失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

ダイバーシティって言葉を聞くとアジアの山奥でいろんな料理を食べた経験を思い出すこと

 ダイバーシティという言葉が会社の研修などで頻繁に出てくるようになってだいぶたつけど、多様性の受容というのは口で言うほど簡単ではない。だって自分が生きて来て自分という人生を必死で乗り切ってきた過程では、「世界中の誰がなんと言おうと自分が好きなのはこれだ。正しいと思うのはこれだ。」という一つ一つの信念とか情熱を積み上げてきた歴史があり、それは裏返せば「でもいろんな価値観もあっていいよねぇ、なんてあっさり言えね~や」という本音があるからだ。価値に付随する信念というものはそういうものだ。

一方、恵まれた環境でのほほんと生きて来れた人々は、「自分はこれがいいと思うけど、押し付けないよ。あなたはそれがいいと思うなら尊重します」と言えるかもしれない。だって、別に死に物狂いで「自分はこれがいいんだ」なんて構えなくても、人生を豊かにのんびり生きて来れたし、これからも生きて行けるからだ。価値の構築に情熱や信念なんて暑苦しいものは不要で、クールにいいものをいいと言い、クールに軽く軽く生きて行けるのだから。そんなクールなお坊ちゃんお嬢ちゃんを、僕は大学時代にたくさん見て来た。そのままアメリカへ留学して、国連職員になり、そんな人々の口からダイバーシティと言う言葉が出てきたなら、なるほどね、という話になる。1+1が2になったに過ぎない。

 が、大半の人々は、決して豊かではなく、安定してのほほんと生きていけないし、常に必死に、死に物狂いで大人になり、生活をしている。だから生きて来た過程で価値の構築にはその人なりの信念があり、それとは違う価値を受け入れざるを得なくなった時、体も心も抵抗を始める。ある人は露骨に怒りを発して相手を攻撃し始めるだろう。無視して排除しようとするかもしれない。表面上は受け入れて、裏で悪口を言う小心者もいる。

だから多様性の受容というのは、真剣に生きて来た人が、溢れんばかりの葛藤の中でそれをズシリと受け止めたとき、初めて本当に価値のある行為になる。それは複雑な計算式を経てようやく導き出された迫力のある人生の解(かい)だ。

 アジアの山奥に飛ばされた時、現地スタッフの心を一刻も早くつかみ、彼らの協力を得て、何度もコケそうになるプロジェクトを必死でやり遂げようとしていた。僕は死に物狂いだった。現地スタッフの大半は日本人に慣れておらず、大昔に軍服を着てやって来て、さんざん自分たちの上の世代にひどいことした人たち、という歴史ドラマのイメージしか持っていなかった。どうやら、このクリクリした目をしていつも元気な大声で喋る日本人は、歴史ドラマでよく見るちょび髭で丸眼鏡の冷たい目をした日本人とは様子が違うようだけど、どこまで信用していいものか、なんて期待と猜疑心の混ざった顔で僕を見ていた。

逆に僕は、初めて日本を出て、いかに自分が日本人だったかを思い知らされた。なんでこの人たちはこんな不潔なんだろう。どうしてそんな食べ方をするの?部屋や道路にどうして平気でゴミをまき散らすの?どうしてそんな汚いトイレの使い方をするの?朝に吐く息があんまりにもニンニク臭くて、どうして一緒に働く他人への気遣いとかがないの?どうして・・・どうして?・・という具合に、価値観の違いに基づく生活様式の違いがそのまま自分の不快感と結びつき、心の底ではイライラを募らせていた。が、自分に課せられたミッションは意地でもクリアしたい。そのために彼らの協力がどうしても必要だ。

僕は意識して大笑いし、上機嫌にふるまい、協力を得て、山積する問題をクリアして行った。本当に意地になっていた。

ある日、普段自分たちのために毎日奮闘している僕への感謝の意を示す、ということで、現地スタッフたちが懇親会を開催してくれた。まだ駐在経験が浅い僕は、何の疑いもなく素直に喜び、迎えに来た車に乗った。

果たして車が到着した店は、現地の人々がお祝いなどで使う地元の名物料理を出す店だった。当時住んでいたホテルのご飯とは全然違う、まさにローカル料理だ。

ヘビが出て、カエルが出て、鶏の足を蒸したものが豪華な模様の皿に盛り付けられ運ばれて来た。数年後に駐在が終わって日本に帰るころにはフツーにパクパク食べていたこれらの料理も、まだ慣れていない当時の僕には衝撃的で、しかも赤唐辛子にまみれたそれらを口にできるかなとちょっと迷っていた。が、皆から見られている。ふだん上機嫌で「ここは田舎だけど空気が美味しく青空が本当にきれいだ」とか「みんな真面目な人たちばかりで僕は大好きだ」とか「野菜が新鮮でどれも美味しい」なんて口では褒めているこの日本人が、目の前の料理をどんな顔して食べるのか、見てやろう、という感じだった。

乾杯のあと、いよいよ食事が始まる。現地スタッフの通訳が料理の一つ一つを説明し、地元の新鮮な食材を使った美味しい料理だと説明してくれた。

僕は乾杯でビールを胃に流し込んだ瞬間、彼らの思いや意図を把握して腹を括っていたから、次々と料理に手をつけてパクパク食べ始めた。もともと辛いのは得意だ。なんということはない。で、実際食べてみたら、ヘビもカエルも鶏肉みたいに淡泊で美味しかった。鶏の足も食べにくい形状だけど、味は悪くない。そのあとも、みんなで談笑しながら和気あいあいと食事は進んで行った。やっぱり僕は上機嫌な顔をしていた。

 食事の最期のシメで火鍋スープが出て来た。スタッフが僕の皿によそってくれた。ゴロゴロした野菜とともに肉の塊も入っていた。なんの肉か聞いたら「犬」だと言う。

さっきまでそれぞれが談笑して好き勝手に食べていた現地の人々の視線が、いつの間にか僕の方を一斉に見ているのに気付いた。

僕は現地に入ってからそれまで感じていた葛藤、怒り、なぜ?というあの感覚や価値観の違いから来る苛立ちが、一気に頭をよぎって、頭に上って、酔いも回って、これを食べるのか、ブチ切れて皿ごと床に叩きつけるのか、なんて考えていた。ブチ切れたらきっと、その食事会の雰囲気は瞬時で凍りつき、歴史ドラマのちょび髭を生やした軍服姿の日本人にダブって僕は見られるだろう。

