失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

九州の魅力は食いしん坊にとっては底がないということ

 九州一周旅行は博多の食い倒れから始まり、いよいよレンタカーに乗って走り出した。長崎方面に行くから、喜ぶかなと思って家人にハウステンボスで遊ぼうなんて誘ったら、「吉野ケ里遺跡へ行きたい」とのこと。そうか、この人は古代史が大好きで、一人で古墳巡りをやっている人だった事を思い出した。古墳のほとんどは小山の前に看板があってそこに解説が書いてあり、逆にそれを読まなければただの小山にしか見えない。が、そんな小山の前の看板の写真(どれも同じに見える)をたくさん集めているのが家人だ。僕はがぜん昭和の男子として歴史は戦国時代が大好きだから、あんまり古代に興味もなかったが、今回の旅の目的として家人の接待を最優先とし、僕たちは吉野ケ里遺跡に車を走らせた。

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すごく大きい!広い!砦の入り口からすでに期待でいっぱいだった。

上機嫌の家人に引っ張られてどんどん奥に進んでいく。弥生時代の住居が復元され、その当時の人々の暮らしが、出土品とともに分かりやすく紹介されていた。本格的な歴史学習の施設だ。

祭祀の様子や、政(まつりごと)をやっている様子が人形で再現されていて迫力満点。

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広大な施設の敷地を歩いていたら、小腹がすいたので併設されているレストランで混ぜご飯のおにぎりを食べることにした。ついでにムツゴロウの焼いたのを付けてもらう。ムツゴロウは真っ黒に焦げていて、あんまり味はしなかったけど、おにぎりは素朴な味で美味しかった。ムツゴロウって本当はどんな味がするのだろ?と考えながら、炭素の塊みたいなのをカリカリかじる。

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11月の九州は気持ちよい風が吹いていて、食べ終わるとまた僕たちは、のんびり古代が復元された風景の中を歩いた。芝生の上を、古代の景色の中を、本当にのんびり僕たちは過ごした。人ごみの中を観光したりするよりずっと贅沢な時間の味わい方だ。訪ねて大正解だった。

 その後、長崎に入って、平戸を見物し、平和記念公園で祈り、カステラを食べに行った。松翁軒という老舗のカステラ屋さんで、どうしても行きたかったところだ。2階がレストランになっていて、レトロでものすごく雰囲気がある。

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僕たちはこのレストランでコーヒーを飲みながら美味しくカステラを頂いた。ここのカステラは日本一、上品な味のカステラである。博多に行くたびにお土産で買っていたのでファンになった。旅の途中で贅沢な時間をゆっくり過ごす。そうそう、このレトロな感じは、横浜とか神戸にもあるセンスのいい老舗の喫茶店と同じ雰囲気だと思い、同時に、長崎も歴史のある、そして町全体が雰囲気のある港町であることを思い出した。カステラはどこまでも美味しい。

 その夜は佐賀県に戻り、嬉野温泉の宿で泊まった。和多屋別荘という旅館で、ご飯の評価が高かったから予約していたのだけど、案内された部屋に入ってビックリ。洗面台の染付や檜風呂の鄙びた感じが、ザ・和モダン。

お風呂は驚くほどとろみのある温泉だった。ゆっくりお湯に浸かって体をほぐし、夕ご飯を食べ、旅の疲れを癒した。たくさん歩いたからたくさん眠った。普段はベッドで寝ているから、時々こうして旅館の和室で布団の上で眠ると、溶けるように寝てしまえる。今日もいい1日だった。九州旅行サイコー!

 この宿の凄みは実は翌朝食べた朝食にあった。と、翌朝、思い知らされた。白がゆに好きなだけ明太子を乗せて、温泉卵を乗せて、イワシの昆布締めを乗せて食べるのだ。

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こうして九州旅行の3日目が始まった。いよいよ僕たちは南に向かう。数百キロを走って薩摩の国へ向かうのだ。胸のワクワクが止まらなかった。薩摩の国へ向かうのだ。

Something ELse はジャズのド定番過ぎるけどペーパードライバー脱却に必要だったのでこれを書かずにはいられないこと

 ジャズが大好きだ。これは父親の影響だ。で、だいたいジャズ好きっていうと、あんまり有名どころは敢えて外して、ちょっとマニアックなところを「コレが好き」と言いたがるものだけど、僕は全然フツーに、ド定番を「大好き」という。だって、ド定番ということは、モーツァルトの楽曲と同じで、この先、何百年も人々から愛されるだろうってことだからだ。それくらい完璧!ということである。だから、そりゃそうだよねって感じで僕はフツーに「大好き」という。

 Something ELseはマイルス・デイビスとかキャノンボール・アダレイとかアート・ブレイキーとか、要するにそれぞれの楽器の神様みたいな人たちが一堂に会したアルバムだ。そりゃトンデモない作品に仕上がって当たり前な話だ。で、僕はこのアルバムを、子供の頃に父親の仕事場で耳にして、そのあと大人になってから「あぁ聞いたことあるよ」って思い出して、そのあと自分でCDを買って来て、そのあとちょっとアルトサックスでアダレイのフレーズを真似したりして、そのあとUターン転職して地方暮らしを始めたので車の運転中に聞くようになった。もはや数千回は聞いてきたアルバムということだ。

 ジャズなんてよく知らないやって言う人にオススメするとき、やっぱりド定番からの方が入りやすいから、僕はこのSomething ELseを勧める。余計な小難しいウンチクはどうでも良くて、まずは相手に「いいなっ」と思ってもらうのが一番だし、自分がいいなって感じているものが人に伝わるのはとても気持ちいいから、「食事中でも昼寝中でも寝る前のベッドでも、朝の目覚めでも、トイレの中でも、そして通勤途中だって、どこでも聞きやすいアルバムなんだ」みたいな感じでフランクに僕はおススメする。実際このアルバムは、生活のどんなシーンでも僕たちの気持ちを楽にしてくれる、僕たちの考え事や感情の推移を中断してジャマをしない、だから自然に寄り添ってくれる、そんな完璧な音楽の集合体だ。

