失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

夏休みの読書と自転車とカルピスと、あの贅沢だった時間について思い出したこと

 子供のころの夏休みの楽しみの一つが、「○○文庫の100冊」といった類の各出版社から夏に出される小冊子を書店からもらって来ることだった。カラフルでおしゃれなイラストがいっぱいのその冊子を何度も眺め、自分のまだ読んだことのない本の紹介文を読みながら、いろいろ想像した。

 80年代、僕は小学生だった。紳士服の仕立屋だった父親は既製品の勢いに押されてどんどん仕事がなくなり、僕たち一家は借家を転々として暮らしていた。めっぽう貧しかったけど家族は仲が良く、お金がなかったけど子供の僕はお金がかからない楽しみ(書店からタダの小冊子をもらってくるとか)をたくさん見つけ遊んでいた。

 それでもやっぱり、小冊子を見ているうちに欲しくなった文庫に赤マジックで丸をつけ、貯金箱のお金を何度も取り出しては、買うべきか買わざるべきか悩むこともあった。小冊子で初めて知った作家たちの小説は、きっと僕を新しい世界に引きずり込み虜(とりこ)にするに違いなかった。

 当時、バブルが始まったばかりだった。近所の畑がどんどん売られてマンションに代わり、同じ町内の同級生のヨシキのお父さんがベンツに乗り換え、夏休みの終わりに家族で海外旅行に行って来たという証拠の土産を近所から貰うことが多かった。古い家は壊されてこぎれいな別の建物に生まれ変わり、それでも僕たちの家のようにひっそり暮らす人たちの借家街はそのまま取り残され、あるいは頑固な老人が営む小物屋の古い建物も取り残され、そんな取り残された建屋の一つに、大昔からそこでやっていた養鶏場があった。

 母親が家政婦として働いていた通りの向こうのお金持ちの老夫婦の家に、その養鶏場から産みたての新鮮な卵を持って行くのが僕の仕事だった。自転車に乗って1㎏分の卵を養鶏場へ買いに行き、もみ殻を敷き詰めたダンボールにまだ温かい卵を一つひとつ乗せてもらって、自転車の後部座席に積み、ゴム紐で縛って、老夫婦の家に向かった。

 老夫婦のお爺さんの方は昔の青年将校だったらしく、カクシャクとした人だった。優しい人だったけど体が大きくて、少し怖かった。僕は卵の入ったダンボールをそのお爺さんに手渡し、卵の代金と数百円のお駄賃を受け取ってそのまま書店へ向かった。

 当時、文庫の中には200円以下のものも結構あったはずだ。ディケンズのクリスマスキャロルもそうだったし、ジキル博士とハイド氏もたぶん百円玉2枚で買えた。新潮文庫ディケンズの作品の表紙はとてもお洒落で、いつか全部読んで集めてやろうと思ったくらいだ。

 夏の書店はたいていキンキンに冷房が効いていて、何時間でもそこで過ごしていられた。そして実際に過ごした。僕はさんざん迷ったあげく、長い夏休みのあと残りで買わなきゃいけない諸費用も考慮して、200円で買えるという理由だけでソール・ベローの「この日をつかめ」を買った。レジのおじさんに「難しい本を読むんだね」と言われたのを覚えている。

 そう、小学生の僕に、「この日をつかめ」のテーマになっていた離婚とか投資とかの話が分かるわけなく、内容が難しかったし、最終的な感想は「お金のないアメリカ人のお話かぁ」でおしまいだったけど、新品の書籍の紙の香りを思い切り味わい、そのあと自分の机で読んでいるうちに内容に没頭し、母親が夕食の時間を告げに呼びに来た時には、今いつの時代のどこの国にいて自分が誰だったか思い出すのに一瞬時間がかかった。子供時代の読書は、自分が日本人の子供だったことも一瞬忘れるくらい、心をその世界の中へ引きずり込んで行くものだった。今思うと贅沢な時間だ。今じゃ自分が普通の日本人のオジサンだと一瞬忘れるのは、海外出張中にキツイ酒を飲まされてベロベロに酔っぱらってしまった時くらいなものである。

自分を忘れて無くなってしまえるほど没頭できる時間。なんて幸せな時間だったんだろうか。

僕は夕食をそそくさと食べ終えると、お風呂に入り、カルピスを飲みながら自分の机に座って、さっきの続きを読み始めた。蚊取り線香の香りと、父親のミシンの音と、カルピスの氷が溶けてガラスコップの縁(ふち)に当たりカランと鳴る音が、全部セットになって、僕の夏休みの読書の思い出として記憶に残っているのだ。

 今年も夏の100冊は書店に並んでいた。中身をパラパラと見てみたら、子供時代の内容とずいぶん変わっていた。キクチカンって今の子供はもう知らないのかな?昭和初期の文学はテーマが普遍的で文体に迫力があって、今でも魅力的だと思うんだけどなぁ、なんてちょっと寂しい思いもしながら、僕は書店を後にした。

 80年代のあの夏の光の中で、少年だった僕は100円玉を握りしめて書店に向かい、自転車を漕いでいる。

風鈴寺から「カラマーゾフの兄弟」に出て来るイワンの悪魔の話に空想が飛んだこと

 酷暑が続いている。涼を求めて風鈴寺へ行った。石段を上った先にたくさんの風鈴が吊るされ、チリンチリンと気持ちのいい音が真っ青な夏空に響いていた。

あぁ夏だなぁと、空の青を見上げた。

風鈴の音を聞いて涼しさを感じるのは日本人だけらしい。まぁ蚊取り線香の匂いで夏を感じるように、文化による条件反射みたいなものなんだろうけど、そういう風流な感性を自然に持たせてもらえた日本文化に感謝だ。もっとも、起源を遡(さか)のぼると中国に行き着き、大昔の留学生の僧が日本に持ち帰って寺の魔除けになり、最初は青銅製でガランゴロン鳴らせていたが、やがてサイズが小さくなり、江戸期にビードロを作る技術が伝わると、風鈴はガラス製が現れ、庶民の文化として一気に広まった。

江戸の庶民のことだ、どうせ涼を求めるなら徹底してやろう、という心意気で、ビードロには粋なイラストが描かれ、金魚や朝顔やトンボのような、なんだかオシャレでとっても涼しげな絵が流行った。そして今に至っている。

 子供の頃、実家の軒下に吊るしてあった青い風鈴は星空のイラストだった。昭和の子供だった僕は、廊下で本を読み、お菓子を食べてゴロゴロし、夏の太陽の光に照らされながら揺れるその風鈴を眺め、まどろむのが夏休みの楽しみだった。夏休みの宿題なんて、自由研究とポスターの絵を描くというのを除いたら最初の数日で終わってしまったから、あとはそうして星空の風鈴の下で、好きな本を読んでゴロゴロしていればいいのである。

 子供の頃の僕はいろいろと空想するのが好きで、ずっと一人で遊んで考え事していることがあった。別に、朝のラジオ体操は友達とワイワイ楽しんだし、友達に誘われて近所のドブ川に銀ブナを釣りに行く普通の子供だったけど、時々、ふうっと一人になって、例えば、そんな風に軒下でゴロゴロしながら風鈴を眺め、何時間もぼんやり空想していることも多かった。

青い風鈴の中には一個の宇宙があって、銀河系もあって、たくさんの星の中にたくさんの国があって、そこにたくさん人々が住んでいる。そしてその人たちは、自分たちのいる宇宙が、実はこんな小さな家の軒下の風鈴の中に閉じ込められていることに全く気づいていないし、そうやって悦に入っている僕がいるこの地球も、実は誰かの家の軒下に飾ってある風鈴の中の宇宙の星たちの一つかもしれない、なんて、とりとめもない空想である。

 空想癖は今も変わっていないのかもしれず、病院で待つ何時間でも、空港で待つ何時間でも、僕は携帯電話ひとついじらず、考え事しながらじっとしていられる。そしてその大半は、しょうもない空想だ。

 ちなみに宇宙はどんどん膨張しているというのが有力な説らしい。ビッグバン以降、宇宙はどんどん膨張し、星と星との距離が広がり、どんどん熱量が下がって、やがて、無限の死を迎える。死が無限なのか一時的なのか(要するにまたドカンと行くか)は良く分からないけど、どんどん膨張して行く宇宙というのは、肌感覚として「あぁなるほど、そうだろうね」なんて僕は感じるのだ。

 人の生というのは、とにかく時間と空間に支配され、時間と空間に引きずられて消えて行く。だって、肉体という檻(おり)があるから、僕たちはちょっと地球の裏側に行くにも、空港で手続し、それから十何時間も飛行機を乗り継いで、ようやく辿り着くのだ。そして過去には遡(さかのぼ)れず、未来にも遊びに行けないから、織田信長がどんな顔をしていたのか見に行く事は出来ず、未来の宇宙戦争時代(どうせ人間は戦争を繰り返すから)のガンダムが、実際のところはどんな形をしているのか、確かめに行く術(すべ)がない。時間と空間の制約の中でもがき、肉体が劣化により空間上で機能を停止したら死に、そこで個人としての時間も終了する。生きるとは時間と空間の奴隷として息をするという事だ。

 なので、ひょっとしたら生の反対の死は、時間と空間に支配されないことなのかも、なんて空想をしてみる。僕は子供時代に見上げていた青い風鈴の宇宙を思い出し、すっかり年を取ってしまったけど、そんな空想をしてみるのだ。

 ありゃ、どうやら死んじゃったみたいだよ、運転が荒かったもんなぁ、お気に入りの車だったのにヒドイ状態じゃん、そういうことかぁ、マジかぁ、一瞬だったねぇ、でもまだ意識があるみたいだ、不思議だねぇ、しかもどこへでも行ける感じだ、地球の外へ行ってみる?、、っておいおい、ここ宇宙じゃん、一瞬じゃん、むっちゃ星が綺麗じゃん、すごいねぇ、まさかどこへでも行けるってこと? アメリカの南部とか行ってみる? だって生きてた時に一番行きたかったとこだし、ってここ、しかも50年代のアメリカじゃん、マイルス・デイビスがいるよぉ、生(なま)でジャズの神様のトランペットが聞けるよぉ、サイコー!