真っ赤な血のようなスープを飲み、その肉塊を口にした。マトンをさらに生臭くした肉だった。あぶって焼き落とした犬の毛の一部がまだ表面に残っていて、味も決して美味しくなかった。みんな僕を見ている。

「これは臭くて美味しくない。でもスープは美味しいし体が温まるね。もっとちょうだい」

場の雰囲気がふわっと緩和し、皆がゲラゲラ笑い出した。さすがにこの日本人もこれは好きじゃないんだ、という単純な笑いだった。決して意地悪な笑いではなく、死に物狂いの外国人を温かく迎え入れる、優しい笑いだった。僕はありがとう、と言って、お代わりのスープを飲み干した。

 一生懸命に生きてこそ、価値は深いところで時に暴力的にぶつかり、時に痛みや苦しみや葛藤も伴い、それを乗り越えて初めて、僕たちはお互いに相手を受け入れることが出来る。お互いに別の場所で死に物狂いで真剣に生きて来たからこそ、相手の価値を受け入れるのは簡単でなく、受け入れることに価値があるのだ。

 なんて、今日も会社の研修で講師がしたり顔で「ダイバーシティ」を連呼しているのを、僕は聞いている。ここはキレイで衛生的な日本のビルの中だ。窓の外を見て、午後の眠気に襲われながら、あの真っ赤なスープと、一斉にこちらを見ている人々の眼差しを思い出している。

熊本ラーメンへの敬意と薩摩の国で途方もなく美しい風景を見たこと

 九州一周旅行は続く。嬉野温泉から鹿児島へ向かう途中、熊本に立ち寄った。熊本城は震災の修理で近づけなかったけど、遠くから見てもその雄姿に心打たれた。熊本の人々は本当に誇りに思っているんだろうなと思った。あんな雄々しいお城は他に見たことがない。清正という男を想像し、向こうに見える天守をしばらく眺めた。

熊本はどのみち数日後に阿蘇に戻って来る予定で、まずは鹿児島まで走り切ってしまおうと思ったけど、やっぱり熊本ラーメンを食べたい。からし蓮根も食べたい。と思い始めたらまっすぐ走れなくなった。

ということで熊本空港へ寄り道して2つとも食べた。本当はちゃんと市内の有名店なんかを調べて時間を割いて行きたかったけど、その日のうちに鹿児島へ移動する必要があったので、両方いっぺんに揃っている上に味も評価が高かった空港の店で食した。これまた美味しい!

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よくインスタントラーメンで熊本ラーメンを銘打って売っているが、あれは全く別ものである。熊本ラーメンは不必要に油っこくなく、不必要に臭みもない、上品で深い味わいのスープが特徴だ。あっさり平らげた。

 熊本から僕たちは鹿児島へ向かって走り続けた。宿は指宿にとってあった。指宿を目指した理由は家人が「砂風呂に入りたい」というベタな希望を申し述べたから。

日が暮れても走り続けた。鹿児島にいるっていうだけでワクワクしていた。いよいよ薩摩の国にやって来たんだ。下道をだいぶ走って僕たちは19時ごろにようやく旅館に到着した。案内された部屋で、さっそく西郷さんが出迎えてくれる。

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 まずは温泉に浸かって食事を、といいたいところだが、やっぱり最優先は目的の砂風呂である。食事は後回しにして、旅館に併設された砂風呂施設に行くと、手順をイラストで書いた看板の通りに、専用のガウンみたいなのに着替え、シャベルを持った2人組のおじさんのところ(砂場)へ歩いて行った。おじさんたちは慣れた手つきでシャシャッと砂の上に窪みを作り、そこに仰向けで寝るように僕たちに指示した。言われるがまま寝るとあっという間にシャベルで砂が体にかけられて顔だけ地面に出すという、あのテレビで見た通りの状態に二人ともなった。想像していた以上に熱い。そして一番感じたのが、想像していた以上に「砂が重い」ということだった。よく映画のマフィアものなんかで、土で生き埋めにされるシーンを見るけど、こんな表面の砂を掛けられただけですごく重く感じるのだから、砂で息が出来ないとかの前に、あのギャングたちはきっと重さで潰れそうで胸が苦しいとか、そんな感じだったのかなぁなんて考えていた。しょうもない話である。隣では家人が気持ちよさそうに土に埋められ寝ている。

10分もしたら身体がポカポカになった。僕たちは砂から這い出し、シャワーを浴びて土を落とした。驚いたことに、本当に温泉に浸かったあとくらい、体の芯から温まり、たくさん発汗していた。体をきれいに洗って浴衣に着替え、いよいよ食事に向かう。

食事は土地の野菜や近場の海でとれた魚介を使ったものだった。美味しく頂いた。ビールを飲んだら長時間の運転で溜まった疲れが一気に出てきた。あぁ今日は九州を一気に縦断したな、楽しかったな、なんて思いながら部屋に戻り、布団の上で酔いが回ってそのまま記憶を失ってしまった。

 目が覚めたら明け方だった。昨夜は遅くに旅館に着いたから、部屋の窓の外は真っ暗で何も見えなかったし、まずは砂風呂だ、って飛び出して行ったから、朝になって初めて、カーテンを開け外の景色を目にした。そしたらベランダの向こうはなんと海だった・・・

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しかも無茶苦茶きれいな海だ。昨晩、食事会場に向かう途中、すぐ近くで戦時中にこの海から飛び立って行った悲しい歴史がパネルで解説してあり、読んでいた。そうか、こんな美しい海からだったんだ・・・

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向こうから朝日が昇り始めた。美しい場所だと思った。何も言葉が出てこず、僕はずっと海を見ていた。

朝食は本当に美味しかった。このとき鶏飯(けいはん)という奄美地域の郷土料理を生まれて初めて食べた。温かいご飯に錦糸卵やシイタケの煮物や鶏のほぐし肉や紅ショウガなど好きなものを乗せて、鶏ガラスープをかけてお茶漬けのようにして食べる料理だ。

f:id:tukutukuseijin:20211225095243j:plainこれが本当に美味しく、僕は何回もおかわりした。九州というところはどこへ行っても郷土料理で美味しくなかった試しがない。市井の人々の味へのこだわりと代々の工夫がいっぱい詰まっていて、単に美味しいというより、人間の温かみを感じる料理ばかりだと思った。

