失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

パルプフィクションと横浜の子供たちのこと

 もう四半世紀以上前の話だ。地方から上京してきた僕は、専門課程は都内にあったけど教養課程はキャンパスが横浜にあったので、出だしは横浜の寄宿舎で暮らし、横浜でアルバイトし、横浜で友達を作って、横浜で青春時代を謳歌した。

 90年代というのは本当に暗い時代で、バブル崩壊後の長い冬の時代が続き(そのころはそのあと更に何十年も冬が続くとは思っていなかったが)、自然災害が立て続いて発生したり、得体のしれない猟奇犯罪も立て続けに起こったり、前代未聞の都市型テロが起こったり、そんな中、山手線や中央線へダイブする中年サラリーマンの横を、茶髪のルーズソックスがチーマーと腕を組んで闊歩するような、魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした人の欲動が渦巻くどす黒い時代だった。

 そんな中、僕は人格形成の最期を完成させ、そこで暮らしていた。横浜の友達は生粋のハマっ子が多く、地方都市出身の僕にはその遊び方、人との距離感、ファッション、タバコの銘柄の選び方や使っているジッポライターの絵柄まで、すんごくオシャレだなぁ、と思ったものだ。当時、タランティーノが流行っていて、大ヒットしたパルプフィクションを映画館に何度も見に行ったが、映画館を一緒に出て、バーでたくさん飲んで、ちょっと酔っ払ったハマっ子の女友達が、映画でユマ・サーマンが演じていたミアのダンスを駅に向かう路上で真似した時、「あぁ、こういう人たちがいるのが都会なんだ」なんてしみじみ思ったのを覚えている。青春時代のまばゆい一瞬の光の光景である。

 パンデミックの前、家人を助手席に乗せてなんとなくドライブで走り、なんとなく高速に乗って、なんとなく何時間も走らせているうちに横浜にたどり着いた。すっかり日が暮れて、横浜はきれいな夜景を港の水辺の表面に浮かべ相変わらず光り輝いていた。仕事では出張で立ち寄ることがあっても、オフィスや倉庫と駅をまっすぐ行き来するだけで、とても街の風景なんて見ていない。が、こうして休暇になんとなくたどり着いてじっくり街を見ていると、なんだか青春時代を思い出して感傷的になった。あぁあのあたりを二十歳前後の自分が一人でテクテク歩きながらバイトに向かい、自分が何者でもない大きな不安と大きな希望を胸に、一生懸命前に進もうとしていたなぁ、とか、まさに友達のハマっ子たちと一晩中飲み明かした裏通りの場末感が今もそのまま残っているなぁとか、いろいろと昔の場面が思い出される。

宿泊なんて計画外だったから、家人が慌てて予約したホテルだったが、みなとみらいの観覧車の前にあって、ベイブリッジを正面に、部屋からは美しい夜景を見渡せた。お上り(のぼり)さんとして今夜は楽しもうと思い、風呂に入ってバルコニーに出ると、缶ビールを一気に飲み干し、横浜の港を見渡した。

 もうすっかり年を取り、初老に近づいた自分は、十分に何者かになっている。さすがに四半世紀の間に、誰かにとっての何者かであり、どこかの組織にとっての何者かに落ち着いている。不安もないが新しい希望といったものも既に失いつつある。そんな感じだ。でもロスジェネとして生きて、生き延びて、しみじみ人生を味わっている。そう思った。いつだって目の前には大きな割れ目や落とし穴があり、それでもそこを僕たちは歩いている。

あの90年代の青春時代に出会った超おしゃれなハマっ子たちは今何をしているのかな?きっとおしゃれな大人としてこの横浜のどこかで暮らしているんだろな。またいつか会えるといいな。なんてちょっと酔いが回りながら、夜景をみてそう思った。

ダメだダメだ。こんなとこで感傷的になっていてはダメだ。まだまだ人生は続き、まだまだ厳しい時代を、僕たちは死ぬ直前まで必死で働き続け、明るく生きて行かなきゃいけない。

僕はバルコニーから部屋に戻ると、もう一本缶ビールをあけた。こういう気まぐれ旅行をニコニコひっついて来て楽しそうにしている家人がそこにいた。

「何を思い出していたの?」

「別に」

明日はまた、数百キロを無事にこの人を乗せて家に帰らなきゃね、なんて独りごちて、僕はまたビールを飲み、90年代の若者だった自分に語り掛けていた。そしてベッドの上に寝転んだ。

 すっかり年をとってしまった自分がここにいる。

ブタメン焼そばの豚の顔に挨拶することと焼き物の美しさを味わうことは同じ芸術の鑑賞であるということ

 家人がやたら食べ物を買い溜めしたがるので、台所に買い物袋が並べてあって、そこからカップ麺やその他のレトルトの包装が見え隠れしている。毎朝、僕はそこでコーヒーを入れて立ち飲みしてから会社に行くのだが、見え隠れしているインスタント食品の一つにエースコックブタメン焼そばがあり、その真っ赤な包装イラストがもの凄く豪快で、マスコットの豚の顔が、いつもコーヒーをすすっている僕を見上げている。毎朝、顔を合わせるうちに僕はその豚に「おはよう」と挨拶するようになり、なんだか愛着が湧いてしまった。そしてこういう製品の一つ一つにも開発の段階で企画会議があり、何度も何度も打ち合わせを繰り返した結果、こんな豪快なイラストと豚の顔が誕生したはずだ。この豚の顔を描いた人はどんな人だろう?どんな気持ちでこの商品を世の中へ送り出そうと意気込んだのか?そんな事を考え、色々と作り手側の創作している姿を想像し、明るい気持ちでコーヒーを飲んでいる。このあいだ一つ食べたけど、昭和のインスタント焼きそばの素朴な味がして、本当に美味しかった。他愛もないけど、これは日常の中でしみじみ味わう、一種の芸術の鑑賞である。

 話は変わるが、実家の客間の戸棚の上に信楽焼の一輪挿しが昔から置いてあった。昼間は普通の小ぢんまりした器にしか見えないのに、その客間で中学生の僕が夜更かしして本を読んだり勉強したりしているうち、深夜の蛍光灯の光に照らされ、妖しげな美しさが満ち溢れて来て、不思議な気分で眺めていた。当時は、谷崎潤一郎とか三島由紀夫とかを筆頭に昭和文学にドップリつかっていた時期だったし、小林秀雄にハマり始めていた頃だったから、余計にそんな風に通(つう)ぶった、ちょっと大人ぶった感覚で「やきもの」を見ていたのかもしれないけど、でも大人になってからも、なんとなく「やきもの」が好きで、ありきたりな表現だけど特に陶器の土の温かみが好きで、個展とかあれば立ち寄るようになった。