というのはかなりおバカか空想だけど、子供時代に見た宇宙模様の風鈴は、そんな楽しい想像に僕を連れて行ってくれる。僕たちはたった数十年を、この時間と空間の狭い制限の中で生き、死んで行かねばならない。だから、今は小山となった誰かの墓を見て数千年前のの人の営みを想像しながら歴史ロマンを味わい、パンデミックが過ぎ去ったら、スーツケースを持ってきっとどこか遠く遠くへ旅したいと願う。

 でもどうだろうか?車の事故から始まった僕の死後の世界で、僕はそのあと、もちろん月の上を歩いてみたり、エッフェル塔の上に立ってパリの夜景を眺めたり、「ブルータス、お前もか」の現場を見に行って、カエサルの実際の言葉がなんだったか知ってゲラゲラ笑ったり、太古の世界でよく知らない恐竜に追い掛け回されたり、太陽の表面の6000度って熱を間近で見て感じたり、そんな好き勝手なことを何十年も何百年も何千年もやっていたら、いよいよ見に行くところ、経験したいことが全部なくなってしまって、何もかもに飽きてしまうのだろうか?死ぬことで時間と空間の制約から自由になった僕は、結局、「もうこれ以上は何もないや」って肩を落とすのだろうか。

たぶん違うと思う。

 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中で、登場人物のイワンが悪魔と対話する有名なシーンがあって、悪魔はイワンにある男の話をする。

その男は法律も良心も信仰も否定するいわばニヒリストだったが、実際に死んでみたら信じていなかった来生(らいせい)があったので、「これは自分の信念に反する」と怒り出してしまった。で、そういう不遜な輩(やから)は罪があるということで、裁判にかけられ、闇の中を千兆キロ歩いてから天国の扉を開いてようやく赦す、という判決が下った。

が、そういう男である。そんなのやってられるかってな具合に、道のど真ん中でふて寝してしまった。歩くのを拒否したのである。

ところが、その男が、千年たったころ、突然むくっと起き上がって歩き始めた。ふて寝する、自分の信念の為に歩くのを拒絶する、というのに飽きたのかもしれない。

僕は「闇の中を千兆キロ」となっているのに、初めて読んだ当時は、なぜか宇宙の真っただ中(周りは美しい星々が囲んでいる)に遥か向こうまで続く白い道をイメージし、その上を男が歩いて行く姿を想像をしていた。そのシーンの中で、悪魔がそんな話は嘘だと言うイワンに対し、「でも考えて下さい。千年だろうが何億年だろうが、そんなの関係ないじゃないですか。だってこの地球だって十億回も繰り返されて来た(宇宙が何度も滅び、また生成されて地球がその度に生まれて来た)かもしれないでしょ。時間軸なんてそんなもんです」みたいな話をしていたので、なおさら、その歩き続ける男が、宇宙の中で星に囲まれテクテク歩いて行く映像を想像したのである。

さて、その男はいよいよ千兆キロを歩き通し、ついに天国の扉を開けた時、歓喜のあまり「サホナ(アーメンみたいな賛美の言葉)!」と叫び、自分は千兆キロを千兆倍した道だって歩き通してみせるぞ、と息巻いた。つまり、無神論者だった彼が歩き通した喜びのあまり、一気に神様バンザイに転向してしまったのである。人間なんてそんなもの。だからこそ大衆の為に天国というものを設定し、それに至る様々な物語を用意してあげる必要がある。そこにプラグマティックな宗教の意味があるのだと、悪魔は言いたかったのである。

もちろん、イワンはこれに対して反駁(はんばく)する。実は悪魔はイワンの一部、もう一人のイワンであり、彼自身の幻影でしかないのだけど、ドストエフスキーはイワンの悪魔に対する憤りを通して、人間はそんな固定された理想や天国に縛られるべきではない、もっと自由な存在であるはずだ、と物語を展開して行く。要するにドストエフスキー流の自由論だ。

人はどんなに天国のような平和なところであっても、時間や空間を越えた果てのどんな魅力的な世界であっても、もしそこが固定されて限定されてしまうなら、自由を求めて、もっと素晴らしい世界へ、もっと新しくて面白い光景を見に、更に向こうへと歩いて行きたいと願う。これはどんどん宇宙が膨張して行くのと同じことである。宇宙が外へ外へと膨らんで行くように、その中にいる僕たちの好奇心とか、喜びとかは、一か所にとどまることを知らず、もし時間や空間の制約がなくなったとしても、それは変わらない。

 だから、交通事故で死んで時間と空間の制約がなくなった僕が数千年の好き勝手のあとに、もう行きたいところに全部行き、見たいものを全部見たとしても、ガッカリすることはなく、もっと宇宙の先はどんなところ?何十億回前に滅んだ地球にはどんな生命体がいたの?宇宙の無限の死の向こう側は?永遠に続く無なのか、またドカンと新しいビックバンが起こるのか?生きていた頃に学んだことだけでなく、死んだ後に学んだことも踏まえて、また新しい別の知りたいこと、見てみたい風景を見に、僕は歩き出すのだろう。好奇心はどんどん膨らみ、もっともっと外の世界、過去と未来の世界へ行ってみたいと思うのだろう。宇宙の膨張は、肌感覚としてよく理解できるのである。

 実家にあった青色の風鈴から、えらいところに話が広がってしまった。

さて、余談だけど、僕は風鈴寺の階段を降りた時に足をくじいて捻挫してしまった。靭帯が切れて松葉杖生活の開始である。あ~あ。

僕たちは空間と時間に支配され、生きて行くしかない。ブチっと音がして激痛が走ったあの瞬間だけは、目の奥に星が煌(きら)めき、宇宙の外へ意識は飛んだけど。

やっぱり現実の生はあんまり自由ではなく、僕は恨めしそうにギプスを見ている。

小浜の青空から恩讐の彼方に向かい、峠越えを運転しながら仇討について考えてたこと

 せっかく梅雨が早く明けたのに、土日になると雨とか曇り空で、あぁ休日くらい突き抜けるような青空が見たいなぁ、なんて車で走り出した。途中のSAで天気予報を調べてみると、日本中が雨か曇りなのに、日本海側の若狭湾あたりだけがぽっかり晴れマークがついている。

僕はそちらに向かって走り出した。

突き抜けるような青空の下で、家族と手をつないで散歩する。しかもこんな安全で衛生的で便利な国で。その価値に勝るものは恐らくこの世にない。僕はそう思っている。我々は次の時代に投資せずジジババ優先で彼らの面倒を見ているうち、すっかりみんなが貧しくなっちゃったかもしれないけど、でもこの国に残っている安全とか、この国の人々が持ち続けている衛生観念、緻密さ、生真面目さは、大きな財産として確かに残っているのだ。

ちなみに日本の10万人あたりの殺人件数が0.25人に対して、メキシコは30人だ。両国はほぼ人口が同じなのに、向こうでは毎日100人くらいが殺されている。我々は本当に安全な国で暮らしているのだ。

だから、「最近、物騒になって来た」なんてコトバは印象に基づく話でしかなく、高齢化に伴い、この国の殺人件数はむしろどんどん減っている。それが事実だ。

そりゃそうでしょ。かつてドンパチやっていたその道のプロたちは、今やすっかりお爺ちゃんになって介護施設でオムツを交換されている。僕たちが子供の頃はたくさんあった事務所も、大半は取り壊され、または空きビルになっている。

無敵の人による殺人?それも印象でしかない。じゃあ件数は?もし無敵の人による殺人が増え、暴対法施行以前のかつての殺人件数に戻るなら、議論する価値はあるのだろう。数字は嘘をつかない。殺人の件数は確実に減り続けている。これは国ごと年をとったことによる一種の効用だ。世評する者も、その言動に影響を受ける我々も、まずは事実としての数字を押さえなければ、冷静な判断はできない。印象のみで議論するのは、議論のための議論であり、それはエンターテイメントでしかない。

が、こんな安全な国にあっても、時には運悪く、殺人に出くわすことがあるのだろう。重過失や悪意のある他人の娯楽によって家族を奪われることもある。酔っ払い運転に轢かれるとか、子供がイジメつくされて死に追いやられるとかも、家族にとっては一種の殺人だ。

万が一そんな目に遭った時、平凡な僕たちの人生は一変し、奈落の底に落ち、光が消え、目に映るこの世から青空は消え去るのだろう。

僕の運転する車は雨の中を走り続けている。

だいぶ走って、ちょっと疲れてしまって、若狭の手前で一晩の宿にたどり着き、その夜はそこでゆっくり休んだ。

夏の雨は嫌いだ。どこを運転していても同じ風景にしか見えない。面白くない一日だったな、なんてシャワーを浴び、ビールを飲んだら酔いが回ってそのまま寝てしまった。要するに、ふて寝である。

翌朝、目を覚まし、また走り出す。家人は助手席でニコニコしている。

そして走り出した1時間後、トンネルを抜けたその時、突如、そこには真っ青な青空が広がった。予報通りだ。昨日まで雨の中を走っていたので、青空のその青色を見た瞬間、心の中まで一気に晴れ渡ったような気がした。サイコーだ!ついアクセルを踏み込んでしまいそうになる自分に気づく。最近の天気予報の精度の高さに脱帽である。

 しばらくそのまま気持ちよくドライブして、9時過ぎに僕たちは小浜に到着した。そのあと「お魚センター」に入って、たらふく刺身を食べた。日本海側の新鮮な刺身は格別だ。このお魚センターにはイートインスペースにテーブルがあって、買ったその場で刺身を食べることが出来るので、小浜に来たときは必ず僕たちはここに立ち寄り、買ったばかりの刺身を、ついでに買ったあら汁を飲みながら一緒に食べることにしている。アジの刺身も、ハマチの刺身も、肉厚の大きな生牡蠣も本当に美味しかった。海鮮バンザイだ。

刺身でも寿司のネタでも一番大好きなアジを堪能!

ハマチもたっぷり脂がのっていて絶品!

肉厚な牡蠣の食感はもはや海のステーキ!

