と落ち込んでしまって、一緒にメンタルをやられかねない。

「もう耐えられなくて・・・なんでこんなビクビク怯えながら働かなきゃいけないのかって思うし、でも、ひょっとすると私が駄目なのかなって思うし・・・」

「まぁ、とりあえず着替えなよ。メシ作ってやるからさ、何か好きなもの言いなよ」

「でも冷蔵庫に何にもないよ」

「じゃあ今からスーパーへ食材を買いに行く」

「えー・・今からまた出るの?・・私このまま寝たいんだけど。胃が痛くて何にも食べたくないし」

「ハイハイ一緒に行くよ。食いたいもの考えながら歩こう。体を動かしているうちにお腹も空いてくるから」

繋いだ手を握り締め、外へ一緒に飛び出して行く。苦しい時って口から出て来るコトバは全部ネガティブな毒だから、たくさん外へ吐き出してもらってそれ見ているだけでいい。そして何より一緒に身体を動かすこと。

悲しみの感情の共有

これはコトバも身体の動きもいらない。一緒に佇(たたず)めばいいのである。というか、一緒に佇むしかない。前述の通りだ。そして一緒に佇むから、安心して「悲しい」と伝えてくれればいい。逆に、迷惑かもしれないけど、ここで僕はわんわん大声をあげて泣くから、そばにいてくれればいい。そのあと、暖かいお風呂に入って、一緒にご飯を食べに行こう。

哀しみの感情の共有

「悲しみ」は生きることを前提にしているけど、「哀しみ」はいずれ命がなくなる人間の宿命を前提にしている。だからまだ僕には未知の世界だ。が、いつかもし大切な配偶者を失くした時、もし子供に先立たれた時、もし命の絶対的な儚さと空しさを目の前に叩きつけられた時、僕はまた誰か大切な人とその「哀しみ」を共有できるのだろうか?

もはやその頃には独りぼっちの老人になっていて、大切な人なんていないし、いる必要もないし、どこかの施設で自身の死を待つのみならば、誰かと感情を共有などせず、静かに窓の外を見て心を閉ざし続けるのだろうか?

 

 ところで、あんまりサーブが懐かしいので、ネットで調べていたら900ターボのミニカーを見つけてしまった。しかも本格的な大人向けの高級ミニカーだ。つい衝動買いしてしまったけど、もちろんその値段を家人と共有する根性はない。が、あんまりにも気に入ってしまって、箱から取り出しもせず、ニヤニヤ箱を眺めてお酒を飲んでいる。家族から見れば、さぞ不気味な様子なんだろう。でも、絵や写真だけで、本当に美しい車なのだ。

 20歳だった僕は、走り去って行くサーブの美しい後ろ姿を見送りながら、あの懐かしい夏の光の中にいる。まだ「悲しみ」も「哀しみ」も知らない楽しい馬鹿騒ぎの日々を暮らし、いつかあんな高級車に乗って颯爽(さっそう)と走り出してみせるぞ、なんて夢を見ている一人の若者だ。

 そう、大切な人と一緒にいるには、もちろん楽しいとか気持ちいいとか、要するに幸せな思いを一緒に共有する事が大切だけど、それ以上に、苦しいとか悲しいとか哀しいとか、人生の痛みを共有出来なければ、いずれ心は離れて行ってしまうということ、そんな事を全然知りもしなかったあの若かった頃の無邪気な自分を、ふと思い出してみるのだ。

飛鳥鍋を食べて古墳の周りを散歩しながら、「気まぐれ」の歴史に思いを馳せたこと

 明日香村へ飛鳥鍋を食べに行った。その土地で古来から食されて来た牛乳の鍋である。

毎年冬になるとソワソワして、「飛鳥鍋を食べたいねぇ」なんて休日の何気ない会話が始まる。そして家人を乗せてビュンと車で走って食べに行くことになる。

 その日は良く晴れていて、変な言い方だけど「飛鳥日和」だった。古墳群の向こうに高くて澄み渡った冬の青空が広がっている。

飛鳥鍋はまさに飛鳥時代、唐の渡来人から伝わった。「牛乳」と「鶏料理」が混ざって土着化し、今の姿になったらしい。要するに大陸から持ち込まれた新しい食文化だったとのこと。渡来人たちは生活を便利にする技術や、人を効率的に殺す武器づくりの技術だけでなく、美味しい料理という平和的な食文化もこの国に持ってきてくれた、ということになる。

この飛鳥鍋だが、牛乳のこってり感が鶏肉とよく合う。チーズと鶏肉の相性がぴったりなことを考えると、当たり前と言えば当たり前だけど、ダシのきいた牛乳に浸かったほろほろの鶏肉が、口の中で絶妙に調和しながら崩れ、本当に美味しく、なるほど、そりゃ1000年以上も昔からみんなに食べられて来た訳だ、なんて改めて思った。最近では観光客向けに、牛肉や魚の白身、果てはキムチなんかも入った飛鳥鍋があるみたいだけど、僕はやっぱりオーソドックスな鶏肉の鍋が一番好きだ。