 と、人にはオススメするのだが、実はこのアルバム、僕にとってはどういう訳か、非常に実用的なアルバムになってしまった。結果的にそういう事になった事情はこうだ。

 東京で10年近く暮らしてから地元にUターンして来たはいいが、僕は典型的なペーパードライバーだった。要するに運転なんて教習所でしかしたことがなかった。そして僕の地元は典型的な地方都市で、車がなければ生活できないほどではないにしても、無茶苦茶不便だった。バスや電車も東京みたいに縦横無尽にひっきりなしに走っていない。乗り継いで待って、乗り継いで待って、ようやく目的地にたどり着くのだから、車がなければ、本当に不便だ。

 それでも僕は、東京から帰って来た直後の半年間は自転車で過ごした。会社は工業団地にあったから周囲は工場群と田んぼしかなかったけど、その田んぼの間に立つアパートに部屋を借りて、そこから自転車で通勤した。東京帰りのちょっと変な奴くらいに見られていたかもしれないが、どうせ休日はぐったり疲れてアパートで眠るだけだ。買い物は自転車で10分くらいのところにスーパーとホームセンターがあるから、全く問題なし。という具合に、こんな田舎に帰って来て失敗したなぁ、なんて思いながら暮らしていた。だって転職したての頃というのは、本当に疲れがひどく、ただでさえ田舎暮らしに慣れるのに苦労しているのだから、自動車の運転なんて恐ろしいストレスは当面は勘弁してくれ!と思っていたからである。

 が、当然、仕事の中で出張も発生する。上司や先輩と社用車で出張するときは、普通は一番下っ端が運転するものだが、僕はニコニコしながら後部座席に乗って運転をお願いしていた。

そして転職して半年後、当時の上司が僕に「そろそろいい加減にしろよ」と真顔で言った。

 僕はやむなく車の運転をすることにした。面倒臭ぇ~って思いながら、自動車教習所のペーパードライバー講習に行き、先生に助手席に乗ってもらって自分のアパートと会社を3往復して練習し、翌日、中古自動車の販売店へ車を買いに行った。ハイ、運動神経ないです。5教科は得意だったけど体育は5段階評価でいつも2でした。どうせぶつけまくるでしょう。大きい車なんて、モビルスーツのコックピットに乗っているみたいで、やっぱり怖いや。

 なので、走行距離7万キロ超えの小さな中古のハッチバックを選んで購入し、1週間後にそれに乗って通勤を始めた。恐る恐るだ。

 会社まで自転車なら15分の距離だったが、車で通勤を始めると、朝は30分かかった。工業団地に向かう道は朝は通勤の車で渋滞するのだ。要するにノロノロ運転になる訳だが、やっぱり運転はとても怖いし緊張する。自分がケガをするのが怖いというのより、人様(ひとさま)を絶対に傷つけたくない、という恐怖感が頭から離れなかった。帰りは夜の12時ごろだったから(当時は残業まみれだった)、5分くらいでアパートに帰れたし、その時間になれば、さすがにあんまり他に車も走っていないから楽だったが、朝の通勤の30分は、交差点にさしかかる都度、左折や右折の都度、ドキドキしてハンドルをきり、慣れるまでが本当に大変だった。他人が聞けばしょうもない話である。

 結局、ビクビクしながらの車の運転から脱却するまで、そのあと半年もかかったけど、とにかく緊張をほぐすために、車の中でリラックス出来る音楽をかけようと思い、子供のころから慣れ親しんだこのアルバム、Something ELseを選んだ。なるべく家でリラックスしているような感じで行きたかったからだ。

 なので、1曲目の「枯葉」のイントロを聞くと、今でもあの慣れない運転で苦労しながら通勤を始めた頃を思い出す。あぁ、あの頃は後悔と不安でいっぱいだったなぁ、毎日毎日、東京に戻りたいなんて青臭い感傷に浸っていたなぁ、なんて思い出す。

 もちろん、こんな実用的な聴き方をしていたって話は僕の個人的な話であって、このアルバムの価値とは全然関係ない話である。でもウンチクはいらない。音楽の聴き方はどこまでも自由であるべきで、それぞれが好きな曲を、好きに聴いて、聴いている時間だけ、人生を心地よいものにすればいいのである。音楽は僕たちが人生をしみじみ味わって行くための大切な装置である。どこまでも自由でいい。

 ちなみに、ジャズ大好きな僕は、音楽ならこだわりなく何でも聞く。なので運転に少し慣れてきたころ、ちょっとジャズばっかりも飽きたかなって、FMラジオをかけることもあった。J-POPがよくかかっていた。

そしてミスチルの「くるみ」がかかった時、その歌詞を耳にしてハンドルを握りながら不意に涙がこぼれた。だよね。・・・引き返してはいけない、進もう・・・・

Uターン組がこの曲をしみじみ聴くとヤバイ。

 若かりし日の他愛もない話である。そしてどこにでもある話である。

 

氷河期世代にとって需要と供給の法則は最大の敵だけど闘い方はあるということ

 言い尽くされて来た話だけど、僕たち氷河期世代は常に自分たちの数の多さに対して、世の中に十分な大きさの器がなかった。ちょっと昔なら馬鹿でも入れた大学が狭き門として急に名門校みたいに受験生たちを見下ろし(入れて欲しかったらまず受験料をたっぷり払って大勢で試験受けて、それからこの門をくぐって来な)、ちょっと昔ならそんな大した企業でもないようなところの人事の若手が、圧迫面接(そんなんではどこも受け入れてくれる会社は無いんじゃない?自分でどう思っているの?)で就職活動している僕たちを腹いせのようにイビリ倒した。

 なんせ僕たちは数が多いのに、世の中は常に「出来ればキミたちは受け入れたくない」方向で話が進んで行くのだ。申込んで行ってみたらそこには同じような年齢の人たちが大勢が集まっていて、受け入れる側は常に高飛車で、或いは冷たく、目の前の門が非常に狭いことを告げる、なんて場面が人生の中で幾度となく繰り返されてきた世代が、僕たちである。