そして生き物をたらふく食べてからって言うのはちょっと不敬かもしれないけど、せっかく小浜に来たので、僕たちは相談して、やっぱり仏像巡りをすることにした。

 若狭にある小浜は大陸から都(奈良・京都)への文化の玄関口として、有名な仏閣が立ち並ぶ、歴史好きには垂涎ものの観光地である。だって、魅力的な国宝級の仏像や建築をすぐ手の届くところで眺めることが出来、しかも観光客がまばらなので、いわば古(いにしえ)の時代にタイムスリップして心行くまで大昔の時代を満喫できる、コアで穴場のスポットだからだ。京都や奈良とは違った魅力に満ちた場所である。

僕たちは妙楽寺、羽賀寺、明通寺と有名な寺を順番に廻った。日曜日なのに他には1組か2組の観光客しかいない。広い境内にときには自分たちしかいない場面もあり、苔むした道を、青空を頭上に、手をつないでゆっくりと歩いて行く。

いずれの寺も、そこでしみじみ眺めた仏像たちも、数年ぶりに鑑賞した。妙楽寺の千手観音の個性的なデザインは何度見ても飽きず、千数百年前の仏像なのに、その立体的で個性的な表現がまるで現代アートの一つみたいだ。20代の芸術家がまっさらな頭でこれを見たら、新しいインスピレーションが湧くのでは?そう思った。

羽賀寺の十一面観音のなまめかしさ、石段を登ってたどり着く、山間に佇んだ明通寺の本堂の威容、僕たちは1000年前にタイムスリップして、何時間もかけて、そこで手をつないで歩いた。至福の時間である。時に手を合わせ、時に欄干に腰かけて深呼吸し、塵(ちり)の積もった気持ちの洗濯をし続けた。

そしてあっという間に昼過ぎである。帰らなければいけない。

ところで、小浜で獲れた鯖(さば)を京の都へ運んだ「鯖街道」というのがあって、当時は腐敗を防止するため保存に塩を使っていたが、その鯖街道を1日かけて運んだため、鯖が都に着く頃にはちょうど塩のあんばいがよく、京の人々に大変喜ばれたらしい。

なので、ミュージアムのようなところで「鯖街道を通って京都へ行きたいのですが、車で行けますか?」と聞いたところ、山越えのウォーキングコースであり、車で通るような道ではないとのこと。ありゃ、ダメじゃん。

でも、今日はまだ休日。どうせ夜中に家に帰ってもいいのだから、慌てる必要もない。せめて下道でタラタラ走って京都に出て(なんとなく鯖街道を想像しながら)、そこから高速に乗って家に帰ろうと思った。

で、これがちょっと失敗だった。カーナビの指し示す通り走っていたら、どんどん道が細くなり、対向車が来たらアウトってくらい細くなり、しかも本格的な峠越えの道なので、急角度で登り、急角度で降りる、というのを繰り返した。

何度も激しくハンドルを切り、ハードな運転が続く。どうやら最終的には鞍馬山を抜けて京都市街へ出るらしい。車内はひどく揺れ続けたが、家人はさっきたくさん歩いて疲れたのか、助手席でスヤスヤ眠っている。どこでもスヤスヤ気持ちよさそうに寝る人である。そうして目を覚ましたら、こっちを見て寝ぼけまなこでニコッと笑うのだろう。

そんな人だ。

険しい峠道が続いて行く。渓谷はとても深く、人家はなく、がけ崩れを最低限のお金をかけて防止しただけの、荒涼とした山肌が道の両側に連なる。「落石注意」って看板が頻繁に現れるけど、もし本当に大きな岩が山の上から転がり落ちてきたら、ひとたまりもなく、そして避けることが出来ないのだろう。

そう、僕たちは時には運悪く、殺人に出くわすこともあるし、重過失や悪意のある他人の娯楽によって家族を奪われることもあるのだ。

そして僕たちはそれを乗り切って行くことが出来るのだろうか?

 学生の頃、それこそ何でも読み漁っていて、当時はドストエフスキーにどっぷり浸かっていたけど、癖の強いそんなロシア文学の合間に、菊池寛のシンプルで硬質な文体を読むと、たくさん焼肉を食べた後にウーロン茶を飲んだ時みたいに、気分がすっきりして、なので寝る前によく読んでいた。神保町で買ってきた「菊池寛 全集」という本である。

その菊池寛の代表的な作品「恩讐の彼方に」には、父の仇討(あだうち)で諸国を旅する中川実之助が登場する。

彼は流浪の末に遂に見つけた父の仇(かたき)である市九郎が、長い時を経て既に改心し、罪滅ぼしの為に生涯をかけて人助けをしているのを知る。たくさんの人々が命を落とす絶壁の難所に、市九郎は洞門(トンネルを含む覆道)を手で掘削する作業を、自らに課した修行のように何十年もやり続けていたのだ。実之助は見つけたその場で父の仇(かたき)を斬ろうとするが、市九郎とともに洞門を掘削していた石工たちに説得され、「洞門が開通したら本懐を遂げる」ことにする。

そうして仇討(あだうち)を猶予した実之助だったが、次第に、ノミと槌だけで洞門を通すということの気の遠くなるような困難さと、人助けの為にそれに半生をかけて何十年も取り組み続け贖罪し続けてきた市九郎の姿に、激しく心を揺さぶられ始める。そして遂には実之助も一緒になって岩を掘り始め、一年半後、いよいよ洞門が開通した時、二人は共に感激にむせび泣き、実之助は仇討(あだうち)を取りやめる。もはや慈しみも恨みも彼方に消えて、実之助には相手を赦すという決断しかなかった、というお話だ。

なにしろ菊池寛の作品は文体のリズムが美しいので、一個の旋律を聴いているみたいで、もうストーリーとかテーマなんてどうでもいいのだが、ふと「こんな安全な国で家族と手をつないで散歩する幸せ」から考え始めた「万が一、家族が殺されたら」に思いが至り、この「恩讐の彼方に」という小説のことを思い出した。

こんな安全な国にあっても、万が一、家族を奪われるようなことがあったら、僕は相手への復讐を考えるだろうか?それとも恩讐は彼方へ散って消え去って行くのだろうか?そういう空想だ。

鞍馬山へ向かう峠道を苦戦して運転しながら、僕はそんな空想でずっと頭を満たしていた。もしそんなヒドイことが起こったら、自分は何をするのだろうか?

野生の鹿の影が、うっそうとした木々の向こうにチラッと見えた。どえらい山道だ。ところどころにガードレールがない箇所もあって、ちょっと汗ばむ。鯖街道どころの騒ぎではなくなっている。僕の空想はどんどん駆け巡った。

 そうそう、数日前にテレビで見た素人の男性が、娘を交通事故で失い、相手への怒りと恨みのやり場なく、お遍路をした話をしていた。話をしながら涙を流し、改めて怒りと恨みを語っていた。お遍路には色んな意味があるのだろうが、焼き付くような過酷な太陽の日差しが、または凍えるような冷たい海風が、それを受け止めながら歩む自分を見つめることで、大切な人を救えなかった、可哀そうに、辛かっただろう、痛かっただろう、でも助けられなかった、自分は生き残ってしまったという罪の意識を、その間だけは緩めてくれるのかもしれない。困難を受け入れることで、守れなかった申し訳なさを償っているのである。

が、お遍路をやり遂げ、家に戻って日常がまた始まれば、怒りや恨みはなお消えず、そして自分を責め始める。結局、恩讐は彼方へ去らず、僕たちは自分を許せないのだろう。

だから、実は仇討(あだうち)という且つてこの国にあった制度は、もちろん家(イエ)制度の延長線にあったのだろうが、理にかなっていたと言えばいえるのかもしれない。自らの手で仇(かたき)を殺めて、殺人者となり業(ごう)を背負うことで、守れなかった大切な人への申し訳なさを償うのか、或いは、実之助のように仇(かたき)を許して、ということは一生、故郷には帰れなくなることによって、父への申し訳なさを償うのか、いずれにせよ己(おのれ)を罰することで、死んで行った者たちへの償いが出来るのである。現代の死刑制度のように、自分の手から遥か遠く離れた執行室で、仇(かたき)が国家という漠然としたものに殺されてしまっては、生き残った者は一生、自分を赦すことが出来ない。仇(かたき)のことではなく、罰を受けない自分のことを許せないまま生きて行かねばならない、という事である。これは極端な死刑反対の立場だろうか?人道的な理由ではなく、生き残った者が救われないから、生き残った者の意思を尊重するために死刑反対、遺族に仇討(あだうち)をさせるべし、なんていっぱしの社会人が口にすべき話ではないのかもしれない。が、もし家族を奪われるようなことがあったら、僕はお遍路をせず、即座に自らの手を汚す決断をし、業を背負って、守れなかった申し訳なさを償おうとするかもしれない。

いつの間に人家が現れ、すぐ真横を叡山電鉄が走っていた。峠を越えたのだ。鞍馬山を抜けていた。雨は降っていない。まばらな観光客の横を、車で通り過ぎて行く。

京都市街に出たころには、ホッとして、なんだか長い悪夢を見ていたような気がしていた。信号待ちして車窓の外を眺めながら、街の風景を目に、仇討(あだうち)ってなんだよって思い返した。峠越えの運転で始まった空想は、恩讐の彼方の実之助につながり、テレビで見たあの男性の涙につながり、やったこともないお遍路につながり、僕の家族を奪った(と仮定した)男の死刑執行の場面へつながって行った。現実には何にも起こっちゃいないのに、そして昼間あんなに美しい青空と、美しい古寺の情景の中で家人と手をつないで僕は散歩していたのに、鯖街道から始まったヒドイ悪夢だと思った。

「ねぇ、何を難しい顔してるの?」

助手席で目を覚ました家人がニコニコこちらを見ている。寝が足りて満足って顔だ。

「うん。なんかね」

「何?」

「どうやら鞍馬山には天狗がいるみたいだよ。ヒドイ悪夢を見させられた」

「あなた運転してたのに?」

「うん」

僕たちは時には運悪く、殺人に出くわすこともあるし、重過失や悪意のある他人の娯楽によって家族を奪われることもある。

でも恩讐の彼方へ向かうには、僕は人間が出来ていないし、とても生きているうちにそんなところに行けそうにない。恩讐(慈しみと恨み)のど真ん中で、最後まで生々しくもがきながら、生きて行くような気がするのである。

「燃えよ剣」を見て久しぶりに司馬遼太郎の作品を思い出し、ついついサラリーマンの哀愁を思い浮かべたこと

 歴史好きのご多分に漏れず司馬遼太郎が大好きだった。学生時代に本当に読み尽くして、エッセイも評論も随筆も全部読んで、文字になっているもので読んでないものはないくらい読んだ。それくらい好きだった。

作品の中でも、みんなに人気があるのはどうやら「燃えよ剣」や「竜馬が行く」や「坂の上の雲」で、やはりどれもドラマ化とか映画化をされている。そしてどれも160年以内の非常に最近の日本人の話だ。だから今の我々と比較的似ていて、共感しやすいというのがあるのかもしれない。

でもやっぱり僕を魅了したのはちょっと古い時代の、しかもあんまり良くわからない(ということは想像するしかない)時代やジャンルの人間を描いた物語だった。

「箱根の坂」とか「梟の城」とかだ。戦国初期や戦国末期の、要するに日本人が徳川300年でステレオタイプに収まって行く前の時代の、イキイキと、そしてドロドロと生きていた、今の日本人とは全然種類の違う人々が登場する物語である。

