失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

九州の魅力は食いしん坊にとっては底がないということ

 九州一周旅行は博多の食い倒れから始まり、いよいよレンタカーに乗って走り出した。長崎方面に行くから、喜ぶかなと思って家人にハウステンボスで遊ぼうなんて誘ったら、「吉野ケ里遺跡へ行きたい」とのこと。そうか、この人は古代史が大好きで、一人で古墳巡りをやっている人だった事を思い出した。古墳のほとんどは小山の前に看板があってそこに解説が書いてあり、逆にそれを読まなければただの小山にしか見えない。が、そんな小山の前の看板の写真(どれも同じに見える)をたくさん集めているのが家人だ。僕はがぜん昭和の男子として歴史は戦国時代が大好きだから、あんまり古代に興味もなかったが、今回の旅の目的として家人の接待を最優先とし、僕たちは吉野ケ里遺跡に車を走らせた。

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すごく大きい!広い!砦の入り口からすでに期待でいっぱいだった。

上機嫌の家人に引っ張られてどんどん奥に進んでいく。弥生時代の住居が復元され、その当時の人々の暮らしが、出土品とともに分かりやすく紹介されていた。本格的な歴史学習の施設だ。

祭祀の様子や、政(まつりごと)をやっている様子が人形で再現されていて迫力満点。

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広大な施設の敷地を歩いていたら、小腹がすいたので併設されているレストランで混ぜご飯のおにぎりを食べることにした。ついでにムツゴロウの焼いたのを付けてもらう。ムツゴロウは真っ黒に焦げていて、あんまり味はしなかったけど、おにぎりは素朴な味で美味しかった。ムツゴロウって本当はどんな味がするのだろ?と考えながら、炭素の塊みたいなのをカリカリかじる。

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11月の九州は気持ちよい風が吹いていて、食べ終わるとまた僕たちは、のんびり古代が復元された風景の中を歩いた。芝生の上を、古代の景色の中を、本当にのんびり僕たちは過ごした。人ごみの中を観光したりするよりずっと贅沢な時間の味わい方だ。訪ねて大正解だった。

 その後、長崎に入って、平戸を見物し、平和記念公園で祈り、カステラを食べに行った。松翁軒という老舗のカステラ屋さんで、どうしても行きたかったところだ。2階がレストランになっていて、レトロでものすごく雰囲気がある。

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僕たちはこのレストランでコーヒーを飲みながら美味しくカステラを頂いた。ここのカステラは日本一、上品な味のカステラである。博多に行くたびにお土産で買っていたのでファンになった。旅の途中で贅沢な時間をゆっくり過ごす。そうそう、このレトロな感じは、横浜とか神戸にもあるセンスのいい老舗の喫茶店と同じ雰囲気だと思い、同時に、長崎も歴史のある、そして町全体が雰囲気のある港町であることを思い出した。カステラはどこまでも美味しい。

 その夜は佐賀県に戻り、嬉野温泉の宿で泊まった。和多屋別荘という旅館で、ご飯の評価が高かったから予約していたのだけど、案内された部屋に入ってビックリ。洗面台の染付や檜風呂の鄙びた感じが、ザ・和モダン。

お風呂は驚くほどとろみのある温泉だった。ゆっくりお湯に浸かって体をほぐし、夕ご飯を食べ、旅の疲れを癒した。たくさん歩いたからたくさん眠った。普段はベッドで寝ているから、時々こうして旅館の和室で布団の上で眠ると、溶けるように寝てしまえる。今日もいい1日だった。九州旅行サイコー!

 この宿の凄みは実は翌朝食べた朝食にあった。と、翌朝、思い知らされた。白がゆに好きなだけ明太子を乗せて、温泉卵を乗せて、イワシの昆布締めを乗せて食べるのだ。

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こうして九州旅行の3日目が始まった。いよいよ僕たちは南に向かう。数百キロを走って薩摩の国へ向かうのだ。胸のワクワクが止まらなかった。薩摩の国へ向かうのだ。

Something ELse はジャズのド定番過ぎるけどペーパードライバー脱却に必要だったのでこれを書かずにはいられないこと

 ジャズが大好きだ。これは父親の影響だ。で、だいたいジャズ好きっていうと、あんまり有名どころは敢えて外して、ちょっとマニアックなところを「コレが好き」と言いたがるものだけど、僕は全然フツーに、ド定番を「大好き」という。だって、ド定番ということは、モーツァルトの楽曲と同じで、この先、何百年も人々から愛されるだろうってことだからだ。それくらい完璧!ということである。だから、そりゃそうだよねって感じで僕はフツーに「大好き」という。

 Something ELseはマイルス・デイビスとかキャノンボール・アダレイとかアート・ブレイキーとか、要するにそれぞれの楽器の神様みたいな人たちが一堂に会したアルバムだ。そりゃトンデモない作品に仕上がって当たり前な話だ。で、僕はこのアルバムを、子供の頃に父親の仕事場で耳にして、そのあと大人になってから「あぁ聞いたことあるよ」って思い出して、そのあと自分でCDを買って来て、そのあとちょっとアルトサックスでアダレイのフレーズを真似したりして、そのあとUターン転職して地方暮らしを始めたので車の運転中に聞くようになった。もはや数千回は聞いてきたアルバムということだ。

 ジャズなんてよく知らないやって言う人にオススメするとき、やっぱりド定番からの方が入りやすいから、僕はこのSomething ELseを勧める。余計な小難しいウンチクはどうでも良くて、まずは相手に「いいなっ」と思ってもらうのが一番だし、自分がいいなって感じているものが人に伝わるのはとても気持ちいいから、「食事中でも昼寝中でも寝る前のベッドでも、朝の目覚めでも、トイレの中でも、そして通勤途中だって、どこでも聞きやすいアルバムなんだ」みたいな感じでフランクに僕はおススメする。実際このアルバムは、生活のどんなシーンでも僕たちの気持ちを楽にしてくれる、僕たちの考え事や感情の推移を中断してジャマをしない、だから自然に寄り添ってくれる、そんな完璧な音楽の集合体だ。

 と、人にはオススメするのだが、実はこのアルバム、僕にとってはどういう訳か、非常に実用的なアルバムになってしまった。結果的にそういう事になった事情はこうだ。

 東京で10年近く暮らしてから地元にUターンして来たはいいが、僕は典型的なペーパードライバーだった。要するに運転なんて教習所でしかしたことがなかった。そして僕の地元は典型的な地方都市で、車がなければ生活できないほどではないにしても、無茶苦茶不便だった。バスや電車も東京みたいに縦横無尽にひっきりなしに走っていない。乗り継いで待って、乗り継いで待って、ようやく目的地にたどり着くのだから、車がなければ、本当に不便だ。

 それでも僕は、東京から帰って来た直後の半年間は自転車で過ごした。会社は工業団地にあったから周囲は工場群と田んぼしかなかったけど、その田んぼの間に立つアパートに部屋を借りて、そこから自転車で通勤した。東京帰りのちょっと変な奴くらいに見られていたかもしれないが、どうせ休日はぐったり疲れてアパートで眠るだけだ。買い物は自転車で10分くらいのところにスーパーとホームセンターがあるから、全く問題なし。という具合に、こんな田舎に帰って来て失敗したなぁ、なんて思いながら暮らしていた。だって転職したての頃というのは、本当に疲れがひどく、ただでさえ田舎暮らしに慣れるのに苦労しているのだから、自動車の運転なんて恐ろしいストレスは当面は勘弁してくれ!と思っていたからである。

 が、当然、仕事の中で出張も発生する。上司や先輩と社用車で出張するときは、普通は一番下っ端が運転するものだが、僕はニコニコしながら後部座席に乗って運転をお願いしていた。

そして転職して半年後、当時の上司が僕に「そろそろいい加減にしろよ」と真顔で言った。

 僕はやむなく車の運転をすることにした。面倒臭ぇ~って思いながら、自動車教習所のペーパードライバー講習に行き、先生に助手席に乗ってもらって自分のアパートと会社を3往復して練習し、翌日、中古自動車の販売店へ車を買いに行った。ハイ、運動神経ないです。5教科は得意だったけど体育は5段階評価でいつも2でした。どうせぶつけまくるでしょう。大きい車なんて、モビルスーツのコックピットに乗っているみたいで、やっぱり怖いや。

 なので、走行距離7万キロ超えの小さな中古のハッチバックを選んで購入し、1週間後にそれに乗って通勤を始めた。恐る恐るだ。

 会社まで自転車なら15分の距離だったが、車で通勤を始めると、朝は30分かかった。工業団地に向かう道は朝は通勤の車で渋滞するのだ。要するにノロノロ運転になる訳だが、やっぱり運転はとても怖いし緊張する。自分がケガをするのが怖いというのより、人様(ひとさま)を絶対に傷つけたくない、という恐怖感が頭から離れなかった。帰りは夜の12時ごろだったから(当時は残業まみれだった)、5分くらいでアパートに帰れたし、その時間になれば、さすがにあんまり他に車も走っていないから楽だったが、朝の通勤の30分は、交差点にさしかかる都度、左折や右折の都度、ドキドキしてハンドルをきり、慣れるまでが本当に大変だった。他人が聞けばしょうもない話である。

 結局、ビクビクしながらの車の運転から脱却するまで、そのあと半年もかかったけど、とにかく緊張をほぐすために、車の中でリラックス出来る音楽をかけようと思い、子供のころから慣れ親しんだこのアルバム、Something ELseを選んだ。なるべく家でリラックスしているような感じで行きたかったからだ。

 なので、1曲目の「枯葉」のイントロを聞くと、今でもあの慣れない運転で苦労しながら通勤を始めた頃を思い出す。あぁ、あの頃は後悔と不安でいっぱいだったなぁ、毎日毎日、東京に戻りたいなんて青臭い感傷に浸っていたなぁ、なんて思い出す。

 もちろん、こんな実用的な聴き方をしていたって話は僕の個人的な話であって、このアルバムの価値とは全然関係ない話である。でもウンチクはいらない。音楽の聴き方はどこまでも自由であるべきで、それぞれが好きな曲を、好きに聴いて、聴いている時間だけ、人生を心地よいものにすればいいのである。音楽は僕たちが人生をしみじみ味わって行くための大切な装置である。どこまでも自由でいい。

 ちなみに、ジャズ大好きな僕は、音楽ならこだわりなく何でも聞く。なので運転に少し慣れてきたころ、ちょっとジャズばっかりも飽きたかなって、FMラジオをかけることもあった。J-POPがよくかかっていた。

そしてミスチルの「くるみ」がかかった時、その歌詞を耳にしてハンドルを握りながら不意に涙がこぼれた。だよね。・・・引き返してはいけない、進もう・・・・

Uターン組がこの曲をしみじみ聴くとヤバイ。

 若かりし日の他愛もない話である。そしてどこにでもある話である。

 

 

氷河期世代にとって需要と供給の法則は最大の敵だけど闘い方はあるということ

 言い尽くされて来た話だけど、僕たち氷河期世代は常に自分たちの数の多さに対して、世の中に十分な大きさの器がなかった。ちょっと昔なら馬鹿でも入れた大学が狭き門として急に名門校みたいに受験生たちを見下ろし(入れて欲しかったらまず受験料をたっぷり払って大勢で試験受けて、それからこの門をくぐって来な)、ちょっと昔ならそんな大した企業でもないようなところの人事の若手が、圧迫面接(そんなんではどこも受け入れてくれる会社は無いんじゃない?自分でどう思っているの?)で就職活動している僕たちを腹いせのようにイビリ倒した。

 なんせ僕たちは数が多いのに、世の中は常に「出来ればキミたちは受け入れたくない」方向で話が進んで行くのだ。申込んで行ってみたらそこには同じような年齢の人たちが大勢が集まっていて、受け入れる側は常に高飛車で、或いは冷たく、目の前の門が非常に狭いことを告げる、なんて場面が人生の中で幾度となく繰り返されてきた世代が、僕たちである。

