失われた世界を探して

ロストジェネレーションのしみじみ生活

博多でラーメンと餃子と水炊きを食い倒れするということ

 勤続年数がある程度長くなると、「家族サービスしてこい」という意味だと思うが、会社から1週間ほど休暇が貰える。なにしろ自分で仕事の都合をつけて時期を決めて休むので、シーズンオフに安い値段で観光地を巡ったりするのにはうってつけの休暇となる。

 数年前、僕はこの休暇を初めて利用し、5泊6日で九州一周旅行をやった。家人に「1週間休みが取れるけど、どこ行きたい?」と聞いたら「美味しいものがたくさん食べたい」という回答だったので、迷わず九州に行くことにした。出張で博多へ行くことがあっても、それ以外はほぼ行ったことないし、遠いからこんな機会がなければ今後もそうそうは行くことはないだろう。九州は何でも美味しいというイメージがあって、僕たちはレンタカーで一周しながら、美味しいものを片っ端から食べる事に決めた。前知識は全く無く、情報は「じゃらん」が全てである。余計な事前調査とか段取りは一切しなかった。宿泊する場所だけ予約しておき、あとはレンタカーでその時の気分にしたがって移動することにした。行き当たりばったりで、まさに旅って感じの旅だ。

 そして博多からスタートである。

 空港に降り立って、博多駅まで電車で移動し、博多駅で速攻で「らーめん二男坊」という店で博多ラーメンを食べた。いきなり美味しい・・・

f:id:tukutukuseijin:20210831215013j:plain

 そのあとプラプラ歩きながら腹ごなししようと思ったけど、プラプラの出だしくらいで「テムジン」という店の前で足が止まってしまい、匂いに引き込まれ、そのまま店でひとくち餃子を頬ばった。これまた美味しい・・・

 さすがにお腹がパンパンなので、ちょっとは歩かなきゃと思って、「去年、出張に行った時に先輩に連れて行ってもらった店が美味しくてさ。夜にまた食べに行こうか?本店じゃないけど駅の隣のビルの中にあってさ、下見にでも行く?」ということで「おおやま」という店へ歩いて行った。そうそうここだよ、ここのもつ鍋が絶品で・・・と客が鍋をつついているのを見ているうちに、やっぱり食べたくなって、そのまま店に入り、もつ鍋とおきゅうとを頼んだ。ここのもつは無茶苦茶柔らかく、スープの一滴まであっという間に飲み干してしまう。たまらないくらい美味しい・・・

f:id:tukutukuseijin:20210831215101j:plain

 もうお腹いっぱいで動けなくなって、ベンチで休みながら、動けねぇと思いつつ、自分たちは博多駅からこのまま出られないのでは?と思い始めた。それくらい次々と美味しそうな店が目の前に現れるので、歩き出したそばからフラフラ店に入ってしまって、全然、外へ飛び出して行けそうになかった。博多駅恐るべしだ。

 ようやくちょっと動けるようになったころ、駅の外へ出たらすっかり日が落ちて辺りは暗くなっていた。イルミネーションに灯がともり始めている。そうそう、博多と言えば屋台だ。じゃらんには「観光客向けの屋台は値段が非常に高い場合があるので注意」と書いてあったから、今度こそちゃんと腹ごなしするために、歩いて見るだけ、と決めて観光をすることにした。僕たちはタクシーに乗って「屋台を見たいので連れて行って下さい」と言った。親切そうな初老の運転手で、観光客向けの屋台は見栄えはいいが、やはり値段が非常に高くトラブルも多いこと、ちょっと離れたところに地元の人が通う安い屋台があって、味も美味しく、出来ればそちらに行った方がいいこと、などを教えてくれた。僕たちはお礼を言って、見るだけだから大丈夫と伝え、観光客向けの屋台が並ぶ通りの前でタクシーを降りた。あぁ、そうそう、これだ、これがよくテレビで見るやつだ。立ち並ぶ屋台を2往復くらいしながら、僕たちは写真を撮り、ときどき客が食べている料理をのぞき込んだ。さすがにお腹いっぱいだったからそんなに食べたいと思わなかったが、確かにこんなところでお酒を飲みながらパクパク食べたら、いかにも観光をやっている気分になれるんだろな、と思った。

 じゃらんを片手に僕たちは歩いて博多駅へ戻った。博多駅は青いイルミネーションのツリーが立ち並んでいてとてもきれいだった。でも僕たちは花より団子だ。その頃には、僕たちのお腹は、また博多の別のグルメを受け入れる準備がすっかり出来ていた。あたりをキョロキョロ見回す。食い倒れ再開だ。

 そんな感じで食べ歩き続け、夜の11時を回ったころ、そろそろシメを食べようということになった。シメは水炊きに決めていた。「かしわ屋源次郎」というお店だった。鶏料理専門店で、看板メニューとして双璧をなす親子丼も魅力的だったけど、僕たちはやっぱり薄味の水炊きを選んだ。あとで卵を入れて雑炊にするのだ。味付けがサイコー!ダシがサイコー!それ以上言うこと無し。ただただ美味しかった。僕たちはあっという間にたいらげた。

f:id:tukutukuseijin:20210831221253j:plain

 博多の人たちの味覚は凄い!だってこんな美味しいものを生み出せるのだから。僕たちは大満足して店を出て、宿泊予約していた駅近くのビジネスホテルへ向かった。明日からはレンタカーに乗って、いよいよ九州一周の旅が始まる。

 治安という意味でも食という意味でも、世界一安全な国にあって、こうして夜中まで美味しいものだらけの街で美味しいものを食べまくってから、ホテルのベッドに倒れ込んで眠る、というのをやったのだから、本当に天国のような楽しさだった。僕たちはキャベジンを飲み、幸福の絶頂でお腹をさすりながら、ぐっすり眠った。やり切った感じだった。

 こうして、九州一周旅行は幸先のいい出だしとなった。旅の初日だったから強烈な印象として残っている。おかげで、いまでも「博多」という地名を聞いただけで、あの食い倒れをやった幸せな1日を思い出し、なんだか自然に唾が出てくる。条件反射というやつだ。全部が美味しかったもんなぁ、博多の街は。

 ちなみに、6日目に九州一周を終えて、またこの博多に戻って来たが、やっぱり最後にもう1回、博多ラーメンを食べて帰ろうということになった。Shin Shinという有名なラーメン屋さんで美味しく頂いた。東京時代には家系のラーメンや二郎に通ってそれなりに味にはうるさいほうだけど、僕はここのラーメンが今まで生きて来て一番美味しかった。最後にそれくらいの味に出会った。