梟の城」の主人公の得体の知れない価値観や喜び、「箱根の坂」に出て来る権威や血に対する人々の牧歌的な信仰など、今を生きる我々にはあんまり共感できるところが少ない故に、そういった時代があり、そういった別の類(たぐい)の日本人がこの国にいたことに感嘆し、それは一種の作家の想像であってフィクションかもしれないけど、でもそんな今と全く違う世界が広がっていた事を物語を通じて想像し、なんとなくワクワクするのだ。

一方、幕末まで来ると、そこに見られる登場人物の葛藤は、今のサラリーマンの葛藤にあっさり重なったりして、共感し感動はするが、新しい世界を垣間見るワクワク感は少ない。そりゃ幕末は特別、血生臭い時代だったのかもしれないけど、やはり徳川300年後の血生臭ささである。戦国の血生臭ささとは違う。そうだよなぁ、日本人ってそんな感じなんだよなぁ、同調圧力が異様に強いんだよなぁ、周りのみんなに言われてやむを得ず腹を切ったんだねぇ、なんて登場人物に同情しつつ読んだりする。

だから、高杉晋作のかっこいいアウトローぶりは理解できるけど、やはり僕は、例えば、戦国時代初期に現れた北条早雲という怪物を、必死で想像しようとした司馬遼太郎の熱心な創作とディテールが、小説を読んでいる間だけは僕たちを別の世界に連れて行ってくれるみたいで、とても好きだったのだ。

 で、Amazonプライムで「燃えよ剣」の映画を観て、久しぶりに司馬遼太郎のことを思い出した。熱にうなされるように読み漁っていたあの頃から既に、四半世紀がたとうとしている。楽しかったなぁ。

ちなみに「ある運命について」というエッセイで人生の無意味さとブッダの立ち位置を語った有名な箇所があって、その一文を書いただけで、この司馬遼太郎という作家はこの世に生を受けて意味があったと、後世の万人がきっと評価すると思った。それくらいその一文は恐ろしく研ぎ澄まされた内容であり、真実であり、僕のその後の人生に大きな影響を与えた。これも懐かしい思い出だ。

 さて、リビングでお菓子を食べながら見ているのは、どえらいハンサムが土方を演じる「燃えよ剣」である。

もはや僕はすっかりオッサンなので、何かの作品が自分の人生に大きな影響を与えるなんて幸せな出来事は起こりそうにもなく、当人にも、若いころのように、何かを求めるが如く真剣な眼差しが1mmもない中、ときどき居眠りをしつつ、お菓子を食べつつ、ぼんやり作品を見ている。のどかな休日のリビングでの出来事だ。

土方歳三という男は写真も残っていて、その映画の役者のように男前で、剣を信じ、剣で立身出世の道を切り開き、剣で死んで行った。竜馬が千葉道場で北辰一刀流を極め、その後、あっさり剣術を止めて航海術を学んだり、剣の代わりに拳銃や万国公法を持ち歩きながらクルクル時代の裏側で動いていたのとは対照的である。もちろん拳銃や万国公法は、後付けの創作の逸話らしいが、竜馬はおよそそんな話でもくっつけられそうな曲者(くせもの)だったのだろう。

一方、土方歳三は実務家であり徹底したリアリストだった。彼にとっては、新撰組という組織をどのように強くするかが一番大切だった。そこに組織運営に身を捧げる美学はあったが、組織の将来を見据えた大局観や、行動原理としての思想はなかった。

それは石田三成の参謀だった島左近も同じだ。組織を実際に仕切る人間が土方や島のように実務家でありリアリストだと、組織はどのみち、道を誤って滅びるしかない。全員、美学のうちに死ぬしかないのである。だって組織の将来を時代の変化の中で見極める力を、もともと実務家は持っていないからだ。

だからこそ、組織のトップに必要なのは決して実務能力や、口を開けば常に最悪を想定する目の前への危機感や、筋を曲げない美学ではない。大局観をもってその時々で情熱的に思想を語れること(それが楽観的な大ボラであっても)が重要なのである。

そしてこれは会社の経営幹部になる人間も同じである。大きくて強い組織の経営幹部はたいてい、大局観を持ってリスクプロテクトが出来るし、口を開けば熱い理想をペラペラ喋れるし、そのくせ、信じがたい変節や部下の切り捨て、自分の保身の為の大嘘など、およそ美学とはかけ離れた行為をしがちなのである。

これは当たり前の話だ。

我々は土方の美学をカッコいいと感じ、一方、そのリアリストぶりが行きつく先は、破滅しかないことを知っている。時代は常に変わり続け、時代とともに価値は変わって行く。それに付いて行けるだけの柔軟さがなければ、滅びるだけだ。例えば、十数年前まで数字を出すためにパワハラをやって何人もの自分の部下を潰して来た人間が、出世して相応の地位につき、今や率先して「働きやすい職場環境を、ハラスメントのないマネジメントを」と熱く語ったりしているのを見ると、ウン、なるほどね、これぞ経営幹部だ、なんて思うのだ。

そこに人としての美学はないが、大きな時代の変化の中で、組織が生き延びる為に必要な思想はある。土方はサラリーマンになっていたら、出世はしなかっただろう。

そんなことを考えながら、やっぱり司馬遼太郎の作品は、うんと古い時代の物語がよかったな、なんて思い出していた。ハンサムな土方がテレビ画面の向こうで、バッタバッタ人を斬っている。う~ん、絵になるなぁ。

 ご存じの通り、日本刀が実戦で使えたのは、屋内や狭い通りで人を斬るのが流行った幕末の一瞬だけである。町屋で数十人の殺し合いをやる分には有効だったが、そんな規模で世の中は動かない。世の中を動かす規模の殺し合いは数千、数万規模でやる戦(いくさ)であり、戦(いくさ)で圧倒的に主要な武器として機能したのは戦国時代から弓矢と鉄砲だ。そういう飛び道具以外であれば槍が最も殺傷力があった。考えてみたら分かる話だ。鎧を着た者同士で日本刀で斬り合っても、全く埒があかないのである。防具の隙間を縫って相手の身を突き刺すには、間合いを取った場合は槍が、接近戦ではむしろ脇差が有効だった。

が、武士という殺人を職業にしながら、ほぼ殺人をすることなく一生涯を終えざるを得ない特殊な江戸時代にあって、武士たちの屈折した美学は日本刀という実用面からは中途半端な武器に傾き、その日本刀に魂を込めてその美学を磨こうとした。池田屋事件を始めとする幕末の数十人の斬り合いは、徳川300年で屈折した武士たちの最後の小さな晴れ舞台だ。土方たちはもともと武士ではなかったゆえに、強烈に武士たる者であろうとし、それは剣に生きることだった。

で、その土方率いる新撰組鳥羽伏見の戦いで日本刀を振り上げ、振り下ろし、散々負けた。やはり日本刀は戦(いくさ)で使うものではないのである。

 ハンサムな土方が映画のエンディングで華々しく最期を迎えようとしている。実際には土方の亡骸は行方不明なのだから、これは後世の人間が想像を楽しめばいいのである。エンドロールが流れ、僕は別のお菓子を取りにソファから立ち上がる。

のどかな休日の午後はぷらぷらと続いていく。

 パンデミックの前まで、会議室でホワイトボードを使いながら上手に議事進行するというのは、ちょっとした主要な技術だった。或いは、p.pでプレゼンするとか、Excelで複雑な計算式を組めるとか、Accessを使いこなすとか、要するにサラリーマンの嗜(たしな)みとして、そういったスキルはある程度要求された。僕たち中高年は若いころからそれらを嗜みとして頑張って身に着け、若者時代にはブラインドタッチ一つ出来ない上の世代を馬鹿にした。

でも、アフターコロナが見え始めた最近では、なんとなく僕たちが身に着けて来たそれらのスキルも、幕末の日本刀みたいなものなのかな、なんて思い始めている。

最近の新入社員は下手をすると僕たちオジさんなんかよりExcelが使いこなせないが、TeamsやZoomでサクサク機能を使いこなして会議を進めて行く。対面して直(じか)に話すと目を見て堂々と話せなかったり、理路整然と話せないくせに、オンライン会議ではペラペラ喋って議事を進行し、必要なデータを引用して共有し、まさに光を放っている。そして僕たちオジさんたちは、昨夜一生懸命作ったExcelの資料を共有しようとして、ボタンを押し間違い、あたふたしている。

時代はまた新しく変わったのかな?僕たちは日本刀を振り回し、これから散々負けるのかな?

駄目だ駄目だ、こんなところに落ち込んでは。やっぱり司馬遼太郎の作品はもっともっと古い時代の話がいいや。江戸以降の話はどうもサラリーマンっぽい考えが頭に湧いてしまって、よくない。

僕は新しいポテチの袋を開けて、一枚、口に放り込んだ。次の映画を観て、元気を出そう。おバカなアクションでも見ようかな?