 家人とデートする時も、日本各地の焼き物の街を訪ね、眺めて回った。別に買ったりはしない。ただただ、所狭しと陶器が並べられた店を入っては出て、入っては出て(焼き物の街はだいたいこういう店が集まって通りに建ち並んでいる)、ちょっと疲れたら喫茶店でコーヒーを飲み、あぁやっぱりこんなとこにある喫茶店のコーヒーカップだから、当然〇〇焼きだよね、なんて話しながら時間を過ごした。「やきもの」の街はどこも高齢化が進んでさびれている場合が多いけど、それも含めてプラプラ歩いているだけで雰囲気に趣があり、気持ちが洗われる。もう使わなくなった登り窯とか、大量に捨てられた器の破片の山とか、全部が風景の一連のセットになっていて、何時間いても飽きないのが「やきもの」の街である。

 家を建てたとき、食器棚も新調して備え付けたが、子供のいない二人暮らしで、食器も少ない。それまで住んでいたアパートから持ってきた食器を全部収納したら、なんとガラス戸の中に入れるものが無くなってしまった。そりゃそうだ。僕たちはファミリータイプの食器棚を買っていた。計画性ゼロである。でも大は小を兼ねるというからいいか、なんて考えていた。

 が、そのうちさすがに気になって、家人が集めていたコンビニの景品(リラックマカップなど)を入れてみたが、それでもガラス戸の中の右半分しか埋まらない。

 そうだ、せっかくだから左半分はギャラリーみたいにして、自分のお気に入りの「やきもの」でも集めてみようと思った。ヤフオクで探し始める。益子焼織部焼志野焼信楽焼伊賀焼、京焼、備前焼萩焼唐津焼。僕は好きな作家の作品を見つけ、こつこつ落札して集めては、ガラス戸の中のミニギャラリーに飾って行く。

 ところで、「やきもの」は窯の炎で釉薬(ゆうやく)や土の生地の色が七変化するので、その偶然性を楽しみに作家は窯へ作品を入れ、薪をくべる。いわば炎と作家が協業して芸術を作り上げ、成功すれば個展で陳列され、失敗すれば窯から出された直後に叩き割られるというのがこのアートのプロセスだ。なので、やっぱり炎の効果が焼き物のアートの価値を構成する重要な要素となり、作家の手触りで世界に生み出されたフォルムにどれだけ炎が不思議な色合いを付けてくれるかが鍵となる。

 そういう意味で、僕が特に好きなのは伊賀焼である。ビードロ釉と呼ばれる釉薬が高熱によってガラスに変化し、作家の手触りで形となった土の器の表面の一部を美しくコーティングする。僕がヤフオクで落札したのは、谷本光生という伊賀焼の大御所が作った茶碗で、初めて手にした時、なによりそのビードロ釉の美しさに圧倒された。変な言い方だけど「美しさの迫力」ってこういうのを言うのかな、なんて思った。伊賀焼アシンメトリーが特徴で、作家によっては極端に左右のバランスの崩れを強調してフォルムを作る人もいるが、この大御所は奇をてらわずにあくまで淡々と形の良い端正な器を作り、炎を信頼し炎と共演している。穏やかな人柄だったらしいけど、だからなおさらアーチストとしての凄みを感じる作品だと思った。凄腕の剣豪が普段ニコニコしているのに似ている。

 ブタメン焼きそばの豚の顔と、伝統的な焼き物の大御所の美しい器を並べるのは不敬かもしれない。怒られるかな?

でも、僕は確信犯としてこれを並べて論じ、確信犯として同じようにこれを芸術の鑑賞と呼ぶ。それが大量生産されるものであっても、作家による一回きりの創作であっても、僕たちの生活を明るくし、僕たちに生活をしみじみ味わせてくれるものは、等しく人生にとって大切なものだ。この視点を見落とすと、人生を無駄にする。崇高な芸術と低俗な芸術がある訳ではない。崇高さも低俗さも、それが作品に反映され、その向こう側に創作に賭ける作り手の姿と情熱を思い浮かべて楽しめるなら、我々の人生にとって大切な芸術である。

僕は今日もコーヒーを飲みながら豚の顔に挨拶し、食器棚のガラス戸を開けて大御所たちの情熱の結晶をしみじみ眺めている。

人生に特に意味や目的はないが食べる料理が美味しいので人生は生きるに値すると確信をもって言えること

 人間は37兆個の細胞で出来ていて、脳とか心臓は別だけど、大半が数年で入れ替わるらしいが、入れ替わるべき新しいものはどこからやって来るかというと、口から入って来る食べ物だ。だから生きるということは食べ物を食べるということだと言われる。でも、どうせなら美味しい食べ物(料理)が食べたい。美味しい料理が食べたいというのは、なんだかちょっと卑しいイメージがあって、昭和のステレオタイプだと、美食家としてちょび髭を生やした太った男の映像が思い浮かぶくらいだ。食いしん坊というコトバにもあんまり崇高なイメージはない。でも人は生きていく中で、生きがいとか自己実現とかいろいろ悩んだ挙句、最終的には「おいしいものが食べたいよね」に落ち着いて行く。なぜなら人間の人生に特に意味はなく、目的はないからである。

 マズローの5段階欲求説では、生理的欲求→安全欲求→社会的欲求→承認欲求→自己実現欲求、の5段階で人間の欲求の次元は上がって行くことになっている。

1.食べたいよぉ~(生理的欲求)

2.痛いのは嫌だよぉ~(安全欲求)

3.仲間に入れてくれよぉ~(社会的欲求)

4.もっと褒めてくれよぉ~(承認欲求)

5.生きる意味を教えてくれよぉ~(自己実現欲求)

まぁだいたいこんな感じだ。高校生の頃に岩波新書の何かの本でこのマズローの5段階欲求説を知って、なるほどそうかぁ、なんてひどく感心したけど、そのあと長々と生きて、平均寿命の半分を越えた瞬間、うーん、違うな、こりゃ続きがあるぞ、なんて思った。5段階目以降というのはこうだ。

6.あれれ、生きる意味なんてないじゃん(自己実現欲求くそくらえ)

7.それってどうせ社交辞令だよね(承認欲求くそくらえ)

8.なんか・・会社やめて一人で農業したいなぁ(社会的欲求くそくらえ)

ということで、5段階まで上がって行った欲求は、年齢と経験を重ね、人間の人生に特に意味はなく目的がないことを腹落ちして以降、順番に元に戻って行く(下へ降りて行く)のである。そして残りの安全欲求(痛いのは嫌だよぉ)と生理的欲求(食べたいよぉ)だけが残る。これが中年ってやつだ。

まだ老人ホームでチューブに繋がれて生きている訳ではないので、安全第一である。痛いのは絶対に嫌だ。事故に遭ったり病気にならないことを日々祈っている。だって、痛いのは本人にしか分からないし、本人以外に伝わらないし、従って、単に本人が苦しいだけの、本人だけが損をする話だからである。こいつは避けたい。だから中年の車の運転は安全第一である。僕たちは日本という安全な国で暮らせることを何よりも幸せに感じている。とても窮屈だけど。