 チェックアウトし、ちょっと噴火したばかりの桜島を横目に、宮崎へ向かって走り出す。途中でお約束だけど、黒酢の壺畑へ立ち寄り、そのちょっと噴火した桜島をお約束の構図で記念にパシャリと撮っておいた。

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あぁなんだか、もっと時間をかけて回りたい土地だなぁ、また絶対来たいなぁなんて思った。僕の薩摩の国の印象である。明らかに、僕たちが触れたのはこの土地の魅力のごく一部に過ぎないんだろなと思った。

 九州一周旅行が始まって4日目の朝だ。まだまだ僕たちの旅は続く。駆け足だけど、めったに来れない場所だから、見れるだけ見て、料理も土地の魅力も、短い時間の中で味わうだけ味わいたいと考えていた。

空はどこまでも青い。

パルプフィクションと横浜の子供たちのこと

 もう四半世紀以上前の話だ。地方から上京してきた僕は、専門課程は都内にあったけど教養課程はキャンパスが横浜にあったので、出だしは横浜の寄宿舎で暮らし、横浜でアルバイトし、横浜で友達を作って、横浜で青春時代を謳歌した。

 90年代というのは本当に暗い時代で、バブル崩壊後の長い冬の時代が続き(そのころはそのあと更に何十年も冬が続くとは思っていなかったが)、自然災害が立て続いて発生したり、得体のしれない猟奇犯罪も立て続けに起こったり、前代未聞の都市型テロが起こったり、そんな中、山手線や中央線へダイブする中年サラリーマンの横を、茶髪のルーズソックスがチーマーと腕を組んで闊歩するような、魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした人の欲動が渦巻くどす黒い時代だった。

 そんな中、僕は人格形成の最期を完成させ、そこで暮らしていた。横浜の友達は生粋のハマっ子が多く、地方都市出身の僕にはその遊び方、人との距離感、ファッション、タバコの銘柄の選び方や使っているジッポライターの絵柄まで、すんごくオシャレだなぁ、と思ったものだ。当時、タランティーノが流行っていて、大ヒットしたパルプフィクションを映画館に何度も見に行ったが、映画館を一緒に出て、バーでたくさん飲んで、ちょっと酔っ払ったハマっ子の女友達が、映画でユマ・サーマンが演じていたミアのダンスを駅に向かう路上で真似した時、「あぁ、こういう人たちがいるのが都会なんだ」なんてしみじみ思ったのを覚えている。青春時代のまばゆい一瞬の光の光景である。

 パンデミックの前、家人を助手席に乗せてなんとなくドライブで走り、なんとなく高速に乗って、なんとなく何時間も走らせているうちに横浜にたどり着いた。すっかり日が暮れて、横浜はきれいな夜景を港の水辺の表面に浮かべ相変わらず光り輝いていた。仕事では出張で立ち寄ることがあっても、オフィスや倉庫と駅をまっすぐ行き来するだけで、とても街の風景なんて見ていない。が、こうして休暇になんとなくたどり着いてじっくり街を見ていると、なんだか青春時代を思い出して感傷的になった。あぁあのあたりを二十歳前後の自分が一人でテクテク歩きながらバイトに向かい、自分が何者でもない大きな不安と大きな希望を胸に、一生懸命前に進もうとしていたなぁ、とか、まさに友達のハマっ子たちと一晩中飲み明かした裏通りの場末感が今もそのまま残っているなぁとか、いろいろと昔の場面が思い出される。

宿泊なんて計画外だったから、家人が慌てて予約したホテルだったが、みなとみらいの観覧車の前にあって、ベイブリッジを正面に、部屋からは美しい夜景を見渡せた。お上り(のぼり)さんとして今夜は楽しもうと思い、風呂に入ってバルコニーに出ると、缶ビールを一気に飲み干し、横浜の港を見渡した。

 もうすっかり年を取り、初老に近づいた自分は、十分に何者かになっている。さすがに四半世紀の間に、誰かにとっての何者かであり、どこかの組織にとっての何者かに落ち着いている。不安もないが新しい希望といったものも既に失いつつある。そんな感じだ。でもロスジェネとして生きて、生き延びて、しみじみ人生を味わっている。そう思った。いつだって目の前には大きな割れ目や落とし穴があり、それでもそこを僕たちは歩いている。

あの90年代の青春時代に出会った超おしゃれなハマっ子たちは今何をしているのかな?きっとおしゃれな大人としてこの横浜のどこかで暮らしているんだろな。またいつか会えるといいな。なんてちょっと酔いが回りながら、夜景をみてそう思った。

ダメだダメだ。こんなとこで感傷的になっていてはダメだ。まだまだ人生は続き、まだまだ厳しい時代を、僕たちは死ぬ直前まで必死で働き続け、明るく生きて行かなきゃいけない。

僕はバルコニーから部屋に戻ると、もう一本缶ビールをあけた。こういう気まぐれ旅行をニコニコひっついて来て楽しそうにしている家人がそこにいた。

「何を思い出していたの?」

「別に」

明日はまた、数百キロを無事にこの人を乗せて家に帰らなきゃね、なんて独りごちて、僕はまたビールを飲み、90年代の若者だった自分に語り掛けていた。そしてベッドの上に寝転んだ。

 すっかり年をとってしまった自分がここにいる。

ブタメン焼そばの豚の顔に挨拶することと焼き物の美しさを味わうことは同じ芸術の鑑賞であるということ

 家人がやたら食べ物を買い溜めしたがるので、台所に買い物袋が並べてあって、そこからカップ麺やその他のレトルトの包装が見え隠れしている。毎朝、僕はそこでコーヒーを入れて立ち飲みしてから会社に行くのだが、見え隠れしているインスタント食品の一つにエースコックブタメン焼そばがあり、その真っ赤な包装イラストがもの凄く豪快で、マスコットの豚の顔が、いつもコーヒーをすすっている僕を見上げている。毎朝、顔を合わせるうちに僕はその豚に「おはよう」と挨拶するようになり、なんだか愛着が湧いてしまった。そしてこういう製品の一つ一つにも開発の段階で企画会議があり、何度も何度も打ち合わせを繰り返した結果、こんな豪快なイラストと豚の顔が誕生したはずだ。この豚の顔を描いた人はどんな人だろう?どんな気持ちでこの商品を世の中へ送り出そうと意気込んだのか?そんな事を考え、色々と作り手側の創作している姿を想像し、明るい気持ちでコーヒーを飲んでいる。このあいだ一つ食べたけど、昭和のインスタント焼きそばの素朴な味がして、本当に美味しかった。他愛もないけど、これは日常の中でしみじみ味わう、一種の芸術の鑑賞である。