 博多、恐るべしだ。

芸術を味わうということ

 「芸術」というと何だか高尚なイメージで、芸術を鑑賞しに行った、なんて口にしてしまうと、ちょっと意識高い系の連中と一括りにされそうで、凡人としてはついつい怖気づいてしまうのだが、美術館へ行って作品を見たり、お気に入りの作家の個展へ出かけることだけが、本当に芸術を鑑賞することになるのだろうか?と考えてしまう。だいたい「芸術を鑑賞する」というのはステレオタイプの表現で、意味が限定されてしまうような気がして、どっちかというと「ゲイジュツを味わう」くらいの表現の方が僕はシックリくるなぁなんて思うのだ。もちろん美術館や個展に足を運ぶことも素敵な時間を味わういい機会になる。でも、もっと身近で、朝起きて、歯を磨いて、なんてフツーの日常生活の中から、ふと立ち止まる瞬間として、「ゲイジュツを味わう」があれば、それが一番自然だなぁと思う。

 山崎正和という人は著書の中で「芸術」をよく扱って議論していたが、高校生の僕は彼の評論を読み漁っているうちにすっかり影響されてしまって、しかも10代の頃に影響を受けた考え方は結構そのまま大人になっても考え方の原型を成している場合があり、従って僕の「ゲイジュツ」に対する考え方は、今思うとほぼほぼ山崎正和という天才の受け売りだ。今も書斎の本棚の奥に彼の書籍は大事にしまってあるけど、その中の「人生としての藝術」という評論の中で、「人生のための藝術」か「藝術のための藝術」かという数百年前から繰り返されて来た議論を取り上げ、最終的に、どっちでもなく、芸術とは人生の営みの一つであって「人生そのものとしての藝術」が正解、と彼は書いていた。

 高校生だった僕は、ははぁん、なるほどね、と思ったものだ。確かに、個人の人生や個人の集団である社会のために役立ってこそ芸術だ、なんて考え方は、一見もっともらしい。世界でまだまだ大勢の子供たちが飢えている中で、自分の芸術がなんの意味があるのか?なんと芸術は無力なのか?なんて考え方は、すごくヒロイックでヒューマニズムに基づいた考え方に聞こえる。でも、ちょっと芸術を一種の道具にしているみたいで、それが仮に個人の幸福や世の中や利益のために役立つものであっても、やっぱり家電じゃないんだし、役立つというニュアンスが少しでも入ってくると実用的で萎えるよなぁ、なんて思った。だから「人生のための藝術」は全然、腹落ちしなかった。

 一方、いわば芸術至上主義みないな人たち、芸術は人生の幸福とか社会的な利益とかそんな世俗的な低次元のものとは関係なく、世界の最上位を占める最高の価値に関わるものなんだ、そしてオレたちは芸術至上主義者としてこの最高価値に命を捧げるんだ、なんて鼻息荒い野心満々の芸術家たちにも、いやぁな印象しかなくて、「藝術のための藝術」は胡散臭さしか感じなかった。

 だから、「人生のための藝術」でもなく「藝術のための藝術」でもなく、「人生そのものとしての藝術」というのが、「藝術」って難しい漢字を使ってるなって思いながらも、なるほど、生きるってことそのものが一種の悲劇や喜劇で、だから文学に僕たちは魅了され続けるんだよな、平凡でちっちゃな人間の平凡でちっちゃな生活の中に、あぁ奇麗だなぁとか、あぁ趣があるなぁとか、あぁ哀しいなぁとか、しみじみ感じるものがあるればそれがゲイジュツなんだよなと、しっかり腹落ちが出来た。そして今も、ゲイジュツに対する考え方はそこから変わっていない。

 家族の健康を祈って買ってきた動物の置物とか、当時はCADなんてなくて手で図面を描いたであろう大昔のの古いカメラなどの工業製品とか、このあいだニトリで買ってきた普通のシャンプーボトルの優しいフォルムとか、普段の日常生活の中で、なんとなくそれらを眺めて立ち止まりぼんやり物思いに耽る瞬間など、一種の芸術を味わっている時間なんだと思っている。芸術は人生の向こう側にあって役に立ったり、人生とは別の場所で光を放つものではなく、この生きて行く一つ一つの行為の中に、しみじみ味わうものとして立ち現れるものなのだ。だから、凡人は怖気づく必要などなく、目に映るものや風景を大切に、じっくり生きて行けばそれでよい。僕たちは高尚ぶったり、おしゃれな自分を演出する必要はなく、フツーに平凡に生きて行けばそれでいいのである。だってそれがまさに、芸術を味わうことだからである。

ミラン・クンデラの恋愛小説を通して愛を考えるということ

 いろんな作家に影響を受け、いわゆるハマって来たけど、学生時代に大好きだったのはミラン・クンデラドストエフスキーだった。ドストエフスキーは卒論のテーマにした。ミラン・クンデラは卒業してからも繰り返し読み、まだ読んでいるから、よっぽど好きなんだろう。思想として読むことも評論として読むことも出来るその作品は、でもやっぱり瑞々しい文体とおしゃれなストーリー展開で、芸術文学としての意味合いが僕にとっては強い。ハードカバーの背表紙のイラストがどの作品もこれまたおしゃれで、本棚に並ぶそれらの本は何だか画集みたいだ。

 初めてミラン・クンデラの作品で読んだのは「存在の耐えられない軽さ」だった。映画化されたからすごく有名だし、ベタといえばベタだけど、僕もこの作品から始まってそのあとどっぷり彼の世界に浸かった。

 7部に分かれるこの物語は冷戦時代のプラハを舞台に繰り広げられる恋愛ストーリーだが、哲学的思考を行ったり来たりしながら、複数の魅力的な登場人物がそれぞれの信条に従って相手を愛し、相手を捨てる。第Ⅲ部の「理解されなかったことば」はこのそれぞれの信条の違いから生じる言葉が持つ意味の違いやズレを、小辞典形式で説明して行く。いきなり小辞典形式で、それぞれの登場人物にとって「音楽」「女」「墓地」「力」といった言葉がどういう意味を持つのか、何が致命的に違うのか、解き明かして行く。ミラン・クンデラの小説はいつも形式にとらわれず自由に活き活きと話が広がって行き、しかも文体は常に瑞々しい。二十歳前後の僕はすっかり虜になってしまった。