一方、生理的欲求の大御所は睡眠欲、性欲、食欲だ。でも、人生の折り返し地点に立ってからは、どうせ休みの日に目覚まし時計をセットせずに眠りについても、朝早くに目が覚めて、そこからちゃんと眠れない。浅い眠りしかできず、若かった頃のように「泥のように昼まで眠る」楽しみにはならない。従って欲求の筆頭には上がって来ない。そして性欲は言わずもがなだ。それが欲求の筆頭だったのは10代から20代にかけてであり、あとはどんどん遠慮気味に後退して行って、今や草葉の陰で静かに控えている。

なので、人生の後半の生理的欲求の筆頭は食欲である。これはまだまだ健在。そしてこれは、たぶん死ぬ直前まで健在なんだろうなと思う。

いつか老人ホームでチューブに繋がれて生きる状態となった時、安全欲求なんて概念もなくなり、残るのは生理的欲求のみになるだろう。そうやってマズローの説には続きがあって、最後は生理的欲求の「食べたいよぉ~」だけが残って、僕たちは死んで行く。

全ては人生に特に意味や目的がないということを知ったその時から、後ろに引き返して生まれた直後に戻って行くのである。さんざん頑張って高い次元に上って来たつもりなのに、頂上で「とくに意味なし」という看板を見て、僕たちは山を下り始める。そして最後は、オムツを交換してもらい、スプーンで口に運んでもらう食事の味のみが、生きる目的となる。赤ん坊に戻って死ぬのは必然だ。

 マズロー先生。なので貴方の説が間違っていたとは言わないが、続きがあるということです。が、それが悲劇だとも不幸だとも思わない。自己実現なんて、人間が自然法則を超えた存在であるかのように、ほかの動物とは一線を画しているかのように、人間を肯定的にとらえる為のちょっと便利な装置です。それは経験が少なく不安だらけの若者には必要な装置だが、若者時代は人生の最初の頃の一時期でしかなく、決して人生の中心ではない。人間は自然法則の一部であり、ほかの動植物同様、ただ生きて死んで行くだけだから、それを謙虚に受け止めさえすれば、そんな大仰(おおぎょう)な装置を使わなくても、信じなくても、十分に日々の生活を楽しめます。美味しいものを美味しいと言いながら、好きな人とその美味しい料理を食べることが出来れば、それだけで人生は生きるに値(あたい)するのです。

 ところで、僕は普段の仕事のストレスを解消するかのように、家事をやっているので、家で料理を作るのはほとんどが僕である。家人はソファで寝そべって料理が出てくるのを待ち、食べ終わったらやはり僕が食器を撤収し、洗い、食器棚へ戻す。何も考えずにそんな作業をしている時間が、僕にはありがたいからだ。

が、家人がソファからおもむろに立ち上がって時々、気まぐれにササッと作る料理が、これまた死ぬほど美味しく、料理のセンスは勝てないなといつも思う。そう、料理は芸術の創作と同じで、努力でカバーできるところに限界があり、センスが全てなんだよなって思うのだ。最近作ってくれた料理では、ピーマンにチーズと豚肉を巻いて焼いた料理が、一瞬で作ってしまうのにサイコーの味付けとシャキッとした食感で、特にお気に入りである。

僕は出された家人のその料理を、美味しいと感じ、美味しいと口にして伝え、一緒にテレビを見て笑いながら食べる。そうやって日々の生活を味わっている。それ以上に生きる目的も喜びも、今のところ僕には不要である。

中国語検定2級を合格するまでの海外赴任決定からの道のりをしみじみ思い返してみたこと

 10年以上前の話だ。大学を卒業して10年以上たったけど、久しぶりに英語の勉強でもするか、なんて気まぐれでTOEICの勉強を始めた。そうそう、英語って好きな勉強科目だったんだよな、と思い出しながら問題集を買ってきてパラパラめくり、あぁ単語とか全然覚えているじゃん、きっと余裕じゃんなんて、「とりあえず」受けてみたら、650点という悲惨な結果だった・・・・

こりゃいかん、得意だった科目なのにすっかりダメになっている、ちょっと本気で勉強しようと思って、新しい参考書をAmazonで買って土日に勉強し始めた。理系出身の兄貴には馬鹿にされるし、くやしかったのだ。

が、始めた矢先に中国へ飛ばされた。しかも僻地だ。辺鄙(へんぴ)すぎて最寄りの空港ではスタッフに英語も通じなかった。要するにに中国語オンリーの世界だ。

で、僕は生きるために中国語を一から勉強し始めた。TOEICなんて言っている場合じゃない。真新しい英語の参考書は全部、日本に置いて行った。まずは中国語で「トイレはどこですか?」「お腹が死ぬほど痛いので病院に連れて行って下さい」を喋れるようになる事の方が、当時の僕には重要だったのだ。

 という訳で、やむを得ない事情もあり、そのあとの4年間の駐在が終わるころには、普通の会話や仕事での一般的なやりとりを中国語で出来るようになっていたが、いよいよ日本に帰る前に、生活して行くために必死で勉強し続けたその中国語の実力を、ちゃんと形にしてから帰ろうと思った。中国語検定試験の2級を上海へ受けに行ったのだ。

 中国語検定の3級は、駐在して半年後には合格していた。どちらかというと、検定試験を受ける事を口実に上海に行き、ついでに日本料理を食べたかったから(駐在していた地域は田舎過ぎて日本料理店がなかった為)、受験をしながら昨夜久しぶりに食った寿司がマジでうまかったなんて考えていた。熾烈な環境(中国語オンリーの世界)にいたから、3級程度のレベルなんて簡単だったし、当時の上司の勧めもあったから受けただけで、心ここにあらずで受験し、無感動に合格した。

一方、中国語検定2級は3級からグッとレベルが上がるし、4年間の集大成だと思って自分で受けに行ったから、ちょっと気合が入っていた。飛行機で上海に向かい、上海のホテルに前泊したのは3級を受けた時と同じだが、前回と違って夕方にホテルの外へ出かけて日本料理屋を目指すこともなく、ホテルの1階のレストランで簡単に中華式の食事を済ませると、すぐに部屋に戻って翌日の試験本番に向けた勉強をしていた。

で、落ちた。落ちたという結果が判明した直後、送別会をしてもらって帰国の飛行機に乗った。シゴトはやり切った気持ちでいっぱいだったが、検定試験の件だけは、自分でもだいぶ心残りだった。