 話は変わるが、実家の客間の戸棚の上に信楽焼の一輪挿しが昔から置いてあった。昼間は普通の小ぢんまりした器にしか見えないのに、その客間で中学生の僕が夜更かしして本を読んだり勉強したりしているうち、深夜の蛍光灯の光に照らされ、妖しげな美しさが満ち溢れて来て、不思議な気分で眺めていた。当時は、谷崎潤一郎とか三島由紀夫とかを筆頭に昭和文学にドップリつかっていた時期だったし、小林秀雄にハマり始めていた頃だったから、余計にそんな風に通(つう)ぶった、ちょっと大人ぶった感覚で「やきもの」を見ていたのかもしれないけど、でも大人になってからも、なんとなく「やきもの」が好きで、ありきたりな表現だけど特に陶器の土の温かみが好きで、個展とかあれば立ち寄るようになった。

 家人とデートする時も、日本各地の焼き物の街を訪ね、眺めて回った。別に買ったりはしない。ただただ、所狭しと陶器が並べられた店を入っては出て、入っては出て(焼き物の街はだいたいこういう店が集まって通りに建ち並んでいる)、ちょっと疲れたら喫茶店でコーヒーを飲み、あぁやっぱりこんなとこにある喫茶店のコーヒーカップだから、当然〇〇焼きだよね、なんて話しながら時間を過ごした。「やきもの」の街はどこも高齢化が進んでさびれている場合が多いけど、それも含めてプラプラ歩いているだけで雰囲気に趣があり、気持ちが洗われる。もう使わなくなった登り窯とか、大量に捨てられた器の破片の山とか、全部が風景の一連のセットになっていて、何時間いても飽きないのが「やきもの」の街である。

 家を建てたとき、食器棚も新調して備え付けたが、子供のいない二人暮らしで、食器も少ない。それまで住んでいたアパートから持ってきた食器を全部収納したら、なんとガラス戸の中に入れるものが無くなってしまった。そりゃそうだ。僕たちはファミリータイプの食器棚を買っていた。計画性ゼロである。でも大は小を兼ねるというからいいか、なんて考えていた。

 が、そのうちさすがに気になって、家人が集めていたコンビニの景品(リラックマカップなど)を入れてみたが、それでもガラス戸の中の右半分しか埋まらない。

 そうだ、せっかくだから左半分はギャラリーみたいにして、自分のお気に入りの「やきもの」でも集めてみようと思った。ヤフオクで探し始める。益子焼織部焼志野焼信楽焼伊賀焼、京焼、備前焼萩焼唐津焼。僕は好きな作家の作品を見つけ、こつこつ落札して集めては、ガラス戸の中のミニギャラリーに飾って行く。

 ところで、「やきもの」は窯の炎で釉薬(ゆうやく)や土の生地の色が七変化するので、その偶然性を楽しみに作家は窯へ作品を入れ、薪をくべる。いわば炎と作家が協業して芸術を作り上げ、成功すれば個展で陳列され、失敗すれば窯から出された直後に叩き割られるというのがこのアートのプロセスだ。なので、やっぱり炎の効果が焼き物のアートの価値を構成する重要な要素となり、作家の手触りで世界に生み出されたフォルムにどれだけ炎が不思議な色合いを付けてくれるかが鍵となる。

 そういう意味で、僕が特に好きなのは伊賀焼である。ビードロ釉と呼ばれる釉薬が高熱によってガラスに変化し、作家の手触りで形となった土の器の表面の一部を美しくコーティングする。僕がヤフオクで落札したのは、谷本光生という伊賀焼の大御所が作った茶碗で、初めて手にした時、なによりそのビードロ釉の美しさに圧倒された。変な言い方だけど「美しさの迫力」ってこういうのを言うのかな、なんて思った。伊賀焼アシンメトリーが特徴で、作家によっては極端に左右のバランスの崩れを強調してフォルムを作る人もいるが、この大御所は奇をてらわずにあくまで淡々と形の良い端正な器を作り、炎を信頼し炎と共演している。穏やかな人柄だったらしいけど、だからなおさらアーチストとしての凄みを感じる作品だと思った。凄腕の剣豪が普段ニコニコしているのに似ている。

 ブタメン焼きそばの豚の顔と、伝統的な焼き物の大御所の美しい器を並べるのは不敬かもしれない。怒られるかな?

でも、僕は確信犯としてこれを並べて論じ、確信犯として同じようにこれを芸術の鑑賞と呼ぶ。それが大量生産されるものであっても、作家による一回きりの創作であっても、僕たちの生活を明るくし、僕たちに生活をしみじみ味わせてくれるものは、等しく人生にとって大切なものだ。この視点を見落とすと、人生を無駄にする。崇高な芸術と低俗な芸術がある訳ではない。崇高さも低俗さも、それが作品に反映され、その向こう側に創作に賭ける作り手の姿と情熱を思い浮かべて楽しめるなら、我々の人生にとって大切な芸術である。

僕は今日もコーヒーを飲みながら豚の顔に挨拶し、食器棚のガラス戸を開けて大御所たちの情熱の結晶をしみじみ眺めている。

人生に特に意味や目的はないが食べる料理が美味しいので人生は生きるに値すると確信をもって言えること

 人間は37兆個の細胞で出来ていて、脳とか心臓は別だけど、大半が数年で入れ替わるらしいが、入れ替わるべき新しいものはどこからやって来るかというと、口から入って来る食べ物だ。だから生きるということは食べ物を食べるということだと言われる。でも、どうせなら美味しい食べ物(料理)が食べたい。美味しい料理が食べたいというのは、なんだかちょっと卑しいイメージがあって、昭和のステレオタイプだと、美食家としてちょび髭を生やした太った男の映像が思い浮かぶくらいだ。食いしん坊というコトバにもあんまり崇高なイメージはない。でも人は生きていく中で、生きがいとか自己実現とかいろいろ悩んだ挙句、最終的には「おいしいものが食べたいよね」に落ち着いて行く。なぜなら人間の人生に特に意味はなく、目的はないからである。