 もはや遥か(はるか)大昔の話だけど、僕も就職活動は全敗だった。まずハガキを200枚くらい書いて会社資料を請求したが、半分くらいの会社しかエントリーシートを返送して来なかった。要するに100社から無視されたということ。そこに手書きで一生懸命、志望動機とか自己PRとか書いて送ったら、数週間後、半分くらいの会社からセミナー開催の案内が戻って来た。ハイ、さらに50社から無視されたということ。で、飯田橋や有楽町にある何とかホールとか言う名の大きな会場にスーツを着て行ってみたら、300人くらいの学生が集められていてソワソワしている。そのうち前の小さなステージみたいなところにその会社の人事の若手がマイクを持って立ち、説明を始める。「では第6回セミナーを始めますね。ちなみに総合職の採用枠ですが、長引く不況で我が社も少数精鋭組織に生まれ変わることを目指しており、今年度は15名の方に絞って受け入れる予定です」ってオイオイ、この類のセミナーを全部で何回やるのか知らないけど、ちょっと前までこの会社、総合職80人くらいは採用していたはずなのに・・・・

 それでもセミナーをくぐり抜け、筆記試験をくぐり抜け、嫌みたっぷりの若手の面接をくぐり抜け、部長クラスが5人くらい正面の机に並んで時々「オマエはどういう風に役にたつの?」くらいの詰問を浴びながらもこれをくぐり抜け、最終の役員面接の待合室で待っていたら、一番最初のセミナーで説明をしていた人事の若手が出て来てニヤニヤこう言い始める。「いやぁ去年は15名採用だったんだけどね。今日、君たち最終面接に来てくれている訳だけど、これが15人なのよ。今7人がこの部屋にいるでしょ。昼から8人来るの。でね、ちょっと変更があってね。今年は採用を8人に絞ることになったんだ。去年だったらここにいるみんなで合格出来て、僕たちも一緒に祝福出来たんだけどねぇ。残念だよね」・・・・・

 目の前に届くところまで来て、結局手に入らないというのは若者にとっては結構キツい話で、前日に最終面接を受けたところから不合格の連絡を聞いて、携帯電話をポケットにしまいながら、ちょっと休憩しよう、次の面接まで時間あるし、という具合に電車を降り、自販機でコーヒーを買ってホームのベンチに腰掛け、一口飲んでから、ふうっと息をする。

 おととい久しぶりに行った大学のゼミで、やっぱりほとんどの同級生が就職活動が上手くいかず玉砕していたな、なんて思い出す。大学院に行くか、公務員試験を受けるか、塾講師のバイトをしながら公認会計士とか司法書士とか、組織に入れないなら資格で生きて行くとか、いずれにせよ、そこにも需要と供給の法則があって、大勢が押しかけ、器は小さく、門は狭いだろう。当時まだ、第1次ベビーブーマーたちは50代の現役だった。無事に定年まで勤め上げ家のローンを返し終えるには、しがみ付かなければいけない。世の中のパイが全体としてどんどん小さくなっているのに、若手なんて入れている場合じゃない。彼らにとって他の世代の人生なんて関係なかった(今もそんなスタンスだが)。だからどこも門は閉ざされていた。僕たちの世代は、例えばせっかく苦労して教員免許を取ったのに、ほとんどが臨時教員でしか先生をやる道がなかった。供給過剰のせいで需要が果てしなく少ない時代の話だ。「必要とされていない」が社会に足を踏み出した頃の僕たちのイメージだった。

 飲み干したアルミ缶をゴミ箱に入れて、次の電車に乗ろうとする。歩き出したら人身事故のアナウンスがあった。ダメだなこりゃ。僕はタクシーを拾いに駅の外のターミナルへ出るため、ホームから階段を下りて行った。こうやって就職活動で東京じゅうを電車で移動しながら、今日は3回目くらいの人身事故のアナウンスを聞いた。まぁオジさんたちも、しがみ付ければまだマシな方で、しがみ付けない人はダイブするしかないんだろな、なんてぼんやり考えながら小走りに走って行く。

 その後、もぐり込んだ社会にあって、当たり前だけど世の中はそんな風に、縮んで行く器の中で一人一人が逃げ切る為に必死だったから、若手がどんなブラックな思いをして仕事してようと、気持ちが潰れてアパートの部屋から出て来れなくなろうと、誰も気にせず、若手として僕たちは、ただただ強く、ただ強く耐え抜き、せっかく手にした仕事を自分のものにする為に、必死で働いた。上司の罵倒に心を病もうと、どこかにダイブしようと、誰も、何も、気にしない。僕たちは数が多く、社会という器の大きさには限りがあって、どこも門は狭く、圧倒的な需要と供給の法則の中で、ただ摺り潰されないように生きくだけだ。

 そうやって年を取り、第1次ベビーブーマーたちが逃げ切って引退して悠々自適の余生を楽しみ出したころ、今度は僕たちの下の若手がぜんぜん不足していて業務が回らなくなり、プレイヤーとして残業まみれの地獄を見始め、ようやく久しぶりに会社に入って来た若手たちは何とか世代とかでチョー余裕な感じで世の中に入って来たので(逆の意味で需要と供給の法則)、ぜんぜん言葉が通じなかった。僕たちが若手の頃、手書きの勤務表に1か月の残業時間を130時間で申告したら、「事前申請していないから60時間に書き直せ」と上司に言われ書き直した話なんて、今の20代の人たちにしたら、「昔は空襲っていうのがあってな。防空壕という穴みたいなやつにな・・・」と語るのと状況は変わらない。そんなもんである。

 という訳で、どこまでもこの殺伐とした需要と供給の法則に僕たち氷河期世代は晒され(さらされ)、これからも晒され続けて行く。さんざん上納して来た年金だっておんなじだ。需要と供給の法則に基づき、僕たちは将来、「お年寄りの方たちには、出来る限り受け取るのを先延ばしにして頂き、出来れば受け取らずに死んで行って欲しい」という世の中のご意向に沿って人生の最後を迎えることを知っている。それを知っていてなお真面目に上納し続ける謙虚な世代だ。

 さて、自然法則はそんな感じで殺伐としていて、僕たちは絶対にこの需要と供給の法則には勝てないような気がするけど、実は大切なことを見落としている。受験だって就職試験だって組織で生き抜くことだって、それはすべて集団の話だということ。僕たちは人生を集団として生き、その中で育まれた価値観に基づいて生活し、幸せだとか不幸せだとか感じるけど、一方で、個人としても生き、その中で育んだ価値観に基づき生活し、幸せを味わい、不幸せを哀しむ。

 個人と集団という概念は哲学でもよく出てくるけど、価値論と密接に結びついている。絶対的な価値はあくまで個人的な体験からしか生まれないし、反対に、話が個人から集団に移行すると、価値観は相対的なものに変貌して行く。例えば、戦場で敵同士の兵隊がばったり出くわし、しかも二人で助け合って生きて行かなければいけないような状況になったら(そんな映画もあったが)、最初は銃を手に向かい合っていた二人は、共同生活の中で一緒に困難を解決し、いつしか人生の友になる。だって、一緒になけなしの食料を分け合って食べたとか、一緒に体を寄せ合って暖を取ったとか、体調が悪くて立てない時に水を飲ませてくれたとか、そんな個人的な体験は、相手が敵国の人間だろうと関係なく、絶対的な価値判断の上で、「大切な人」として認識するからだ。そして無事に二人は生き残るが、最後にもとの「敵国」同士の兵隊という立場に戻らざるを得なくなり、また銃をとって向かい合う悲劇のエンディング、なんてこれも映画のネタにありがちだが、それは個人の体験から生まれた絶対的な価値が、「敵国」という集団の次元に移行することによって、相対的なものに瞬時で戻ってしまったからである。〇〇人の友達はいる、いい奴らだ、よく飲みに行く、でもその〇〇人たちの国はサイアクだ、戦うべきだ、死んでしまえ、というのは、要するに、個人から集団に次元が移行することで、絶対的価値から相対的価値へ話が変わり、そして我々はこの矛盾を飲み込み自然に生きているのである。

 第1次ベビーブーマーたちが新婚のころ調子に乗り過ぎたせいで、僕たちは生まれた数が多過ぎたのかもしれない。そして国は小さくなり続け、器は小さくなり続け、これからも小さくなり、狭き門を前にして、高飛車な門番たちのニヤニヤ顔を前にして、周りにざわざわ集まっている大勢の同世代の不安げな顔を見ながら、僕たちはやっぱりこれからも途方に暮れるかもしれない。

でも家に帰って自分の好きなものに囲まれてみたらどう?

休日に外へ飛び出し大好きなあの人に会いに行ったらどう?

あるいは大好きなあの景色に会いに行ったらどう?

 個人として生きる時間の僕たちは、もはや需要と供給の法則とは別の次元で幸せを感じ、そこで生きて行ける。だって、需要と供給の法則からみたら、もはや中年になってしまったこんなオジサンは、もはや需要不足で価値は全然ない。転職したって給料は下がるだろう。で、そんなオジサンを、友人たちは、家族たちは必要とし、笑顔で話しかけてくれ、一緒にご飯を食べ、一緒に遊び、幸せを感じてくれている。そして友人だって家族だって年をとるのだから、それはお互い様ということだ。

 需要と供給の法則に基づき、僕たちは集団として生きてお金を稼がなければならないが、人生の反対側の半分を、そんな殺伐とした法則が通用しない世界で個人として生きている。だから、まだまだ人生は続き、半分は殺伐とした将来だけど、半分は楽しく生きて行けるということ。万一、友達がいなくたって大丈夫、一人で楽しむコンテンツはいっぱい準備されている。それが僕たち氷河期世代の人生だ。

 僕は今日もありきたりな生活を、ケラケラ笑いながら、しみじみと味わって楽しんでいる。だってこれは、静かな僕の闘いでもあるからである。

とろろ料理と鮎の甘露煮を食べながら東京時代に飲み明かした夜を思い出したこと

 高速に乗って15分も走らせるとかなりの田舎に出られる。地元にUターンして20年近くたつが、地方での暮らしが、最初の頃は「やっぱこんなとこ戻るべきじゃなかった、なんもねぇ~」なんて不満タラタラだったけど、そのうちに慣れ始め、楽しを見つけ出し、幼馴染(おさななじみ)と週末に飲み歩き、彼女を作り、結婚して、すっかりオジサンになり、今や完全に田舎人(いなかびと)に戻っている。こうして地方に住んで一番幸せに感じるのは、ちょっと高速を使って数十分も車を走らせれば、東京暮らしをしていたら年に数回しか見れないような自然いっぱいの景色や、美味しい空気、水、そして料理にすぐ会えることだ。

 今日はやはり高速に乗って数十分走り、ICを下りたところにある芋料理屋へ、久しぶりにとろろ料理を食べに行った。昔からある、昔からよく行く店だ。とろろは必ず白い陶器製のキッチュなボールに入れられ出される。

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ボールの流し口にはちょこんと練りワサビが乗っていて、木製の匙でそれをかき混ぜ、それから麦ごはんの上にトロ~とかけて行く。

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あとは口の中へかき込むだけだ。もちろん絶品!

