失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

天上の岬で青い空と海に囲まれて馬を眺め、冷や汁をお腹いっぱい食べたこと

 九州一周旅行は福岡の博多空港に降り立ったところから始まり、長崎、佐賀、熊本、鹿児島を経て、宮崎に入った。宮崎にはどうしても行ってみたい場所があった。

都井岬である。

日向灘の南端にあるその美しい岬には、野生の馬たちがいるという。

 その日もとても晴れていて、岬の上には突き抜けるような青空が広がっていた。美しい岬だった。絶壁の上に草原が広がり、その上をのんびりと馬たちが歩いていた。

全てが絵になる風景である。平日ということもあり、僕たち以外は誰もおらず、あまりに世離れしたゆったりした時間が流れていたので、なんだか別の国に来ているみたいだった。青い空と海を背景に、少し離れてその野生の馬たちを眺める。

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さらに離れてみると、やっぱりこれは、もはや一枚の絵画だ。

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すんごいや。こんな場所があるなんて信じられない。僕たちは時間を忘れて岬を歩いた。プラプラ歩いた。馬たちを眺め、海を眺め、空を眺めた。美味しい空気。さわやかな風。ほのかな潮の香り。いつまでもいたいと思える静かな場所だった。近くに人家はないけど、こんなところがもし、車で数時間のところにあるなら、僕は毎週末、その数時間をかけてやって来るだろう。

が、次の目的地に行かなければいけない。僕たちはちょっと後ろ髪を引かれる思いだったけど、車に乗って美しいその岬を後にした。

ついに九州を折り返し、北上を始める。宮崎を楽しみ、美味しいご飯を頂くのだ。

 宮崎のことを日向(ひゅうが)というが、これは昔は「ヒムカ」と呼んでいたらしく、日向かうという意味で太陽が現れる方向を示した。おひさまが出て来るところなのだから、もうそれだけでめでたく、そこは天上の国につながっているということ。神話の世界の物語の様々な舞台になって当然である。

で、いきさつはともかく、日向の国にはモアイが並んでいて(神話はさておき)、そこに立ち寄った。いかにも観光向けの施設かなと思ったら、意外に素朴に、そこに並んでいる。

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ものすごく自然で嫌みがないのだ。そりゃそうだ。人の善意がきっかけで、地球の反対側にいるモアイたちがそこに「完全復元」されているのだ。実物は思った以上に大きく、みな表情が豊かで、暖かい気持ちになった。微笑んでいるんだね。

少し丘の上にのぼって見下ろすと、これまた日向の真っ青な海に似合う。

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さて宮崎と言えば「冷や汁」だ。といっても無知をさらすようで恥ずかしいけど、僕はこの料理を、じゃらんを見るまで全く知らなかった。じゃらんに掲載されている写真を見て、是非食べたいと思った。

冷や汁は、味噌と魚のだし汁に具材として豆腐とキュウリを入れた冷たい料理で、これを麦飯にかけて食べるのだが、バリエーションが結構ある。でもまずはオーソドックスな冷や汁を頂くことにした。

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鯛のほぐし身が入っている。激うまである。むちゃくちゃ美味しい。なんで九州はこんなに料理がおいしんだろうか!

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欲を張ってトロピカルとか海鮮の冷や汁も頂く。どれも美味しいけど、結局オーソドックスなのが一番いいかな。だし汁が美味しいので、とにかくツルツルとお腹に入って行ってしまった。

この冷や汁、ウィキによると、同じような名前で埼玉や山形にも郷土料理があるとのこと。すっかりファンになったので、いつかそちらの冷や汁も食べに行きたいと思った。そしてベタだけど、もちろんチキン南蛮もちゃっかり食した。だってここは宮崎だもの。

遊び疲れた夕方、すっかり日が暮れていた。なんだか日向の国は果てしなく青い空と果てしなく青い海が目に焼き付いたなぁ、なんて岬の野生馬たちを思い出しながら、ハンドルを握りしめる。北上して明日は高千穂に向かうのだ。

九州旅行も終盤に向かいつつあった。明日は神様が降臨した地を訪ね、温泉に入る。最後の宿はちょっと豪華にしたから、前日の今日は質素なビジネスホテルで我慢だ。

何もかもが美味しく、何もかもが美しく、僕も、助手席で眠りこけている家人も、この九州一周旅行に大満足だった。事故に気をけなきゃ。僕は慎重に運転していた。

怪人プチオは無敵の人とは違うけどある意味、この世で最悪であるということ

 学生時代に銀座の地下通路にあった映画館「銀座シネパトス」で「怪人プチオの密かな愉しみ」という映画を見た。おそろしくマイナーな映画で、でも迫力のある内容で、第二次世界大戦中のナチス占領下のパリに実在した医師プチオの話である。

占領下という異常な状況、混沌とした時代背景の中で、プチオは国外逃亡を手助けすると言ってはユダヤ人をだまして自宅へ匿い(所有する貴金属も持って来いと指示した上で)、ワクチンの接種証明が必要と偽って毒薬らしきものを注射し、一室に閉じ込め死んでいくのを待つ。そして死体は焼却炉で焼いて、金品を自分のものにしてしまう、を繰り返した。

なんと30人以上が犠牲になったというのだから、いわばサイコパスによる連続殺人である。サイコパスというと快楽殺人と結び付けて考えてしまうけど、たいていのサイコパスはもっと人を殺す動機が平凡であり、「だってご飯食べるにはお金がいるでしょ?殺したらお金が手に入るでしょ?だからやるだけ」という、生活のためにバイトしなきゃ、と同じニュアンスで人を殺すサイコパスの方が圧倒的に多く、実は人間の自由意志と対極の生き方をしていて、プチオはその典型だった。