 本当は日本に帰ったら、やっぱり英語の勉強を再開してTOEICを800点以上は取ろうと考えていたのだ。650点なんて人に言えないし、日本で新卒で入ってくる部下の新入社員たちはフツーに800点超えだったから、こりゃイカン、遅過ぎるような気もするが、やっぱり英語はちゃんと勉強し直そうと考えていたのだ。

 が、やはり中国語検定の事が気になって仕方なかった。あんなに4年間、コツコツ勉強していたのに、駐在を開始して半年で合格した3級から結果が変わらず終わったとなると、なんだか腑に落ちなかったのだ。お手製の勉強ノートにはそれこそ勉強を始めた頃の「お腹が死ぬほど痛いので」の類(たぐい)の日本語ー中国語の対訳(当時、通訳に教えてもらって書き溜めていた)が書いてあって、そこから4年、すっかり僕は中国語学習に馴染んでいたから、やっぱり、英語の勉強を再開する前に、その4年間頑張ったことを形にしておきたいなぁ、と考えた。

なので、もはや日本に帰って来てほとんど中国語を使用する機会はなくなっていたけど、やっぱり僕は中国語検定2級の合格を目指すことにした。自分なりのケジメをつけたかったのだ。平日は残業まみれだったから、土日を使ってしっかり勉強し、ヒアリング用のCDは通勤途中の車の中で流し続けた。

 実際に中国語検定試験に向け勉強をしたことのある人は知っていると思う。この試験は、参考書とか問題集のバリエーションが物凄く少ないのだ。英語関係であれば、オススメやそれに基づいた合格体験記があまりにも多過ぎて迷うところだが、中国語検定2級に関しては、問題集はほぼ一択で、どの合格体験記もほぼその一択の問題集を使用したと書いてあるから、それをやるしかない。しかも、中国語検定というのはちょっと癖のある試験なので、実生活ではそんな言葉は使わないよなぁ、みたいな表現や、そんなの中国人自身が正確に使ってないぞ、みたいな難しい文法問題がたくさんあって、尚更、その癖に対応し、且つ網羅したこの一択の問題集をやるのが、合格への道だった。戴暁旬という人が書いたアスク出版の「合格奪取!中国語検定2級トレーニングブック」という問題集だ。その世界では超有名な問題集だ。

 結果的に、その問題集を繰り返しやって勉強し、日本に帰ってから受験した2回目でようやく僕はこの試験に合格した。ついでに受けたHSKという中国の国がやっている試験も、中国語検定2級と同等レベルと言われている5級に合格した(この試験は1級から始まってだんだん難しくなり、一番難しいのが6級)。ウン、これでOK。レストランへ一人で入って地元の中国人たちに物珍しそうに囲まれ、「お前は日本人か?」「日本人を初めて生で見るぞ」「何を食べたいんだ?」「それ結構辛い料理だけど食えるのか?」「なんだオマエ、一言も中国語がしゃべれないのか?」なんてガヤガヤ言われ(おそらく)、すっかり委縮しながらも「コレ!」とメニューを指さしてジェスチャーしていた頃から始めた勉強が、ようやく自分の中で一つの区切りがついたと思った。

2級合格の通知が家に届いた翌日、僕は日本を出発する直前に勉強を始めたTOEICの問題集を引っ張り出して来た。既に大学を卒業して20年以上がたっていたけど、ようやく英語の勉強を再開することにした。また土日にコツコツやるところからスタートだ。ここまでが長かった・・・

 休日に書斎で語学の勉強していると、時間を忘れる。誰に邪魔される訳でもなく、自分のペースでやれて、しかも「頑張った分は結果が出る」という、実社会の組織の仕事とはぜんぜん違う単純明快な仕組みが語学の勉強だ。実社会の組織の仕事は、どんなに頑張ろうと、結果の出ないことも普通にあるし、もっと言えば個人が頑張ったなんてどうでもいいのである。お金を生み出すために結果が出たかどうかが重要であり、そんな個人の努力なんてすり潰されて行く日々の組織での平日を越えて、休みの日に黙々と一人で語学の勉強をするのは精神的にとても楽(らく)ちんな時間なのだ。

 そして目を上げると、本棚の隅に中国語の問題集とともに、駐在時代に自分で作った薄汚れたお手製の勉強ノートが立て掛けてある。「お腹が死ぬほど痛いので病院に連れて行って下さい」「私はまだ中国語が上手に話せないですが、面倒を見てくれてありがとう」「いつか中国語が上手に話せるようになったら、自分の口であなたに直接、感謝の気持ちをスピーチしたい」「買って来てくれたあの薬は何だったのですか?」「薬が効き過ぎる」「ありがとう。これは何の薬ですか?」「できれば一日、自分の部屋でベッドで寝ていたい」「何かあればこちらから電話させて下さい」

苦労した思い出とともに、お世話になった懐かしい地元の田舎の人たちのあの日に焼けた笑顔を、一人で書斎で思い出している。

ハイラインの「宇宙の戦士」で学生寮の生活を思い出し、そのあとのサラリーマン生活の修羅場を思い出したこと

 子供のころから乱読するタイプで、SFも結構読んだ。もちろんジュール・ベルヌの作品群は小学生だった僕の経典だ。生まれて初めて自分のお小遣いで買ったハードカバーの書籍が「二年間の休暇」だったし、これがあんまりお気に入りの物語だったので、何回も読んだ挙句、自分で原稿用紙に同じようなストーリー(無人島に流された少年が冒険するお話)を書き始めたくらいだ。小学生の頃の僕の夢は、小説家になることだった。

 そして兄貴のすすめで読んでいた作家の1人にハイラインがいる。ロバート・A・ハイライン、右翼と言われつつも「2001年宇宙の旅」を書いたアーサー・C・クラークたちと並んでSF界のビッグスリーと呼ばれたその人だ。

 ハイラインの小説のうち、日本では「夏への扉」が大人気で、最近でも邦画として映画化されていたと思うが、僕はやはり「宇宙の戦士」こそが一番面白いと思っていた。そしてまさに、この小説のおかげでハイラインは右翼のレッテルを貼られ続けた。

 豊かな家庭に育った主人公のジョニーが、軍隊に入って教育を受け、クモに似た宇宙生物と戦うというシンプルな話だが、軍隊生活での紆余曲折、ティーンエイジャーらしい悩み、友情や恋や家族との別れの中で少しずつ成長し、やがて立派な軍人になって活躍して行くお話である。

 中でもジョニーと歴史哲学の先生、デュボア先生とのやりとりが卓越していて、というか気持ちいいくらい右側に偏っていて、正しいとか間違っているとかじゃなく、ギリシア哲学以降、何回も議論されて来た「市民の権利と義務」のあり方が、暴力と道徳の関係を踏まえながら議論されて行く。