ちなみに定食になっているので、ほかにも色々と小鉢が付いて来る。お気に入りが二つあって、一つは「あげとろ」もう一つは「ひりょうず」だ。

「あげとろ」はそのまんま、とろろを海苔で挟んで油で揚げた料理で、抹茶塩を付けて食べる。口の中でとろろの風味が広がり、歯ごたえはサクッとしていて、とろろの魅力が全開だ。

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一方、「ひりょうず」は口に入れるとジューシーな野菜のダシ汁が一気に溶け出し、これまた絶品だ。そしてもちろん、甘い根菜の味わいの奥にきちんととろろの風味が、この料理の主人公として主張を譲らない。

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この他にも、「まぐろ山かけ」とか、「とろろ芋おとし汁」とか、本当に贅を尽くしたとろろ料理があるのだが、そんな名、ちょっと異色なのが鮎の甘露煮である。

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こればっかりは「とろろ芋と関係ないじゃん」という一品なのだが、やっぱり他の料理と同様、絶品なのである。とろろだらけでちょっと口直ししたい時に、少しずつこの川魚の甘露煮をかじり、そしてまた、とろろ料理を味わい始める。

 お店のあるあたりは鮎をはじめとする川魚の放流が盛んで、釣り人も多い。かくいう僕も、東京から帰ってきて真っ先にやりたかったことは、夏に麦わら帽子をかぶって竹竿を持って、川へ釣りに行くことだった。川魚は香りがあるので好き嫌いが分かれるけど、僕は大好きだ。こうして甘露煮で食べるのも好きだが、やはり香りを楽しむなら塩焼きがいい。そして実は、子供のころ勝手に「神の魚」と呼んでいたアマゴ(地元ではアメゴという)の塩焼きが一番美味しいと思う。

 だがこのアマゴは、釣るのが物凄く難しい。難しい理由は川魚の中でも飛び切り警戒心が強く、飛び切り頭がいいからだ。

 東京時代にやはり釣り好きだった友人と場末の飲み屋で飲んでいるとき、子供時代にやった釣りの話になった。僕は酔っぱらって気持ちよくなりながら、子供のころ熱中していたアマゴ釣りの話をした。ものすごく用心深い魚だから、いきなり岸辺に立ってこっちの姿を見せたら隠れてエサなんて喰わないこと。そろっと近寄って魚影を確認したら、釣り竿だけをそっと上流のほうに差し出し、そこからエサのついた釣り針を自然に流して行って、向こうからパクッと喰らいつくのを待つこと。もし合わせに失敗して一回でもバラしたら、その場所ではその日は一日、絶対にアマゴは釣れないこと。合わせが上手くいっても、頭がいい魚なので急に泳ぐ向きを変えてトリッキーな動きをし、すぐに針が外れてしまい、簡単には釣り上げさせてくれないこと。そして、苦労して釣り上げた時に目にするその美しい姿は、まさに神の魚のように金色に輝いていること。などを熱っぽく語った。

 東京時代、なかなか忙しくて実家に帰れなかったし、平日はサービス残業まみれのブラックな仕事にどっぷり浸かってクタクタだったから、休みの日にそんなわざわざ釣りをしに郊外へ出かけるだけの気力もなく、そのくせ「あぁ、子供の頃にアマゴ釣りに熱中していたころの夏休みは、趣があってよかったなぁ」なんて思い出して、「ぼくのなつやすみ」というプレステのゲームを部屋でしながら懐かしさにちょっと胸が詰まりそうになったものだ。そんな中での場末の酒場での与太話である。でも本当に、夜になっても全然涼しくならないあのコンクリートジャングルの熱帯夜で安い酒を飲んでいると、ヒグラシの鳴く大自然の夕暮れ時に涼風がそっと肌に触れる感触が、つくづく恋しいなぁと思ったものだ。20年以上前の20代のころである。

 なのでUターンして地元に帰って来た最初の年の夏休みは、麦わら帽子と竹竿とその他一式の釣り道具を買い揃え、僕はこのとろろ料理を食べた店の近くで、アマゴ釣りに興じた。せっかく地方に帰って来たのだ。何にもないが、自然いっぱいの景色や、美味しい空気、水、そして料理にすぐ会える。

 とろろ料理から甘露煮の話になり、そこからだいぶ話が脱線してしまった。ちなみに数十年ぶりに釣ったアマゴは誇張なしで美しく、やはりこれは神の魚だと思った。

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 僕は今でも地方で暮らす楽しさを、しみじみ味わい続けている。

ベティ・ブルーにみる過剰に自由な恋愛は破滅するしかないということ

 大好きな映画は何?と言われれば、いっぱいあり過ぎて悩んでしまうけど、これまで繰り返し何回も見てきた映画は何?と言われれば、ジャン=ジャック・ベネックスの「ベティ・ブルー」を挙げる。要するに好きか嫌いかはともかく、ついつい何度も見てしまう映画なのである。

 初めて見たのは大学生になったばかりの頃だ。実際にこの作品が発表されてから8年くらいたった後だったから、レンタルビデオ屋では既に「昔の名作コーナー」に並び始めた頃だった。因みにベティ・ブルーというのは英題であって、フランス語の原題は「朝、摂氏37.2度」という女性が妊娠しやすい体温とのことで、これだけで相当クセの強い監督が、相当クセの強い役者を使って、相当クセの強いストーリーに仕上げているのが十分想像できると思う。主人公の男前(ゾルグ)を演じたジャン=ユーグ・アングラードは、その後「キリング・ゾーイ」で、汚らしいハイパーダーティな役を演じた稀代のカメレオン役者だ。

 物語は主人公ゾルグがベティという女性に出会い、恋をするという単純な話である。テーマも古典で言うところのボニー・アンド・クライド、90年代のナチュラル・ボーン・キラーズに見られるような、社会的な道徳や法をどんどん逸脱して、追われながら更に激情が増して行くような、そういう激しい恋愛である。ちょっと違うのは、ゾルグもベティも基本的には社会的な道徳や法を破るということはなく、従ってボニーやクライドのように警察に追われることもなく、ただただ、ベティの激しい愛情に振り回されながら、ゾルグが新しい生活へ、新しい生活へと巻き込まれて行く話だ。ベティのゾルグへの思いは、何かに取り憑かれたような、何かから逃げ出すような激しさだったから、やはり、二人は流浪していく生活の中で、つまり、追われるような緊迫感の中で激しく愛し合って行く。

 ゾルグは小説家志望のフラフラ生きていた優男(やさおとこ)だったから、ベティに振り回され放題だった。これがこの物語の肝(きも)だ。家族との結びつきや社会との結びつきがあれば、我々はそうそう振り回される訳にはいかない。サラリーマンをしていたら、どんなに大好きな女性であっても、朝、目覚めたベッドの中で「今日もスーツ着て頭ペコペコ下げに行く気なの?あなたはもっと偉大な人間よ。あなたの上司はもっとあなたに敬意を払うべきなのよ。今日は私があなたと一緒に会社に行って、その馬鹿上司にはっきりと言ってあげるわ。俗物は俗物らしくもっと謙虚にしなさいってね」みたいな感じで言ったら、そりゃ自尊心は満たされ、すごく嬉しい一方、マジごめん、それ本気でやられたら俺、無理だわ、ごめん、さようなら、というのが普通である。我々は家族や社会との結びつきの中でしがらみを抱いて不自由に生き、この不自由さの制約の中で恋愛する。相手に理解を求めるというのは、そういう不自由さ(ごめん、急な出張が入ったから土日に予定していた旅行はキャンセルだ、みたいなこと)に対する許しを請うということである。でもゾルグはそんな制約がなかったから、自由に振り回され続けることが出来た。ベティはゾルグの雇い主を2階から突き落とし、火の灯ったランプをその家主の家に投げ込だ。二人はそのまま走り出す。果てしなく自由な、過剰に自由な大恋愛の始まりだ。

 自由というのは大昔から人間にとって哲学上の主要なテーマの一つで、それだけ人間にとって厄介な代物ということである。エーリヒ・フロムというドイツ人が「自由からの逃走」という題名そのまんまの内容に沿って、自由主義的なワイマール共和国がナチス独裁国家へなぜ変貌して行ったのか、なぜ人間は過剰な自由から逃げ出すのかを書いていたけど、そんな小難しい話は別にしても、あんまり自由過ぎると人間は不安で不安定になり、バランスを崩して過激な方へ走りがちだよね、そして立て直せないとそのまんま身を持ち崩すよね、という普通に年齢を重ねて行くうちにほとんどの人が理解する話のことだ。僕たちはある程度の不自由さの中で、ブチブチと文句言いながら、平凡に生きるのが一番幸せなのである。恋愛もおんなじだ。若くして大成功を収めたIT長者たちの恋愛はだいたい長続きしない。お金が溢れ返っているということは、過剰に自由ということだ。確かにお金がうなるほどあれば、彼女を誕生日にサプライズで自家用ジェットに乗せてどこかへ飛んで行けるかもしれない。機内でシャンパンを空ければ、この世の天国、自分たちが世界の中心であるかのような高揚感の中で、愛し合うことが出来る。が、その彼女とは最後まで添い遂げることが出来ないだろう。ボニーとクライドは銃撃戦の中で激しく恋愛の炎を燃やし尽くし、ゾルグとベティはフランス映画の瑞々しいお洒落な舞台の上で、どこまでも自由に、過剰に自由に愛し合い、走り続けた。そして結果は決まっている。いつまでも二人で仲良く暮らしましたとサ・・・なんてハッピーエンドはあり得ない。過剰に自由な恋愛は必ず破滅するように出来ている。それは人間の性(さが)でもある。

 じゃあなんで何回もこの映画を見るの?というと、典型的なフランス映画でとにかくお洒落なのだ。撮り方も音楽も、登場する人物も、衣装も、家具も小物も、登場人物が食べる料理もそれが載せられている食器も、全てがお洒落全開で、そこで主人公たちによる過剰に自由な恋愛が繰り広げられ、ついつい見入ってしまうのだ。好きとか嫌いとかじゃなく、見入ってしまう。過剰な自由はちょっとゴメンだけど、休日のちょっとした贅沢は、小市民的な自由恋愛としてささやかな楽しみになる。ベティ・ブルーはそのヒントをくれるオシャレ教科書だ。

 だから僕は、ベティ・ブルーを見返すと、時々は奮発して、安月給のサラリーマンには似つかわしくないお洒落な高級レストランで、たまには家人と美味しいご飯を食べてみたくなる。ハメをはずして束の間の過剰な自由を味わいたいのだ。店の雰囲気を楽しみ、食事を楽しむ。そして時々そんなことが出来れば、僕はそれで十分だ。過剰に自由な恋愛は素敵だが、僕の人生にはちっともいらない。

 

 

 

 

 

博多でラーメンと餃子と水炊きを食い倒れするということ

 勤続年数がある程度長くなると、「家族サービスしてこい」という意味だと思うが、会社から1週間ほど休暇が貰える。なにしろ自分で仕事の都合をつけて時期を決めて休むので、シーズンオフに安い値段で観光地を巡ったりするのにはうってつけの休暇となる。

 数年前、僕はこの休暇を初めて利用し、5泊6日で九州一周旅行をやった。家人に「1週間休みが取れるけど、どこ行きたい?」と聞いたら「美味しいものがたくさん食べたい」という回答だったので、迷わず九州に行くことにした。出張で博多へ行くことがあっても、それ以外はほぼ行ったことないし、遠いからこんな機会がなければ今後もそうそうは行くことはないだろう。九州は何でも美味しいというイメージがあって、僕たちはレンタカーで一周しながら、美味しいものを片っ端から食べる事に決めた。前知識は全く無く、情報は「じゃらん」が全てである。余計な事前調査とか段取りは一切しなかった。宿泊する場所だけ予約しておき、あとはレンタカーでその時の気分にしたがって移動することにした。行き当たりばったりで、まさに旅って感じの旅だ。

 そして博多からスタートである。

 空港に降り立って、博多駅まで電車で移動し、博多駅で速攻で「らーめん二男坊」という店で博多ラーメンを食べた。いきなり美味しい・・・

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 そのあとプラプラ歩きながら腹ごなししようと思ったけど、プラプラの出だしくらいで「テムジン」という店の前で足が止まってしまい、匂いに引き込まれ、そのまま店でひとくち餃子を頬ばった。これまた美味しい・・・

 さすがにお腹がパンパンなので、ちょっとは歩かなきゃと思って、「去年、出張に行った時に先輩に連れて行ってもらった店が美味しくてさ。夜にまた食べに行こうか?本店じゃないけど駅の隣のビルの中にあってさ、下見にでも行く?」ということで「おおやま」という店へ歩いて行った。そうそうここだよ、ここのもつ鍋が絶品で・・・と客が鍋をつついているのを見ているうちに、やっぱり食べたくなって、そのまま店に入り、もつ鍋とおきゅうとを頼んだ。ここのもつは無茶苦茶柔らかく、スープの一滴まであっという間に飲み干してしまう。たまらないくらい美味しい・・・

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 もうお腹いっぱいで動けなくなって、ベンチで休みながら、動けねぇと思いつつ、自分たちは博多駅からこのまま出られないのでは?と思い始めた。それくらい次々と美味しそうな店が目の前に現れるので、歩き出したそばからフラフラ店に入ってしまって、全然、外へ飛び出して行けそうになかった。博多駅恐るべしだ。