 マズローの5段階欲求説では、生理的欲求→安全欲求→社会的欲求→承認欲求→自己実現欲求、の5段階で人間の欲求の次元は上がって行くことになっている。

1.食べたいよぉ~(生理的欲求)

2.痛いのは嫌だよぉ~(安全欲求)

3.仲間に入れてくれよぉ~(社会的欲求)

4.もっと褒めてくれよぉ~(承認欲求)

5.生きる意味を教えてくれよぉ~(自己実現欲求)

まぁだいたいこんな感じだ。高校生の頃に岩波新書の何かの本でこのマズローの5段階欲求説を知って、なるほどそうかぁ、なんてひどく感心したけど、そのあと長々と生きて、平均寿命の半分を越えた瞬間、うーん、違うな、こりゃ続きがあるぞ、なんて思った。5段階目以降というのはこうだ。

6.あれれ、生きる意味なんてないじゃん(自己実現欲求くそくらえ)

7.それってどうせ社交辞令だよね(承認欲求くそくらえ)

8.なんか・・会社やめて一人で農業したいなぁ(社会的欲求くそくらえ)

ということで、5段階まで上がって行った欲求は、年齢と経験を重ね、人間の人生に特に意味はなく目的がないことを腹落ちして以降、順番に元に戻って行く(下へ降りて行く)のである。そして残りの安全欲求(痛いのは嫌だよぉ)と生理的欲求(食べたいよぉ)だけが残る。これが中年ってやつだ。

まだ老人ホームでチューブに繋がれて生きている訳ではないので、安全第一である。痛いのは絶対に嫌だ。事故に遭ったり病気にならないことを日々祈っている。だって、痛いのは本人にしか分からないし、本人以外に伝わらないし、従って、単に本人が苦しいだけの、本人だけが損をする話だからである。こいつは避けたい。だから中年の車の運転は安全第一である。僕たちは日本という安全な国で暮らせることを何よりも幸せに感じている。とても窮屈だけど。

一方、生理的欲求の大御所は睡眠欲、性欲、食欲だ。でも、人生の折り返し地点に立ってからは、どうせ休みの日に目覚まし時計をセットせずに眠りについても、朝早くに目が覚めて、そこからちゃんと眠れない。浅い眠りしかできず、若かった頃のように「泥のように昼まで眠る」楽しみにはならない。従って欲求の筆頭には上がって来ない。そして性欲は言わずもがなだ。それが欲求の筆頭だったのは10代から20代にかけてであり、あとはどんどん遠慮気味に後退して行って、今や草葉の陰で静かに控えている。

なので、人生の後半の生理的欲求の筆頭は食欲である。これはまだまだ健在。そしてこれは、たぶん死ぬ直前まで健在なんだろうなと思う。

いつか老人ホームでチューブに繋がれて生きる状態となった時、安全欲求なんて概念もなくなり、残るのは生理的欲求のみになるだろう。そうやってマズローの説には続きがあって、最後は生理的欲求の「食べたいよぉ~」だけが残って、僕たちは死んで行く。

全ては人生に特に意味や目的がないということを知ったその時から、後ろに引き返して生まれた直後に戻って行くのである。さんざん頑張って高い次元に上って来たつもりなのに、頂上で「とくに意味なし」という看板を見て、僕たちは山を下り始める。そして最後は、オムツを交換してもらい、スプーンで口に運んでもらう食事の味のみが、生きる目的となる。赤ん坊に戻って死ぬのは必然だ。

 マズロー先生。なので貴方の説が間違っていたとは言わないが、続きがあるということです。が、それが悲劇だとも不幸だとも思わない。自己実現なんて、人間が自然法則を超えた存在であるかのように、ほかの動物とは一線を画しているかのように、人間を肯定的にとらえる為のちょっと便利な装置です。それは経験が少なく不安だらけの若者には必要な装置だが、若者時代は人生の最初の頃の一時期でしかなく、決して人生の中心ではない。人間は自然法則の一部であり、ほかの動植物同様、ただ生きて死んで行くだけだから、それを謙虚に受け止めさえすれば、そんな大仰(おおぎょう)な装置を使わなくても、信じなくても、十分に日々の生活を楽しめます。美味しいものを美味しいと言いながら、好きな人とその美味しい料理を食べることが出来れば、それだけで人生は生きるに値(あたい)するのです。

 ところで、僕は普段の仕事のストレスを解消するかのように、家事をやっているので、家で料理を作るのはほとんどが僕である。家人はソファで寝そべって料理が出てくるのを待ち、食べ終わったらやはり僕が食器を撤収し、洗い、食器棚へ戻す。何も考えずにそんな作業をしている時間が、僕にはありがたいからだ。

が、家人がソファからおもむろに立ち上がって時々、気まぐれにササッと作る料理が、これまた死ぬほど美味しく、料理のセンスは勝てないなといつも思う。そう、料理は芸術の創作と同じで、努力でカバーできるところに限界があり、センスが全てなんだよなって思うのだ。最近作ってくれた料理では、ピーマンにチーズと豚肉を巻いて焼いた料理が、一瞬で作ってしまうのにサイコーの味付けとシャキッとした食感で、特にお気に入りである。

僕は出された家人のその料理を、美味しいと感じ、美味しいと口にして伝え、一緒にテレビを見て笑いながら食べる。そうやって日々の生活を味わっている。それ以上に生きる目的も喜びも、今のところ僕には不要である。

中国語検定2級を合格するまでの海外赴任決定からの道のりをしみじみ思い返してみたこと

 10年以上前の話だ。大学を卒業して10年以上たったけど、久しぶりに英語の勉強でもするか、なんて気まぐれでTOEICの勉強を始めた。そうそう、英語って好きな勉強科目だったんだよな、と思い出しながら問題集を買ってきてパラパラめくり、あぁ単語とか全然覚えているじゃん、きっと余裕じゃんなんて、「とりあえず」受けてみたら、650点という悲惨な結果だった・・・・