 いろいろとその魅力をテーマを挙げながら紹介して行くと、本当に無尽蔵でキリがないのだけど、この作品で僕が一番そのあとの人生でも影響を受けたのは、カレーニンという主人公夫婦が飼っていた犬が最後を迎えるシーンで、人間の愛と犬の愛を比較している場面である。愛するという行為を、人間は犬のように輪のように繰り返して行くことが出来ない。人間は時間を一方向に決められた直線として生きているので、愛するという行為も同じような情熱で繰り返すことなど出来ず、一方向へ向かって走り続けて行くうちに、あんなに新鮮で魅力的だった仕草も、あんなに大切に思えた寝顔も、いずれ色あせ心の外へ徐々に追いやられて行く。魂は別の新しい刺激を必要とする。一方、犬の愛は輪のように繰り返し変わることはない。すっかり年を取ってくたびれ、家族からも軽んじられるようになってしまったお父ちゃんが家に帰って来れば、玄関で愛犬は変わらない愛情で尻尾を振り、全力で喜びを表現して出迎えてくれる。これはその愛犬が最後を迎えるまで続けられる。一方で人間の愛は、同じ熱量で繰り返されることはなく、脳みその構造上それは不可能で、従い人間は愛に関しては幸福になれない。

 学生だった僕は当時、人間機械論の魅力に取りつかれ、文系のくせに脳科学の最新知識とかが素人に分かりやすく書かれている書籍を読み漁っていた。なんだ、哲学だ心理学だ愛情だ宗教だとか言ったって、結局、人間の人生も価値も全て、脳みその刺激に対する反応が生み出だしたものでしかないじゃん、なんてちょっと世の中や人間を分かったような気になって、今思うと、いかにも若造(わかぞう)が陥りがちな勘違いだけど、とにかく「どんなにいいと思っても、感動しても、美しいと思っても、好きだと思っても、繰り返すと飽きるよね。残念だよね。古いものは捨て、また新しい刺激を求めて繰り返すんだから、人間が生きるって、しょうもない化学反応の積み重ねでしかないよね」みたいな事をまくしたてていた。しょうもない若造である。

 その後、長々と生きているうちに、経験を積み、父親の死もあり、自分の肉体的な劣化や気持ちの老いもあり、自分自身の価値観の緩やかな変化を受け入れ、世の中にカレーニンがいることも知った。そして自身もカレーニンになれることを知った。簡単な話だ。愛することは、愛する側の自分自身が変化して行くことで、新しい意味を持ち、それを続けて行けるという自然の摂理を、これも脳みその化学反応の一つとして受け入れたのである。だから僕たちは、大切な人を、若かったころに愛したやり方とは別のやり方と感じ方で、愛し続けることができる。朝、目が覚めて、小皺の増えた寝顔を撫でながら、おでこにチュッとする時の感情は、肉体が若かったころの自分の激しい欲動とは全く無縁だけど、確かな気持ちとして自分で感じ取れる。相手は自分にとって本当に大切な人なのだ。カレーニンのように、輪のように、人は人を愛することが出来る。

 これは愛に関するこの小説のテーマの一つだ。こういう類のアイデアや人生のヒントや面白さの味わいが、この小説にはいっぱい詰まっていて、僕はボロボロになった背表紙を裏側からセロテープで補強しながら、いまだに旅行先なんかに持って行って、繰り返し読んでいる。年をとって読み返すことで、新しい発見や感動がまだいくらでも出てくるのが名著であり、自分の人生に影響を与えた小説だ。

 これだから読書はやめられない。

海外赴任がいきなり決まってから中国語で料理を頼めるようになるまでのこと

 いきなり中国の田舎へ赴任が決まって、行ってみたらどこにも日系企業はなく、従って日本人もおらず、日本語はもちろん英語すら伝わらない。だいたいそこに住んでいる人たちは外国人をほとんんど見たことがないし、僕を見て日本人を生で見るのが初めての人もいるようなところで、これはエライところに来てしまったと思った。

 勤めているところが海外生産比率が95%のメーカーなんだから英語くらいは勉強し直すか、と考え、休日にちまちまとTOEICの勉強を始めるもあんまりやる気も起こらず、まぁ英語なんて簡単なコトバだから、いざ行かなきゃならんとなれば、何とか現地で使っているうちに慣れるかなと思いつつ、でも実際に赴任が決まったら慌てないで済むように、日常会話の学習も織り交ぜながら、少しずつ受験英語のレベルを戻していた。

 そして赴任が決まったのは中国の山奥である。想定外だ。上海から1時間半くらいフライトして降り立った空港は、日本の田舎のJRの駅みたいな小さなターミナルだった。スーツケースがなかなか出てこないので英語で「自分のスーツケースが出てこない」と空港の職員に話しかけたら、「はぁ?」みたいな感じで聞き返された。空港の職員でさえ英語が通じるかどうか怪しそうだった。迎えに来てくれた運転手(もちろん地元の人)は、僕の顔をみると笑顔で中国語で挨拶し、車に乗り込んでからもずっと中国語を話し続けた。こっちが理解しているかどうかはそんなに関係ない。中国語でずっと何かを喋っていた。そのあとよく分かったことだが、ずっとその地域で生きてきた人たちにとっては、中国語以外の言葉が存在することさえ特に意味をなさず、もし中国語が分からないなら、それは目が見えなかったり耳が聞こえなかったりするみたいに「かわいそうに」くらいの感覚でいるみたいだった。ある意味、堂々とした中華思想だ。

 仕事では日本語を喋れる部下を1名つけてもらったが、会社を一歩出れば中国語以外は全く通用しない世界である。休日にホテル(会社が部屋を貸し切ってくれていた)の部屋を出ると、そこからは全てが中国語で動いている。雑貨屋でミネラルウォーターを買う時も、クリーニング店でスラックスをクリーニングに出す時も、全てが中国語しか通用しない世界で、僕は音声機能つきのEx-wordを片手に「これを下さい」「いつ受け取りに来ればいいですか?」なんてやり取りしていた。まだスマホが世界中に流布する直前の話である。Ex-wordは勉強に使用するにはよかったけど、持ち歩いて通訳機として使うには重く不便だったし、不完全なコミュニケーションしか図れなかった。クリーニングに出したスーツはドライクリーニングされず、まさかの水洗いをされてしまって、すっかり色あせカウンターの向こうから出てきた。そんな言葉が通用しないことから生じる失敗は、日常茶飯事だった。

 そして食事である。ローカルの料理店はたくさんあるのだが、メニューはもちろん全てが中国語である。まず席に座ったとたん、店員が外国人である僕の姿を見ると、物珍しそうに集まってきて数人で取り囲む。今はどうか分からないけど、一昔前の中国の田舎の店は、料理店だろうとスーパーだろうと、やたら店員の数が多く、大半は暇そうに突っ立っているが、何か買おうとするといっせいに取り囲まれ、あれだこれだと中国語でまくし立てられた。本当はまくし立ててなどいないけど、中国語が分かるようになるまでは、まくし立てているようにしか聞こえなかった。メニューを渡され年配の女性店員たちに囲まれ中国語でまくし立てられながら、僕は料理の写真の一つを指し示して「これにして!」と日本語で大声で言い返した。ホテルの部屋を出る前は「ジェイガ(これ)」みたいな中国語を覚えて料理店で使ってやろうと決めていたのに、実際にオーダーする時には、そんな風に囲まれてまくし立てられ、焦ってジェスチャーと日本語で乗り切るという、残念な結果に終わった。頼んだチャーハンをスプーンで口に運びながら、俺はここで生きていけるのかな?なんてちょっと心配になって来たのを覚えている。