どういうことかと言うと、もしこの世に善悪などなく、すべての価値は相対的で、実際には自然法則の一部として我々はただ生きて死ぬのであれば、「生活のためにバイトしなきゃ」と「生活のために人を殺しに行かなきゃ」に大きな違いはない。だって、たまたまバイトは合法(無罪)で、人殺しが非合法(有罪)な価値観をもった文化に我々はいるだけであり、そんなものは未来永劫に持つかどうか分からない。現に、殺人は悪、と言う一方で、我々は正義の為の戦争、という矛盾した概念をフツーに受け入れている。文化とか、そこから導き出された善悪の価値観なんて一面ではそれ程度のものだ。だから、サイコパスたちからすれば、「いや・・別に特別なことをしてる訳じゃなくて、ほら、食べるためにはお金がいるでしょ?そのためには・・」と簡単に一般的な人々が持つ善悪の彼岸を乗り越えて行ってしまえるのは、別に不思議なことではない。

 でも、1+1=2の数式みたいに、簡単に考えて割り切れないのが人間であり、そこに自由意志という不思議なものが見え隠れする。

「やっぱり人は殺せない・・」もしそれが合法的であったとしても、正義の為と言われても、なんとなくザラッとした抵抗があるなら、それは、自然法則に支配されない自由な選択(より良くあろうとする選択)が人間にはあるはずであり、だから善悪が存在すると我々は実感でき、「殺さないという選択肢もあったはず」という自由意志を前提に裁判所で罪人は裁かれる。

まぁ真実はともかく、人間は自然法則に抗えないまま生きて行くしかないのかもしれないけど、それじゃ嫌だ、自由な選択があって、だからこそ善悪というものがあって、だからより良い方を選択し、善良に生きたいんだ!というワガママな感じがいわば人間と言う種である。

一方、お金の為にバイトするように人殺しをするサイコパスが一定割合でいて、昔からいたし、これからもいる。彼らにとって他人は仕事の対象であり、同情や共感の対象ではない。そもそも同情や共感というものがない。

ということで、この類のテーマは繰り返し今までも映画で取り上げられ、これも古い映画で恐縮だけど、コーエン兄弟の「ファーゴ」とか「ノーカントリー」にもこの手の平凡なサイコパスは登場する。いずれも主人公(こっちは真人間)が「どうしてそんなことが出来るのか、私には全く理解できない」と言うのだが、それはメジャーがマイノリティに対して言うコトバであり、言われた側には何も響かない。

 なぜこんな話を長々したかというと、最近「無敵の人」という言葉をよく耳にするようになり、実際にそういう人が怒りのやり場を求めて彷徨い、どこかで発散して社会的な事件を起こし、それを見て、したり顔で世の中が終わったみたいな言説を吐く人が多いから。

無敵の人は一定割合で昔からいたし、これからもいる。でもそんな話ではなく、無敵の人はいわばプチオとは違うということ。無敵の人は怒りの源(みなもと)に高すぎるプライドがあり、自分の作りたかったストーリーが破綻した上で善悪の彼岸を越えてしまっているが、プチオはそもそもストーリーとか破綻とか苦しみとかがなく、そもそもプライドといった価値に付随する概念もなく、本棚から本を取り出すように人を殺してしまった。それはある意味、本当の無敵であり、最悪である。最悪の中の最悪である。

「常識よりもお菓子がいい」

自転車に乗って街を疾走するプチオの言葉だ。常識って曖昧なものよりも、ってお話だが、だからこそ逆に、僕たちは常識と言うカビ臭いけど、人の手渡しで伝わった、信じるに値するはずのものを大切に、今日も愚直に生きて行く。それは矛盾を抱えつつ、自然法則という殺伐としたものに抗い続けて来た、つまりは、より良く生きて行くために戦って文化や道徳を築いて来た人間の歴史そのものである。

 だから、プチオのような本当の意味で無敵の人が一定割合を越えて現われない限り、僕たちは、僕たちのこの世界を決して簡単に「終わった」なんて言ってはいけない

それは人間の尊厳に対する本物の最悪とは何かを、全然理解していない、生悟りの、ぬるま湯説法に聞こえるのである。

僕たちは、どんな不遇でも、惨めでも、それでも人生に価値がある、人を愛することに意味があると言い続けてこそ、日々の生活に感動し、人間でいられる。 

アラン・シリトーの「長距離走者の孤独」はランボーの「永遠」という一編の詩に帰結し、地方都市の若者は東京を目指すということ

 ストーリーの中身そのものというより、文体の美しさとか躍動感でどんどん読み手をその世界観へ引き込んで行く、そんな小説がある。

和文学でいうところの谷崎潤一郎であれば「母を恋ふる記」という作品なんて、ようするに自分が見た夢の話をタラタラ書いただけなのに、それはもう驚くほど美しい文体であり、切ない一個の叙事詩になっている。ストーリーそのものに特に工夫はない。ただただ文体の美しさの中に読者は吸い込まれて行くのである。

 その点、「疾走感」というコトバがぴったりの文体で書かれているのが、アラン・シリトーの「長距離走者の孤独」という短編である。長距離走者の話で疾走感なんて、まるでウクレレを弾きながら「ハワイの夕暮れ」という題名の曲を演奏するようなもので、そのままじゃん、と言われれればその通りなのだが、その瑞々しい文体は英語の原文を読んでも主人公の焦燥感や息使いまでが伝わって来そうな迫力をもって、非常に読後感が気持ちいいのである。

 窃盗の罪で感化院(少年院)に入ったスミスが、院内のクロスカントリーの選手に抜擢されトレーニングに打ち込み始める。院長の大きな期待を受けながら院の代表として競技大会に参加し、2位以下を大きく引き離してゴールまで近づくのだが・・・・そんなストーリーだ。