 暴力に社会の問題や個人の道徳問題を解決する効用があることは、ある程度、社会生活を送っていたら分かる。経済活動だって同じだ。富の奪い合いを、種が絶滅しない程度にルールを作って、いろんな形でやるのが外交であり、それに基づいて実際の奪い合いを実行するのがビジネスだ。そしてこの「いろんな形」の本質は暴力=力で解決、である。訴訟を使ってもいい、人権問題を利用してもいい、密室での交渉という方法を選んでもいい、民間のさらにもっとミクロな次元では、パワハラにならないよう言葉を選びながら(新しい時代のルールに従いながら)、上司は部下に罪悪感を持たせ、死に物狂いで結果を出させようとする。これが経済活動の本質である。空爆することも、殴ることも、言葉で罵倒することも、「論理的に」説得し指示することも、雇用の不安を煽って黙らせることも、要するに力で相手を動かす、ということである。そして、人間の活動、特に組織的な経済活動のど真ん中に、この暴力は居座り続けて来たし、これからも居座り続ける。だって、原始時代から人は、食料を手に入れるために暴力を使い続けて来た。対象が動物から貯蓄が可能な穀物へ、手段が小規模集団の活動から国家という大規模組織の活動へ、ツールが槍や弓から核爆弾へ、少しずつ変遷して行ったに過ぎない。

 という訳で、要するに「なんだかんだ言って暴力=力で解決、っていうのが世の中のルールである以上、それを否定した無菌教育なんてしたって、実際の世の中で通用しないから、次々と落伍者が出る=その社会は没落し、逆に肯定した教育を推し進める社会は強い戦士をたくさん生み出す=その社会は勃興する、ってことだよね」というお話を、SF小説を通して語っているのがこの「宇宙の戦士」だ。

 昭和の時代になんとかヨットスクール事件というのもあったし、今だって体育会系のシゴキが幅をきかせ、なんだかんだ言ってそういうのを経験して耐性のある連中が「組織」を動かして行く。上下関係?そりゃ身に付いていた方が組織ではやりやすいでしょ。最近はビジネスの環境もだいぶ変わって、組織の倫理や価値観も変わって、体育会馬鹿では通用しなくなったと言われているけど、それはあくまで中間管理職以下の表面的な話であり、コトが経営の根幹に関わる重大事になると(例えば損害が半端ない、逸失利益が半端ない、なんて状況)、業種がITだろうが何だろうが現代のジェントルマンよろしく経営陣の顔つきは、あっという間に昭和の顔つきに戻り、役員室のドアは閉じられ、ソファーに座らされ、密室の中で「宇宙の戦士」が始まる。ひぇ~・・・・でも現実はそんなもんだ。

 学生時代、かつてはGHQに接収されたこともある古い鉄筋の建物が寄宿舎になっていて、僕はそこに住んでいた。20畳の3人部屋で、上級生が「室長(しつちょう)」をやる一方、新入生である1年生は「室僕(しつぼく)」という刑務所で使いそうな名前で呼ばれ、同じ部屋に住む先輩方に徹底して尽くさなければならなかった。お茶を出す、前を横切る時は1日何百回でも「失礼します」を言う。部屋を出る時も入ってくる時も、廊下で向こうの方に姿が見えた時も、トイレのドアを開けて顔を合わせた時も、必ず「こんにちは。失礼します」を繰り返す。ちょとでも言い忘れたり粗相(そそう)したなら、その場で怒鳴られ、怒られ、許してもらえるまで「失礼しました」を大声で叫び頭を下げ続けなければならない。体育会の連中が「アソコはさすがにヤバい。キツ過ぎ。」と評していたような、きっつい上下関係がまかり通る寄宿舎だったけど、そこで無事に生き残れば、朝飯+夕飯つき、お風呂も共同だけど入れて、それで1か月を2万5千円で暮らせた。地方から出てきた貧乏学生には夢のような場所だったのである。先輩は無茶苦茶怖いけど、バイトで稼いだお金のかなりの余力を使って、女の子と遊べる。学費は奨学金で乗り切ればいい。

 今となっては全部が懐かしい思い出だ。ありきたりな友情物語もある。ジョニーが軍隊生活で体験したように、20歳前後の体験は、どんな環境だって、どんな厳しさだって、どんな惨めさだって良き思い出になるのである。あそこで味わったほどの罵倒は社会人になってから1度もなかったし、社会に出た時点で既に「面の皮(つらのかわ)が厚くなっている」状態は、それだけでアドバンテージだった。

 久しぶりに書斎を整理していて、背表紙がボロボロになった「宇宙の戦士」を見つけ、なんとなくパラパラめくっているうちに、これを熱中して読んでいた子供時代、それから学生寮で徹底的に上下関係を叩き込まれた記憶、その後のサラリーマン生活で時々味わった「暴力=力で解決」の修羅場の数々、なんかを思い出した。

 暴力を肯定しようと否定しようと、受け入れようと受け入れまいと、それが目に見える形で分かりやすく表現されていようと、見えにくくオブラートに包まれていようと、それを受け入れて社会に適用しようと、それを否定して社会を変えようと努力しようと、人間は食べていくために常に新しい形で暴力を使い続ける。形が変わって行くだけだ。手にした槍を獣(けもの)の体躯に突き刺し血潮を浴びていた時代から、何一つ変わっていないのである。

 そうやって僕たちは歳を取り、この世から順番に去って行く。それだけだ。

九州の魅力は食いしん坊にとっては底がないということ

 九州一周旅行は博多の食い倒れから始まり、いよいよレンタカーに乗って走り出した。長崎方面に行くから、喜ぶかなと思って家人にハウステンボスで遊ぼうなんて誘ったら、「吉野ケ里遺跡へ行きたい」とのこと。そうか、この人は古代史が大好きで、一人で古墳巡りをやっている人だった事を思い出した。古墳のほとんどは小山の前に看板があってそこに解説が書いてあり、逆にそれを読まなければただの小山にしか見えない。が、そんな小山の前の看板の写真(どれも同じに見える)をたくさん集めているのが家人だ。僕はがぜん昭和の男子として歴史は戦国時代が大好きだから、あんまり古代に興味もなかったが、今回の旅の目的として家人の接待を最優先とし、僕たちは吉野ケ里遺跡に車を走らせた。

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すごく大きい!広い!砦の入り口からすでに期待でいっぱいだった。

上機嫌の家人に引っ張られてどんどん奥に進んでいく。弥生時代の住居が復元され、その当時の人々の暮らしが、出土品とともに分かりやすく紹介されていた。本格的な歴史学習の施設だ。

祭祀の様子や、政(まつりごと)をやっている様子が人形で再現されていて迫力満点。

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広大な施設の敷地を歩いていたら、小腹がすいたので併設されているレストランで混ぜご飯のおにぎりを食べることにした。ついでにムツゴロウの焼いたのを付けてもらう。ムツゴロウは真っ黒に焦げていて、あんまり味はしなかったけど、おにぎりは素朴な味で美味しかった。ムツゴロウって本当はどんな味がするのだろ?と考えながら、炭素の塊みたいなのをカリカリかじる。