 お腹がいっぱいになったので、青空の下をぷらぷら歩くことにした。

風もなく、穏やかな一日である。これまでもう何度も訪問しているけど、やっぱり定番だよね、ということで、石舞台古墳を見に行った。ただ巨石を積んだだけの墓だが、直接触れられるし中にも入れるし、なんせあの蘇我馬子の墓だから、子供の頃に初めて行った時はひどく興奮した。この中に馬子が眠っていたんだと思うと、ちょっと恐ろしかったけど、子供ながらに遥か悠久の昔に思いをめぐらせ、とても感動したのを覚えている。

僕たちは入場券を買って、枯れ木の小道を通り抜けた。巨石は相変わらず、丘の上に静かに鎮座し続けていた。美しい場所である。

蘇我一族が飛躍したのは、飛鳥鍋の文化をもたらした(厳密には牛乳を飲んだり鶏肉を食べたりする文化を持ち込んだ)渡来人たちを活用したからである。新しい技術を積極的に取り入れ、仏教という新しい文化の流布に力を入れた。一方で古きものにこだわり続けたライバルの物部氏は滅び、ライバルのいなくなった蘇我はしばらくの間はこの世の春を謳歌出来た。

 新しいものを取り入れた権力者が時代の先駆けをするというのは、例えば鉄砲の威力にいち早く目を付けた信長とかをすぐに思い出すが、それまでの既成概念を破った彼らの柔軟さが時代を切り開いた、なんて歴史家の説明はもっともらしいけど、そんなのは結果論でしかないだろう。歴史に埋もれて行っただけで、その時々に応じて新しいものに飛びついた野心家はこれまでたくさんいただろうが、それが仮にどんなに合理的であったとしても結果的に歴史の表舞台に立てなかった場合、そのまま人々から忘れ去られ、評価されることもなかったはずだ。新しいものが時代を作るのではなく、「特定の」新しいものがその時代の人々に受け入れられ、次の時代へと導いて行くのである。そして結果的に評価されているに過ぎない。

「なんか蘇我の領民たちが使っている鍬(くわ)って、すんごいらしいよ」

「何がすんごいの?」

「むっちゃ荒れ地を耕せるらしいよ」

「なんで?」

「先っちょについてる固いの(鉄)が、その、すんごい固いんだって」

「へ~、そうなの?」

「うん、蘇我の領民はタダでその鍬を使ってもいいんだって」

「へ~、羨ましいなぁ。俺たちも蘇我の領民にしてもらう?」

なんておバカな空想は結果論的な説明にしか過ぎない。例えば、当時はまだまだ異国の信仰だった仏教に初めて触れた時、人々は何を感じたのだろうか?金ピカの仏像を見て、何を考えたのか?

「いやいや、あんな人いないでしょ」

「でも大昔にいたらしいよ」

「あんな金ピカだったの?」

「それは分からん。でもきっと有難い姿だったんだろね」

「で、なんか我々にしてくれるの?」

「いやいや、神様とかじゃないから、そういうのじゃない」

「何にもしてくれないの?」

「いやいや、きっと何かはしてくれるんだよ」

「何を?」

「サトリとか言っていたけど、俺にもよく分からん」

「で、なんで金ピカなの?」

人々は何かよく分からないけど、その新しさに惹きつけられ、少しずつ受け入れ、その新しさを利用した権力者が時代の最先端に立つことが出来た。何かよく分からない、というのは、要するに特定の新しいものが「気まぐれ」に受け入れられた、ということだ。「気まぐれ」が人々の生を次の時代へと繋いで行ったのである。

この「気まぐれ」がこの世界やその中にいる我々にとってどれほど重要な構成要素であるか、量子力学の世界をほんのちょっと垣間見るだけで、なんとなく腹落ちするのだ。とんでもなく頭のいい人々が物理の研究を極め、極められたものを次の世代のこれまたとんでもなく頭のいい人々が更に極め、いわば世界の頭脳たちが極め続けて100年以上たった結果、「ウ~ン、我々の認識できる物理法則では成り立たない動きが、宇宙の最小単位の構成要素になってるかも」という、結局のところ「気まぐれ」が我々の世界を支配しているかのような結論になっている。世界から法則性を抜き出すことに躍起になった挙句、法則性が成り立たないのが世界かも、なんてアイロニーが結論なのである。

 なお、生物の進化でもこの「気まぐれ」は登場する。突然変異と自然淘汰なんて古臭い話を持ち出すまでもなく、生き物はきっと「気まぐれ」に進化して来たのだ。突然変わった奴が出て来て環境の変化に強かった、そいつらが生き残って遺伝子を残した、なんて合理的な話ではなく、なんか分かんないけど変わった奴が出て来て、それが一気に周りに増えて、気付いたら全員そういうことになっていました、みたいな「気まぐれ」進化がきっと生き物の真実なんだろう。そんな無意味な進化の仕方では、世界の最終目標(神の世界の実現)みたいなのを想定している人々には到底納得できないかもしれないけど、きっと、量子力学の世界も、カンブリア爆発も、最終的にはその根本が「気まぐれ」に辿り着いて行く。