 ようやくちょっと動けるようになったころ、駅の外へ出たらすっかり日が落ちて辺りは暗くなっていた。イルミネーションに灯がともり始めている。そうそう、博多と言えば屋台だ。じゃらんには「観光客向けの屋台は値段が非常に高い場合があるので注意」と書いてあったから、今度こそちゃんと腹ごなしするために、歩いて見るだけ、と決めて観光をすることにした。僕たちはタクシーに乗って「屋台を見たいので連れて行って下さい」と言った。親切そうな初老の運転手で、観光客向けの屋台は見栄えはいいが、やはり値段が非常に高くトラブルも多いこと、ちょっと離れたところに地元の人が通う安い屋台があって、味も美味しく、出来ればそちらに行った方がいいこと、などを教えてくれた。僕たちはお礼を言って、見るだけだから大丈夫と伝え、観光客向けの屋台が並ぶ通りの前でタクシーを降りた。あぁ、そうそう、これだ、これがよくテレビで見るやつだ。立ち並ぶ屋台を2往復くらいしながら、僕たちは写真を撮り、ときどき客が食べている料理をのぞき込んだ。さすがにお腹いっぱいだったからそんなに食べたいと思わなかったが、確かにこんなところでお酒を飲みながらパクパク食べたら、いかにも観光をやっている気分になれるんだろな、と思った。

 じゃらんを片手に僕たちは歩いて博多駅へ戻った。博多駅は青いイルミネーションのツリーが立ち並んでいてとてもきれいだった。でも僕たちは花より団子だ。その頃には、僕たちのお腹は、また博多の別のグルメを受け入れる準備がすっかり出来ていた。あたりをキョロキョロ見回す。食い倒れ再開だ。

 そんな感じで食べ歩き続け、夜の11時を回ったころ、そろそろシメを食べようということになった。シメは水炊きに決めていた。「かしわ屋源次郎」というお店だった。鶏料理専門店で、看板メニューとして双璧をなす親子丼も魅力的だったけど、僕たちはやっぱり薄味の水炊きを選んだ。あとで卵を入れて雑炊にするのだ。味付けがサイコー!ダシがサイコー!それ以上言うこと無し。ただただ美味しかった。僕たちはあっという間にたいらげた。

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 博多の人たちの味覚は凄い!だってこんな美味しいものを生み出せるのだから。僕たちは大満足して店を出て、宿泊予約していた駅近くのビジネスホテルへ向かった。明日からはレンタカーに乗って、いよいよ九州一周の旅が始まる。

 治安という意味でも食という意味でも、世界一安全な国にあって、こうして夜中まで美味しいものだらけの街で美味しいものを食べまくってから、ホテルのベッドに倒れ込んで眠る、というのをやったのだから、本当に天国のような楽しさだった。僕たちはキャベジンを飲み、幸福の絶頂でお腹をさすりながら、ぐっすり眠った。やり切った感じだった。

 こうして、九州一周旅行は幸先のいい出だしとなった。旅の初日だったから強烈な印象として残っている。おかげで、いまでも「博多」という地名を聞いただけで、あの食い倒れをやった幸せな1日を思い出し、なんだか自然に唾が出てくる。条件反射というやつだ。全部が美味しかったもんなぁ、博多の街は。

 ちなみに、6日目に九州一周を終えて、またこの博多に戻って来たが、やっぱり最後にもう1回、博多ラーメンを食べて帰ろうということになった。Shin Shinという有名なラーメン屋さんで美味しく頂いた。東京時代には家系のラーメンや二郎に通ってそれなりに味にはうるさいほうだけど、僕はここのラーメンが今まで生きて来て一番美味しかった。最後にそれくらいの味に出会った。

 博多、恐るべしだ。

芸術を味わうということ

 「芸術」というと何だか高尚なイメージで、芸術を鑑賞しに行った、なんて口にしてしまうと、ちょっと意識高い系の連中と一括りにされそうで、凡人としてはついつい怖気づいてしまうのだが、美術館へ行って作品を見たり、お気に入りの作家の個展へ出かけることだけが、本当に芸術を鑑賞することになるのだろうか?と考えてしまう。だいたい「芸術を鑑賞する」というのはステレオタイプの表現で、意味が限定されてしまうような気がして、どっちかというと「ゲイジュツを味わう」くらいの表現の方が僕はシックリくるなぁなんて思うのだ。もちろん美術館や個展に足を運ぶことも素敵な時間を味わういい機会になる。でも、もっと身近で、朝起きて、歯を磨いて、なんてフツーの日常生活の中から、ふと立ち止まる瞬間として、「ゲイジュツを味わう」があれば、それが一番自然だなぁと思う。

 山崎正和という人は著書の中で「芸術」をよく扱って議論していたが、高校生の僕は彼の評論を読み漁っているうちにすっかり影響されてしまって、しかも10代の頃に影響を受けた考え方は結構そのまま大人になっても考え方の原型を成している場合があり、従って僕の「ゲイジュツ」に対する考え方は、今思うとほぼほぼ山崎正和という天才の受け売りだ。今も書斎の本棚の奥に彼の書籍は大事にしまってあるけど、その中の「人生としての藝術」という評論の中で、「人生のための藝術」か「藝術のための藝術」かという数百年前から繰り返されて来た議論を取り上げ、最終的に、どっちでもなく、芸術とは人生の営みの一つであって「人生そのものとしての藝術」が正解、と彼は書いていた。

 高校生だった僕は、ははぁん、なるほどね、と思ったものだ。確かに、個人の人生や個人の集団である社会のために役立ってこそ芸術だ、なんて考え方は、一見もっともらしい。世界でまだまだ大勢の子供たちが飢えている中で、自分の芸術がなんの意味があるのか?なんと芸術は無力なのか?なんて考え方は、すごくヒロイックでヒューマニズムに基づいた考え方に聞こえる。でも、ちょっと芸術を一種の道具にしているみたいで、それが仮に個人の幸福や世の中や利益のために役立つものであっても、やっぱり家電じゃないんだし、役立つというニュアンスが少しでも入ってくると実用的で萎えるよなぁ、なんて思った。だから「人生のための藝術」は全然、腹落ちしなかった。

 一方、いわば芸術至上主義みないな人たち、芸術は人生の幸福とか社会的な利益とかそんな世俗的な低次元のものとは関係なく、世界の最上位を占める最高の価値に関わるものなんだ、そしてオレたちは芸術至上主義者としてこの最高価値に命を捧げるんだ、なんて鼻息荒い野心満々の芸術家たちにも、いやぁな印象しかなくて、「藝術のための藝術」は胡散臭さしか感じなかった。

 だから、「人生のための藝術」でもなく「藝術のための藝術」でもなく、「人生そのものとしての藝術」というのが、「藝術」って難しい漢字を使ってるなって思いながらも、なるほど、生きるってことそのものが一種の悲劇や喜劇で、だから文学に僕たちは魅了され続けるんだよな、平凡でちっちゃな人間の平凡でちっちゃな生活の中に、あぁ奇麗だなぁとか、あぁ趣があるなぁとか、あぁ哀しいなぁとか、しみじみ感じるものがあるればそれがゲイジュツなんだよなと、しっかり腹落ちが出来た。そして今も、ゲイジュツに対する考え方はそこから変わっていない。

 家族の健康を祈って買ってきた動物の置物とか、当時はCADなんてなくて手で図面を描いたであろう大昔のの古いカメラなどの工業製品とか、このあいだニトリで買ってきた普通のシャンプーボトルの優しいフォルムとか、普段の日常生活の中で、なんとなくそれらを眺めて立ち止まりぼんやり物思いに耽る瞬間など、一種の芸術を味わっている時間なんだと思っている。芸術は人生の向こう側にあって役に立ったり、人生とは別の場所で光を放つものではなく、この生きて行く一つ一つの行為の中に、しみじみ味わうものとして立ち現れるものなのだ。だから、凡人は怖気づく必要などなく、目に映るものや風景を大切に、じっくり生きて行けばそれでよい。僕たちは高尚ぶったり、おしゃれな自分を演出する必要はなく、フツーに平凡に生きて行けばそれでいいのである。だってそれがまさに、芸術を味わうことだからである。

ミラン・クンデラの恋愛小説を通して愛を考えるということ

 いろんな作家に影響を受け、いわゆるハマって来たけど、学生時代に大好きだったのはミラン・クンデラドストエフスキーだった。ドストエフスキーは卒論のテーマにした。ミラン・クンデラは卒業してからも繰り返し読み、まだ読んでいるから、よっぽど好きなんだろう。思想として読むことも評論として読むことも出来るその作品は、でもやっぱり瑞々しい文体とおしゃれなストーリー展開で、芸術文学としての意味合いが僕にとっては強い。ハードカバーの背表紙のイラストがどの作品もこれまたおしゃれで、本棚に並ぶそれらの本は何だか画集みたいだ。

 初めてミラン・クンデラの作品で読んだのは「存在の耐えられない軽さ」だった。映画化されたからすごく有名だし、ベタといえばベタだけど、僕もこの作品から始まってそのあとどっぷり彼の世界に浸かった。

 7部に分かれるこの物語は冷戦時代のプラハを舞台に繰り広げられる恋愛ストーリーだが、哲学的思考を行ったり来たりしながら、複数の魅力的な登場人物がそれぞれの信条に従って相手を愛し、相手を捨てる。第Ⅲ部の「理解されなかったことば」はこのそれぞれの信条の違いから生じる言葉が持つ意味の違いやズレを、小辞典形式で説明して行く。いきなり小辞典形式で、それぞれの登場人物にとって「音楽」「女」「墓地」「力」といった言葉がどういう意味を持つのか、何が致命的に違うのか、解き明かして行く。ミラン・クンデラの小説はいつも形式にとらわれず自由に活き活きと話が広がって行き、しかも文体は常に瑞々しい。二十歳前後の僕はすっかり虜になってしまった。

 いろいろとその魅力をテーマを挙げながら紹介して行くと、本当に無尽蔵でキリがないのだけど、この作品で僕が一番そのあとの人生でも影響を受けたのは、カレーニンという主人公夫婦が飼っていた犬が最後を迎えるシーンで、人間の愛と犬の愛を比較している場面である。愛するという行為を、人間は犬のように輪のように繰り返して行くことが出来ない。人間は時間を一方向に決められた直線として生きているので、愛するという行為も同じような情熱で繰り返すことなど出来ず、一方向へ向かって走り続けて行くうちに、あんなに新鮮で魅力的だった仕草も、あんなに大切に思えた寝顔も、いずれ色あせ心の外へ徐々に追いやられて行く。魂は別の新しい刺激を必要とする。一方、犬の愛は輪のように繰り返し変わることはない。すっかり年を取ってくたびれ、家族からも軽んじられるようになってしまったお父ちゃんが家に帰って来れば、玄関で愛犬は変わらない愛情で尻尾を振り、全力で喜びを表現して出迎えてくれる。これはその愛犬が最後を迎えるまで続けられる。一方で人間の愛は、同じ熱量で繰り返されることはなく、脳みその構造上それは不可能で、従い人間は愛に関しては幸福になれない。

 学生だった僕は当時、人間機械論の魅力に取りつかれ、文系のくせに脳科学の最新知識とかが素人に分かりやすく書かれている書籍を読み漁っていた。なんだ、哲学だ心理学だ愛情だ宗教だとか言ったって、結局、人間の人生も価値も全て、脳みその刺激に対する反応が生み出だしたものでしかないじゃん、なんてちょっと世の中や人間を分かったような気になって、今思うと、いかにも若造(わかぞう)が陥りがちな勘違いだけど、とにかく「どんなにいいと思っても、感動しても、美しいと思っても、好きだと思っても、繰り返すと飽きるよね。残念だよね。古いものは捨て、また新しい刺激を求めて繰り返すんだから、人間が生きるって、しょうもない化学反応の積み重ねでしかないよね」みたいな事をまくしたてていた。しょうもない若造である。