 10代の少年の反抗的でパンクな精神は「疾走感」というテーマとよく似合い、これまでもいろんな形で表現されて来た。が、尾崎豊とかホットロードとかは10代の少年少女がやるから様(さま)になるのである。オジサンが疾走感をやると、現実には現実から逃げ出した、だからと言ってそこに瑞々しい反抗心とか壊れそうな繊細な不安とかがもう残っている訳でもない(年を取って面の皮が厚くなっているので)、ちょっと薄汚れたプライドがそこに見え隠れしているだけである。なので、映画の「ライフ」(監督+主演 ベン・ステイラー)みたいなファンタジーや、ミスチルの「くるみ」のMVみたいな名曲に乗ってこそ初めて人様(ひとさま)に受け入れられるのであり、もし現実でオジサンがこの「疾走感」をやると、「あぁ、会社がホントに嫌だったんだね、逃げたかったんだね」くらいの残念な扱いで終わる。まったく小説にも曲にもならない。

 ところで、疾走感の行き着く先はいったいどこだったのだろうか?

 結局、若者だった僕たちはそこに到達したのか?

 もう何もいらない、迷いも不安も抱えながら幾夜も乗り越え、僕たちはただ光を放つ方向へ向かって走って行く、なんて類(たぐい)のティーンエイジャーの疾走感は、もっと古いところでは、ランボーの詩集でも味わえるし、有名な「永遠」という彼の一編の詩は、いわば若者が疾走した最後に行き着くゴールを示したような陶酔感の極みだ。

なので、高校生だった僕は、ランボーの文庫版詩集か、それともこのシリトーの「長距離走者の孤独」の文庫をジーンズの後ろのポケットに入れて持ち歩き、授業中、または授業をサボってやって来た映画館のロビー、なんとなく電車に乗ってずっと乗り続けてたどり着いたよく知らない山奥の駅舎のベンチなんかで、繰り返し読んでいた。

あるいは昼休みの学校の中庭で独りで、図書館の隅の夕暮れに照らされた窓辺の椅子に座って独りで、その疾走感を繰り返して読んでいた。カバーがボロボロになり裏からテープで貼って、それでもなぜか縋り(すがり)付くように繰り返し読んだ。

若かったんだね。結局、どこに辿り着いたのか?

 覚えていない、というのが正直な感想だ。高校生だった僕は、午後の数学の授業をサボって駅に向かい、電車に乗って、乗り継いで、夕暮れが迫っても乗り続け、いつの間にか窓の外は真っ暗だった。乗客は向こうの座席に一人、老人が座っているだけで、電車は闇の中を静かに走り続けていた。

衝動的になんとなく降りた駅は無人だった。しまったと思ったけどもう遅い。夏の蒸し暑い風が顔に当たって不快だった。自動販売機さえないぞ。僕は駅の反対側のホームへ歩いて行き、時刻表を見たら次の電車が1時間後にしか来ないことを知る。駅の周りは何もなく、林の中にポツンと駅舎があるようなそんな場所だった。ベンチに腰掛け、ポケットから文庫本を取り出し、また読み始める。そうそう、この「長距離走者の孤独」は短編集で、他にもイングランドの場末感のあるさまざまな舞台で、人々の暮らしや人生が魅力あるストーリーとして語られ、何回読んでも飽きないのだ。

 そしてふと目を上げると、プラットホームの天井の蛍光灯に夏の虫たちがたくさん集まり、競って回転し、ぶつかり、ホームの上に落ちて、くるくる転がっていた。なんということはない、恐ろしく平凡な行動で、光の周りを群れをなして回転して飛んで、次々と落ちていた。僕の足元にそのうちの一匹が転がって来る。たくさんの虫たちの中の平凡な一匹が、大量生産されて生きて来た虫たちの中の平凡な一匹が、こうやって疲れて地面に落ちて、苦しみながら地面を転がっている。そしていつか動かなくなり死んで、亡骸は風に飛ばされ線路に落ちて、粉々に轢かれ、土に帰る。僕はじっとその虫を見ていた。薄暗い駅のホームのベンチに座って、目の前で回転するその平凡な虫を見ていた。そして、あぁこんな田舎で年をとって死んでいくのは嫌だな、東京へ行こう、って思った。

 という、ありがちな地方都市の青春の一幕である。今はもうその駅は閉鎖されツタに覆われ、電車は通過するだけだ。でも今日もどこかでどこかのティーンエイジャーが、そんな決意を胸に都会へ、そしてこの古く腐っていく国の外へ、いつかは飛び出していくんだろな、なんて想像しながら車窓の外を眺めている。

女心はくすぐられなかったようなので、自分が頑張ってオシャレな小物を揃えて家族の健康を祈ったこと

 家を建てた時に高品質低コスト・「住む」を目的に機能と動線を最優先、という具合に僕は話を進め、毎回、工務店との打ち合わせの都度、PCを持ち込み、事前に自分でエクセルで引いたレイアウト図や希望する仕様や材質を提示し、あわせてやはりこれも事前にネットで調べたそれらの相場価格、一般的な工賃、工務店側の想定利益(取り分)などをこちらから提示し、交渉の上、最終的に思い通りの家と金額になった。

 普通は家を建てる時は、やはり夢のマイホームであり、「夢」の大半は奥さんの夢である場合が多いので、住宅営業マンは打ち合わせ時に常に奥さんの顔を見て語り掛け、「おしゃれな吹き抜けの〇〇はどうですか?」「おしゃれな出窓をこのあたりに取り付けたらどうですか?」とか、要するに女心をくすぐって口車に乗せて、およそ機能性とは無縁でそのぶん工務店にとっては利益幅の大きいオプションをどんどん勧めて来るのだが(あっという間に見積金額がとんでもない額になる)、ウチの家人の場合は「旦那に一任する。旦那には、とにかく私が年をとっても快適に住める家を作るよう指示済み」ということで、毎回ニコニコしているだけで、一切、口車に乗らなかった。