 もはや遥か(はるか)大昔の話だけど、僕も就職活動は全敗だった。まずハガキを200枚くらい書いて会社資料を請求したが、半分くらいの会社しかエントリーシートを返送して来なかった。要するに100社から無視されたということ。そこに手書きで一生懸命、志望動機とか自己PRとか書いて送ったら、数週間後、半分くらいの会社からセミナー開催の案内が戻って来た。ハイ、さらに50社から無視されたということ。で、飯田橋や有楽町にある何とかホールとか言う名の大きな会場にスーツを着て行ってみたら、300人くらいの学生が集められていてソワソワしている。そのうち前の小さなステージみたいなところにその会社の人事の若手がマイクを持って立ち、説明を始める。「では第6回セミナーを始めますね。ちなみに総合職の採用枠ですが、長引く不況で我が社も少数精鋭組織に生まれ変わることを目指しており、今年度は15名の方に絞って受け入れる予定です」ってオイオイ、この類のセミナーを全部で何回やるのか知らないけど、ちょっと前までこの会社、総合職80人くらいは採用していたはずなのに・・・・

 それでもセミナーをくぐり抜け、筆記試験をくぐり抜け、嫌みたっぷりの若手の面接をくぐり抜け、部長クラスが5人くらい正面の机に並んで時々「オマエはどういう風に役にたつの?」くらいの詰問を浴びながらもこれをくぐり抜け、最終の役員面接の待合室で待っていたら、一番最初のセミナーで説明をしていた人事の若手が出て来てニヤニヤこう言い始める。「いやぁ去年は15名採用だったんだけどね。今日、君たち最終面接に来てくれている訳だけど、これが15人なのよ。今7人がこの部屋にいるでしょ。昼から8人来るの。でね、ちょっと変更があってね。今年は採用を8人に絞ることになったんだ。去年だったらここにいるみんなで合格出来て、僕たちも一緒に祝福出来たんだけどねぇ。残念だよね」・・・・・

 目の前に届くところまで来て、結局手に入らないというのは若者にとっては結構キツい話で、前日に最終面接を受けたところから不合格の連絡を聞いて、携帯電話をポケットにしまいながら、ちょっと休憩しよう、次の面接まで時間あるし、という具合に電車を降り、自販機でコーヒーを買ってホームのベンチに腰掛け、一口飲んでから、ふうっと息をする。

 おととい久しぶりに行った大学のゼミで、やっぱりほとんどの同級生が就職活動が上手くいかず玉砕していたな、なんて思い出す。大学院に行くか、公務員試験を受けるか、塾講師のバイトをしながら公認会計士とか司法書士とか、組織に入れないなら資格で生きて行くとか、いずれにせよ、そこにも需要と供給の法則があって、大勢が押しかけ、器は小さく、門は狭いだろう。当時まだ、第1次ベビーブーマーたちは50代の現役だった。無事に定年まで勤め上げ家のローンを返し終えるには、しがみ付かなければいけない。世の中のパイが全体としてどんどん小さくなっているのに、若手なんて入れている場合じゃない。彼らにとって他の世代の人生なんて関係なかった(今もそんなスタンスだが)。だからどこも門は閉ざされていた。僕たちの世代は、例えばせっかく苦労して教員免許を取ったのに、ほとんどが臨時教員でしか先生をやる道がなかった。供給過剰のせいで需要が果てしなく少ない時代の話だ。「必要とされていない」が社会に足を踏み出した頃の僕たちのイメージだった。

 飲み干したアルミ缶をゴミ箱に入れて、次の電車に乗ろうとする。歩き出したら人身事故のアナウンスがあった。ダメだなこりゃ。僕はタクシーを拾いに駅の外のターミナルへ出るため、ホームから階段を下りて行った。こうやって就職活動で東京じゅうを電車で移動しながら、今日は3回目くらいの人身事故のアナウンスを聞いた。まぁオジさんたちも、しがみ付ければまだマシな方で、しがみ付けない人はダイブするしかないんだろな、なんてぼんやり考えながら小走りに走って行く。

 その後、もぐり込んだ社会にあって、当たり前だけど世の中はそんな風に、縮んで行く器の中で一人一人が逃げ切る為に必死だったから、若手がどんなブラックな思いをして仕事してようと、気持ちが潰れてアパートの部屋から出て来れなくなろうと、誰も気にせず、若手として僕たちは、ただただ強く、ただ強く耐え抜き、せっかく手にした仕事を自分のものにする為に、必死で働いた。上司の罵倒に心を病もうと、どこかにダイブしようと、誰も、何も、気にしない。僕たちは数が多く、社会という器の大きさには限りがあって、どこも門は狭く、圧倒的な需要と供給の法則の中で、ただ摺り潰されないように生きくだけだ。

 そうやって年を取り、第1次ベビーブーマーたちが逃げ切って引退して悠々自適の余生を楽しみ出したころ、今度は僕たちの下の若手がぜんぜん不足していて業務が回らなくなり、プレイヤーとして残業まみれの地獄を見始め、ようやく久しぶりに会社に入って来た若手たちは何とか世代とかでチョー余裕な感じで世の中に入って来たので(逆の意味で需要と供給の法則)、ぜんぜん言葉が通じなかった。僕たちが若手の頃、手書きの勤務表に1か月の残業時間を130時間で申告したら、「事前申請していないから60時間に書き直せ」と上司に言われ書き直した話なんて、今の20代の人たちにしたら、「昔は空襲っていうのがあってな。防空壕という穴みたいなやつにな・・・」と語るのと状況は変わらない。そんなもんである。

 という訳で、どこまでもこの殺伐とした需要と供給の法則に僕たち氷河期世代は晒され(さらされ)、これからも晒され続けて行く。さんざん上納して来た年金だっておんなじだ。需要と供給の法則に基づき、僕たちは将来、「お年寄りの方たちには、出来る限り受け取るのを先延ばしにして頂き、出来れば受け取らずに死んで行って欲しい」という世の中のご意向に沿って人生の最後を迎えることを知っている。それを知っていてなお真面目に上納し続ける謙虚な世代だ。

 さて、自然法則はそんな感じで殺伐としていて、僕たちは絶対にこの需要と供給の法則には勝てないような気がするけど、実は大切なことを見落としている。受験だって就職試験だって組織で生き抜くことだって、それはすべて集団の話だということ。僕たちは人生を集団として生き、その中で育まれた価値観に基づいて生活し、幸せだとか不幸せだとか感じるけど、一方で、個人としても生き、その中で育んだ価値観に基づき生活し、幸せを味わい、不幸せを哀しむ。