休日の午後が、ゆっくりと過ぎて行く。

「古寺行こう」を衝動買いして、仏像好きにはこの先も衝動買いしてしまうと痛感していること

 書店の一角には必ず「週刊〇〇」という雑誌が平置きにされているコーナーがあって、懐かしのF1マシンなんかが付録でついていて(そういうのはもはや書籍というより、BOXのおもちゃだが)、要するに我々の衝動買いを誘うコーナーのようなものなのだが、先日、それらの類の一つを、つい買ってしまった。

「古寺行こう」という隔週で小学館から刊行される薄い雑誌のシリーズだ。

別に付録がついている訳ではないけど、有名どころの寺ごとに刊行されており、「興福寺」「薬師寺」「三十三間堂」の3冊を僕は買った。

なんで衝動買いしてしまったかというと、パラパラと中身を見たら、さすが老舗の出版社が出すだけあって、十分な量の仏像の写真が収められ、解説も最低限のことがしっかり書かれていて、1冊が770円と比較的安価だったからだ。

例えば京都の東寺へ行って、その圧倒的な仏像群に打ちのめされ、境内でちょっと休憩した後、すんごかったなぁ、いつ見てもやっぱ半端ない迫力だなぁなんて思い返し、帰りに土産店に立ち寄った際、もちろん「東寺」という写真集が売っているのだが、ものすごく高価な値段である。若いころ、何回も迷って、さんざん迷って、結局、買ってしまったが、確かに解説が充実していて物凄く面白いけど、3,000円近くするのは財布に痛いなぁ、なんて思ったのを覚えている。

ただただ、さっき見たあのすんごい迫力の仏像を、もう一回写真でもいいから見たいなぁ、と思うだけなのだ。

なので、書店で見つけたその「古寺行こう」シリーズは、薄い雑誌ではあるけど、最低限の十分な仏像が収められていて770円なんて、ついつい嬉しくなって買ってしまった。

ちなみに僕の書斎には「仏像」と名の付く本が20冊以上並んでいて、今回買った「古寺行こう」の中の写真の仏像は全部、含まれている。いわば既に他の書籍や雑誌で持っている内容なのに、寺ごとに分けて雑誌になっただけで、なんか嬉しくなって、まさに出版社の思惑通り、衝動買いしてしまった。症状が末期的である。家人は、また買ったの?という怪訝な顔で見ている。

 仏像好きは巷(ちまた)にたくさんいて、きっと僕もそのうちの一人なんだろう。子供の頃から惹かれ、この年になるまで惹かれ続けて来た。興味の無い人には面白くない話かもしれない。

 初めて寺とか仏像に興味を持ったのは小学5年生の時だった。現場学習でバスに乗って薬師寺に到着し、そこで初めて境内に入って、その建物と建物のバランスの美しさとか、来訪者を見下ろす東塔の凛としたたたずまいとか、そして並び立つ如来と菩薩のみずみずしい立ち姿とか、全部に衝撃を受けた。一言でいうと「美しい」のだ。

例えば法隆寺に入ると、目に映るすべてが、何千年もの間、日本人が美意識の全力を集中して投入し続けてきたその結晶だと気づく。あの空気感は、要するに大昔の人々が「どうよ、これが美しさというものよ。これ以上の美しいものがこの世にあると思うか?」と目の前に叩きつけて来るような、そんなイメージだ。

建物も仏画も仏像も、いろいろと解釈や表現はあるのかもしれないが、僕にとっては「美しい」で十分だと思っている。東寺のあの不動明王とその取り巻きたちの憤怒の表情でさえ、迫力の向こう側にあるのは、古来から我々が感じて来た美意識、美しいと思う感覚である。

 中国に駐在していたころ、そこは田舎の町だったけど、ナショナルスタッフに近くの寺へ行きませんか?と誘われた。そのスタッフは会社でシステム担当をしている人だった。数週間前に、ホテル暮らしの僕の部屋のネット環境が不調になった時に、ホテルの保全スタッフの腕前が悪すぎて、僕はしびれを切らし、個人的にお願いしてそのスタッフに部屋に来てもらい、解決してもらった。その時に僕の部屋に置いてあったサックスとか、プレステとか、家族写真とか、日本から持ってきた雑誌や書籍を目にし、書籍の中には仏像の本も混ざっていた。僕は当時まだ上手く中国語が喋れなかったけど、照れながらカタコトで「古い寺とか仏像が好きなんだ」と言ったのを、そのスタッフが覚えていたのだ。

 中国の歴史は古い、というのを再認識したのは、まさにその田舎の平凡な小さな寺が、創建が日本の弥生時代の終わりくらいだと気づいた時である。もちろん建物は全部入れ替わっていて、決して古いものではないが、確かに、そんな太古の昔に、そこには寺があったのである。

で、中に入って仏像が全部、金ピカのペンキで塗られていたので、ガッカリしたというオチである。海外に慣れていないド日本人にありがちな、独りよがりのガッカリだった。仏像の金箔が剥がれても塗りなおさず、まさにその剥落にさえ詫びさびを感じて美しいと感じる不思議な感覚の日本人の一人として、「ペンキでピカピカ」はどうしても腑に落ちなかった。

「どうですか?」案内してくれたスタッフが僕の顔を見て聞いた。僕は、うん、すごいね、と笑顔で返した。心中は別である。

その数か月後、タイにいるスタッフがその僕が駐在していた中国の工場へ打合せにやって来ることになった。聞けば英語しか話せないらしい。僕は空港へ迎えに行き、社用車で工場まで同行した。

中国語の難しさに苦労しながらも少しずつ話せるようになった頃だったから、久しぶりに英語を喋ろうとすると訳が分からなくなる。頭がぐちゃぐちゃになりながら、僕は車中でそのタイ人と雑談していた。

「もう中国での生活は慣れましたか?」

「ありがとう。なんとかね」

会話が続かない・・・

あぁそうだ、この間、近所の寺に行って、「ペンキでピカピカ」にがっかりした話があったぞ。僕は、disappointedなんて言葉はいつから口にした事がなかったろう、なんて思いながら、その体験をタイ人スタッフに話した。

「日本では古きを良しとして、決して塗りなおさない。だから仏像も古めかしくて雰囲気があるし、そこに価値を感じるんだ」

「そうですか。でもタイでも仏像はたくさんのダイヤモンドを埋め込んだりして、毎日ピカピカに磨いて美しくします。だって大切なものを美しくしてあげたいと思うのは人間として自然でしょ」

あ、と思った。

そういうことなんだね。

大切なものなら美しくしたいのは自然、ってそりゃそうかもしれない。僕は日本の古都にある片腕や片足がちぎれたままのあの仏像たちを思い出していた。確かに、ちょっと変わっているのは、我々の方かもしれない。外へ出た日本人にありがちなカルチャーショックである。

 古寺とか仏像が好きなのはそのまま続き、帰国後はしばらく毎週のように高速に乗って京都や奈良へ行っては、好きな仏像を見ていた。もちろんその頃には、要するにこの詫びさびの感覚、外国人から見たら、ボロボロの仏像をボロボロのまま鑑賞する、というのが世界標準では特殊なのは知っていたが、今さら日本人を止める訳にはいかない。僕は心の底から帰国を謳歌し、心ゆくまで好きな仏像を眺めていた。

 もちろんブッダが生きていた頃は、仏像なんてなかった。死んでから500年くらいたったころ、布教の道具として仏像が生まれた。だから悟りとかそういう話とは関係ないのが仏像だ。生きている人間、悟りなんて全く無縁の生々しい人間が、ブッダの面影を見たいという願いから生まれたのである。葬式も同じ。昔から死は、決して自分のものではなく、生き残った人々の、いわば自分以外のものである。生き残った側はその死を受け入れるために、思い出としての写真を、記念としての儀式を、これからも生きて行くために大切にする。死はその人のものとして存在しない。その人を大切に思う、生き残った人々のために存在し、だから生き残った人々はその人の思い出を祭壇に飾る。古来から色々な形でわれわれ人間がやって来た事だ。

 なので、古寺にあるあの美しい仏像たちは、面影を見たいという願いの記念品であり、仏師たちの情熱は、その願いに注がれていた。出来たばかりの仏像たちは、みんなピカピカだった。それをそのまま美しいままにしたいと考えるのが普通の感覚だろう。

でもこの島国の我々は、美しさが時間とともに滅びて行く、この世の常ならない(無常)に趣(おもむき)を感じ、仏の頬の金箔の剥落に、かつて必死で美しいものを再現しようとした人々の情熱を見出して、感嘆する。複雑な人たちだ。そりゃ、海外の人たちから見たら得体が知れないだろう。

が、僕たちはこの複雑な日本人を止められない。もっとシンプルに人生を楽しんでスパっと死ねればいいのにね。

 ところで「古寺行こう」シリーズは全部で40巻も出るらしい。マズいなぁと思った。この先、衝動買いを回避できるだろうか?無理だろうなぁ。このまま小学館の思うつぼにハマって行くのかな?

古都に佇むあの仏像たちの表情の向こう側に、かの人の死を思い出に留めたいという古人の情熱と願いを、僕たちは静かに見ている。それがどこかの小さな家の書斎の、本棚に並べられた書籍の一冊の一枚の写真であってもだ。

僕は椅子に座って一人の時間を過ごし、手にした雑誌の写真を静かな気持ちで見ている。

映画「浅田家」を観て、家族って何?のテーマを考えつつ、人生に理由を求めても幸せになれないよねってやっぱり思ったこと

 昔はやたら洋画ばかりを見て、邦画なんてほとんど観ることがなかったのに、最近は妙に心に沁みることが多く、邦画浸けである。いいなぁと思う作品が多いのは、それだけ邦画の作り手の層が厚いのかなとも思う。

 「浅田家」は有名な写真家の話だし、今はなき写真雑誌の「アサヒカメラ」で何度もその方の作品を見たので、興味があった。いったいどんな人なんだろう、というやつだ。で、映画館へ行くのを行きそびれて、結局、Amazonプライムで観ることになった。便利な世の中だ。

 子供時代に父親からもらったカメラを使って夢中で撮る、なんて自分の人生にも重なるところがあって、あっという間にストーリーに気持ちが入り込んで行く。主人公は、自分の家族がみんなで消防士とかのコスプレをして撮影する、という一風変わった「家族写真」に取り組み、これで世に打って出て、紆余曲折の末、木村伊兵衛写真賞という小説で言うところの芥川賞のような権威のある賞を取る。そしてそこからは、やはりこの「家族写真」を主軸に写真家としての活動を続けて行く話だ。

テーマはもちろん「家族」である。

 映画でもそのシーンが出て来るが、戦隊もののヒーローのコスプレを家族みんなでやってから写真を撮る、などというのは、一種のディフォルメ行為であり、我々は家族写真を撮るとき、例えば子供の入学式(全員正装)とか、祭りに行く前(全員はっぴ姿)とか、よくよく考えてみると、全員でちょっとおめかしした時点で、多かれ少なかれコスプレをやっているのである。

「全員でおめかし」の準備作業のてんやわんやや、そこで繰り広げられる喧々囂々(けんけんごうごう)とした家族の会話が、すでに家族写真の一部であり、それは単なる記念として一瞬の時間を切り取ったものではなく、そこに至るまでの準備を含めた、家族のコミュニケーションや関係性の反映でもある。

だからこの浅田という写真家の活動はいたって真面目であり、そのアイデアは「家族」を表現するための実に理にかなったものとなっている。というのを作品を観ていれば自然に分かる、そんな興味深い映画だった。

主人公はもちろん、登場人物全員が飄々(ひょうひょう)としていて、嫌みがなく、「家族」を押し付けることもなく、それでいて「家族」を考えさせる爽やかな作品だ。

なぜ家族を持つのか?