 なので、コツコツ勉強するしかないと考え、毎朝、ホテルの部屋を出る前の1時間を中国語の勉強に充て、覚えた言葉をその日の生活の中で実際に使ってみる、というのを始めることにした。実際に中国語を勉強したことのある方はご存知だと思うが、中国語は発音だけでなく、四声と呼ばれる音の高低と長短の組み合わせも正確でなければ全然通じない。例えば「猫」も「毛」も「mao」と読むが、「マオ」というのを声のトーンを高く平らに発音させれば「猫」になり、上昇させながら発音させれば「毛」になるので、トーンを間違うだけで全く意味の違う言葉になる。「時間」も「事件」もスペルは「shi jian」なので「シージェン」と口にすればいいが、この声のトーンの違いが当然あり、間違うと全然意味が変わるので通じない。文法が物凄く単純で、そもそも漢字なので日本人には馴染みがあるが、いざ実用で会話しようとすると付け焼刃では全く歯が立たないのが中国語なのだ。

 なので、この声のトーンも含めた正確な発音が出来るようになるまでは、勉強していても何度も挫折しそうになった。だって、部屋であんなに練習したのに、昼間、実際に試しに使ってみたら、「はぁ?」とその場で聞き返されるのだ。英語であれば少々発音が悪くても全然コミュニケーションが図れる。中国語はなんて難しい言葉なんだと、しみじみ感じ、本当にこんなコトバ、使えるようになるんだろうか?と途方に暮れることが多かった。

 朝、目が覚めると歯を磨き、コーヒーを飲みながら教科書を開く。教科書は日本から持って行ったやつだ。まずCDを聞きながら何度も母音と子音の発音練習をし、そのあと「今日こそ一発で聞き取ってもらうゾ」というセンテンスや短文をノートに何度も書き出しながら、口で発音し暗記する。「その資料をメールで私に送って下さい」とかそういった類の仕事で使う簡単な文章だ。そのあとホテルの食堂で暖めた豆乳とお粥を食べて、迎えに来た社用車に乗り込む。会社では通訳以外のナショナルスタッフはことごとく中国語しか喋れないから、朝おぼえた単語を実践で使う機会はいくらでもある。で、いよいよその瞬間が来て部下に話しかけてみて、「はぁ?」で返され、ガックリ落ち込む。そんなことを繰り返していた。

 上海みたいな都会だったら、地元の人たちも外国人が喋るヘタクソな中国語に聞き慣れているから、ある程度は聞き取ってくれる。そういういう意味で、僕が赴任した場所は、本当に正確な発音をしないと「はぁ?」を食らうハードルの高い場所だった。何度も折れそうになりながら、それでも僕は毎朝、必ず1時間は中国語の勉強に充て、粘り続けた。

 そして3か月くらいたったある日、突然、自分の喋る中国語が一発で伝わり始めた。会社のスタッフの場合、逆に僕のヘタクソな中国語に聞き慣れ始めたのでは?という疑いがあったが、町で地元の店員相手に話し掛けた時に、「はぁ?」を食らう回数が減り始めた。上達したのは間違いなさそうだった。僕はやっと努力が報われたことに気づき、すごく嬉しかった。折れずに発音の基礎を毎日やり続けてよかったと改めて思った。

 その後、料理店で地元の料理を頼めるようになった僕は、味付けや調理方法の指定まで出来るようになった。「鷹の爪は少なめであんまり辛くしないでね。それからニンニクは細かくみじん切りにしてから一緒に炒めて」みたいな感じで、日本人の口に合いやすいように調理方法を指定して注文し、出張支援に来てくれた日本人の同僚をもてなせるようにもなった。

 これも有名な話だが、中国人にとって食べるということや料理の味というものは、人生の本当に重要な地位を占めている。彼らにとって食べるという行為は、よりよく生きる為の重要なファクターなのだ。なので、たとえば出張支援者の日本人が「昼飯は食べないですから準備は結構です。眠くなって集中力が無くなるのが嫌なので」と言った日には、信じられないという顔をし、「ご飯を抜くなんて、アナタは何の為に生きているのですか?」とあるスタッフは真顔で言っていた。そして同じことだが、「食」は人間関係上のつながり方にも大きく影響をしている。

 上海へ出張に行ったとき、事前交渉がなかなかまとまらず、どうしても先方の中国人の購買部長がYESと言わなかった。まず僕に会おうともしなかった。僕は1日滞在を延長し、翌日またオフィスへ行って打ち合わせを申込んだ。やはり会わないという。僕は粘った。「〇〇という田舎に駐在していて、私はそこから1時間半を飛行機に乗って今回、上海に来ているんです。せめて少しだけでもお話させて頂けないですか?」

 果たして「昼ご飯に外に出るので、そこで食べながら話すならいい」という回答を受付からもらった。僕はお礼を言って外へ出てしばらくブラブラして時間を潰し、昼前にもう一度オフィスの受付に戻った。出てきた部長は眼光の鋭い、いかにも叩き上げという感じの僕より10歳くらい年上の中国人だった。そして日本語がペラペラだ。

 その部長と一緒に食べた四川料理は美味しかった。僕は仕事の話をせず、出てきた料理の味の話などをしていた。そしてまだ全然ヘタだけど、あんなクソ田舎で生きて行くにはどうしても必要なので一生懸命に中国語を勉強していること、少しずつ伝わるようになって本当に嬉しかったこと、確かにクソ田舎だけど、あそこの地元の料理は野菜が新鮮でとても美味しく、今の季節は苦瓜炒肉(ゴーヤと豚肉の炒め物)が飛び切り美味しく、ビールに合うので大好きなこと。みな田舎の人間ばかりで人柄が素朴で真面目な人たちが多いこと。でも町の病院の水準があまりに低くて、肺炎で死にそうになったこと。

 黙って僕の話を聞いていた部長は、実はそのクソ田舎が自分の故郷であることを僕に言った。なんだ、そういうことか。ありゃりゃと思ったけど、もう遅い。そんな悪くは言ったつもりはないけど、クソ田舎という表現はマズかったかな、なんて思った。

「最近はあまり帰れていないが、あなたの話を聞いて、地元の苦瓜炒肉をまた食べたいと思いました。上海のような都会では確かにあんな新鮮な野菜はなかなか食べられない。ともかくあなたは頑張って中国語の勉強を続けて下さい」