 個人と集団という概念は哲学でもよく出てくるけど、価値論と密接に結びついている。絶対的な価値はあくまで個人的な体験からしか生まれないし、反対に、話が個人から集団に移行すると、価値観は相対的なものに変貌して行く。例えば、戦場で敵同士の兵隊がばったり出くわし、しかも二人で助け合って生きて行かなければいけないような状況になったら(そんな映画もあったが)、最初は銃を手に向かい合っていた二人は、共同生活の中で一緒に困難を解決し、いつしか人生の友になる。だって、一緒になけなしの食料を分け合って食べたとか、一緒に体を寄せ合って暖を取ったとか、体調が悪くて立てない時に水を飲ませてくれたとか、そんな個人的な体験は、相手が敵国の人間だろうと関係なく、絶対的な価値判断の上で、「大切な人」として認識するからだ。そして無事に二人は生き残るが、最後にもとの「敵国」同士の兵隊という立場に戻らざるを得なくなり、また銃をとって向かい合う悲劇のエンディング、なんてこれも映画のネタにありがちだが、それは個人の体験から生まれた絶対的な価値が、「敵国」という集団の次元に移行することによって、相対的なものに瞬時で戻ってしまったからである。〇〇人の友達はいる、いい奴らだ、よく飲みに行く、でもその〇〇人たちの国はサイアクだ、戦うべきだ、死んでしまえ、というのは、要するに、個人から集団に次元が移行することで、絶対的価値から相対的価値へ話が変わり、そして我々はこの矛盾を飲み込み自然に生きているのである。

 第1次ベビーブーマーたちが新婚のころ調子に乗り過ぎたせいで、僕たちは生まれた数が多過ぎたのかもしれない。そして国は小さくなり続け、器は小さくなり続け、これからも小さくなり、狭き門を前にして、高飛車な門番たちのニヤニヤ顔を前にして、周りにざわざわ集まっている大勢の同世代の不安げな顔を見ながら、僕たちはやっぱりこれからも途方に暮れるかもしれない。

でも家に帰って自分の好きなものに囲まれてみたらどう?

休日に外へ飛び出し大好きなあの人に会いに行ったらどう?

あるいは大好きなあの景色に会いに行ったらどう?

 個人として生きる時間の僕たちは、もはや需要と供給の法則とは別の次元で幸せを感じ、そこで生きて行ける。だって、需要と供給の法則からみたら、もはや中年になってしまったこんなオジサンは、もはや需要不足で価値は全然ない。転職したって給料は下がるだろう。で、そんなオジサンを、友人たちは、家族たちは必要とし、笑顔で話しかけてくれ、一緒にご飯を食べ、一緒に遊び、幸せを感じてくれている。そして友人だって家族だって年をとるのだから、それはお互い様ということだ。

 需要と供給の法則に基づき、僕たちは集団として生きてお金を稼がなければならないが、人生の反対側の半分を、そんな殺伐とした法則が通用しない世界で個人として生きている。だから、まだまだ人生は続き、半分は殺伐とした将来だけど、半分は楽しく生きて行けるということ。万一、友達がいなくたって大丈夫、一人で楽しむコンテンツはいっぱい準備されている。それが僕たち氷河期世代の人生だ。

 僕は今日もありきたりな生活を、ケラケラ笑いながら、しみじみと味わって楽しんでいる。だってこれは、静かな僕の闘いでもあるからである。

とろろ料理と鮎の甘露煮を食べながら東京時代に飲み明かした夜を思い出したこと

 高速に乗って15分も走らせるとかなりの田舎に出られる。地元にUターンして20年近くたつが、地方での暮らしが、最初の頃は「やっぱこんなとこ戻るべきじゃなかった、なんもねぇ~」なんて不満タラタラだったけど、そのうちに慣れ始め、楽しを見つけ出し、幼馴染(おさななじみ)と週末に飲み歩き、彼女を作り、結婚して、すっかりオジサンになり、今や完全に田舎人(いなかびと)に戻っている。こうして地方に住んで一番幸せに感じるのは、ちょっと高速を使って数十分も車を走らせれば、東京暮らしをしていたら年に数回しか見れないような自然いっぱいの景色や、美味しい空気、水、そして料理にすぐ会えることだ。

 今日はやはり高速に乗って数十分走り、ICを下りたところにある芋料理屋へ、久しぶりにとろろ料理を食べに行った。昔からある、昔からよく行く店だ。とろろは必ず白い陶器製のキッチュなボールに入れられ出される。

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ボールの流し口にはちょこんと練りワサビが乗っていて、木製の匙でそれをかき混ぜ、それから麦ごはんの上にトロ~とかけて行く。

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あとは口の中へかき込むだけだ。もちろん絶品!

ちなみに定食になっているので、ほかにも色々と小鉢が付いて来る。お気に入りが二つあって、一つは「あげとろ」もう一つは「ひりょうず」だ。

「あげとろ」はそのまんま、とろろを海苔で挟んで油で揚げた料理で、抹茶塩を付けて食べる。口の中でとろろの風味が広がり、歯ごたえはサクッとしていて、とろろの魅力が全開だ。

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一方、「ひりょうず」は口に入れるとジューシーな野菜のダシ汁が一気に溶け出し、これまた絶品だ。そしてもちろん、甘い根菜の味わいの奥にきちんととろろの風味が、この料理の主人公として主張を譲らない。

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この他にも、「まぐろ山かけ」とか、「とろろ芋おとし汁」とか、本当に贅を尽くしたとろろ料理があるのだが、そんな名、ちょっと異色なのが鮎の甘露煮である。

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こればっかりは「とろろ芋と関係ないじゃん」という一品なのだが、やっぱり他の料理と同様、絶品なのである。とろろだらけでちょっと口直ししたい時に、少しずつこの川魚の甘露煮をかじり、そしてまた、とろろ料理を味わい始める。

 お店のあるあたりは鮎をはじめとする川魚の放流が盛んで、釣り人も多い。かくいう僕も、東京から帰ってきて真っ先にやりたかったことは、夏に麦わら帽子をかぶって竹竿を持って、川へ釣りに行くことだった。川魚は香りがあるので好き嫌いが分かれるけど、僕は大好きだ。こうして甘露煮で食べるのも好きだが、やはり香りを楽しむなら塩焼きがいい。そして実は、子供のころ勝手に「神の魚」と呼んでいたアマゴ(地元ではアメゴという)の塩焼きが一番美味しいと思う。