宇宙は、世界は、人間は、「気まぐれ」に存在し、「気まぐれ」に変わり続け、「気まぐれ」にきっと消えて行く。そこに意味などなく、だから我々は「気まぐれ」に人類愛を訴えて募金しながら、「気まぐれ」にミサイルを撃ち込んで皆殺しにできるのだ。意味や目的の無い「気まぐれ」が世界の真実だからこそ、その真実に我々人間は楽しさを見つけることも、恐怖を感じることも出来る。

 1950年代にマイルス・デイヴィスが新しい音楽を始めた時とか、1980年初頭にデトロイトでテクノ・ミュージックが生まれた時とか、もっと大昔に初めて人々がマティスやダリの絵を見た時とか、何か新しいものが始まるぞ!というワクワク感の楽しさを、初めて触れる人々は感じて来たし、それまでの当たり前のコード進行とか、当たり前の絵画の構図が、まったく予想しなかった形で崩される、そんな先が全く予想できない、「気まぐれ」にしか思えない天才たちの創作を、人々は熱狂的に支持し高く評価し続けて来た。我々にとって「気まぐれ」の楽しい側面だ。

一方、「気まぐれ」の恐ろしい側面は、北野武のバイオレンス映画で結晶化された「予想していないタイミングでいきなり殺される」という、人が人に対して行う「気まぐれ」の狂気であったり、或いは、昨日まで元気で活き活きしていた人が急に事故とか病気とか災害で死んだ時に我々が感じる、いわば自然や偶然が人に対して行う「気まぐれ」の暴力だ。そして恐ろしいと感じつつ、何度もそんなシーンを映画作品に入れたがるのは、我々人間が「気まぐれ」に恐れを抱きつつ惹かれているのである。

そう、意味のない「気まぐれ」が世界の真実だからこそ、僕たちは新しいものが始まるワクワク感を楽しむ一方、あっけない生の終焉をもたらす、人の狂気や自然や偶然の暴力に恐怖を覚えつつ惹かれて行く。

 ちなみに、僕の行きつけのイタ飯屋は口ひげを生やした気難しい感じのシェフがやっているが、彼の作る料理はどれも個性的で無茶苦茶美味しい、時もある。

時もある、というのは、行く度に見た目も味も変わるのだ。最初は違う人が作っているのかと思ったけど、カウンターの向こうで作っているのはそのシェフだけだ。要するに味にムラがあるのである。ダメじゃん、土日の昼飯時でも座席はガラガラだ。もちろん流行っていないのだ。そりゃそうだろう。前菜で出されるカルパッチョは、ある時にはこんなに味が深く、オリーブ油が香り高く調和しているのは食べた事ない!ってくらい美味しいのに、ある時は生肉の表面がカピカピで、ひょっとしてサラダ油をかけた?って思うくらい臭くて不味いのだ。ビザもパスタも同様、いつも個性的だが、行く度にムラがあるので、一回でも不味いのを食べさせられたら、普通は客は二度と来ない。

が、僕はそれでもここに通い続ける。どうしてか?

シェフの「気まぐれ」サラダが楽しみだからだ!

そう、口ひげの気難しそうなシェフが、あの挨拶もろくにしない黙々と料理しているシェフ、その料理の味はムラだらけで、店内の壁には彼のバックパッカー時代の写真が飾ってあるあのシェフ(どの写真も全然笑っていない)が、さらに「気まぐれ」で作ったサラダが出て来るのである。一種の博打に近い。出て来るサラダはひょっとすると恐ろしく不味いかもしれないけど、ひょっとすると人生で一番美味しいサラダになるかもしれない。ワクワクしない訳がなかろう。

 という、やはりおバカな僕の趣味でこの話は終わるのだけど、何という事はない、この世から「気まぐれ」が無くなってしまえば、味気ない、合理的な生活だけが残っているのだろうなぁと思うのである。付き合い始めたカップルの激しい恋愛の中においても、長々と夫婦生活をやって来た日常の中にも、「気まぐれ」から始まる物語が僕たちの人生に色を添えるのだ。

「どうしてそんな事を言うの?」

「またバカなことを言い出して・・・」

僕たちは時に「気まぐれ」に身を任せ、人生をより深く味わおうとする。それはたまには刺激が欲しいとかではなく、そうすることが自然だからである。人間は、世界や宇宙の原理がそうであるように、実は不合理な気まぐれで歴史を決断して来たし、これからもそうするはずだ。

 遥か悠久の昔に初めて渡来人たちが作った金ピカの仏像を見た時の、古(いにしえ)の人々のポカンとした表情を想像しながら、その好奇心と、恐れと、きっと何か新しいことが始まるんだという高揚の気分を思い浮かべながら、青空の下、僕は家人と手をつないで馬子の墓の周りをプラプラ歩いている。

こうして「気まぐれ」が世界を動かし、「気まぐれ」に命は続いて行くのである。

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