 そのあと四川料理店からオフィスに同行し、打ち合わせをさせてもらった。日本の大学を卒業しているその部長は、完璧な日本語を操るタフネゴシエーターだった。僕はあきらめずに交渉し続けた。

 その日の夕方のフライトでクソ田舎へ戻る飛行機の中で、今回は運がよかったなと思いつつ、料理でつながる人間関係がこの国を動かしているってのは、ホントかもなんて考えていた。出てきた機内食をモグモグ食べながら、ところでこのよく分からん料理はなんて名前なんだろと、小さくなっていく上海の夜景を目にしながら、僕はぼんやり考えていた。

夢のマイホームを高品質にして低価格で建てるということ

 人生の一大事の一つがマイホームを建てることだ、マイホームは会社員の夢だと、上の世代からは聞いていた。でも一方で、そのうち南海トラフがやって来るし、この国はどんどん人口が減って空き家だらけになるのだから、そんな古い価値観で家を建てる奴は馬鹿だ、お金があるなら投資で運用を始めておかないとこれからのサバイバルシルバーワールド(年寄たちがその日の糧をめぐってシゴトを奪い合う近未来の世界→負けたら餓死決定)を生き抜いてなんか行けないよ、と友達から怒られた。が、いろいろ迷ったけど、投資による資産運用なんて自分は決して上手にやれそうにないし(賭け事は昔から全然ヘタクソ)、そのくせ40代になって少しだけ貯まったお金が、やれストレス解消だとか言って休日に小旅行や食べ歩きしてどんどん目減りして行くのを見るにつれ(カテゴリー:旅行「旅に出るということ」ご参照)、こりゃいかん、このままじゃアパート住まいで定年退職を迎え、その頃には年金も「できればそのまま受け取らずに死んで行って欲しい」という国の方針がもっと露骨になっていて、そのくせ貯金もなく、それでサバイバルシルバーワールドに乗り出すなんて、怖すぎる。この際、家を建てて貯金をいったんゼロにして、危機感を持ちながらまたコツコツ貯金を始めよう、という自分の浪費癖を戒めるための決断を、数年前にやった。「夢の」というほどの話でもない。

 まず、日本のメーカー勤務の端くれとして、品質は譲りたくない。高級なものである必要はないけど、しっかりした丈夫なものであって欲しい。無駄なところにお金をかけず、長持ちさせることを前提に最低限のお金で建てる、というのをやることにした。高品質にして低価格で家を建てるための方針として、僕は以下の3つをやった。

1.コンセプトを明確にすること

 ああいう風にしたいこういう風にしたいと迷っているうちに、訳が分からなくなり、結局どういう家づくりをしたかったのか分からなくなるのはよくある話で、ハウスメーカー工務店の営業マンの口車に乗せられ無駄にコストが高くなる原因だ。先々のライフスタイルの変化も想像し、どういう家にするのかコンセプトを最初に明確にしておいた方が、後悔のない家づくりが出来ると思う。ウチは子供がいないので、つまりは自分と家人が「二人で快適に爺さん婆さん時代を過ごせる家」及び自分か家人の一方が先に死んだ場合、残ったほうが最終的に「年寄一人で快適に長々と過ごして最後を迎えられる家」をコンセプトに、小さな平屋を建てることにした。小さくてコンパクト、徹底的なバリアフリー(ドアは玄関も含めすべて引き戸)と手摺り設置を行い、完成後に初めてやって来た時に年老いた母が「なんだか小さな老人ホームみたいね」と言ったくらいである。でもコンセプトがそんな風に最初からブレなかったから、今でも手摺りだらけの小さな家の中を見回し、ウン、これなら家人か自分のどっちかが取り残されても、老人の一人暮らしを快適に過ごせそうだな、なんて満足な気持ちになる。

2.見栄を捨てること

 ほんの少しでも家を誰かに見てもらうものと考えてしまうと、やはり営業マンやインテリアコーディネーターの餌食になる。「おしゃれなデザインの出窓はどうですか?」「リビングに太陽の光を入れるため西洋風の天窓をつけてみては?」「フローリングは木の温もりを感じる高級無垢材はどうですか?」「トイレをよりおしゃれに見せるために壁に個性的なタイルを採用しては?」てな具合で、お披露目で誰かに自慢しようなんて場面を想像し出すと、その瞬間から無駄なお金が飛ぶ。もちろんお金がたくさんある人はそれでいいと思う。人生を豊かにするには無駄は重要。それは確か。でもお金があんまりない上で、高品質をきちんと確保したければ、「家とは誰かに見せるものではなく、そこで快適に過ごすための道具である」くらいに考えておいた方がいい。なので、我が家も外構は駐車場をコンクリートで打ってその他のスペースは砂利を敷き、シンボルツリー一つ植えなかった。すごくシンプルな四角い家で、外壁はごく一般のデザインにした。その代わり外壁のシリーズも耐久性が一番高いやつにしたし、屋根はもちろん瓦屋根だ。何しろコンパクトだから、一つ一つの材質を耐久性の観点からグレードの高いものにしても、大して金額がかさまない。断熱材は住んでいる場所が北海道でもないのにセルロースファイバーを入れてもらい、おかげで夏は涼しく冬は暖かい家になった。外観は全く特徴のない無骨な平屋だけど、住む分には快適そのものの家に仕上がった。そして勿論、完成後にお披露目会なんかしていない。友達にも見せなかった。「うん家建てたよ。まぁ子供いないし小屋みたいなちっちゃな平屋にしたけどね。小さいから掃除も楽なんだ」と飲みながら一言伝えた程度だった。家はあくまで自分たちが住むために建てたのだから、それ以上の目的は不要なのだ。

3.営業マンと楽しみながら闘うこと

 これは規格や値段がガチガチに決まっているハウスメーカーでは通用しない。なので僕は地元の古くからやっている工務店を選び、自由設計とした。動線を考え、車椅子でも移動できるよう間口を決めて、およそのイメージとしてエクセルで自分で図面を引き、それに基づいて設計図を描いてもらい、あとは壁材、ドア、システムキッチン、トイレ、バス、照明、床材という風に一つ一つを決めて行った。その時、例えばドアであれば「〇〇メーカーの〇〇というシリーズにしたい。因みにネットで調べたら、材料費と施工費はだいたい〇〇円くらいで、これに工務店さんが〇%くらいピンハネするのが相場と書いてあった。だからだいたい〇〇円くらいでやってもらえると思うけど、それ以下でどこまで下げられるか考えて次回の打ち合わせ時に提示して下さい」なんて宿題を出し、次の打ち合わせで「マジすかぁ、ちょっとピンハネ分が高くないですかぁ」「いやウチも最低限の儲けを出す必要があるんで・・・」みたいなギリギリの交渉をやって、次を決めて行く。今の時代は本当に全部の建具や材料の相場が細かいところまでネットで調べられるので、毎回打ち合わせまでに次の交渉のための情報を纏めておき、工務店にはノートPCを持ち込んで相場の調査結果を纏めた資料を提示しながら、営業マンに更にどこまで下げられるかを交渉した。内訳が素っ裸の状態で「要するにアンタのとこはどれだけピンハネするのか?」と毎回迫られるのだから、営業マンもたまったもんじゃなかったかもしれないけど、こっちも真剣だった。そして相手が腕のいい営業マンだと、交渉の駆け引きも楽しく、何十回も打ち合わせを重ねながら、僕はこの闘いを楽しんでいた。おかげでそれなりのグレードのものを、最低限の費用で取り付けることが出来た。その積み重ねが最終的に「高品質にして低価格」に繋がった。