 だがこのアマゴは、釣るのが物凄く難しい。難しい理由は川魚の中でも飛び切り警戒心が強く、飛び切り頭がいいからだ。

 東京時代にやはり釣り好きだった友人と場末の飲み屋で飲んでいるとき、子供時代にやった釣りの話になった。僕は酔っぱらって気持ちよくなりながら、子供のころ熱中していたアマゴ釣りの話をした。ものすごく用心深い魚だから、いきなり岸辺に立ってこっちの姿を見せたら隠れてエサなんて喰わないこと。そろっと近寄って魚影を確認したら、釣り竿だけをそっと上流のほうに差し出し、そこからエサのついた釣り針を自然に流して行って、向こうからパクッと喰らいつくのを待つこと。もし合わせに失敗して一回でもバラしたら、その場所ではその日は一日、絶対にアマゴは釣れないこと。合わせが上手くいっても、頭がいい魚なので急に泳ぐ向きを変えてトリッキーな動きをし、すぐに針が外れてしまい、簡単には釣り上げさせてくれないこと。そして、苦労して釣り上げた時に目にするその美しい姿は、まさに神の魚のように金色に輝いていること。などを熱っぽく語った。

 東京時代、なかなか忙しくて実家に帰れなかったし、平日はサービス残業まみれのブラックな仕事にどっぷり浸かってクタクタだったから、休みの日にそんなわざわざ釣りをしに郊外へ出かけるだけの気力もなく、そのくせ「あぁ、子供の頃にアマゴ釣りに熱中していたころの夏休みは、趣があってよかったなぁ」なんて思い出して、「ぼくのなつやすみ」というプレステのゲームを部屋でしながら懐かしさにちょっと胸が詰まりそうになったものだ。そんな中での場末の酒場での与太話である。でも本当に、夜になっても全然涼しくならないあのコンクリートジャングルの熱帯夜で安い酒を飲んでいると、ヒグラシの鳴く大自然の夕暮れ時に涼風がそっと肌に触れる感触が、つくづく恋しいなぁと思ったものだ。20年以上前の20代のころである。

 なのでUターンして地元に帰って来た最初の年の夏休みは、麦わら帽子と竹竿とその他一式の釣り道具を買い揃え、僕はこのとろろ料理を食べた店の近くで、アマゴ釣りに興じた。せっかく地方に帰って来たのだ。何にもないが、自然いっぱいの景色や、美味しい空気、水、そして料理にすぐ会える。

 とろろ料理から甘露煮の話になり、そこからだいぶ話が脱線してしまった。ちなみに数十年ぶりに釣ったアマゴは誇張なしで美しく、やはりこれは神の魚だと思った。

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 僕は今でも地方で暮らす楽しさを、しみじみ味わい続けている。

ベティ・ブルーにみる過剰に自由な恋愛は破滅するしかないということ

 大好きな映画は何?と言われれば、いっぱいあり過ぎて悩んでしまうけど、これまで繰り返し何回も見てきた映画は何?と言われれば、ジャン=ジャック・ベネックスの「ベティ・ブルー」を挙げる。要するに好きか嫌いかはともかく、ついつい何度も見てしまう映画なのである。

 初めて見たのは大学生になったばかりの頃だ。実際にこの作品が発表されてから8年くらいたった後だったから、レンタルビデオ屋では既に「昔の名作コーナー」に並び始めた頃だった。因みにベティ・ブルーというのは英題であって、フランス語の原題は「朝、摂氏37.2度」という女性が妊娠しやすい体温とのことで、これだけで相当クセの強い監督が、相当クセの強い役者を使って、相当クセの強いストーリーに仕上げているのが十分想像できると思う。主人公の男前(ゾルグ)を演じたジャン=ユーグ・アングラードは、その後「キリング・ゾーイ」で、汚らしいハイパーダーティな役を演じた稀代のカメレオン役者だ。

 物語は主人公ゾルグがベティという女性に出会い、恋をするという単純な話である。テーマも古典で言うところのボニー・アンド・クライド、90年代のナチュラル・ボーン・キラーズに見られるような、社会的な道徳や法をどんどん逸脱して、追われながら更に激情が増して行くような、そういう激しい恋愛である。ちょっと違うのは、ゾルグもベティも基本的には社会的な道徳や法を破るということはなく、従ってボニーやクライドのように警察に追われることもなく、ただただ、ベティの激しい愛情に振り回されながら、ゾルグが新しい生活へ、新しい生活へと巻き込まれて行く話だ。ベティのゾルグへの思いは、何かに取り憑かれたような、何かから逃げ出すような激しさだったから、やはり、二人は流浪していく生活の中で、つまり、追われるような緊迫感の中で激しく愛し合って行く。

 ゾルグは小説家志望のフラフラ生きていた優男(やさおとこ)だったから、ベティに振り回され放題だった。これがこの物語の肝(きも)だ。家族との結びつきや社会との結びつきがあれば、我々はそうそう振り回される訳にはいかない。サラリーマンをしていたら、どんなに大好きな女性であっても、朝、目覚めたベッドの中で「今日もスーツ着て頭ペコペコ下げに行く気なの?あなたはもっと偉大な人間よ。あなたの上司はもっとあなたに敬意を払うべきなのよ。今日は私があなたと一緒に会社に行って、その馬鹿上司にはっきりと言ってあげるわ。俗物は俗物らしくもっと謙虚にしなさいってね」みたいな感じで言ったら、そりゃ自尊心は満たされ、すごく嬉しい一方、マジごめん、それ本気でやられたら俺、無理だわ、ごめん、さようなら、というのが普通である。我々は家族や社会との結びつきの中でしがらみを抱いて不自由に生き、この不自由さの制約の中で恋愛する。相手に理解を求めるというのは、そういう不自由さ(ごめん、急な出張が入ったから土日に予定していた旅行はキャンセルだ、みたいなこと)に対する許しを請うということである。でもゾルグはそんな制約がなかったから、自由に振り回され続けることが出来た。ベティはゾルグの雇い主を2階から突き落とし、火の灯ったランプをその家主の家に投げ込だ。二人はそのまま走り出す。果てしなく自由な、過剰に自由な大恋愛の始まりだ。