 その後、長々と生きているうちに、経験を積み、父親の死もあり、自分の肉体的な劣化や気持ちの老いもあり、自分自身の価値観の緩やかな変化を受け入れ、世の中にカレーニンがいることも知った。そして自身もカレーニンになれることを知った。簡単な話だ。愛することは、愛する側の自分自身が変化して行くことで、新しい意味を持ち、それを続けて行けるという自然の摂理を、これも脳みその化学反応の一つとして受け入れたのである。だから僕たちは、大切な人を、若かったころに愛したやり方とは別のやり方と感じ方で、愛し続けることができる。朝、目が覚めて、小皺の増えた寝顔を撫でながら、おでこにチュッとする時の感情は、肉体が若かったころの自分の激しい欲動とは全く無縁だけど、確かな気持ちとして自分で感じ取れる。相手は自分にとって本当に大切な人なのだ。カレーニンのように、輪のように、人は人を愛することが出来る。

 これは愛に関するこの小説のテーマの一つだ。こういう類のアイデアや人生のヒントや面白さの味わいが、この小説にはいっぱい詰まっていて、僕はボロボロになった背表紙を裏側からセロテープで補強しながら、いまだに旅行先なんかに持って行って、繰り返し読んでいる。年をとって読み返すことで、新しい発見や感動がまだいくらでも出てくるのが名著であり、自分の人生に影響を与えた小説だ。

 これだから読書はやめられない。

 

 

 

海外赴任がいきなり決まってから中国語で料理を頼めるようになるまでのこと

 いきなり中国の田舎へ赴任が決まって、行ってみたらどこにも日系企業はなく、従って日本人もおらず、日本語はもちろん英語すら伝わらない。だいたいそこに住んでいる人たちは外国人をほとんんど見たことがないし、僕を見て日本人を生で見るのが初めての人もいるようなところで、これはエライところに来てしまったと思った。

 勤めているところが海外生産比率が95%のメーカーなんだから英語くらいは勉強し直すか、と考え、休日にちまちまとTOEICの勉強を始めるもあんまりやる気も起こらず、まぁ英語なんて簡単なコトバだから、いざ行かなきゃならんとなれば、何とか現地で使っているうちに慣れるかなと思いつつ、でも実際に赴任が決まったら慌てないで済むように、日常会話の学習も織り交ぜながら、少しずつ受験英語のレベルを戻していた。

 そして赴任が決まったのは中国の山奥である。想定外だ。上海から1時間半くらいフライトして降り立った空港は、日本の田舎のJRの駅みたいな小さなターミナルだった。スーツケースがなかなか出てこないので英語で「自分のスーツケースが出てこない」と空港の職員に話しかけたら、「はぁ?」みたいな感じで聞き返された。空港の職員でさえ英語が通じるかどうか怪しそうだった。迎えに来てくれた運転手(もちろん地元の人)は、僕の顔をみると笑顔で中国語で挨拶し、車に乗り込んでからもずっと中国語を話し続けた。こっちが理解しているかどうかはそんなに関係ない。中国語でずっと何かを喋っていた。そのあとよく分かったことだが、ずっとその地域で生きてきた人たちにとっては、中国語以外の言葉が存在することさえ特に意味をなさず、もし中国語が分からないなら、それは目が見えなかったり耳が聞こえなかったりするみたいに「かわいそうに」くらいの感覚でいるみたいだった。ある意味、堂々とした中華思想だ。

 仕事では日本語を喋れる部下を1名つけてもらったが、会社を一歩出れば中国語以外は全く通用しない世界である。休日にホテル(会社が部屋を貸し切ってくれていた)の部屋を出ると、そこからは全てが中国語で動いている。雑貨屋でミネラルウォーターを買う時も、クリーニング店でスラックスをクリーニングに出す時も、全てが中国語しか通用しない世界で、僕は音声機能つきのEx-wordを片手に「これを下さい」「いつ受け取りに来ればいいですか?」なんてやり取りしていた。まだスマホが世界中に流布する直前の話である。Ex-wordは勉強に使用するにはよかったけど、持ち歩いて通訳機として使うには重く不便だったし、不完全なコミュニケーションしか図れなかった。クリーニングに出したスーツはドライクリーニングされず、まさかの水洗いをされてしまって、すっかり色あせカウンターの向こうから出てきた。そんな言葉が通用しないことから生じる失敗は、日常茶飯事だった。

 そして食事である。ローカルの料理店はたくさんあるのだが、メニューはもちろん全てが中国語である。まず席に座ったとたん、店員が外国人である僕の姿を見ると、物珍しそうに集まってきて数人で取り囲む。今はどうか分からないけど、一昔前の中国の田舎の店は、料理店だろうとスーパーだろうと、やたら店員の数が多く、大半は暇そうに突っ立っているが、何か買おうとするといっせいに取り囲まれ、あれだこれだと中国語でまくし立てられた。本当はまくし立ててなどいないけど、中国語が分かるようになるまでは、まくし立てているようにしか聞こえなかった。メニューを渡され年配の女性店員たちに囲まれ中国語でまくし立てられながら、僕は料理の写真の一つを指し示して「これにして!」と日本語で大声で言い返した。ホテルの部屋を出る前は「ジェイガ(これ)」みたいな中国語を覚えて料理店で使ってやろうと決めていたのに、実際にオーダーする時には、そんな風に囲まれてまくし立てられ、焦ってジェスチャーと日本語で乗り切るという、残念な結果に終わった。頼んだチャーハンをスプーンで口に運びながら、俺はここで生きていけるのかな?なんてちょっと心配になって来たのを覚えている。

 なので、コツコツ勉強するしかないと考え、毎朝、ホテルの部屋を出る前の1時間を中国語の勉強に充て、覚えた言葉をその日の生活の中で実際に使ってみる、というのを始めることにした。実際に中国語を勉強したことのある方はご存知だと思うが、中国語は発音だけでなく、四声と呼ばれる音の高低と長短の組み合わせも正確でなければ全然通じない。例えば「猫」も「毛」も「mao」と読むが、「マオ」というのを声のトーンを高く平らに発音させれば「猫」になり、上昇させながら発音させれば「毛」になるので、トーンを間違うだけで全く意味の違う言葉になる。「時間」も「事件」もスペルは「shi jian」なので「シージェン」と口にすればいいが、この声のトーンの違いが当然あり、間違うと全然意味が変わるので通じない。文法が物凄く単純で、そもそも漢字なので日本人には馴染みがあるが、いざ実用で会話しようとすると付け焼刃では全く歯が立たないのが中国語なのだ。

 なので、この声のトーンも含めた正確な発音が出来るようになるまでは、勉強していても何度も挫折しそうになった。だって、部屋であんなに練習したのに、昼間、実際に試しに使ってみたら、「はぁ?」とその場で聞き返されるのだ。英語であれば少々発音が悪くても全然コミュニケーションが図れる。中国語はなんて難しい言葉なんだと、しみじみ感じ、本当にこんなコトバ、使えるようになるんだろうか?と途方に暮れることが多かった。

 朝、目が覚めると歯を磨き、コーヒーを飲みながら教科書を開く。教科書は日本から持って行ったやつだ。まずCDを聞きながら何度も母音と子音の発音練習をし、そのあと「今日こそ一発で聞き取ってもらうゾ」というセンテンスや短文をノートに何度も書き出しながら、口で発音し暗記する。「その資料をメールで私に送って下さい」とかそういった類の仕事で使う簡単な文章だ。そのあとホテルの食堂で暖めた豆乳とお粥を食べて、迎えに来た社用車に乗り込む。会社では通訳以外のナショナルスタッフはことごとく中国語しか喋れないから、朝おぼえた単語を実践で使う機会はいくらでもある。で、いよいよその瞬間が来て部下に話しかけてみて、「はぁ?」で返され、ガックリ落ち込む。そんなことを繰り返していた。

 上海みたいな都会だったら、地元の人たちも外国人が喋るヘタクソな中国語に聞き慣れているから、ある程度は聞き取ってくれる。そういういう意味で、僕が赴任した場所は、本当に正確な発音をしないと「はぁ?」を食らうハードルの高い場所だった。何度も折れそうになりながら、それでも僕は毎朝、必ず1時間は中国語の勉強に充て、粘り続けた。

 そして3か月くらいたったある日、突然、自分の喋る中国語が一発で伝わり始めた。会社のスタッフの場合、逆に僕のヘタクソな中国語に聞き慣れ始めたのでは?という疑いがあったが、町で地元の店員相手に話し掛けた時に、「はぁ?」を食らう回数が減り始めた。上達したのは間違いなさそうだった。僕はやっと努力が報われたことに気づき、すごく嬉しかった。折れずに発音の基礎を毎日やり続けてよかったと改めて思った。

 その後、料理店で地元の料理を頼めるようになった僕は、味付けや調理方法の指定まで出来るようになった。「鷹の爪は少なめであんまり辛くしないでね。それからニンニクは細かくみじん切りにしてから一緒に炒めて」みたいな感じで、日本人の口に合いやすいように調理方法を指定して注文し、出張支援に来てくれた日本人の同僚をもてなせるようにもなった。

 これも有名な話だが、中国人にとって食べるということや料理の味というものは、人生の本当に重要な地位を占めている。彼らにとって食べるという行為は、よりよく生きる為の重要なファクターなのだ。なので、たとえば出張支援者の日本人が「昼飯は食べないですから準備は結構です。眠くなって集中力が無くなるのが嫌なので」と言った日には、信じられないという顔をし、「ご飯を抜くなんて、アナタは何の為に生きているのですか?」とあるスタッフは真顔で言っていた。そして同じことだが、「食」は人間関係上のつながり方にも大きく影響をしている。

 上海へ出張に行ったとき、事前交渉がなかなかまとまらず、どうしても先方の中国人の購買部長がYESと言わなかった。まず僕に会おうともしなかった。僕は1日滞在を延長し、翌日またオフィスへ行って打ち合わせを申込んだ。やはり会わないという。僕は粘った。「〇〇という田舎に駐在していて、私はそこから1時間半を飛行機に乗って今回、上海に来ているんです。せめて少しだけでもお話させて頂けないですか?」

 果たして「昼ご飯に外に出るので、そこで食べながら話すならいい」という回答を受付からもらった。僕はお礼を言って外へ出てしばらくブラブラして時間を潰し、昼前にもう一度オフィスの受付に戻った。出てきた部長は眼光の鋭い、いかにも叩き上げという感じの僕より10歳くらい年上の中国人だった。そして日本語がペラペラだ。

 その部長と一緒に食べた四川料理は美味しかった。僕は仕事の話をせず、出てきた料理の味の話などをしていた。そしてまだ全然ヘタだけど、あんなクソ田舎で生きて行くにはどうしても必要なので一生懸命に中国語を勉強していること、少しずつ伝わるようになって本当に嬉しかったこと、確かにクソ田舎だけど、あそこの地元の料理は野菜が新鮮でとても美味しく、今の季節は苦瓜炒肉(ゴーヤと豚肉の炒め物)が飛び切り美味しく、ビールに合うので大好きなこと。みな田舎の人間ばかりで人柄が素朴で真面目な人たちが多いこと。でも町の病院の水準があまりに低くて、肺炎で死にそうになったこと。

 黙って僕の話を聞いていた部長は、実はそのクソ田舎が自分の故郷であることを僕に言った。なんだ、そういうことか。ありゃりゃと思ったけど、もう遅い。そんな悪くは言ったつもりはないけど、クソ田舎という表現はマズかったかな、なんて思った。

「最近はあまり帰れていないが、あなたの話を聞いて、地元の苦瓜炒肉をまた食べたいと思いました。上海のような都会では確かにあんな新鮮な野菜はなかなか食べられない。ともかくあなたは頑張って中国語の勉強を続けて下さい」

 そのあと四川料理店からオフィスに同行し、打ち合わせをさせてもらった。日本の大学を卒業しているその部長は、完璧な日本語を操るタフネゴシエーターだった。僕はあきらめずに交渉し続けた。

 その日の夕方のフライトでクソ田舎へ戻る飛行機の中で、今回は運がよかったなと思いつつ、料理でつながる人間関係がこの国を動かしているってのは、ホントかもなんて考えていた。出てきた機内食をモグモグ食べながら、ところでこのよく分からん料理はなんて名前なんだろと、小さくなっていく上海の夜景を目にしながら、僕はぼんやり考えていた。