 こんな感じでマイホームを建てた僕だが、普通は奥さんがアレコレと自分の夢を叶えるべくおしゃれな家づくりに熱心になるものだと聞いていたのに、ウチの家人は全く何も言わなかった。武家の娘である家人は僕より男前な性格で、「いいんじゃない、アナタがそうしたいと考えアナタが貯めたお金を使ってやるんだから好きにしな」くらいの勢いで、毎回、工務店との打ち合わせには付いて来るけど、いつも横でニコニコと僕と営業マンの闘いを見ているだけで、何も言わなかった。機能や耐久性やコストばっかり僕が話をしていて、この人は嫌じゃないのか?と思って、そのあたりを聞いてみたけど、「別にいいんじゃない」しか言わなかった。ん?ひょっとしてこの人はマイホームなんていらなかったのか?なんてちょっと訝しく思っていたくらいだ。

 住み始めて数か月たったころ、買い物から帰って駐車場に駐車していた車の中で、ポツリとそんな家人が言った。「私、この家が好き。病院じゃなくてここで死にたいと思うわ」

 なんだかすべてが報われた気持ちだったのを覚えている。僕は相当に運がいい人間なんだろなと思った。

旅に出るということ

 旅をする理由とか意味ならごまんとあって、非日常を味わってストレス解消できるとか、本場のグルメを味わえるとか、要するに効能みたいな理由もあるし、自分を見つめ直せるとか、新たな価値観を見いだせるとか、忘れていた自分の情熱を取り戻すきっかけになるとか、ちょっとマインドに響くような理由を挙げる人もいる。が、正直、40歳を越えて人生の半分を終え、あとはひたすら働いて税金を納め、組織から放り出されたとしても何とかお金を自分で稼ぎ続け、この世からいなくなるその最後の瞬間まで生存競争に晒されて行かねばならない我々にとって旅とは、

 「ひたすら非日常を味わってストレスを解消し、美味しいものを食べること」

 という具合に徹底したプラグマティックな効能の追求で充分であると考えている。僕は大半のメーカー勤務の人たちと同様、給料が安くても土日が確実に休める=土日を人生の楽しみに生きている類(たぐい)なので、なおさら土日なんかで行く小旅行は、平日の複雑な人間関係とか組織の要請から来るストレスを、非日常を味わうことで解消し、かつ平日の殺伐とした食事(職場で会議の合間に慌てて食べる食事は、ご飯というより餌を食べるという感覚)を埋め合わせるかのように、旅先で出会った地元の美味しいものを食べることが出来れば、それで大満足である。

 海外駐在から帰ってきた人間にありがちな話で、久しぶりに日本の組織に戻ったはいいが、海外と比べ与えられる裁量権は小さく(もういらない、と簡単にチームメンバーを交換できない)、そのくせ細々した責任が網のように足に絡みつき、マネジメント上、面倒な手続きとか複雑な日本人のきめ細かなケアとかいろいろ要求され続けて、とにかく感覚を日本の組織向けに戻すまで非常にストレスフルな日々を送ることになる。僕もご多分にもれず、帰国して数年間は非常に苦労の多いストレスだらけの日々だった。どれくらいストレスフルかというと、あんまりにイヤ過ぎて、職場とか住んでいるところで息をするのも嫌で、自由になる毎週末には日本のどこかへ旅行に行っていた。本当に毎週末、出かけていたのだ。

 金曜日、本来は17時で残業なしを原則に大半の社員は退勤するのだが、僕はトラブルを抱えた部下の緊急対応をフォローしたり、週明けに提出しなければならない業績報告書なんかの作成をやっているうちに時間がとんで、結局、オフィスを出るのが20時くらいになる。あぁやっと1週間が終わった、何とか乗り切った、キツかったぁ、コレまだ続くんだよなぁ、来週はまた怒られるんだろなぁ・・・なんて考え込み、せっかくのメーカー勤務のくせに、金曜日の夜をなんでそんな暗い顔をしてんだって言われそうな顔でアパートに帰って来ると、家人が待っていて、余計なことは言わず、

「どうする?」と聞いてくる。

「うん、どっか行くよ」と僕は答えると、そそくさと家人は「お泊りセット」なるバッグを準備して、着替えとか一式を車に運び込む。

「どこへ行くの?」

「どっか、ここじゃないとこ」ハンドルを握って車を走らせた僕は、本当に行き先を決めず、コンビニでお茶とサンドイッチだけ買って高速に乗り、そのまま走り出す。できる限り遠いところのほうが非日常を味わえるし、もちろん初めて行くところがいい。日本なんて国土が狭いから、走れるところまで走って、一晩どっかで眠ってまた明け方に走り出せば、土曜日の昼頃には東北でも四国でも到着してしまう。僕はひたすら夜の高速を会社やアパートのある場所(=平日の場所)から逃れるように走り続け、家人は毎週末がピクニックとばかりに大はしゃぎして、昼間あったこととか、テレビで見た話とか、取り留めない話を車の中でずっと話し続けてくれる。僕は全然内容を聞いていないけど、彼女の声を聴いている。金曜日の夜はまだまだ頭の中はシゴトでいっぱいだけど、それは仕方ない。そして家人もそれを理解してくれている。

 土曜日の昼頃、数百キロ離れた美しい場所で観光している。「るるぶ」を手に持つ家人に見せたいものを見せ、食べたいものを食べさせ、そうすることで僕の頭の中から少しずつシゴトがぽつりぽつりと消え始め、さっき急遽予約したその晩の宿の夕ご飯に期待する。

 土曜日の夕方、温泉に浸かり、部屋に戻って食卓に並ぶ地元のグルメに目を丸くする。ビールを飲み、料理に舌鼓を打ち、家人の上機嫌な顔を眺め、食べ終わったらちょっとウトウトして、それからもう一度、温泉に浸かりに行く。夜は平日の浅い眠りとは比べ物にならない、心地よい深い眠りの中へ落ちていく。