 結局、住宅営業マンが「我々も最低限の利益を乗せないと上から怒られますので、勘弁して下さい」と言うところまで僕が交渉を進め、無駄のない、でも住む分には快適な高品質のマイホーム仕様が決まった。メーカー勤務数十年のシゴトの延長戦で家を建てた感覚だ。工場を建てる時に業者と打ち合わせする時とあんまり変わってない。

 が、外構も含め全部が決まってしまうと、なんだかこのままではあんまりにも機能を重視し過ぎて、遊びの部分が無さ過ぎ、ちょっと心配になって来た。マイホームは工場ではないのだから、機能や品質だけではいけなかったのかも、なんて遅すぎる後悔が始まる。外観の壁の色や屋根の瓦の色、玄関のドアのデザインや部屋の壁紙の種類など、見た目に関するものは全部、家人に選んでもらったけど、たいていはニコニコして「じゃ、これでいいわよ」と言う感じでサクサク決めてあんまりこだわりも無さそうで、それはそれで不安になって来た。どうも調子が狂う。

 で、リビングにウォールシェルフ(壁に取り付ける棚)をつけてもらって、そこにおしゃれな置物を置くことにした。家人に言うと「いいんじゃない」と相変わらずニコニコしているだけである。僕はネットでウォールシェルフを検索し、一番、部屋の雰囲気に似合いそうなものを見つけ、取り付け費用も含めた相場も調査し、エクセルで壁のどの位置にいくつ取り付けて欲しいのかレイアウト図を自分で描いて、翌週の工務店との打ち合わせに持って行った。

 そうなると、そのシェルフ(棚)に何を乗せるか考えないといけない。これも家人に好きなものを乗せるよう言ったけど「一任する」と言う相変わらずの返答だったので、あれこれ考えて、1段目はカフェ風に、コーヒーのドリッパーとサーバー、それに手引きのドームミルを乗せることにした。真ん中にコーヒーの生豆を麻袋に詰め、実際に炒って挽けるようにする。

う~んなかなかいい感じ。これはこの後、実際に家を見に来た家族や友人の目にとまり、その場で豆を挽いてドリップしてリビングでコーヒーを飲んで頂いた。大好評だった。

 シェルフはもう一段ある。何を乗せようか?家人にもう一度希望を聞いたけど「一任する」とのこと。こりゃ困った。ネタがもうないぞ。さんざん悩んだ挙句、やっぱりデザインと「祈り」が一致するようなものを置くことにした。「祈り」とは家族の健康のこと。デザイとはせっかくなのでオシャレなのがいいとういこと。

 ネットでいろいろ調べて、生まれ年の干支の置物を家に置くと長生き出来ると書いてあったので、そうか、家人は午年(うまどし)だから、おしゃれな馬の置物を置くことにした。リビングを含め、家の中が開放感があるように壁紙は白にしていたから、白いリビングに似合う置物がいいな、なんて考え、ダーラナホース(スウェーデンの伝統工芸品である木彫りの馬)のうち家人の好きな水色のを買った。

大中小の3点をシェルフの上に並べてみる。いい感じだ。

さらに、女性が悩みがちな便秘を解消するのに縁起がいいという(女性の健康を守る縁起を持つ)豚の置物を置くことにした。豚は縁起がいいんだね。長生きするだけじゃ駄目。元気で健康でいて欲しい、そんな気持ちで選んだ。

これもいい感じ。なんだか全身で福を運んで来てくれそうな豚さんだった。

ダーラナホースは手作りらしいけど、あとのコーヒーの道具も、豚さんの置物も大量生産された製品ではある。でも僕はそのデザインを考えた人の思いと、それを世の中にデビューさせるために携わった人たちの情熱と、出来上がった製品のしみじみした味わいを受け止め、やっぱりいいなぁと感じる。それらは全部、僕たちの人生にとって大切な、しみじみ味わうべき芸術なのだ。

最近はパンデミックのせいで在宅勤務も多く、家で仕事をすることが多くなったが、ミルでコーヒーを挽いて飲みながら、休憩時間にこの「祈り」の棚を眺めている。

機能と品質重視の我が家にあって貴重な遊びの部分が、祈りとともにこんな小さな棚に集約されていて、僕は大満足で眺めている。家人の便秘が治り、いつまでも元気でニコニコ長生きしてくれますように。

ダイバーシティって言葉を聞くとアジアの山奥でいろんな料理を食べた経験を思い出すこと

 ダイバーシティという言葉が会社の研修などで頻繁に出てくるようになってだいぶたつけど、多様性の受容というのは口で言うほど簡単ではない。だって自分が生きて来て自分という人生を必死で乗り切ってきた過程では、「世界中の誰がなんと言おうと自分が好きなのはこれだ。正しいと思うのはこれだ。」という一つ一つの信念とか情熱を積み上げてきた歴史があり、それは裏返せば「でもいろんな価値観もあっていいよねぇ、なんてあっさり言えね~や」という本音があるからだ。価値に付随する信念というものはそういうものだ。

一方、恵まれた環境でのほほんと生きて来れた人々は、「自分はこれがいいと思うけど、押し付けないよ。あなたはそれがいいと思うなら尊重します」と言えるかもしれない。だって、別に死に物狂いで「自分はこれがいいんだ」なんて構えなくても、人生を豊かにのんびり生きて来れたし、これからも生きて行けるからだ。価値の構築に情熱や信念なんて暑苦しいものは不要で、クールにいいものをいいと言い、クールに軽く軽く生きて行けるのだから。そんなクールなお坊ちゃんお嬢ちゃんを、僕は大学時代にたくさん見て来た。そのままアメリカへ留学して、国連職員になり、そんな人々の口からダイバーシティと言う言葉が出てきたなら、なるほどね、という話になる。1+1が2になったに過ぎない。