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11月の九州は気持ちよい風が吹いていて、食べ終わるとまた僕たちは、のんびり古代が復元された風景の中を歩いた。芝生の上を、古代の景色の中を、本当にのんびり僕たちは過ごした。人ごみの中を観光したりするよりずっと贅沢な時間の味わい方だ。訪ねて大正解だった。

 その後、長崎に入って、平戸を見物し、平和記念公園で祈り、カステラを食べに行った。松翁軒という老舗のカステラ屋さんで、どうしても行きたかったところだ。2階がレストランになっていて、レトロでものすごく雰囲気がある。

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僕たちはこのレストランでコーヒーを飲みながら美味しくカステラを頂いた。ここのカステラは日本一、上品な味のカステラである。博多に行くたびにお土産で買っていたのでファンになった。旅の途中で贅沢な時間をゆっくり過ごす。そうそう、このレトロな感じは、横浜とか神戸にもあるセンスのいい老舗の喫茶店と同じ雰囲気だと思い、同時に、長崎も歴史のある、そして町全体が雰囲気のある港町であることを思い出した。カステラはどこまでも美味しい。

 その夜は佐賀県に戻り、嬉野温泉の宿で泊まった。和多屋別荘という旅館で、ご飯の評価が高かったから予約していたのだけど、案内された部屋に入ってビックリ。洗面台の染付や檜風呂の鄙びた感じが、ザ・和モダン。

お風呂は驚くほどとろみのある温泉だった。ゆっくりお湯に浸かって体をほぐし、夕ご飯を食べ、旅の疲れを癒した。たくさん歩いたからたくさん眠った。普段はベッドで寝ているから、時々こうして旅館の和室で布団の上で眠ると、溶けるように寝てしまえる。今日もいい1日だった。九州旅行サイコー!

 この宿の凄みは実は翌朝食べた朝食にあった。と、翌朝、思い知らされた。白がゆに好きなだけ明太子を乗せて、温泉卵を乗せて、イワシの昆布締めを乗せて食べるのだ。

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こうして九州旅行の3日目が始まった。いよいよ僕たちは南に向かう。数百キロを走って薩摩の国へ向かうのだ。胸のワクワクが止まらなかった。薩摩の国へ向かうのだ。

Something ELse はジャズのド定番過ぎるけどペーパードライバー脱却に必要だったのでこれを書かずにはいられないこと

 ジャズが大好きだ。これは父親の影響だ。で、だいたいジャズ好きっていうと、あんまり有名どころは敢えて外して、ちょっとマニアックなところを「コレが好き」と言いたがるものだけど、僕は全然フツーに、ド定番を「大好き」という。だって、ド定番ということは、モーツァルトの楽曲と同じで、この先、何百年も人々から愛されるだろうってことだからだ。それくらい完璧!ということである。だから、そりゃそうだよねって感じで僕はフツーに「大好き」という。

 Something ELseはマイルス・デイビスとかキャノンボール・アダレイとかアート・ブレイキーとか、要するにそれぞれの楽器の神様みたいな人たちが一堂に会したアルバムだ。そりゃトンデモない作品に仕上がって当たり前な話だ。で、僕はこのアルバムを、子供の頃に父親の仕事場で耳にして、そのあと大人になってから「あぁ聞いたことあるよ」って思い出して、そのあと自分でCDを買って来て、そのあとちょっとアルトサックスでアダレイのフレーズを真似したりして、そのあとUターン転職して地方暮らしを始めたので車の運転中に聞くようになった。もはや数千回は聞いてきたアルバムということだ。

 ジャズなんてよく知らないやって言う人にオススメするとき、やっぱりド定番からの方が入りやすいから、僕はこのSomething ELseを勧める。余計な小難しいウンチクはどうでも良くて、まずは相手に「いいなっ」と思ってもらうのが一番だし、自分がいいなって感じているものが人に伝わるのはとても気持ちいいから、「食事中でも昼寝中でも寝る前のベッドでも、朝の目覚めでも、トイレの中でも、そして通勤途中だって、どこでも聞きやすいアルバムなんだ」みたいな感じでフランクに僕はおススメする。実際このアルバムは、生活のどんなシーンでも僕たちの気持ちを楽にしてくれる、僕たちの考え事や感情の推移を中断してジャマをしない、だから自然に寄り添ってくれる、そんな完璧な音楽の集合体だ。

 と、人にはオススメするのだが、実はこのアルバム、僕にとってはどういう訳か、非常に実用的なアルバムになってしまった。結果的にそういう事になった事情はこうだ。

 東京で10年近く暮らしてから地元にUターンして来たはいいが、僕は典型的なペーパードライバーだった。要するに運転なんて教習所でしかしたことがなかった。そして僕の地元は典型的な地方都市で、車がなければ生活できないほどではないにしても、無茶苦茶不便だった。バスや電車も東京みたいに縦横無尽にひっきりなしに走っていない。乗り継いで待って、乗り継いで待って、ようやく目的地にたどり着くのだから、車がなければ、本当に不便だ。

 それでも僕は、東京から帰って来た直後の半年間は自転車で過ごした。会社は工業団地にあったから周囲は工場群と田んぼしかなかったけど、その田んぼの間に立つアパートに部屋を借りて、そこから自転車で通勤した。東京帰りのちょっと変な奴くらいに見られていたかもしれないが、どうせ休日はぐったり疲れてアパートで眠るだけだ。買い物は自転車で10分くらいのところにスーパーとホームセンターがあるから、全く問題なし。という具合に、こんな田舎に帰って来て失敗したなぁ、なんて思いながら暮らしていた。だって転職したての頃というのは、本当に疲れがひどく、ただでさえ田舎暮らしに慣れるのに苦労しているのだから、自動車の運転なんて恐ろしいストレスは当面は勘弁してくれ!と思っていたからである。

 が、当然、仕事の中で出張も発生する。上司や先輩と社用車で出張するときは、普通は一番下っ端が運転するものだが、僕はニコニコしながら後部座席に乗って運転をお願いしていた。

そして転職して半年後、当時の上司が僕に「そろそろいい加減にしろよ」と真顔で言った。

 僕はやむなく車の運転をすることにした。面倒臭ぇ~って思いながら、自動車教習所のペーパードライバー講習に行き、先生に助手席に乗ってもらって自分のアパートと会社を3往復して練習し、翌日、中古自動車の販売店へ車を買いに行った。ハイ、運動神経ないです。5教科は得意だったけど体育は5段階評価でいつも2でした。どうせぶつけまくるでしょう。大きい車なんて、モビルスーツのコックピットに乗っているみたいで、やっぱり怖いや。