 自由というのは大昔から人間にとって哲学上の主要なテーマの一つで、それだけ人間にとって厄介な代物ということである。エーリヒ・フロムというドイツ人が「自由からの逃走」という題名そのまんまの内容に沿って、自由主義的なワイマール共和国がナチス独裁国家へなぜ変貌して行ったのか、なぜ人間は過剰な自由から逃げ出すのかを書いていたけど、そんな小難しい話は別にしても、あんまり自由過ぎると人間は不安で不安定になり、バランスを崩して過激な方へ走りがちだよね、そして立て直せないとそのまんま身を持ち崩すよね、という普通に年齢を重ねて行くうちにほとんどの人が理解する話のことだ。僕たちはある程度の不自由さの中で、ブチブチと文句言いながら、平凡に生きるのが一番幸せなのである。恋愛もおんなじだ。若くして大成功を収めたIT長者たちの恋愛はだいたい長続きしない。お金が溢れ返っているということは、過剰に自由ということだ。確かにお金がうなるほどあれば、彼女を誕生日にサプライズで自家用ジェットに乗せてどこかへ飛んで行けるかもしれない。機内でシャンパンを空ければ、この世の天国、自分たちが世界の中心であるかのような高揚感の中で、愛し合うことが出来る。が、その彼女とは最後まで添い遂げることが出来ないだろう。ボニーとクライドは銃撃戦の中で激しく恋愛の炎を燃やし尽くし、ゾルグとベティはフランス映画の瑞々しいお洒落な舞台の上で、どこまでも自由に、過剰に自由に愛し合い、走り続けた。そして結果は決まっている。いつまでも二人で仲良く暮らしましたとサ・・・なんてハッピーエンドはあり得ない。過剰に自由な恋愛は必ず破滅するように出来ている。それは人間の性(さが)でもある。

 じゃあなんで何回もこの映画を見るの?というと、典型的なフランス映画でとにかくお洒落なのだ。撮り方も音楽も、登場する人物も、衣装も、家具も小物も、登場人物が食べる料理もそれが載せられている食器も、全てがお洒落全開で、そこで主人公たちによる過剰に自由な恋愛が繰り広げられ、ついつい見入ってしまうのだ。好きとか嫌いとかじゃなく、見入ってしまう。過剰な自由はちょっとゴメンだけど、休日のちょっとした贅沢は、小市民的な自由恋愛としてささやかな楽しみになる。ベティ・ブルーはそのヒントをくれるオシャレ教科書だ。

 だから僕は、ベティ・ブルーを見返すと、時々は奮発して、安月給のサラリーマンには似つかわしくないお洒落な高級レストランで、たまには家人と美味しいご飯を食べてみたくなる。ハメをはずして束の間の過剰な自由を味わいたいのだ。店の雰囲気を楽しみ、食事を楽しむ。そして時々そんなことが出来れば、僕はそれで十分だ。過剰に自由な恋愛は素敵だが、僕の人生にはちっともいらない。

 

博多でラーメンと餃子と水炊きを食い倒れするということ

 勤続年数がある程度長くなると、「家族サービスしてこい」という意味だと思うが、会社から1週間ほど休暇が貰える。なにしろ自分で仕事の都合をつけて時期を決めて休むので、シーズンオフに安い値段で観光地を巡ったりするのにはうってつけの休暇となる。

 数年前、僕はこの休暇を初めて利用し、5泊6日で九州一周旅行をやった。家人に「1週間休みが取れるけど、どこ行きたい?」と聞いたら「美味しいものがたくさん食べたい」という回答だったので、迷わず九州に行くことにした。出張で博多へ行くことがあっても、それ以外はほぼ行ったことないし、遠いからこんな機会がなければ今後もそうそうは行くことはないだろう。九州は何でも美味しいというイメージがあって、僕たちはレンタカーで一周しながら、美味しいものを片っ端から食べる事に決めた。前知識は全く無く、情報は「じゃらん」が全てである。余計な事前調査とか段取りは一切しなかった。宿泊する場所だけ予約しておき、あとはレンタカーでその時の気分にしたがって移動することにした。行き当たりばったりで、まさに旅って感じの旅だ。

 そして博多からスタートである。

 空港に降り立って、博多駅まで電車で移動し、博多駅で速攻で「らーめん二男坊」という店で博多ラーメンを食べた。いきなり美味しい・・・

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 そのあとプラプラ歩きながら腹ごなししようと思ったけど、プラプラの出だしくらいで「テムジン」という店の前で足が止まってしまい、匂いに引き込まれ、そのまま店でひとくち餃子を頬ばった。これまた美味しい・・・

 さすがにお腹がパンパンなので、ちょっとは歩かなきゃと思って、「去年、出張に行った時に先輩に連れて行ってもらった店が美味しくてさ。夜にまた食べに行こうか?本店じゃないけど駅の隣のビルの中にあってさ、下見にでも行く?」ということで「おおやま」という店へ歩いて行った。そうそうここだよ、ここのもつ鍋が絶品で・・・と客が鍋をつついているのを見ているうちに、やっぱり食べたくなって、そのまま店に入り、もつ鍋とおきゅうとを頼んだ。ここのもつは無茶苦茶柔らかく、スープの一滴まであっという間に飲み干してしまう。たまらないくらい美味しい・・・

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 もうお腹いっぱいで動けなくなって、ベンチで休みながら、動けねぇと思いつつ、自分たちは博多駅からこのまま出られないのでは?と思い始めた。それくらい次々と美味しそうな店が目の前に現れるので、歩き出したそばからフラフラ店に入ってしまって、全然、外へ飛び出して行けそうになかった。博多駅恐るべしだ。

 ようやくちょっと動けるようになったころ、駅の外へ出たらすっかり日が落ちて辺りは暗くなっていた。イルミネーションに灯がともり始めている。そうそう、博多と言えば屋台だ。じゃらんには「観光客向けの屋台は値段が非常に高い場合があるので注意」と書いてあったから、今度こそちゃんと腹ごなしするために、歩いて見るだけ、と決めて観光をすることにした。僕たちはタクシーに乗って「屋台を見たいので連れて行って下さい」と言った。親切そうな初老の運転手で、観光客向けの屋台は見栄えはいいが、やはり値段が非常に高くトラブルも多いこと、ちょっと離れたところに地元の人が通う安い屋台があって、味も美味しく、出来ればそちらに行った方がいいこと、などを教えてくれた。僕たちはお礼を言って、見るだけだから大丈夫と伝え、観光客向けの屋台が並ぶ通りの前でタクシーを降りた。あぁ、そうそう、これだ、これがよくテレビで見るやつだ。立ち並ぶ屋台を2往復くらいしながら、僕たちは写真を撮り、ときどき客が食べている料理をのぞき込んだ。さすがにお腹いっぱいだったからそんなに食べたいと思わなかったが、確かにこんなところでお酒を飲みながらパクパク食べたら、いかにも観光をやっている気分になれるんだろな、と思った。