 が、大半の人々は、決して豊かではなく、安定してのほほんと生きていけないし、常に必死に、死に物狂いで大人になり、生活をしている。だから生きて来た過程で価値の構築にはその人なりの信念があり、それとは違う価値を受け入れざるを得なくなった時、体も心も抵抗を始める。ある人は露骨に怒りを発して相手を攻撃し始めるだろう。無視して排除しようとするかもしれない。表面上は受け入れて、裏で悪口を言う小心者もいる。

だから多様性の受容というのは、真剣に生きて来た人が、溢れんばかりの葛藤の中でそれをズシリと受け止めたとき、初めて本当に価値のある行為になる。それは複雑な計算式を経てようやく導き出された迫力のある人生の解(かい)だ。

 アジアの山奥に飛ばされた時、現地スタッフの心を一刻も早くつかみ、彼らの協力を得て、何度もコケそうになるプロジェクトを必死でやり遂げようとしていた。僕は死に物狂いだった。現地スタッフの大半は日本人に慣れておらず、大昔に軍服を着てやって来て、さんざん自分たちの上の世代にひどいことした人たち、という歴史ドラマのイメージしか持っていなかった。どうやら、このクリクリした目をしていつも元気な大声で喋る日本人は、歴史ドラマでよく見るちょび髭で丸眼鏡の冷たい目をした日本人とは様子が違うようだけど、どこまで信用していいものか、なんて期待と猜疑心の混ざった顔で僕を見ていた。

逆に僕は、初めて日本を出て、いかに自分が日本人だったかを思い知らされた。なんでこの人たちはこんな不潔なんだろう。どうしてそんな食べ方をするの?部屋や道路にどうして平気でゴミをまき散らすの?どうしてそんな汚いトイレの使い方をするの?朝に吐く息があんまりにもニンニク臭くて、どうして一緒に働く他人への気遣いとかがないの?どうして・・・どうして?・・という具合に、価値観の違いに基づく生活様式の違いがそのまま自分の不快感と結びつき、心の底ではイライラを募らせていた。が、自分に課せられたミッションは意地でもクリアしたい。そのために彼らの協力がどうしても必要だ。

僕は意識して大笑いし、上機嫌にふるまい、協力を得て、山積する問題をクリアして行った。本当に意地になっていた。

ある日、普段自分たちのために毎日奮闘している僕への感謝の意を示す、ということで、現地スタッフたちが懇親会を開催してくれた。まだ駐在経験が浅い僕は、何の疑いもなく素直に喜び、迎えに来た車に乗った。

果たして車が到着した店は、現地の人々がお祝いなどで使う地元の名物料理を出す店だった。当時住んでいたホテルのご飯とは全然違う、まさにローカル料理だ。

ヘビが出て、カエルが出て、鶏の足を蒸したものが豪華な模様の皿に盛り付けられ運ばれて来た。数年後に駐在が終わって日本に帰るころにはフツーにパクパク食べていたこれらの料理も、まだ慣れていない当時の僕には衝撃的で、しかも赤唐辛子にまみれたそれらを口にできるかなとちょっと迷っていた。が、皆から見られている。ふだん上機嫌で「ここは田舎だけど空気が美味しく青空が本当にきれいだ」とか「みんな真面目な人たちばかりで僕は大好きだ」とか「野菜が新鮮でどれも美味しい」なんて口では褒めているこの日本人が、目の前の料理をどんな顔して食べるのか、見てやろう、という感じだった。

乾杯のあと、いよいよ食事が始まる。現地スタッフの通訳が料理の一つ一つを説明し、地元の新鮮な食材を使った美味しい料理だと説明してくれた。

僕は乾杯でビールを胃に流し込んだ瞬間、彼らの思いや意図を把握して腹を括っていたから、次々と料理に手をつけてパクパク食べ始めた。もともと辛いのは得意だ。なんということはない。で、実際食べてみたら、ヘビもカエルも鶏肉みたいに淡泊で美味しかった。鶏の足も食べにくい形状だけど、味は悪くない。そのあとも、みんなで談笑しながら和気あいあいと食事は進んで行った。やっぱり僕は上機嫌な顔をしていた。

 食事の最期のシメで火鍋スープが出て来た。スタッフが僕の皿によそってくれた。ゴロゴロした野菜とともに肉の塊も入っていた。なんの肉か聞いたら「犬」だと言う。

さっきまでそれぞれが談笑して好き勝手に食べていた現地の人々の視線が、いつの間にか僕の方を一斉に見ているのに気付いた。

僕は現地に入ってからそれまで感じていた葛藤、怒り、なぜ?というあの感覚や価値観の違いから来る苛立ちが、一気に頭をよぎって、頭に上って、酔いも回って、これを食べるのか、ブチ切れて皿ごと床に叩きつけるのか、なんて考えていた。ブチ切れたらきっと、その食事会の雰囲気は瞬時で凍りつき、歴史ドラマのちょび髭を生やした軍服姿の日本人にダブって僕は見られるだろう。

真っ赤な血のようなスープを飲み、その肉塊を口にした。マトンをさらに生臭くした肉だった。あぶって焼き落とした犬の毛の一部がまだ表面に残っていて、味も決して美味しくなかった。みんな僕を見ている。

「これは臭くて美味しくない。でもスープは美味しいし体が温まるね。もっとちょうだい」

場の雰囲気がふわっと緩和し、皆がゲラゲラ笑い出した。さすがにこの日本人もこれは好きじゃないんだ、という単純な笑いだった。決して意地悪な笑いではなく、死に物狂いの外国人を温かく迎え入れる、優しい笑いだった。僕はありがとう、と言って、お代わりのスープを飲み干した。