 なので、走行距離7万キロ超えの小さな中古のハッチバックを選んで購入し、1週間後にそれに乗って通勤を始めた。恐る恐るだ。

 会社まで自転車なら15分の距離だったが、車で通勤を始めると、朝は30分かかった。工業団地に向かう道は朝は通勤の車で渋滞するのだ。要するにノロノロ運転になる訳だが、やっぱり運転はとても怖いし緊張する。自分がケガをするのが怖いというのより、人様(ひとさま)を絶対に傷つけたくない、という恐怖感が頭から離れなかった。帰りは夜の12時ごろだったから(当時は残業まみれだった)、5分くらいでアパートに帰れたし、その時間になれば、さすがにあんまり他に車も走っていないから楽だったが、朝の通勤の30分は、交差点にさしかかる都度、左折や右折の都度、ドキドキしてハンドルをきり、慣れるまでが本当に大変だった。他人が聞けばしょうもない話である。

 結局、ビクビクしながらの車の運転から脱却するまで、そのあと半年もかかったけど、とにかく緊張をほぐすために、車の中でリラックス出来る音楽をかけようと思い、子供のころから慣れ親しんだこのアルバム、Something ELseを選んだ。なるべく家でリラックスしているような感じで行きたかったからだ。

 なので、1曲目の「枯葉」のイントロを聞くと、今でもあの慣れない運転で苦労しながら通勤を始めた頃を思い出す。あぁ、あの頃は後悔と不安でいっぱいだったなぁ、毎日毎日、東京に戻りたいなんて青臭い感傷に浸っていたなぁ、なんて思い出す。

 もちろん、こんな実用的な聴き方をしていたって話は僕の個人的な話であって、このアルバムの価値とは全然関係ない話である。でもウンチクはいらない。音楽の聴き方はどこまでも自由であるべきで、それぞれが好きな曲を、好きに聴いて、聴いている時間だけ、人生を心地よいものにすればいいのである。音楽は僕たちが人生をしみじみ味わって行くための大切な装置である。どこまでも自由でいい。

 ちなみに、ジャズ大好きな僕は、音楽ならこだわりなく何でも聞く。なので運転に少し慣れてきたころ、ちょっとジャズばっかりも飽きたかなって、FMラジオをかけることもあった。J-POPがよくかかっていた。

そしてミスチルの「くるみ」がかかった時、その歌詞を耳にしてハンドルを握りながら不意に涙がこぼれた。だよね。・・・引き返してはいけない、進もう・・・・

Uターン組がこの曲をしみじみ聴くとヤバイ。

 若かりし日の他愛もない話である。そしてどこにでもある話である。

 

氷河期世代にとって需要と供給の法則は最大の敵だけど闘い方はあるということ

 言い尽くされて来た話だけど、僕たち氷河期世代は常に自分たちの数の多さに対して、世の中に十分な大きさの器がなかった。ちょっと昔なら馬鹿でも入れた大学が狭き門として急に名門校みたいに受験生たちを見下ろし(入れて欲しかったらまず受験料をたっぷり払って大勢で試験受けて、それからこの門をくぐって来な)、ちょっと昔ならそんな大した企業でもないようなところの人事の若手が、圧迫面接(そんなんではどこも受け入れてくれる会社は無いんじゃない?自分でどう思っているの?)で就職活動している僕たちを腹いせのようにイビリ倒した。

 なんせ僕たちは数が多いのに、世の中は常に「出来ればキミたちは受け入れたくない」方向で話が進んで行くのだ。申込んで行ってみたらそこには同じような年齢の人たちが大勢が集まっていて、受け入れる側は常に高飛車で、或いは冷たく、目の前の門が非常に狭いことを告げる、なんて場面が人生の中で幾度となく繰り返されてきた世代が、僕たちである。

 もはや遥か(はるか)大昔の話だけど、僕も就職活動は全敗だった。まずハガキを200枚くらい書いて会社資料を請求したが、半分くらいの会社しかエントリーシートを返送して来なかった。要するに100社から無視されたということ。そこに手書きで一生懸命、志望動機とか自己PRとか書いて送ったら、数週間後、半分くらいの会社からセミナー開催の案内が戻って来た。ハイ、さらに50社から無視されたということ。で、飯田橋や有楽町にある何とかホールとか言う名の大きな会場にスーツを着て行ってみたら、300人くらいの学生が集められていてソワソワしている。そのうち前の小さなステージみたいなところにその会社の人事の若手がマイクを持って立ち、説明を始める。「では第6回セミナーを始めますね。ちなみに総合職の採用枠ですが、長引く不況で我が社も少数精鋭組織に生まれ変わることを目指しており、今年度は15名の方に絞って受け入れる予定です」ってオイオイ、この類のセミナーを全部で何回やるのか知らないけど、ちょっと前までこの会社、総合職80人くらいは採用していたはずなのに・・・・

 それでもセミナーをくぐり抜け、筆記試験をくぐり抜け、嫌みたっぷりの若手の面接をくぐり抜け、部長クラスが5人くらい正面の机に並んで時々「オマエはどういう風に役にたつの?」くらいの詰問を浴びながらもこれをくぐり抜け、最終の役員面接の待合室で待っていたら、一番最初のセミナーで説明をしていた人事の若手が出て来てニヤニヤこう言い始める。「いやぁ去年は15名採用だったんだけどね。今日、君たち最終面接に来てくれている訳だけど、これが15人なのよ。今7人がこの部屋にいるでしょ。昼から8人来るの。でね、ちょっと変更があってね。今年は採用を8人に絞ることになったんだ。去年だったらここにいるみんなで合格出来て、僕たちも一緒に祝福出来たんだけどねぇ。残念だよね」・・・・・

 目の前に届くところまで来て、結局手に入らないというのは若者にとっては結構キツい話で、前日に最終面接を受けたところから不合格の連絡を聞いて、携帯電話をポケットにしまいながら、ちょっと休憩しよう、次の面接まで時間あるし、という具合に電車を降り、自販機でコーヒーを買ってホームのベンチに腰掛け、一口飲んでから、ふうっと息をする。

 おととい久しぶりに行った大学のゼミで、やっぱりほとんどの同級生が就職活動が上手くいかず玉砕していたな、なんて思い出す。大学院に行くか、公務員試験を受けるか、塾講師のバイトをしながら公認会計士とか司法書士とか、組織に入れないなら資格で生きて行くとか、いずれにせよ、そこにも需要と供給の法則があって、大勢が押しかけ、器は小さく、門は狭いだろう。当時まだ、第1次ベビーブーマーたちは50代の現役だった。無事に定年まで勤め上げ家のローンを返し終えるには、しがみ付かなければいけない。世の中のパイが全体としてどんどん小さくなっているのに、若手なんて入れている場合じゃない。彼らにとって他の世代の人生なんて関係なかった(今もそんなスタンスだが)。だからどこも門は閉ざされていた。僕たちの世代は、例えばせっかく苦労して教員免許を取ったのに、ほとんどが臨時教員でしか先生をやる道がなかった。供給過剰のせいで需要が果てしなく少ない時代の話だ。「必要とされていない」が社会に足を踏み出した頃の僕たちのイメージだった。