 じゃらんを片手に僕たちは歩いて博多駅へ戻った。博多駅は青いイルミネーションのツリーが立ち並んでいてとてもきれいだった。でも僕たちは花より団子だ。その頃には、僕たちのお腹は、また博多の別のグルメを受け入れる準備がすっかり出来ていた。あたりをキョロキョロ見回す。食い倒れ再開だ。

 そんな感じで食べ歩き続け、夜の11時を回ったころ、そろそろシメを食べようということになった。シメは水炊きに決めていた。「かしわ屋源次郎」というお店だった。鶏料理専門店で、看板メニューとして双璧をなす親子丼も魅力的だったけど、僕たちはやっぱり薄味の水炊きを選んだ。あとで卵を入れて雑炊にするのだ。味付けがサイコー!ダシがサイコー!それ以上言うこと無し。ただただ美味しかった。僕たちはあっという間にたいらげた。

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 博多の人たちの味覚は凄い!だってこんな美味しいものを生み出せるのだから。僕たちは大満足して店を出て、宿泊予約していた駅近くのビジネスホテルへ向かった。明日からはレンタカーに乗って、いよいよ九州一周の旅が始まる。

 治安という意味でも食という意味でも、世界一安全な国にあって、こうして夜中まで美味しいものだらけの街で美味しいものを食べまくってから、ホテルのベッドに倒れ込んで眠る、というのをやったのだから、本当に天国のような楽しさだった。僕たちはキャベジンを飲み、幸福の絶頂でお腹をさすりながら、ぐっすり眠った。やり切った感じだった。

 こうして、九州一周旅行は幸先のいい出だしとなった。旅の初日だったから強烈な印象として残っている。おかげで、いまでも「博多」という地名を聞いただけで、あの食い倒れをやった幸せな1日を思い出し、なんだか自然に唾が出てくる。条件反射というやつだ。全部が美味しかったもんなぁ、博多の街は。

 ちなみに、6日目に九州一周を終えて、またこの博多に戻って来たが、やっぱり最後にもう1回、博多ラーメンを食べて帰ろうということになった。Shin Shinという有名なラーメン屋さんで美味しく頂いた。東京時代には家系のラーメンや二郎に通ってそれなりに味にはうるさいほうだけど、僕はここのラーメンが今まで生きて来て一番美味しかった。最後にそれくらいの味に出会った。

 博多、恐るべしだ。

芸術を味わうということ

 「芸術」というと何だか高尚なイメージで、芸術を鑑賞しに行った、なんて口にしてしまうと、ちょっと意識高い系の連中と一括りにされそうで、凡人としてはついつい怖気づいてしまうのだが、美術館へ行って作品を見たり、お気に入りの作家の個展へ出かけることだけが、本当に芸術を鑑賞することになるのだろうか?と考えてしまう。だいたい「芸術を鑑賞する」というのはステレオタイプの表現で、意味が限定されてしまうような気がして、どっちかというと「ゲイジュツを味わう」くらいの表現の方が僕はシックリくるなぁなんて思うのだ。もちろん美術館や個展に足を運ぶことも素敵な時間を味わういい機会になる。でも、もっと身近で、朝起きて、歯を磨いて、なんてフツーの日常生活の中から、ふと立ち止まる瞬間として、「ゲイジュツを味わう」があれば、それが一番自然だなぁと思う。

 山崎正和という人は著書の中で「芸術」をよく扱って議論していたが、高校生の僕は彼の評論を読み漁っているうちにすっかり影響されてしまって、しかも10代の頃に影響を受けた考え方は結構そのまま大人になっても考え方の原型を成している場合があり、従って僕の「ゲイジュツ」に対する考え方は、今思うとほぼほぼ山崎正和という天才の受け売りだ。今も書斎の本棚の奥に彼の書籍は大事にしまってあるけど、その中の「人生としての藝術」という評論の中で、「人生のための藝術」か「藝術のための藝術」かという数百年前から繰り返されて来た議論を取り上げ、最終的に、どっちでもなく、芸術とは人生の営みの一つであって「人生そのものとしての藝術」が正解、と彼は書いていた。

 高校生だった僕は、ははぁん、なるほどね、と思ったものだ。確かに、個人の人生や個人の集団である社会のために役立ってこそ芸術だ、なんて考え方は、一見もっともらしい。世界でまだまだ大勢の子供たちが飢えている中で、自分の芸術がなんの意味があるのか?なんと芸術は無力なのか?なんて考え方は、すごくヒロイックでヒューマニズムに基づいた考え方に聞こえる。でも、ちょっと芸術を一種の道具にしているみたいで、それが仮に個人の幸福や世の中や利益のために役立つものであっても、やっぱり家電じゃないんだし、役立つというニュアンスが少しでも入ってくると実用的で萎えるよなぁ、なんて思った。だから「人生のための藝術」は全然、腹落ちしなかった。

 一方、いわば芸術至上主義みないな人たち、芸術は人生の幸福とか社会的な利益とかそんな世俗的な低次元のものとは関係なく、世界の最上位を占める最高の価値に関わるものなんだ、そしてオレたちは芸術至上主義者としてこの最高価値に命を捧げるんだ、なんて鼻息荒い野心満々の芸術家たちにも、いやぁな印象しかなくて、「藝術のための藝術」は胡散臭さしか感じなかった。

 だから、「人生のための藝術」でもなく「藝術のための藝術」でもなく、「人生そのものとしての藝術」というのが、「藝術」って難しい漢字を使ってるなって思いながらも、なるほど、生きるってことそのものが一種の悲劇や喜劇で、だから文学に僕たちは魅了され続けるんだよな、平凡でちっちゃな人間の平凡でちっちゃな生活の中に、あぁ奇麗だなぁとか、あぁ趣があるなぁとか、あぁ哀しいなぁとか、しみじみ感じるものがあるればそれがゲイジュツなんだよなと、しっかり腹落ちが出来た。そして今も、ゲイジュツに対する考え方はそこから変わっていない。