こりゃいかん、得意だった科目なのにすっかりダメになっている、ちょっと本気で勉強しようと思って、新しい参考書をAmazonで買って土日に勉強し始めた。理系出身の兄貴には馬鹿にされるし、くやしかったのだ。

が、始めた矢先に中国へ飛ばされた。しかも僻地だ。辺鄙(へんぴ)すぎて最寄りの空港ではスタッフに英語も通じなかった。要するにに中国語オンリーの世界だ。

で、僕は生きるために中国語を一から勉強し始めた。TOEICなんて言っている場合じゃない。真新しい英語の参考書は全部、日本に置いて行った。まずは中国語で「トイレはどこですか?」「お腹が死ぬほど痛いので病院に連れて行って下さい」を喋れるようになる事の方が、当時の僕には重要だったのだ。

 という訳で、やむを得ない事情もあり、そのあとの4年間の駐在が終わるころには、普通の会話や仕事での一般的なやりとりを中国語で出来るようになっていたが、いよいよ日本に帰る前に、生活して行くために必死で勉強し続けたその中国語の実力を、ちゃんと形にしてから帰ろうと思った。中国語検定試験の2級を上海へ受けに行ったのだ。

 中国語検定の3級は、駐在して半年後には合格していた。どちらかというと、検定試験を受ける事を口実に上海に行き、ついでに日本料理を食べたかったから(駐在していた地域は田舎過ぎて日本料理店がなかった為)、受験をしながら昨夜久しぶりに食った寿司がマジでうまかったなんて考えていた。熾烈な環境(中国語オンリーの世界)にいたから、3級程度のレベルなんて簡単だったし、当時の上司の勧めもあったから受けただけで、心ここにあらずで受験し、無感動に合格した。

一方、中国語検定2級は3級からグッとレベルが上がるし、4年間の集大成だと思って自分で受けに行ったから、ちょっと気合が入っていた。飛行機で上海に向かい、上海のホテルに前泊したのは3級を受けた時と同じだが、前回と違って夕方にホテルの外へ出かけて日本料理屋を目指すこともなく、ホテルの1階のレストランで簡単に中華式の食事を済ませると、すぐに部屋に戻って翌日の試験本番に向けた勉強をしていた。

で、落ちた。落ちたという結果が判明した直後、送別会をしてもらって帰国の飛行機に乗った。シゴトはやり切った気持ちでいっぱいだったが、検定試験の件だけは、自分でもだいぶ心残りだった。

 本当は日本に帰ったら、やっぱり英語の勉強を再開してTOEICを800点以上は取ろうと考えていたのだ。650点なんて人に言えないし、日本で新卒で入ってくる部下の新入社員たちはフツーに800点超えだったから、こりゃイカン、遅過ぎるような気もするが、やっぱり英語はちゃんと勉強し直そうと考えていたのだ。

 が、やはり中国語検定の事が気になって仕方なかった。あんなに4年間、コツコツ勉強していたのに、駐在を開始して半年で合格した3級から結果が変わらず終わったとなると、なんだか腑に落ちなかったのだ。お手製の勉強ノートにはそれこそ勉強を始めた頃の「お腹が死ぬほど痛いので」の類(たぐい)の日本語ー中国語の対訳(当時、通訳に教えてもらって書き溜めていた)が書いてあって、そこから4年、すっかり僕は中国語学習に馴染んでいたから、やっぱり、英語の勉強を再開する前に、その4年間頑張ったことを形にしておきたいなぁ、と考えた。

なので、もはや日本に帰って来てほとんど中国語を使用する機会はなくなっていたけど、やっぱり僕は中国語検定2級の合格を目指すことにした。自分なりのケジメをつけたかったのだ。平日は残業まみれだったから、土日を使ってしっかり勉強し、ヒアリング用のCDは通勤途中の車の中で流し続けた。

 実際に中国語検定試験に向け勉強をしたことのある人は知っていると思う。この試験は、参考書とか問題集のバリエーションが物凄く少ないのだ。英語関係であれば、オススメやそれに基づいた合格体験記があまりにも多過ぎて迷うところだが、中国語検定2級に関しては、問題集はほぼ一択で、どの合格体験記もほぼその一択の問題集を使用したと書いてあるから、それをやるしかない。しかも、中国語検定というのはちょっと癖のある試験なので、実生活ではそんな言葉は使わないよなぁ、みたいな表現や、そんなの中国人自身が正確に使ってないぞ、みたいな難しい文法問題がたくさんあって、尚更、その癖に対応し、且つ網羅したこの一択の問題集をやるのが、合格への道だった。戴暁旬という人が書いたアスク出版の「合格奪取!中国語検定2級トレーニングブック」という問題集だ。その世界では超有名な問題集だ。

 結果的に、その問題集を繰り返しやって勉強し、日本に帰ってから受験した2回目でようやく僕はこの試験に合格した。ついでに受けたHSKという中国の国がやっている試験も、中国語検定2級と同等レベルと言われている5級に合格した(この試験は1級から始まってだんだん難しくなり、一番難しいのが6級)。ウン、これでOK。レストランへ一人で入って地元の中国人たちに物珍しそうに囲まれ、「お前は日本人か?」「日本人を初めて生で見るぞ」「何を食べたいんだ?」「それ結構辛い料理だけど食えるのか?」「なんだオマエ、一言も中国語がしゃべれないのか?」なんてガヤガヤ言われ(おそらく)、すっかり委縮しながらも「コレ!」とメニューを指さしてジェスチャーしていた頃から始めた勉強が、ようやく自分の中で一つの区切りがついたと思った。

2級合格の通知が家に届いた翌日、僕は日本を出発する直前に勉強を始めたTOEICの問題集を引っ張り出して来た。既に大学を卒業して20年以上がたっていたけど、ようやく英語の勉強を再開することにした。また土日にコツコツやるところからスタートだ。ここまでが長かった・・・