 日曜日の朝、窓の外の美しい景色を眺めてから、朝ご飯を食べに行く。やっぱり地元のグルメが並んでいて、おなか一杯になるまで食べる。平日の朝飯は眠くならないためのコーヒーと脳みそがちゃんと回転するための甘いパンで終わらせているけど、日曜の旅館の朝飯は食べたいものをじっくり味わって食べ、食べているうちにこれが「人間が食事する」ということであり、本当は生きている幸せの一部なんだなって改めて気づかされる。

 日曜日の昼間、まだ帰らない。せっかくここまで来たのだから、もっと観光しておく。焼きものづくりとかの体験も楽しそうだ。昔、歴史で勉強した事件の現場とか、偉人ゆかりの地を巡るのも面白い。移動途中で立ち寄る道の駅やサービスエリアの土産物コーナーは、非日常の世界そのものだ。串焼きとかお焼きとかちょこちょこ喰いをしながら、僕たちは旅を楽しみ続ける。

 日曜日の夕方、さすがにそろそろ帰途に就く。運転中に明日からのシゴトがあっという間に頭の中を占領し始め、高速を走る僕は金曜日の夜と同じ表情をしている。家人は何も言わない。僕たちは夜中の12時過ぎにアパートに到着し、シャワーを浴びて、ビールを飲んでベッドに入る。日曜の夜なんてどうせ眠れない。若いころからそうだ。そうしてまたストレスフルな平日が始まる。

 そうこうしているうちに、駐在時代に貯めた預金がどんどん無くなってしまった。その頃にはもう本州の観光地は行ったところがないくらい旅行に行っていた。2回目となると、たとえそこが自分の住むところから数百キロ離れていても、もはや非日常ではない。でも一方で僕自身が、そろそろ日本のストレスフルな組織に改めて順応し始め、自分のアパートで土日を過ごすことも出来るようになっていた。そろそろ潮時だと思った。僕は家人に家を建てることを宣言した。一つは貯金がなくなってしまう前に家を建てて節約生活に切り替えるため。もう一つは、土日に二人でのんびり過ごせるお気に入りの場所を作るため。

 今や土日は我が家で寝坊し、もんじゃ焼きをし、近くのショッピングモールへ買い物に行き、また家に帰って読書しながらウトウトし、夕ご飯のカレーを作り、そのあとネットで映画を見ながらのんびり過ごしている。でも時々、こんなパンデミックでシゴトが大変なことになって、平日のシゴトがついつい週末に押し寄せて来て、僕の頭の中からシゴトが消えなさそうな金曜日の夜には、家人が「お泊りセット」を準備し、僕はハンドルを握って高速を走り出す。でもすぐに下りる。こんなパンデミックだから何度も行ったことのある近場で車を止める。それは仕方ない。もちろんそこに大した非日常はないけど、なんとなくあの非日常を求めて毎週末に日本中の観光地に出かけた懐かしい日々を思い出し、ちょっとその時の気分を再現してみるのだ。そして非日常とか関係なく、地元のグルメは何度食べようと美味しいことは変わりはない。僕は海鮮や山菜を頬張り、温泉に浸かりながら、あの旅の日々を思い出している。

写真を撮るということ

 実家に帰った時に父親の部屋を片付けていて、古いフィルムカメラを見つけた。アイレス35Ⅲsという1958年製のもので、アイレス写真機製作所という、もうとっくの前に倒産して無くなっている会社の製品だ。父親は僕たち家族を、全部このフィルムカメラを使って撮り続けた。どこへ行くにもこの重たそうなカメラを皮のケースに入れて大事そうに持ち歩いていたのを覚えている。70年代から80年代の話だ。

 久しぶりに見たその写真機は、本当にずしりと重かった。子供のころは触らせてもらえなかったから、その重さは想像通りでちょっと嬉しかった。手で持つ部分のモルトプレーンが剥がれて外観はだいぶボロボロだったけど、まだシャッターは切れた。僕はそれまでマニュアルのフィルムカメラなんて使ったことがなかったし、学生時代は「写ルンです」が全盛の頃で、それで友達と記念写真を撮る程度だった。そしてすでに写真は携帯電話で撮る時代だったけど、古めかしいカメラを手しているうち、まだコレ写るのかなって考え、フィルムを買ってきて使い方をネットで調べ、庭の花とか自分の車とかいろいろ撮ってみた。その時初めて絞りとかシャッター速度とかの仕組みを学んだ。

 果たして、現像されたプリントにはしっかりと僕がファインダー越しに目にした風景が映されていた。輪郭がなんだか昭和って感じのキリキリした感じで、色合いも、あぁ家族写真は全部こんな感じだったなという優しいぼやけた感じだった。

 1枚だけ庭で撮ってあげた母親の写真があって、それもきちんと写っていた。渡してあげたら「アラけっこう綺麗に撮れてるね」と喜んでくれた。父親が死んで5年くらいたった後だったけど、父親のアイレスでまた母親の姿を撮影出来て、何だかちょっと親孝行した気がしたし、息子としてほんの少しだけ誇らしい気分だった。

 古い機械がそれでもまだ頑張れるというのは、もはや若者でなくなった男にとって、とても勇気の出る話だ。機械式のフィルムカメラは修理すれば永久に使えるという「永久」に惹かれ、そのあとニコンFだライカM3だと買い始め、僕はすっかりクラシックカメラの虜になった。休日には車で田舎へ出かけ、気に入った風景を見つけては、これでもかと手間をかけて1枚1枚を丁寧に撮影した。非効率を楽しみ、現像まで待つという不便さを楽しむのが、独身時代最後の頃の、優雅な休日の過ごし方だった。

 今や家族を持って、使用するカメラはもっぱらデジカメである。モタモタ撮っていたら、いつまでポーズを取らせるのだと怒られるし、大事な場面でブレブレの写真にしてしまうと、手振れ防止機能がついていてなぜこんなブレブレの写真になってしまったのだとか、後でいろいろと苦情が来るので、効率的かつその場で出来栄えを確認して確実に撮らなければいけない。ライカでフィルムを使うのは一人で撮影に行く時だけだ。

 そして父親のアイレスは、僕の書斎のニッチに飾って置いてある。もう製造されて60年以上がたった古いそのカメラは、まだフィルムを入れればきちんと写せるし、しかも本気を出せばそれなりにボケ味がきれいな美しい写真を撮れる。僕は時々、朝一人で早く起きた時などに、家族の寝顔をこれでそっと撮って、またそっとニッチに戻し、自分の子供時代などを思い出している。

 