 家族の健康を祈って買ってきた動物の置物とか、当時はCADなんてなくて手で図面を描いたであろう大昔のの古いカメラなどの工業製品とか、このあいだニトリで買ってきた普通のシャンプーボトルの優しいフォルムとか、普段の日常生活の中で、なんとなくそれらを眺めて立ち止まりぼんやり物思いに耽る瞬間など、一種の芸術を味わっている時間なんだと思っている。芸術は人生の向こう側にあって役に立ったり、人生とは別の場所で光を放つものではなく、この生きて行く一つ一つの行為の中に、しみじみ味わうものとして立ち現れるものなのだ。だから、凡人は怖気づく必要などなく、目に映るものや風景を大切に、じっくり生きて行けばそれでよい。僕たちは高尚ぶったり、おしゃれな自分を演出する必要はなく、フツーに平凡に生きて行けばそれでいいのである。だってそれがまさに、芸術を味わうことだからである。

ミラン・クンデラの恋愛小説を通して愛を考えるということ

 いろんな作家に影響を受け、いわゆるハマって来たけど、学生時代に大好きだったのはミラン・クンデラドストエフスキーだった。ドストエフスキーは卒論のテーマにした。ミラン・クンデラは卒業してからも繰り返し読み、まだ読んでいるから、よっぽど好きなんだろう。思想として読むことも評論として読むことも出来るその作品は、でもやっぱり瑞々しい文体とおしゃれなストーリー展開で、芸術文学としての意味合いが僕にとっては強い。ハードカバーの背表紙のイラストがどの作品もこれまたおしゃれで、本棚に並ぶそれらの本は何だか画集みたいだ。

 初めてミラン・クンデラの作品で読んだのは「存在の耐えられない軽さ」だった。映画化されたからすごく有名だし、ベタといえばベタだけど、僕もこの作品から始まってそのあとどっぷり彼の世界に浸かった。

 7部に分かれるこの物語は冷戦時代のプラハを舞台に繰り広げられる恋愛ストーリーだが、哲学的思考を行ったり来たりしながら、複数の魅力的な登場人物がそれぞれの信条に従って相手を愛し、相手を捨てる。第Ⅲ部の「理解されなかったことば」はこのそれぞれの信条の違いから生じる言葉が持つ意味の違いやズレを、小辞典形式で説明して行く。いきなり小辞典形式で、それぞれの登場人物にとって「音楽」「女」「墓地」「力」といった言葉がどういう意味を持つのか、何が致命的に違うのか、解き明かして行く。ミラン・クンデラの小説はいつも形式にとらわれず自由に活き活きと話が広がって行き、しかも文体は常に瑞々しい。二十歳前後の僕はすっかり虜になってしまった。

 いろいろとその魅力をテーマを挙げながら紹介して行くと、本当に無尽蔵でキリがないのだけど、この作品で僕が一番そのあとの人生でも影響を受けたのは、カレーニンという主人公夫婦が飼っていた犬が最後を迎えるシーンで、人間の愛と犬の愛を比較している場面である。愛するという行為を、人間は犬のように輪のように繰り返して行くことが出来ない。人間は時間を一方向に決められた直線として生きているので、愛するという行為も同じような情熱で繰り返すことなど出来ず、一方向へ向かって走り続けて行くうちに、あんなに新鮮で魅力的だった仕草も、あんなに大切に思えた寝顔も、いずれ色あせ心の外へ徐々に追いやられて行く。魂は別の新しい刺激を必要とする。一方、犬の愛は輪のように繰り返し変わることはない。すっかり年を取ってくたびれ、家族からも軽んじられるようになってしまったお父ちゃんが家に帰って来れば、玄関で愛犬は変わらない愛情で尻尾を振り、全力で喜びを表現して出迎えてくれる。これはその愛犬が最後を迎えるまで続けられる。一方で人間の愛は、同じ熱量で繰り返されることはなく、脳みその構造上それは不可能で、従い人間は愛に関しては幸福になれない。

 学生だった僕は当時、人間機械論の魅力に取りつかれ、文系のくせに脳科学の最新知識とかが素人に分かりやすく書かれている書籍を読み漁っていた。なんだ、哲学だ心理学だ愛情だ宗教だとか言ったって、結局、人間の人生も価値も全て、脳みその刺激に対する反応が生み出だしたものでしかないじゃん、なんてちょっと世の中や人間を分かったような気になって、今思うと、いかにも若造(わかぞう)が陥りがちな勘違いだけど、とにかく「どんなにいいと思っても、感動しても、美しいと思っても、好きだと思っても、繰り返すと飽きるよね。残念だよね。古いものは捨て、また新しい刺激を求めて繰り返すんだから、人間が生きるって、しょうもない化学反応の積み重ねでしかないよね」みたいな事をまくしたてていた。しょうもない若造である。

 その後、長々と生きているうちに、経験を積み、父親の死もあり、自分の肉体的な劣化や気持ちの老いもあり、自分自身の価値観の緩やかな変化を受け入れ、世の中にカレーニンがいることも知った。そして自身もカレーニンになれることを知った。簡単な話だ。愛することは、愛する側の自分自身が変化して行くことで、新しい意味を持ち、それを続けて行けるという自然の摂理を、これも脳みその化学反応の一つとして受け入れたのである。だから僕たちは、大切な人を、若かったころに愛したやり方とは別のやり方と感じ方で、愛し続けることができる。朝、目が覚めて、小皺の増えた寝顔を撫でながら、おでこにチュッとする時の感情は、肉体が若かったころの自分の激しい欲動とは全く無縁だけど、確かな気持ちとして自分で感じ取れる。相手は自分にとって本当に大切な人なのだ。カレーニンのように、輪のように、人は人を愛することが出来る。

 これは愛に関するこの小説のテーマの一つだ。こういう類のアイデアや人生のヒントや面白さの味わいが、この小説にはいっぱい詰まっていて、僕はボロボロになった背表紙を裏側からセロテープで補強しながら、いまだに旅行先なんかに持って行って、繰り返し読んでいる。年をとって読み返すことで、新しい発見や感動がまだいくらでも出てくるのが名著であり、自分の人生に影響を与えた小説だ。

 これだから読書はやめられない。

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