 休日に書斎で語学の勉強していると、時間を忘れる。誰に邪魔される訳でもなく、自分のペースでやれて、しかも「頑張った分は結果が出る」という、実社会の組織の仕事とはぜんぜん違う単純明快な仕組みが語学の勉強だ。実社会の組織の仕事は、どんなに頑張ろうと、結果の出ないことも普通にあるし、もっと言えば個人が頑張ったなんてどうでもいいのである。お金を生み出すために結果が出たかどうかが重要であり、そんな個人の努力なんてすり潰されて行く日々の組織での平日を越えて、休みの日に黙々と一人で語学の勉強をするのは精神的にとても楽(らく)ちんな時間なのだ。

 そして目を上げると、本棚の隅に中国語の問題集とともに、駐在時代に自分で作った薄汚れたお手製の勉強ノートが立て掛けてある。「お腹が死ぬほど痛いので病院に連れて行って下さい」「私はまだ中国語が上手に話せないですが、面倒を見てくれてありがとう」「いつか中国語が上手に話せるようになったら、自分の口であなたに直接、感謝の気持ちをスピーチしたい」「買って来てくれたあの薬は何だったのですか?」「薬が効き過ぎる」「ありがとう。これは何の薬ですか?」「できれば一日、自分の部屋でベッドで寝ていたい」「何かあればこちらから電話させて下さい」

苦労した思い出とともに、お世話になった懐かしい地元の田舎の人たちのあの日に焼けた笑顔を、一人で書斎で思い出している。

ハイラインの「宇宙の戦士」で学生寮の生活を思い出し、そのあとのサラリーマン生活の修羅場を思い出したこと

 子供のころから乱読するタイプで、SFも結構読んだ。もちろんジュール・ベルヌの作品群は小学生だった僕の経典だ。生まれて初めて自分のお小遣いで買ったハードカバーの書籍が「二年間の休暇」だったし、これがあんまりお気に入りの物語だったので、何回も読んだ挙句、自分で原稿用紙に同じようなストーリー(無人島に流された少年が冒険するお話)を書き始めたくらいだ。小学生の頃の僕の夢は、小説家になることだった。

 そして兄貴のすすめで読んでいた作家の1人にハイラインがいる。ロバート・A・ハイライン、右翼と言われつつも「2001年宇宙の旅」を書いたアーサー・C・クラークたちと並んでSF界のビッグスリーと呼ばれたその人だ。

 ハイラインの小説のうち、日本では「夏への扉」が大人気で、最近でも邦画として映画化されていたと思うが、僕はやはり「宇宙の戦士」こそが一番面白いと思っていた。そしてまさに、この小説のおかげでハイラインは右翼のレッテルを貼られ続けた。

 豊かな家庭に育った主人公のジョニーが、軍隊に入って教育を受け、クモに似た宇宙生物と戦うというシンプルな話だが、軍隊生活での紆余曲折、ティーンエイジャーらしい悩み、友情や恋や家族との別れの中で少しずつ成長し、やがて立派な軍人になって活躍して行くお話である。

 中でもジョニーと歴史哲学の先生、デュボア先生とのやりとりが卓越していて、というか気持ちいいくらい右側に偏っていて、正しいとか間違っているとかじゃなく、ギリシア哲学以降、何回も議論されて来た「市民の権利と義務」のあり方が、暴力と道徳の関係を踏まえながら議論されて行く。

 暴力に社会の問題や個人の道徳問題を解決する効用があることは、ある程度、社会生活を送っていたら分かる。経済活動だって同じだ。富の奪い合いを、種が絶滅しない程度にルールを作って、いろんな形でやるのが外交であり、それに基づいて実際の奪い合いを実行するのがビジネスだ。そしてこの「いろんな形」の本質は暴力=力で解決、である。訴訟を使ってもいい、人権問題を利用してもいい、密室での交渉という方法を選んでもいい、民間のさらにもっとミクロな次元では、パワハラにならないよう言葉を選びながら(新しい時代のルールに従いながら)、上司は部下に罪悪感を持たせ、死に物狂いで結果を出させようとする。これが経済活動の本質である。空爆することも、殴ることも、言葉で罵倒することも、「論理的に」説得し指示することも、雇用の不安を煽って黙らせることも、要するに力で相手を動かす、ということである。そして、人間の活動、特に組織的な経済活動のど真ん中に、この暴力は居座り続けて来たし、これからも居座り続ける。だって、原始時代から人は、食料を手に入れるために暴力を使い続けて来た。対象が動物から貯蓄が可能な穀物へ、手段が小規模集団の活動から国家という大規模組織の活動へ、ツールが槍や弓から核爆弾へ、少しずつ変遷して行ったに過ぎない。

 という訳で、要するに「なんだかんだ言って暴力=力で解決、っていうのが世の中のルールである以上、それを否定した無菌教育なんてしたって、実際の世の中で通用しないから、次々と落伍者が出る=その社会は没落し、逆に肯定した教育を推し進める社会は強い戦士をたくさん生み出す=その社会は勃興する、ってことだよね」というお話を、SF小説を通して語っているのがこの「宇宙の戦士」だ。

 昭和の時代になんとかヨットスクール事件というのもあったし、今だって体育会系のシゴキが幅をきかせ、なんだかんだ言ってそういうのを経験して耐性のある連中が「組織」を動かして行く。上下関係?そりゃ身に付いていた方が組織ではやりやすいでしょ。最近はビジネスの環境もだいぶ変わって、組織の倫理や価値観も変わって、体育会馬鹿では通用しなくなったと言われているけど、それはあくまで中間管理職以下の表面的な話であり、コトが経営の根幹に関わる重大事になると(例えば損害が半端ない、逸失利益が半端ない、なんて状況)、業種がITだろうが何だろうが現代のジェントルマンよろしく経営陣の顔つきは、あっという間に昭和の顔つきに戻り、役員室のドアは閉じられ、ソファーに座らされ、密室の中で「宇宙の戦士」が始まる。ひぇ~・・・・でも現実はそんなもんだ。