観終わってから、改めてそんなことを考え始める。

 我々の生まれたころは、40代の生涯未婚率が2%だった。今の我々40代は、男性の23%が、そして女性の14%が一生、家族を持つことはない。劇的な変化だ。

諸説あるが半分は経済、半分は娯楽の多様化が理由だろう。どんなに一生懸命稼いでも、大半をジジババに没収され、そのくせ将来、自分たちがジジババになる頃にはこの国がスッカラカンになるのは分かっているので、そんな能天気に家族なんて抱えている場合じゃないぞ、というお金の面の悲観と、一方、今やネット時代、一人で過ごす休日を充実させるためのコンテンツが物凄く豊富で、特段、そこに侘しさや悲しみや孤独がないからである。街へ飛び出せば「おひとり様」向けの楽しみが溢れ、既に「おひとり様」は歴とした市民権があるので、男も女も引け目を一切感じず堂々と生きて行ける。

ではそれでもなぜ、ある一定数の人々は家族を持とうとするのか?

 国の未来は暗い。人口比率の推移を考えると、第二次ベビーブーマーである自分たちが90歳を越えて死に絶えるくらいにようやく、この国は世代間の数の極端なアンバランスを脱することが出来るだろうから、それまでは(自分たちが死に絶えるまでは)歴史的な技術革新が起こらない限り、全体としては貧しくなって行く一方だろう。家族を持つとは、自分以外の他人の人生を抱えるということだ。自分以外の存在である配偶者や子供の人生を、どんどん貧しくなって行くこの国で抱えて行かなければならないって、それなりの経済的な覚悟が必要である。

ではそれでもなぜ、家族を持つのか?

一人で生きて行く方が楽で、不安もなく、お金もある程度自由に使えて、のびのびと人生を楽しめるのでは?

 もう20年近く前の話だ。

 僕は東京から地元にUターンして、そこから数年はシングルを謳歌(おうか)して過ごしていた。なにしろフツーの地方都市だ。何もない訳ではないが、何かある訳でもない。

土曜日。フィルムカメラと釣り道具を車に積み込み、町を抜けて田舎を走り抜け、野山に分け入って、夏空の下の美しい田園景色を何時間もかけて撮影したり、草原の上で昼寝したり、渓流に釣り糸を垂れたり、夕暮れ時の息をのむような美しい森の風景にカメラを向けたりして過ごし、暗くなったら車に乗って、自分のアパートに向かった。

そして途中でスーパーに立ち寄り食材を買って、部屋に戻ったら、自分が食べたい料理を夕ご飯に作って食べ、テレビを見てのんびり過ごし、ちょっとベッドでゴロゴロした後、ヤフオクで競り落としたビンテージサックスを入れた革製のケースを手に、車に乗ってレンタルスペースへ出かけ、夜更けまで一人で練習した。

なぜ家族を持つのか?

日曜日。少し早起きしてTOEICの勉強をし、洗濯と部屋の掃除を終えて昼ご飯を作る。午後はのんびり音楽を聴きながら本を読み、眠くなったらまどろむ。夕ご飯の前に母親に頼まれていた掃除機(壊れたので新しいのを買って来るよう言われていた)を電気店に買いに行き、実家へ立ち寄ってそれを置いてくる。だいぶ年をとった母親の背中がずいぶん小さく見え、胸の中心に小さな痛みを感じながら、家路につく。夕ご飯は昨日の残りで簡単にすませ、PCを起動させて学生時代の友人とチャットする。明日からまた仕事だ。どうせ今夜は眠れない。普通のサラリーマンの日曜の眠れない夜を過ごす。

なぜ家族を持つのか?

平日は死に物狂いで仕事だ。中途採用だから誰から仕事を教えてもらう訳でもなく、誰がサポートしてくれる訳でもない。即戦力と自己責任が僕たちに叩きつけられたキーワードだ。必死で盗み、学び、処理し、乗り切り、潰れないように、上司のパワハラなんて気にせず(当時はそんな言葉や概念はなかったが)、潰されず、仕事を覚え、仕事を続けて行く。周りで次々と潰されて家から出て来れなくなる連中(やはり中途採用の同世代)がいても、誰も気になんてしない。部屋で死んでいようと誰も気にしない。僕たちの目の前に仕事があり、お金が定期的に通帳に入って来ることに感謝だ。ただそれだけだ。上の世代?逃げ切るのに必死なんだろう。皆、傾いて行く世の中にあって必死だ。

なぜ家族を持つのか?

土曜日。疲れ切って昼近くまで眠る。昼過ぎにゆっくり洗濯と部屋の掃除をして、シャワーを浴び、ちょっとおめかしして出かける。居酒屋で幼馴染みと待ち合わせ、馬鹿話をしながら楽しく飲む。幼馴染みが連れて来た女の子は結構可愛いけど、僕はフツーに接し、フツーに冗談を言い、楽しく飲んで、3軒くらい一緒にハシゴして、電話番号を交換して、帰りのタクシーを捕まえ、乗り込む。

日曜日。少し勉強し、持ち帰ったシゴトをせっせとこなし、昼過ぎに遅い昼食を食べ、車で出かける。実家で母親を拾い、祖母の収容されている施設に到着し、もはや生きているのみで表情はなく、言葉も発しない祖母に母親がスプーンでゼリーを食べさせるのを、そばで静かに眺め、また母親を車に乗せて実家に戻り、母親を下ろしたらそのまま自分はアパートに帰って行く。もうすっかり日暮れだ。アパートの部屋で夕食を作って食べ、普通のサラリーマンの日曜の眠れない夜を過ごす。

なぜ家族を持つのか?

東京から帰って数年は僕はそんな感じで過ごし、古いフィルムカメラの優雅なシャッター音とか、ビンテージサックスの深みのある低音とか、好きな料理が出来上がる瞬間の芳ばしい香りとか、幼馴染と居酒屋で飲むドイツビールの味とか、誰もいない森の奥の渓流の水面に反射する光の束とか、要するに人間以外のものに休日は囲まれ、人間以外のものを味っていた。

そしていずれ、母親は年を取って祖母のようにもはや生きているのみで施設に収容され、そして僕は時々そんな母親に会いに行くだろうし、そしていずれ、その母親の最後を見守って、見送って、そうしたらいよいよ、人間以外のものだけが、僕の身の回りに残るのだな、と考えていた。そしてそう考えた時、それは地元に戻ってそんな人間以外のものに自分が癒され、ある意味、心を閉ざし続けて仕事に没頭する数年を経てからの事だったけど、急になんだか人恋しくなった。

誰かを好きになりたいな。

そういう感覚だ。出来る限り人間以外のものに囲まれ、心を閉ざしていた期間がなぜ自分に必要だったのか、当時の自分にちっとも分からなかったように、ある日急にそんな風に人恋しくなった理由も、当時の自分にはちっとも分からなかった。

誰かを好きになりたいな。

僕はある女性を好きになり、一緒に暮らし始め、結婚した。数年間、人間以外のものに気持ちが囲まれていたそのあと、僕は突然湧き出て来た人恋しさの延長線上で人を好きになり、そのままその人と一緒になった。

なぜ家族を持つのか?

生きることの無意味さを忘れ得る便利な制度だから?

知恵だから?

でも我々は、家族を持ち、子供を育て、孫の面倒をみて、確かにその間は無意味さの忘却に包まれて生きて行けるが、一方、死ぬ直前にはやはり無意味にたった一人で死んで行かなければならないのを知っている。どんなに家族に囲まれていても、死ぬときはたった一人で死んで行くだけだ。息子や娘の悲しそうな顔や孫の不思議そうな表情を病床で見たとき、本当に心の底から意味があったと思えるだろうか?或いは意味があったと思い込んで安心して死ねるだろうか?

それは誰も分からない。だから、無意味さの忘却は、家族を持ったとしても、一時しのぎでしかない。僕たちは無意味に生き、無意味に死んで行くことに変わりはないのだ。

ではなぜ家族を持つのか?

それは、「なぜ?」と問いを立てる対象では、そもそもないのかもしれない。生きることに意味や理由や目的がないのと同義ということである。それを理解せずにこの「なぜ?」という問いを立ててしまうと、僕たちは生きる意味が分からなくても生きて行けるのに、家族を持つ意味が分からないと言って、家族をもたないという選択をしてしまえる。それは少し不幸なことだ。もし家族を持つことに少しでも興味があるなら、なおさらである。意味を求めなくていい。なんか結婚しちゃえばいいのである。なんか子供が出来ちゃえばいいのである。不真面目な考え方だろうか?合理的な根拠が必要?家族を持つって生きることの一部なのに?生きるなんてどうせ不合理なのに?

 「浅田家」の主人公は末っ子らしく、風来坊だ。地元に残ったお兄さんと違い、気まぐれで、時に衝動的で、家族の暖かいまなざしと支援と友達のような関係に嫌みなく甘え、好きなことをして、好きなものを好きと言える。そしてその延長線上で好きな人と一緒になり、自分の「家族」に対しても、撮影対象である他人の「家族」に対しても、自然な目線を注ぎ続けカメラのシャッターを切る。そこに「なぜ?」はなく、合理的根拠も求めることはないだろう。

 僕たち40代は最も熾烈な受験戦争に晒(さら)されて来た世代だ。現代文のテストの回答は、どのような物語の人間関係の機微にも「理由」が存在するということを建前にしていた。他の教科も含め全てのテストには、必ず回答が1つ存在するというのが大前提だった。要するに必ずどこかに回答とそれを成立させる合理的な理由があると、徹底的に叩き込まれた世代だ。

が、世の中には回答が存在せず、人生にも回答は存在しない。生きることに合理的な理由なんて存在しない。そんな800年前に方丈記で書かれているような事でさえ、僕たちは未だに腹落ちできず、そのまま年を取り、「なぜ?」の中で迷い続けているのだ。

「人生であと一枚しか写真が撮れないとしたら、君は何を撮る?」

写真学校の先生に主人公が言われた言葉である。主人公はそこから家族写真を撮り始めるのだが、この「浅田家」という映画を観た写真好きなら、みんな観終えてから自分は何を撮るだろう?って考えたはずだ。

それが家族の写真なら幸い。

家族でなくても自分の大切な人なら幸い。

人間以外のものではなく、息をしている人間そのものであれば幸い。

僕たちは迷いの中で、死に向かって静かに生きて行く。それは、回答がないのに回答を求め続ける、悲しい人の宿命でもある。

ゴールデンウィークの真夜中に高速を走り出し、恋する場所でこんにゃくを食しながら、若かりし頃にブラジル人の友人と遊んだ日々を思い出したこと

 ゴールデンウィークなんてどこに行っても渋滞で、人だらけで、宿もゴールデンウィーク価格とかで普段よりずっと高いし、寝て過ごそうと思っていた。

金曜日に緊急対応の続きを終え、連休に入る前日の一番幸せな夕方だったはずが、気付けば20時だ。みんな若手は嬉しそうに帰って行ったが、問題は全然解決せず、あぁまだ上海は動かないや、ゴールデンウィークまでは何とか乗り切ったけど、こりゃ明けたらいよいよ部品が入って来ないぞ、生産はストップするぞ、オワったかもしれん、「仕方がないのは分かっている。が、それでも何か打つ手はないのか?」という、仕方ないからと言って結局は誰も許してはくれないヒリヒリした地獄を、ゴールデンウィークが明けたらやんなきゃ、とため息をつきながら、オフィスの座席で深々と腰掛ける。もう誰も残っていないや、あ、向こうの方に設計部隊がまだ残っていて、何か顔を引きつらせて対応しているぞ、何かあったのかな?