夢のマイホームを高品質にして低価格で建てるということ

 人生の一大事の一つがマイホームを建てることだ、マイホームは会社員の夢だと、上の世代からは聞いていた。でも一方で、そのうち南海トラフがやって来るし、この国はどんどん人口が減って空き家だらけになるのだから、そんな古い価値観で家を建てる奴は馬鹿だ、お金があるなら投資で運用を始めておかないとこれからのサバイバルシルバーワールド(年寄たちがその日の糧をめぐってシゴトを奪い合う近未来の世界→負けたら餓死決定)を生き抜いてなんか行けないよ、と友達から怒られた。が、いろいろ迷ったけど、投資による資産運用なんて自分は決して上手にやれそうにないし(賭け事は昔から全然ヘタクソ)、そのくせ40代になって少しだけ貯まったお金が、やれストレス解消だとか言って休日に小旅行や食べ歩きしてどんどん目減りして行くのを見るにつれ(カテゴリー:旅行「旅に出るということ」ご参照)、こりゃいかん、このままじゃアパート住まいで定年退職を迎え、その頃には年金も「できればそのまま受け取らずに死んで行って欲しい」という国の方針がもっと露骨になっていて、そのくせ貯金もなく、それでサバイバルシルバーワールドに乗り出すなんて、怖すぎる。この際、家を建てて貯金をいったんゼロにして、危機感を持ちながらまたコツコツ貯金を始めよう、という自分の浪費癖を戒めるための決断を、数年前にやった。「夢の」というほどの話でもない。

 まず、日本のメーカー勤務の端くれとして、品質は譲りたくない。高級なものである必要はないけど、しっかりした丈夫なものであって欲しい。無駄なところにお金をかけず、長持ちさせることを前提に最低限のお金で建てる、というのをやることにした。高品質にして低価格で家を建てるための方針として、僕は以下の3つをやった。

1.コンセプトを明確にすること

 ああいう風にしたいこういう風にしたいと迷っているうちに、訳が分からなくなり、結局どういう家づくりをしたかったのか分からなくなるのはよくある話で、ハウスメーカー工務店の営業マンの口車に乗せられ無駄にコストが高くなる原因だ。先々のライフスタイルの変化も想像し、どういう家にするのかコンセプトを最初に明確にしておいた方が、後悔のない家づくりが出来ると思う。ウチは子供がいないので、つまりは自分と家人が「二人で快適に爺さん婆さん時代を過ごせる家」及び自分か家人の一方が先に死んだ場合、残ったほうが最終的に「年寄一人で快適に長々と過ごして最後を迎えられる家」をコンセプトに、小さな平屋を建てることにした。小さくてコンパクト、徹底的なバリアフリー(ドアは玄関も含めすべて引き戸)と手摺り設置を行い、完成後に初めてやって来た時に年老いた母が「なんだか小さな老人ホームみたいね」と言ったくらいである。でもコンセプトがそんな風に最初からブレなかったから、今でも手摺りだらけの小さな家の中を見回し、ウン、これなら家人か自分のどっちかが取り残されても、老人の一人暮らしを快適に過ごせそうだな、なんて満足な気持ちになる。

2.見栄を捨てること

 ほんの少しでも家を誰かに見てもらうものと考えてしまうと、やはり営業マンやインテリアコーディネーターの餌食になる。「おしゃれなデザインの出窓はどうですか?」「リビングに太陽の光を入れるため西洋風の天窓をつけてみては?」「フローリングは木の温もりを感じる高級無垢材はどうですか?」「トイレをよりおしゃれに見せるために壁に個性的なタイルを採用しては?」てな具合で、お披露目で誰かに自慢しようなんて場面を想像し出すと、その瞬間から無駄なお金が飛ぶ。もちろんお金がたくさんある人はそれでいいと思う。人生を豊かにするには無駄は重要。それは確か。でもお金があんまりない上で、高品質をきちんと確保したければ、「家とは誰かに見せるものではなく、そこで快適に過ごすための道具である」くらいに考えておいた方がいい。なので、我が家も外構は駐車場をコンクリートで打ってその他のスペースは砂利を敷き、シンボルツリー一つ植えなかった。すごくシンプルな四角い家で、外壁はごく一般のデザインにした。その代わり外壁のシリーズも耐久性が一番高いやつにしたし、屋根はもちろん瓦屋根だ。何しろコンパクトだから、一つ一つの材質を耐久性の観点からグレードの高いものにしても、大して金額がかさまない。断熱材は住んでいる場所が北海道でもないのにセルロースファイバーを入れてもらい、おかげで夏は涼しく冬は暖かい家になった。外観は全く特徴のない無骨な平屋だけど、住む分には快適そのものの家に仕上がった。そして勿論、完成後にお披露目会なんかしていない。友達にも見せなかった。「うん家建てたよ。まぁ子供いないし小屋みたいなちっちゃな平屋にしたけどね。小さいから掃除も楽なんだ」と飲みながら一言伝えた程度だった。家はあくまで自分たちが住むために建てたのだから、それ以上の目的は不要なのだ。

3.営業マンと楽しみながら闘うこと

 これは規格や値段がガチガチに決まっているハウスメーカーでは通用しない。なので僕は地元の古くからやっている工務店を選び、自由設計とした。動線を考え、車椅子でも移動できるよう間口を決めて、およそのイメージとしてエクセルで自分で図面を引き、それに基づいて設計図を描いてもらい、あとは壁材、ドア、システムキッチン、トイレ、バス、照明、床材という風に一つ一つを決めて行った。その時、例えばドアであれば「〇〇メーカーの〇〇というシリーズにしたい。因みにネットで調べたら、材料費と施工費はだいたい〇〇円くらいで、これに工務店さんが〇%くらいピンハネするのが相場と書いてあった。だからだいたい〇〇円くらいでやってもらえると思うけど、それ以下でどこまで下げられるか考えて次回の打ち合わせ時に提示して下さい」なんて宿題を出し、次の打ち合わせで「マジすかぁ、ちょっとピンハネ分が高くないですかぁ」「いやウチも最低限の儲けを出す必要があるんで・・・」みたいなギリギリの交渉をやって、次を決めて行く。今の時代は本当に全部の建具や材料の相場が細かいところまでネットで調べられるので、毎回打ち合わせまでに次の交渉のための情報を纏めておき、工務店にはノートPCを持ち込んで相場の調査結果を纏めた資料を提示しながら、営業マンに更にどこまで下げられるかを交渉した。内訳が素っ裸の状態で「要するにアンタのとこはどれだけピンハネするのか?」と毎回迫られるのだから、営業マンもたまったもんじゃなかったかもしれないけど、こっちも真剣だった。そして相手が腕のいい営業マンだと、交渉の駆け引きも楽しく、何十回も打ち合わせを重ねながら、僕はこの闘いを楽しんでいた。おかげでそれなりのグレードのものを、最低限の費用で取り付けることが出来た。その積み重ねが最終的に「高品質にして低価格」に繋がった。

 こんな感じでマイホームを建てた僕だが、普通は奥さんがアレコレと自分の夢を叶えるべくおしゃれな家づくりに熱心になるものだと聞いていたのに、ウチの家人は全く何も言わなかった。武家の娘である家人は僕より男前な性格で、「いいんじゃない、アナタがそうしたいと考えアナタが貯めたお金を使ってやるんだから好きにしな」くらいの勢いで、毎回、工務店との打ち合わせには付いて来るけど、いつも横でニコニコと僕と営業マンの闘いを見ているだけで、何も言わなかった。機能や耐久性やコストばっかり僕が話をしていて、この人は嫌じゃないのか?と思って、そのあたりを聞いてみたけど、「別にいいんじゃない」しか言わなかった。ん?ひょっとしてこの人はマイホームなんていらなかったのか?なんてちょっと訝しく思っていたくらいだ。

 住み始めて数か月たったころ、買い物から帰って駐車場に駐車していた車の中で、ポツリとそんな家人が言った。「私、この家が好き。病院じゃなくてここで死にたいと思うわ」

 なんだかすべてが報われた気持ちだったのを覚えている。僕は相当に運がいい人間なんだろなと思った。

旅に出るということ

 旅をする理由とか意味ならごまんとあって、非日常を味わってストレス解消できるとか、本場のグルメを味わえるとか、要するに効能みたいな理由もあるし、自分を見つめ直せるとか、新たな価値観を見いだせるとか、忘れていた自分の情熱を取り戻すきっかけになるとか、ちょっとマインドに響くような理由を挙げる人もいる。が、正直、40歳を越えて人生の半分を終え、あとはひたすら働いて税金を納め、組織から放り出されたとしても何とかお金を自分で稼ぎ続け、この世からいなくなるその最後の瞬間まで生存競争に晒されて行かねばならない我々にとって旅とは、

 「ひたすら非日常を味わってストレスを解消し、美味しいものを食べること」

 という具合に徹底したプラグマティックな効能の追求で充分であると考えている。僕は大半のメーカー勤務の人たちと同様、給料が安くても土日が確実に休める=土日を人生の楽しみに生きている類(たぐい)なので、なおさら土日なんかで行く小旅行は、平日の複雑な人間関係とか組織の要請から来るストレスを、非日常を味わうことで解消し、かつ平日の殺伐とした食事(職場で会議の合間に慌てて食べる食事は、ご飯というより餌を食べるという感覚)を埋め合わせるかのように、旅先で出会った地元の美味しいものを食べることが出来れば、それで大満足である。

 海外駐在から帰ってきた人間にありがちな話で、久しぶりに日本の組織に戻ったはいいが、海外と比べ与えられる裁量権は小さく(もういらない、と簡単にチームメンバーを交換できない)、そのくせ細々した責任が網のように足に絡みつき、マネジメント上、面倒な手続きとか複雑な日本人のきめ細かなケアとかいろいろ要求され続けて、とにかく感覚を日本の組織向けに戻すまで非常にストレスフルな日々を送ることになる。僕もご多分にもれず、帰国して数年間は非常に苦労の多いストレスだらけの日々だった。どれくらいストレスフルかというと、あんまりにイヤ過ぎて、職場とか住んでいるところで息をするのも嫌で、自由になる毎週末には日本のどこかへ旅行に行っていた。本当に毎週末、出かけていたのだ。

 金曜日、本来は17時で残業なしを原則に大半の社員は退勤するのだが、僕はトラブルを抱えた部下の緊急対応をフォローしたり、週明けに提出しなければならない業績報告書なんかの作成をやっているうちに時間がとんで、結局、オフィスを出るのが20時くらいになる。あぁやっと1週間が終わった、何とか乗り切った、キツかったぁ、コレまだ続くんだよなぁ、来週はまた怒られるんだろなぁ・・・なんて考え込み、せっかくのメーカー勤務のくせに、金曜日の夜をなんでそんな暗い顔をしてんだって言われそうな顔でアパートに帰って来ると、家人が待っていて、余計なことは言わず、

「どうする?」と聞いてくる。

「うん、どっか行くよ」と僕は答えると、そそくさと家人は「お泊りセット」なるバッグを準備して、着替えとか一式を車に運び込む。

「どこへ行くの?」

「どっか、ここじゃないとこ」ハンドルを握って車を走らせた僕は、本当に行き先を決めず、コンビニでお茶とサンドイッチだけ買って高速に乗り、そのまま走り出す。できる限り遠いところのほうが非日常を味わえるし、もちろん初めて行くところがいい。日本なんて国土が狭いから、走れるところまで走って、一晩どっかで眠ってまた明け方に走り出せば、土曜日の昼頃には東北でも四国でも到着してしまう。僕はひたすら夜の高速を会社やアパートのある場所(=平日の場所)から逃れるように走り続け、家人は毎週末がピクニックとばかりに大はしゃぎして、昼間あったこととか、テレビで見た話とか、取り留めない話を車の中でずっと話し続けてくれる。僕は全然内容を聞いていないけど、彼女の声を聴いている。金曜日の夜はまだまだ頭の中はシゴトでいっぱいだけど、それは仕方ない。そして家人もそれを理解してくれている。