料理を食すということ

 思い出深い料理ってなんだろう?そう考えてみた。料理に限らず、人間にとっての価値は、そのものだけの価値を意味するのではなく、味わうシチュエーションとかタイミングとか、その時々の僕たちの気分や感情に大きく左右されて意味を決定されるから、ただのインスタント袋麺だって「あのとき兄貴が作ってくれた出前一丁の味は心に沁みたなぁ」なんてなことも十分にあり得る。美味しい、という思い出は、味が味覚的に美味しかった事だけじゃなく、料理にまつわるいろんな物語なんかが付随して、初めて僕たちの「美味しかった思い出」になる。

 小学校に入ったばかりの頃、3つ年上の兄貴と留守番をしていて、兄貴が出前一丁を作ってくれた。なんだかガスコンロを使ってお湯を沸かすという大人の仕事ができる兄貴を、台所ですごく頼もしく見ていた記憶がある。後々分かるのだが兄貴はひどい味オンチで、美味しいとか不味いとか言わない代わりに、何を食べても全く無頓着で、お腹が詰めばそれでいいいみたいな感じの人だった。それで、兄弟二人で留守番するときはお湯を沸かしてできる簡単なインスタント物が多かったけど、兄貴がつくるラーメンや焼きそばは、必ずお湯をたっぷり吸ったブヨブヨの代物だった。ブヨブヨだから確かにお腹はいっぱいになる。味はどうか?もちろん不味かったのだろう。でも子供の僕は、母親以外の家族が作る料理をとても新鮮に感じて、すごく美味しく味わうことが出来た。人間にとって価値の決定とはそういうものだ。今でも僕は、UFO焼きそばを作るときは、わざとブヨブヨにしてちょっと家にあるソースも加え、懐かしい気分を味わいながら食べている。

 思い出深い料理と言えば学校の給食は外せない。考えてみると昭和の給食はヘンな食べ物も多かったかな。どう考えたってカビが生えているようにしか見えない湿った緑色の揚げパンが出てきて、甘ったるく、油っこくて、とてもじゃないがなかなか全部食べられなかった。昭和の小学校の先生というのは今の先生と違って、言う事をきかない子供がいたらぶん殴る場合もあったし、ちゃんと給食を食べない子供には食べ終わるまで周りで掃除が始まろうと机に座らせ続けることも可能だったから、僕はこの悪魔のパンが出た時だけは、半べそをかきながら必死で牛乳で胃に流し込んだ。ネットで調べるとこれは「うぐいすきな粉揚げパン」と言うらしく、好きな人は好きみたいだが、今でもやっぱり食べる気がしない。なんで湿った緑色なんだ?逆に鶏肉にチーズを挟んでアルミホイルで焼いた料理が給食に出て来ると無茶苦茶嬉しかった。あまりに美味しかったので、いつも僕は最後に食べるようにしていた。これは大人になった今でも普通に料理して家人に食べさせている。たれは醤油ベースの甘辛いやつにし、焦げた匂いが食欲をそそるよう工夫して焼き上げる。

 母親の手料理は、母親が地方のさらに田舎の出身だったので、やたらみりんを使った甘い煮物が多かった。何でもかんでもたっぷりみりんを使うので、肉じゃがも煮魚も同じ味がした。食感と風味が野菜っぽいか魚っぽいかの違いだけだ。ちなみに父親も味オンチで全く文句を言わずにもくもくと食べる人だったから、またかよぉ、またみりん味の煮物がおかずかよぉ、と一番下の僕が不満を言える食卓の雰囲気でもなく、ただもくもくと食べる父親と兄貴に挟まれて、だまってその甘ったるい料理を食べるしかなかった。でもこの母親の「みりんたっぷりの煮物」の中でたまにスマッシュヒットがあって、ニンジンのシーチキン煮がまさにそれだ。すごくシンプルな作り方で、ニンジンを乱切りにして、シーチキンと醤油とみりんで煮込んだだけの料理なのだが、本当にこれが美味しかった。シーチキンの油が浮いた残り汁は捨てずに大事に冷蔵庫に入れておいて、翌日の朝、レンジでチンしてご飯にかけて猫まんまにして食べるのが僕の楽しみだった。母親の手料理といえばこのニンジンのシーチキン煮を思い出す。

 中国の田舎で駐在中に疲れを溜め過ぎて扁桃腺を腫らし、39度の熱を7日間出した。地元の役人に紹介された地元で一番の病院は、お世辞にも医療設備は整っているとは言えず、受けられる治療も点滴のみだった。ちょと尿の匂いがする大部屋のベッドの一つで天井を回る換気扇の羽を見ながら毎日うなされ、5日目を越えるころには幻覚も見た。7日目には「肺炎の初期」と言われ、いよいよ明日は上海へフライトをとって病院を変えるかどうか、というところまで行ったが、8日目に急に熱が下がり始め、僕は生き延びた。10日もすると完全に熱は下がったが、扁桃腺は腫れ続けて痛みが残り、何も食べ物が喉を通らなかった。近辺には日本料理店などなく、地元の料理は油と鷹の爪がたっぷり入った地方料理で、本来は美味しいのだが、少なくとも病み上がりの日本人の口は全く受け付けなかった。食べなきゃ回復しないぞと頭では分かっていても、ちっとも飲み込めない、そういう状態だった。

 そんな時、同じプロジェクトに参加していた香港人が自分の借りているアパートへ僕を食事に招いた。僕は正直、まだ病み上がりでスイカくらいしか口に出来ずどんどんやつれて行く自分の状況だったので、それを知っていてどうしてこの香港人は食事に招くんだろと、ちょっと迷惑に感じたが、仕事上でだいぶお世話になっていた年配の方だったので、むげに断れずアパートを訪ねた。上司からは数日したら仕事に復帰するよう言われていた。

 香港人の奥さんがその時食べさせてくれたお粥料理の味を僕は一生忘れることが出来ない。どんな料理も痛みで通さなかった喉が、その温かい薬味の効いたお粥をつるつると食道へ招き入れ、久しぶりに胃に入った固形物の感覚は、なんだかエネルギーが体の中心にふわっと入ったようなそんな気持ちだった。僕は大きめのお椀に入れたそのお粥料理をペロリと平らげ、香港人とその奥さんにお礼を言った。香港人はしたり顔で「ほらね、来てよかったでしょ」みたいな感じだったので、あぁなるほど、そういう親切の仕方をしてくれたのだと、改めて感謝した。それ以降、あれより美味しいお粥料理を食べたことがない。

 料理を食すというのはだから、美味しいとか不味いとかの話ではなく、生きている人間の物語が常に取り巻いて、味付けをし、僕たちの人生の前に現れるものなのだと、僕は思っている。

スポンサーリンク

スポンサーリンク

スポンサーリンク