いずれにせよ、昭和のプロジェクトXは、40歳以上に限定して参加となっており、若手はそういうのには参加させてはいけない事になっている。離職防止の為の暗黙の了解だ。君たちは21世紀の金の卵だから、何もかも忘れてリフレッシュして来なさい。このパンデミックの地獄は、オジサンたち使い捨て世代が屍(しかばね)となって乗り切り、乗り切った後はいよいよマジで使い捨てされて屍となる予定だけど、もはや年齢的に何ともならんので、頑張ります、ハイ。という感じだ。休みの間にもガンガン電話かかって来るのかな?なんてもう一度ため息をついてから立ち上がり、家路についた。

金曜日の夜はだいたい疲れがピークに達していて、ご飯を食べてお風呂に入ったらそのまま気絶するのだけど、いちおう何とかゴールデンウィークまで乗り切ったという安堵感もあって、僕は家に帰って手洗いうがいし、リビングでちょっと横になった瞬間、気を失っていた。ご飯も食べる気力なし。もうヘトヘトなのです。

で、目が覚めたら夜中の12時だった。あれ?今日からゴールデンウィークか。0時ってことは今始まったとこだね。家人にせかされ、お風呂に入っているうち、なんだか元気が出てきた。変な時間に寝たけど、ちょっと寝たらすっかり元気だ。

なんだかワクワクして来て、風呂を出るころにはすっかりテンションが上がっていた。今日からゴールデンウィークじゃん、若いころは長期連休の前日の夜なんてあんなに楽しかったじゃん、なに疲れ切ってるんだよ、寝て過ごそうなんて何だよ、ちょっと寝たらほら、復活したじゃん。

風呂を飛び出すやいなや素っ裸で、

「今から旅行へ行く」

なんて年甲斐もない宣言をしてみたら、さっきから鼻歌を歌って風呂に浸かっている僕の様子を察し、家人は既に半分準備していた。さすがだね。僕もいつものお泊りセット(パジャマ・着替え・歯ブラシ・旅行用のコンタクト携帯パック・ひげそり・胃薬・バファリン・携帯の充電器・携帯加湿器)を車に積み込み、きっと寒いところに行くのでダウンジャケットも後部座席に突っ込んで、いざ出発だ!

夜の高速はスイスイ走れた。でも安全第一だ。事故ったら台無しだからね。途中で立ち寄るサービスエリアの夜食とか、コーヒーとか、全部が旅行気分を盛り上げてくれる。そうそう、せっかくのゴールデンウィークだ。楽しまなきゃね。

明け方まで走り続けて、明け方に諏訪湖のほとりに到着した。さすがに昨夜は数時間寝ただけなので、眠くなって来た。湖面が朝日に照らされキラキラ輝いているそのすぐそばの駐車場で、僕は座席のシートを倒して仮眠をとることにした。窓を開けると空気が美味しい。生き返る気持ちだ。

来る途中の助手席で爆睡していた家人は、隣で、さっきコンビニで買ったお菓子を食べながら、漫画をニコニコ読んでいる。僕は数時間、湖畔でぐっすり眠った。

9時ごろに目が覚めて、外に出ると青空が広がっていた。やっぱり諏訪湖のほとりは気持ちよかった。しばらく眺め、もう一度車に乗って、白馬に向けて走り出す。安曇野までは何度かウロウロ観光したことはあったが、白馬までは行ったことがなかったので、今日はそこまで走ろうと思ったのだ。

美しい長野の風景の中を走り続け、昼前にはまだ雪の残る白馬に到着した。ゴンドラに乗って山の上まで登って行く。凄いな。スキー客がそこにまだいた。山の上に最後に残っているこの固い雪で、最後まで楽しみたいんだな、とその熱心さに驚く。

そのスキー客のすぐ横で、パラグライダーに乗って遊覧飛行を楽しんでいる人たちを見ていた。これが見たかったのだ。フライトを楽しむ人々が、順番に走り出し、大空へ飛び出し、白馬の美しい田園風景の上をゆっくり漂い始める。空は青く、どこまでも突き抜けていて、見ていて本当に気持ちの晴れる風景だった。きっと気持ちいいんだろうな。

昼ご飯は白馬で食べた。農場がやっているレストランで、おにぎり定食だ。美味しくない訳がない。コメを味わう、という意味で、おにぎりを超える料理はない。

お腹がいっぱいになったところで、僕たちは嬬恋村へ向かった。こんな直前でどっこも宿は空いていないだろな、とあきらめながら探したら、嬬恋村に一件、良心的で手ごろな宿を見つけたのだ。その夜はそこに宿泊するつもりだった。僕は長野の美しい風景をまた走り出した。

嬬恋村は初めて行ったけど、しかも到着したのが夕方だったので観光する時間がなかったけど、宿に入ってチェックインして、フロントの横のパンフレット(周辺観光の案内)を見ていたら、ありゃすんごく魅力的な場所なんだなと思った。もう日が暮れて来たし、明日は雨だから、今度、夏休みにでももう一度来ようと思った。牧場も近くにあって、動物好きの家人も喜びそうだ。

そして、お楽しみの夕ご飯は、群馬の特産品をふんだんに使ったバイキング料理だった。やっぱり、こんにゃくが本気で美味しい!群馬のこんにゃくは、というより群馬で食べるこんにゃくは、さすが有名なだけに作り方に色んな知恵が込められているのか、臭みが全くなく、本当に、こんにゃくの美味しさだけを凝縮したようなそんなこんにゃくなのである。

20代のころ、群馬の工場に飛ばされて、群馬と言ってもずっと埼玉寄りだったけどしばらくそこに住んでいた。そして、実はこんにゃくは美味しいと思ったのを覚えている。というか、それまでこんにゃくなんて、別に味のしない、もしするとすればあの土みたいな臭みのある風味と味の食べ物で、酢味噌でごまかして歯ごたえを楽しむだけのものだと思っていた。こんにゃくを作っている人たちにはひどく失礼な話だ。でも、群馬で「本物の」こんにゃくを食べてみて、その常識が変わったのだ。こんにゃくには味があり、しかも非常に美味(びみ)なもので、酢味噌はその味を引き立たせるためにあるのである。それは20代にして衝撃的な発見だった。

 バイキング形式だったので、僕は色々なこんにゃくを次々と皿に盛って、パクパク食べていた。田楽もある。やっぱり美味しい。

 群馬に住んでいたころは、その他にも食べてみて初めて美味しいと思ったものがもう一つある。ブラジル料理シュラスコだ。

当時勤めていた会社の工場の作業者にはたくさんのブラジル人がいて、大半が日系3世だった。70年くらい前にお爺ちゃんやお婆ちゃんがブラジルに渡り、ジャングルで死ぬほど苦労して生活を切り開き、その後、子供が生まれ、孫が生まれ、その孫たちが生まれ故郷の日本へ出稼ぎにやって来たのだ。

20代の僕は慣れない地方都市で、気質も違うし、あんまり地元の日本人とつるむことはなく、週末には東京に戻って友だちと騒ぐことが多かったが、それでも毎週という訳には行かないので、結局、金曜日の夜を静かに一人で過ごすことが多かった。そんな僕を見て声をかけて来たのが、工場に作業者として出稼ぎにやって来た同い年の日系ブラジル人だった。3世だから色々な血も混じっていて、目が茶色だった。いつも笑顔で、日本でお金を貯めて、ブラジルで店を開くのが夢だと言っていた。週末は彼の車に乗ってブラジル人の集まるディスコ(閉鎖された工場を改造した、薄暗いけど無茶苦茶かっこいい酒場だった)に行き、そのあとレストランでシュラスコを食べて、そのあと夜を通してビリヤードをやっていた。

初めてシュラスコを食べたとき、ウェイターに金串に刺された大きな肉の塊を差し出され、「どの部分を食べたいか?」聞かれた時は、さすがにとまどったのを覚えている。ブラジル人のその友人の方を見ると、おススメの焼き色をした部分を教えてくれたので、僕はウェイターにそこを指さし、ナイフでその場で切ってもらって、皿に盛ってもらった。ふだんブラジル料理店の看板の写真を表から見る分には、あんまり美味しそうに見えなかったそのシュラスコだが、実際に食べてみると、炭火の芳ばしい香りが肉に程よく纏わりつき、柔らかく、本当に美味しかった。あんまり美味しいので、しばらくは毎週一人で通った。

そんな群馬時代の記憶を思い出しながら、こんにゃくを頬張る。上州牛のローストビーフもタラの芽の天ぷらも、やはりこれも地元特産のキャベツのスープも、最高に美味しかった。急に予約した宿だったけど、大当たりだった。僕はお腹いっぱい、群馬の特産料理を食べ、ビールで流し込んだ。

そういやあの頃は徹夜でも一晩中、遊べたなぁ、なんて思い出す。もう明け方になると、さすがに眠気も襲って、ブラジル人のその友人も僕も、黙々とビリヤードの球を打っていたのを覚えている。あいつは元気にしているんだろうか?夢がかなって今頃、故郷でレストランをやっているのかな?自分の人生を通り過ぎたたくさんの人々の一人の顔を、そうやって思い出し、そう、あの茶色の瞳を思い出す。

先が何にも見えない時代の日本の若者の一人として、出稼ぎで貯めたお金を使って将来、故郷で夢を叶えようとしていたそのブラジル人の若者が、ものすごく眩(まぶ)しく見えていたのは確かだ。彼らには夢があり、将来があった。一方、日本人の若者である僕たちはただただ、働けるだけマシだと思い、縮こまって行く暗い時代を、その場で必死で生きていた。