 一生懸命に生きてこそ、価値は深いところで時に暴力的にぶつかり、時に痛みや苦しみや葛藤も伴い、それを乗り越えて初めて、僕たちはお互いに相手を受け入れることが出来る。お互いに別の場所で死に物狂いで真剣に生きて来たからこそ、相手の価値を受け入れるのは簡単でなく、受け入れることに価値があるのだ。

 なんて、今日も会社の研修で講師がしたり顔で「ダイバーシティ」を連呼しているのを、僕は聞いている。ここはキレイで衛生的な日本のビルの中だ。窓の外を見て、午後の眠気に襲われながら、あの真っ赤なスープと、一斉にこちらを見ている人々の眼差しを思い出している。

熊本ラーメンへの敬意と薩摩の国で途方もなく美しい風景を見たこと

 九州一周旅行は続く。嬉野温泉から鹿児島へ向かう途中、熊本に立ち寄った。熊本城は震災の修理で近づけなかったけど、遠くから見てもその雄姿に心打たれた。熊本の人々は本当に誇りに思っているんだろうなと思った。あんな雄々しいお城は他に見たことがない。清正という男を想像し、向こうに見える天守をしばらく眺めた。

熊本はどのみち数日後に阿蘇に戻って来る予定で、まずは鹿児島まで走り切ってしまおうと思ったけど、やっぱり熊本ラーメンを食べたい。からし蓮根も食べたい。と思い始めたらまっすぐ走れなくなった。

ということで熊本空港へ寄り道して2つとも食べた。本当はちゃんと市内の有名店なんかを調べて時間を割いて行きたかったけど、その日のうちに鹿児島へ移動する必要があったので、両方いっぺんに揃っている上に味も評価が高かった空港の店で食した。これまた美味しい!

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よくインスタントラーメンで熊本ラーメンを銘打って売っているが、あれは全く別ものである。熊本ラーメンは不必要に油っこくなく、不必要に臭みもない、上品で深い味わいのスープが特徴だ。あっさり平らげた。

 熊本から僕たちは鹿児島へ向かって走り続けた。宿は指宿にとってあった。指宿を目指した理由は家人が「砂風呂に入りたい」というベタな希望を申し述べたから。

日が暮れても走り続けた。鹿児島にいるっていうだけでワクワクしていた。いよいよ薩摩の国にやって来たんだ。下道をだいぶ走って僕たちは19時ごろにようやく旅館に到着した。案内された部屋で、さっそく西郷さんが出迎えてくれる。

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 まずは温泉に浸かって食事を、といいたいところだが、やっぱり最優先は目的の砂風呂である。食事は後回しにして、旅館に併設された砂風呂施設に行くと、手順をイラストで書いた看板の通りに、専用のガウンみたいなのに着替え、シャベルを持った2人組のおじさんのところ(砂場)へ歩いて行った。おじさんたちは慣れた手つきでシャシャッと砂の上に窪みを作り、そこに仰向けで寝るように僕たちに指示した。言われるがまま寝るとあっという間にシャベルで砂が体にかけられて顔だけ地面に出すという、あのテレビで見た通りの状態に二人ともなった。想像していた以上に熱い。そして一番感じたのが、想像していた以上に「砂が重い」ということだった。よく映画のマフィアものなんかで、土で生き埋めにされるシーンを見るけど、こんな表面の砂を掛けられただけですごく重く感じるのだから、砂で息が出来ないとかの前に、あのギャングたちはきっと重さで潰れそうで胸が苦しいとか、そんな感じだったのかなぁなんて考えていた。しょうもない話である。隣では家人が気持ちよさそうに土に埋められ寝ている。

10分もしたら身体がポカポカになった。僕たちは砂から這い出し、シャワーを浴びて土を落とした。驚いたことに、本当に温泉に浸かったあとくらい、体の芯から温まり、たくさん発汗していた。体をきれいに洗って浴衣に着替え、いよいよ食事に向かう。

食事は土地の野菜や近場の海でとれた魚介を使ったものだった。美味しく頂いた。ビールを飲んだら長時間の運転で溜まった疲れが一気に出てきた。あぁ今日は九州を一気に縦断したな、楽しかったな、なんて思いながら部屋に戻り、布団の上で酔いが回ってそのまま記憶を失ってしまった。

 目が覚めたら明け方だった。昨夜は遅くに旅館に着いたから、部屋の窓の外は真っ暗で何も見えなかったし、まずは砂風呂だ、って飛び出して行ったから、朝になって初めて、カーテンを開け外の景色を目にした。そしたらベランダの向こうはなんと海だった・・・

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しかも無茶苦茶きれいな海だ。昨晩、食事会場に向かう途中、すぐ近くで戦時中にこの海から飛び立って行った悲しい歴史がパネルで解説してあり、読んでいた。そうか、こんな美しい海からだったんだ・・・

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向こうから朝日が昇り始めた。美しい場所だと思った。何も言葉が出てこず、僕はずっと海を見ていた。

朝食は本当に美味しかった。このとき鶏飯(けいはん)という奄美地域の郷土料理を生まれて初めて食べた。温かいご飯に錦糸卵やシイタケの煮物や鶏のほぐし肉や紅ショウガなど好きなものを乗せて、鶏ガラスープをかけてお茶漬けのようにして食べる料理だ。

f:id:tukutukuseijin:20211225095243j:plainこれが本当に美味しく、僕は何回もおかわりした。九州というところはどこへ行っても郷土料理で美味しくなかった試しがない。市井の人々の味へのこだわりと代々の工夫がいっぱい詰まっていて、単に美味しいというより、人間の温かみを感じる料理ばかりだと思った。

 チェックアウトし、ちょっと噴火したばかりの桜島を横目に、宮崎へ向かって走り出す。途中でお約束だけど、黒酢の壺畑へ立ち寄り、そのちょっと噴火した桜島をお約束の構図で記念にパシャリと撮っておいた。