 土曜日の昼頃、数百キロ離れた美しい場所で観光している。「るるぶ」を手に持つ家人に見せたいものを見せ、食べたいものを食べさせ、そうすることで僕の頭の中から少しずつシゴトがぽつりぽつりと消え始め、さっき急遽予約したその晩の宿の夕ご飯に期待する。

 土曜日の夕方、温泉に浸かり、部屋に戻って食卓に並ぶ地元のグルメに目を丸くする。ビールを飲み、料理に舌鼓を打ち、家人の上機嫌な顔を眺め、食べ終わったらちょっとウトウトして、それからもう一度、温泉に浸かりに行く。夜は平日の浅い眠りとは比べ物にならない、心地よい深い眠りの中へ落ちていく。

 日曜日の朝、窓の外の美しい景色を眺めてから、朝ご飯を食べに行く。やっぱり地元のグルメが並んでいて、おなか一杯になるまで食べる。平日の朝飯は眠くならないためのコーヒーと脳みそがちゃんと回転するための甘いパンで終わらせているけど、日曜の旅館の朝飯は食べたいものをじっくり味わって食べ、食べているうちにこれが「人間が食事する」ということであり、本当は生きている幸せの一部なんだなって改めて気づかされる。

 日曜日の昼間、まだ帰らない。せっかくここまで来たのだから、もっと観光しておく。焼きものづくりとかの体験も楽しそうだ。昔、歴史で勉強した事件の現場とか、偉人ゆかりの地を巡るのも面白い。移動途中で立ち寄る道の駅やサービスエリアの土産物コーナーは、非日常の世界そのものだ。串焼きとかお焼きとかちょこちょこ喰いをしながら、僕たちは旅を楽しみ続ける。

 日曜日の夕方、さすがにそろそろ帰途に就く。運転中に明日からのシゴトがあっという間に頭の中を占領し始め、高速を走る僕は金曜日の夜と同じ表情をしている。家人は何も言わない。僕たちは夜中の12時過ぎにアパートに到着し、シャワーを浴びて、ビールを飲んでベッドに入る。日曜の夜なんてどうせ眠れない。若いころからそうだ。そうしてまたストレスフルな平日が始まる。

 そうこうしているうちに、駐在時代に貯めた預金がどんどん無くなってしまった。その頃にはもう本州の観光地は行ったところがないくらい旅行に行っていた。2回目となると、たとえそこが自分の住むところから数百キロ離れていても、もはや非日常ではない。でも一方で僕自身が、そろそろ日本のストレスフルな組織に改めて順応し始め、自分のアパートで土日を過ごすことも出来るようになっていた。そろそろ潮時だと思った。僕は家人に家を建てることを宣言した。一つは貯金がなくなってしまう前に家を建てて節約生活に切り替えるため。もう一つは、土日に二人でのんびり過ごせるお気に入りの場所を作るため。

 今や土日は我が家で寝坊し、もんじゃ焼きをし、近くのショッピングモールへ買い物に行き、また家に帰って読書しながらウトウトし、夕ご飯のカレーを作り、そのあとネットで映画を見ながらのんびり過ごしている。でも時々、こんなパンデミックでシゴトが大変なことになって、平日のシゴトがついつい週末に押し寄せて来て、僕の頭の中からシゴトが消えなさそうな金曜日の夜には、家人が「お泊りセット」を準備し、僕はハンドルを握って高速を走り出す。でもすぐに下りる。こんなパンデミックだから何度も行ったことのある近場で車を止める。それは仕方ない。もちろんそこに大した非日常はないけど、なんとなくあの非日常を求めて毎週末に日本中の観光地に出かけた懐かしい日々を思い出し、ちょっとその時の気分を再現してみるのだ。そして非日常とか関係なく、地元のグルメは何度食べようと美味しいことは変わりはない。僕は海鮮や山菜を頬張り、温泉に浸かりながら、あの旅の日々を思い出している。

写真を撮るということ

 実家に帰った時に父親の部屋を片付けていて、古いフィルムカメラを見つけた。アイレス35Ⅲsという1958年製のもので、アイレス写真機製作所という、もうとっくの前に倒産して無くなっている会社の製品だ。父親は僕たち家族を、全部このフィルムカメラを使って撮り続けた。どこへ行くにもこの重たそうなカメラを皮のケースに入れて大事そうに持ち歩いていたのを覚えている。70年代から80年代の話だ。

 久しぶりに見たその写真機は、本当にずしりと重かった。子供のころは触らせてもらえなかったから、その重さは想像通りでちょっと嬉しかった。手で持つ部分のモルトプレーンが剥がれて外観はだいぶボロボロだったけど、まだシャッターは切れた。僕はそれまでマニュアルのフィルムカメラなんて使ったことがなかったし、学生時代は「写ルンです」が全盛の頃で、それで友達と記念写真を撮る程度だった。そしてすでに写真は携帯電話で撮る時代だったけど、古めかしいカメラを手しているうち、まだコレ写るのかなって考え、フィルムを買ってきて使い方をネットで調べ、庭の花とか自分の車とかいろいろ撮ってみた。その時初めて絞りとかシャッター速度とかの仕組みを学んだ。

 果たして、現像されたプリントにはしっかりと僕がファインダー越しに目にした風景が映されていた。輪郭がなんだか昭和って感じのキリキリした感じで、色合いも、あぁ家族写真は全部こんな感じだったなという優しいぼやけた感じだった。

 1枚だけ庭で撮ってあげた母親の写真があって、それもきちんと写っていた。渡してあげたら「アラけっこう綺麗に撮れてるね」と喜んでくれた。父親が死んで5年くらいたった後だったけど、父親のアイレスでまた母親の姿を撮影出来て、何だかちょっと親孝行した気がしたし、息子としてほんの少しだけ誇らしい気分だった。

 古い機械がそれでもまだ頑張れるというのは、もはや若者でなくなった男にとって、とても勇気の出る話だ。機械式のフィルムカメラは修理すれば永久に使えるという「永久」に惹かれ、そのあとニコンFだライカM3だと買い始め、僕はすっかりクラシックカメラの虜になった。休日には車で田舎へ出かけ、気に入った風景を見つけては、これでもかと手間をかけて1枚1枚を丁寧に撮影した。非効率を楽しみ、現像まで待つという不便さを楽しむのが、独身時代最後の頃の、優雅な休日の過ごし方だった。

 今や家族を持って、使用するカメラはもっぱらデジカメである。モタモタ撮っていたら、いつまでポーズを取らせるのだと怒られるし、大事な場面でブレブレの写真にしてしまうと、手振れ防止機能がついていてなぜこんなブレブレの写真になってしまったのだとか、後でいろいろと苦情が来るので、効率的かつその場で出来栄えを確認して確実に撮らなければいけない。ライカでフィルムを使うのは一人で撮影に行く時だけだ。

 そして父親のアイレスは、僕の書斎のニッチに飾って置いてある。もう製造されて60年以上がたった古いそのカメラは、まだフィルムを入れればきちんと写せるし、しかも本気を出せばそれなりにボケ味がきれいな美しい写真を撮れる。僕は時々、朝一人で早く起きた時などに、家族の寝顔をこれでそっと撮って、またそっとニッチに戻し、自分の子供時代などを思い出している。

 

料理を食すということ

 思い出深い料理ってなんだろう?そう考えてみた。料理に限らず、人間にとっての価値は、そのものだけの価値を意味するのではなく、味わうシチュエーションとかタイミングとか、その時々の僕たちの気分や感情に大きく左右されて意味を決定されるから、ただのインスタント袋麺だって「あのとき兄貴が作ってくれた出前一丁の味は心に沁みたなぁ」なんてなことも十分にあり得る。美味しい、という思い出は、味が味覚的に美味しかった事だけじゃなく、料理にまつわるいろんな物語なんかが付随して、初めて僕たちの「美味しかった思い出」になる。

 小学校に入ったばかりの頃、3つ年上の兄貴と留守番をしていて、兄貴が出前一丁を作ってくれた。なんだかガスコンロを使ってお湯を沸かすという大人の仕事ができる兄貴を、台所ですごく頼もしく見ていた記憶がある。後々分かるのだが兄貴はひどい味オンチで、美味しいとか不味いとか言わない代わりに、何を食べても全く無頓着で、お腹が詰めばそれでいいいみたいな感じの人だった。それで、兄弟二人で留守番するときはお湯を沸かしてできる簡単なインスタント物が多かったけど、兄貴がつくるラーメンや焼きそばは、必ずお湯をたっぷり吸ったブヨブヨの代物だった。ブヨブヨだから確かにお腹はいっぱいになる。味はどうか?もちろん不味かったのだろう。でも子供の僕は、母親以外の家族が作る料理をとても新鮮に感じて、すごく美味しく味わうことが出来た。人間にとって価値の決定とはそういうものだ。今でも僕は、UFO焼きそばを作るときは、わざとブヨブヨにしてちょっと家にあるソースも加え、懐かしい気分を味わいながら食べている。

 思い出深い料理と言えば学校の給食は外せない。考えてみると昭和の給食はヘンな食べ物も多かったかな。どう考えたってカビが生えているようにしか見えない湿った緑色の揚げパンが出てきて、甘ったるく、油っこくて、とてもじゃないがなかなか全部食べられなかった。昭和の小学校の先生というのは今の先生と違って、言う事をきかない子供がいたらぶん殴る場合もあったし、ちゃんと給食を食べない子供には食べ終わるまで周りで掃除が始まろうと机に座らせ続けることも可能だったから、僕はこの悪魔のパンが出た時だけは、半べそをかきながら必死で牛乳で胃に流し込んだ。ネットで調べるとこれは「うぐいすきな粉揚げパン」と言うらしく、好きな人は好きみたいだが、今でもやっぱり食べる気がしない。なんで湿った緑色なんだ?逆に鶏肉にチーズを挟んでアルミホイルで焼いた料理が給食に出て来ると無茶苦茶嬉しかった。あまりに美味しかったので、いつも僕は最後に食べるようにしていた。これは大人になった今でも普通に料理して家人に食べさせている。たれは醤油ベースの甘辛いやつにし、焦げた匂いが食欲をそそるよう工夫して焼き上げる。

 母親の手料理は、母親が地方のさらに田舎の出身だったので、やたらみりんを使った甘い煮物が多かった。何でもかんでもたっぷりみりんを使うので、肉じゃがも煮魚も同じ味がした。食感と風味が野菜っぽいか魚っぽいかの違いだけだ。ちなみに父親も味オンチで全く文句を言わずにもくもくと食べる人だったから、またかよぉ、またみりん味の煮物がおかずかよぉ、と一番下の僕が不満を言える食卓の雰囲気でもなく、ただもくもくと食べる父親と兄貴に挟まれて、だまってその甘ったるい料理を食べるしかなかった。でもこの母親の「みりんたっぷりの煮物」の中でたまにスマッシュヒットがあって、ニンジンのシーチキン煮がまさにそれだ。すごくシンプルな作り方で、ニンジンを乱切りにして、シーチキンと醤油とみりんで煮込んだだけの料理なのだが、本当にこれが美味しかった。シーチキンの油が浮いた残り汁は捨てずに大事に冷蔵庫に入れておいて、翌日の朝、レンジでチンしてご飯にかけて猫まんまにして食べるのが僕の楽しみだった。母親の手料理といえばこのニンジンのシーチキン煮を思い出す。

 中国の田舎で駐在中に疲れを溜め過ぎて扁桃腺を腫らし、39度の熱を7日間出した。地元の役人に紹介された地元で一番の病院は、お世辞にも医療設備は整っているとは言えず、受けられる治療も点滴のみだった。ちょと尿の匂いがする大部屋のベッドの一つで天井を回る換気扇の羽を見ながら毎日うなされ、5日目を越えるころには幻覚も見た。7日目には「肺炎の初期」と言われ、いよいよ明日は上海へフライトをとって病院を変えるかどうか、というところまで行ったが、8日目に急に熱が下がり始め、僕は生き延びた。10日もすると完全に熱は下がったが、扁桃腺は腫れ続けて痛みが残り、何も食べ物が喉を通らなかった。近辺には日本料理店などなく、地元の料理は油と鷹の爪がたっぷり入った地方料理で、本来は美味しいのだが、少なくとも病み上がりの日本人の口は全く受け付けなかった。食べなきゃ回復しないぞと頭では分かっていても、ちっとも飲み込めない、そういう状態だった。