 学生時代、かつてはGHQに接収されたこともある古い鉄筋の建物が寄宿舎になっていて、僕はそこに住んでいた。20畳の3人部屋で、上級生が「室長(しつちょう)」をやる一方、新入生である1年生は「室僕(しつぼく)」という刑務所で使いそうな名前で呼ばれ、同じ部屋に住む先輩方に徹底して尽くさなければならなかった。お茶を出す、前を横切る時は1日何百回でも「失礼します」を言う。部屋を出る時も入ってくる時も、廊下で向こうの方に姿が見えた時も、トイレのドアを開けて顔を合わせた時も、必ず「こんにちは。失礼します」を繰り返す。ちょとでも言い忘れたり粗相(そそう)したなら、その場で怒鳴られ、怒られ、許してもらえるまで「失礼しました」を大声で叫び頭を下げ続けなければならない。体育会の連中が「アソコはさすがにヤバい。キツ過ぎ。」と評していたような、きっつい上下関係がまかり通る寄宿舎だったけど、そこで無事に生き残れば、朝飯+夕飯つき、お風呂も共同だけど入れて、それで1か月を2万5千円で暮らせた。地方から出てきた貧乏学生には夢のような場所だったのである。先輩は無茶苦茶怖いけど、バイトで稼いだお金のかなりの余力を使って、女の子と遊べる。学費は奨学金で乗り切ればいい。

 今となっては全部が懐かしい思い出だ。ありきたりな友情物語もある。ジョニーが軍隊生活で体験したように、20歳前後の体験は、どんな環境だって、どんな厳しさだって、どんな惨めさだって良き思い出になるのである。あそこで味わったほどの罵倒は社会人になってから1度もなかったし、社会に出た時点で既に「面の皮(つらのかわ)が厚くなっている」状態は、それだけでアドバンテージだった。

 久しぶりに書斎を整理していて、背表紙がボロボロになった「宇宙の戦士」を見つけ、なんとなくパラパラめくっているうちに、これを熱中して読んでいた子供時代、それから学生寮で徹底的に上下関係を叩き込まれた記憶、その後のサラリーマン生活で時々味わった「暴力=力で解決」の修羅場の数々、なんかを思い出した。

 暴力を肯定しようと否定しようと、受け入れようと受け入れまいと、それが目に見える形で分かりやすく表現されていようと、見えにくくオブラートに包まれていようと、それを受け入れて社会に適用しようと、それを否定して社会を変えようと努力しようと、人間は食べていくために常に新しい形で暴力を使い続ける。形が変わって行くだけだ。手にした槍を獣(けもの)の体躯に突き刺し血潮を浴びていた時代から、何一つ変わっていないのである。

 そうやって僕たちは歳を取り、この世から順番に去って行く。それだけだ。

九州の魅力は食いしん坊にとっては底がないということ

 九州一周旅行は博多の食い倒れから始まり、いよいよレンタカーに乗って走り出した。長崎方面に行くから、喜ぶかなと思って家人にハウステンボスで遊ぼうなんて誘ったら、「吉野ケ里遺跡へ行きたい」とのこと。そうか、この人は古代史が大好きで、一人で古墳巡りをやっている人だった事を思い出した。古墳のほとんどは小山の前に看板があってそこに解説が書いてあり、逆にそれを読まなければただの小山にしか見えない。が、そんな小山の前の看板の写真(どれも同じに見える)をたくさん集めているのが家人だ。僕はがぜん昭和の男子として歴史は戦国時代が大好きだから、あんまり古代に興味もなかったが、今回の旅の目的として家人の接待を最優先とし、僕たちは吉野ケ里遺跡に車を走らせた。

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すごく大きい!広い!砦の入り口からすでに期待でいっぱいだった。

上機嫌の家人に引っ張られてどんどん奥に進んでいく。弥生時代の住居が復元され、その当時の人々の暮らしが、出土品とともに分かりやすく紹介されていた。本格的な歴史学習の施設だ。

祭祀の様子や、政(まつりごと)をやっている様子が人形で再現されていて迫力満点。

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広大な施設の敷地を歩いていたら、小腹がすいたので併設されているレストランで混ぜご飯のおにぎりを食べることにした。ついでにムツゴロウの焼いたのを付けてもらう。ムツゴロウは真っ黒に焦げていて、あんまり味はしなかったけど、おにぎりは素朴な味で美味しかった。ムツゴロウって本当はどんな味がするのだろ?と考えながら、炭素の塊みたいなのをカリカリかじる。

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11月の九州は気持ちよい風が吹いていて、食べ終わるとまた僕たちは、のんびり古代が復元された風景の中を歩いた。芝生の上を、古代の景色の中を、本当にのんびり僕たちは過ごした。人ごみの中を観光したりするよりずっと贅沢な時間の味わい方だ。訪ねて大正解だった。

 その後、長崎に入って、平戸を見物し、平和記念公園で祈り、カステラを食べに行った。松翁軒という老舗のカステラ屋さんで、どうしても行きたかったところだ。2階がレストランになっていて、レトロでものすごく雰囲気がある。

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僕たちはこのレストランでコーヒーを飲みながら美味しくカステラを頂いた。ここのカステラは日本一、上品な味のカステラである。博多に行くたびにお土産で買っていたのでファンになった。旅の途中で贅沢な時間をゆっくり過ごす。そうそう、このレトロな感じは、横浜とか神戸にもあるセンスのいい老舗の喫茶店と同じ雰囲気だと思い、同時に、長崎も歴史のある、そして町全体が雰囲気のある港町であることを思い出した。カステラはどこまでも美味しい。

 その夜は佐賀県に戻り、嬉野温泉の宿で泊まった。和多屋別荘という旅館で、ご飯の評価が高かったから予約していたのだけど、案内された部屋に入ってビックリ。洗面台の染付や檜風呂の鄙びた感じが、ザ・和モダン。

お風呂は驚くほどとろみのある温泉だった。ゆっくりお湯に浸かって体をほぐし、夕ご飯を食べ、旅の疲れを癒した。たくさん歩いたからたくさん眠った。普段はベッドで寝ているから、時々こうして旅館の和室で布団の上で眠ると、溶けるように寝てしまえる。今日もいい1日だった。九州旅行サイコー!

 この宿の凄みは実は翌朝食べた朝食にあった。と、翌朝、思い知らされた。白がゆに好きなだけ明太子を乗せて、温泉卵を乗せて、イワシの昆布締めを乗せて食べるのだ。

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こうして九州旅行の3日目が始まった。いよいよ僕たちは南に向かう。数百キロを走って薩摩の国へ向かうのだ。胸のワクワクが止まらなかった。薩摩の国へ向かうのだ。

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