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あぁなんだか、もっと時間をかけて回りたい土地だなぁ、また絶対来たいなぁなんて思った。僕の薩摩の国の印象である。明らかに、僕たちが触れたのはこの土地の魅力のごく一部に過ぎないんだろなと思った。

 九州一周旅行が始まって4日目の朝だ。まだまだ僕たちの旅は続く。駆け足だけど、めったに来れない場所だから、見れるだけ見て、料理も土地の魅力も、短い時間の中で味わうだけ味わいたいと考えていた。

空はどこまでも青い。

パルプフィクションと横浜の子供たちのこと

 もう四半世紀以上前の話だ。地方から上京してきた僕は、専門課程は都内にあったけど教養課程はキャンパスが横浜にあったので、出だしは横浜の寄宿舎で暮らし、横浜でアルバイトし、横浜で友達を作って、横浜で青春時代を謳歌した。

 90年代というのは本当に暗い時代で、バブル崩壊後の長い冬の時代が続き(そのころはそのあと更に何十年も冬が続くとは思っていなかったが)、自然災害が立て続いて発生したり、得体のしれない猟奇犯罪も立て続けに起こったり、前代未聞の都市型テロが起こったり、そんな中、山手線や中央線へダイブする中年サラリーマンの横を、茶髪のルーズソックスがチーマーと腕を組んで闊歩するような、魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした人の欲動が渦巻くどす黒い時代だった。

 そんな中、僕は人格形成の最期を完成させ、そこで暮らしていた。横浜の友達は生粋のハマっ子が多く、地方都市出身の僕にはその遊び方、人との距離感、ファッション、タバコの銘柄の選び方や使っているジッポライターの絵柄まで、すんごくオシャレだなぁ、と思ったものだ。当時、タランティーノが流行っていて、大ヒットしたパルプフィクションを映画館に何度も見に行ったが、映画館を一緒に出て、バーでたくさん飲んで、ちょっと酔っ払ったハマっ子の女友達が、映画でユマ・サーマンが演じていたミアのダンスを駅に向かう路上で真似した時、「あぁ、こういう人たちがいるのが都会なんだ」なんてしみじみ思ったのを覚えている。青春時代のまばゆい一瞬の光の光景である。

 パンデミックの前、家人を助手席に乗せてなんとなくドライブで走り、なんとなく高速に乗って、なんとなく何時間も走らせているうちに横浜にたどり着いた。すっかり日が暮れて、横浜はきれいな夜景を港の水辺の表面に浮かべ相変わらず光り輝いていた。仕事では出張で立ち寄ることがあっても、オフィスや倉庫と駅をまっすぐ行き来するだけで、とても街の風景なんて見ていない。が、こうして休暇になんとなくたどり着いてじっくり街を見ていると、なんだか青春時代を思い出して感傷的になった。あぁあのあたりを二十歳前後の自分が一人でテクテク歩きながらバイトに向かい、自分が何者でもない大きな不安と大きな希望を胸に、一生懸命前に進もうとしていたなぁ、とか、まさに友達のハマっ子たちと一晩中飲み明かした裏通りの場末感が今もそのまま残っているなぁとか、いろいろと昔の場面が思い出される。

宿泊なんて計画外だったから、家人が慌てて予約したホテルだったが、みなとみらいの観覧車の前にあって、ベイブリッジを正面に、部屋からは美しい夜景を見渡せた。お上り(のぼり)さんとして今夜は楽しもうと思い、風呂に入ってバルコニーに出ると、缶ビールを一気に飲み干し、横浜の港を見渡した。

 もうすっかり年を取り、初老に近づいた自分は、十分に何者かになっている。さすがに四半世紀の間に、誰かにとっての何者かであり、どこかの組織にとっての何者かに落ち着いている。不安もないが新しい希望といったものも既に失いつつある。そんな感じだ。でもロスジェネとして生きて、生き延びて、しみじみ人生を味わっている。そう思った。いつだって目の前には大きな割れ目や落とし穴があり、それでもそこを僕たちは歩いている。

あの90年代の青春時代に出会った超おしゃれなハマっ子たちは今何をしているのかな?きっとおしゃれな大人としてこの横浜のどこかで暮らしているんだろな。またいつか会えるといいな。なんてちょっと酔いが回りながら、夜景をみてそう思った。

ダメだダメだ。こんなとこで感傷的になっていてはダメだ。まだまだ人生は続き、まだまだ厳しい時代を、僕たちは死ぬ直前まで必死で働き続け、明るく生きて行かなきゃいけない。

僕はバルコニーから部屋に戻ると、もう一本缶ビールをあけた。こういう気まぐれ旅行をニコニコひっついて来て楽しそうにしている家人がそこにいた。

「何を思い出していたの?」

「別に」

明日はまた、数百キロを無事にこの人を乗せて家に帰らなきゃね、なんて独りごちて、僕はまたビールを飲み、90年代の若者だった自分に語り掛けていた。そしてベッドの上に寝転んだ。

 すっかり年をとってしまった自分がここにいる。

ブタメン焼そばの豚の顔に挨拶することと焼き物の美しさを味わうことは同じ芸術の鑑賞であるということ

 家人がやたら食べ物を買い溜めしたがるので、台所に買い物袋が並べてあって、そこからカップ麺やその他のレトルトの包装が見え隠れしている。毎朝、僕はそこでコーヒーを入れて立ち飲みしてから会社に行くのだが、見え隠れしているインスタント食品の一つにエースコックブタメン焼そばがあり、その真っ赤な包装イラストがもの凄く豪快で、マスコットの豚の顔が、いつもコーヒーをすすっている僕を見上げている。毎朝、顔を合わせるうちに僕はその豚に「おはよう」と挨拶するようになり、なんだか愛着が湧いてしまった。そしてこういう製品の一つ一つにも開発の段階で企画会議があり、何度も何度も打ち合わせを繰り返した結果、こんな豪快なイラストと豚の顔が誕生したはずだ。この豚の顔を描いた人はどんな人だろう?どんな気持ちでこの商品を世の中へ送り出そうと意気込んだのか?そんな事を考え、色々と作り手側の創作している姿を想像し、明るい気持ちでコーヒーを飲んでいる。このあいだ一つ食べたけど、昭和のインスタント焼きそばの素朴な味がして、本当に美味しかった。他愛もないけど、これは日常の中でしみじみ味わう、一種の芸術の鑑賞である。