 飲み干したアルミ缶をゴミ箱に入れて、次の電車に乗ろうとする。歩き出したら人身事故のアナウンスがあった。ダメだなこりゃ。僕はタクシーを拾いに駅の外のターミナルへ出るため、ホームから階段を下りて行った。こうやって就職活動で東京じゅうを電車で移動しながら、今日は3回目くらいの人身事故のアナウンスを聞いた。まぁオジさんたちも、しがみ付ければまだマシな方で、しがみ付けない人はダイブするしかないんだろな、なんてぼんやり考えながら小走りに走って行く。

 その後、もぐり込んだ社会にあって、当たり前だけど世の中はそんな風に、縮んで行く器の中で一人一人が逃げ切る為に必死だったから、若手がどんなブラックな思いをして仕事してようと、気持ちが潰れてアパートの部屋から出て来れなくなろうと、誰も気にせず、若手として僕たちは、ただただ強く、ただ強く耐え抜き、せっかく手にした仕事を自分のものにする為に、必死で働いた。上司の罵倒に心を病もうと、どこかにダイブしようと、誰も、何も、気にしない。僕たちは数が多く、社会という器の大きさには限りがあって、どこも門は狭く、圧倒的な需要と供給の法則の中で、ただ摺り潰されないように生きくだけだ。

 そうやって年を取り、第1次ベビーブーマーたちが逃げ切って引退して悠々自適の余生を楽しみ出したころ、今度は僕たちの下の若手がぜんぜん不足していて業務が回らなくなり、プレイヤーとして残業まみれの地獄を見始め、ようやく久しぶりに会社に入って来た若手たちは何とか世代とかでチョー余裕な感じで世の中に入って来たので(逆の意味で需要と供給の法則)、ぜんぜん言葉が通じなかった。僕たちが若手の頃、手書きの勤務表に1か月の残業時間を130時間で申告したら、「事前申請していないから60時間に書き直せ」と上司に言われ書き直した話なんて、今の20代の人たちにしたら、「昔は空襲っていうのがあってな。防空壕という穴みたいなやつにな・・・」と語るのと状況は変わらない。そんなもんである。

 という訳で、どこまでもこの殺伐とした需要と供給の法則に僕たち氷河期世代は晒され(さらされ)、これからも晒され続けて行く。さんざん上納して来た年金だっておんなじだ。需要と供給の法則に基づき、僕たちは将来、「お年寄りの方たちには、出来る限り受け取るのを先延ばしにして頂き、出来れば受け取らずに死んで行って欲しい」という世の中のご意向に沿って人生の最後を迎えることを知っている。それを知っていてなお真面目に上納し続ける謙虚な世代だ。

 さて、自然法則はそんな感じで殺伐としていて、僕たちは絶対にこの需要と供給の法則には勝てないような気がするけど、実は大切なことを見落としている。受験だって就職試験だって組織で生き抜くことだって、それはすべて集団の話だということ。僕たちは人生を集団として生き、その中で育まれた価値観に基づいて生活し、幸せだとか不幸せだとか感じるけど、一方で、個人としても生き、その中で育んだ価値観に基づき生活し、幸せを味わい、不幸せを哀しむ。

 個人と集団という概念は哲学でもよく出てくるけど、価値論と密接に結びついている。絶対的な価値はあくまで個人的な体験からしか生まれないし、反対に、話が個人から集団に移行すると、価値観は相対的なものに変貌して行く。例えば、戦場で敵同士の兵隊がばったり出くわし、しかも二人で助け合って生きて行かなければいけないような状況になったら(そんな映画もあったが)、最初は銃を手に向かい合っていた二人は、共同生活の中で一緒に困難を解決し、いつしか人生の友になる。だって、一緒になけなしの食料を分け合って食べたとか、一緒に体を寄せ合って暖を取ったとか、体調が悪くて立てない時に水を飲ませてくれたとか、そんな個人的な体験は、相手が敵国の人間だろうと関係なく、絶対的な価値判断の上で、「大切な人」として認識するからだ。そして無事に二人は生き残るが、最後にもとの「敵国」同士の兵隊という立場に戻らざるを得なくなり、また銃をとって向かい合う悲劇のエンディング、なんてこれも映画のネタにありがちだが、それは個人の体験から生まれた絶対的な価値が、「敵国」という集団の次元に移行することによって、相対的なものに瞬時で戻ってしまったからである。〇〇人の友達はいる、いい奴らだ、よく飲みに行く、でもその〇〇人たちの国はサイアクだ、戦うべきだ、死んでしまえ、というのは、要するに、個人から集団に次元が移行することで、絶対的価値から相対的価値へ話が変わり、そして我々はこの矛盾を飲み込み自然に生きているのである。

 第1次ベビーブーマーたちが新婚のころ調子に乗り過ぎたせいで、僕たちは生まれた数が多過ぎたのかもしれない。そして国は小さくなり続け、器は小さくなり続け、これからも小さくなり、狭き門を前にして、高飛車な門番たちのニヤニヤ顔を前にして、周りにざわざわ集まっている大勢の同世代の不安げな顔を見ながら、僕たちはやっぱりこれからも途方に暮れるかもしれない。

でも家に帰って自分の好きなものに囲まれてみたらどう?

休日に外へ飛び出し大好きなあの人に会いに行ったらどう?

あるいは大好きなあの景色に会いに行ったらどう?

 個人として生きる時間の僕たちは、もはや需要と供給の法則とは別の次元で幸せを感じ、そこで生きて行ける。だって、需要と供給の法則からみたら、もはや中年になってしまったこんなオジサンは、もはや需要不足で価値は全然ない。転職したって給料は下がるだろう。で、そんなオジサンを、友人たちは、家族たちは必要とし、笑顔で話しかけてくれ、一緒にご飯を食べ、一緒に遊び、幸せを感じてくれている。そして友人だって家族だって年をとるのだから、それはお互い様ということだ。

 需要と供給の法則に基づき、僕たちは集団として生きてお金を稼がなければならないが、人生の反対側の半分を、そんな殺伐とした法則が通用しない世界で個人として生きている。だから、まだまだ人生は続き、半分は殺伐とした将来だけど、半分は楽しく生きて行けるということ。万一、友達がいなくたって大丈夫、一人で楽しむコンテンツはいっぱい準備されている。それが僕たち氷河期世代の人生だ。

 僕は今日もありきたりな生活を、ケラケラ笑いながら、しみじみと味わって楽しんでいる。だってこれは、静かな僕の闘いでもあるからである。

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