あれから20年以上がたっている。

 翌日はすごい霧が出ていた。僕たちは霧の浅間山麓をゆっくり車で走り下り、そのまま高速に乗って帰宅の途についた。

金曜日の夜中の高速道路のオレンジ色、サービスエリアの夜食の匂い、助手席の幸せそうな寝顔、朝日の光にキラキラ輝く美しい湖面、雪の残る田園風景の上を滑走する赤色のグライダー、そして美味しい地元の料理と、ブラジル人の友人と過ごした若い日々の思い出。そんな旅だった。いい旅だったね。

日本はあまりに狭いけど、そして時々、こんな同調圧力だらけの年を取った国なんて飛び出して、果てしなく遠くへまで行ってしまいたいと思うけど、まだまだ捨てたもんじゃないんだね、ニッポン!美しい長野の風景と、群馬の新鮮で美味しい野菜料理を思い返している。

なにしろ嬬恋なんて素敵な名前だ。いつか晴れた日に、パンフレットの写真で見た、延々と広がる広大なキャベツ畑を、家人と見に行こう。

平凡なサラリーマンの平凡な人生を、じっくり味わって生きて行く。楽しみが一つ増えたね。そして美しい風景だった。それで僕は十分だ。

「走れ、絶望に追いつかれない速さで」と「二十歳の原点」とジェームス・ブラントに感動しつつ、ビールを飲んでムニャムニャ言って眠ること

 なんだか90年代生まれの人たちというのはずっと年下なのだが、ひょっとすると大きく世の中を変えるのかも、と思うことが多い。音楽もそう。スポーツもそう。これまでの感性からスパっと飛び抜けた成果や作品が多く、いったい誰なんだって調べてみると、たいてい90年代生まれの人たちだ。たまたまなんだろうか。

最近じゃこんなオッサンが、通勤途中の車の中でJazzの合間にKing Gnuを聞いている。

 「走れ、絶望に追いつかれない速さで」なんて題名が、もうあれだね、ランボーの詩みたいで、カッコよすぎるなぁ、と思って監督をネットで調べると、ありゃやっぱり90年代生まれか、そして詩人なんだ、と納得する。若くにしてこんな凄い才能が発揮できるなんて本当に大したもんだ。

 映画は始終、美しい映像と構成で話が進み、最後のシーンも本当に美しい。こりゃ一遍の詩だね。主人公は親友が死んでしまった理由を知りたくもあり、知りたくもないのだが(なぜって同じように絶望に追いつかれそうだから)、そんな際どい心模様を、これまた90年代生まれの俳優が素晴らしい演技で演じている。自然で、嫌みなく、大人の所帯じみた感じもなく、すうっと人の心に入ってくるような演技をする役者さんだった。いい映画を見たなぁという感じ。

 中学生の時、たまたま手に取った「二十歳の原点」(高野悦子)という本を読んで、内容はもちろんだが、その文体とアフォリズムのみずみずしい美しさに感動し、よくこんな凄い文章を思いつくな、思いつくとかでなく、まさにそれが才能であり、湧き出て来るものなんだろうな、なんて考えていた。

たった一編の詩、音楽のワンフレーズ、映像のワンシーンであっても、もし自分が人生を生きた証と言えるような凄いものを生み出せるなら、それはきっと本当に幸せなことなんだろう。

そういやこの間、高速道路をぶっ飛ばしながら、ジェームス・ブラントの「Your’e beautiful」を久しぶりに聞いた時、う~ん、人生で一曲でもこんなのが作れたら、ミュージシャンとしてはもう大満足なんだろな、なんて思った。生きる意味があったというものだ。ジェームスさんは、最近ではちゃんと上着を着て、いい感じの落ち着いたオジサンとしてギター片手に笑顔で歌っている。他にもいっぱい素敵な曲を書いたけど、この曲をこの世に生み出した時点で、もう全てに意味があったというものだ。美しいメロディは、こんな東アジアの島国の高速道路の上でも、高い青空へ透き通って突き抜けて行くように流れる。凄い才能だね。

 が、僕たち大半の凡人は、一発で生きる意味があったと確信をもって言えるような奇跡の言葉や音楽を生み出すことなく、残して行くこともなく、たいていは、仕事キツイよぅ~とか、アレ美味しかったからもう一回食べに行きたいよぉ~とか、お尻のデキものは痒くも痛くもないけど不安だから一度お医者さんに診てもらった方がいいかなぁとか、しょうもない事をたくさん喋ってこの世に言葉を吐き出し(生み出し)、年を取って死んで行く。そこには誰かの人生を変えるような瑞々しい感性も、それを表現した作品もなく、僕たちは胃痛と共に目を覚まし、夜はビールを飲んでムニャムニャ言って、眠りにつく。ただそれだけだ。一編の詩も、美しいメロディもない。絶望的と言えば絶望的だけど、そもそも僕たちの大半は端(はな)から創作の才能がないので、絶望に追いつかれる恐怖感もない。既にここにいる場所が、所帯じみた、平凡で退屈な場所で、人生が光に輝いて飛翔して行けるような瞬間もないまま、ヘラヘラ笑ってゲップして、ただ眠ればいいのである。

そういう意味では創作に携わる芸術家たちの苦労は、想像を絶するものなのかもしれない。絶望が常に背後から追いかけて来る焦燥感の中、死に物狂いで人生に光を見つけ出し、自分のスタイルで表現し続けなければならない。「個性を磨け」なんてホント地獄なんだと思う。若くしてすんごい作品を生み出してしまった芸術家が、その後に苦しむのは、本当に当たり前のことだ。きっと辛いんだろな。

だから、平凡がよろしい。そして時々は天才の作品に触れて感動し、でもやっぱ平凡でよかったぁ、こっちの方が絶対楽チンだぁ、なんて、ポテチを食べてAmazonプライムとか見ながら感謝するのが一番だ。研ぎ澄まされた感性というのは、若いころは憧れや羨ましさがあったけど、今や出来る限り鈍感に、のほほんと生きた方がいいのを知っているので、そういうのは無くてよかったと思っている。

たかが数十年の命だ。穏やかに、味わって生きるには、平凡な感性でよろしい。

 30歳で地元へ帰って来て、地方都市で暮らすのはいいいが、休日はマジで暇だな、何にもないな、何か新しい趣味を持とうかな、なんて思って、油絵を描き始めた。学校の授業で描く絵は下手だったし才能はないのは分かっているけど、昔から絵画を見るのは好きだったので、一度、キャンバスに向かってフムフム言いながら描いてみたかったのだ。「創作」ではなく露骨な「思い出づくり」である。観光地で貸衣装を着るのと同じ感覚だ。

近所で画家の先生がアトリエを開放していて、お金を払えばそこで自由に描いてよかったので、僕はその絵画教室に申し込んだ。油絵具とかパレットとか何種類の筆とか、ガラス瓶に入った溶き油とか、とにかく道具を揃えるのが楽しくて、嬉しくて、アトリエに来ても一向に絵を描こうとせず、色ってこんな種類があるんスか?、この木製のパレットが味があって気に入ってます、なんて先生を相手にベラベラ喋っていた。

一応、先生もプロの立場からいろいろアドバイスをしてくれるのだが、何しろ生徒のこちらが全く不真面目で言うことを全然聞かない。オリジナルであることが大切、なんて先生が他の生徒に教えているすぐそばで、僕はマイルス・デイビスの顔写真が入ったCDジャケットを持ち込んで、それを模写し始めた。何か大切なものを新しく表現しようとか生み出そうとか、最初から全くそんな事をやる気のない、極めて不真面目な生徒だったのである。

先生は苦笑いをしていた。「仕事でストレスが溜まってんだと思うよ。そうやって絵の具まみれで何かやっていると、気持ちが晴れるんでしょ?」なんて僕を諭した。僕はそんなものかな、と思いつつ、油絵具のこの匂いとか、アトリエの雰囲気はいいなぁと思っていた。懐かしい思い出だ。

 もちろん、本格的に絵を勉強しに来る社会人もいた。彼ら(彼女たち)は働きながら二科展とか目指している生徒さんだった。そういう人たちは気合の入り方が全然違ったし、先生の指導も見ていると厳しかった。ヤだね、休日にまで誰かに指示されるなんて御免だなと、横目で見ていたのを覚えている。

 そして僕と同じ時間帯には、美術大学を目指す女の子も描きに来ていた。いつも恐ろしく不機嫌で、アトリエに入って来ても誰にも挨拶はせず、まっすぐに自分の描きかけの絵を手に取って、イーゼルに乱暴に立てかける。そしてそこからは言葉通り「一心不乱に」描き始めるのだ。大きなキャンバスは暗い緑色(黒とか灰色が混ざった緑)まみれで、一見、ただの薄暗い緑色の壁みたいだけど、目をこらすと、ぼんやりとその奥に人間の目や鼻や口らしきものが見えて来る。そんな凄まじい絵だった。題名が「自画像」だ。彼女は叩きつけるようにキャンバスに絵の具を塗りこめ、必死で何かを表現しようとしている様子だった。きっと人生に光を見出そうとしていた。まだ十代だ。たくさんの可能性があり、何者でもない自分への苛立ちと不安に苛まれながら、きっと戦っていたのだろう。そして将来、もし無事に芸術の道に進んだなら、その戦いはずっと続いて行くのだろう。きっと辛いんだろうな。なんて想像していた。創作って決して楽しいより苦しい方が多いはずだ。僕はCDジャケットの写真をそのまんま、油絵を混ぜて模写していた。創作ではなく写経か塗り絵に近かった。お気楽なもんである。

 今日もどこかで、特に東京の片隅、下北沢か高円寺か上野かどこかで、自分の才能を信じて死に物狂いで創作し、不安に苛まれ、それでも戦っている若者たちがいるのだろう。彼らは長々と平凡に時間を積み重ねて生きて行く事を良しとせず、そして実際には20年くらいしか生きていないけど、もう彼らにとっては十分であり、生まれて来たことに意味があったと、たった一発の作品で世の中に証明してみせる為に、そのたった一発をこの世に生み出す瞬間を狙うために、必死に生きているはずだ。エミネムのOne shot ってやつだね。

大丈夫、絶望なんて追いかけて来ないよ。美味しいもの食べて、ビール飲んで、眠ろう。そう言ってやりたいオジサンがここにいる一方、絶望から逃れるように創作に打ち込むそんな若者たちのその若さに、眩しいものも感じているのだ。

100年前の世紀末である1890年代(要するに90年代)、芥川龍之介宮沢賢治ヘミングウェイも生まれた。

何だか楽しみだね。

そんなことを平凡なオジサンは、ビールを飲みながら、のほほんと考えている。

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