 話は変わるが、実家の客間の戸棚の上に信楽焼の一輪挿しが昔から置いてあった。昼間は普通の小ぢんまりした器にしか見えないのに、その客間で中学生の僕が夜更かしして本を読んだり勉強したりしているうち、深夜の蛍光灯の光に照らされ、妖しげな美しさが満ち溢れて来て、不思議な気分で眺めていた。当時は、谷崎潤一郎とか三島由紀夫とかを筆頭に昭和文学にドップリつかっていた時期だったし、小林秀雄にハマり始めていた頃だったから、余計にそんな風に通(つう)ぶった、ちょっと大人ぶった感覚で「やきもの」を見ていたのかもしれないけど、でも大人になってからも、なんとなく「やきもの」が好きで、ありきたりな表現だけど特に陶器の土の温かみが好きで、個展とかあれば立ち寄るようになった。

 家人とデートする時も、日本各地の焼き物の街を訪ね、眺めて回った。別に買ったりはしない。ただただ、所狭しと陶器が並べられた店を入っては出て、入っては出て(焼き物の街はだいたいこういう店が集まって通りに建ち並んでいる)、ちょっと疲れたら喫茶店でコーヒーを飲み、あぁやっぱりこんなとこにある喫茶店のコーヒーカップだから、当然〇〇焼きだよね、なんて話しながら時間を過ごした。「やきもの」の街はどこも高齢化が進んでさびれている場合が多いけど、それも含めてプラプラ歩いているだけで雰囲気に趣があり、気持ちが洗われる。もう使わなくなった登り窯とか、大量に捨てられた器の破片の山とか、全部が風景の一連のセットになっていて、何時間いても飽きないのが「やきもの」の街である。

 家を建てたとき、食器棚も新調して備え付けたが、子供のいない二人暮らしで、食器も少ない。それまで住んでいたアパートから持ってきた食器を全部収納したら、なんとガラス戸の中に入れるものが無くなってしまった。そりゃそうだ。僕たちはファミリータイプの食器棚を買っていた。計画性ゼロである。でも大は小を兼ねるというからいいか、なんて考えていた。

 が、そのうちさすがに気になって、家人が集めていたコンビニの景品(リラックマカップなど)を入れてみたが、それでもガラス戸の中の右半分しか埋まらない。

 そうだ、せっかくだから左半分はギャラリーみたいにして、自分のお気に入りの「やきもの」でも集めてみようと思った。ヤフオクで探し始める。益子焼織部焼志野焼信楽焼伊賀焼、京焼、備前焼萩焼唐津焼。僕は好きな作家の作品を見つけ、こつこつ落札して集めては、ガラス戸の中のミニギャラリーに飾って行く。

 ところで、「やきもの」は窯の炎で釉薬(ゆうやく)や土の生地の色が七変化するので、その偶然性を楽しみに作家は窯へ作品を入れ、薪をくべる。いわば炎と作家が協業して芸術を作り上げ、成功すれば個展で陳列され、失敗すれば窯から出された直後に叩き割られるというのがこのアートのプロセスだ。なので、やっぱり炎の効果が焼き物のアートの価値を構成する重要な要素となり、作家の手触りで世界に生み出されたフォルムにどれだけ炎が不思議な色合いを付けてくれるかが鍵となる。

 そういう意味で、僕が特に好きなのは伊賀焼である。ビードロ釉と呼ばれる釉薬が高熱によってガラスに変化し、作家の手触りで形となった土の器の表面の一部を美しくコーティングする。僕がヤフオクで落札したのは、谷本光生という伊賀焼の大御所が作った茶碗で、初めて手にした時、なによりそのビードロ釉の美しさに圧倒された。変な言い方だけど「美しさの迫力」ってこういうのを言うのかな、なんて思った。伊賀焼アシンメトリーが特徴で、作家によっては極端に左右のバランスの崩れを強調してフォルムを作る人もいるが、この大御所は奇をてらわずにあくまで淡々と形の良い端正な器を作り、炎を信頼し炎と共演している。穏やかな人柄だったらしいけど、だからなおさらアーチストとしての凄みを感じる作品だと思った。凄腕の剣豪が普段ニコニコしているのに似ている。

 ブタメン焼きそばの豚の顔と、伝統的な焼き物の大御所の美しい器を並べるのは不敬かもしれない。怒られるかな?

でも、僕は確信犯としてこれを並べて論じ、確信犯として同じようにこれを芸術の鑑賞と呼ぶ。それが大量生産されるものであっても、作家による一回きりの創作であっても、僕たちの生活を明るくし、僕たちに生活をしみじみ味わせてくれるものは、等しく人生にとって大切なものだ。この視点を見落とすと、人生を無駄にする。崇高な芸術と低俗な芸術がある訳ではない。崇高さも低俗さも、それが作品に反映され、その向こう側に創作に賭ける作り手の姿と情熱を思い浮かべて楽しめるなら、我々の人生にとって大切な芸術である。

僕は今日もコーヒーを飲みながら豚の顔に挨拶し、食器棚のガラス戸を開けて大御所たちの情熱の結晶をしみじみ眺めている。

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