 そんな時、同じプロジェクトに参加していた香港人が自分の借りているアパートへ僕を食事に招いた。僕は正直、まだ病み上がりでスイカくらいしか口に出来ずどんどんやつれて行く自分の状況だったので、それを知っていてどうしてこの香港人は食事に招くんだろと、ちょっと迷惑に感じたが、仕事上でだいぶお世話になっていた年配の方だったので、むげに断れずアパートを訪ねた。上司からは数日したら仕事に復帰するよう言われていた。

 香港人の奥さんがその時食べさせてくれたお粥料理の味を僕は一生忘れることが出来ない。どんな料理も痛みで通さなかった喉が、その温かい薬味の効いたお粥をつるつると食道へ招き入れ、久しぶりに胃に入った固形物の感覚は、なんだかエネルギーが体の中心にふわっと入ったようなそんな気持ちだった。僕は大きめのお椀に入れたそのお粥料理をペロリと平らげ、香港人とその奥さんにお礼を言った。香港人はしたり顔で「ほらね、来てよかったでしょ」みたいな感じだったので、あぁなるほど、そういう親切の仕方をしてくれたのだと、改めて感謝した。それ以降、あれより美味しいお粥料理を食べたことがない。

 料理を食すというのはだから、美味しいとか不味いとかの話ではなく、生きている人間の物語が常に取り巻いて、味付けをし、僕たちの人生の前に現れるものなのだと、僕は思っている。

勉強するということ

 第2次ベビーブーマーと呼ばれる大集団に属する一人として、史上最悪の受験戦争をくぐり抜け、くぐり抜けたあとで入った大学を卒業するころには、史上最悪の就職戦線に投入されて、大半はくぐり抜けられずに玉砕し、それでも何とかくぐり抜けてようやく社会にもぐり込んだら、時代こそ平成という年号だったけど要するに昭和の最後の旧式軍隊方式が全盛の頃で、もしそんな古い方式に付いていけず脱落して心を病み病院に行く者がいたとしても、そこはほら第2次ベビーブーマーって数が多いし、第1次ベビーブーマーもまだ働いているし、需要に対して供給が多いからぜんぜん大丈夫、てな具合で誰も気にしなかった。で、マジで玉砕して実家に引きこもり出てこれなくなる連中が近所に現れ初めてびっくりし、テレビの話じゃないんだ、ヤバイぞこれ、こんなとこで潰れたって誰も気にせんぞって必死でしがみつき続け、そのまま年を取り、もはや転職できないくらい年をとった頃には、時代がすっかり変わっていた。今や旧式軍隊方式はアジアの各国で敗れ去り、馬鹿にされ、ついに昭和は終わった。昭和を信じて輝いていた第1次ベビーブーマーたちは無事に逃げ切り、敗れた国がこの先傾いて行こうが特に気にしていないみたいで、たんまり貯めたお金で人生の楽園謳歌して長野あたりの田舎で念願だったそばを打ち、奥さんとおしゃれな隠居生活をしている。一方、敗戦国の管理職になった第2次ベビーブーマーたちは「仕事が辛いので朝起きられない」と言う新入社員を相手に、「そうだねぇ、どうすれば君が生き生きと働ける職場づくりができるかねぇ」なんて面談しながら、そうそう常にスマホで録音されていることを意識して言葉遣いに気を付けなきゃ、「若者に寄り添う」を実践しなきゃね、なんて人事で受けたマネジメント講習よろしく生真面目に頑張り続けている。

 大学卒業直後、就職戦線で敗れた連中のかなりの数が、資格試験や公務員試験を受験していた。受験戦争をくぐり抜けた世代の悲しい性(さが)で、勉強して試験で頑張れば必ず報われるんだと皆が同じことを考えたからだ。でも需要と供給というのはこれ以上ないくらい世界のど真ん中の法則だと思う。せっかく教員免許を取っても先生になれない連中がゴマンといたし、公務員なんてどれだけ門戸を閉じていたか分からない。当時、第1次ベビーブーマーたちはまだ現役だった。椅子は埋まっていた。やたらめったら資格を持っていて英語ペラペラの奴が、工場でアルバイトとして油まみれで作業していたとしても、誰も気にせず、そして僕たちはそのまま年を取り続けた。

 なので、いよいよ今さら資格を取ろうがスキルアップしようが、もう年齢的にそんな勉強によって今よりお金がたくさんもらえるチャンスは来ないよね、あとは先細りする給料明細を見つめながら、死ぬ直前までバイトでもなんでもして食べていかないとね、という状況になった今では、逆に何かの為ではなく、自分の好きに自分が好きなことを勉強すればよい、という結論に至った。開き直りができるようになったということだ。

 がっつり文系だった僕は、歴史が好きで古典や現代文も好きだったし、趣味の範囲で経済学も会計学民法も勉強した。外国語の勉強が一番好きだった。でも高校時代までは物理も化学も生物も大好きだったのだ。兄貴の影響で(兄貴は分子生物学が専攻だった)理系の勉強は好きだったけど、文系科目ほど得意じゃなかったので、受験科目を決める時に捨てた。今でも時々、書店で見つけた生物学の一般教養書をずっと立ち読みし、そのまま読み切るまで何時間も読み続けることがある。数字で表現される世界はいつも公平で、全てが平等で、ちょっとオカシな人がオカシな理屈をこねて無理強いできる余地がなく、要するにノイズが入らないからとても気持ちがいい。生命の活動も死という現象も、公平で厳然とした数字で表現され、そのプロセスも数字で説明される。

 でもやっぱり、やっていて一番楽しいのは語学の勉強だ。これは不思議。音楽に似ているからかな?学生時代に第二外国語や原典購読で学んだロシア語もスペイン語も初頭文法で終わってしまったし、英語だって大したはことはない。でも外国語を勉強している間はリラックスし、無になれる。写経をしている時とよく似た気分がそこにある。

 なので、休日の午前中は自分の書斎にこもって、特に先々役立てるつもりもない語学の勉強をよくしている。英語だったり中国語だったり、とにかく日本語以外のコトバを学んでいる間は、ウィークデーの仕事中にどっぷり浸かっている日本人相手のナイーブな世界(日本人は本当にナイーブで難しい)から遠く離れた感覚を味わい、一種の現実逃避ができる。語学の勉強はやはり声に出しながらやるのが一番だけど、それは学習効果よりも何より気分がよくなるということ。大きな声で発音すれば、なんだか遠く離れた場所に飛翔して行くみたいで、そのくせ頭は真っ白、気分は最高。

 「ねぇ勉強終わった?買い物に付き合って欲しいんだけど」昼ごろ、書斎のドアを乱暴にノックする音とともに、僕の休日の勉強タイムは終了する。そこからは家人の接待をしっかり日本語でやらなきゃ。

 今のところ、僕の人生の楽園はあまりに短すぎる。

映画を見るということ

 ごたぶんに漏れず映画好きで、子供のころから映画館に通いつめた。高校時代には授業をサボって映画館で半日過ごし、「バックドラフト」を連続で2回見て、こんな味気ない受験生活なんかやめて消防士になろうかと本気で思った。大学に入ってからは毎晩のようにレンタルビデオ屋へ足を運んで、借りてきた映画を寄宿舎の自分の部屋のテレビデオで夜通し見ていた。当時「ぴあ」のリストでチェックしたら、その時点で1,500本以上を見ていた。これは、若い頃たくさん見たよという自慢をしたいのではなく、逆に今思えば失敗したなぁ、と後悔しているという話。

 大学生だった僕は映画も芝居も大好きで、都内のミニシアターに行ってオールナイトで大昔の白黒映画を見たり、高田馬場あたりの芝居小屋へ行って学生演劇をよく見に行った。ストーリー構成をノートに書き出して分析したり、ジャンルごとにお気に入りの監督を見つけ自叙伝を読みふけったり、いかにも東京にいそうな大学生が、いかにもやりそうな事に熱中していた。

 二十歳前後というのは人格形成が出来上がった直後なので考え方や感じ方のベースは完成しており、そのくせ経験値が圧倒的に低いから、世界は狭く、脳ミソでは知識として知っていても、本当の幸福感とか本当の惨めさとか、本当の美しさとか本当の醜さとか、本当の気持ちよさとか本当の苦しみを、まだ実際に味わった訳ではなく、更には繰り返し味わって飽きた訳でもなく、映画でキャラクターたちが展開する巧みなストーリーの中で、それらを半分想像しながら感じ、想像し、だから世界や人生には深い意味があるとまだ感じることが出来た。要するにストーリーの面白さや、そこから導き出される意外性や強烈な感情やメッセージに、心の底から感動が出来たし、エンドロールを眺めながら胸が詰まって言葉を失うようなそんな時間も味わうことが出来た。パトリス・ルコント、クリシュトフ・キシェロフスキ、ペドロ・アルモドバル・・・90年代に輝いていた天才たちのみずみずしい表現に熱中し、口角泡を飛ばしながら、タランティーノの暴力性といやらしさと脚本の偏執性を、コーエン兄弟のペーソスとユーモアを同じく映画好きの連中相手に論じていた。

 がその後、ながながと生き続け、氷のように拒絶し続ける世の中へ、僕たちは自分の意志で自分たちを埋没させ、耐え抜き、お金を稼ぎ、家賃を支払い、ご飯を食べ、時々は気持ちのいいこともし、そんな仕事や生活や恋愛の中で、本当の幸福感とか本当の惨めさとか、本当の美しさとか本当の醜さとか、本当の気持ちよさとか本当の苦しみを実際に味わい、しかも繰り返し味わい、いい加減飽きはじめる30歳前後になると、もう何だかどんな映画を見たって、なんとなく先が想像出来てしまって、結果やっぱりそんな内容で、そのうち最後まで映画を見終えるという忍耐力がなくなってしまった。30代の10年間は大げさでなく1本も映画を見ることがなかった。だって見始めるとすぐに、ひどく退屈を感じたから。

 40歳を越えて、たまたまテレビで「きみに読む物語」を見た。家で仕事しながらついでで何となく見ていたのに、いつのまに手を休め、テレビの前に座って見ていた。そして号泣。どうして?こんなコテコテの恋愛映画が?なんでこんなに胸を打つの?何が新鮮?何が?20代の自分だったらきっとバカにしていただろう、こんなのハリウッドが作った商業主義ど真ん中の作品では?って・・・・

 その後、AmazonプライムNetflixで休日に見始めた映画も、胸を打ったのは「グラン・トリノ」「ベンジャミン・バトン」「ハッピーエンドの選び方」だった。分かるでしょ?要するに僕たちは初老に入ったということ。そして大学生のころ、頭だけで分かっていた大人の人生に対し、恐れと期待を抱きながら想像を膨らませ映画を見ていたように、中年になった僕たちは、まだまだ頭だけで分かっている老いとか死に対して、恐れと期待を抱きながら想像を膨らませて映画を見始めたということ。数十年後、本当の老いや死が近づいてきたころには、そんな類の映画はきっと退屈に感じて見もしないかもしれない。ただ今回は熱中して人生を先取りし、片っ端から見てやろうなんて考えないようにしようと思っている。だって久しぶりに見始めて、やっぱり映画はいいなぁと思う。映画に付随するコーヒーの香りとか休日の昼下がりの眠気とか、夜更のリビングの不思議な高揚とか、映画館の暗がりに映るドリンクとポップコーンを載せた青いトレーの面白い形とか、ぜんぶ人生に必要。なんにも見なかった30代はちょっともったいなかったと後悔をしている。

 人生をじっくり味わいたければ、生き急がず、だから熱中せず、少しずつ、たまたま何となく出会った作品を見て行った方が、僕たちは人生をもったいなく過ごさずに済むような気がする。だからもう失敗しないように、ぽつりぽつりと、僕は映画を見ている。

 

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